ガーランド=シルフォード・一編
「…結局ユルン達は追いついてこなかったわね……」
乗客の一人がぽつりと呟いたのは、ソールドールの過剰なまでに堅牢な城壁が視界に入った頃だった。
到着したのは宵の口を少し過ぎた頃。足が棒になりながらも、何とか体力を振り絞ってたどり着いた安堵感から余裕が生まれたのか、乗客たちの念頭に真っ先に浮かんだのが、あの荷馬車に置き去りにしてしまった病弱な青年の事だった。兄たちと共にすぐに後を追って来るだろう、と思われた彼らは、結局ソールドールに着いた後でさえ、振り返ってもその姿を見る事はない。その事実が、彼を置き去りにしてしまった罪悪感を刺激して仕方がなかった。
それは、乗客たちを安全な場所まで送る、という大義名分を掲げて自身を納得させた師父もまた、同様だった。
(……本当に大丈夫なんだな?ユルン…。……信じるぞ)
内心でそう自身を宥めながら、それでも引かれた後ろ髪に誘引されるように、師父は今来た道を振り返る。その視界に自然と入った乗客たちの面々を見て、師父は大きく目を見開いた。
「……待て…!!一人足りないぞ…!!あの小男はどうした…っ!?」
問われて、乗客たちもまた周りを見渡す。これだけの人数がいながら、あの小男がいつ集団を離れたのか誰一人として把握していない現状に、師父はやはり胸騒ぎがして仕方がなかった。
それは、あの小男の身を案じての事ではない。彼が妙にユルンに執着していた事は、乗客のすべてが知る所だった。彼がここにいない、という事は、他ならぬユルンの身が危険に晒されている、という事に他ならないのだ。
不安に駆られて来た道を引き返そうとした師父を、だが彼の姿を見つけた門兵がいつの間にやら歩み寄って声を掛ける。
「ガーランド様…!?お戻りになられたのですか…!?」
「いいところに来た…!彼らは森で盗賊に襲われた乗合馬車の乗客たちだ!!彼らの面倒を見てやってくれ!!それと、すぐに馬を持ってこいっ!!」
「…!?…馬、ですか!?またすぐにどこかへ行かれるのですか!?」
「少し森まで様子を見に行くだけだっ!!早くしろ…っ!!」
その慌てた様子で怒鳴る師父に食い下がったのは、狼狽した門兵ではなく、いつの間にか師父の傍まで駆け寄っていたアーリアだった。
「師父…!?どうしたの!?やっぱりユルンの身に危険があるのね…!?」
その狼狽しきったアーリアの様子に、我を失っていた師父は波が引くように頭が冴えていくのを自覚し、再び失態を演じてしまった事に頭を抱えた。
(……しまった、俺が慌ててどうする……)
不安や恐怖は伝染する。それを知っているはずの自分が率先して不安を煽るなど、愚行にもほどがある。
師父は自嘲めいた表情を落として、まるで失言を隠すように口元を手で押さえた。
(…どうにもいかんな。ユルンの事になると、つい我を忘れちまう……)
あの痛々しいほどに病弱なユルンの姿が、心をざわつかせて仕方がない。あるいは彼を心配するあまり、ダリウスの過保護が伝染したのだろうか。
師父は頭を冷やすように一度大きくため息を吐くと、不安げな顔を向けるアーリアを見下ろした。
「ユルンのところに戻るね!?だったら私も___」
「いや、戻らない」
「…!」
「…すまんな、アーリア。つい慌てて不安を煽っちまったな。…ユルンは大丈夫だ。あの馬鹿みたいに強いダリウスとアレインがついているんだぞ?…それにユルン自身も強い。そう心配するな」
「……でも、ユルンもダリウスさん達もまだあの森から出てこないのよ…!?何かあったんじゃ…!」
「ダリウス達だけが出てきたのなら、そうかもしれんな。だが、どちらも出てこない、という事は一緒に行動している可能性が高い。…あの過保護なダリウスの事だ。ユルンの体を心配して、森で一晩明かしてからソールドールに向かおうとしているのかもしれん」
ユルンは言っていた。ラン=ディア達を攫った者たちは魔獣除けの魔道具を持っている、と。その魔道具を拝借しているのなら、あの森で一晩明かす事はそれほど危険ではないだろう。
「…さあ、みんな疲れただろう…!宿を手配させるから、そこで休んでくれ!」
