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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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死の樹海

 ガーランドやダリウスと別れて家に入ったアレグレットは、ユルングルの部屋の前でダリウス同様ひどく不安げな表情で佇んでいるラヴィの姿が目に入って、思わず眉根を寄せた。


「…クラレンス卿?どうなさったのです?」

「…!…アレグレット様………ユルングル様が____」

「ユルンちゃん…っ!!無茶だってっ!!!これ以上無理したらかえって体を壊すってばっ!!!」

「…!?」


 言い差したラヴィの言葉を遮るように部屋からミシュレイの声が響いて、アレグレットは身を翻しながら慌てて扉を開く。


「ミシュレイ…っ!!ユルングル様に何をしている…っ!!?」


 思わずそう叫んだアレグレットの目に飛び込んできたのは、顔面蒼白で壁に手をつき、肩で息をしながら今にも倒れそうな虚ろな瞳をゆっくりとこちらに寄せて来るユルングルの姿と、そのユルングルを支えているのか、あるいは押し留めようとしているのか、ユルングルの腕を持ちながら前に立ちふさがるミシュレイの姿だった。


 そのミシュレイの表情が、アレグレットの姿を見止めた事と心外な言葉を投げかけられた事で、苦虫を潰したような渋面に変わる。


「何にもしてねえよっっ!!何で俺の所為になってんだよっっ!!!状況を見てから物を言えっ!!この馬鹿アレグレットっっ!!!」

「馬鹿とは何だっっ!!!馬鹿とは…っっ!!!!!」

「………人の耳元で喧嘩をするな…!!」


 ユルングルを間に挟んで仲良く罵倒し合う二人に、顔面蒼白ながら眉根を寄せてユルングルは不快を表わす。ただでさえ体調が悪いのに、いつもいつも喧嘩をする時はなぜだか自分を間に挟むのでたまったものではない。


 荒い呼吸に一度、深呼吸に近いため息を落としながら、ユルングルはうんざりしたような視線をアレグレットに向けた。


「………お前も邪魔をしに来たのか……?……アレグレット…」


 小刻みな呼吸でそう愚痴をこぼしながら、それでも歩くことを止めたくないのか前に立ちふさがるミシュレイを押しのけて、ユルングルは足を進ませようとする。その行動にやはりミシュレイが待ったをかけた。


「だから無理だってっ!!もう諦めろよっ、ユルンちゃん…っっ!!!!!」

「……諦めろ…だと……?冗談じゃない…っ!!…何のために…こんな体になったと思ってる…っ!!いろんなものを犠牲にして…ようやくここに来たんだぞ…っ!!今さら諦められるか…っ!!」

「よく判んねえけど、それでも引き時ってもんがあるだろ…っ!!ラン=ディアの旦那…っっ!!!」


 押しのけてまで前に進もうとするユルングルの体をがっしりと掴みながら、それでも未練がましく奮闘するユルングルに手を焼いて、ミシュレイは助けを求めるようにラン=ディアに顔を向ける。渋面を取りながら、それでも黙って見ていたラン=ディアは、諦観を示すように深いため息をいた。


「…ユルングル様、一旦休憩にいたしましょう」

「……そればかりだろう…!!…一体いつになったら…っ、まともに練習させてくれるんだ…っ!!」

「焦ったからと言ってどうにかなるものでもないでしょう。ミシュレイの言う通り、無茶が過ぎればかえって体を壊して先延ばしになるだけですよ」

「…っ!」


 痛いところを突かれて、ユルングルはたまらず閉口する。

 焦っているのは事実だ。もう残された時間は少ない。だから無理を承知でこうやって歩く練習をしているのに、逆にこれ以上先延ばしになるのだけは御免被りたい。

 胸の内に絶えず沸き起こる焦燥感を持て余しながら、それでも落ち着きを取り戻すように深呼吸するユルングルの様子にようやく諦めたのだと判断して、ミシュレイは有無を言わさずユルングルの体を抱きかかえた。


「はい、休憩!!」


 いとも容易く抱えたユルングルの体を、ミシュレイはそのままベッドに乗せる。それがまた気が立っているユルングルの逆鱗に触れたのか、眉間に最大級のしわを寄せた渋面をミシュレイに向けた。


「…………人を軽々と抱えるな…!!」

「仕方ないだろ?ユルンちゃん、軽すぎんだから」


 呆れたようなため息交じりでそう告げられて、ユルングルはクッションに身を預けながら拗ねた子供のようにそっぽを向く。その顔色はかなり悪く、蒼白な顔で呼吸も荒い。疲労困憊しているのか、背けたその瞳をゆっくりと閉じる姿がアレグレットの視界に入った。


(……この光景は……確かにダリウス殿下には耐え難いだろう……)


 目の前で繰り広げられた一連の騒動に、アレグレットは言葉を失って手元で口を覆う。


 焦りで余裕がなく、焦燥感に苛まれるように病弱な体に鞭打ち、自ら自分の体を痛めつけるような真似をする、ユルングルの姿。まだ会ったばかりの自分ですら、そんなユルングルの痛々しい姿に胸が痛むのだ。ずっと兄代わりとしてユルングルの傍にいたダリウスには、胸が痛むどころの話ではないだろう。


 見ればミシュレイやラン=ディアですら、心痛に耐え難い表情を取っている。おそらく部屋の扉の向こう側でも、ラヴィが同じような表情を取っているのだろう。このやり取りを絶えず行っていると思えば、仕方のないことだろうか。


