それぞれの旅路 ユルングル編・終編
「…ユルンちゃんって、もしかして心臓が悪い?」
突然かけられた言葉に、ユルングルは目を瞬く。
「………よく判ったな。知り合いにでもいるのか?」
「…俺の死んだ弟と症状がよく似てる。顔面蒼白、いつでも手足は冷たくて、気怠そうな表情に食が細い。……飯、ちゃんと食えてないのか?」
腕にかかる彼の重みは、あまりに軽い。それがそのまま彼の命の軽さを物語っているようで、気が塞いで仕方がなかった。
「…心臓を患う前に別の病で生死の境を彷徨ってな。半月ほど昏睡状態に陥って、以来胃腸が弱いままで、まともな食事にありつけてない」
「…!何でそんなに弱いんだよ!!別の病って何だ!?そんなに病気が好きなのか!?」
「………好きで弱いわけじゃないぞ」
「とにかく飯は食え!!食欲がなくても人間食ってりゃ元気になるんだから!!」
その精神論とも支離滅裂とも取れる理論に、ユルングルは思わず吹き出すように笑う。
「何だそれは…!いいな、それ…!支離滅裂だが、嫌いじゃない」
その笑顔は、今まで何度か目にした酷薄の笑いでも、皮肉めいた笑いでもない。その屈託のないユルングルの純粋な笑顔に、ミシュレイは再び思考が停止する。
「………うわあ……!ユルンちゃん、顔が綺麗だからそうやって笑うと、かーっわいい…!!」
悪寒の走るその言葉から逃れるように、ユルングルはすかさずミシュレイの両頬を力の限りつまんで左右に引っ張る。
「………死にたいのか?死にたいんだな?」
「……いひゃい…いひゃいってば、ユルンちゃん……」
「……お前は男色の毛があるのか?」
「…?あるわけねえよ、そんなの。女の方がいいに決まってんだろ?気色悪い」
痛む頬を持て余しながら、ミシュレイは答える。
「でも、美人は好き!」
悪びれる事もなく笑顔でそう告げるミシュレイに、ユルングルは心底疲れ果てたようにため息を吐いた。
そうして唐突に、眠気が襲って来る。思えば、今日は昼過ぎに目覚めてから一度も眠ってはいない。気分が高揚して珍しく睡魔が襲ってこなかったのだが、今になってようやく眠気が戻って来た。あの化物弓を扱って体力が疲弊した事以上に、安堵できる状況になってようやく心が落ち着いたのだろう。___いや、この男の言動に振り回されて、精神が擦り減ったからかもしれない。
「………疲れた……」
ぽつりと呟いて、うつらうつらとし始めるユルングルに、ミシュレイは目を瞬く。
「……え!?待った…!ユルンちゃん、寝ちゃうの…!?」
「………眠い……まだそんなに……起きてられないんだ………」
「ユルンちゃんが寝た後に、兄貴がやってきたらどうすればいいのさ…!?」
正直もう悪い予感しかしない。
「………自分で…何とかしろ……死なないようにな……」
「わーーーっ!!!お願いだから寝ないでっっっ!!!!」
「………どうしても無理なら………合言葉を………」
「合言葉…?」
訊き返したそれに返って来たのは、寝息だけだった。
「わーーーっっ!!お願い!!合言葉っっ!!」
「…………『僕が』……」
「…!」
「……………『僕が誰だか、言ってごらん』………」
呟くように囁かれたその言葉を最後に、ユルングルは完全に眠りに落ちる。その夢現の中で落とされた寝言のような意味不明な言葉に、ミシュレイはただただ呆けて、不安だけが胸中を跋扈する羽目になったのだった。
**
(……ユルングル様…!!)
