表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

125/150

それぞれの旅路 ユーリシア編・終一編

「あそこを抜ければ、ようやくソールドールだな」


 馬上で告げて、ユーリシアは目の前に広がる深い森を視界に入れる。

 うっそうと生い茂る森に強く西日が差す様子は、まるで来る者を拒むような何とも言い表し難い不気味な佇まいを見せている。その言いようのない恐れを抱かせる深い森を、皆一様に固唾を呑んで見つめていた。


 皇都を出立してから十一日目。進軍を続けてようやくたどり着いたソールドールへと至る森が眼前に広がる。ここを抜ければ目的のソールドールはもう目の前だが、この森が一番の難関だった。


 ここは、魔獣が棲みつく森だ。

 結界を張った道であれば魔獣を警戒する必要などないが、残念な事にその道を使うという選択肢はない。結果的に魔獣が跋扈ばっこする道を進むしかないのだが、森を抜けるまでに要する時間は特に問題がなくても六時間だ。中に滞在する時間が長くなればなるほど、魔獣と遭遇する可能性は高まる。遭遇する魔獣によっては、最悪騎士団が壊滅に追いやられる可能性もある。ましてや対魔獣戦に慣れているソールドールの傭兵や騎士団でさえ、魔獣討伐に成功したと言う話は聞かない。それはつまり、どれほど魔獣の特性や弱点を知ろうとも、魔獣を討伐する事は不可能だという事だ。


(…その彼らが追い払うだけで精いっぱいなのに、初めての魔獣戦で私や彼らだけで追い払うまでに至るのだろうか……?)


 遭遇しない事が一番なのだ。魔獣に遭遇しない、という幸運でもなければ、おそらくこの森を突破する事は不可能に近い。遭遇すれば壊滅か、よくても大半の騎士団員を犠牲にして、半数に満たない団員だけが命からがら虎口ここうを脱するだけでもおそらく御の字なのだろう。


 そう思う反面、それほど危機的状況になるのなら、未来の視えるユルングルから何かしらの一報があるのでは、という期待もある。それがないという事は、そこまでの危機的状況には陥らない、という事ではないのだろうか。


 思って、ユーリシアは小さくかぶりを振った。


(…いや、ユルンを当てにしてはいけない。彼らが無事ソールドールに着いたと言う確証さえないのだ。安心だと油断すれば、いざ問題が起きた時その対処が遅れてしまう……)


 いついかなる時でも、何かが起こると想定しなければならない。

 常に最悪の事態を想定し、想像できる限りの状況をすべて頭に叩き込んで、ありとあらゆる準備を行う必要がある。そうでなければ、この森を突破することなど無理なのだ。


 ユーリシアは己を戒めるように、今一度眼前に広がる森を視界に入れた。そうして、凛としたよく通る声で高らかに告げる。


「明日あの森を抜ければ、ようやく我々の目的地であるソールドールに到着する!!今日はここで野営をし、十分に英気を養え!!!」


**


(……明日は誰一人欠けることなく、あの森を抜けられるのだろうか……?)


 天幕を軽く開いて、ユーリシアは不安を押し殺しながら、すっかり闇に閉ざされた森を視界に入れる。その姿を見ることは叶わなかったが、星空を切り取ったように闇が広がるあの場所に、森はあるのだろう。


 野営を取ったのは、森から一キロほど離れた場所。果たしてこれが安全な距離なのかさえ、ユーリシアには判らない。何もかもが手探りで進むしかない現状にいい加減、嫌気が差して、ユーリシアはたまらず嘆息を漏らした。