「…ユルングル様、とりあえず診察と治療をいたしますよ?」


 ラン=ディアのその言葉にすら、ユルングルは無言を返す。それは疲労困憊して口を開くのが億劫なだけなのか、あるいは思い通りに事が進まないもどかしさが返答を邪魔しているのか。どちらにせよ返事をするつもりがなさそうなので、ラン=ディアは返答を待たずにユルングルの手を取り、診察と治療を始めた。


「……薬用酒はもうないのか?」


 呟くようにユルングルがそうぽつりと訊ねてきたのは、ラン=ディアの治療が始まってしばらくした後。顔は背けたままだが、いつの間にやら閉じた瞳を見開いて、何とはなしに窓の外の景色に視線を向けている。


「二日前にお飲みになられた分で最後です」

「…すぐには作れないのか?」

「作るには早くとも一年はかかります」

「…………そうか」


 諦観を込めたその声音は静かだったが、彼の口から出る言葉はどれも焦りから来るものだろう。目線をずっと外の景色に向けたまま一向にこちらを向こうともしないその頑なな態度が、いかにも現状に不満があると言っているように見える。

 アレグレットは小さくため息をいてなだめるような声音で問いかけた。


「…ユルングル様、なぜそれほど焦っておられるのです?」

「…もうあまり時間がないからだ」

「必要とあらば、我々がユルングル様の手足となってご助力いたしますよ?いつでもご命令ください」

「…お前たちじゃ駄目なんだ。俺が動かないと意味がない」

「…では、いつまでに動けるようになればよろしいのです?期限はございますか?」

「……九日後だ。九日後までには動けるようになりたい」

「九日後でしたら、今からゆっくり練習をなさっても歩けるようにはなりましょう。きっとその頃には幾分か体力も回復なさっておられるでしょうし、それほど焦らなくてもよろしいのではありませんか?」


 アレグレットのその言葉に、なぜだか呆れたようなため息を落として、ユルングルはようやく目線を窓の景色からアレグレットに移した。そうして、いかにも不機嫌を表わすように渋面を取りながら明朗に告げる。


「…八日後にはユーリシアが騎士団を引き連れてソールドールに到着する。このままゆっくり練習して、本当にその翌日までにユーリシアと立ち合いが出来るまで体力が回復すると思っているのか?」

「…!!?立ち合い…っっ!!!!?」


 思いもよらない言葉がユルングルの口から出てきて、黙って二人の会話を聞いていたミシュレイとラン=ディアもたまらずアレグレットと一緒に声を張り上げる。


「立ち合いって何だよっっ!!!?ユルンちゃんっっっ!!!!」

「立ち合いなんてできるわけないでしょうっっ!!!それもよりにもよって、あのユーリシア殿下と立ち合いなどっっ!!正気ですかっっ、貴方はっっっ!!!!」


 アレグレットを押しのけて詰め寄る二人の怒声を、ユルングルはうんざりとした顔で両耳を手のひらで押さえながら受け流す。ひとしきりがなり終わった事を確認して、ユルングルは両耳を覆った手を離しながら、やはりうんざりした表情で二人に視線を向けた。


「………だから知られたくなかったんだ」

「当然でしょう…っ!今の貴方の状態を知る者なら誰でも反対します…っ!!」

「立ち合う前に倒れちまうぞっ、ユルンちゃんっっ!!!!」


 頭ごなしに異を唱える二人に対して辟易したようにため息をくユルングルに、アレグレットは遠慮がちに声をかける。


「……なぜユーリシア殿下と立ち合いをなさる必要があるのかは存じ上げませんが、ご兄弟なのですからそれとなく手を緩めていただけるように願い出る事は出来ないのですか?」

「手を緩める緩めないの話ではありません…っっ!!!!」

「今のユルンちゃんに立ち合いが出来るほどの体力なんてないっつってんのっっ!!!!それも判んねえのかよっっっ!!!」


 助け舟を出したつもりが、二人の非難の矛先がユルングルから自分に代わって、アレグレットは辟易するようにやはり両耳を手のひらで覆い隠した。


 心配する気持ちも判らないではないが、未来が視えるユルングルがやると言っているのだから、きっと必要な事なのだろう。それを余人がどうこう言ったところで結局は実行に移す事の一択なのだから、どうすれば実行に移せるかを議論した方が実のある話だろうに、とは思ったものの、それを口に出せばさらに非難の嵐が襲ってきそうなので思うに留める。


(………これではユルングル様もやりにくかろう……)


 何でもかんでも心配ばかりが先に立って動きを制限されては、ユルングルがやりたい事の半分もできはしないだろう。

 それでも、とアレグレットは先程、渋面を取りながらも黙したまま無茶をするユルングルを見守っていたラン=ディアと、無茶をするユルングルを見ていられないからと傍を離れたダリウスを思い浮かべる。


(……それでも彼らなりに、ユルングル様を容認なさろうとはしているのか……)


 思ったところで、軽く目を見開きながらアレグレットに視線を向けるユルングルと目が合う。アレグレットは耳を閉じて二人の非難をやり過ごしながら、大仰に肩を竦めて困り顔にため息をいて見せた。そのアレグレットの仕草に、ユルングルは小さく吹き出すような笑いを返す。


「…どうやら俺の味方はアレグレットだけのようだな」

「いえいえ、敵か味方かとおっしゃるのならミシュレイもラン=ディア様もユルングル様の味方ですよ。ただ、少しばかり心配が過ぎるだけです。決してユルングル様に対して反意を抱いているわけではございません」

