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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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不和の始まり・前編

 聞き慣れた羽音が耳に届いて、ユルングルは用意していたタオルを手に取って窓を開いた。


「ルーリー、雨の中悪かったな。…ダスク達に無事渡せたか?」


 その問いかけに答えるように、ルーリーはひと声鳴く。


「…そうか、ゼオンが憤慨していたか。まあ、予想はしていたがな」


 くつくつと笑いながら濡れたルーリーの体をタオルで巻いて拭くユルングルに、今度は首を傾げながら物憂げな調子の声でルーリーは鳴いた。


「…!…何だ?ユーリシアが心配か?…大丈夫だ、あれが魔獣ごときにやられるわけないだろう」


 言ったところで、部屋の扉を叩く音が耳に届く。入れ、と短く答えた声に応じて扉を開いたのは、ダリウスだった。そのダリウスの表情が軽く目を瞬いているように思えて、ユルングルは小首を傾げる。


「…?どうした、ダリウス?何かあったか?」

「…!……いいえ、どなたかと話されていると思っておりましたので……」

「ああ、ちょうどルーリーが帰って来たところなんだ」


 さもありなんと答えるユルングルに、ダリウスは得心したように頷く。


 ユルングルは幼少の頃から、まるで動物と意思疎通ができているような態度を見せる時が、ままあった。冗談交じりに「彼らが何を言っているのか判るのか?」と訊ねた言葉に、幼いユルングルは軽く小首を傾げた後、にこりと微笑んで「何となく」と答えた時の事を覚えている。当時はその返答を言葉通りに捉えて、単に動物好きが高じて何とはなしに気持ちが理解できるだけなのだろう、と思っていたが、今になって思えば幼いなりに動物と話ができる事は普通ではないと理解して、あの返答をしたのではないかとダリウスは思っている。


「それで?何か用があったんじゃないのか?」

「…!…ああ、はい。ミシュレイ様がお呼びです。何でも注文の品が届いた、と」

「…!判った、すぐに行く。ダリウス、ルーリーを頼む」

「…何をされておいでですか?」

「別にお前が心配するような事はしていない。ミシュレイの工房を借りて髪飾りを作っているだけだ」

「…髪飾り、ですか?」

「ミシュレイの工房は武具専門だから有り合わせで作るしかないんだけどな。まあ、それなりの物は出来たから許してくれるだろ」


 言ってタオルをダリウスに手渡し代わりに外套を受け取って、ドアノブに手を掛けながら懐からある物を取り出す。


「貰った礼はしなきゃならないし、約束もしたからな」


 ちりん、と鈴の音を立てて、にこりと微笑みながら出て行くユルングルの姿に、それが一体誰のために作っている物で、手渡した時確実に誤解を招くだろう事まで想像ができて、ダリウスは内心で嘆息を漏らしつつ諦観を込めながらただこうべを垂れた。


**


 初めて彼を見た時、天使だと思った。

 それが、ユルンを見た時最初に抱いた第一印象だった。


(…ずいぶん口が悪い天使さまだけど)


 内心でひとりごちて、アーリアはくすりと笑みを零す。


 ソールドールに着いて、もう九日目。無事ソールドールに着いたら会いに行くと言ってくれたユルンは、未だその姿を見せには来ていない。それが無事ではないからか、あるいは無事だが体調を崩して会いに来れないのか、はたまたただ忘れているだけなのか、アーリアに確認するすべはなかった。ただ忘れているだけなら、まだいい。だが会いに来ないのがユルンの身に何かあったからではないかと、気を揉んで仕方がないのだ。