 そのユーリシアの視界に、ひょっこりと顔を覗かせるユーリの顔が唐突に入って来て、ユーリシアはたまらず目を瞬く。


「…レオリアさん、大丈夫ですか?」

「…?…な、何のことだ…?」

「今日は一日、ずっと険しい顔をしています」


 言って、自分の眉間に人差し指を当てるユーリの姿に、ユーリシアはどきりとする。


 自分の想いを知ってからというもの、どうにもユーリを直視する事が難しくなった。諦めようと決めたが、それほどすぐに気持ちを切り替えられるほど、自分は器用ではないらしい。おかげで、ユーリが見せるすべての仕草が愛らしく思えて仕方がない。小さな体で細細こまごまと忙しなく動く様が小動物を彷彿とさせて、その愛らしさに思わず抱きしめたいという衝動に駆られてしまう。


 ユーリシアはその衝動を人知れず抑えながら、おそらくは赤らんだ顔を隠すように口元を抑えて、ふいっと顔を逸らした。


「……いや、大丈夫だ……明日はあの森を抜けるのだと思うと、つい気が張ってしまって……」


 半分は本当の事で、もう半分はまったくのでまかせだ。


 ユーリは『今日一日』と言ったが、そうではない。ここ最近は意図的に険しい表情を取るように努めている。そうでないと、ユーリを見るたび頬が緩むのを許してしまうからだ。確かにあの難解な森を抜ける事を考えると頭が痛いのは事実だが、それ以上に騎士団員たちの前でみっともない姿を見せるわけにはいかない。見栄と理性で何とか平常心を保っているに近かった。


 そんなユーリシアの無駄な努力など知る由もなく、ユーリもおもむろに、そこにあるであろう森へと視線を寄せた。


「…魔獣が出る森……なんですね?」

「…!……ああ、あの森の中では何が起こるか判らない……ユーリは必ず、私かダスクの傍についていてくれ」


 ユーリはそれに首肯を返す。


 あの森に彼女を伴って行かなければならない事実が、何より耐え難い。あそこはどこよりも危険な場所だ。ある意味では戦場よりも危険だと言ってもいい。どうにか彼女を含む数名を、結界を張っている道から行かせられないものかと思考を巡らせてはみたが、どれほど考えてもやはり自分とダスクが傍にいる状況が何よりも安全だと言う結論に達した。


(……何よりユーリが素直に言う事を聞くとも限らない……)


 周囲に危険が及ぶと判れば、ユーリは自分の身を顧みず無鉄砲に飛び出す癖がある。それが判っている以上、目が届く範囲にいてくれる方がすぐさま駆けつけられるだけ、ずっといい。


 諦観を込めたため息をユーリシアが落とすと同時に、やはり森から視線を逸らすことなくユーリは言葉を続ける。


「……魔獣って、何なんでしょう?」

「…?何って……未だにその生態は明らかになってはいないからな……」


 魔獣の亡骸があれば研究が進むのだろうが、残念な事に未だかつて魔獣を討伐したと言う話はおろか、寿命を終えた魔獣の亡骸が見つかったと言う話すらない。歴史上、魔獣の生態を探ろうと奔走した学者は数知れずいたが、やはり魔獣の生態は依然として謎のままだった。


 判っている事は、二つ。

 一つは魔獣が必ず死の樹海から生まれる事。

 そしてもう一つは、寿命が尽きることを悟ると必ず死の樹海に帰っていく、という事だ。


 彼らは必ず、死の樹海で生まれ、死の樹海で死を迎える。だからこそ、その亡骸を得ることは難しい。難しいからこそ、何千年経った今でも彼らの生態は謎に包まれたままなのだ。


 魔獣が何者であるのか___その答えを知るのは、おそらく神と呼ばれる者だけだろうか。


 それを承知しながら、それでもユーリには心に引掛かるものがあった。


「……なぜ彼らは、人間を襲うのでしょうか?」

「………え?」

「魔獣はどうあっても人間を襲おうとします。まるでそれが定められたことのように」


 ユーリの言葉に、ユーリシアは軽く思案するような仕草を見せる。


「……確か千年前、まだ太陽王がご存命の頃に魔獣との共存を提唱して、彼らへの攻撃の一切を禁止にする法を作っておられたな」


 ____いわゆる、『魔獣保護法』だ。


 それは太陽王が世界を統一した後の話。

 魔獣が人間を襲うのは人間を敵だと認識しているためだと考えた太陽王が、魔獣を保護する法を作った。人間からの敵意が途絶えれば、いずれ共存も可能ではないのか____それがいかに甘い考えだったと理解するのに、二十年かかったと言われている。