「……心配性なのはダリウスだけで十分なんだがな」

「ユルングル様の周りは心配性な方ばかりで羨ましい限りですね」

「なら貰ってくれるか?」

「それはご遠慮いたしましょう」


 アレグレットに向けた非難をぴたりとやめて、ミシュレイとラン=ディアは一様に目を丸くしながら二人の軽快な会話を聞くともなしに聞く。そんなラン=ディア達を尻目に、やはりユルングルとアレグレットは互いに笑いを落とすので、なおさら二人仲良く目を瞬いた。ユルングルのこんな姿を見るのは二日ぶりだろうか。


 歩く練習を始めてからというもの、ずっと焦りで気が立っていたのか、笑うどころか険しい表情と苦痛に歪んだ表情しかユルングルは見せようとしなかった。それが自分たちにも伝染うつったのか、同様に険しい表情と疲弊した様子ばかりをユルングルに向けていた事がなおさら彼の機嫌を損ねていたのだろう。

 二人の態度とは違って、ことさら飄々とした軽快なアレグレットの態度がユルングルの頑なな態度を幾ばくか和らげたようだった。


 そんなユルングルの様子に軽く安堵してから、アレグレットは話題を本題へと戻す。


「…先ほどダリウス殿下からお聞きいたしましたが、ユーリシア殿下との立ち合いは要塞にお一人で乗り込むための一環ですか?」


 これにもやはり寝耳に水だったようで、一旦終息したミシュレイとラン=ディアの盛大な驚きと無茶をするユルングルに対する憤りが再燃して、だが今度は怒鳴るよりも先に呆れたような深いため息を落とす。


「………貴方と言う方は……」

「……何で、自分が無茶する事ばっかり考えるかなあ……」

「…無茶をするしかないからだ。欲しいものがあるなら、どれだけ無茶だろうがみっともなくても足掻くしかないだろうが」

「…!」


 強い瞳と確固たる意志を載せて強くそう言い放つユルングルの言葉に、ミシュレイだけが強い動揺を示した。目を見開いて、ベッドに座するユルングルを凝視する。弱々しい姿に、だけれども決して諦める事を受容しない、ユルングル____。


(…………なんでこんなに_____)


 なぜこれほどまでに、彼は抗おうとするのだろうか___?


 受け入れる事が一番楽なはずだ。どんな状況でも抗わず、仕方がなかった事だと受容すればいい。

 母が自分たちを置いて出て行った事も仕方がない事。

 父が自分たちを捨てた事も仕方がない事。

 心臓を患っていた弟が死んでしまった事も仕方がない事。

 抗い足掻いたところで結果が変わるわけではない。ならいつまでも念頭に置いて悩むのは時間の無駄だ。受け入れてしまえば、こうも容易く前に進める。


 なのに、なぜ____?


 どれほど無理な状況でも決して諦めないユルングルの姿が、ミシュレイには妙に不思議に思ったのと同時にひどく新鮮に映った。


 自分にはこれほど固執する何かがあるだろうか?

 おそらく、ない。今までも、そしてこれからも____?


 それを思うと、なおさら自分の中に何もないと言われているような気になって、ミシュレイは胸の中にぽっかりと穴が開いたような空虚感を胸の内に抱いた。


 まるでそれを確かめるように呆然自失と自身の胸に手を当てるミシュレイを軽く一瞥してから、ユルングルは構わず話を続ける。


「…アレグレットの言う通りだ。要塞に入り込むためにはどうしてもユーリシアとの立ち合いが必須になる。手を緩めてもらっても困るし、俺も手を緩めるつもりはない亅

「…それは貴方ではないといけないのですか?」

「さっきも言っただろう。俺じゃないと意味がない」

「…ユーリシア殿下と立ち合いをなさることは、ダリウス殿下もご承知なのですか?」


 いつまでも一人食い下がるラン=ディアのその問いかけに、ユルングルは悪戯がばれそうになった事に素知らぬふりをする子供のように、多少バツが悪そうな顔を背けた。


「…………皇都を出る七日ほど前にそれとなく言ったが……ダリウスが覚えているかは疑問だな」


 それもユーリシアと立ち合いをすると明言したわけではない。『立ち合いが出来るくらいには回復するか?』と抽象的な質問をしただけで十中八九伝わっていないという自覚はあるが、そもそも無駄に心配させるだけなので伝える気もさらさらない。


 ユルングルの態度でその心中を察して、ラン=ディアはようやく諦観を込めたため息を落とす。


「……貴方の共犯者はできれば御免被りたいんですがね」

「お前もダスクに対して隠したい何かがあるんじゃないのか?よければ俺も共犯者になるぞ?」


 軽く目を見開いて、ラン=ディアはにやりと笑うユルングルを見据える。


 ラン=ディアはまだ、ダスクが白獅子である事も、この先に終わりのない生が待ち受けている事も告げてはいない。それはダスクに限らず誰一人としてその事実を教えてはいないのだが、何でも見通してしまうユルングルにはやはり隠し通す事は難しいらしい。


(……一体どこまでご存じなのかは判らないが)


 それでもやはり、共犯者は御免被りたいと思う。

 思ってラン=ディアは、うんざりとしたため息を一つ落とした。


「……いずれお話しするつもりですが、現状は遠慮させていただきますよ」

「そうか、好きにしてくれ」


 特に言及する事もなくさらりとそう受け流して、ユルングルはおもむろにベッドから立ち上がろうと足を下ろす。


「…さあ、休憩は終わりだ。とっとと始めるぞ」


 再び険しい表情を取って有無を言わさず立ち上がろうとするユルングルの体を、黙していたミシュレイは慌てて近寄って支える。


「ユルンちゃん…っ!!!まだ早いってっっ!!!」

「休憩はもう十分しただろう…!」

「ユルングル様…!!練習の再開は十分な休息を取られてからです…!!少しは我慢なさってください!!!」

「もうそれは聞き飽きた…!!休憩が少し伸びたからと言って何かが変わるのか…っ!!?」


 和んだはずの空気がまた最初の刺々しい張り詰めたものに戻って、アレグレットは頭を抱えて悄然とため息を漏らす。休む休まないで押し問答する三人の動きをピタリと止めたのは、そんなアレグレットが高らかに打ち鳴らした両の手の音だった。目を白黒させて思わず注視してくる三人に、アレグレットは極めて明朗な笑顔を見せる。