アーリア同様、不安げな表情を取る乗客たちに出来る限り明朗な声を出して、師父は街に入るよう促す。未だ不安げな表情で立ち尽くすアーリアにも、安心させるように頭を豪快にひと撫でして、父親の元に行くよう背を軽く押して先を促した。
「…馬はもういい。彼らを宿まで連れて行って、便宜を図ってやれ」
門兵は承諾の意を示すように一度敬礼し、乗客たちを引率して街の中に入る。
師父も同様に城壁をくぐった後、その後姿をしばらく眺めて彼らとは別の方向へと足を進めた。
「……あの、師父は一体……?」
街に入ってしばらく進んでから、アーリアの父は師父が見えなくなった後方を一度振り返って、門兵に訊ねる。
「…ああ、あの方は貴方たちにも師父と呼ばせておられるのですね!」
呆れ笑いとも、思い出し笑いとも取れる哄笑を漏らして、門兵は乗客たちを振り返る。
「あの方は、ここソールドールの騎士団団長を務めておられる、ガーランド=シルフォード様でいらっしゃいます」
「…!?」
「執政補佐官も兼任しておられて、このソールドールは実質的にあの方でもっているようなものなのですが、どうにも放浪癖がございまして、我々も頭を悩ませているのですよ。……まあ、今回はご自分で街を出られたわけではないようですが」
「……?…それは……どういう?」
「ああ!いえいえ、こちらの話です」
怪訝そうに小首を傾げる乗客たちに、門兵は慌てて手を振る。
「……師父って、そんなに偉い人だったんだ……」
ぽつりと呟くアーリアに、門兵は再び哄笑した。
「あの方は誰に対しても、あの闊達な態度をお見せになりますからね!気安くていらっしゃる事は悪い事ではないのですが、その分、威厳は目減りします。他国からの賓客などがいらした時は困りものですが、あの何にも動じない豪快さに何度も救われた我々にとっては、なくてはならないものだと思っておりますよ」
だからこそ、先ほどの狼狽っぷりを見せる原因となった『ユルン』という名の人物に、門兵は強く興味を惹かれた。
(…ガーランド様が狼狽なさる事と言えば、あの領主が馬鹿をした時くらいだ)
慌てふためき、怒り心頭に発したように怒声を響かせるのは、そんな時しかない。
門兵は溢れ出た好奇心に促されるように、乗客たちに訊ねた。
「…先ほど話題に出ておりました『ユルン』という方は、どういった方なのです?」
「……どういう…?」
改めて問われて、乗客たちは返答に窮した。そもそも、彼らの素性を知る者はいない。知っている事は、皇都から乗ってきた事とソールドールに向かっている事。そしてユルンとダリウス、ラヴィが兄弟で、彼らの護衛としてアレインが、病弱なユルンの治療のために神官のラン=ディアが追従している、という事だけだった。
乗客たちは互いに顔を見合わせ、困惑の喧騒を起こしながらぽつりぽつりと説明を始める。
「……とても病弱な青年です。心臓が悪くて、一人では歩けないくらい虚弱で……」
「口は悪いんだけど、とても優しい子よ」
「ダリウスさんっていうお兄さんがいて、とても仲のいい兄弟なの」
その説明に、いまいち人物像が掴めず、門兵は「はあ…」と困惑めいた声を落とす。判った事と言えば、彼ら乗客たちが揃いも揃って『ユルン』という名の青年に好印象を抱いている、という事くらいだろうか。
病弱で口は悪いけど優しくて兄弟仲がいい。これだけ聞くととても弱々しい印象だが、他ならぬガーランドは彼を強いと評してはいなかっただろうか。
(……何とも興味のそそられる方だ。一度お会いしてみたいものだな)
謎の人物に小さく笑みを落として、門兵は宿の前で乗客たちを振り返り、明朗な声で告げる。
「本日は本当に災難でございましたね。どうぞ宿でゆっくりとお休みを。何かご不便がございましたら、何なりとお申し付けください」
**
「師父…!?ではなくて、ガーランド様…っ!!お戻りになられたのですね…!!」
要塞に入るや否や、ガーランド帰還の一報を受けた騎士団副団長のアレグレット=ヴァーンズが、驚きと共に心底安堵したような顔で迎え入れた。
「何だ、その情けない顔は」
