それぞれの旅路 ユーリシア編・終四編
(雨が少し弱まった…?)
思ってユーリは洞窟の中からわずかに手を出してみる。桶をひっくり返したような雨がわずかにその勢いを弱めたのか、手に当たる雨は少し小さく心持ち少ない。この洞窟に入る時には豪雨と言っていいほどの大合唱を奏でていた雨音は、耳にわずかばかりの静寂が入る余地を作っていた。
「…あ…!」
雨の様子を窺うために片手を離した所為か、胸に抱くように持っていた木の枝が、からんっと乾いた音を立てて地面に落ちる。ユーリは半ば自嘲するように小さく息を吐いて、落ちた木の枝を見つめた。
ユーリの周囲に、ユーリシアとダスクはいない。そればかりか誰一人なく、ユーリはただ一人洞窟の出入り口に佇んでいる。彼らがちょうど団員たちの服を乾かすために出て行った隙を狙って、ユーリは焚火にくべる木の枝を拾ってくるという体で、あの洞__もとい小部屋を出たのだ。
あそこはとにかく、居心地が悪かった。
別に彼らといる事が苦痛という事ではない。彼らの上半身がいつまで経っても裸のままで、目のやり場に困ったのだ。そうして大いにすり減った精神を回復すべく少し息抜きをしようと洞を出たのだが、ゼオンがちょうど眠っていた事も渡りに船だった。アルデリオが、洞を出ようとするユーリと眠るゼオンを天秤にかけた結果、狼狽しながらもどちらを取るかは明白だったからだ。
そうやって半ば強制的にユーリはようやく一人の時間を得て、わずかに心穏やかになったところだった。
(…魔獣はまた、私たちを襲ってくるのかしら…?)
落ちた木の枝を拾いながら、ユーリはひとりごちる。
この洞窟の出入り口は、今ユーリの目の前にあるここにしかない。それはユーリシア達によってすでに確認済みだ。その一つしかない唯一の出入り口を、ユーリは原始の魔力を使用した結界で塞いである。自分が気を緩めない限り魔獣が入ってくる心配はないが、それでも不安が頭をもたげるのは、ずっとこの洞窟に籠もっているわけにはいかないからだ。
この森を出て、皇王を助けに行かなければならない。そのためには、彼ら魔獣が跋扈するこの森を抜けなければならないのだ。何より、意図せず二手に分かれる事になったカルリナ達の安否が、ユーリの心に不安の種を蒔いた。
(…カルリナさん達は無事かしら?魔獣たちの襲撃を受けていなければいいのだけれど……)
彼らと別れてから、もう四時間半ほど経つ。順調に進んでいれば、雨の所為で行軍が遅れるとは言え、そろそろ森の終わりが見えてきてもいい頃だろう。もう、それくらいの時間が経ったのだ。
本来であれば、森を出たところで昼食を摂る予定だった。だが魔獣の襲撃を受けたユーリたちは、結局この洞窟内で食事を摂る羽目になった。置いてきた荷馬車から持てるだけの食糧を持ってきていたおかげで、当面の食事に困る事は、とりあえずない。それを調理して昼食を摂ったのは、一時間ほど前の事。あと三、四時間ほどの間に雨が止めば、今度は濃い霧が立ち込めて行く手を阻む。このままここで一夜を過ごして明日の早朝に出立するのか、それとも一、二時間でも歩を進める事を優先させるのか、ユーリシア達はまだ決めあぐねているところだった。
(…どちらがいいのかなんて、誰にも判らない…。きっとこれが判るのは、未来が視えるユルンさんだけだわ……)
そのユルングルからの知らせが何一つないのが、もどかしい。彼の体調が芳しくないのか、あるいはこれからの未来に憂慮するものがないために、何も知らせを寄越さないのか。どちらにせよ指標となるものが何一つない事が、ひどく心許なかった。
ユーリは木の枝を拾いながら悄然とため息を落とすと、うなだれたまま立ち上がる。落としたままのその視界に数人の足先が入ってきて、ユーリは弾かれるように顔を上げた。