 どれほど敵意がない事を示しても、魔獣たちに寄り添おうと努力しても、彼らの態度が変わることはなかった。当時はまだ大陸にいたと言う精霊や獣人たちの力を借りても、それを成し得ることは難しかったと伝わっている。


 それは彼ら魔獣と、意思疎通を行う事が一切できなかったからだ。


 神獣とも意思疎通ができると言われていた精霊や獣人たちでさえ、彼ら魔獣の意思を理解する事は叶わなかった。彼らはただ半狂乱に鳴き叫び、まるで本能に従うように人間たちを襲うのだ。


 二十年の間に魔獣に街を焼かれ、死に絶えた者の数は計り知れない。

 太陽王唯一にして最大の愚策と言われる所以ゆえんだった。


「…魔獣と人間は相容れないのだろう。なぜ人間を襲うかなど、考えても意味のない事だ」

「……そうでしょうか?」

「…!」

「精霊たちが意思疎通を試みた時、彼ら魔獣はただ半狂乱に鳴き叫び、思考は支離滅裂だった、と伝わっています。彼らも____魔獣たちもまた、苦しんでいるのではないでしょうか?」


 初めて魔獣の話を耳にした時、半狂乱に鳴き叫ぶ姿を想像して、幼心に『可哀想』と思った。


 半狂乱になるほど、彼らは鳴き叫ぶのだ。

 理性を保てないほどに、鳴き叫ぶのだ。

 それが、苦しくないわけがない。


「きっと彼らは私たちに_____」

「ユーリ、それ以上は考えるな」


 ユーリの言葉の先を、ユーリシアはぴしゃりと奪う。


「私たちは明日、その魔獣が棲みつく森に足を踏み入れる。いらぬ情を持てば、いざという時、躊躇いが生まれるぞ」

「…!」


 虚を突かれて、ユーリは大きく目を見開いた。その見開いた目で見据えた先には、毅然とした態度の中に、どこか申し訳なさが窺える複雑な表情を落とすユーリシアがいる。


(…ああ、そうだわ……ユーリシア殿下の仰る通り……私から生まれた躊躇いで、騎士団員の方々の誰かが命を落とす事だってあり得る……)


 単独行動をしているわけではないのだ。

 集団で行動をする、という事は自分の言動に責任を負わなくてはならない、という事____。


 それに思い至って、ユーリは恥じ入るように顔を俯かせた。


「………すみません……私……」

「…いい、謝るな、ユーリ。君が___貴女の心根が優しい事は重々承知しているつもりだ。…だがどうか、その優しさを向ける相手を間違えないでくれ」

「………はい」


 やはり悄然とうなだれたままのユーリの姿に、ユーリシアの胸がひどく疼く。このまま泣かないでくれと、心中で思わず懇願するようにひとりごちてしまうのは、おそらく数日前に彼女をひどく泣かせてしまったからだろうか。


 何とも居心地が悪くなってバツが悪そうに視線を逸らしつつ、それでも泣いてやしないかと気になって小さくユーリを一瞥したユーリシアの視界に、彼女が手に抱えている服がようやく目についた。


