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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 ユーリシア編・終三編

(…ユーリシア殿下はご無事だろうか?)


 前方の隊を引率しながら、カルリナは心中でひとりごちる。


 伝令から魔獣遭遇との報告があったが、熟考の末そのまま進むことに決めた。その決断が未だに正しかったのかどうか、カルリナには判らない。ただ、どうやら魔獣たちはこちらの存在に気づかなかったのか追いかけてくる気配がない事と、後方にはあのユーリシアとダスクがいるという事もあって、このまま進む方が賢明だろうと判断した。足手まといが増えれば増えるほど、彼ら二人の動きを制限してしまう事への懸念から生まれた判断だった。


「…後方の部隊は大丈夫でしょうか?」


 訊ねてきたのは、あのヒューイだ。

 気づけば残り二人も、いつの間にやらゼオン達の乗る馬車から離れてヒューイに付き従うように傍に来ている。


「…大丈夫だろう。後方にはレオリア様とダスク様がおられる」


 返答しながら、思う。

 まるで計ったようにゼオン達の乗る馬車から離れた二人____その動きはまるで、魔獣襲撃を予測していたようにも感じる。


(…よもや魔獣をけしかけた___という事はないだろうか?)


 魔獣は操れない。そう一般常識として念頭にあるものの、彼らの行動を見ていると、つい邪推してしまう。雨音に紛れてヒューイから微かに漏れる、馬の揺れに合わせて響く鈴の音が、さらにその邪推を助長した。


(……この鈴の音……どうにも気にかかる……)


 鈴の音が聞こえるのが別の人間ならば、特に怪訝に思うことはなかっただろう。この音が聞こえるのが他ならぬ侵入者のヒューイだからこそ、気になって仕方がない。


(そもそも、それほど距離があったわけでもないのに何故前方の隊に魔獣は気づかなかったのだろうか…?)


 まるで見えない何かに守られたように、こちら側に魔獣が襲って来ることはなかったと目撃した騎士から報告を受けている。


 それにこの鈴の音が関連しているとしたら____?

 魔獣除けの魔道具があると言う話は聞いた事がある。どういうものかは知らないが、もしこれがそうなら前方の隊に魔獣が襲ってこなかった事は説明がつく。ある一定の範囲にだけ、その効果が表れるのだろう。


 そして彼らが魔獣をけしかけたかどうかはともかくとして、偶然現れた魔獣を利用してゼオンの命を狙おうと画策したのだとしたら____?

 自分たちは安全圏にいながら、手を汚すことなく目的を達成できるのだ。


(…ただの邪推であればいいのだが……)


 唯一の救いは、残された後方には、あのユーリシアとダスクがいる事だろうか。あの二人がいれば、最悪の状況になる事はまずないだろう。


(私はただ、ご無事を祈るしかない)


 自分が出来る事と言えば、ユーリシアから託された彼らを無事に森の外へと連れて行く事だけ。


 カルリナは次第に雨脚が強くなり始めた空を一度仰いで、天に祈りを捧げるように短く、だがゆっくりと瞼を閉じた。


**


「雨が強くなり始めたな」


 負傷者を乗せた馬を引きながら、ユーリシアは天を仰ぐ。

 葉にポツポツと小さな雨音を響かせていた音は、今や歓声を上げているかのような大合唱を奏でている。おかげで羽織った外套はすっかり雨を吸って重くのしかかり、すでに外套の役目を担っていない。


 ユーリシアは滴る髪を忌々しそうに掻き上げて、隣を歩くユーリに目線を落とした。


「大丈夫か?ユーリ」

「私は大丈夫です。むしろゼオンさんの方が_____」

「女子供に心配されるほど、落ちぶれちゃいないぞ」

「この中で一番体が弱いのですから仕方がないでしょう、ゼオン」

「そうですよ、統括。厚意は素直に受け取らなきゃ」

「お前らな…!」


 こぞって集中砲火を浴びせる皆に渋面を返すゼオンを、ユーリシアは苦笑と共に視界に入れる。決して楽観視できるような状況ではないが、不安や緊張が襲ってこないのは彼らがいつもと変わらぬ様子で戯れているからだろうか。