「不安にもなりますよ!あの領主さまがまた独断専行で色々とやらかしてるんですから…!」
言って、その凛々しい顔にため息を落とす。
こうやって狼狽するところは、まさに優男と言った風体に見えるが、彼が顔に似合わず鍛え上げられた肉体を保持している事は騎士団員全員が知る所だ。外から見ても筋骨隆々であるガーランドとは違って、アレグレットは細身に見えて、脱ぐと鍛え上げられた筋肉質が顔を覗かせる。その見た目に騙された者は数知れないが、唯一の欠点と言えば身分を重んじて、あの愚行ばかりを冒す馬鹿領主に強気に出られない所だろうか。
「もっと強気に行け」
「無理を仰らないでください…!私はガーランド様のように領主さまの後見人ではありませんし、そもそも文官ではありませんので執政に関して口を挟む権利はありません…!」
その的を射た意見に、ガーランドはため息を落とす。
通常、騎士団員である武官が執政に口を出す権利はない。それは執政を司る文官の領域で、武官が侵していい領域ではない。それを許してしまえば、武力を行使して執政を恣にする者が現れるからだ。ゆえに武官も文官も独立した機関で、互いに不可侵が大前提の上で国は成り立っている。
その不可侵を侵すガーランドの存在は、異例中の異例だった。
騎士団団長という武官でありながら執政補佐官という文官まで担う事になったのは、前領主が亡くなった時、次期領主である令息がまだ七歳と幼かったからだ。親友でもあったガーランドを信頼し、彼に息子の後見人を託した事で、ガーランドは騎士団団長でありながら執政補佐官の任に就いた。それは当然、国から認可を受けての就任だったが、現領主となった令息はとにかく不満だった。年を重ねるにつれ、現領主がガーランドの存在を疎ましく思っている事は、ソールドール内ではすでに周知の事実だろう。
それゆえに、現領主は何かにつけて国の情勢を見てこいと命じてガーランドをソールドールの外に追いやった。それが原因でガーランドの放浪癖がついたのは明らかだし、今回の彼の不在も、やはり彼を疎んじた現領主が例のごとく国の情勢を視察しろと命じた結果だった。
「…それにしてもずいぶんお早いお帰りですね?領主さまはひと月は視察しろと言っていませんでした?」
「何だ?目の上のたんこぶが帰って来てがっかりしたか?」
「それは領主さまでしょう…!私はむしろ帰ってきてくださって大いに助かりましたよ!」
ガーランドの揶揄を四角四面に受け取って、馬鹿正直な反応を示すアレグレットに、くつくつと笑いを落とす。
「…ずいぶん、きな臭い話があちこちから上がっていたからな。本当はもう少し情報を集めてから帰るつもりだったが、どうにも気になる奴がいて、ずるずるとここまでついてきた」
本当はさっさと乗合馬車を下りて、視察に戻るつもりだった。いや、戻らなければならない事情があった。
皇都で皇王が崩御されたという情報が耳に入って、ガーランドはそれに関する情報を集めるうち、他でもないソールドールが戦禍に巻き込まれるという、きな臭い噂を耳にした。おまけにあの馬鹿領主がそれに一枚噛んでいるのではないかという耳を疑う噂まで聞こえてきて、ガーランドはさすがに無視するわけにはいかなくなった。
それに関する情報を集めようと乗った乗合馬車に、奇しくも彼らはいたのだ。
最初はただのお節介だった。
心臓が悪いというその青年は自身の足で歩くこともできず、兄だという男に終始抱えられたまま、一日のほとんどを寝て過ごしていた。おそらく彼が低魔力者でなければ、これほど後ろ髪を引かれずに済んだのだろう。この国は異常なほど、低魔力者に対して侮蔑的感情を抱いている。魔力至上主義者たちは相手が病弱だからと手加減するような優しさを持ち合わせてはいない。彼らは病弱だろうとなかろうと、低魔力者であれば変わらず攻撃対象に定めるのだ。
彼の兄も、護衛だというアレインも強いのだろうと予想はついたが、多勢に無勢ともなれば助けが必要になることもあるだろう、とお節介が顔を出した。
様子を見て、ある程度のところで大丈夫だと見切りをつけるつもりだったが、彼らを見ているうちに妙なことに気がついた。