 アーリアはその鬱積した感情を吐き出すように、大きくため息を落とす。

 東屋あずまやにある椅子に腰かけながら、アーリアは睨むように雨が降る鈍色にびいろの空を見上げた。まるで今の心境をそのまま表しているようで、忌々しい。


 父からソールドールに移り住むと聞かされた時、アーリアはひどく落胆した。

 それは皇都に特別思い入れがあったからではない。中魔力者であったアーリアは特にぞんざいな扱いを受ける事もなく、ごくごく普通の暮らしを送っていた。魔力至上主義者と言うわけでもなく、かと言って低魔力者を庇う事もしない。時折低魔力者を虐げている現場に遭遇する事はあったが、不快には思っても助ける事は怖くてできなかった。皇都ではそういう景色が当たり前のようにあったが、それさえ目をつぶってしまえば皇都での暮らしは快適だった。


 物が溢れ、真新しい物がそこかしこにあり、友人もいて暇を持て余すことはない。色んな噂が飛び交って話題には事欠かないし、国の中枢なので流行りに乗るには絶好の土地だった。幼い頃に皇都に移り住んだアーリアには、ここでの暮らしが当たり前になっていた。


 それが突然皇都を出る事になったのは、父が商人だからだ。

 元々皇都に移り住んだのは、病に冒されていた母の薬が皇都なら難なく手に入るからだった。中魔力者の中でも魔力の低い方であった母が病死してから約一年、皇都に住む理由がなくなり、商人である父にとって都合のいいソールドールに移り住むことになったのだ。


 父の勝手な判断に憤慨しつつも、親のすねをかじって暮らしている身なので表立って反抗も出来ず、鬱々とした気分で乗ったソールドール行きの乗合馬車の中で、アーリアはユルンと出会った。


 おそらく、一目惚れだったのだろうと、アーリアは思う。


 兄であるダリウスの腕の中で眠るユルンがあまりに綺麗で、同時にひどく儚げに見えた。これほど綺麗な男性が世の中に存在しているものなのかと驚嘆した事を昨日の事のように覚えている。以来、気がつけばその視界にユルンばかりを捉えて目が離せなくなった。


 彼の名を知りたくて聞き耳を立て、初めて目を開いたユルンの姿になおさら胸がときめいて、初めて聞く彼の声に頬が紅潮し、そんなユルンと初めて目が合った後、にこりと微笑んでくれた時は天にも昇る気持ちだった。それは彼の口が悪いと判明した時ですら、決して萎える事もなく胸に抱き続けた想いだった。


 あれほど鬱々とした気分は一瞬のうちに晴れて、この乗合馬車に乗れた幸運をアーリアは神に感謝した。だが同時に、ユルンのあまりの病弱さにひどく胸が疼いた。発作が起きた時も、高熱が出たと聞かされた時も、そして馬車の中で苦しそうに嘔吐を繰り返していた時ですら、このまま死んでしまうのではないかと手足が震えて仕方がなかった。


 その恐怖が、今もアーリアの心に居座っている。

 ユルンの姿が見えない事が、とにかくいたたまれないほどに怖かった。


 アーリアは願いの街イーハリーブでユルンに渡したものとお揃いの紐飾りのお守りを握る。

 この中に書いた願い事は、自分の事ではない。生まれて初めて、自分のこと以外を願った。その願いが叶いますようにと、祈るように指を組んで瞳を閉じたところで突然上から声を掛けられて、アーリアは目を瞬きながら上を見上げた。


「こんなところにいたのか、アーリア」

「…!」


 見開いた視界の目の前には、あれほど綺麗だと思って見つめ続けた、ユルンの顔。座るアーリアの後ろ___東屋の外から、彼女の顔を窺うように上から見下ろすユルンと見上げたアーリアの目が合って、そのあまりの顔の近さにみるみる顔が紅潮するのが判った。