 ユーリシアはくすりと笑みを落としつつ、だが幾ばくかの心配を含んだ視線をゼオンに送った。


「…だが確かにゼオン殿は病み上がりだからな。この雨の中を歩かせるのは気が引ける」

「言っても仕方がないだろうが。…まあ、安心しろ。倒れたらお前に担いでもらうからな」


 揶揄するような視線をユーリシアに送って、ゼオンはにやりと笑う。


「…!それは…別に構わないが」

「冗談だ、阿呆。お前には冗談が通じんのか?」

「…?遠慮する必要はない。別にゼオン殿を担ぐくらい____」

「だから冗談だと言ってるだろうが!!お前に担がれるくらいなら這ってでも歩くぞ、俺は!!」

「…???」


 担いでもらうと言ったその口で、その舌の根が乾かぬうちに急に担がれることに嫌悪を示すゼオンの言動を、ユーリシアは心底理解できないと言いたげに眉根を寄せて小首を傾げる。それがまたダスク達の失笑を呼んで、くすくすと忍び笑いが雨音に響いた。


「無理ですよ、統括」

「レオリア様は言葉通りに受け取られる方ですからね。揶揄は通用しません。諦めなさい、ゼオン」


 それには苦虫を潰したような顔を返すので、なおさら笑いがこみ上げる。

 よくもまあ、あのシーファスからこれほどまでに愚直な息子が生まれたものだとため息を落とすゼオンに、ユーリもまたくすくすと笑みを落とした。


 そんなユーリを、ユーリシアは小さく一瞥する。


(…彼女も低魔力者だ。平気なわけがない)


 シーツの合間から見えたユーリの髪色は、間違いなく今とそう変わらない黒髪だった。一緒にいるようになってから今まで一度たりとも彼女が病に伏すところを見たことはないが、低魔力者である以上、体が弱い事は確実だろう。だとすれば、この雨に打たれるという事は彼女の少ない体力を奪うに等しい。かと言って、現状この場に雨をしのげる物は何一つ手元にはなかった。


 ユーリシアは考えた末、自身の濡れた外套の端を軽く持ち上げユーリの頭から少し上辺りで、雨を遮る布の壁を作る。唐突に体に当たる雨が止んで訝しげに視線を上に上げたところで、ユーリはいつの間にやら現れた傘代わりの外套がある事に気がついた。


「…!レオリアさん…!私は本当に大丈____」

「いいから。…少しは私に甘えてくれ」


 申し訳なさそうに告げるユーリの言葉を静かに遮って、ユーリシアは顔を前に向けたまま言葉を落とす。


 いつも頼っていたのは自分の方だった。心の弱い自分を、ユーリは嫌な顔一つせず、いつも支えてくれていた。こんな時くらいは頼ってほしいし力になりたいと思うのは、恩返しという意味合い以上に彼女に対する恋愛感情によるものだろう、と思う。それは今しがた、ユーリに向けて言葉を言い放ったにもかかわらず、彼女の顔を直視できない現状が強く物語っているだろうか。


 皆の目がある手前、赤面を晒すわけにはいかない。


 そんなユーリシアの見栄と自分を律する心などお構いなしに、ユーリは屈託のない笑顔をユーリシアに向ける。それもユーリシアにとっては破壊的な威力を持った、天使のような笑顔を____。


「ありがとうございます…!レオリアさん…!」

「…っ!!!?べ…っ、別に…っ!!礼は必要ない…っ!!!私が勝手にしていることだ…!!」


 大いに狼狽えながら、結局晒す事になった赤面を隠すように顔を背けて、被っている外套のフードを目深に被り直す。いちいちユーリの一挙一動に反応してしまう自分が忌々しい。


(…これでは本当に、ミルリミナに顔向けができない)


 自分の心はミルリミナだけに捧げると決めた。それ以外の女性が割って入る事は許されない。ましてや同時に別々の女性に対してそういう感情を向けるなど、あるまじき行為だ。

 ______なのに、この体たらくなのはいただけない。


 不甲斐ない自分に呆れをふんだんに乗せたため息を落としたところで、背けた視線の先に洞窟らしきものが見えて、ユーリシアは後ろに続く騎士団員たちを小さく振り返った。


(……この雨では体力が大きく削られてしまう。それは低魔力者であるユーリやゼオン殿に限った話ではない……)


 元々足場の悪い道に加え、強くなった雨脚の所為で足元がぬかるんでひどく歩きにくい。これだけでも体力は疲弊していくのに、雨に濡れて体が冷えていくとなおさら体力を奪われ、そればかりか先の戦いで負傷した者たちにとっては、馬上にいるとは言えその冷えた体が命取りになりかねないのだ。


 実際、こうやって見渡す彼らの顔には、疲労が色濃く映っている。


(…私の判断が間違っていたのだろうか……?)


