不和の始まり・後編
「ユルングル様と喧嘩でもなさったのですか?」
言ってダリウスは、珍しくユルングルの部屋にも行かず、ふてくされたように食卓の椅子に座るミシュレイの前に、紅茶を差し出す。
ラン=ディアからの伝言通り昼過ぎに帰って来た二人は、なぜかどちらも不機嫌そうな面持ちで顔を合わせようともしなかった。そのままユルングルは部屋に戻り、ミシュレイは無言のままこの椅子に座って、今も不機嫌そうに頬杖をついてそっぽを向いている。
そんなミシュレイにダリウスはため息を落としつつ、くすりと笑った。
「仲が良さそうで安心いたしました」
「………さっき喧嘩したのかって訊いたんじゃねえの?」
「喧嘩が出来るという事は、仲がいいという事です」
(……仲がいい相手に『首を掻っ切る』なんて言うか、フツー……)
ダリウスの言葉を聞きながら、ミシュレイは呆れたように心中でひとりごちる。
やはり機嫌が悪そうにため息を落とすミシュレイに、ダリウスは少し困ったように微笑みながら、再び声を掛けた。
「…ユルングル様は未だに、感情を表に出されるのが苦手なのです」
「………いっつも不機嫌そうに眉間にしわ寄せてっけど?」
「それがユルングル様の鎧ですから」
「…?鎧?」
「自分の感情をどうやって表現すればいいのかよくお判りになれなかった頃、ああやって眉間にしわを寄せる事で感情を隠す術を身につけられました。以来、あの表情がユルングル様の鎧なのです」
「………」
「喧嘩をなさった、という事は、珍しくユルングル様がそのお心内をお隠しにはならず、正直に話されたのでしょう。滅多にある事ではございません。それだけミシュレイ様には、お心を許しておられるという事です」
どうだか、と内心で愚痴をこぼしつつ、ミシュレイはここに来るまでの道中でユルングルが言った言葉を思い起こす。
ユルングルが言った言葉はどれも兄であるダリウスを慮った言葉ばかりだった。確かにダリウスが言う通り、あれこそがユルングルの本心であり望みなのだろう、と今さらながらに思う。
(……正真正銘の弟バカだよな、ユルンちゃんは)
この兄にして、あの弟あり____という事だろうか。
思わずくすりと笑みを零して、ミシュレイはダリウスが淹れてくれた紅茶に手を伸ばす。思えば、今まで何度かこうやって紅茶を出してはくれていたが、未だに一度も口にはしていなかったな、と思い至って、心中で詫びを入れながら紅茶を口に運んだ。
「…!?…美味い…!何これ!?特別な茶葉でも使ってんのっ!?」
「いいえ、どこでも買える普通の茶葉です」
「嘘っ!?どうやって淹れてんの!?」
目を輝かせて子供のように訊ねてくるミシュレイを、ダリウスはやはりくすりと笑う。どうやら損ねた機嫌が戻ったらしい。
「特別な事は何もしてはおりませんが…よろしければお教えいたしましょうか?」
「まじで!?やったっ!!」
破顔して喜ぶミシュレイに微笑みを返して準備を始めるダリウスを、ミシュレイは視界に入れる。
思えばこのダリウスも、馬鹿がつくくらいお人好しだと思う。あれほどひどい態度を取った自分に対して、このダリウスはただの一度も不機嫌さを表したことはない。今もこうやって面倒臭がらず懇切丁寧に教えてくれている。それは表面上だけ取り繕っているというよりも、これが彼の本質なのだろう、とミシュレイは何とはなしに思う。そう思えるほど、ダリウスはとにかく人がいいのだ。
「……そりゃあ、あのユルンちゃんも無条件で懐くはずだよなあ……」
思わずぽつりと呟いたミシュレイの小さな声に、紅茶の淹れ方を教えていたダリウスは小首を傾げる。
「…何かおっしゃいましたか?」