「せっかくですから、楽しくやりましょう!頭ごなしにダメだと言われればユルングル様も向きになられるでしょうし、ユルングル様自身もずっと気が立っておられては必要以上に疲れてしまわれるでしょう。元々少ない体力なのですから、こんな事で疲弊してはいつまで経ってもよくはなりませんよ?」

「………楽しくと言っても、やる事は一緒だろうが」

「そんな事はございません。こんな狭い部屋でずっと男三人顔を突き合わせていれば、気も滅入りましょう。どうです?この際、少し外を散歩なされては?」

「…!」

「少しは気晴らしになりますよ?」


 その願ってもないアレグレットの申し出に、ユルングルは嬉々とした表情をラン=ディアに向ける。いかにも許可を出せと言わんばかりのその表情に、ラン=ディアはわずかに逡巡しながらも結局は折れて、諸手を上げるように譲歩するに至った。


**


「…さて、どこに行かれます?」


 外に出る扉を開きながら、ミシュレイの首に腕を回し抱えられるように歩くユルングルにアレグレットは問う。ユルングルは寒そうに外套のフードをかぶりながら軽く思案して、ミシュレイと共に扉をくぐってからアレグレットを振り向きざまに告げた。


「……そうだな……死の樹海に連れて行ってくれ」

「…!」


 その返答に、さしものアレグレットも困り果てた表情を取った。


「……ユルングル様、あそこはいつ魔獣が出て来るかも判らない危険な場所です。その御身では____」

「魔獣は出ない。しばらくは出てこないから安心しろ」


 その言葉を吟味するようにわずかに思議する仕草を見せて、アレグレットは不承不承と諦観を込めたため息を落とす。未来が視えるユルングルが断言してしまえば、それを理由に否とは到底言えないだろう。


「……承知いたしました」

「ユルンちゃんって、周りを困らせる天才だよなあ。ほんっと、何でここで死の樹海を選択するかなあ?」

「うるさい、どこに行きたいか訊かれたから素直に答えただけだろうが」


 心外だと言わんばかりに渋面を取るユルングルに、アレグレットは苦笑を漏らす。そうして、先ほどまでダリウスとガーランドがいた場所に誰もいない事を見止めて、訝しげに周りを見渡した。彼らの姿を見止めたのは少し離れた開けた場所、ガーランドの物らしきあの強弓を引くダリウスの姿が視界に入った。


 こちらには一切気づいていない様子の二人に、ユルングルを外に連れ出す許可をもらった方がいいのかわずかに悩むアレグレットを、ユルングルが促す。


「大丈夫だ。ダリウスには俺がどこにいようがすぐに判る」


 それに首肯を返したものの、それでも軽く後ろ髪を引かれるアレグレットを置いて、ミシュレイもラン=ディアも構わず足を進ませる。アレグレットはもう一度遠くにいる二人を軽く一瞥してから、追従するように皆の後を追った。


「…アレグレット様は、ユルングル様の扱いがずいぶんとお上手ですね」


 前を歩くユルングルの耳には届かないよう、ラン=ディアは声を潜めてアレグレットに声をかける。

 その内容にアレグレットはさもありなんと微苦笑を返した。


「…何せ師父の面倒をずっと見ておりますからね。あの方も言い出したら聞かない方ですから、頭ごなしに異を唱えると機嫌を損ねて手が付けられないのです。おかげで上手い受け流し方と、互いに折り合いが付けられるちょうどいいところを見極めるすべが身に付きました」

「なるほど」


 容易に想像が出来て、ラン=ディアは笑い含みに言う。病弱なユルングルとは違って、あの筋骨隆々のガーランドが暴れれば、確かに手が付けられないだろう。


「……感謝します、アレグレット様。あのままでは心労が祟って再び倒れてしまわれないかと内心ひやひやしていたところです」

「……では僭越ながらもう一つだけ。できるだけユルングル様の思うようにさせて差し上げてください。心配なさるお気持ちは痛いほど理解しているつもりですが、お仲間から反対されている中で事を起こそうとなさるのは思った以上に体力を必要といたしますし、ラン=ディア様自身も心配が過ぎて心労がたまってしまわれるでしょう。…できるだけお心を軽く、助力を必要となさった時だけ手を貸すのだと軽く構えておられる事が、ああいう方を操縦なさる時のコツですよ」


 平然と第一皇子に対して『操縦する』と言ってしまう不敬なアレグレットに、ラン=ディアは思わず吹き出すように笑う。


「それは貴方の経験則から来るコツですか?」

「もちろん」

「……では俺も、貴方を見習う事にしましょう」


 肩の荷を下ろしたような気を緩めたラン=ディアの様子に、アレグレットはにこりと微笑みを返した。


「ぜひ」



 しばらく歩いて、一行は南門に到着する。

 ユルングル達が暮らす家から死の樹海まで、思った以上に距離はない。城壁がぐるりと街を包囲してはいるが、ユルングル達の暮らす家や低魔力者たちの集落からほど近い場所に、外へと通じる南門が設置されている。正門に比べるとずいぶんと簡素な小規模の門ではあったが、正門同様に見張りを担う騎士が二人、左右に気格きかくを備えて佇んでいた。


