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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第二部 中央教会編

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教皇とシスカ

 その日は初夏だというのに肌寒い朝から始まった。


 天気は晴天、日は燦燦と輝いているのに空気だけが冷たい。いつもの服装にもう一枚羽織ってミルリミナは教皇の待つガーデンテラスに向かっていた。


「…どこに行っても騒がしいですね」


 車いすを押すティーナがため息交じりに誰にともなく呟く。


 討議会を明日に控え、続々と各国要人がここ中央教会に訪れていた。おかげで神官たちや侍女たちは対応と準備に追われ、どこにいても喧噪で溢れている。リンリーもその一人で昨日から姿を見てはいなかった。


「…色々な国の方がいらっしゃるのね」


 時折、教会内で見た事もない服装の人物を見かける事があるが、おそらくは討議会に出席する他国の要人たちだろう。

 フェリシアーナ皇国からはユーリシアとラヴィが参加し、明日この中央教会に訪れるのだとシスカが教えてくれた。


(……遠くからでもユーリシア殿下を拝見できるかしら…?)


 そんな事をつい考えてしまうのは、未だにユーリシアへの想いを引きずっているからだろう、とミルリミナは自分に呆れてしまう。


「…よく来てくれたね、ミルリミナ」


 ガーデンテラスに着くとすでに教皇が紅茶をすすりながら、ミルリミナの到着を待ちわびていた。


「先に始めているよ」

「お待たせしてしまい申し訳ございません」

「はははっ、構わんよ。女性はいろいろと準備が多い。男を待たせるのもいい女性の条件だ」


 申し訳なさそうに謝罪するミルリミナを、教皇は軽く笑い飛ばす。


 教皇という立場でありながら偉ぶる事も威厳を出す事もせず、ただの優しい老人のように振る舞う教皇がミルリミナは好きだった。

 ミルリミナの祖父母は早くに他界し会う事はできなかったが、存命していればこんな感じだったのだろうかとミルリミナは思う。


「彼女の紅茶もお願いできるかな?」


 奥に控えていた侍女たちがミルリミナの紅茶と洋菓子を用意すると、そのまままた邪魔にならないよう見えない所に戻っていく。ティーナもそれに倣ってミルリミナをテーブルの前まで連れて行くと、深々と一礼し少し離れたところまで下がった。


「…さて、変わりはないかな?」

「はい、おかげさまでつつがなく過ごさせていただいております」

「……ふむ」


 まるで何かを確認するかのように、教皇はミルリミナを凝視する。


 時折こうやって見えない何かを見ているような仕草をするので、ミルリミナは気が気ではない。もしや自分の周りで渦を巻いている魔力を見ているのではないかと生きた心地がしないのだ。


(…これは絶対よくないものだわ。シスカ様は大気の魔力の流れがお見えになっておられないようだから安心だけれど、教皇様はお見えになっておられるのかしら…?)


 見えていたらきっと大事になる。そうなったらこんな平穏な日々すら送れなくなるだろう。

 はらはらしながら教皇の動向を見守っていると、教皇はそんなミルリミナに、はたと気付いた。


「…変わりがないようでよかった」


 そう言って、しわの多い顔をより一層皺くちゃにして笑顔を見せる。その笑顔にミルリミナはほっと胸を撫で下ろした。


「…教皇様は討議会のご準備などはよろしいのですか?」


 忙しい中、気を使って茶会に呼んでくれたのではないかとミルリミナは心配していた。元気そうに見えるが齢90を越えているのだ。もしそうなら年老いた体に無理をさせたのではないかと申し訳なさでいっぱいになる。


「いやいや、討議会は大司教筆頭に一任しておるよ。こんな老いぼれが行っても出来る事はないからね。…それよりも、シスカは貴女のお世話を上手にこなせているかな?」


 まるで子供を心配する親のようで、ミルリミナはわずかに笑みをこぼした。


「はい、お忙しそうなのに毎日のように様子を見に来てくださいます」

「そうか。…あの子は教会が嫌いでね。あまり寄り付かないんだが、貴女がいてくれるおかげで私のところにもよく顔を出しに来てくれる」

「………え?」

「ああ、勘違いしないでおくれ。神官という仕事は気に入っているようだ。あの子の優しい気質に合っていたのだろう。…だがどうも誉めそやされる事が嫌いでね。ここはシスカに心酔する者が多いから居心地が悪いのだろうね」