どうにもアレインやラン=ディアの、あの兄弟に対する慇懃な態度が、あまりに度を超えているように見える。同じ兄弟だというラヴィでさえ、ダリウスとユルンに対して気安さはない。むしろ礼を尽くした態度に見えて訝しく思ったが、それよりもなお不思議に思ったのが、彼らが総じて兄であるダリウスよりも弟であるユルンに重きを置いているように見える事だった。
そもそも大司教だというラン=ディアが礼を尽くすこと自体、おかしい。並の貴族であれば、礼を尽くすのは貴族であってラン=ディアではない。大司教が礼を尽くすべき相手は、皇族か教皇に限られていた。その彼がなぜ、あの兄弟に対してこれほど礼を尽くすのか、ガーランドの好奇心は大いにくすぐられた。
情報収集を優先すべき、という警告が絶えず念頭にはあったが、それと同じく彼らと行動を共にすべき、という根拠のない警鐘まで鳴って、ガーランドは街に着くたびその二つを秤にかけては後者が勝って乗合馬車を降りれずにいたのだ。
(…今となっては、その決断は間違いではなかったか……)
そんな根拠のない自信が、ガーランドの胸の内にはある。
そのおかげで、少なくとも『ユルン』という青年の一端は垣間見ることが出来た。これからも傍にいれば、彼の全容を知る事は出来るだろうか。
そんな事を何とはなしに思案しているガーランドを、アレグレットは眉根を寄せて訝しげな瞳で見つめ返した。
「…気になる奴……ですか?」
「大物かもしれんぞ?何せ、この強弓を見事に扱って見せたんだからな」
言って、少し後ろを追従して歩くアレグレットに、弓を投げ渡す。
「…!?これを…ですか…!?私でさえ、やっと扱えると言った程度なのですよ…!」
優男だと言われがちだが、その筋肉量には確固たる自信がある。加えて白に近い灰色の髪色を有する純然たる高魔力者であった事も相まって、力には相当の自信があるアレグレットですら、この強弓は手に余る代物だった。ようやく目標を射抜くことができるようになりはしたが、ガーランドのように容易く扱うには程遠いと言わざるを得ない。
それを見事に扱って見せたという___人物。
「一体どれほど鍛え抜かれた体をなさっていたのです?それともかなりの高魔力者ですか?」
「病弱で痩せ細った低魔力者だ」
「…!?………またまたご冗談を」
アレグレットは一瞬目を白黒させて、笑い含みに言う。彼が冗談を言う事は稀だが、これに限っては冗談にしか聞こえない。
「冗談なものか。俺が実際にこの目で見たからな」
鼻息荒く告げるその返答に茫然自失となるアレグレットを尻目に、ガーランドは歩を進めながら矢継ぎ早に告げる。
「あの森にまた盗賊が群れをなしていたぞ、アレグレット。全員ふん縛っているから明日、あの森に騎士団員を数人連れて盗賊どもを連行しろ。壊れかけた馬車も放置しているから撤去を頼む。あのままにしていると他の荷馬車が通れないからな。できるだけ早く処理をしろ」
「…!…盗賊って…まさか師父お一人で?」
「そんなわけあるか!その強弓を扱った奴の兄貴と彼らの護衛だという男の二人がほぼ一掃した」
「……!…何ですか?その化け物級に強いでたらめな一行は……」
「まったくだ」
呆れたように告げるアレグレットにガーランドも同調して、くつくつと笑いを落とす。
「そのでたらめな一行がおそらく早朝には入街検査の列に並ぶだろう。やたら小綺麗な顔をしたユルンという名の黒髪の青年と、その青年を抱きかかえている長身の金髪の男だ。彼らがいる一行を見かけたら検査は必要ない、すぐに街に通してやれ。黒髪の青年は心臓を病んでいてかなり病弱だからな。決して手荒には扱うな、丁重に扱え。必要な物があれば何でも便宜を図るんだ」
次から次へと繰り出してくるガーランドの指示に、アレグレットは再び目を白黒させた。
ガーランドは基本的に、特定の誰かを特別視することはない。実際には気に入った人間もいるのかもしれないが、少なくともそれを判りやすく表現することはなかった。来賓の客に対してですら、彼の口から『丁重に扱え』などと気を配った言葉が出てきたことはないのだ。