「ユ、ユ、ユルン…っっっ!!!!!???」


 慌ててその場から逃げ出すように離れて、アーリアはその勢いでそのまま尻もちをつく。そのあまりの狼狽っぷりに、ユルンは呆れたようなため息を落とした。


「…何だ?その幽霊にでも会ったような反応は」

「ど…どうしてここに…!!?」

「会いに行くと約束しただろ、忘れたのか?…それとも、会いに来ない方が良かったか?」


 言って差し出されたユルンの手と、彼の顔を互替かたみがわりに見る。

 これは自分の願望が見せている幻覚だろうか。それとも本当に目の前に実在しているのだろうか。

 その判断がつかず困惑したように見つめ返すだけのアーリアの手を、ユルンは有無を言わさず掴んで彼女の体を引っ張り上げた。


「何だ、しばらく会わないうちに話し方を忘れたか?」


 にやりと笑っていつもと変わらぬ揶揄を飛ばすユルンに、アーリアはたまらず勢いよく抱きついた。


「…!!?」

「ユルン…!!良かった…!!!無事だったのね…!!」


 その勢いに負けてアーリア共々後ろに倒れ込んだが、どうやらアーリアにはもうそれすら判らなくなっているようだ。目に涙をためて縋りつくようにユルンの胸に顔をうずめたアーリアは、倒れた拍子にどこかぶつけたのか小さくうめくユルンの声が辛うじて耳に入ったところで、ようやく我に返った。


「…!?やだ…!?ごめんなさい、ユルン…!!!大丈夫っ…!!?」


 慌てて身を起こして倒れるユルンの傍に膝をつくアーリアを、ユルンはくすりと笑う。


「…ああ、大丈夫だ。だが、次からは勘弁してくれ。俺はまだ、お前の体を支えられるほど体力が回復していないからな」


 言われてようやく気づく。

 先ほどユルンは、自らの足で立ってはいなかっただろうか。


 アーリアの記憶の中にあるユルンは、常に兄であるダリウスに抱えられている姿しかなかった。唯一それがなかったのは、盗賊に襲われた時勇ましく弓を引いた姿だけ。それも両の足で立つことは叶わず、もう一人の兄であるラヴィに体を支えられていた。


 そのユルンが立っていた___アーリアにとって、それは奇跡に近い。


「………ユルン、歩けるようになったの…!?」

「何とかな」

「じゃあ……じゃあ、心臓は_____」

「心臓はまだお悪いままです」


 アーリアの言葉を遮って答えたのは、東屋の外に控えていたラン=ディアだ。差していた傘を閉じて、同じく東屋に入る姿がアーリアの視界に映った。


「…ですので、あまり無茶をなさらないでほしいのですが……。お怪我はありませんか?ユルン様」

「ああ、何ともない」


 倒れているユルンに手を差し出しながら、ラン=ディアは悄然と嘆息を落とす。

 おそらく倒れた拍子に、背中の褥瘡じょくそうが盛大に痛んだ事だろう。普通食が食べられるようになったとは言え、彼の体は未だに細いままだ。若干、肉が付いたか付いていないか、と言う程度の違いしかないのだから、この硬い地面に打ち付けられては、骨ばった体に相当堪えたに違いない。


 にもかかわらず、それをおくびにも出さずにラン=ディアの差し出された手を掴むユルンの姿に、内心で感嘆を漏らす。誰に気を遣っているかは、考えるまでもないだろう。


「…では、俺は先に帰りますよ」

「…?監視するつもりはないのか?」

「いえ、馬に蹴られたくはありませんからね」

「…?馬?何の話だ?」


 心底、理解していない様子のユルンがまた面白い。

 くすくすと笑いながら「こちらの話です」と告げたラン=ディアに訝しげな視線を送りつつ、ユルンは再び傘を差すラン=ディアの背に声を掛ける。


「ここまで案内してくれて助かった」

「いえ、お安い御用です」

「昼過ぎには帰ると兄さんに伝えてくれ。…午後には来客があるようだからな」

「…!…承知いたしました」


 軽くこうべを垂れて立ち去るラン=ディアを見送りながら、アーリアは隣に立つユルンに問いかける。


「…神官様がここまで案内してくださったの?」

「神官は一度会った事のある人間なら、その魔力を感知してどこにいるかすぐに判るからな。お前の家を知らないから、ラン=ディアに案内してもらった」

「…へー…、凄いのね、神官様って____」


 言いながら何とはなしに横にいるユルンに視線を向けて、アーリアは不意を突かれたようにどきりとする。


 ユルンの顔が、思った以上に遠い。

 それは、ユルンと自分の身長差がそれほどあるという事だ。自分の目線はユルンの肩から少し下に降りたところなので、おそらくこうやって並んでいると自分の身長はユルンの肩にかかるかどうかと言ったところだろうか。


