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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路・ユルングル編・終三編

 ラン=ディアは本来、ここで死を迎えるはずだった。


 乗客たちの治療中、ラヴィが森の中に引きずり込まれる瞬間を目撃して慌てて後を追ったが、森に入った瞬間、後頭部を殴打され昏倒。そのままその場で殺されるはずだった。


 彼が死を免れたのは、ライーザとユーリの拉致事件を起こした連中が皆、あの場で自死を迎えたからだ。本来ここでラヴィを拉致するのは、ライーザとユーリを拉致した連中の生き残りを含む五人組だった。あの時、殺すはずだったライーザの始末を後回しにした事で、彼らはユーリ拉致の任務を失敗する羽目になった。余計なものはその場で処理をする。そう学んだ彼らが、目撃者であるラン=ディアをその場で始末するのは当然の事だろう。


 だが今回ラヴィを拉致した者の中に、あの時の生き残りはいない。ラン=ディアは目撃者として昏倒させられたものの、彼を殺すよりもその場を離れる事を彼らは優先させた。ユルングルの思惑通り、事が進んだ形と言えるだろう。


 彼の死を回避する事が、皇王の死とは違って容易く行えた理由は、ラン=ディアの死が決して変わらない未来___分岐点ではないからだ。

 彼は成り行きでユルングル達と行動を共にする事になったが、一度隠れ家を出立した際、呼び戻さなければ彼は再び各地を回り、この時期はちょうどソールドール周辺に滞在していたはずだった。そしてそこで魔獣に襲われ大怪我を負って、ユーリシア達と共に騎士団に随行していたダスクによって、命を救われる___これが元々の彼の正史だった。


 大怪我を負うものの、死の影はなかったラン=ディアの背後にそれが視えたのは、自分たちと行動を共にしたからだ。そもそも彼は、巻き込まれる必要のない人物だった。もっと言えば、この旅に随従する必要すらない。ライーザと共に隠れ家に残して行けばよかったものを、わざわざ同伴させたのは自分の体調を管理してくれる者が必要だったからだ。自分の都合で、ラン=ディアを付き合わせたのだ。


 病弱なユルングルにとって、ラン=ディアの存在は必要不可欠だった。彼がいてくれた事で助かった事は一度や二度ではない。そしてそれは、ソールドールに着いた後も継続されるのだ。だがそれはユルングルにとっての話で、ラン=ディアにはきっと迷惑極まりない話だろう。


 彼を危険に晒した罪悪感は、多分にある。だが、回避することが出来た今回の二人の拉致事件をそのまま放置したのは、後々ユーリシアとゼオンの命を脅かす事になるからだ。だから判っていても、放置するしかなかった。


 これが、ダリウスには告げていない後ろめたい三つの事実の内、二つ目の事だった。


「…師父、頼みがある」


 ダリウスとアレインが森に入ってすぐ、ユルングルはおもむろに師父にそう告げる。


「何だ?」

「乗客たちをソールドールまで連れて行ってくれないか?」

「…!…待て、お前はどうするつもりだ?」

「言っただろう。俺はここでダリウス達を待つ」

「ちょっと待て!俺にお前をここに置き去りにしろって言ってるんじゃないだろうな!?」

「そう言ってるつもりだが、そうは聞こえないか?」


 変わらず飄々とした答えが返って来て、さすがの師父もいつもは朗らかな顔に怒りを表わす。抑えきれない怒りを誇示するように、師父は荷馬車の壁を拳で叩きつけた。


「……頼むから馬車を壊してくれるなよ」

「…お前は!!一体どれだけ自分の身をぞんざいに扱うつもりだ!?判ってるのか!!お前は歩けないんだぞ!!それだけじゃないっ!そうやって座ってるだけでやっとだろうが!!そんなお前を一人こんなところに残してみろ!!何があっても誰も助けちゃくれないんだぞっ!!」


 なりふり構わず怒鳴る師父の声が、馬車の外で休む乗客たちの耳にも入って来て、小さな喧騒を巻き起こす。何があったのかと怪訝そうな声と視線が向けられたその中心から、気怠そうなため息が落とされた。