だがたった今彼から出た言葉は、いかにもその病弱な黒髪の青年を気に入っていると言っているように聞こえる。病弱な体を気にかけているだけなのかもしれなかったが、やけに嬉しそうに語る彼の表情を見れば、そうではない事は一目瞭然だった。
何やら信じられないものでも見ているように茫然自失と後をついてくるアレグレットを軽く一瞥して、ガーランドは訝しげに眉根を寄せる。
「……アレグレット、返事はどうした?」
「…!は、はい…!承知いたしました…!」
慌てて返事を返したところで、未だに荷物を持たせたままだという事にアレグレットは気づく。
「申し訳ございません…!お荷物をお持ちいたします…!」
「…ああ、これだけでいい」
言って手渡したのは、たった一つの鞄だけ。残り三つの鞄を肩にかけたままでいるガーランドに、アレグレットは小首を傾げた。
「それはよろしいのですか?」
「これは俺のじゃない。ユルン達に返さなきゃならんのだが……お前、キリア=ウォクライという男を知っているか?」
「…?よくご存じですね。つい最近、傭兵たちの取りまとめ役に就いた男ですよ。お知合いですか?師父…ではなくて、ガーランド様」
その返答に今度はガーランドが目を丸くして、呆れたようにため息を落とした。
「……本当に何でも知ってる奴だな、あいつは」
「……?」
やはり小首を傾げるアレグレットを軽く一笑に付して、ガーランドは自分の執務室の扉を開く。
ここソールドールは元要塞という事もあって、城壁と連結された城塞が門から見て左右に二つ設けられていた。右側の城塞は主に執政を執り行う文官たちの執務室などが置かれ、左側の城塞は騎士団の本拠地として使用し、判りやすく差別化するためにこちらの呼称を『要塞』と呼んでいる。その両方の役職を持つガーランドの執務室は当然どちらにも存在していたが、ガーランドは元々が騎士団出身なだけに、要塞にある執務室の方がやはり居心地がよさそうだった。
ガーランドは半月ほどぶりに帰って来た執務室のソファに預かったという荷を置いて、人心地つくように自身も豪快にソファに腰を下ろした。
「…早速で悪いが報告を頼む。さっき言っていた領主のやらかした事ってのは何だ?」
その質問には、ほとほと困り果てたように肩を落とした。
「…皇王陛下が崩御された事はご存じですか?」
「…ああ、聞いた。どうやら謀反が起きたと言うが、それを起こしたのがあの正義感の権化だと言われる皇太子殿下だぞ?信じられるか?」
「信じられませんよ。おまけにその皇太子殿下に命じられて、うちの領主さまは雇う傭兵の数を大幅に増やしたそうですよ。その彼らを謀反を行うための私兵にするつもりだと知って拒んだら、今度は騎士団を引き連れた皇太子殿下が、このソールドールを攻めると宣言なさったそうです。……こんな話、信じられます?」
「…!?何だ、その根も葉もない話はっ!!?まさかそんな与太話を信じてるんじゃないだろうなっ!!?」
「当然信じませんでしたよ。……最初のうちは」
「…!……どういう事だ?」
「実際に騎士団が皇都を出立して、ここソールドールに向かっているそうです。斥候を出して調べさせましたので間違いありません。…あと数日中にも、ここは戦禍に巻き込まれるでしょう」
そのアレグレットの報告に、ガーランドは文字通り頭を抱えてため息を落とした。
そもそも皇王が崩御したという情報すら、ガーランドは合点がいかなかった。
実際に拝謁した事は当然ないが、彼の強さは歴代の皇王の中でも群を抜いていたし、病らしい病があるという話も聞いたことはない。そんな皇王の突然の崩御____その死には裏があるだろうと踏んで調べていくうちに、謀反を起こして皇王を弑したのが皇太子だと知って、ガーランドはなおさら怪訝に思った。
やはり皇太子に拝謁したことはないが、聞こえてくる彼の人物像はどれも清廉潔白で忠勇義烈だと彼を褒め称えるものばかりだ。どれほど斜に構えて見たところで、『謀反』と言う卑怯な言葉とはあまりにかけ離れた存在だろう。