 雨が降る事はあの時点で判っていた。それでも進むと決めたのは、他ならぬ焦りの所為だろう。

 あそこで足止めを食うわけにはいかない。そのまま本格的な冬を迎えてしまえば、父を助ける事も謀反が収束を迎える事も難しくなる。___その焦りで、正常な判断ができなかったのだろうか。


 思って、小さくかぶりを振る。


(……今さら悔やんでも遅い。そんな事に時間を費やす方が無駄だ。現状どうするべきかを考える方が先決だろう)


 責めならば後でいくらでも受ける。今自分がするべき事は、彼らの命を誰一人として取り零すことなく、この森を抜ける事だ。そう意を決して、ユーリシアは後ろを歩くダスクに声を掛けた。


「…ダスク。今、魔獣の気配はあるか?」


 魔獣の奇襲があった時、誰よりも早く気がついたのはダスクだった。元々、神官職に就いていた事で、気配を読むことに長けているのだろう。


 その問いかけにダスクは、周囲をわずかに窺って返答する。


「…いいえ、今彼らの気配はありません」

「そうか。…なら少し休憩を取ろう。長丁場になりそうな気配だからな。休める時に休んだ方がいい」


 その言葉に皆、首肯を返して、道から少し外れた洞窟へと足を向ける。岩を掘って作られたその洞窟は、洞穴ほらあなと言うには大きく、洞窟と言うには少し小さな規模の洞窟だった。ユーリシアとダスクが先行して中に入り、安全だと確認できた上で奥まで進む。奥には少し開けた場所があって、そこからいくつもに枝分かれした短い通路のその先に、それぞれ小さく開けた空間が存在していた。それはまるで、小部屋を作ったかのようだった。


「…まるで『家』だな」


 枝分かれした短い通路を進んで入ったその小さな空間で、ぽつりと呟いたゼオンの言葉に皆一様に視線を向ける。


「…誰かが住んでいたと言いたいのか?」

「そんなの俺が判るか。…だがまるで、俺たちのために作られたような気にならんか?」


 にやりと笑って告げるゼオンの言葉に、ユーリシア達は互いに顔を見合わせて洞窟内を一望する。


(……確かに、ゼオン殿の言う通りだ)


 この洞窟の内部が広い一つの大きな空間であれば、きっと暖を取ろうにも冷え切った体に温もりが戻るほどの暖かさを保つ事は難しかっただろう。だが十人ほどの人数が横になるだけの空間しかないこの『小部屋』であれば、焚き火を一つ作って通路に繋がる出入り口を濡れた服や外套を吊るして塞げば、簡易的な小部屋が出来て内部も暖かくなりやすい。それも、まるであつらえたかのように、ちょうどこの人数が入れるだけの小部屋が存在している。


 ゼオンが言うように、自分たちがこうなる事を予見してあらかじめ作られたようにも見えた。


「……だが、誰が……?」


 洞窟内の岩壁に手を触れながら、ユーリシアは誰にともなく問いかける。


「…ユルングル様___ってわけじゃないですよねえ…」

「ええ、そのような時間的余裕はないでしょうし、何よりこの洞窟はずいぶん昔に作られたように見受けられます。ユルングル様ではないでしょう」

「なら誰が何のために作ったんです?」

「……ずっと以前に、獅子の任を受けられた方でしょうか?」


 洞窟内を見渡しながらぽつりと呟いたのは、ユーリだった。思わぬ言葉にユーリシア達は目を丸くして、ゼオンだけが肯定を示すように、にやりと笑う。


「…察しがいいな。獅子の任に就くのは必ず二人、それも片方には予見の力が代々受け継がれているようだからな。もし本当にこの洞窟が俺たちのためにあつらえたのだとしたら、遠い昔、獅子の任に就いた予見者が作った可能性は高い」


 何より、この先の人類の祖となるユーリシアとミルリミナが今この場にいるのだ。獅子の任は彼らを守る事に集約されていると言ってもいい。それが二人が生まれるずっと昔から定められていた獅子の任だとすれば、遠い昔の獅子がユーリシア達の危機を察してここを用意していたという仮説も、それほど荒唐無稽ではないだろう。


「…まあ、憶測の域を出ないがな」

「…貴方は相変わらず面白い仮説を立てますね」

「少ない情報から推論を立てるって事は、想像力を膨らませるって事だ。…諜報員の基本だぞ?アル」

「………なぜ俺に飛び火するんです?」


 急に自分をたしなめるような空気に変わって、苦虫を潰したような顔をするアルデリオにひとしきり失笑を送った後、騎士たちを促しそれぞれの小部屋に入って、暖を取るための焚火を焚く。並行して応急処置だけに留めていた負傷者たちの治療を再開し、ようやく人心地ついたのは洞窟内に入ってから小一時間ほど経った頃だった。