やはり離れなければよかった、とダリウスは後悔した。
五体満足であれば、それでもいい。彼はもう子供ではないし、剣術の技量としては自分を凌駕している。だが彼は今、自力で歩くことさえできないのだ。背を壁に預ける事すら辛そうだった。そんな彼がもし何者かに襲われれば、抗う術の一切を失っている彼は、なす術もなく、されるがままに容易く連れ去られるだろう。
できれば彼を抱えているのが、師父でありますように____そう、祈るような気持ちで視界に入れた人影は、だが見も知らぬ人物であったことに落胆と、それ以上に怒りが沸々と込み上げてくるのを自覚した。
ダリウスは気配を断って背後から忍び寄り、腰に下げた剣を握る。
躊躇いはなかった。この男は、自分の主を今まさに連れ去ろうとしている敵なのだ。
殺気を押し隠したまま一気に薙ぎ払われた剣は、だが男の体に当たる直前、察して振り返った男と目が合った事でわずかに躊躇いが生じた。その隙を突くように、男は既のところで剥ぎ払われた剣を避けて、たまらず後方に飛び退いた。
「……っぶね…っ!!何だよ…っ!!有無を言わさず…ってか?」
ユルングルを抱きかかえた状態でも軽快な動きを見せるその男に、ダリウスは目を見開く。ラヴィたちを攫った者たちとは明らかに動きの質が違う者だ。そして彼らより手練れである事は一目瞭然だった。だが何よりダリウスの驚嘆を誘ったのは、彼の髪色が濃い藍色だった事だろう。彼は明らかに低魔力者だ。その彼が、同じ低魔力者であるユルングルを攫う理由に見当がつかず、ダリウスは怪訝そうに眉根を寄せた。
「……金と引き換えに、ユルングル様を攫えと言われましたか?」
「…!?なんっだよ、それ…!!元はと言えば、あんた達が置き去りにしたのが悪いんじゃねえか…!!」
あまりに失礼な物言いに、ミシュレイの堪忍袋の緒も切れ始める。
そもそも病弱なユルングルを、こんな寒空に一人残して行ったことが原因なのだ。彼を助けて礼を言われることはあっても、突然剣を向けられる謂れはない。その上、迎えに来たのが兄ではなく、高魔力者の従者らしき男であったことにも腹が立った。大事な弟なら、誰よりも先に兄が迎えに来るべきだろう。
ミシュレイは、抱えたユルングルを起こさないように静かに下ろして木に預けると、臨戦態勢を整えるべく両腰に下げた双剣を手に取る。
「……理由はどうでもいい。今すぐユルングル様を返しなさい…!!」
「嫌だね…!!大事にしない奴に返してやるもんか…!!」
「…では、力づくで返していただきます…!!」
そう言い終わるや否や、ダリウスはすぐさま駆け出して間合いを詰める。その勢いのまま、脇腹目がけて薙ぎ払われた剣を双剣で受けたミシュレイは、あまりの剣圧にそのまま後方へと吹き飛ばされた。
「…っ!!?…なん…って馬鹿力なんだよ…っ!!」
双剣で受けたはずが、衝撃で腕だけではなく脇腹にまで鈍痛が響いて仕方がない。脇腹を軽く抑えるミシュレイを、だが攻撃したはずのダリウスは目を瞠るように視界に留めていた。
「……自ら後方に飛び退きましたね?」
手応えはなかった。剣は確かに彼の双剣に当たりはしたが、思ったほどの重みはない。双剣で受けるはずだった彼は、だが当たる直前、瞬時の判断で受けてはいけないと判断したのだろう。つまりは、いなされたのだ。彼の勝負勘の強さと、瞬時に対応できる瞬発力に、ダリウスは素直に感嘆の息を漏らす。
「当たり前だろうが…!!そんなの馬鹿正直に受けてたら体がいくつあっても足りねえよ…!!」
「…そうですか。…残念です。貴方のような才ある者を、手にかけなければならない事が」
その仄暗い声が、ミシュレイの背筋を凍らせ慄然とさせる。彼は、本気で自分を殺すつもりだ。そして、自分は決して目の前の男には勝てないだろう。そもそも自分は低魔力者で、どうしたって力は見劣りする。それだけではなく、剣術としての技量も適わない。たった一度剣を交えただけで、ミシュレイの野生の勘が彼には決して勝てない事を強く告げていた。
その恐怖が、幸いにもミシュレイの頭を冷やす事になる。
(……待てよ?何で俺殺されそうになってんだよ…?俺別に人さらいじゃないぞ……?)