 そう言って少し寂しそうに教皇は微笑む。

 教皇と話していると、ミルリミナの知らないシスカの顔がこうやって少しずつ現れていくのを感じていた。そして同時に、教皇がシスカをとても大事に想っている事も言葉の端々から見て取れた。


「…教皇様はシスカ様の事を実の息子のように想われておいでなのですね」


 その言葉に、教皇は優しく微笑む。


「…あの子を最初に見つけたのは私でね。才ある若者だったがその力を持て余しているようで、見かねて半ば無理やり教会に連れてきたのだよ。…だが可哀想な事をしてしまった」

「………え?」

「…幼い妹と離されるのはさぞ辛かっただろう。ましてやその子があんな亡くなり方をしてしまっては……」


 そこまで言葉を続けた後、ふとミルリミナの存在に気づき慌てて場を取り繕う。


「ああ、申し訳ない。貴女には関係のない話だったね。年を取ると余計な事まで口にしてしまうようだ」


 困ったように笑ってごまかす教皇の態度に話の続きがひどく気になったが、内容が内容なだけに深く聞くことも躊躇われた。


 何やら返答に困ってしまったミルリミナを見受けて、教皇は申し訳なさそうに笑う。


「私はどうもシスカの事になると心配しすぎるようだ。よく大司教筆頭に叱られたよ。他の神官たちに示しがつかないとね。そういう彼もシスカには甘いんだがね」


 ミルリミナにとってシスカは兄のように頼れる存在だが、どうやら教皇や大司教筆頭にとってはまだまだ守ってやりたい存在のようだ。子供扱いされているシスカが何だか面白くて、ミルリミナはくつくつと笑う教皇と一緒に小さく声を上げて笑った。


「………シスカは…」


 ひとしきり笑いあった後、教皇は静かに言葉を続ける。


「…あの子はああ見えて心が弱い。優しすぎるからだろうね。何でも一人で抱え込んで自分を追い込んでしまう癖がある。……ミルリミナ、貴女はこれからシスカと共に行動する事だろう。だからこそ貴女に頼みたい。あの子が闇に落ちぬよう、傍にいてやってほしい。そして闇に落ちてしまったその時は、どうかあの子を救ってやってくれ。よろしく頼む」


 そう言って教皇は座ったまま深くこうべを垂れた。


 ミルリミナは一瞬驚いたが、何が言いたいのか察する事ができず狼狽する。

 あのシスカが闇に落ちる事などあるのだろうか?

 何よりいつも守られているのは自分の方だ。自分がシスカを救えるとは到底思えない。


 だが、まるで子を想う親のように懇願する老人を無下にはしたくない、とミルリミナは思った。


「…お顔をお上げ下さい、教皇様。私はシスカ様を兄のようにお慕いしております。教皇様と同様、家族を想う気持ちに違いはないと存じますよ」

「………!…貴女は心の優しい娘さんだね」


 顔をくしゃくしゃにしながら、今までで一番いい笑顔をミルリミナに向ける。

 おそらくこの笑顔を、ミルリミナは生涯忘れる事はないだろう。

 子を想う教皇の心がシスカにも伝わっているのだろうか?


 冷たかった風が、初夏らしく暖かな風に変わろうとしていた。


**


(……遅くなってしまったな)


 討議会を明日に控えた前夜、シスカは自室で被っていたフードを取り外套を脱ぎ捨てた。彼らと密会をした帰りだ。


 決行は討議会当日にしようと提案したのはシスカだった。


「討議会当日は神殿騎士たちも各国要人の警護で人手不足になります。聖女の警護は最低限になるでしょう。加えて神官たちの多くは討議会の運営に回される。これほどおあつらえ向きな日は他にないでしょう」

「…なるほど。ならここの庭園に聖女をおびき寄せられるか?比較的侵入しやすく、草木で身を隠せる場所が多い」


 シスカが渡した教会の詳細な地図を見ながらユルングルは問う。


「承知いたしました。聖女の侍女がおりますが彼女は庭園の入口で待機させましょう。できれば護衛の騎士も待機させたいのですが、おそらくついてくるでしょう。ですので真っ先に彼らを片付けてください。殺してはなりません。できれば侵入者の存在を証言してほしいので姿を目撃させてから気絶させるようお願いいたします」