「…うんにゃ、こっちの話」
頭を振りながら、ミシュレイは続ける。
「…ダリウスの兄貴はさ、ユルンちゃん大好きだよな?」
「…!」
この質問には肯定以外の答えは当然ないが、面と向かってあからさまに言葉にされると面映ゆくて仕方がない。
ダリウスは多少バツが悪そうに小さく咳払いしつつも、肯定を示すように仄かに頬を赤らめた。
「…ええ、弟として大事に思っております」
ここで『主』ではなく『弟』と言うあたり、正真正銘の兄バカだろうか。
「…もし、さ。もしユルンちゃんが命の危機に晒されてたらさ、ダリウスの兄貴はどうする?」
「…!何があっても助けます」
「それで自分が死ぬと判ったら?」
「天秤にかけるまでもありません。あの方が死してなお、生きるつもりは元よりありませんので」
強固な意志を示すように、ダリウスの眼差しは強い。その射抜くような視線を受けて、ミシュレイは「そうだよな」と小さく零す。
ユルングルが死の樹海に足を踏み入れた時、ダリウスは正気を失ったかのようにユルングルだけを求めた。死の樹海に入れば自分の身がどうなるかなど全く念頭にも置かず、ただひたすらユルングルの安否だけを求めたダリウスの姿が、ミシュレイの記憶に強く残留している。あれを思えば、ダリウスの想いが口先だけでない事は明らかだろう。
(…判ってんのか?ユルンちゃん……。お前が生きる事を諦めるって事は、ダリウスの兄貴の命も断つって事なんだぞ……)
思って、ミシュレイは人知れず拳を作る。
これほどやるせない気持ちになるのはおそらく、自分にとってユルングルだけでなくダリウスもまた、かけがえのない存在になっているからだろうか。その存在が一度に二人も奪われるのを、黙って見過ごすわけにはいかない。
ミシュレイは気合を入れるように、唐突に自身の両の手で頬を力いっぱい叩いた。
「…!」
「…よし、決めた!!俺はダリウスの兄貴側に立つ…!!」
それでユルングルの願いとやらが叶わなくなろうとも、知ったことではない。彼の行為はどう見ても自己満足だ。だったら自分も思いっきり好き勝手して、ユルングルの思惑を潰してやる。
内心でそう決意してにやりと笑うミシュレイを、ダリウスは訝しげに見つめていた。
**
「…一体ミシュレイ様と、何で喧嘩をされたのです?」
部屋から出てこないユルングルに昼食を配膳し、それが食べ終わった頃を見計らって片付けに部屋を訪れたダリウスは、半ば呆れと、もう半分は何やら困惑した様子でユルングルに訊ねる。
問われたユルングルは、さも不本意だとばかりにベッドの上でそっぽを向いた。
「……別に、喧嘩なんかしていない」
「……私が原因ですか?」
「…!……何でそう思う?」
「つい先ほどミシュレイ様が、私の側につく、と仰っておりましたので」
その言葉に目を丸くした後、ユルングルは自分が不機嫌であったことも忘れて、思わず吹き出すように笑った。
「あいつは時々、未来が視えてるんじゃないかと思う時があるな」
「……?…どういう事です?」
「…こっちの話だ、気にするな」
くつくつと笑ってダリウスの怪訝な視線を一蹴しながら、ユルングルはミシュレイとの会話を思い起こした。
確かにあれは、突き詰めればダリウスが原因で起こった言い争いだろうか。ダリウスがいるからこそ、生きる事を諦めるのだ。彼を自分から解放するために、そしてこれ以上の迷惑をかけないために____。
思って、小さく頭を振る。
(…いいや、違うな。ダリウスがいなければ、もっと早くに生きる事を諦めていた。ダリウスだけがいつも必ず俺の生を望んでくれたから、今まで死と戦って来られたんだ……)