 そんな彼らがユルングル達に誰何すいかを訊ねなかったのは、一行の中に副団長であるアレグレットの姿を見止めたからだ。無言のまま威儀を整えて、何を言われるまでもなく彼らは門を開く。そんな彼らにアレグレットは軽く手を上げ、謝意を伝えて一行と共に門をくぐった。


 その眼前に威風堂々と広がるのは、皆から恐れられている、死の樹海____。

 フェリシアーナ皇国とラジアート帝国を分断するその深い森は、己の存在を誇示するように遥か遠くまで続いている。厳かで圧巻なその光景に、ユルングルはただただ目を瞠った。


「………すごいな、これが死の樹海か……」


 思わずかぶっていたフードを取って、まるでいざなわれるように歩み始めるユルングルに、ミシュレイは軽く恐怖を抱いた。

 ユルングルが動くに任せて歩みを進めてはいるが、一体どこまでこの死の樹海に近づくつもりなのだろうか。見ればユルングルの瞳は、まるで長く恋焦がれたものにようやく出会えたような恍惚とした輝きを、よりにもよって死の樹海に向けている。


 同じような心境をアレグレットとラン=ディアもまた抱いたのだろう。死の樹海に一歩一歩近づくにつれ、まるで触れてはいけないものに触れるような背徳感に近い感情を抱いて、互いに目を見合わせた。


「………ユルングル様、もうそろそろ____」


 歩けなかった事も疲労感も忘れたように歩き続けるユルングルに、たまらずアレグレットが待ったをかける。その言葉にユルングルは当然、いかにも納得がいかないといった表情を返した。


「なぜだ?まだ距離があるだろう?」


 死の樹海までは十メートルほどの距離だ。できれば腕を伸ばせば樹海の木々に触れられるくらいには近づきたい。


 そんなユルングルの願望を知ってか知らずか、ミシュレイとアレグレットは静かに頭を振った。


「……だめだ、ユルンちゃん。これ以上は近づけない。近づき過ぎると体に障りが出る」

「……恐れながら、ユルングル様はここがどういう場所かご存知でしょうか?」

「当然知ってる。中に入れば魔力を奪われて死を賜う事になる森だろ」

「でしたら、これ以上は____」

「中に入れば、だ。ここはまだ中じゃない」


 頑なな態度を貫こうとするユルングルに、たまらずラン=ディアが口を挟んだ。


「……ユルングル様、ここで育った彼らには、死の樹海は畏怖すべき対象なのです。それを考慮して差し上げてください」

「そういうお前も、ミシュレイ達と同じ表情をするんだな?」


 古傷をえぐるように鋭く突いてくるユルングルの言葉に、ラン=ディアは後ずさるように軽く身を引いた。見ればこちらを見返すユルングルの瞳は変わらず強い。死の樹海に言いようのない恐怖を抱く三人とは違って、ただ一人ユルングルだけが、何が怖いのだと訴えるような瞳で強く佇んでいる。


 そんな瞳を向けて返答を待つユルングルに、ラン=ディアは己を奮い立たせるように小さくため息を落とした。


「…俺も何度かこの土地を訪れた事があります。そして、死の樹海に入った者を診た事も…。ここに入った者は、決して助ける事は出来ません。…ただの一人も、です」


 今思い出しても、身の毛がよだつような光景だった。

 度胸試しだと死の樹海に足を踏み入れる愚行に走った三人の若者たちの体は、まるで灼熱地獄の中にいたのかと見紛うほど、全身が焼けただれていた。真っ赤に腫れあがり、皮膚も焼け落ち、なのに意識だけは皮肉なほどにしっかりとしていたのだ。助けを請い、何度も「怖い」と呟いて、最期は文字通り体が腐るように朽ち果て命を失った。


 その時のなす術のない虚無感を、何と言い表したらいいだろうか。

 目の前で苦しむ彼らに、何一つとして治療を施す事が出来なかった。神官治療を施そうにも、彼らの体内を流れる魔力は一度死の樹海によって体外に放出されたためか、体に定着せず不安定で神官治療を受け付けなかった。結局、彼らが亡くなるその瞬間まで、痛みを和らげる事すら出来ずただ見守る事しかできなかったのだ。


 それはもう二度と経験したくはない、苦々しい記憶だった。


 その時の思い出したくもない記憶を掘り起こす苦痛に顔を歪めて告げるラン=ディアに、だがユルングルはやはり手を緩める事もなく勢いそのままに告げる。


「だがお前はもう知っているはずだろう。死の樹海に入った者がなぜ死を迎えるか、その理由を」

「…!」

「近づけば体に障る?そんなのはただの迷信だ。近づくだけなら何も障りはないし、怖がる必要もない。…何より俺は、入ったところで死ぬ事すらないからな」


 にやりと笑って、ユルングルはおもむろにミシュレイの手から離れて、覚束ない足取りで一歩一歩死の樹海へと進む。ユルングルの言葉の意を掴み兼ねた事と死の樹海に対する畏怖の念で身動きが取れなかったミシュレイは、ユルングルが自分から離れる事を見過ごしてしまった事に気が付いた。


「…っ!?ユルンちゃん…っ!!ダメだって…っ!!!それ以上は…っ!!!!」

「ユルングル様…っ!?おやめください…っ!!」


 制止する声を上げながらも、恐怖からか足が根を張ったように動かないミシュレイとアレグレットを振り返ったのは、最初に望んだ通り手を伸ばせば樹海の木に触れられるだけの距離まで近づいた時。ユルングルは振り向きざまににやりと笑うと、躊躇う事もなく腕を死の樹海の中へと入れた。