「…軽く言うな」

「そう難しい事ではないでしょう?」


 そう言って満面の笑みをユルングルに向ける。


 確かに難しい事ではないが簡単な事でもない。仮にも鍛錬をしている騎士だ。不意を衝くならば楽だが姿を見せてからとなると騎士に反撃の好機を与える事になる。ましてや騎士の中に高魔力者がいればてこずるだろう。


 だがこの挑戦的な笑顔が、この程度もできないのかと言っているようで、できないとは口が裂けても言いたくはなかった。


「…判った、善処しよう」

「よろしくお願いいたします。それとおれは間者としてまだあちらに残るつもりですから、疑われぬよう傷を負わせてください。そうですね…多少深い方が真実味が増しますし、深手を負って追えなかったと言い訳ができますから動けなくなる程度の深手を負わせてください」

「……!」


 自分の事なのに、さも些末な事のように話すシスカに、ユルングルとダリウスは驚く。

 動けなくなるほどの深手となれば下手をすれば命を落とす可能性もある。それが判っているのかとユルングルはため息をついた。


「…あのな、自分の体の事だぞ。簡単に深手を負わせろなんて口にするな」

「…?何か問題でもございますか?必要な処置ですし、おれは高魔力者です。多少深い傷でも死にはいたしません」

「そういう事じゃない!」


 シスカに言いたい事が伝わらず、ユルングルはもどかしさで頭を掻く。


 おそらくはどれほど説明してもシスカには理解できないのだろうとダリウスは思う。


(…この方はあまりにもご自分に興味がなさすぎる…)


 昔からそうだとダリウスは記憶している。

 他人の痛みには敏感に反応するくせに、自分の怪我や痛みにはひどく無頓着なように見受けられた。


 確かに怪我に強い高魔力者には頓着しない者も多い。自分もその傾向がないとは言えないがシスカはそれが顕著だった。いつか取り返しのつかない事にならなければと一抹の不安が頭をよぎる。


「とにかく!傷は負わせるがそれほどの深手にはしない!判ったな!」

「……承知いたしました」


 なぜそれほど激昂しているのかが判らず、ただ了承してはくれないという事だけは理解できたので、不承不承ふしょうぶしょうと言った感じでため息をつきながらシスカは承諾する。


(…おれがどれだけ傷付こうが閣下が痛みを伴われるわけではない…。なぜあれほど頑なに否定されるのか……)


 自分ならどれほどの痛みでも耐えられる。だが自分が計画した事で自分以外の誰かが傷つく方がシスカには耐えられなかった。痛みが必要なら、それは自分でなければ駄目なのだ。


 そして必要であれば死ぬほどの痛みでも耐えられる自信がシスカにはあった。それは決して慢心から来るものではない。

 おそらく操魔に関してシスカの右に出る者はいないだろう。操魔によって出血を抑えたり麻酔のように痛みを感じにくくする事も、シスカには造作もない事だった。加えて自分には治癒の力もある。適材適所という言葉通り、怪我を負う役にまさに打ってつけなのだ。



(…それほどおれは頼りなく見えるのだろうか…?)


 自室のソファに腰かけながら、シスカはため息交じりに自嘲する。

 そうしておもむろに自室を何とはなしに眺めた。


 二十四年間過ごしてきた部屋だが、特に愛着はない。物に執着しないので、自分の物と呼べるものは皆無に近かった。唯一、自分の物と呼べる妹の愛読書は、すでにミルリミナにあげたので、実質もぬけの殻と言ってもいいだろう。今ではこうやって夜寝るためだけに帰っているような状況だ。その夜さえ、ほとんど眠れた事はない。


(…何のための部屋なんだか……)


 皇宮の医務室の方がまだ居心地がいい、と自嘲したところで、ふいに自室の扉を叩く音に、シスカは一瞬どきりとした。


 今は深夜だ。こんな時間に訪問者など普通はあり得ない。何か急を要する事態が発生したのかと怪訝に思いながらシスカは扉を開けた。


「どうしましたか?こんな夜更けに」

「夜分に申し訳ございません、シスカ様。教皇様がシスカ様をお呼びするようにとおっしゃられて…」

「ギーライル様が?」


(…こんな時分に?)