「……だったら、さっき獲得した一日我儘聞き放題の権利でも行使するか」

「お前な…!」

「ここの結界は、今まで一度も壊れたことはないのか?」


 突然、前後の脈絡がない質問が飛んできて、師父は盛大に顔をしかめる。


「…?…過去に幾度かあるが……何だ、急に……?」

「…魔獣の中には、人間の匂いに敏感に反応して襲って来る者もいるそうだな。これだけの人数が一所ひとところに留まって、奴らが来ない保証があるのか?」

「…!」

「確かに今は結界が張ってある。だがこれが絶対に壊れない保証もないだろう。留まるよりも進んだ方がいいのは火を見るより明らかだ」

「……その未来が視えるのか?」

「視える」


 はっきりと断言するユルングルに、師父は言葉を失う。


「たとえそれがなくとも、彼らの精神状態を思えば一刻も早く安全なソールドールに連れて行ってやる方がいい。時間が長引けば長引くほど、一人二人と歩けなくなる者が出てきて森から出るのが難しくなるぞ」

「…だったらお前も来い。お前くらい軽けりゃ、抱えて歩く事くらい造作もない」

「だめだ、俺を連れて行けば、あんた達を危険に晒す事になる」


 ぴしゃりと一蹴するユルングルを、師父は再び怪訝そうな表情で迎えいれた。


「……一体、お前たちは何と戦ってるんだ?何に狙われてる?」

「……そのうち判る」

「…?…俺にも関係する事か?」

「…無関係ではいられないだろうな」


 まるで禅問答でもしているような気になって、師父はたまらずため息を落とす。何を質問しても、彼から返ってくるのは抽象的で曖昧なものばかりだ。明確な答えがいつまで経っても得られない事に辟易しつつも、未来が視えるという彼の言葉は決して違えないのだろう。それだけが判って、師父はようやく諦観のため息をいた。


「…最後に訊くが、お前はここに残っていても問題はないんだな?」

「…ああ」

「嘘はくなよ。外敵に命を脅かされるかどうかだけじゃないぞ。お前の場合は病気もあるからな。それを含んだ上で訊いてるんだ。…未来が視えるんだろ?お前自身の未来に、問題はないんだな?」

「ない」


 はっきりと言質を得た事で、師父は安堵と、そして後悔を含むため息を落とした。


「……できれば最初から言ってほしかったもんだ。ダリウスにお前を頼むと言われて承諾しちまったんだぞ、俺は」

「ダリウスに言えば絶対に俺から離れないだろうが」

「だからと言って、俺に約束を反故するような事をさせるな。…まったく、ダリウスに恨まれるな、これは」

「こんな事でダリウスが人を恨むか」

「聖人君子じゃあるまいし、大事な弟を置き去りにされて恨まない奴がいるか」

「聖人君子だ、あれは」


 さもありなんと答えるユルングルに、師父は目を瞬いた。


「俺が絡むと人が変わるが、ダリウスは基本善人の塊だ。そもそも人を傷つけられるような人間でもないし、穏やかで人を恨むという事を知らない」


 昔からそうだった。彼は常に穏やかで周りをよく気遣い、誰かを恨んでいる姿などただの一度も見た事はない。寡黙であまり表情を変えない為か、誤解を招くことはままあったが、それでも長く共にいる者には彼の穏やかで善良な人柄がよく伝わるのだろう。それは、皇族を離れる以前からの知人であるラヴィが、初めてユルングルと対峙した時にダリウスをそう評していた事でも、よく判る。


 手段を選ばず汚い手でも平気で使う自分とは、一線を画した存在だ。だからこそ、ユルングルにとってダリウスは、今でも憧憬しょうけいと羨望を抱く、自慢の兄だった。

 それは、幼い頃と何一つ変わってはいない。


 師父は、まるで兄を絶賛する弟を見るような視線を向けて、にやりと笑う。


「お前は本当に兄貴が大好きなんだなあ」

「…頭が湧いてるのか、お前は」


 何やら和む師父がこの上なく腹立たしくなって、ユルングルは盛大に渋面を取って見せる。


「いいから、さっさと行け!」

「おー、怖い怖い」


 闊達な笑い声を上げながら、師父は訝しげな表情を取ったまま二人の会話に耳を澄ましていた乗客たちに視線を向ける。粗方の会話は聞いていたようだから、詳細な説明は必要ないだろう。そう判断して、師父は簡単に話を切り出した。