「…雨、止みそうにありませんねえ」


 カーテン代わりの濡れた外套を小さくめくって、アルデリオは外に視線を移す。枝分かれしたこの小部屋は洞窟内部の奥まったところにあるものの、外套をめくればわずかな光とともに一段と大きくなる雨音が、雨の存在を否応なく教えてくれた。


 その雨音に嫌悪を示したのは、何もここで足止めを食うからだけではない。アルデリオは途方に暮れたようなため息を一つ落として、後ろで暖を取るユーリを振り返った。


「…ユーリ、寒くないですか?」


 訊かれてアルデリオに向けたユーリの顔は、ひどく青白い。ユーリ以外の者は皆、濡れた服を脱いで上半身だけ裸の状態だが、さすがに外見が男だからといって中身が女性のユーリがそれをする事も、ましてやしろと強制する事もはばかられた。結果として、ユーリは外套だけを脱いで今も濡れた服を着たまま焚火で暖を取っているのだが、温まったそばから濡れた服によって体温を奪われるので、未だに体は冷え切ったままだった。


「…大丈夫です、アルデリオさん」


 気丈に笑うユーリの顔はやはり蒼白で、焚火にかざす手はカタカタと震えているのが見て取れる。それが判るのに何もしてやれない現状に、アルデリオは二度目のため息を落とした。


「…せめて乾いた布一枚でもあればいいんですけどねえ」


 悄然と呟いたアルデリオの言葉に、返答がひとつ。


「ありますよ、ここに」


 言いながら濡れた外套をめくって外から顔を覗かせたのは、ずっと負傷者の治療をしていたダスクだった。その後ろには、同じく治療を手伝っていたユーリシアの姿もある。


「…遅くなってしまって、すみません、ユーリ…。寒かったでしょう?」


 ユーリの傍まで歩み寄って膝をつくダスクの手にあるのは、つい先ほどまで水分を多分に含んでいたはずのユーリの外套だ。どう見ても乾いているように見えて、ユーリは不思議そうに小首を傾げながら触れてみると、やはりわずかの湿りもない事に目を白黒とさせた。


「………ダスクお兄さま…これは……一体……?」

「魔法で乾かしたのですよ。レオリア様も手伝ってくださったのであっという間でした」

「………魔法……?」


 小さく呟いて、ユーリは乾かしてくれた外套を手に持つ。乾いただけではなく、まるで太陽の下で干していたかのようにほんのりと温かい。


「………凄い……!…魔法はこんな事もできるのですね…!」

「レオリア様の風の魔法に、おれの火の魔法を載せて乾燥させました。他の方の服も後で乾かしますが、まずはユーリとゼオンの服が最優先ですからね」

「…!…俺の服もか?」

「当たり前でしょう、貴方は病み上がりなんですから。また倒れられでもしたら厄介ですからね。さっさと服を着てください」


 言いながら綺麗に折りたたまれたゼオンの服を、押し付けるように手渡す。彼の体調を心配して、ユーリの服と一緒に真っ先に乾かそうと提案したダスクは、だがそれをおくびにも出さず素直ではない対応を見せている。それがいかにも意地を張った子供のようで、ユーリシアは軽く忍び笑いをしてからユーリに声を掛けた。


「…外套の下にはこれを着ていてくれ。私ので悪いが……」


 言って手渡したのは、やはり同じように乾かしたユーリシアのチュニックシャツだ。ユーリは目を瞬きながら、それを受け取る。


「……レオリアさんの服を…私が着てもいいのですか……?」


 その問いかけには明言を避けて、ユーリシアは小さく笑みを見せて肯定を示す。いいも悪いも、むしろ自分以外の男の服をユーリが着る事になるような事態は何が何でも避けたい。そう言いたい気持ちを追い払うように小さく咳払いをして、ユーリシアはユーリを促した。


「さあ、ユーリも早く着替えた方がいい。そのままでは風邪を引いてしまう」

「…!あ……はい…!ありがとうございます…!……………ええと……」

「何をしているのです。さっさと出ますよ」

「…!あ…そうか……すまない……」


 外に出ようと立ち上がったのはダスクだけで、なかなか外に出ようとしないユーリシア達の様子にユーリは軽く狼狽える。ダスクに促されてようやく外に出るべきなのだと気づいたのは、ユーリが長く男の姿でいるおかげで女だという認識が薄いせいだろうか。