「見ろ。俺の腕に何か変化はあるか?」


 未だ樹海の中に入れたままのユルングルの腕を、二人は注視する。彼が腕を入れる瞬間、凍えるように慄然としたその背筋は、今はもうまるで何事もなかったように、いつもの様相を取り戻している。それはどれほど注視していても、何も変化が見られないユルングルの腕に安堵と驚きを覚えたからだった。


「…………なぜ…?」


 茫然自失となる二人を尻目に、ユルングルは脱力するようにその場に座り込むと、頓着なくその草原に寝転がった。


「…はあ…ここは空気が気持ちいいなあ…」


 何とも気の抜けたような声音で寝転がりながら背伸びをして、ユルングルは深く深呼吸をする。そのあまりに気が緩み切ったユルングルの態度に、ミシュレイとアレグレットは拍子抜けするように目を瞬いて、互いに目を見合わせた。


「…………死の樹海の空気を気持ちがいいなんて言う変わり者は、多分世界中探してもユルンちゃんだけだろうなあ……」

「……私にはおどろおどろしく感じますよ…」


 何やら急に死の樹海に恐れを抱くことが馬鹿らしくなって、二人はユルングルに促されるように近づき、呆れたような声を上げながら同じように死の樹海の傍らで腰を下ろす。


「仕方がないだろう。実際にこの死の樹海の周辺は他の土地に比べて空気が綺麗なんだ」


 そのユルングルの言葉に胡乱な目を向けるミシュレイとアレグレットとは対照的に、ラン=ディアだけが得心を得たように強く反応を示す。


「…!そうか…!!この周辺は死の樹海のおかげで他の土地と比べて瘴気が薄いのですね…!」


 弾かれるように死の樹海に顔を向けて告げるラン=ディアの言葉に首肯を返して、ユルングルもまた死の樹海に視線を向けた。


 死の樹海は魔力を寄せ付けない。中に入った人間や動物の魔力を奪う性質があるが、それは果たして人間や動物に限った話だろうか。おそらくは、そうではない。周囲に漂う魔力すらも、この死の樹海は奪っている。


 なら、その奪った魔力はどこに行くのだろうか。人間や動物から奪った魔力は、その所有者が森を出た時点で元に戻ると言う。つまりは一定期間森がどことも知れぬ場所に内包しているのだろう。その期間を過ぎると、外に放出される。そうやって奪っては放出する事を、きっともう何万年もの間続けているのだ。この死の樹海の周囲が、十分過ぎるほどの魔力で満たされている事は想像に難くないだろう。


「…魔力は瘴気を阻害するからな。この辺りは充満した魔力に守られて、瘴気が届きにくいんだ」

「………瘴気……って何…?」

「……話が見えません。よろしければ、詳しく説明していただいても?」


 瘴気の存在を知らないミシュレイとアレグレットは、やはり当然のように首を傾げて訝しげに眉根を寄せる。ユルングルは寝転がった体を起こして、おもむろに口を開いた。


「…魔力ってのは何のために存在しているか、お前たちは知っているか?」

「それは…命の源でしょう?」

「そんなの子供でも知ってるよ。だからその命の源を奪うこの死の樹海が恐れられてんだろ?」

「…そうだな、一般的にそう言われているが、実はそうじゃない。魔力は大気に漂う大量の瘴気___つまり毒から身を守るために存在している」

「…!!?」


 その寝耳に水のその情報に、二人は揃って目を白黒させる。


「………何…?…じゃあこの空気に、目に見えない毒が大量に漂ってる…って事?」

「そうだな」

「………我々は、それを吸って生きているのですか……?」

「その認識で間違っていない」


 ぴたりと動きが止まって、二人はまるで申し合わせたように慌てて鼻と口を塞ぐ。


「………お前ら本当に仲がいいな」


 呆れたように告げるユルングルにラン=ディアは苦笑を漏らして、やはり呆れたように鼻口を塞ぐ二人を視界に入れた。


「そんな事をしても無駄ですよ。瘴気は気管から入るだけではなく皮膚からも浸透しますからね。…だから死の樹海に足を踏み入れた者は、全身の皮膚が腐るようにただれるのです」

「瘴気から身を守れるのは魔力だけだ。だから高魔力者は瘴気の影響が少ないし、逆に低魔力者は瘴気に体を蝕まれて体が病弱になる。……俺のようにな」

「………それは……一体どこからの情報なのですか?初めて耳にする事ばかりです。信頼に値する所からの情報か、教えていただいても?」

「教皇様です。これらの情報は全て、教皇様から頂いた情報……これ以上に信頼できる所などないでしょう」


 情報の出所が、思った以上の人物から寄せられた物だと知って、二人はたまらず言葉を失った。

 あの神に近しいと言われる教皇が、よもや嘘の情報を渡すとは到底思えない。疑う余地はないし、疑っては不遜だろう。


「……つまり、この死の樹海に入ると死ぬってのは、瘴気から身を守っている魔力を根こそぎ奪われるから、瘴気に冒されて死ぬ、って事なんだな?」

「そうだ」

「なら何でユルンちゃんは平気なのさ?その腕、間違いなく樹海に入れたのに、腐るどころか赤くただれる事すらねえし」


 その問いには自嘲とも呆れとも取れるため息を落として、忌々し気に自分の黒髪をひと房つまみ上げる。


「……俺の一体どこに、瘴気から守ってくれる魔力があると思うんだ?」

「…え?」

「先天的に耐性はなくとも、瘴気に晒され続ければ嫌でもある程度の耐性ができるもんだ。死の樹海に入って、なけなしの魔力が奪われたところで、普段とそう変わりはない。むしろこの辺りは他に比べて瘴気自体が薄いくらいだからな。俺なら完全無防備になったとしても三日は樹海に居続けられるだろうな」