そこにいたのは、三人の騎士____どれも見覚えのある顔だった。いつも低魔力者である自分に対して不快さを隠すことなく前面に押し出しているその顔は、やはり今も変わらずこちらを見据えるどの顔にも、不快を表すように渋面を深く刻んでいた。
「……私に何か御用ですか?」
どう見ても敵意を表している彼らに、ユーリは臆することなく強い視線を返す。
彼らは高魔力者で、自分は低魔力者だ。彼らが何に対して不愉快に思っているのかも、彼らのあしらい方も、もうすでに心得ている。
騎士たちはわずかな怯えさえ見せないその堂々とした態度を取るユーリに、なおさら不快を強くするように眉間のしわをさらに深く刻んで拳を強く握った。
「……いい気になるなよ…!」
「…何の話です?」
「…低魔力者の分際で、俺たちを救った気になるなと言っているんだ…っ!!」
「低魔力者に守られて、貴方がたの矜持が傷つかれましたか?」
「…っ!?…この……っ!!!」
的を射られて、一人の騎士が怒りに任せるように握った拳をユーリに振りかざす。跳躍するように間合いを詰め、怒りを込めて躊躇うことなく振るったその拳を、ユーリは木の枝を抱いたまま難なくするりと身をかわして見せた。
「…!!?避けるな…っっ!!!低魔力者の分際で…っっ!!!」
「…無茶をおっしゃらないでください」
当たれば間違いなく怪我をすると判っているものを、わざわざ自分から受ける義理はない。
そう言いたげな呆れ顔に、ユーリはため息を一つ落とす。
ユーリシアと剣技の鍛錬をしたおかげで、目だけはやたらと良くなった。彼ら高魔力者の動きですら、ユーリシアの動きを見慣れた今では止まって見える。それほどユーリシアの動きは鋭敏で、目で追う事もやっとなのだ。この程度の攻撃であれば、結界を張るまでもないだろう。
(……何だか、どんどん令嬢とは程遠い技術ばかりが身に付いている気がするわ)
仮にも、未来の皇太子妃なのだ。なのにダンスを踊る事もしとやかな淑女を演じる事も出来ないのに、代わりに身を守る術ばかりが身に付いている。自分で望んだ事とはいえ、何やら土壺にはまっているような気になるのは気のせいだろうか。
「おい…っっ!!!人の話を聞いているのか……っっ!!?」
どうやら己の実情に呆れと嘆きを込めた嘆息を漏らしている間も、彼らは何やら難癖をつけていたらしい。意図したわけではないが、結果的に彼らを無視した形となった事にがなり立てるその怒声に、ユーリは我に返った。
「…ああ、申し訳ございません。少し考え事を……」
「俺たちを舐めているのか…!!?たかが低魔力者ごときが…っっ!!!」
そのどこまでも高圧的な態度に、さしものユーリも眉がぴくりと動く。彼らがいちいち口にする、侮蔑を含んだ『低魔力者』という言葉が、とにかく気に障って仕方がない。ユーリは渋面を刻んで強く眉根を寄せつつも、努めて冷静を装った。
「でしたら舐められないように、わずかの隙もお見せにならないようになさったらどうです?貴方がたは『完璧な高魔力者』なのでしょう?」
「…何……っ!!?」
「避けるな、とおっしゃるのなら、私が避ける事のできない攻撃をすればいいのです。守るな、とおっしゃるのなら、私が守る必要のないほど、強くなればいい。それが出来ないのは貴方がたが弱い証拠ではありませんか。それを私の所為にしないでください」
「!!!?…まるで自分は強いと言いたげな口ぶりだな…っ!!お前のその力など、所詮は持って生まれたもので何の努力もせず手に入れたものだろう…!!」
「…!!?」
「だが俺たちは違う!!!血の滲むような鍛錬を日々怠ることなく続け、努力をして培ったものだ!!!低魔力者の癖に、才能の上に胡坐をかくしか能がないお前とは違うんだよ…っっ!!!」
彼らの言葉が、否応なく心に刺さる。
彼らの言っている事は、確かに間違いではない。この力はすべて、聖女がこの身に宿った事で偶発的に手に入れたものだ。大気の魔力を視る力も、操魔も、そしてこの健康な体でさえ、自分が努力して得たものではない。