「……………服…?……着替えるのか……?」

「あ…!いえ、ちょうど湯浴みをするところで……!いつもダスク兄さまが気を遣ってくださって、湯を張ってくださるのです…!」

「………………なら、私は外に出よう」


 わずかに硬直した後、ユーリシアはぶっきら棒に告げて足先を外に向ける。なぜかその声音も表情もひどく強張っているような気がして、ユーリは小首を傾げた。


「…?…湯浴みの場所はいつも通り仕切りを作っていますので、天幕の中にいても大丈夫ですよ?外は寒いですから、天幕の中に____」

「い、いや…!これくらいの寒さなら、どうという事はない…!……ちょうどカルリナと話す事があったから、少し外に出てくる…!」


 何やら耳まで紅潮させながら、ひどく狼狽して逃げるように天幕を出ていくユーリシアに小首を傾げつつ、ユーリは彼の背にただ肯定を返した。



(……いくら仕切りがあっても、湯浴みをする女性と同じ天幕の中にいられるわけがないだろう…!)


 ましてやその相手は、惚れた女性なのだ。水音がするたびに心臓が飛び上がりそうで、とてもではないが平常心を保てる自信がない。


 ユーリシアは紅潮して火照った顔を冷たい外気で冷やしつつ、適当に向けた足先にカルリナの姿を見止めて、何とはなしに安堵した気分になる。


「…カルリナ」

「…!レオリア様、どうかなさいましたか?」

「…いや、皆の様子を見に来たのだが…」


 まさか惚れた女性の湯浴みを思わず想像して、いたたまれなくなったから逃げてきた、などとは言えまい。

 バツが悪そうに一度小さく咳払いするユーリシアに怪訝な視線を送りつつ、カルリナは威儀を正して告げる。


「では私もご一緒いたしましょう」


 ユーリシアは一つ頷いて、カルリナを伴い歩みを進める。

 もうすべての天幕を張り終わり、外にいる騎士団員はまばらだ。皆、天幕の中にいるか、あるいは外にいる者たちも暖を取るための焚火を囲って、思いのほか談笑を楽しんでいる。


「意外に彼らは落ち着いているようだな」

「はい。何せ彼らはもうすでに、魔獣に等しい強さを有する皇太子殿下と剣を交える覚悟をいたしましたから。今ここであの森に怯えても詮無い事でしょうし、体力を疲弊するだけ無駄だと判断したのでしょう」

「………………私は魔獣か?」

「これは失言をいたしました」


 心外だと言わんばかりに軽く眉根を寄せるユーリシアに、カルリナはくすりと小さく笑ってこうべを垂れる。

 真面目なカルリナでも冗談を言う時があるのかとユーリシアも小さく笑い返して、何とはなしに目線を前に戻したその視界に、唐突に違和感が飛び込んできた。


 願いの街イーハリーブを発ってから、ずっともやがかかったように胸の内に存在してきた、小さな違和感。

 その答えとなる光景が、今間違いなく眼前にある。


 ユーリシアはそれらを強く見据えたまま、後ろに控えるカルリナに静かに告げる。


「…カルリナ、ただ黙って私についてきてくれ。何かに気づいても決して表情には出さないように」

「…?……承知いたしました」


 怪訝に思いつつ、カルリナは承諾の意を示す。

 そのまま足を進めるユーリシアに黙したまま追従し、その足が止まった先でなおさら内心で小首を傾げた。


 ユーリシアが足を止めた場所は、三人の騎士団員が焚火を囲って談笑している場____取り立てて不審なものは何もない。怪訝に思いはしたものの、言われたようにそれをおくびにも出さず、カルリナは黙して成り行きを見守った。


「…ずいぶんと楽しそうだ。私も歓談に混ぜてもらっても構わないか?」

「…!レオリア様…!?そんな……恐れ多い…!」

「恐縮する必要はない。私はただの雇われ指揮官だ。…それともやはり私はまだ嫌われ者か?」

「…!?いいえ…!滅相もございません…!」


 ユーリシアの姿を見止めてすぐさま立ち上がり威儀を正した三人は、思いもよらない言葉に三者三様、慌ててかぶりを振る。その様子に、ユーリシアは軽く失笑を返した。


「すまない、今のは意地の悪い言い方だったな。…謝ろう」

「い…いいえ…!」


 ほっと胸を撫で下ろしながらも、どこか落ち着かないのか三人は互いに目線を合わせつつ戸惑いを見せている。その様子に、特に疑問に思う余地はない。


 本人は『雇われ指揮官』と卑下したが、彼は皇王が推挙した正式な指揮官だ。その身分でさえ、あのラジアート帝国皇弟の従者であり侯爵位というかなり高い地位にある。賓客でもあり爵位も高い彼に恐縮して、戸惑いを見せる事はごく普通の反応だろう。