(……ユルンって、こんなに背が高いんだ……)


 ずっと毛布に包まれ、兄であるダリウスに抱えられていた姿ばかりが記憶に残っている所為か、アーリアの中のユルンの印象は思いのほか体格が小さい。病弱で、儚げな綺麗さがあるユルンは想像の中でもその印象が強く、ひどく痩せ細っていた事も相まって、背丈はせいぜい自分よりも少し高いくらいだろう、と勝手に思い込んでいた。


 それが見事に裏切られて、アーリアはどきりとしたのだ。

 急に男らしさが垣間見え、綺麗で整ったユルンの横顔でさえ凛々しく精悍に見える。

 思わず見惚れて頬を紅潮しながらユルンの横顔を見つめるアーリアの視線に気づいて、ユルンはアーリアを見下ろした。


「…?どうした、アーリア?」

「…!!?あ…!ううん…っ!!何でもないの…!!ユルンって意外と背が高いんだなぁ、って思って見てただけで…!!」


 慌てて取り繕うアーリアに、ユルンは「ああ」と得心したように頷いた。


「…ダリウス兄さんが馬鹿みたいに大きいから、横にいる俺が小さく見えるだろ?…これでも一応、男の中では高い方なんだぞ」


 ふてくされたように眉根を寄せるユルンの姿が、面白く可愛い。

 思わず、くすくすと笑うアーリアの手の中に紐飾りのお守りが見えて、ユルンは軽く目を見開いた。


「…それ、お前も持ってるんだな、アーリア」

「…!あ……!え…と……私もお願いしたい事があったから…!!」


 バツが悪そうに慌てて隠したのは、きっと『願い事があったから』という理由よりも、『ユルンとお揃いだから』という理由が大きいからだろうか。そんなアーリアに小首を傾げつつ、ユルンは言う。


「何で隠す?俺と揃いは嫌か?」

「…!い、嫌じゃない…!!」

「…ああ、そうか。さては、人に聞かせたくないような願い事でもしたか?」

「…!もう…っ!!ユルンのばかっっ!!!」


 にやりと笑って揶揄を飛ばすユルンに、アーリアは顔を真っ赤にふくれっ面を見せる。いちいち自分の揶揄に見事に反応してくれるアーリアにユルンは盛大な笑い声を返すので、なおさらアーリアは頬を膨らませて背を向けた。


 そんなアーリアにくつくつと笑いを落としながら、不機嫌そうなその背に声を掛けた。


「それで?アーリアは何て願い事をしたんだ?」

「…………ユルンには絶対教えてあげない…!」


 その機嫌を損ねた子供のような反応が面白い。やはりくつくつと笑いながら「ずいぶんと嫌われたものだな」と返すユルンに、内心で嫌いになるわけがない、と人知れず返答して、アーリアはちらりと後ろのユルンに視線を送った。


「………ユルンは?」

「ん?」

「……ユルンは願い事、決まった?」


 願う事はやめた、と彼は言った。

 願う事も祈る事も、意味はないから、と。


 それでもあの時、願い事が決まったら巾着に入れてみる、と言ってくれたのは、明らかに自分に対して気を遣ってくれたからだろう。それが判っているから、アーリアはひどく遠慮がちにそう訊ねてみた。