それでも、彼らにそれを『努力していない』とけなされる謂れも権利もないのだ。
腸が煮えくり返るような怒りを覚えて、ユーリは睨めつけような視線を送った。
「…それほど低魔力者に守られる事は恥ですか?低魔力者だから自分たちより下なのだと、蔑まなければ気が済みませんか?」
「当たり前だろう!!愚鈍な低魔力者に守られるなど、恥もいいとこだ!!!!たまたま才能があったからと言って、低魔力者ごときがいい気になるな…っっ!!!!」
「でしたら、これからの人生も恥じて生きてください。私は貴方がたが何と言おうと、守る事をやめるつもりはありませんから」
「…!?生意気な口を…っっ!!!」
どこまでも臆することなく凛と告げるユーリの姿に、三人は怒り心頭に発する。堪忍袋の緒が切れて、怒りに任せ振りかざした彼らの拳を何とはなしに視界に留めながら、ユーリは当初これを避けるつもりも結界を張るつもりもなかった。
人を傷つけるという事が、どれほど不快な感触なのか身を持って知ればいい____思ったユーリの考えを変えさせたのは、身の内をぞわりと這う、身に覚えのある感覚だった。
_____これは、聖女の力だ。相手の魔力を奪い尽くす、悪魔の力____。
失念していた。
ここ最近、この力を感じる事がなかった所為だろうか。
この力の発現条件は、相手が高魔力者である事と自分に触れる事_____。
今まさに、その条件が満たされようとしている。
ユーリは旗幟を翻して慌てて結界を張ろうと試みる。避ける動きを諦めたのは、もう彼らが目前まで迫っていたからだ。もともと彼らのこの拳を受けるつもりでいた。だからこそ、初手が遅れに遅れた。結界を張るのが先か、あるいは彼らの拳がユーリの体に触れるのが先か。その髪の毛一本ほどのわずかな差を制したのは、よく通る凛とした声だった。
「そこまでだっっ!!!!!」
洞窟内に響くその声に、彼らの拳がピタリと止まる。その彼らの表情にわずかな怯えが見えたのは、おそらくその声に静かな怒気が含まれていたからだろう。向けたその先に、やはり想像通り眉間にしわを寄せて怒りを表わすように渋面を向けているユーリシア___もといレオリアの姿があって、彼らの表情は怯えから蒼白なものへと変わっていった。
「……そこで何をしている?」
「……わ、私たちは何も___」
「何をしている、と私は訊いた。…まさか何もなしに貴殿らは拳を振り上げるのか?」
「…!!?」
レオリアの気迫に押されて固まったままの自分の姿に、彼らはようやく思い至る。慌てて上げた拳を下げて佇まいを正し、少し遅い威儀を繕った。
「…私は友人だからと特別視するつもりも肩を持つつもりもない。公平に善悪を判断するつもりだ。ユーリに非があると言うのなら遠慮なくこの場で言ってくれ」
「そ……それは……」
言葉尻を濁して、三人はバツが悪そうに互いに顔を見合わせる。
どう詭弁を弄しても、自分たちにこそ非がある事は明白だろう。それは何より自分たちが一番よく判っている事だ。自分たちの矜持を保つために、ユーリを貶めているに過ぎないのだから。
かと言って、どう申し開きをすればいいのか判らず、徒に視線が宙を舞うだけの彼らの耳に小さく息を落とす音が聞こえたのは、痛いほどのレオリアの視線に耐え切れなくなる直前の事だった。
「……彼らと少し話をしていただけです。特別な事は何もありません」
そう彼らを弁明したのは、他ならぬ危害を加えられそうになっていたユーリだ。突然の事に、彼ら三人は揃って目を白黒とさせながら、ユーリの姿を視界に映す。
「…それは本当の事か?ユーリ」
「はい」
「なら彼らが振り上げていた拳はどう説明する?」
「ただ戯れていただけです。もちろん彼らに私を攻撃する意図はありませんし、私もそれが判って身を守る行動を取りませんでした」