「……それでも三日なんだ?」

「なけなしとは言っても、魔力は魔力だ。一と無の間は些細なようで、その差は意外に大きい。…この森に際限なく居続けられるのは、無魔力者のミルリミナと、俺たちとは違う魔力を有しているユーリシアくらいだろうな」


 おそらくこの森は、原始の魔力までは奪えない。原始の魔力まで奪えるのなら、その原始の魔力もまたこの周囲に充満しているはずだ。そうなればこの土地は人が住めない土地になっているだろう。原始の魔力は、脆弱な人間の体にとっては毒である瘴気とそう変わりはないのだから。


 そう思案しているユルングルの視界に、怪訝そうに眉根を寄せるミシュレイとアレグレットの顔が入ってくる。また一から説明するのがひどく億劫になって、ユルングルはいかにも面倒くさそうに「こっちの話だ」と怪訝な視線を一蹴した。


 そんなユルングルの耳に、明朗なミシュレイの声が届く。


「なら俺もユルンちゃんと一緒で、死の樹海に入れんじゃねえの?」


 言って同じように濃い藍色の髪をつまむミシュレイに、ユルングルは皮肉めいた笑みを返した。


「…やってみるか?その代わり命はないと思った方がいいぞ」

「……………やめとく」


 強張った笑みを浮かべてゆっくりとかぶりを振るミシュレイに訝しげな瞳を向けたのは、いつの間にやら同じように座り込んで会話を聞いていたラン=ディアだった。


「なぜです?ミシュレイの髪色からして有している魔力はユルングル様に毛が生えた程度でしょう?でしたらユルングル様同様、耐性があるのでは?」

「瘴気に晒され続ければ、と言ったはずだぞ」


 それにはアレグレット同様小首を傾げるので、ユルングルは言葉を言い添える。


「ミシュレイ、お前は俺と違ってずいぶん健康そうだな?病に冒された事はあるのか?」

「…?病気なんてほとんどなんねえよ。なっても風邪引くくらい。…低魔力者が病弱って何情報だよ?」

「お前の生まれは確かソールドールと対をなす西の元要塞だっただろう?」

「……………何で知ってんだよ?」

「お前は生まれてから一度もこの死の樹海から大きく離れたことはないと言っていたな?」

「……………だから、言ってねえし」

「買い付けに行く街も、死の樹海と平行した道を西に進んだ場所にある街だったか?」

「……………ああ、はいはい、そうだよ」


 なぜ知っているのかを訊ねる気力も失せて、ミシュレイは諸手を上げるように返答する。

 それらを聞いていたラン=ディアは思議するような仕草を見せて、得心したような声を上げた。


「そうか…!ミシュレイは瘴気に晒される機会自体がほとんどなかったのですね…!」

「そういう事だ。お前も高魔力者同様、瘴気に対して耐性がない。なのに魔力自体はほとんどないから、死の樹海から離れて瘴気の多い土地に行けば一気に体が瘴気に蝕まれる。…気を付けろよ、ミシュレイ」

「…!何だよ、それ…!!じゃあ、俺一生ここから出られねえのかよ…!!?」

「…お前だけじゃない。この周辺で生まれ育った低魔力者はみんなそうだろうな」

「…っ!!」


 いかにも納得がいかない、といった風に眉間にしわを寄せて、ミシュレイは拳を握る。

 この事実は、自由に生きるミシュレイにとっては耐え難いものだろう。


(…それでも、伝えないわけにはいかない)


 これはミシュレイの命を左右する、最も重要な情報なのだ。

 ミシュレイを哀れに思う憐憫の情と、どうにかしてやりたい、という思いを含んだため息をいたところで、ユルングルの視界にある物が入り込んだ。


 それは現状の自分の状況をわずかでも打破できるかもしれない、希望の産物_____。


 ユルングルは目を見開いたまま、吸い込まれるようにゆっくりと立ち上がって、死の樹海へと心許ない足取りで進む。


「…っ!!?ユルンちゃん…!!」

「…お前たちはここにいろ。絶対に中に入るなよ」


 顔を向けることなく抑揚のない声でそれだけを告げて、ユルングルは死の樹海へとたった一人、躊躇うことなく森の奥にその身を紛れ込ませた。


**


「…!!?」


 ガーランドに強弓を返したところで、ダリウスは弾かれるように死の樹海がある方へと顔を向けた。

 その血の気のない蒼白な表情に、ガーランドは不安に駆られて眉根を寄せる。


「…ダリウス?…どうした、顔色が悪いぞ?」

「…………ユルングル様の魔力が……消えました」

「…!!?」


 ぽつりと呟くように落としたダリウスの言葉に、ガーランドもまた血の気が引くのを感じた。

 魔力が消える理由に思い当たるものが、ガーランドの中ではたった一つしかないからだった。


 それは_____その者の死を意味する。


 思ったのと同時に、ダリウスはそのまま勢いよく駆け出した。本能の赴くまま、と言ってもいいかもしれない。まるでユルングルがどの道を歩いたのかあらかじめ判っていたかのように淀みなく進むダリウスを、ガーランドもまた必死に追いかけた。


「そこを開けてやれっっ!!!」


 必死の形相で駆けてくるダリウスに制止を求める声をかけようとした南門を守備する騎士たちは、だが大声でそう命令するガーランドを見止めて慌てて門を開く。それすらまるで見えていないかのように突き進んだダリウスは、死の樹海の前で立ち尽くすように森を見つめているラン=ディア達の姿を見咎めて、声を張り上げる。