ダリウスがいるからこそ生を望み、そしてダリウスがいるからこそ死を望む____。
それは自分の中で生じた、明らかな矛盾だろう。
それが判ってもなお、いずれ必ず訪れる死の未来に抗うつもりが起きないのは、きっとミシュレイが口にした言葉が何より正鵠を得た言葉だからだろうか。
____(そんなのただの諦めじゃねえか!!諦めてる事を認めたくなくて、ダリウスの兄貴を体よく出に使ってるだけだ!!!)
ミシュレイの言葉が刃のようにユルングルの胸をえぐる。この言葉を認めるつもりも、受け入れるつもりもないのに、自分の中に生じた矛盾が否応なくこれを認めろと突きつけてくるのだ。
(……相変わらずあいつは、自覚なく核心を突いてくる奴だな……)
鬱々とした気分で、ユルングルはため息を落とす。
突然、口を噤んだかと思うと重々しそうにため息を落とすユルングルに、ダリウスは不安げな表情を向けた。
「…何かご心配事でも?」
「…いいや、何でもない。それよりもそろそろ客が来る頃合いだぞ」
「…!」
ダリウスは軽く目を見開いた。誰が来るかは訊ねなくても判っている。それが必要な事だと、ユルングルから何度も噛んで含ませるように諭されたからだ。避けては通れない道である事はダリウス自身、重々承知しているつもりだが、いざその時が来てしまうと一度無理やり納得させた感情が再燃するように不服だと声を上げる。ダリウスはその声を必死に抑えるように、苦虫を潰したような表情を取った。
「…そんな顔をするな、ダリウス。約束をしただろう。必ず、生きてお前の元に帰る」
『無事に』ではなく『生きて』と言うあたり、死にはしないものの決して無事ではないという事なのだろうか。
言葉尻を捕らえて妙な勘繰りをしてしまう自分に辟易しつつ、それでも胸中を不安が跋扈するダリウスを急かすように、ユルングルは声を掛けた。
「さあ、早く行け。もてなす必要はないが、早く行かないと気が立っているミシュレイが暴れ出すぞ」
**
ちょうどダリウスに淹れてもらった二杯目の紅茶をすすっている時だった。
お茶請けの焼き菓子を頬張ったところで、ミシュレイは扉を叩く音に気づいて周りを見渡す。ダリウスはユルングルの部屋に入ったばかりだし、いつもはこの辺りを忙しなく歩いているラヴィも、いつの間にやら席を外しているようだ。ウォクライとアレインは傭兵の詰め所に行ったきり戻ってはいないし、ラン=ディアも街で急患が出たと聞けば、すべてを二の次にして一目散に街へと向かう。
今この場にいるのが自分だけだと改めて認識して、ミシュレイは億劫そうに重い腰を上げた。
「はいはい、今出ますよー」
いかにも煩わしいと言わんばかりに応えて、ミシュレイは扉を開ける。その目前に、険しい表情のアレグレットの姿があって、ミシュレイはすぐさま眉根を寄せた。
「…!アレグレット…!」
ミシュレイの姿を見つけたアレグレットもまた目を瞬いて、どうしてここにいるのだと言わんばかりにバツが悪そうな顔を背ける。面倒な事になった、と小さくため息を吐きながら、アレグレットは意を決したように口を開いた。
「…中に入るぞ。…どうぞ、こちらです」
返答を待たずミシュレイを押しのけるように部屋に入り、後ろに控える誰かに礼を取って、丁寧に誘導する。アレグレットがこういう態度を取る時は、決まって誰を伴っているかをミシュレイはすでに承知していた。数人の騎士を引き連れて横柄な態度で足を踏み入れたその人物が、やはり想像どうりの人物だった事に目を見開き、ミシュレイの理性は一瞬の内に吹き飛ぶ。我を忘れて腰に携えた双剣を手に持ち、有無を言わさず飛び掛かるミシュレイの刃を受け止めたのは、やはりアレグレットだった。
「アレグレット…っ!!お前まだこんなクズを守ってんのか…っ!!?」
「ミシュレイ、剣を収めろ…!!この方はここの領主だぞ…!!」
「領主…!?領民を人間だと思っていないこいつがか…!?こいつが低魔力者に対して何をしたか、アレグレットだって知ってるだろうが…!!それでもやっぱりお前はこいつを守るんだな…!!アレグレット…っっっ!!!!」
憎しみを込めた声音に、怒気以上に軽蔑を多分に含んだミシュレイの表情____この表情を見るのはもう幾度目だろうか。彼は必ず、領主を見るたびに憎しみを込めた眼差しを向け、その領主を守る自分に対して怒気と軽蔑を向けてきた。
_____彼の領主に対する憎しみが、あまりに深いのだ。
遠い記憶にある、初めてミシュレイと対峙した時の血まみれの彼の姿が脳裏をよぎりつつ、それを念頭から払いのけるように一度瞼を閉じて、アレグレットは告げる。
「…ああ、私はソールドールの騎士だからな」
「…!何でそんなに頭でっかちなんだよ!!!馬鹿アレグレットっっ!!!!」
結局、話は平行線のまま、頑なに騎士の立場を優先するアレグレットに憤りを抱くミシュレイの耳に、まるで火に油を注ぐような領主の声が届く。
「アレグレット…!!まだこんな奴を野放しにしていたのか…!?さっさと捕らえて牢に入れるなり処刑するなりしろと命じたはずだろう…!?」
「…!?」
(わざわざ今、火に油を注ぐような事を言う必要はないだろうに…!)