真っすぐ前を見据えながら、ユーリははっきりとレオリアにそう宣言する。レオリアは強い視線を送ってくるユーリをしばらく視界に留めた後、ちらりと三人に視線を移した。
彼らの表情には、助けられたという安堵感よりも、低魔力者であるユーリに余計な助け舟を出された屈辱感が強くにじみ出ている。ユーリが彼らを庇って嘘を吐いている事は明らかだろう。それでもユーリにその嘘を覆す気がない事を悟って、レオリアは諦観を込めたため息を落とした。
「……判った。今回はそういう事にしておこう。……今回だけだ、くだらない感情で揉め事を起こしている場合ではない事を胸に留め置いておけ」
念を押すように告げたレオリアの言葉に、三人は硬直する。レオリアの視界に誰が映っているかは明白だろう。それが判って三人はもう一度威儀を正して、逃げるようにその場を去って行った。その背にもう一度ため息を落として、レオリア___もといユーリシアはユーリに歩み寄る。
「…怪我はなかったか?ユーリ」
「……なぜ、お叱りにならないのです?すべて聞かれておられたのでしょう?」
よほど腹に据えかねているのだろうか。いつもの砕けた敬語ではなく、出会った頃の口調に戻っている事にユーリシアは軽く目を瞬く。どうやらユーリはまだ、板についたこの口調が完全には離れていないらしい。
ユーリシアは自分が成り行きを見守っていた事を察しているユーリに、多少決まりが悪そうな笑みを浮かべながら、彼女を宥めるように出来得る限り穏やかな声音で話す。
「…私にはユーリを叱る要素が見当たらないように思うが?」
「……確かに責の多くは彼らにあります。ですが私もまた、彼らを挑発するような物言いをいたしました」
「……そうだな。だがユーリにも言い分があったのだろう?」
「…!」
「言いがかりをつけられたのだから、言いたい事を我慢する必要はない」
ユーリを焚きつけている自覚はあるが、正直彼らの会話を聞いていてユーリシア自身も腸が煮えくり返るようだった。ユーリが見事に切り返してくれたおかげで溜飲を下げたのだから、その事についてユーリを咎めるという事は自分をも咎めなければならない、という事だ。だからこそユーリを許す以外にないのだが、それでも、とユーリシアは少し遠慮がちに言葉を付け加えた。
「……だが、少しだけ気を付けてくれ。身を守る術が手に入ったとはいえ、貴女は女性だ。怪我をしたところは見たくはない」
そのユーリシアの言葉が、胸に痛い。
逆上していたとはいえ、自暴自棄に近い判断をしてしまった。あのままユーリシアが助けに入らずに怪我を負っていたら、きっと後悔していただろう。それは自分の体に傷がつく事に対してではない。ユーリシアの心を深く傷つけてしまう事に対してだ。
ユーリは悄然と肩を落として、愚かな事をしようとした自嘲と、それでもやはり治まらない怒りを吐き出すように口を開いた。
「………どうしても、許せなかったのです」
「…!」
「…確かに私の能力は、私が努力をして授かったものではありません。それでも…!才能の上に胡坐をかいていたわけではありません…!ダスクお兄さまの容赦ない鬼のような訓練に耐えて耐えて耐えて耐えて…!!!」
(……よほど辛かったのだな、シスカの訓練は)
とりわけその部分を強調するように語気を強くするユーリの様子に、ユーリシアはたまらず苦笑を漏らす。その柔らかな外見に反して、シスカの操魔の特訓がいかに厳しいかは、もうすでに周知の事実だろう。
「そうやって…!!今の力をようやく手に入れたのです…!低魔力者だからという理由で、その努力までなかった事にされるのは不愉快です…!!!」
悔しさを隠すことなく前面に押し出して、それでも泣きそうな顔を俯かせながら吐き出すように思いの丈を叫ぶユーリの姿を、ユーリシアは視界に留める。
この悲痛はきっと、この国の低魔力者が皆抱く願いだろうか。