 扉の向こうには若い神官が申し訳なさそうにしながら、教皇ギーライルの言葉を伝える。


「!…ギーライル様に何かあったのですか!?」

「あ、いえ!ただシスカ様にお話しされたい事があるとの事です」


 思い至ったように狼狽するシスカに、若い神官は慌ててかぶりを振る。一瞬嫌な想像をしたが、そうでなかった事にシスカはほっと胸を撫で下ろした。


「判りました、すぐに向かいましょう。貴方もこんな時分まで大変だったでしょう。もうお休みなさい」

「ありがとうございます。ですが教皇様に時間を指定されましたのでそれほど大変というわけではございませんでしたよ」


 それだけ言い残して、若い神官は一礼して自室へと戻っていった。


(…おれが帰る時間が、あの方にはお判りになっておいでだったのか…)


 てっきり自分が帰るまでずっと待たせてしまったのかと申し訳ない気持ちになったが、若い神官の言葉を聞いて、なるほどと合点がいった。


 教皇ギーライルは時折予言めいたことを口にする。そしてそれらは一度も外れた事がない。

 どれほど操魔の技術があってもそれだけは決して真似ができない事に、シスカは教皇の偉大さをしみじみと感じ入りながら足早に教皇の宮へと急いだ。



「ギーライル様。シスカです。お呼びですか?」


 ギーライルの寝室の扉を少し控えめに小さく叩く。


「お入り」


 馴染みのある優しい声が聞こえて、シスカは扉を開けた。中では教皇ギーライルがベッドの上で書物を読みながら、シスカの訪問を待ちわびていたようだった。


「こんな夜分にどうされたのですか?お体に障ります。必要であれば日中にお伺いいたしましたのに」

「なあに、ただの老人が話をしたかっただけだよ。気にする事はない」


 シスカの表情から心底心配してくれている事が判って、ギーライルは顔をくしゃくしゃにして微笑む。次いでベッドの脇にある椅子に腰かけるようシスカを促した。


「…今日ミルリミナと話をしたよ。あの子はとても優しい娘さんだね」

「…はい。ですが聖女様の力が気がかりです。何もなければよいのですが…」

「…あの子の周りを取り巻く魔力だね」

「!…お気付きになられましたか?」


 シスカには大気中の魔力の流れが手に取るように見えていた。例え才ある者でも人によっては薄くわずかに見える程度の者もいたが、シスカは凝視しなければ判らないほどゆっくりな流れでも瞬時に判別できるほどの識別能力があった。


 ゆえにミルリミナの周りを渦を巻くように取り巻く魔力の流れが見えてはいたのだが、それが何を示すものなのかずっと判らずにいたのだ。


 判ったのはミルリミナの体内に魔力の存在を確認した時。

 この魔力の渦は大気の魔力を吸引する際にできる渦なのだとようやく合点がいった。おそらくは皇宮の庭園にある膨大な魔力から吸引したのだろう。


 そこまで判っていてミルリミナに報告しなかったのには理由があった。


 一つは自分が大気中の魔力の流れを見る事ができると教会に報告していなかったこと。報告の義務はあったがシスカはひた隠しにしていた。これ以上もてはやされてはたまったものではない。知っているのは教皇のみだ。


 そしてもう一つは、ミルリミナが魔力の渦の存在を隠したがっているように見受けられたからだ。

 これが公になれば今の平穏な日常が壊れると恐怖したに違いない。未だ聖女である事を完全には受け入れていないのだ。正体不明の力に不安を感じてもおかしくはない。


 実際この力はシスカから見ても良くないもののように思えた。だからこそ魔力の渦の存在を知らないふりをしたのだ。

 変に警戒されて診察を拒まれないように。そしてもしミルリミナでは手に負えない状況になった時、いつでも手を差し伸べる準備があると暗に伝えて。


「…あれはあまりよくないね」

「魔力を集めて何をなさるおつもりなのでしょうか?そもそも聖女様は魔力を創造される存在です。魔力が必要であるならご自分で創造なさればいいだけのこと。…どうにも腑に落ちません」

「…ふむ。もしかしたら聖女様はもう魔力を創造する事がお出来にならないのかもしれないね」

「……え?」

「ああ、いやいや。ただの私の私見だよ」


 教皇の私見はただの私見ではない事を、シスカはこれまでの親交で身に染みて理解していた。


(…聖女がもう魔力を創造できない…?だとしたら各地で起きている魔力の枯渇も納得できる…)


 だがミルリミナを介して魔力を集める理由にはならない。大気の魔力を集めたところで今度は吸引された土地が枯渇するだけだ。根本的な解決にはならない。


(そもそもあの程度の魔力を集めたところで焼け石に水だろう…)