皇王との不仲説も噂ですら、ただの一度も耳にした事はないが、たとえ本当に二人の間に確執があったのだとしても、あの正義感の強い皇太子は謀反を起こす事よりも、正面を切って正々堂々と皇王に訴える方を選択するだろう。そう確信を抱けるほど、彼の為人は公明正大を絵に書いたような人物だった。
どうにもこの話は胡散臭い、そう思って調べてはみたが、これ以上の情報は得られなかった。聞こえてくるのは真実なのか定かではない噂ばかり。それも不思議なことに、皇都とソールドールではその噂が変化していた。
皇都周辺での噂では、皇太子は皇王崩御の直後から行方が知れないという。皇宮を出た形跡はおろか、皇都を出たという目撃情報すらないらしい。だがソールドールに近づくにつれ、皇太子はソールドールに向かっている、という噂に変わる。目的は一切語られていなかったし、アレグレットに聞くまで、まさかソールドールを攻めるために向かっているなどと露ほどにも思わなかったが、本当に騎士団を引き連れてソールドールに向かっているのならば、皇都周辺で流れる噂の方が嘘であったという事なのだろうか。
「……本当に皇太子殿下は、ソールドールを攻めてこられると思うか?」
「判りません。斥候によると皇太子殿下のお姿は見受けられなかったそうです。代わりに騎士団を指揮していたのは、色黒で白髪の若い男だったと」
「…色黒で白髪の男…?覚えがないな…」
元より貴族の顔など覚える気もないが、皇国内で名を馳せている実力のある騎士団員は軒並み記憶に留めている。特に騎士団を指揮する立場に立てるほどの者ならば、なおさらだったが、ガーランドには全く覚えがなかった。
「私にも思い当たる人物がおりません。……実はもう一つ妙な事がありまして、その騎士団の行軍が非常に緩やかなのです」
「……?牛歩の速度って事か?」
「はい。普通、攻め入るならば出来得る限り早く進軍します。そうでなければ相手に時間を与える事になりますから。…ですが、今回の騎士団の動きは明らかに足が遅い。それも故意に遅くしている節があります」
「それは…妙だな」
「……はい、まるで攻め入る気はないのだと言っているような気がして……」
「ないのかもな」
困惑したように落としたアレグレットの言葉に、ガーランドはきっぱりと同意を告げる。
「…?それは……どういう…?」
「アレグレット。今、低魔力者たちを中心に、まことしやかに流れる噂を知っているか?」
「噂……ですか?」
「『皇王は本当はご存命で、魔力至上主義者の貴族や官吏に拉致監禁されている』」
「…!?」
「俺は正鵠を得た言葉だと思うがな」
何を聞いても腑に落ちなかったガーランドは、唯一この噂だけは妙に胸の内にすとんと落ちた。
あの皇太子が、実父である皇王を弑するとはどうしても思えない。だが、腕が立つと言われたあの皇王を、皇太子以外が殺せるだろうか。多勢に無勢という手もあるが、多くの者が動けば目立って誰かの目に留まる。そのような話が出ていないという事は、この可能性はないという事だ。弑したのが、皇太子でも、他の誰かが徒党を組んだわけでもなければ、皇王はまだ生きている、という事になる。それでも弔いの鐘が鳴ったという事は、拉致監禁をして死んだと見せかけている、という事だろう。
アレグレットはガーランドの説明を聞きながら、何か思い当たる節があるのか深刻そうな表情を取って、口元を手で押さえていた。そのただならぬ雰囲気に気づいて、ガーランドは眉根を寄せる。
「…どうした?アレグレット」
「……師父、もう一つ、ご報告する事がございます」
「何だ?」
「……昨日、夜遅くに領主さまの賓客だという怪しげな一行がやって来て、この要塞の最上階を占拠されました」
「…!!?何…っ!!?」
耳を疑う報告に、ガーランドは勢いに任せて立ち上がる。
報告をする間も、アレグレットの胸の内に広がるざわつきは納まらない。脈を打つ鼓動が耳にまで聞こえるのは、目の前のガーランドがこれ以上にないほど怒気を露わにしているからだろうか。それとも、腑に落ちてしまった信じがたい事実を、認めたくないからだろうか。