この国は、低魔力者であると言うだけで何も認めようとはしないのだ。
彼らの努力も、才能も、その存在すら、なかった事にしようとする。
_____そうやって消されたのが、実兄であるユルングルだった。
(…それでも、負けないのだな)
ユルングルも、そして今目の前にいるユーリもまた、そんな境遇の中にあって決して諦めないのだ。
どれほど悔しくても、ぞんざいな扱いを受けたとしても、必死に抗い負けないように歯を食いしばっている。
だからこそ、その強さに惹かれて止まないのだ。
ユーリシアは未だに俯いたままのユーリにくすりと一つ笑みを送って、その頭に軽く手を置いた。
「…私が判っている」
「…………え?」
「ユーリがどれだけ努力を重ねてきたのか、私は判っているつもりだ。きっとダスクやゼオン殿、それからアルデリオも認めている。…だから、そんな顔をするな、ユーリ」
思えば剣術の鍛錬をしている時でさえ、ユーリは決して努力を怠らなかった。そして、諦めなかったのだ。挫けそうになっても、どれほど打ち身擦り傷だらけになったとしても、ユーリは決して投げ出さなかった。生まれて初めて剣を握っただろうに_____。
そこまで思って、ユーリシアの思考はぴたりと止まる。
(………待て。生まれて初めて……?)
そう、ユーリは生まれて初めて剣を握ったのだ。それは、ユーリが病弱だったからではない。それももちろんあっただろうが、それ以前に彼女は女性なのだ。その女性に対して、自分はあれだけ容赦のない剣術の訓練を強いたのか____。
ようやくそれに気づいて、ユーリシアは満身創痍となったユーリの姿を思い出す。
この華奢な体躯に、一体どれだけの痣と擦り傷を付けただろうか_____。
(私は何て事を_____っっっ!!!!!)
____(…いいか、俺はちゃんと止めたからな。後でグチグチと文句を言うなよ)
ゼオンの言葉の意味がようやく判って、ユーリシアは冷や汗と共に、己の失態をようやく自覚する。知らなかったとは言え、これほどか弱い低魔力者の女性に、あれほど容赦ない剣術の鍛錬をよくしたものだと自分に呆れてしまう。唯一の救いは、一生消えないような傷跡を残さなかった事だろうか。
みるみる真っ青な顔色になって唐突に冷や汗だらけの顔を背けたユーリシアに、ユーリは訝しげな視線を送って顔を窺うように下から覗き込んだ。
「…?…レオリアさん……?どうしました?」
「……あ……いや、その……!」
無垢な顔でこちらを見上げてくるユーリの顔が、なおさらユーリシアの罪悪感を刺激する。ユーリシアは狼狽しながらも、バツが悪そうに目を背けたまま軽く咳払いをした。
「………その……今さらだが謝罪をさせてくれ……」
「……?」
「……貴女が女性とは知らず、ずいぶんと無茶な剣術の鍛錬を行った……。本当にすまないと思っている……」
「…?どうして謝るのです?あの時できた打ち身擦り傷の数だけ私は強くなったのですから、感謝しているくらいです…!」
またもや無自覚なままユーリシアの罪悪感を突き刺すユーリの言葉に、ユーリシアは撃沈する。彼女に悪気はないのだろうが、この無自覚攻撃は無自覚ゆえに破壊力が凄まじい。
なおさら肩を落とすように意気消沈するユーリシアに、ユーリはただ小首を傾げていた。
**
「…霧が深くなってきましたね」
時刻は夕刻。
次第に雨脚が弱くなり夕刻前に雨が上がって、ゼオンの予想通り霧が立ち込め始めていた。ユーリシア達と別れたカルリナ達は、気温が下がるにつれ次第に深くなる霧に立ち往生していた。
「…どうなさいますか?カルリナ様」
問われたカルリナは、馬の足を止めて周りを見渡す。
もうすでに霧で数メートル先が判然としない。あと少しもすれば隣にいる騎士ですら見えなくなるだろう。この状態でむやみに歩き回れば、方向を見失って道を外れる事は必至だろうか。