「…覚悟はよろしいですね?」
「…!?ちょっと待った…!!俺、返さないとは言ったけど人さらいじゃないぞ…!!!」
「今さら言い逃れですか?」
「本当だって…!!見りゃ判んだろ…!!」
「…ええ、そうですね。貴方が持っているその荷がユルングル様の物だという事は理解しています」
「…!?奪ったんじゃなくて一緒に持ってきただけだってば…!!!」
「………では、その荷と一緒にユルングル様を返していただけますか?」
その問いかけにミシュレイは一瞬逡巡して、わずかな抵抗を見せる。
「………兄貴が迎えに来たらな」
「…そうですか。どうやら話し合いは平行線を辿るようですね」
ユルングルを返してもらえないのなら、話し合いに意味はない。
ダリウスはそのまま有無を言わさず、剣を構えて駆け出した。
「…!!?ちょっと待った…っ!!今のは冗談……っっ!!」
叫んだところで、ダリウスの足は止まらない。ミシュレイは頭を働かせて何とか目の前の高魔力者を止める方法を模索するが、焦れば焦るほど思考は空回りした。
何か方法があったはず、誰かが言っていた。一体、誰が____?
そう思った瞬間、ミシュレイの頭にユルングルが口にした寝言が浮かぶ。
あれが本当に合言葉だろうか。ただの寝言のような気もする。その疑心を払拭する何かがあるわけではないし、そもそも時間はない。目の前の男は今まさに自分を殺そうと剣を携えて、もう目前まで迫っているのだ。
ダリウスが剣を構えてミシュレイに振り下ろす瞬間、だがそれよりもわずかに早く、ミシュレイは叫ぶ。
「……『僕が誰だか言ってごらん』…っっ!!!!」
「…!!?」
ミシュレイの頭部わずか上、鼻の差程度の位置で、ダリウスの剣がピタリと止まる。恐る恐る目を開いたミシュレイの視界に、唖然とした表情で茫然自失と立ち尽くす彼の姿があって、ミシュレイは腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
「……合言葉……それは、ユルングル様から……?」
「……そうだよ。兄貴が襲ってきたら言えって……兄貴じゃなくても通じるんだな……」
ようやく人心地ついたように、ミシュレイは肩を落としながら盛大にため息を吐く。そんなミシュレイを尻目に、ダリウスは眠りにつくユルングルを視界に入れた。
____『僕が誰だか言ってごらん』
それはユルングルと共に森で暮らすようになってしばらくの間、ダリウスを大いに困らせた言葉だった。
変わらずダリウスの弟でいたいユルングルと、従者としての立場を優先させようとするダリウス。ユルングルはその兄の立場が気に入らなくて、わざと返答に困る質問をした。
自分は一体誰なのか____?
第一皇子であるユルングル=フェリシアーナだと答えれば、幼いユルングルは目に見えて肩を落とし、瞳を濡らしただろう。反対に自分の弟であるユルン=フォーレンスだと答えれば、彼は満面の笑みを浮かべるであろうことは容易に想像がついたが、それは主に対して嘘を吐く事になる。頑なに従者の立場を崩さないダリウスにとって、真実ではない事を口にするわけにはいかなかった。
結果としてダリウスは、この質問にただの一度も答えたことはない。いつも必ず返答に困って、ただ一言「申し訳ございません」と謝罪の言葉を口にするに留めたのだ。
森を出てリュシテアに入った頃、ユルングルは面白がってその時の言葉をそのまま合言葉に流用した。それはきっと、何も答えなかった自分への戒めなのだと、ダリウスは今でも思っている。
「……この合言葉を教える方は、ユルングル様が心を許された方だけです。………貴方は一体……?」
怪訝そうな視線を向けるダリウスに、ミシュレイ自身もまた首を傾げる。
「……心を許す……?……って言われても、俺は別に……。ユルンちゃんを助けたって言っても、放置したところで自分でどうにかしただろうし……?」
「…!………助けた…?」
「奴隷商人だよ、男娼専門の。ユルンちゃんをずっと狙ってたみたいだけど?」
心当たりはないのかと言外に含ませたその言葉に、ダリウスの念頭に真っ先に浮かんだのは、乗合馬車に居合わせた、あの猫背の小男だった。ユルングルを奴隷___しかも男娼にしようとしていた事実に、ダリウスは腸が煮えくり返る思いがして、剣を握る手に力を込める。同時に、そんな魔の手から救ってくれた恩人に対して非礼を働いてしまった事実が、ダリウスの心に重くのしかかった。