軽く舌打ちをするアレグレットにはまったく気づかず、領主はさらに自分の愚かさを包み隠さず披露する。
「お前たちもさっさと私を守れ…!!何があっても盾となり、私に傷一つ負わせるな!!!」
横柄な物言いで威張り散らし、まるで物のように騎士の腕を無理矢理引っ張って彼らの体を盾にする。そのあまりに無様で手前勝手な領主の言動に、ミシュレイの怒りはなおさら後押しされた。アレグレットと鍔迫り合いの状態を放棄し領主に飛びかかろうと動いたミシュレイの体がぴたりと止まったのは、部屋に響いたダリウスの制止を求める声が耳に届いたからだった。
「双方、剣を収めなさい!!!ここで争う事は、第一皇子殿下の補佐官たる私が許しません!!!!」
凛と響いた声を振り返ったミシュレイとアレグレットは、いつもの穏やかさを捨てて険しい表情を取るダリウスに、目を瞬く。『第一皇子の補佐官』という立場を強調したという事は、ユルングル側に身分を隠すつもりはないのだろう。
ダリウスは一度その鋭い視線をくるりと一周させると、双剣を握ったまま呆けたように立ち尽くすミシュレイの手に、そっと手を添えた。
「…ミシュレイ様、どうか剣を収めてください」
「…!そいつは私に刃向ったのだぞ…!!こちらに引き渡していただきたい…!!」
「この…っ!!」
盾にした騎士たちの後ろから声を荒げる領主に、ミシュレイの怒りが三度再燃する。前のめりになって今まさに飛び掛からん勢いのミシュレイの体を手で制して、ダリウスは前に立ちはだかった。
「…ソールドール領主、ベドリー=カーボン卿」
領主の名を緩やかに呼ぶその声音があまりに仄暗く、反面、静かすぎるほどの冷徹な怒気が含まれている事に、領主のみならずその場にいた全員の背筋がぞくりと震えた。まるで鋭利な刃物を首元にあてがわれているような慄然さが背筋を走って、身動きはおろか呼吸さえままならない。そんな蒼白な面持ちで皆、立ち尽くしたまま次の言葉を待っている。____待っているしかなかった。
「貴方はどうやら勘違いをなさっておられる。我々は、貴方を歓迎などしていない。貴方は我々の仇敵であるデリック=フェリシアーナの手の者だ。…我が主の命を狙っただけではなく、主のご友人まで侮辱されるのであれば私がお相手するが、いかがか?」
言って、腰に下げた剣の柄頭に手を置いて見せる。かちゃりと重い音がして、領主は蒼白な顔に脂汗をたっぷりと乗せて、必死に頭を振った。
「い、いやはや…!これは、これは…!!第一皇子殿下のご友人とは知らず、とんだご無礼を…!!」
愛想笑いを浮かべながら必死に取り繕う領主の様子を冷ややかな眼差しで一瞥してから、ダリウスはミシュレイに向き直る。
「…ミシュレイ様」
いつもの穏やかな声音で、いつもと同じ困ったような微笑を携えて、ミシュレイの名を呼ぶ。
そのあまりに違い過ぎる落差の所為で、ミシュレイは降参したようにため息を落とした。あれほど冷徹な姿を見せてからの、この穏やかな困った微笑みでは、言う事を聞かないわけにはいくまい。
ミシュレイは不承不承と双剣を収めて、いかにも不本意だと言わんばかりに先ほど座っていた椅子に荒々しく腰かける。手足を組んでそっぽを向くミシュレイにようやく安堵して、アレグレットもまた手にした剣を鞘に納めた。
「…荒々しい訪問となりました事、どうかご容赦ください。我が主、ベドリー=カーボン閣下が第一皇子殿下との謁見を賜りたいと申しております」
一度、恭しく頭を垂れて領主に道を譲るように脇に控えたアレグレットを不満そうに一瞥して、領主はだが決してアレグレットより前に出る事もなく、ちょうどダリウスと自分の間にアレグレットを置く形を整えて頭を垂れる。
「…紹介が遅れて申し訳ございません、ダリウス=フォーレンス殿下。改めて名を名乗らせていただきます。私はソールドールが領主、ベドリー=カーボンと申します。以後お見知りおきを」
「…頭を上げなさい。私に威儀を正す必要はありません。私は今、皇族ではなく第一皇子殿下の補佐官としてこの場に立ち会っています。___そして、貴方はどうやら私が言った言葉を聞いてはいないようだ」