(……こうなる事は予想していたが……)
判っていても足を速めなかったのは、いずれ後を追ってきたユーリシア達と合流できはしないだろうか、という期待からだった。魔獣と遭遇した彼らとは違って、カルリナが率いているこちらの隊は、順調すぎるほど順調だった。特に馬車の車輪がぬかるみに取られる事なく進み、もう森の終わりも見え始めている。足を進めていれば、もう今頃は森の外に到着していただろう。
それでもあえてそれをしなかったのは、ユーリシア達と合流するかもしれないという期待と同時に、例え森の中で留まっても魔獣が襲ってこないという確信がカルリナの中であったからだ。
カルリナは、先ほど問うてきたヒューイを軽く一瞥する。
その後ろに控えている二人同様、この事態にも特に狼狽している気配はない。彼らは知っているのだ。このままここに留まっても、魔獣と遭遇する事は決してない事を_____。
そう確信を得るために、カルリナはあえて森の中に留まる決断をしたのだ。
カルリナはヒューイに向けた視線を、そこにいるであろう団員たちに向ける。
「ここから少し行った先に開けた場所がある!!霧が晴れるまで、そこで野営を行う事とする!!!!」
どうか、この決断が間違いではないように_____そう祈りながら、カルリナは馬の手綱を強く握りしめた。
**
雨が止んだのは夕刻前の事だった。
あとわずかもすれば霧が立ち込めると言うゼオンの言葉を受けて、結局ユーリシア達はこの洞窟内に留まり、明日霧が晴れた頃合いに出立する事に決めた。深い霧の中で再び魔獣たちの襲撃を受ければ、間違いなく全滅する可能性が高いだろう、というのが満場一致の見解だった。
ユーリの結界を張っているとはいえ一応の警戒を、という騎士団員___主に高魔力者たちの強い要望により、三人一組一時間交代で洞窟の出入り口での見張り番を設ける事になったのは、ユーリシアにとっても苦渋の決断だった。その時の複雑そうなユーリの顔を思い出しながら、ユーリシアは濃い霧が立ち込める洞窟の外へと視線を向ける。
もう闇に閉ざされ、その霧でさえあるのかどうか判然としない。森の影さえ見えず、ただ目前に広がる闇がユーリシアに暗澹たる気分を植え付けた。
(…この国の魔力至上主義は、あまりに根深い)
生まれた時から彼らは、魔力が何よりも大事だと教え込まれる。それはある意味洗脳に近い。善悪の区別がつかない幼い頃から、そう刷り込まれるのだ。まるでその魂に深く刻み込まれるように何度も何度も同じ言葉を耳にし、低魔力者を侮蔑する大人たちの姿を見ていれば、嫌でもそれが正しい事だと植え付けられるだろう。
____それは、四百年ほど前から始まったと言われている。
まだ太陽王が生きていた千年前、その考えを持つ者は皆無だった。
太陽王の兄である英雄王は低魔力者であったと伝わっているが、それゆえにぞんざいな扱いを受けたという記録はどこにもない。
『低魔力者は能無しである』____そう声高に提唱したのは、四百年ほど前の皇王だ。
それは低魔力者であった兄を貶め、次期皇王の座を奪うための方便だったのだろう。以来、国民たちはその考えに傾倒し、魔力至上主義の考えが浸透していった。
その愚策が、今もこの国を蝕んでいるのだ。
(…我が先祖ながら、情けない)
悄然とため息を落としたところで、ふと洞窟の奥から人の気配がしてユーリシアはそちらに視線を向けた。
「…!……ユーリ。どうした?こんな夜更けに…」
「…レオリアさんが出て行くのが見えて……」
「私はただ見張り番をしているだけだ。順番が回って来たからな」
「……レオリアさんが、ですか?」
目を瞬いて、いかにも指揮官がなぜ、と言いたげなユーリに、ユーリシアはくすりと笑みを返す。
「指揮官でも、必要に迫られれば見張り番でも雑用でもこなす。…負傷者にやらせるわけにはいかないからな。その点、私は健在で丈夫だ。少しくらい眠らなくともどうと言うことはない。…まさに適任だろう?」