(……願ってもない事だけれど、何だか少し複雑だわ……)


 バツが悪そうに出て行く三人の背を見送りながら心中でそう呟いて、ユーリは濡れた服を脱いで渡された服に袖を通す。まるで洗いたてのような心地よさと、鼻をくすぐるユーリシアの匂いが妙にくすぐったく面映ゆい。まるでユーリシアに抱きしめられているような気になってなおさら赤らむ顔を持て余しながら、ユーリはそそくさと着替えて外套を羽織った。


「…終わりました。中へどうぞ」


 言って、吊るしているカーテン代わりの外套をめくるユーリの姿に、ユーリシアは思わず目を瞬いた。


 羽織った外套で隠れてはいても、よく判る。中に着たチュニックシャツは、明らかにユーリの体よりも大きい。どこもかしこも余裕があって、袖は幾重にも折りたたまれてようやくユーリの長さに合わさっている。それがいかにも彼女の華奢な体を強調しているようでたまらない。特に今ユーリが着ているのは、他でもない自分のチュニックシャツなのだ。それはそのまま自分とユーリの体格差を表して、なおさら庇護欲が掻き立てられた。


 目のやり場に困って視線を彷徨わせるユーリシアに、揶揄を込めた視線二つと苦笑を含む視線が一つあることに気がついて、ユーリシアはバツが悪そうに咳払いを一つ返した。


「…魔法って、何でもできるのですね」


 ユーリがぽつりと呟いたのは、ようやく体が温まってきた頃。それにはユーリシアが返答した。


「何でも…というわけではないがな」

「そうなんですか?」


 小さく目を瞬きながらも、ユーリは軽くユーリシアを一瞥するに留める。それは彼が___いや、ゼオン以外の彼らが未だ上半身は何も羽織っていないからだ。平静を装ってはいるものの、ユーリはとにかく目のやり場に困った。


 それを判っているゼオンは内心でくつくつと笑って、答える。


「魔法が何でもできるなら、もっと日常的に魔法を見る機会が増えるはずだろ」

「それは……魔法を使える方が少ないからでは……?」


 魔法を発現できる者は、このフェリシアーナ皇国に限らず世界的に見てもかなり少ない。高魔力者の中でもさらに魔力の高い者だけが、魔法を扱えるという。

 魔力を全く持たないユーリが知っている事は、たったこれだけ。それ以上はおろか、魔法というものが具体的にどういうものかすら知らなかった。それはユーリがものを知らないわけでも、魔力を持たないからでもない。ユーリが今言った通り、魔法を扱える者が希少だからだ。


 そのユーリの言葉に肯定を示しながら、今度はダスクが言葉を言い添える。


「それもありますが、魔法というものは非常に効率が悪いからですよ」

「…!………効率が……悪い……?」

「…魔法というのはな、ユーリ。使うとかなり体力を奪われる」

「……え?」


 珍しいユーリシアの苦虫を潰したような表情に、ユーリは目を白黒とさせた。


「それはもう根こそぎ体力を持って行かれるような感覚と言ってもいい。服を乾かす程度の風ならどうという事はないが、物を浮かすほどの強風を起こそうものなら、丸一日は動けなくなる亅

「…!……そんなに…?」


 驚嘆を落とすように目を丸くするユーリに、ユーリシアはどこか自嘲めいた笑みを返した。


 魔法というのが、いかに体に負担を強いるのかを実感したのは、他ならぬ聖女に体を乗っ取られた時だ。あの時、聖女はユーリシアの体を何一つ憂慮する事なく魔法をふんだんに行使した。幸か不幸かあの時は聖女の花園に捕らえられたおかげで七日後に目覚めたわけだが、それがなければきっと七日の間、満足に体を動かす事はできなかっただろう。


 それだけ魔法は、体を酷使するのだ。


「だから効率が悪いのですよ。誰も使いたがらないし、なくても特に困るものでもない。時間をかければ服は乾きますし、火を起こすのなら薪に火種を落とせばいいだけですからね。労力に見合う成果が得られないのです」

「それは……確かにそうですね」

「重宝するのは今のように手持ちがなくて切羽詰まった時くらいだな。なくても困らないが、あったら便利という程度のものだと思ってくれていい」


 そのユーリシアの言葉に、ユーリはわずかに残念そうな表情で「そうなんですね」と小さくこぼす。魔法と聞くとまるでお伽噺に出てくるような幻想的なものを想像するが、どうやらそれは夢物語らしい。