(…殿下がお気づきになられた事とは、彼らの事ではないのか……?)


 思ったカルリナの耳に、信じがたいユーリシアの言葉が届いた。


「…ところで、貴殿らの名を訊ねてもいいだろうか?」


(…!?)


 思わず目を見開こうとした表情を、カルリナは何とか抑える。

 この台詞は、ユーリシアが決して口にすることはない言葉だ。


 そんなカルリナの動揺を知る由もなく、三人の騎士団員たちは慌てて威儀を正しこうべを垂れた。


「これは…!無作法をいたしました…!私はヒューイ=ヒューストンと申します」

「私はフォン=ド=アリセラと申します」

「私はアンドレア=ショーホースと申します。以後、お見知りおきを」


 順に名を名乗る三人を、ユーリシアは微笑みを湛えながら、だが嫌に冷めた目で見つめる。

 _____これは、敵を見る目だ。

 その目が、彼らが顔を上げたところでふいっといつもの穏やかな目に変わった。


「…覚えておこう。歓談を邪魔したようだな。また機会があれば私も混ぜてくれ」


 やはり恐縮したように返す彼らの返事を待ってから、ユーリシアは踵を返して悠然とその場を立ち去る。カルリナもまた平静を装って追従し、彼らからある程度距離を取ったところで、やはり悟られないよう静かに問うた。


「……彼らは一体…?」

「騎士団員の名簿には確かに彼らの名はあるが、顔は全く違ったな。……おそらくイーハリーブで入れ替わったのだろう。金で雇われたか、あるいは殺されたか亅


 告げるユーリシアの声は明るい。その顔に笑顔を湛えているのは、彼らに悟られぬよう歓談していると思わせるためだ。カルリナもそれに倣って、気の抜けたような呆れたため息を落とした。


「……貴方には敵いません」


 確かに騎士団員全員の名簿は渡した。入退団の団員が出るたび、その名簿も決して漏れなく渡したことも確かだが、総勢259人全員の顔と名前をしっかりと違えることもなく覚えていようとは。


(…ある程度、予測はしていたが……)


 だからこそ、もはや日課となっていた野営地での騎士団員たちとの交流の場では、ユーリシアはただの一度も名を訊ねたことはなかったし、そうだろうと予測はしていた。だが、こうもまざまざと見せつけられては感嘆せずにはいられない。


「それは…誉め言葉として受け取っておこうか」

「是非ともそうなさってください」


 まるで諦観したように告げるので、ユーリシアは小さく声を上げて笑う。

 そうしてようやく、ユルングルの言葉の意を得て、一人得心した。


(…そういう事だったのか)


 彼は、騎士団を掌握しろ、と言った。

 だがそれは、人心を掌握しろ、という意味ではない。人の出入りが激しいこの国の騎士団は、良からぬことを考える者が潜入するにはうってつけだ。出入りが激しいから、見ない顔が急に現れても誰も怪しいとは決して思わない。


 だがそれでも、騎士団に入団するには厳しい身元調査が行われる。逆に言えば、これさえ通ればいくらでも潜入できるのだ。


(…別人を使って騎士団に入団したのだろう。当の本人たちがどうなったのか気になるところではあるが……)