そう言って笑うユーリシアの様子に、ユーリは悟る。
きっと、夜の間の見張りを自分から進んで引き受けたのだろう。負傷者を見張り番から外し、なおかつ三人一組となると、どうしても人手は足りなくなる。その上、睡眠時間を削ってしまっては、疲弊した体力がなおさら削られてしまうだろう。責任感の強いユーリシアが、そこまで考えて負担を一手に担おうとする事は容易に想像がついた。
ユーリはそんなユーリシアに小さく諦観のため息を吐いて困ったように微笑むと、有無を言わさずそのままユーリシアの隣に腰を下ろした。
「…!ユ、ユーリ…!?別に貴女が付き合う必要はない…!!私だけで____」
「三人一組なんでしょう?でしたら私も付き合います」
「………っ!」
ユーリの無垢な笑顔に押されて、不承不承と認めてしまった事は言うまでもない。
(…私はこの笑顔に弱い)
こうやって一緒にいられるのは嬉しい誤算だが、彼女の体力が疲弊しないか心配だし、何よりこう近くにいられては自分の心臓が持たない。意識しないようにすればするほど、彼女の体温や吐息が感じられて、胸が痛いほどときめくのだ。
この心臓の音がユーリの耳に届いてやしないかと内心ヒヤヒヤしながら、だがユーリの口から放たれた言葉に一瞬にして鼓動が止むのを自覚した。
「…ユルンさんは、無事でしょうか?」
胸に一筋の痛みが走る。
「………そう……だな……」
何とか、それだけを返す。気のない返事だと自覚はあるものの、それを取り繕う事をしようとしないのは、きっと彼女の口から想い人の名が出てきたからだろう。
これほど近くにいても、彼女の心は遠く離れたユルングルに向けられているのだ。
それを思うと、胸が引き裂かれそうだった。
「………ユルンの事が心配か?」
「……倒れたと聞かされてから、まだ一度も顔を合わせていませんから。……レオリアさんも心配でしょう?」
どうやら沈んだユーリシアの顔を、そう捉えたようだ。
ユーリシアは「ああ」とだけ短く返事を返した。
(………心配でないはずがない、か……)
想い人が倒れたと聞かされて、会いにも行けないのに心配でないはずがない。
他ならぬ自分もそうなのだ。
このような事態になって、ミルリミナに何かしらの火の粉が降りかかってやしないかと、内心気が気ではない。その気質はユーリに似てはいても、ユーリと違ってミルリミナは病弱なのだ。自分の身を守る術があるわけでも、健康な体があるわけでもない。遠くにいて会えないからこそ、心配と不安だけが募っていくのだ。
ユーリシアは、隣に座るユーリをちらりと視界の端に捉える。
ユーリの心はユルングルのもので、自分の心はミルリミナのもの____。
それでいいはずなのに、疼く胸が恨めしい。
その気持ちを吐き出すように小さくため息を落として、ユーリシアは平静を装いつつ会話を続ける。
「……ユーリは、ユルンとは付き合いが長いのか?」
その問いかけには、わずかに逡巡した後、少し躊躇いがちに答える。
「……いえ、まだ三ヶ月半ほどです」
「…!……三か月半……?たった…?」
目を瞬きながら復唱するユーリシアの目には、驚きと共に失意の色合いが強くなった。
三か月半と言えば、自分がユルングルと出会った頃とそう違いはない。それよりもわずかに早く、ユーリとユルングルは出会った計算になる。
思えば出会った頃、ユーリは越したばかりだと言っていた。今のユーリの態度を見るに、具体的な数字を上げた事もあって今言った言葉はきっと嘘ではないのだろう。
_____だとすれば、これほど皮肉なことはない。
ほんのわずかの差なのだ。
ほんのわずかでもユーリと出会ったのが早ければ、ユルングルとユーリが出会う前に出会っていれば、ユーリの心を手に入れる事は出来たのだろうか____?