「……申し訳ございません。ユルングル様を救っていただいた恩人に剣を向けるなど……お詫びのしようもございません…!」
先ほどの態度とは打って変わって慇懃な態度で深々と頭を垂れるダリウスに、さすがのミシュレイも目を白黒させる。
「……いや……!だからさっきも言ったけど、俺が何もしなくてもユルンちゃん一人でどうにかしてたから……!」
「………ユルングル様を返していただいてもよろしいですか?」
遠慮がちに訊ねられたその言葉には、やはり小さな抵抗を見せるように、ミシュレイは座ったまま少し体をずらして、ダリウスとユルングルの間を塞ぐように身を置いた。そうして、ぽつりと呟く。
「…………何で、兄貴が迎えに来ねえんだよ。……ユルンちゃんは兄貴が迎えに来るって信じてたんだぞ…!!」
まるで拗ねた子供のようなふくれっ面を逸らして、ミシュレイは愚痴をこぼす。ミシュレイの頑なな態度の理由がようやく判って、ダリウスは微笑ましくわずかに笑って見せた。
「…!何で笑うんだよ…!!大事な事なんだぞ…!!誰が迎えに来てくれたかって事は…!!」
「…いえ、申し訳ございません。貴方を笑ったわけではないのです。………私です」
「…?何が?」
「私がユルングル様の____ユルンの兄です」
思わぬ告白にミシュレイは目を白黒させて、ユルングルとダリウスを互替りに見る。
「………え……何?……血の繋がりはないの…?兄代わりってやつ…?」
「……どうでしょう?血の繋がり、という意味では従兄弟ですので、まったくないわけではございませんが………弟を返していただいても?」
こう言われては、返さないわけにはいかない。ミシュレイは首肯する代わりに、二人の間に割って入った体をわずかにずらして、承諾の意を示す。それに小さく一礼して、ダリウスは眠っているユルングルに歩み寄り、頬に軽く手を当てた。
「……大丈夫だよ、眠ってるだけだからさ」
その言葉通り、特に外傷もなく寝息を立てているユルングルの様子に、安堵のため息を落とす。
「……まだそんなに起きてられないって言ってたけど、そんなにしょっちゅう寝てんの?ユルンちゃんって」
言いながら、ユルングルの荷をダリウスに手渡す。
これほど近くで騒いでいたはずなのに一向に目覚める気配のないユルングルの様子に、ミシュレイはわずかに不安を覗かせている。よほど深い眠りなのだろうか。
「……ひと月ほど前に大病を患って以来、一日のほとんどを眠って過ごされておりますから……」
「半月ほど昏睡状態に陥ったってやつ?そんなに最近の話なんだ」
「…!?……そのような事まで、お話になられているのですね……」
ダリウスは目を丸くして、茫然とミシュレイを視界に入れた。
ユルングルは必要に迫られなければ、自分の事を決して人には話さなかった。特に自身の病に関しては、自分が弱い、という事を自ら公言しているようで嫌気が差すのか、問われても口を閉ざす事が多い。そのユルングルが、出会ってわずかのこの青年に対して抵抗もなく話していたという事実に、ダリウスは素直に吃驚した。その驚嘆の色を濃く表した表情で目を瞬いたまま自分を凝視するダリウスに、ミシュレイは怪訝そうに小首を傾げる。
「何?顔に何かついてる?」
「……いえ、弟はずいぶん、貴方に懐いたようですので……」
「懐いた…?どっちかっていうと嫌そうな顔してたけど……こんな顔」
言って、ユルングルの表情を真似てか、眉間にしわを寄せてみる。それに思わず笑いを落として、ダリウスは改めて目前の男を視界に入れた。
この短いやり取りだけでも、彼の人柄がよく判った。出会ったばかりのユルングルの身を案じ、兄が迎えに来ない事を自分の事のように憤慨した、彼。軽妙な語り口とは裏腹に、誠実な人物である事は間違いない。妙に心を温かくさせるこの青年に、きっとユルングルも心を開いたのだろうか。
何とはなしにそう思いながら、ダリウスは改めて謝意を告げる。
「……本当に弟がお世話になったようで、感謝申し上げます」
「いいってば…!それよりもお兄さんたちはこれからどうするのさ?」