 何となく期待を裏切られたような気がして落胆を込めたため息を落とすユーリを、ゼオンはくつくつと笑って言葉を言い添えた。


「残念だったな。まあ、魔法ってのは主に戦闘で使うものだ。そんな夢のあるようなもんじゃない」

「……?戦闘で…?…ですが先ほど、それほど強い効果は出せないと……?」


 言ってユーリは小首を傾げる。

 つい先ほど、服を乾かすので精いっぱいだと聞かされたばかりだ。なのに、その程度の風でどう戦闘に使うと言うのだろうか。ましてや威力を増そうと無茶をすれば、戦いの最中に倒れることだってあり得るだろう。そんなものがどう役に立つのかと怪訝そうに眉根を寄せるユーリに、ユーリシアはくすりと笑みを落とした。


「…使い方が違う。見ていてくれ」


 言いながら焚火にくべてある小さめの薪を取り出して、ユーリシアはおもむろに短剣を手に持つ。持った瞬間、その短剣に薄く霜が降ったような気がしたが、よくは判らなかった。それはユーリシアがすぐさま、手に持つ薪を両断するために短剣を勢いよく振ったからだ。その瞬間、暖かくなっていたはずの洞窟内に一筋の冷気の風が吹き抜けた。勢いよく燃えていたはずの焚火は一瞬揺らめいて、わずかに規模を小さくした後、また元の火力に戻る。


「……おい…!少しは加減をしろ…!」

「……すまない。…これでも加減をしたつもりなんだが……」


 寒そうに外套を寄せるゼオンに申し訳なさそうに謝罪するユーリシアの手にあるのは、見事に両断されて半分の長さになった薪___それも、立派な氷が薪を覆っているという、おまけ付きだ。


「……凍ってる……どうして……?」


 落ちた薪入りの氷を拾いながら、ユーリは呆然自失と問いかける。それに笑みを返して、ユーリシアは答えた。


「今私が、この短剣に魔法を載せたからだ」

「魔法を……載せる……?」

「武器に属性を付与する、と言った方が判りやすいだろう。…魔法には属性がある事を知っているか?」

「…はい。確か『火』『水』『氷』『風』『地』の五大属性と『聖』『魔』の希少属性があると聞いた事があります」

「ああ、魔法には必ずこの七つの属性がある。私が扱えるのはこのうち『氷』と『風』だけだ。今しがた私は、この短剣に氷属性を付与した。これならば、それほどの労力を必要とする事なく魔法の威力を増大できる。今も昔も、魔法の使い方として主流なのはこれだな」

「……だから戦闘で使われるのですね」


 感嘆に似たため息を落としながら、ユーリはふと思う。

 今自分が着ている外套とユーリシアの服____これらを乾かすのに、ユーリシアの風魔法とダスクの火魔法を使ったのだと言った。それは単純に、他属性を一度に使っては体力が消耗するせいなのだと思ったのだが、ユーリシアの口ぶりから察するにどうやら違うのだろう。


 ユーリは小首を傾げながら、少し遠慮がちに訊ねる。


「レオリアさんは『火』属性の魔法は使えないのですか?」

「相反する属性は使えないのだ」

「……え?」

「私が使えるのは『氷』と『風』。その対極に当たる『火』と『地』はどうあっても使えない。……例外がいるようだがな」


 言って、ちらりと視線を寄越したのはダスクへだ。その視線に、ただ黙って困惑を含んだ苦笑を返すダスクに、ユーリは目を瞬いた。


「…ダスク兄さまは全ての属性を使えるのですか?」

「…全てではありません」

「『聖』と『魔』以外なら全て使えるぞ、こいつは。もちろん対極云々の話はこいつには通用しない」

「……人をそんな人外みたいに言わないでください」

「人外じゃないが、お前は獅子だろ。これはおそらく獅子の特権だろうな」

「……何ですか?その特権って……」


 苦虫を潰したような渋面を取るダスクに、ゼオンはにやりと笑う。


「お前は『世界の意思の体現者』だからな」

「…!」

「魔法の五大元素は言わばこの世界を構成するものだ。『世界の意志の体現者』が五大元素すべてを使えても不思議じゃない亅


 そのゼオンの返答になおさら強く嫌悪を示すので、ゼオンはたまらずくつくつと笑う。

 彼は自分に対する賛辞を聞くことも、こうやって特別視される事も大いに嫌う。それが判っていてもゼオンがそれを執拗にするのは、人に寄り添う獅子として生まれたせいで思うように嫌悪を示せない彼が、唯一自分の前ではそれを当たり前のように示してくれるからだろう。