(……いや、違う。きっとどちらが先かなど関係ない。…ユーリにとって、どれほど短い期間でも惹かれるほどの魅力が、ユルンにはあるのだろう……)
自分にとっても、尊敬してやまない自慢の兄なのだ。女性であるユーリが兄に惹かれても、仕方のない事なのだろう。
それでも_____。
「…それでも、いつか私に本当の姿を見せてはくれないだろうか……?」
ぽつりと呟いて、はたと気づく。
今自分は、心の声などではなく実際に声に出してはいなかっただろうか____?
ユーリシアは慌てて口元を手で押さえて、激しく狼狽した。
「あ…いや……っ!!す、すまない…っ!!!今のは何でもない…!!気にしないでくれっ!!というか忘れてくれ…っっ!!!」
赤らんだ顔を強く振って、なかった事にしようとするその必死さが珍しい。ユーリは、いつも落ち着いて大人びた顔を見せるユーリシアがここ最近特に狼狽えるような様子を見せる事に小首を傾げつつも、素のユーリシアを見せてくれているような気になって、くすりと笑みを落とした。
「私はお約束しましたよ、レオリアさん」
「………え?」
「いつか必ず、自分が誰かを教えると。その時には必ず、自分の本当の姿でレオリアさんに告白しますから、待っていてください」
耳に残った庭園で交わした約束が、ユーリシアの脳裏をかすめる。
あの時、いつか話してほしいと願った自分の言葉に、ユーリは躊躇いもなく必ずと返してくれた。だからこそ自分もまた、待っていると返したのだ。
あの時の感情が蘇って、嬉しさが込み上げてくる。
どうしようもなくユーリを愛おしいと思って伸ばした手がピタリと止まったのは、再び感じたあの言い知れぬ恐怖を背筋に感じたからだった。
「…?レオリ_____」
急に蒼白になって弾かれるように洞窟の外に顔を向けたユーリシアを怪訝に思って、名を呼ぼうと声を出したユーリの口元をユーリシアは手で押さえる。声は出さず、ただ立てた人差し指を口にあてがうその仕草で、身を潜めるように指示しているのが判った。
ユーリは肯定を示すように首肯し、ユーリシア同様洞窟の外へと意識を移す。
そこに広がるのは、ただの闇だけだ。森の影さえ見えず、ただただ闇が広がる、その空間。
その空間に、ぼんやりと何かが見えた。ゆっくりと歩いているように見える、『それ』。暗闇に閉ざされているはずなのに『それ』が認識できるのは、きっとその周囲がぼんやりと明るく見えるからだろう。___いや、実際に明るく見えているのか、あるいはその気配だけを感じて明るく見えている気になっているのかは、もう二人は判然としていない。ただ判るのは、『それ』が人の形を模している事だった。
二人は、目を見開く。
この暗闇の中を、人間が歩くだろうか。それも、魔獣が跋扈する森だと判った上で____。
いや、そもそもこれは人ではない。この気配は紛れもなく、魔獣のそれだ。
『それ』は、人の形を模した魔獣なのだ。
息を潜めて成り行きを見守る二人の存在に気づいたのか、あるいはたまたまなのか、『それ』は唐突に動きを止めてぴたりと歩みを止める。
しばらく動きを止めたままの『それ』の周囲は、やはり仄かに明るい。
まるで、こちらを見ろと訴えるような強い存在感が、二人の腹の底から耐え切れないほどの恐怖を湧き起こさせた。
この心臓の音が、あそこまで聞こえはしないだろうか____。
そんな事が二人の脳裏をよぎった瞬間、緩慢だった『それ』の動きが唐突に変わる。
弾かれるようにこちらに勢いよく向けた『それ』の視線と目が合う。
いや、合っているのかは定かではない。
ただその瞳は血のように真っ赤に染まって、ただただこちらをしばらく見据えた後、また再び歩き出したのだ。