「ラン=ディア様…!!!ユルングル様をどうなさったのです…っ!!?」

「ダリウス殿下…!?」

「ユルングル様…!!!ユルングル様っっ!!!!!」


 なりふり構わず大声を張り上げて、今まさに死の樹海に入らんばかりの勢いを見せるダリウスの体を、アレグレットとミシュレイは慌てて引き止めた。


「落ち着けって…!!ダリウスの兄貴…っっ!!!」

「ダリウス殿下…!!死の樹海に足を踏み入れてはいけません…!!」


 力の限り押し留めようと奮闘する二人の力すら意に介さないと言わんばかりに、ダリウスの体は一歩、また一歩と徐々に死の樹海へと歩を進めていく。


(くそ…!!何て力だ…っっ!!)


 決して二人の力が弱いわけではない。むしろ鍛えぬかれた体に加え高魔力者でもあるアレグレットがいるだけでも、相当の力がダリウスにかかっているはずだ。その上、手練れと言われたミシュレイの力さえ加わっている。


 それすら凌駕する、ダリウスの力。すでに理性を失い、タガが外れていると言ってもいいだろう。ユルングルの名を何度も叫び、おそらくは自分の体を押し留めている二人の存在すら気が付いてはいない。まるで失いかけた宝物を取り戻そうとすがるようにひたすら伸ばした手が、あとわずかで樹海の木の幹に届こうかという時に、ひどく穏やかで静かな声がダリウスの耳に届いた。


「ダリウス、落ち着け。俺はここにいる」


 伸ばした手が、ピタリと止まる。

 木の幹に手を当てて、覚束ない足取りで樹海から姿を現したユルングルの姿に、ダリウスは呆然自失と立ち尽くした。目を見開いたまま、体が硬直したように動かない。声を出したいのに上手く口が動かせず、わずかに開いた口に何とか声を載せる。


「………ユル……グ…さま………?」

「何て顔してるんだ?ダリウス。…言っただろう?俺は死の樹海に入っても大丈夫だとな」


 にやりといつもの笑みを落とすユルングルの手には、見たこともない何かの実と、薬草らしきものが見えた。それに無言のまま視線を向けるダリウスに、ユルングルは「ああ」と小さく声を落とす。


「滅多に見られない貴重な物があったからな。……ラン=ディア」


 名を呼んで、持っていたそれをラン=ディアに投げ渡す。


「…!?これはフリューネとアーティオウレン…!?」

「よく知ってるな?それは薬効の高い代物なんだが、なかなか見つからない希少な物なんだ。市場にも決して出回らないんだが……ここは未踏の地だから奥に入ればまだまだあるかもな。…それで俺に合う薬か何か作れないか?」


 自身が飲んだあの薬用酒に、この二つが使用されているとは夢にも思ってはいないのだろう。そんなことを露にも思っていないユルングルに失笑を漏らしつつ、だが未だに呆然と立ち尽くしたままのダリウスに憐れみを多分に含んだ視線を向けた。


「…承知しました、作ってみましょう。………それよりもダリウス殿下を」


 呆れたように首肯して、ユルングルはダリウスの前まで歩み寄る。


「ダリウス、判るか?」

「…………ユルングル様……?お身体は____」

「何ともない。……心配をかけてすまなかったな」


 ダリウスの安堵を誘うように、ユルングルはできるだけ穏やかな声音で告げる。その声音と言葉でダリウスはようやく心に落ち着きを取り戻したのか、強張っていた体がふわりと軽くなった。


 そうして、目を覆う。


「……貴方という方は………!」

「…すまなかった」


 もう一度謝罪を口にして、ユルングルは今出たばかりの死の樹海を振り返る。


 ダリウスに、多大な心配と心痛を与えてしまった。それを悪いと思っているのに、なぜだが死の樹海に再び足を踏み入れたいという願望が、湧いて止まらない。許されるのなら、このまま樹海の奥へと行ってしまいたい衝動に駆られて仕方がなかった。


 どうしても胸の内で己の勘が叫ぶのだ。

 『死の樹海に入れ』と____。


 その恍惚とした瞳を死の樹海に向けるユルングルの姿がダリウスの視界に入って、思わず引き戻すようにユルングルの腕を掴んで強く引っ張った。


「ユルングル様…!一体何をお考えなのですか…!?」

「…!?」

「もうこれ以上、ここには近づかないでください…っ!!」

「…判ってる。樹海の中には入らない。……中には、な」

「…!?ユルングル様…!?」

「ダリウス。俺はこれでも、ずいぶんと譲歩している方だぞ?」

「…!」


 強く鋭い眼差しと、反面どこまでも静かな声音でユルングルはぴしゃりと告げる。


 こういう時のユルングルは、決して自身の意志と行動を曲げたりはしない。それは単身で要塞に乗り込むと決めた時と同じように、その強い瞳が明朗と告げているのだ。


 『俺の邪魔をすれば、許さない』と____。


 (……そういえばゼオン様から死の樹海の話を聞かれた時も、何かお心に引っかかっておられるように見えた……)


 そのユルングルの様子に、ひどく不安が頭をもたげた事を覚えている。

 あの時からすでに、こうなる事が決まっていたのかもしれない。


 異論を唱えようとしたダリウスの口はだがやはりその思いに至って、ユルングルの強い瞳に押されるまま一度逡巡した後、肩を落とすように小さくため息を落とした。

 そうして、恭しくこうべを垂れる。


「…ご随意ずいいに」


 その声音はやはり、諦観を強く含んでいた。


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