 彼らの今までの手口を鑑みるに、十中八九殺されている可能性が高いだろうか。


 この小さな違和感に気づいたのは、ユルングルが『騎士団を掌握しろ』と指示したからだ。だからこそ、騎士団員たちの顔と名をすべて覚えた。ユルングルからの指示がなければ、果たして全員の顔と名を覚えようと思ったかどうか、正直判らない。


 ユルングルは判っていたのだ。こう言えば、自分がどう動くのかを。


(…やはりユルンは凄いな)


 心中で兄に賛辞を送って、ユーリシアはやはり笑顔を湛えたまま、後ろにいるカルリナに告げる。


「…あの三人から目を離すな。何か不審な動きを見せた時は、私に報告しろ」


**


 翌朝早朝____空がまだ闇色に近い頃合いに騎士団員たちは活動を始めた。それはいつもよりも早い目覚めだった。


 誰ともなく起き出し、準備を始め、朝食を摂る。いつもと変わらない景色のようで、どこか皆、緊張した面持ちのようにも見える。それは今日ソールドールに到着し、皇太子と相まみえる事への緊張なのか、あるいはやはりあの深い森に対する緊張なのか、もはや本人たちも定かではない。どちらにせよ妙な高揚感と、どこか浮足立つような心持ちが交互に心を支配して、落ち着かない事だけは確かなようだった。


「…雲行きが怪しいな」


 空がようやく白んできた頃、ユーリシアは空を見上げて誰にともなく呟く。

 今まで晴天が続いた空は、今になって分厚い鈍色にびいろの雲が顔を覗かせている。


「…ひと雨きそうだ」

「まずいな」


 独り言に返事が返って来て、ユーリシアはその声の主を振り返る。


「何がまずいのだ?ゼオン殿」

「あの森は___というよりこの辺りはこの時期、日中に雨が降ると夕方には濃い霧が立ち込める。そうなるとあの深い森の中は視界が悪くなって進軍どころの話じゃなくなるぞ」

「…!」

「…順調に行っても六時間……実際はもっとかかると思った方がいいでしょう。雨が降れば地面がぬかるんで、車輪が取られる可能性が高くなります」

「…その上、濃い霧に行く手を阻まれては身動きが取れなくなるな…」


 ユーリシアの言葉に、ダスクも同様に首肯を返す。見れば、いつの間にやらユーリとアルデリオ、そしてカルリナまで揃って、皆同様に難色を示すような渋面を取っている。ユーリシアは軽く思案するような仕草を見せた後、ゼオンに向き直った。


「…この地域は雨が降る事が多いのか?」

「多いな。最近の快晴が続く事の方が珍しいくらいだ」

「…なら今ここで時期を見送ったとしても、必ず近いうちに晴れると言う確証は得られないという事か……」

「下手をすると十日間ここで足止めを食らう、という可能性もありますよ。この辺りは長雨にもなりやすいですから」


 アルデリオの言葉に、ユーリシアは頷く。


 もし長雨にでもなれば、一度引き返して日を改めるしかない。あの森に近いこの場所で幾日も野営をするわけにはいかなかった。いつ何時、あの森から魔獣がやってくるかも判らないのだ。特に視界が悪い雨の中で、なおかつ濃い霧まで立ち込める。そうなれば接近してくる魔獣に気付かず、いつの間にか間合いを詰められて壊滅に追いやられる事だってある。


 だからと言って、引き返し日を改める余裕がないのも事実だった。

 もし皇王が生きているのであれば、悠長に雨が止むのを待ってはいられない。遅くなればなるほど、皇王の命は危険に晒される。その上、本格的な冬が来れば、それはそれでやはり進軍の足が止まるのだ。

 ____さすがに春まで待つ余裕も、時間もない。


 ユーリシアは意を決したように顔を上げ、不安を覗かせる皆の顔を見回し高らかに宣言する。


「天気に恵まれる確証がないのなら、選択の余地はない。予定より早いが今すぐ準備を整え、ソールドールへ出立する…!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