 アルデリオは、そんな己の主の不躾な態度をたしなめるように軽く肘で突くと、苦笑を交えつつわざとらしく話題を変えた。


「でも先生でも『聖』と『魔』は使えないんですね…!」

「…『聖』と『魔』はかなり希少ですからね。この二つは他の属性とは違って、魔力量に関わらず先天的に持って生まれるといいます亅

「…?魔法なのに、魔力量は関係ないのですか?」

「ええ、例えば治癒能力者が『聖』属性の保持者にあたります。彼らは魔力量に関わらず、生まれ持って治癒能力を保持しています。現存する治癒能力者は三人。いずれも教会に所属しておられますが、うちお一人は低魔力者でありながら、三人の中で治癒能力が随一と名高いお方です」

「どういう方なのですか?」


 興味津々と言った感じで目を爛爛らんらんとさせるユーリに、ダスクは困惑したように眉を八の字に寄せる。


「…残念ながら皆さん世界中を飛び回っておられるので、おれでもお会いした事はありません。ですがとても聡明で物腰柔らかく、とても穏やかな方だと聞き及んでいますよ」

「……ダスク兄さまみたい……」

「…!…いえ、おれはそういう人間では___」

「そうですよ、先生は自覚のない鬼___」


 そこまで言ったところで、じとりとした視線を感じたアルデリオは、慌てて口を噤んで取り繕う。


「口がすべった…じゃなくて、そう…っ!冗談ですよ…!冗談…!え…っと…では『魔』属性の保持者は?今、何人いるんです!?」


 狼狽したまま慌てて話題を変えるために出たアルデリオのその質問に、ダスクとゼオンは一度顔を見合わせて複雑そうな表情を取った。


「……『魔』属性の存在は確認できているらしいのですが、未だかつて『魔』属性の保持者がいたという話は過去を遡ってもありません」

「…!……過去を遡っても……?なら歴史上『魔』属性の保持者は存在した事がないという事か?」

「…不思議だろ?『魔』属性保持者がただの一人も存在した記録がないのに、『魔』属性自体の存在は確認されているって言うんだからな」


 不思議どころか矛盾も甚だしい、とユーリシアは思う。

 『魔』属性の保持者が歴史上ただの一人も存在した記録がないのに、一体何をもって『魔』属性の存在を確認できたのだろうか。

 思って、ふと心に引っかかる。


(……待て。『魔』属性の保持者が歴史上ただの一人も存在した記録がない___つまり、存在を確認できたのは人ではない……という事か……?)


 そうしてユーリシアは、ぽつりと呟く。


「………魔獣…?」


 その言葉にゼオンは、にやりと笑った。


「…ご名答。『魔』属性の魔法はごく一部の魔獣が持っていると言われている。…と言ってもかなり稀だ。そもそも魔獣の生態に関してまだまだ謎が多いからな。研究が遅々として進まないから正確な情報が乏しい。最後に『魔』属性の魔法を持つ魔獣が確認されたのは、今から約四百年ほど前か」

「…!四百年…!」


 それにはダスク以外の皆が目を白黒とさせた。そうしてユーリシアだけが、得心したように頷く。


「…なるほど、それでゼオン殿は先程『統率者』という表現を使ったのだな?」

「…お前は時々、兄貴譲りの直感が働くな。さすがは兄弟というわけか」


 なぜだかゼオンのその言葉が妙にくすぐったく面映ゆい。自分に兄がいると知ってから、まだ二か月半と少し。弟という立場にまだ慣れていないのだろう、と思う反面、あの多才な兄の才能の一端がわずかでも自分に受け継がれているのかと思うと嬉しくてたまらない。


 それを悟られまいと平静を装いつつ、仄かに赤らんだであろう顔を隠すように小さく背けて、照れ隠しに軽く咳払いをする。そんなユーリシアの内心を悟ってゼオンはくつくつと笑ってから、まだ意を得ていないダスク達に釈義しゃくぎを始めた。


「…人間とは違って獣には属性がある事は知っているだろう?例えば犬や猫、狼といった哺乳類には『火』、空を飛ぶ鳥類には『風』といった具合に属性があるのが普通だ。…まあ、今大雑把に分類しただけで例外はあるがな。…さて、ここで質問だ。もし魔獣にも属性があるとすれば何だと思う?」