 かぶりを振るだろうと思われたその問いかけに、ユルンは穏やかだが、やはりどこか寂しげな笑顔を見せた。


「…ああ、決まった」

「…!本当に…?……訊いてもいい?」

「…ダリウス兄さんの事を願った」

「…え?」

「…俺はそれほど長く生きられないからな。願うなら、ダリウス兄さんの事がいい」


 胸が、ちくんと痛む。

 この痛みは、彼が自分の残された時間があまりないと諦観している所為だろうか。それとも結局彼は、自分のために願う事を諦めている所為だろうか。


 呆けたようにこちらを見返すアーリアの姿が視界に入って、ユルンは少し困ったように笑んだ後、アーリアの頭に手を置いた。


「…悪いな、アーリア。お前に心配をかけるつもりはなかったんだがな…。…ダリウス兄さんには言わないでくれ。知れば兄さんも、無駄に心配するから」


 いつになく弱々しく笑うユルンに、アーリアの胸がなおさら疼く。何か声を掛けなければ、と思うのにいたずらに思考が宙を舞うだけで気の利いた言葉が出てこない。口を開いては閉じてを繰り返すアーリアの様子にその心中を悟ったユルンは、先手を打つように話題を変えた。


「…ああ、そうだ。お前に渡したい物があったんだ」

「…!え……私に…!?」


 一瞬のうちに恍惚な瞳に変わって目を輝かせるので、ユルンは失笑しながら懐から取り出す。ユルンの大きな手の中にすっかりと納められて何があるのか判らないアーリアは、小首を傾げながら手が開かれるのを待った。


「…紐飾りのお守りをくれた礼だ」


 言って、ゆっくりと開いたその手のひらには、銀で作られた綺麗な髪飾りがひとつ。細やかな装飾が彫られ、その中央にはアーリアの瞳の色と同じ、碧緑色のエメラルドが燦々と輝いている。


「わぁ…!素敵な髪飾り…!」

「ここの工房で作ったんだが、エメラルドがなくてな。取り寄せてもらっていたから、お前に渡すのにずいぶんと時間がかかった」

「…!」


 その言葉に、アーリアはこれでもかと目を見開き、エメラルドと同じかそれ以上にその瞳を輝かせた。


「まさか……これ、ユルンが作ったの……?」

「…気に入らないか?」

「そんな事ない…!!こんな素敵な髪飾り、皇都にだってなかったわ…!!」


 ひとつ希望を言うなら、付ける宝石は自分の瞳の色のエメラルドではなく、ユルンの瞳の色と同じく見る角度や光によって青や紫に変わるタンザナイトにしてもらえれば、なお嬉しかっただろう。自分の色を異性に送るのは、周囲に自分の所有物だと公言している行為だと言うのは、あまりに有名な話だ。


 それでも、恋焦がれた相手からの手作りの贈り物は、これ以上にないくらいの最上級の宝物を貰ったに等しい。

 礼を言おうと、髪飾りからユルンの方へと向けた恍惚な瞳が一瞬のうちに興ざめしたのは、見も知らぬ男が突然二人の間に割って入った時だった。


「ほんっと、ユルンちゃんって手先が器用だよなあ」

「…!!?」

「ミシュレイ」

「だ、だ、だ、誰…っっ!!!?」


 驚きと共に、いい雰囲気を台無しにされて、アーリアは自分でも驚いているのか怒っているのか見分けがつかない声を上げる。


「さっき言った工房の持ち主だ。…後をけてきたのか?ミシュレイ」

「いやー!!その髪飾り、誰にあげるか気になってさ!!ユルンちゃんも隅に置けねえなあ!!」

「馬鹿を言え。アーリアは七つも年下だぞ?妹のようなもんだ、変な勘繰りをするな」


 呆れたように告げるユルンの言葉に、アーリアの胸がずきんと痛む。


(…………妹…)


 心のどこかで、そうだろうという予想はあった。

 ユルンの自分に対する態度は、どう見ても異性に対する態度ではない。時折、子供に対して取る態度のように思えたのは、きっと自分が七つも年が下だからだろう、という予想はどうやら間違いではなかったらしい。


 わずかに気落ちしたような素振りを見せたアーリアを、ちらりと一瞥したミシュレイは、多少バツが悪そうに頭を掻いた。嘘でもいいから照れるなり狼狽するなりすればいいものを、まさかこれほど清々しいほどに両断するとは誰も思うまい。


(…知らないってのは罪だな…)