「………え?」
「私は『貴方を歓迎しない』と申し上げたつもりですが?」
「…!い、いえいえ…!ダリウス殿下は勘違いをなさっておられるのです…!!確かに私の主はデリック殿下ではありますが、第一皇子殿下暗殺の件は私の預かり知らぬところ……!当時の私はまだ十になったばかり…!恐れ多くもダリウス殿下と同年でありますので、お判りでしょう…!!」
「………では、貴方は暗殺の件を何もご存じではないと?」
「もちろんでございます…っっ!!!」
傍で二人の会話を聞いていたミシュレイと、軽く頭を垂れているアレグレット、そして同席している騎士全員が目を丸くして内心で吃驚する。本当にこの二人が同年なのだろうか、と。
凛とした佇まいで落ち着き払い、堂々と振舞うダリウスと、媚びへつらうように愛想笑いを浮かべて長い物に巻かれる気満々の領主____どちらが愚かで、どちらが優れているかは一目瞭然だろうか。
そんな呆れを多分に含んだ空気には一切気づかず、ダリウスは言葉を続ける。
「…目的は何です?」
「それは…!……人の目があるところではお話しできません。どうか第一皇子殿下と二人きりで謁見の上、内々に___」
「許可いたしかねます」
領主の言葉を遮って、ダリウスはぴしゃりと一蹴する。この男とユルングルを二人きりにするなど、たとえ天地がひっくり返っても承諾は出来ない。この愚鈍な男があのユルングルに危害を加える事などできるはずもないという事は百も承知だが、それでもダリウスの心が承諾する事を強く拒んだ。
最終的に会って話ができるなら好きなように対応しろ、と前もってユルングルからの承諾は受けているので、これだけ強く出ても構わないだろう。彼らがユルングルとの謁見を諦める事は、決してないのだから。
そのダリウスの思惑通り、領主は狼狽しながらも食い下がる。
「お、お待ちください…!!!決して第一皇子殿下の不利益になることはございません…!!むしろ殿下がお望みのものをご用意できると自負しております…!!!」
「……あの方が望むものを、存じ上げているとでも?」
「もちろんです…!!!」
その言葉の真意を探るように、ダリウスは領主を強く見据える。当然、彼が用意しているものが何かを心得ていたので、あくまで強く見据えるフリだろうか。そのフリの中に、少しでもユルングルを傷つければ容赦はしないと脅しを交えた鋭い視線を含ませながら、ダリウスは明朗と告げる。
「条件があります」
「……?……条件、とは?」
「貴方とあの方を二人きりにするわけにはいきません。私もその場に立ち会います」
「…!ええ…!ええ、構いませんとも…!!第一皇子殿下の腹心であるダリウス殿下にも、是非ともお聞きいただきたい…!」
まるで願ったり叶ったりと言わんばかりに嬉々として告げる領主の様子に、さしものダリウスも眉をぴくりと動かす。
____嫌な予感がする。言葉にはできないような、わずかな予感。
聞いてはいけない、とざわめく心を必死に抑えて、ダリウスは首肯する。それでもやはり胸中に広がる苦い物が、心を侵食して止まなかった。
**
「…入れ」
扉を叩く音に、ユルングルは短く応える。
「ソールドール領主、ベドリー=カーボン卿が謁見したいとお越しです」
扉を開いてそう告げたのは、ダリウスだ。首肯するユルングルを待ってから、ダリウスは領主に入室するよう促した。
「これはこれは…!第一皇子___いえ、ユルングル殿下…!この度は謁見を賜り____」
まだユルングルの姿が見えてもいない時から媚びるように告げて扉をくぐった領主は、だがベッドに座るユルングルの姿を見るなり、目を見開いて硬直するように饒舌な口が止まった。その呆けたような表情でずっとユルングルの顔を凝視する領主に、ユルングルは不機嫌さを表わすように眉間のしわを最大限に増やす。
「…何だ?デリックは皇族との謁見の仕方をお前には教えなかったとみえる」
「…!こ、これは失礼を…っっ!!」
慌てて威儀を正すように、領主はその場に叩頭する。