「……ここで仲間が来るのを待つつもりです。弟も疲れ果てたようですので、ここで一晩明かしてからソールドールに向かおうかと」
「お兄さん達の目的地もソールドールなんだ!俺も一緒!だったらさ、俺も一緒に残るよ!!人手が多い方が何かと便利だろっ!?」
言外に、一緒にいたい、と言っているような気がして、嬉々とした表情を見せる彼にダリウスは、首肯する代わりに微笑みを取って承諾の意とした。
**
「…………ダリウス……?」
夜深い森の中、焚火の熾が爆ぜる音だけが聞こえる静寂の中に、掠れた声が響く。
「……ユルングル様、お目覚めになられましたか?」
潜めた声を出して安堵の表情を落とすダリウスに、ユルングルはただ頷く。
目覚めた視界に、いつもと変わらないダリウスの横顔が入ってきて、ユルングルはすぐさま、いつもの通りに自分がダリウスに抱えられたまま眠っていた事に気がついた。
「……無事にラヴィたちを助け出せたみたいだな……。ラン=ディアの怪我の具合はどうだ?」
「頭部を殴られたようですが、大きなこぶだけで済んだようです」
笑い含みにそうか、と答えて、焚火の向こう側で眠る四人の人影を視界に入れる。アレインとラヴィ、そしてラン=ディア、最後に同じように雑魚寝しているミシュレイの後姿で視線を止めた。
「……ミシュレイとの誤解も解けたようだな」
見たところ、ミシュレイに目立った怪我はないようだ。ユルングルは小さく安堵の息を漏らす。
「…もう少し早く気付いていれば、剣を交えずに済んだのですが……」
「…!……怪我をさせたのか…?」
「……脇腹を少し痛めたようです。軽傷でしたし、ラン=ディア様に治療していただきましたので、ご心配には及びませんが、申し訳ない事をいたしました……」
「…お前は俺が絡むと加減を知らないからな……」
ダリウスの強さは、自分が一番よく判っている。普段は理性が邪魔をして実力の半分も出さないダリウスだが、自分が絡むとタガが外れて容赦がない。攫われたと思い込んで理性を失っていたのだろうと容易に想像がついて、ユルングルは呆れたように、ため息を落とす。
それに申し開きをするように、だがことさら我を失った自分を不甲斐なく思うように、ダリウスは決まりの悪い表情を落として口を開いた。
「……貴方を返さない、と言われたので、つい……」
「…?返さないと言われたのか?」
「兄が迎えに来ないと返さない、と……」
「…?お前が迎えに来たんだろう?」
「はい。ですが兄とは思っておられなかったようで……」
事の成り行きを聞いて、怪訝そうに顔をしかめていたユルングルは、ようやく得心したようにため息を落とした。
ダリウスの普段の態度を見れば、確かに兄と思う事は難しいだろう。彼の立ち居振る舞いはどう見ても、従者のそれに他ならない。ミシュレイがダリウスを兄と認識できないのは当然の事だろうし、何も知らないダリウスが普段通りの振る舞いをする事もまた、仕方のない事だろうか。
恩人に非礼を働いたとあって、心底いたたまれない顔をするダリウスを見上げて、ユルングルもまたひどくいたたまれない気分になった。
「………すまないな、俺がもっと詳細を伝えられれば良かったんだが」
ダリウスが悪いわけではない。何も知らなければ当然の振る舞いなのだ。
そう言外に告げる己の主を視界に入れて、ダリウスは少し困ったように微笑む。
「…詮無い事です。貴方は、ご自分の未来は視えておられないのですから」
「…!!?」
静かに告げられたその言葉に、ユルングルは弾かれるようにダリウスを見返して、ただただ目を見開いた。
「……知って、いたのか?」
呆然と返された言葉に、ダリウスは微笑みを返す。
「…ご自分の未来をお知りになりたい時は、いつも必ず傍に控えている私の未来を通して、確認しておられたのですね?ですが、今回はユルングル様お一人だけが取り残された。周りに誰もおられない状況では、ご自分の未来を把握なさる事は難しいでしょう」
その通りだった。
自分が死んだ後の未来はどうあっても視えないのと同じように、自分の未来もまた、決して見る事は叶わなかった。血友病の大きな発作が起こる事も、自分の最期が断頭台の露と消えるという事も、知っているのはダリウスの未来を通して視たからだ。