アレグレットは強くなる動揺を何とか抑えながら、報告を続ける。
「…その一行の中に、連行される咎人が一人おりました。なぜか頭に革袋を被せられ、手足を頑丈な鉄の錠で拘束されておりましたが……妙なのです」
「……妙?」
「…咎人と言うには、あまりに身なりがよく……いえ、それ自体はおかしな事ではないのですが……一行のその咎人に対する態度が、あまりに礼節正しいのです。まるで……まるで、王をお連れしているような_____」
アレグレットの報告を聞き終わる前に、ガーランドは執務室の扉を怒りに任せて叩くように開く。あまりの勢いに蝶番が振動して、古い建物だからか経年劣化した壁の塗装がパラパラと粉のように落ちた。アレグレットは内心、扉が壊れたかと軽く一瞥してから、慌ててガーランドの後を追った。
「師父…っ!!?お待ちください…っ!!」
「お前はそんな怪しい奴らが要塞に入る事を、ただ指をくわえて見てたのか…!!それでも副団長かっっ!!!?」
「師父のおっしゃりたい事は理解していますし、お怒りもごもっともですよ…!!ですが、拒めない事情があったのです…!!」
「言い訳なんかいらんっっ!!行動で示せっっ!!!」
「彼らは追い出せません!!!」
「あの馬鹿領主の賓客だからかっ!!?そんなものくそくらえだっっっ!!!」
「いいえっ!!!彼らの身元を保護しているのは領主さまではありません!!!彼らの上にいるのは____」
アレグレットが途中で口を噤んだのは、占拠されているという最上階に足を踏み入れた彼らに敵愾心を向け、進路を塞ぐように数人の男が前に立ちふさがったからだ。まるで我が物顔で跋扈する彼らに、ガーランドは最大級の不興を示すように眉間にしわを寄せた。
「…俺の城で何をしている?俺は許可を出した覚えはないぞ…!!?」
「……おや?ここは貴方の城ではないでしょう?領主が言った通りずいぶんと傲慢な事だ」
立ちふさがる彼らのさらに奥から冷ややかな声が降ってきて、ガーランドは渋面を取ったままそちらに顔を向ける。
「ピアーズ=ガーデンと申します。以後お見知りおきを。…領主からは貴方が当分帰らないとお聞きしておりましたので、ご挨拶が遅れてしまいました。無作法をいたしまして申し訳ございません」
慇懃な態度と物言いをしてはいたが、心が伴っていないのは一目瞭然だろうか。笑顔を湛えてはいたが、その笑みすら人を小馬鹿にしているように感じられて、ガーランドはなおさら不快を露わにした。
「…ここは俺の城だ。要塞は騎士団の本拠地だと知らんのか。ここは団長の俺が治めている。それを踏まえた上でもう一度忠告するぞ。俺の城に無断で足を踏み入れるな…!!」
その取り付く島もないようなガーランドの様子に、ピアーズは大仰にため息を落として見せた。
「…やれやれ、聞く耳を持たないという感じですね。我々は領主の許可を得てこちらを借り受けているのですが……いいでしょう。領主の許可で足りないのならば、こちらではどうです?」
言って、ピアーズは胸元から一つの書状を取り出して、ガーランドに差し出す。それを怪訝そうに眉根を寄せて受け取ったガーランドは、だが真っ先に目に入った決して無視できない紋章に目を白黒させた。
「…!?君子蘭の紋章…っ!!?皇族の勅許状だと……っ!!?」
そこに書かれていたのは、他でもないここソールドール城塞の一切の使用権を認可した旨と、それを認可した皇族の名前が記載されていた。書かれていた名は____デリック=フェリシアーナ。
「さすがの貴方も皇族からの命には逆らえぬでしょう。…ここは確かに貴方の城なのかもしれませんが、あくまで国から預かった物です。所有の与奪権は国にある」
何も言い返せないガーランドをほくそ笑んで、ピアーズはガーランドの手にある勅許状を奪うように取り返す。
そうして、納得など決してできないといった風のガーランドを一瞥して、ピアーズは高らかに宣言した。
「ご理解いただけたようで何より。今からこの階は我々が所有いたします。誰一人として足を踏み入れませんよう、団長ならばしっかりと目を光らせてくださいね亅