 思うに留めて人知れず嘆息を落としつつ、ミシュレイはわざとらしく話題を変える。


「あー…何だ……。…!…ああ、そう言えばそろそろ昼過ぎだぞ…!帰らなくていいのか…!?」

「…!…ああ、もうそんな時間か。悪いな、アーリア。今度はできるだけ時間を作る」


 『今度』と言う事は、次もまたこうやって会ってくれるらしい。

 たったそれだけで、つい先ほど痛んだ胸が弾んで、アーリアはまた懲りずに目を輝かせた。


「うん…!髪飾り、ありがとう…!ユルン!!私、大切にするね…!!」


 去って行くユルンの背に謝意を伝えながら、アーリアは思う。

 『妹』と言う言葉を聞いても胸の痛みが長続きしないのは、きっとユルンが特別な女性を作る気がないように感じるからだろう。残された時間が少ない、と諦観しているユルンが大事なのは、きっと自分が幸せになる事よりも兄であるダリウスの幸せなのだ。


 それだけが、ユルンの願いなのだ。


 思って、アーリアは自身の手にある紐飾りのお守りを視界に入れる。

 ユルンが自分の幸せを願わないのなら、自分がユルンの幸せを願えばいい。


『いつかユルンの体が良くなって、いつも笑顔で暮らせますように』____


 それでユルンが幸せなら、たとえその隣に自分がいなくても、これほど喜ばしいことはない。


 アーリアは遠ざかるユルンの背を視界に入れながら、再び祈るように指を組んで瞳を閉じた。


**


「ユルンちゃんってさ……モテないだろ?」


 アーリアと別れて家に帰る道中、ミシュレイはすぐさまそう切り出す。その不躾な物言いに、ユルングルは不快気に眉根を寄せて不機嫌を露わにした。


「当たり前だろうが。誰が好き好んでこんな弱い男を選ぶ!!」

(あー…やっぱりモテないと思ってんだ……)


 だからこそ、あれほど躊躇いもなく一刀両断できるのだろう。一体どれだけ無意識に思いを寄せる女性の気持ちを断ち切ってきたのかと思うと、呆れを通り越して哀れしかない。あれだけ自覚なくばっさりと切られては、彼女たちも想いを伝える前に諦めざるを得ないだろう、とひとりごちて、ミシュレイは苦笑を漏らした。


「……そういうお前は、ずいぶんと女に人気があるらしいな」

「…!」

「年上からは可愛がられて、年下からは頼りになると慕われるんだったか?」

「何で知ってんのさっ!!?」

「お前が何度も何度も俺に言ったんだろうが」

「だから言ってねえしっっ!!!」

「言った!!お前はどの未来でも必ず俺の周りをウロチョロして、聞いてもいない事をぺちゃくちゃと話してくるんだ!!おかげでお前のどうでもいい情報ばかり溜まって仕方がない!!」

「…!」


 ミシュレイは、目を瞬く。

 思えばユルングルは、初めて出会ったあの時でさえ自分に対して誰何すいかを訊ねる事はしなかった。ダリウス曰く『懐いた』らしいが、当然と言えば当然だろうか。ユルングルにとってあの時点で自分は見知らぬ誰かではない。すでに見知った、旧知の仲なのだ。


 思って、思わず呟く。


「うわあー…俺ってば一途」


 これほど邪険な扱いを受けてもなお、めげずに他には目もくれず、どの未来でも必ずユルングルの傍にいるという事は自分で思う以上によほど彼の事を気に入っているのだろう。


 それに驚嘆を漏らすミシュレイの脇腹に、ユルングルは躊躇う事なく肘鉄を食らわす。


「…い……っっ!!!?……そこ……っ!!………ダリウスの兄貴にやられたとこ……っ!!」

「痛むなら真面目にラン=ディアの治療を受けろ。毎日受けていれば五日で痛みはほとんど消える」


 鼻を鳴らして、いかにも不機嫌だとばかりにユルングルはそっぽを向く。


 この気まぐれで自由な男は、ラン=ディアの治療を受けたり受けなかったりで、散々ラン=ディアの機嫌を損ねてきた。わずかばかりそのしわ寄せが自分に来ているので、ここぞとばかりにその溜飲を下げたユルングルは、まだ痛むのか脇腹をさするミシュレイを睨めつけるように小さく視線を流した。