だから未来を視ている時、決してダリウスの瞳に自分が映っている姿を見る事はないのだ。自分が視ているのは必ずダリウスか、他の誰かの未来___それが幸か不幸か、ユルングルの現在を知る指標となった。
これが、ダリウスには告げていない後ろめたい三つの事実の内、最後の一つだった。
「………いつ気付いた?荷馬車で発作を起こした時か?」
細心の注意を払ったつもりだった。この事実を素直にダリウスに告げれば、今まで以上に彼は自分から離れる事を厭うだろう。それ以上に、彼に心配をかけたくなかった気持ちが大きかったのかもしれない。ダリウスには気付かれないよう振舞ったつもりだったが、たった一度、失態を演じてしまったのは荷馬車で発作を起こした後、宿で失言をした事だろう。
苦し紛れの言い逃れをした事が良くなかったのだろうか。言外にそう告げたユルングルを、ダリウスは穏やかな微笑みで迎え入れる。
「…自分の癖は、意外と自分では気づかぬものです」
「………癖?」
「貴方は嘘を吐かれる時、必ず見せる癖がございます。宿でその癖をお見せになられた時、気づいたのです。…ああ、貴方はご自分の未来だけは視えておられないのだ、と」
取り繕うように一度視線を右に泳がせてから、もう一度視線をこちらに戻してくる___ユルングルが幼い頃から嘘を吐く時だけに見せる、癖だった。
寝耳に水のその話に、さしものユルングルも目を瞬く。
「………まさか、今までの嘘も全部……?」
その質問には明言を避けて、微笑むに留める。明言は避けてはいても、肯定している事は明らかだろうか。
いつも結局、最後はこうやって兄に頭が上がらなくなるのだ。何をするにも兄が一枚上手で、気づいた時には諸手を上げるしかない。これはきっと育てられた者の宿命なのだろう、とユルングルはもう諦観してはいたが、さすがに嘘までばれていた事は青天の霹靂だった。
善良なふりをして、とんだ食わせ者だと、ユルングルはたまらず憮然とした表情でため息を落とす。
「…………ちなみに、俺の癖というのは、どんなだ?」
「お教えすれば、今後嘘を吐かれる時、意識なさってお見せにはなられないでしょう。私の胸の内にだけ留めておきます」
その返答に内心で舌打ちをする。
そう簡単には手の内を教えてはくれないようだ。
拗ねた子供のように、そっぽを向くユルングルに小さく失笑を漏らして、ダリウスはもう一度、眠っているミシュレイを視界に入れた。
「……ずいぶんとミシュレイ様をご信頼なさったようですね?」
意外な問いかけに、ユルングルはそっぽを向けた視線をダリウスに戻す。
「……不満か?」
「いえ、警戒心のお強い貴方が簡単にお心を開かれたようですので、意外だと」
「……心を開いた、か……。……そう……だな。…きっと、俺たちと重ねて見えたからだろうな……」
「……え?」
小首を傾げてユルングルに視線を移したダリウスの代わりに、今度はユルングルが眠るミシュレイの後姿を視界に入れる。
「……あいつも親に捨てられたらしい。心臓を患った弟がいたようだが、亡くしたそうだ。……立場としては俺というよりもお前だな、ダリウス。……だからだろう……何となく、ミシュレイがお前に見えた」
きっと、苦労したはずだ。皇王の援助があった自分たちとは違って、たった一人で心臓を患った弟を背負って生きてきたのだ。特に彼は、ダリウスと違って低魔力者だ。きっと世間の風当たりも強かっただろう。その苦労が、自分を育ててくれたダリウスと重なって見えた。心を開いたという自覚はなかったが、つい心を許してしまう事は仕方のない事だろうか、とユルングルは思う。
目を瞬きながらその話を聞いていたダリウスは、得心したように、ユルングルと同じくミシュレイを視界に入れる。
出会ったばかりのユルングルに対して、彼もまた、心を砕くような態度を見せた。
ユルングルの身を案じ、兄が迎えに来なかった事を自分の事のように憤慨した、彼。
それは彼の人柄がそうさせるのだろうと思ったが、きっとそればかりではないのだろう。
ダリウスは思って、呟くように言葉を落とす。
「……ではきっとミシュレイ様も、亡くされた弟君とユルングル様を、重ねて見ておられたのでしょうね……」
熾の爆ぜる音だけが聞こえる森の中で、かそけく響いたダリウスのその言葉を最後に、耳をそばだてていたミシュレイは、ゆっくりと瞼を閉じて眠りに落ちた。