「拝謁を賜り、恐悦至極に存じます…!私はソールドール領主、ベドリー=カーボンと申します…!以後、お見知りおきを____」
「ダリウスが言わなかったか?俺たちはお前を、歓迎していない」
「…!そ、それは…!先ほどダリウス殿下にもお伝えいたしましたが____」
「誰が顔を上げていいと言った」
「…!!」
弁解するように上げた顔は、ユルングルの威圧を多分に含んだ一声ですぐさま再び地面に額を落とす事になる。手がカタカタと自然に震えるのは、きっと目の前にいる第一皇子が皇王と同じ怖いくらいの威厳を纏っているからだろうか。
「…屈辱だろうな?低魔力者の俺に頭を下げるのは」
「め、滅相もございません…!!」
「…取り繕う必要はないぞ。お前があのデリックと同じく、低魔力者を虫けらとしか思っていない魔力至上主義者だという事は調べがついている」
「そのような事は決して____」
「取り繕う必要はない、と俺は言ったぞ?」
語気を強くしてぴしゃりと告げるユルングルの言葉に、領主は小さな悲鳴を上げて叩頭したままカタカタと全身を震わせる。その思った以上に情けなく、どうしようもないほど愚かな領主に、ユルングルはため息を落とした。
(…少し脅し過ぎたか)
このままでは進む話も進まない。
ユルングルは呆れたように頬杖をつきながら頭を掻いて、不承不承と顔を上げるよう促す。そして部屋に備え付けられている椅子に座るよう告げて、自身も卓を挟んだ反対側の椅子に腰掛けた。
「…それで?話とは何だ?くだらない話なら、その首切り落とすぞ?」
にやりと笑って、ユルングルは話を切り出す。
揶揄らしく告げてはいたが、内容が内容だけに再び怯えて話が進まないのでは、と懸念したダリウスの不安とは裏腹に、領主ベドリーは思いのほか嬉々とした表情を取った。
「いいえ!!必ずやユルングル殿下のご期待に添えるものと自負しております!!」
「…ずいぶんと自信満々のようだな?」
「それはもう…!!我々は貴方様が望むものをすでに手中に収めておりますので」
「俺が望むものを知っている、と言いたげだな?」
その問いかけには答えず、ベドリーは胸に手を当て軽く頭を垂れて、ただにやりと笑う。
それにユルングルも不敵な笑みを返して、頬杖をついた。
「…話を聞こうか?」
第一皇子の関心を引けたと確信して、ベドリーは一度首肯してから口火を切った。
「…単刀直入に申し上げます。ユルングル殿下、皇王シーファスをその手にかける機会を、手にしたいとは思われませんか?」
前置きも何もなく、ベドリーは言葉通り要点だけを真っ先に告げる。
ユルングルはそれには反応を示さず、しばらくその言葉を吟味するかのように、じっとベドリーを見据えた。そうして、ベドリーがその沈黙に焦りを覚え始めた頃、ユルングルは鋭い眼差しを止めぬまま、その重い口を開く。
「……俺がそれを望んでいると、なぜそう思う?」
「…恐れながら、ユルングル様は皇族を憎んでいらっしゃるとお見受けいたします。ご自身を捨てた陛下を恨み、本来ならばユルングル殿下が手にするはずだったすべての物は、今や弟である皇太子ユーリシアの物。…さぞや口惜しい事でしょう」
「…判ったような口を利くな…!」
その不機嫌さを表わすように渋面を取るユルングルの様子で、ベドリーは己が口にした事が間違いではない事に確信を抱く。
「これは出過ぎた真似をいたしました…!…ですが我々は、病身の身を引きずってまでもユルングル殿下がここソールドールに出向かれたのは、皇王シーファスを追って来られたからだと確信を抱いておりますよ?」
「…助けに来たとは思わないのか?」
「まさか…!貴方さまは皇太子ユーリシアを暗殺しようとなさった身。今さら救おうなどとは思わないでしょう…!」
皇太子暗殺未遂の件も知っていると言わんばかりに強調するベドリーを、ユルングルはたじろぐ事なく強く見据える。その様子に、胸に抱いていたベドリーの確信はわずかに揺らいだ。
「……まさか……本当に助けに………?」
軽く狼狽するベドリーの心を弄ぶかのように、ユルングルはにやりと笑う。