 思いもよらない教皇の言葉に思索にふけっていると、そんなシスカを少し物悲しそうに見つめる教皇の視線に、はたと気付いた。


「…お前はもう、明日行ってしまうのだね?」

「……!」


 一瞬何の事か判らず困惑したが、すぐに聖女拉致の件だとシスカは悟った。


「ははは、私に隠し事ができない事はお前が一番よく知っているだろう?」


 声を上げて笑う教皇に、シスカはその通りだと自嘲する。

 大気の魔力の流れを見る事ができる事も、教皇はすぐに見抜いてしまった。この二十四年間、隠そうと思った事は全て教皇には筒抜けだったのだ。


「…私のする事をお咎めにはならないのですね」

「…きっとお前に必要なことなのだろう。そしてミルリミナにもきっと必要なことだ。…あの子を守ってあげなさい」

「……ひとつ、思い違いをなさっておいでです」

「?…何かな?」

「私はここを去るつもりはございません。私がここを去る時はギーライル様が教皇をお辞めになられる時だと以前にもお伝えしたはずです」


 嘘ではない。これはシスカの本心だった。


 ギーライルには言葉では言い尽くせないほどの恩義がある。辛い時も苦しい時も必ずギーライルが傍にいてくれた。本来神官は俗世との関りを断つため肉親と会う事は禁じられていたが、いつでも妹に会えるよう便宜を図ってくれたのもギーライルだった。おそらく受けた恩を挙げればきりがないだろう。


 シスカにとってギーライルは、肉親以上の存在なのだ。聖女に仕える神官という身でありながら実際に仕えているのは教皇ギーライルなのだと、シスカは自負している。


「…嬉しいね、お前にそこまで言ってもらえるのは私の誇りだ」


 ギーライルは泣きそうなほど嬉しそうに顔をくしゃくしゃにする。


「だがね、シスカ。残念ながらお前は明日行ってしまうよ。お前は優しい子だからね。決して放ってはおけないだろう」

「……!」


 これは予言だとシスカは悟った。こういう言い方をしたときは決して外れない。それがどれほど自分の意に反する事でも。


「…いいえ。ギーライル様のお傍を離れる事は決してございません。申し訳ございませんが、ギーライル様の予言は外させていただきます」


 どれほど抗えるかは判らない。だがこれだけは決して譲れないのだ。

 いつもの微笑の中に強い意志を感じた教皇は、思わず顔をほころばせる。


「そうか…ありがとう。…どちらに転んでも決して悔いのないように。そして自分の体を大切にするんだよ、シスカ」

「……!」


 教皇に言われて、ふと傷を負わせろと言った時のユルングルとダリウスの表情が一瞬脳裏に浮かぶ。


(……ああ、そうか)


 そして理解した。あの時ユルングルが頑なな態度を取った理由を。


(閣下はおれを心配なさっておいでだったのか……)


 おそらくは教皇も全て判ったうえで、この言葉をシスカに贈ったのだろう。それが判ってシスカは小さく息を吐く。


(……かなわないな。このお方は全て見通されておいでなのか)


 シスカは立ち上がり、こうべを垂れて左手を胸に当てる。


「…猊下げいかのお心、ありがたく頂戴いたします」


 その姿を見受けて、教皇ギーライルは満足そうに頷いた。


「…さあ、もう寝なさい。明日は忙しい一日になるだろう。…夜更けにすまなかったね」

「いいえ、必要であればいつでも馳せ参じます」


 いつもの人懐っこい笑顔を残して、シスカはそのまま部屋を後にした。




 教皇ギーライルは手に持っていた書物をベッド脇の小さな卓に置き、窓から空を眺める。


 おそらくシスカを待ち受ける未来は過酷なものになるだろう。そして同時に、それは聖女を宿してしまったミルリミナにも等しく降りかかる。


(……神は残酷な事をなさる…)


 初めてシスカを、いやダスクを見つけた時、彼が背負う過酷な運命が見て取れた。教会に連れてこなければさらに事態は悪化していただろう。

 来たる時期に備えてあらゆる事をダスクに授けたつもりだったが、未だにそれが正しかったのかギーライルには判らなかった。


(…できれば二人には、ただ平穏に過ごしてほしかった)


 そう思ってしまうほど、二人の心根は優しく好ましい。


(願わくば彼らが決して悔いのないように…)


 過酷な運命は決して避けられない。

 ならばせめて後悔のないように生きてほしい。


 教皇ギーライルはただ祈る事しかできないふがいない自分を、ただただ悔やんでいた。

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