 それには考えるまでもないと言いたげに、ダスク達三人顔を見合わせて申し合わせたように答える。


「魔、ですね」

「馬鹿でも判る質問だな。…まあ、本当に魔獣に属性があるのか、あるいはあっても『魔』かどうかは定かではない。そうだろう、と言われているだけだ。…さて、ここで二つ目の質問だ。魔獣に『魔』属性があると仮定する。奴らを統率できる存在がいるとすれば、どんな存在だと思う?」

「……どんな…?」


 この質問には、皆一様に小首を傾げた。そもそも魔獣を操る事は出来ない。それを操れる者がいるとすれば、それこそ歴史を揺るがす事態だろう。その者が善か悪かによって、世界の行く先は決まるのだ。そんな存在がいては困るし、いると仮定する事すら正直、はばかられるほどだ。


 その不安を如実に表すかのように渋面を示す彼らに、ユーリシアは言葉を言い添えた。


「間違えるな。操るわけではない。統率しているのだ」

「…?違いがよく……?」

「彼らはその意思に関係なく操られているわけではない、という事だ。付き従うべき相手に従っていると思ってくれ」

「……付き従うべき相手………」


 誰からともなく呟いて、ようやく皆、得心を得たように目を見開く。

 ここで、先程の話に繋がるのだ。


「『魔』属性の魔法を使える者、ですね」


 ダスクの言葉に、ユーリシアとゼオンは首肯を返した。


「自分が使える属性と獣の属性が合えば、ごく稀だが従わせる事も可能だと言う話は聞いた事があるだろう?」

「…ええ、時折獣に好かれる者がいて、彼らは『猛獣使ビーストテイマーい』と呼ばれておりますね」

「…基本的に魔獣に知能はない。奴らはただ獣と同じく本能に従って動くだけだ。それは『魔』属性の魔法を行使する魔獣も変わらない。だから例え従わせる事が可能であっても、統率する、という考え自体はない____はずなんだがな……」


 言葉尻を濁して、ゼオンは口を噤む。

 実際、四百年ほど前に確認されたその『魔』属性の魔法を行使する魔獣は、ただ魔法が使えるというだけで魔獣を統率したという記録はない。それ以前も『魔』属性の魔法を持つ魔獣の存在を記した文献はあるものの、やはり統率していたという記載はどこにも見当たらなかった。


(…だが奴らの動きは、明らかに統率された動きだ。つまり___知能を持つ魔獣がいる、という事か?それも厄介な事に、『魔』属性の魔法を持ち、奴らを従わせる事ができる魔獣が____)


「…ゼオン殿……?どうした、何か気になる事でもあるのか…?」


 声を掛けられて、ゼオンは、はたと我に返った。

 いつの間にやら熟考していたのか押し黙ったままのゼオンの様子に、皆一様に不安げな表情を送っている。


「…いや、何でもない」


 軽くかぶりを振ったものの、ゼオンの心に一抹の不安が波紋を作った。


 『魔獣』とは、魔の属性を持つ獣の事だ。獣だからこそ、彼らに知能はない。どれだけ力があったとしても彼らは本能のままに動くだけ。だからこそ今までこの世界は、魔獣に蹂躙される事なく存続することが出来た。


 だが、魔獣に知能を持つ者が現れたとしたら___?

 それも『魔』属性の魔法を持ち、彼らを従える事ができる魔獣に、だ。


 そしてそれは本当に、『魔獣』と呼べる存在なのだろうか?

 獣だからこそ、彼らに知能はないのだ。

 知能がある、ということは______。


 その先の言葉を呑み込んで、ゼオンは再びかぶりを振った。


 魔獣が生まれる理由も過程も、まだ何も判ってはいない。ここでどれだけ考えたとしても、それはただの憶測に過ぎないのだ。


(…憶測で、無駄に不安を煽るべきじゃない)


 これはまだ、自分の胸の内にだけ留め置くべきだろう。

 だがそれでも、注意を促す事だけはやめてはならない。予定よりも行軍はかなり遅れている。まだ当分の間この森に留まる必要がある以上、彼ら魔獣の存在に対して警戒を怠るわけにはいかないのだ。


 ゼオンは意を決したように、不安と怪訝の視線を寄越してくる三人の顔を見渡した。

 そうして、告げる。


「…奴らはきっと再び俺たちを狙って来る。…いいか、絶対に気を緩めるなよ」


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