「…お前にはどちらに見える?やはり実の親が死ぬのは忍びないと健気にも助けに来た第一皇子か、それとも憎しみを捨てきれず、この機に乗じて皇王を手にかけようと暗躍する第一皇子か」
「……そ、それは……!」
どちらだと確実に判じる事ができず、ベドリーは思わず口ごもる。
今目の前にいる人物だけを見る限り『健気にも助けに来た第一皇子』という印象は微塵もない。だが第一皇子は策士だと聞いていただけに、これらがすべて演技である可能性も捨てきれないのだ。
無駄に思考だけが宙を空回りするベドリーをくつくつと笑って、ユルングルは背もたれに身を預け足を組んで見せた。
「…どちらにせよ、お前の手を借りるつもりはない。お前の主は俺の命を何度も狙ったんだぞ。そいつの手を借りるくらいなら、死んだ方がまだましだ」
「…!それは過去の事でございます…!デリック様は今や皇王に対して忠義も何もない…!!ユルングル殿下と同じく皇王を恨んでおいでです…!!」
「敵の敵は味方だとでも言いたいのか?」
「味方になる必要はございません…!利用なさったらいい…!!今回の謀反は、貴方さまの復讐をお膳立てした舞台なのです…!貴方が皇王を手にかけ積年の恨みを晴らし、その罪を皇太子ユーリシアに擦り付ける。これ以上にない舞台だとは思われませんか…!?」
勢い余って席を立ち、ユルングルの心にあるであろう恨みつらみを増幅させるように、必死に訴えかける。そんなベドリーの言葉にわずかに心が揺らいだのか、ユルングルは思案するような仕草を取った。
(…!あと一押しだ…!)
思ったベドリーは、畳みかけるように言葉を続ける。
「…それでも皇王を手にかける事にわずかな迷いがまだあると仰るのであれば、私がその迷いを払拭いたしましょう…!」
「…!……どうやって?」
ひどく眉根を寄せて怪訝そうな顔を返すユルングルに、ベドリーは粘りつくようなにやりとした笑みを返す。
「…貴方がお生まれになられてすぐ、補佐官であるデューイ=フォーレンスの領地に預けられ、妹君であらせられるリアーナ様のご子息として育てられることになりました。それを提案し、強く推し進めたのが皇王であるとご存じですか?」
自信満々に告げたベドリーの言葉に、ユルングルは呆れたようなため息を落とす。これで皇王に対する不信を呼び起こさせたいのだろうが、あまりに稚拙で呆れを通り越して笑いが起こりそうだと、鼻先であしらった。
「それを提案したのも推し進めたのも、皇宮医のシスカだろう?そんな嘘が通用するとでも思っているのか?」
「いいえ、嘘ではございません。確かに最初に提案したのは皇宮医でしたが、最終的にそう判断したのは皇王ですよ」
「皇宮に置いておくよりは安全だと判断したんだろう」
「本当にそうでしょうか?」
「…!……何が言いたい?」
「…おかしいと思った事はございませんか?国の王たる人物が、我が子一人守れないなどと、本当にあるのでしょうか?」
「…!?」
ユルングルは目を見開く。
その疑問は、今まで何度も心に抱いた疑問だ。
王という立場なのに、なぜ息子一人守れないのか____と。
目に見えて動揺しているユルングルの姿に、ダリウスは内心で焦りを覚えていた。そんな二人の心を見透かしたように、ベドリーはさらに追い打ちをかける。
「では、これはご存じでしょうか?」
「…!……何だ?」
「皇妃が貴方を身籠られた時、御子が低魔力者だと判明して民は皆、中絶をしろと声高に訴えました」
「そんな事は言われなくとも知っている…!」
すでに余裕を失っているのか、ユルングルの表情には明らかな戸惑いと焦りが見えている。
「ですが、中絶を求める声を上げたのは、何も国民だけではございません」
「…!!?」
「…!?ユルングル様…!!これ以上はお体に障ります…!!!もうこの辺で____」
「黙れ、ダリウスっっっ!!!!!!」
ベドリーの言葉の先を奪うように上げたダリウスの訴えは、それ以上に強いユルングルの怒声にかき消される事になる。そのまま強く鋭い眼差しをベドリーから離さぬまま、ユルングルは問い詰めるように言葉の先を促した。