「……お前は人の会話を盗み聞きする癖があるのか?あんまり褒められた趣味じゃないな」

「…!……あー…気付いてたんだ?」


 後を尾けて、ユルングルが女と会っていると判るや否や、わざわざ会話が聞こえる距離まで近づいたのは、当然好奇心からだ。それを悟られていた事実に多少バツが悪そうにしながら、それでも悪びれることなくへらへらと笑うミシュレイにユルングルはぴしゃりと告げる。


「ダリウスには言うなよ」

「…え?」

「アーリアにも言ったが、ダリウスが知れば余計な気を揉むからな。…これ以上、あいつに無用な心配をかけたくない」


 それが何を差しているのかをミシュレイは悟って、呆れたようなため息を落とす。


「…長く生きられないって言った事か?ちょっと心配し過ぎなんじゃねえの?ユルンちゃんよりちょっと魔力が高いだけの俺でもピンピンしてんだからさ」

「…以前、俺は『一と無の間は些細なようで、その差は意外と大きい』と言ったが、一と二の間も思うより大きな差がある」

「そんな事は____」

「俺を見れば判るだろ。俺が本当に長生きできるとお前は思っているのか?」


 言いながら、こちらを強く見据えるユルングルの姿を見て、ミシュレイは思わずぎくりとする。


 その強い眼差しとは裏腹に、彼の顔色は病弱なまでに青白い。その体躯は異様なほど痩せ細り、触れる事さえ躊躇うほどだ。その上、心臓も悪く不治の病まである。五体満足の自分と比べれば比べるほど彼の存在が儚げに映って、ミシュレイは否が応にもユルングルの言葉が胸に刺さった。


 否定する言葉をまさぐるように必死に探して、だが結局見つからず宙に浮いた手のひらを、ミシュレイは強く握りしめる。


「……んなの…っ!!わっかんねえだろうがっっ!!!!思ったより長生きすることだってあんだろ…っっ!!!この先何があるかなんて______」


 勢いに任せてユルングルの胸ぐらを掴んで訴えるように叫んだミシュレイの言葉は、そこでぷつりと途絶えた。


 未来の事なんて、誰にも判らない。

 何があるかなんて、誰にも判らないのだ。

 そう、未来が見えているユルングル以外は______。


「……まさか……自分の死が…視えてんのか……?」


 茫然自失と問いかけるミシュレイの言葉に、ユルングルは沈黙を返す。


「答えろよっっっ!!!!!ユルンちゃんっっっっ!!!!!!」


 胸ぐらを掴む手にさらに力を込めて、ミシュレイは問いただすように怒鳴る。その顔には怒りと困惑、そしてそれ以上に喪失感が見て取れて、ユルングルは降参するように諦観を込めたため息を落とした。


「……結局どの未来でも、お前には気付かれるんだな」

「…………いつだよ」

「…まだ当分先だ」

「当分先って?」

「…正確には判らない。俺はひと月半ほど先の未来までしか視えないからな」

「…!じゃあ、ひと月半のうちに死ぬって事じゃねえかっっ!!!」

「違うっっ!!だから当分先だと言っただろうがっっ!!!」


 その言葉の意が掴めず、なおさら頭の中が混迷を極めて首を大いに傾げるミシュレイに、ユルングルはまた一から説明しなきゃならないのかと辟易した様子でため息を落とした。


「…俺の死は、分岐点なんだ」

「…?分岐点?」

「未来は選択肢の連続だ。何を選ぶかで未来がいくつにも枝分かれする。その何千、何万と枝分かれした未来が再び集約される場所が、分岐点だ。この分岐点は、絶対に変わらない未来だと思え」