「言え…!!ベドリー=カーボン…!!民以外で皇妃に中絶を求めたのは誰だ…っっ!!!?」
その問いかけに、ひと呼吸置いてからベドリーは答える。
「…皇王シーファス=フェリシアーナ、その人ですよ」
想像通りの答えに、ユルングルは絶句する。
強い動揺を表すように視線が彷徨い、口を手で覆った。
「………ダリウス、それは本当の事か?」
「…っ!」
「言え…っ、ダリウス……っっ!!!」
強く見据える先をベドリーからダリウスに変えて、ユルングルは声を荒げる。その痛々しい姿を直視できないダリウスは眉をひそめて、思わず顔を背けながらも観念したように瞼を強く瞑んだ。
「………はい。間違いでは……ございません……!」
絞り出すように告げたダリウスの言葉に、ユルングルは目を見開き、その顔は色を失った。
ユルングルを身籠った際、腹にいる御子が低魔力者だと判明して、官吏のみならず民までもが中絶を声高に求めた。そのうち脅迫まがいの文が送られるようになり、身重の皇妃の身を案じた皇王は、こう告げたという。
_____「中絶をしろ。子はまた作ればいいが、お前はこの世で一人しかいない」
「……腹に宿った子は人ではない、か……」
「ユルングル様…!!決してそのような事は…!!」
「そういう事だろう…!!皇王は結局、皇妃と腹に宿った俺とを天秤にかけて、迷わず皇妃を取ったんだ…!!!」
それも、守り抜けばいいだけの皇妃よりも、中絶すれば必ず死ぬと判っている自分の方を見捨てたのだ。
ユルングルは無意識にか拳を強く握る。
ダリウスは事あるごとに捨てられたわけではない、と言った。
だが、この行為は紛れもなく『捨てた』と呼ばれる行為だろう。
「最終的には皇妃とそこにおられるダリウス殿下が説得して、皇王は止むなく承諾されたと私はお聞きいたしましたが?」
同意を求めるようにダリウスに視線を向けるベドリーに、ダリウスは怒りを込めた視線を返す。それにわずかに体を震わせながら、それでも強気な態度を崩さないのは、肝心のユルングルが目に見えて憔悴しているからだろう。
「…私にお怒りにならないでください…!ダリウス殿下!…私はただ真実をお教えしたまで」
「真実ではなく、ただの事実です…!ユルングル様…!!シーファス陛下は決して貴方を_____」
言いながらユルングルの肩を掴むダリウスの手を、ユルングルは勢いよく振り払う。
最初、何が起こったかダリウスは理解できなかった。目を見開き、その視界に留めたのは憤りと失意を強く滲ませている、ユルングルの顔。その顔は紛れもなく、自分に向けられている。
大きな音と共に弾かれた手の痛みよりも胸の疼きのほうが痛いと感じたのは、おそらく自分には向けられた事のない、初めて見るユルングルの表情に言葉を失ったからだろうか。
「…………ユルング____」
「……なぜだ?なぜ俺に教えなかった……?」
「…!そ、それは____」
「知れば俺が確実に皇王を殺すと思ったか?」
「…!そのような事は…!!」
「結局お前も俺を捨てたんだろう?皇王が俺と皇妃を天秤にかけたように、俺と皇王の命を天秤にかけて、お前は皇王の命を取ったんだ……っっ!!!!」
苦渋に満ちた表情で、まるで心の痛みを吐露するように吐き出すユルングルの姿に、ダリウスは硬直して動く事が出来なかった。
何か申し開きを、と思うのに、思うように言葉が出てこない。沈黙のままでは肯定していると思われても仕方ない。そう思うのに弁解の言葉が出てこないのは、心のどこかでそう思っていたからだろうか_____。
「…ベドリー=カーボン。俺の宿を用意しろ」
「!!?ユルングル様…!?」
「出来るか?ベドリー」
「…!はい…!!はい!!もちろんでございます…!!」
嬉々とした様子のベドリーを従えて、ユルングルはダリウスに目もくれず足を進ませる。ユルングルを止めることもできず、ただ去っていくユルングルの背を見送ることしかできないダリウスに、ユルングルはやはり顔を背向けたまま告げる。
「二十四年間、世話になった」
その声音には失意と、そして決別が強く含まれていた。