「……絶対に変わらない……」

「俺はひと月半までの未来しか視えないと言ったが、この分岐点だけは別だ。視ようと思えば一万年先の分岐点でさえ視ることが出来る。…その分岐点に、俺の死があるんだ。何を意味するかは判るだろ?」


 判る___とは口が裂けても言いたくはなかった。言ってしまえば、それを認めた事になる。受け入れた事になる。何でも受容する生き方をしてきたミシュレイでも、それだけは受け入れ難かった。


 何とか反論を____思ったミシュレイの頭に、ふと今回起こっている謀反の事がよぎる。

 ユルングルはこれを『正史』と呼んではいなかっただろうか。


「…皇王の死も、分岐点なんだよな?」

「…!?」

「ユルンちゃんはこれを、止めようとしてるんだよな?」

「…だから、その手の質問を俺にするな」

「つまり、分岐点でもユルンちゃんなら変えられるって事_____」

「俺は変える気はない」

「…!!?」

「変える気はないんだ、ミシュレイ」


 ミシュレイの言葉を遮って、ユルングルはぴしゃりと告げる。その強い語気の中に、わずかにミシュレイを諭すような穏やかな声音が混じっている事に気づいて、ミシュレイは思わず口を噤んだ。


「…………っだよ……っ!……欲しいものがあるなら、たとえみっともなくても足掻けって言ったのユルンちゃんじゃねえか……っ!!なのに、そのユルンちゃんが諦めんのかよ……っっ!?」

「欲しくはないからだ」

「…!」

「俺が欲しいのは別にある。だからダリウスに___兄さんに返してやるんだ。兄さんの人生を」


 ミシュレイは、目を見開く。

 胸ぐらを掴む手が緩んだのは、きっとユルングルが欲しいものが何かを悟ったからだろう。


「………何だよ……結局ユルンちゃんの中には…ダリウスの兄貴しかいねえのかよ……」

「俺の全ては兄さんから貰ったからな」

「……ダリウスの兄貴は、そんなの受け取らねえぞ」

「判ってる。だから強制的に返すんだ」


 自分が死ねば、受け取らざるを得ないものだ。

 ただ一つ杞憂があるとすれば、ダリウスがそれを受け取った後どう行動するかだろう。


(……できれば、この紐飾りのお守りが抑止力になってくれればいいが……)


 思って、懐にある紐飾りのお守りに手を添える。そのユルングルの耳に、ミシュレイの抗いの声が届いた。


「返させてやらない」

「…!?」

「返させてやるもんか…!ダリウスの兄貴がそんなの望むわけねえだろっっ!!そんな事も判んねえのかよっっ!!!」

「だから判ってる…!!それでも仕方がないだろ!!死の未来をひとつ変えたところで、どうせまたすぐに死の未来が現れるんだ!!どう見ても俺の体じゃ長生きできないって判るだろ!!!」

「判らねえし、判りたくもねえ!!!そんなのただの諦めじゃねえか!!諦めてる事を認めたくなくて、ダリウスの兄貴をていよくだしに使ってるだけだ!!!」

「…!!?」

「諦めんなよ!!!諦めて欲しくねえって思ってるのは俺だけじゃねえよ!!!ダリウスの兄貴だって知れば絶対_____」

「ダリウスには言うなっっっ!!!!!」


 ミシュレイの言葉にまるで心を見透かされているような気になって一瞬たじろいだユルングルは、だが再びミシュレイの言葉に強く目を見開いて怒鳴り声を上げる。ミシュレイの胸ぐらを掴み、その痩せ細った体躯からは想像もつかないほどの力強さで、ミシュレイの体を樹木に押し付けた。


 ミシュレイを突き刺すように見据えるその瞳からは、隠すつもりが微塵もないのか明らかな殺意が見て取れて、ミシュレイは思わず口を閉ざす。


 そうして、酷薄の色を強く含ませた声音で、ユルングルは告げた。


「言えばたとえお前でも、その首を掻き切るぞ、ミシュレイ」


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