「聞いた通りだ。すぐにここを発つ。準備を整えて集まってくれ!」


 乗客たちは怪訝そうに互いの顔を見合わせながらも、準備を整えて荷馬車に立つ師父の周りに集まって来た。


「……師父、この森を歩いて出られるのかい?」


 不安げに、乗客の一人がそう訊ねる。


「問題ない。女子供の足だと三時間ってとこか。…辛いだろうが頑張ってくれ」

「師父、馬が一匹健在だっただろう?そいつを連れていけ。荷物を置けるし、歩けなくなった者を乗せる事も出来る」


 ユルングルの提案に師父が首肯するのを見届けて、御者が率先して馬を馬車から外す役を買って出る。


「…悪いがこの荷物も頼めるか?ソールドールについたらキリア=ウォクライという男がいるから、そいつに渡しておいてくれ」

「…何だ?ソールドールに知り合いがいるのか?」

「ああ」


 言いながら、ユルングルは自分たちの荷物を師父に預ける。残したのは背もたれに使っている荷と、深紅と紺碧の剣を包んだ二つだけ。それに気づいた師父が、怪訝そうに訊ねる。


「そいつはいいのか?」

「ああ、これはいい」


 大事そうに傍らに置いているところを見ると、よほど大事な物なのだろう。それを察して、師父は一つ頷く。


「…キリア=ウォクライだな?探してみるが…会えるか判らんぞ?」

「問題ない、すぐ会える」

「…お前は本当に何でも判るんだな」


 呆れたような声を出しながら、師父は受け取った荷を一旦荷馬車の隅に置いた。

 そんな二人の会話を聞いていた乗客たちは、さらに怪訝そうな表情を取って、なおさら不安そうに訊ねる。


「……ユルンは、一緒に来ないの?亅


 二人の会話がいかにも、ユルングルを置いていく事を前提に話が進んでいるようで、気が気ではない。気づけば、いつもユルングルの周りにいた四人の姿は誰一人見当たらなかった。そして彼は歩くどころか、こうやって背もたれに身を預けていることすら辛そうなのだ。そんな彼を一人ここに置いていくということは、死の宣告を告げているに等しい。


 そんな乗客たちの不安げな視線の集中砲火を受けて、ユルングルは苦笑を漏らす。


「俺は大丈夫だ。すぐに兄さんたちが戻って来る。戻ってきたらすぐに後を追うから先に行っててくれ」

「ならユルンも私達と一緒に行きましょう?ダリウスさんたちはすぐに後を追ってくるんでしょう?」

「ここにいると約束したんだ。俺がここにいなかったら、兄さんが慌てるだろう?森に探しにでも行かれたら厄介だからな」

「………でも……」


 それでも残していく事に後ろ髪を引かれて食い下がる乗客たちを、師父が宥める。


「大丈夫だ。こいつの強さはもう知ってるだろう?殺しても素直に死にはしないさ。それに、すぐにダリウス達が戻ってくる。足の遅い俺たちが先行して進んでおかないと、逆に足手まといになりかねんからな」


 足手まとい、という文言に、乗客たちは躊躇いながらも不承不承と得心し始める。特に今からは日が沈み、さらに視界が悪くなる一方なのだ。女子供もいる足では、本当に足手まといになりかねない。ここで押し問答を繰り返していつまでも留まるより、進む方がいい事は明らかだろう。


 ようやく乗客たちにも先に進む決意がついて、いざ出発しようとしたその時、彼らの中から一人飛び出してユルングルが座る荷馬車に飛び込む影があった。


「…私…!ユルンとここに残る…!!」

「…!アーリア…!?」

「私、足は速い方だもの…!足手まといになったりしない…!」


 目を白黒させるユルングルには構わず、アーリアは彼から離れない事を意思表示するかのように、ユルングルの腕にしがみつく。そんな突然の娘の行動に父は唖然となりながらも、咎めるように声を荒げた。


「アーリア…!我儘はやめなさい!!お前も一緒に来るんだ!!」

「嫌よ!!どうしてみんなは平気なのっ!?ユルンは体が弱いのよ!!一人残して行くなんて絶対にダメ…!!」


 誰もが一度は考え、そして決意を鈍らせたその事実を、アーリアは躊躇いもなく言葉にする。言葉にされると、なおさらその事実が大きくのしかかって、ようやく進む決意をした乗客たちにまで再び躊躇いの心が生まれた。小さく起こったどよめきを辟易したように耳に入れた師父は、どうしたものかと頭を抱えてため息をいた。


「……ずいぶんお前さんに懐いているようだし、置いていくか、ユルン」

「冗談を言ってる場合じゃないだろうが」


 冗談じゃなく諸手を上げてるんだ、と言わんばかりの師父の表情を見返して、ユルングルも小さくため息を落とした。


「……アーリア、俺は大丈夫だ」

「だけど…!」

「俺は自分の身くらいは守れるが、アーリアも一緒となると守り切れない。見ての通り満足に動ける体じゃないからな」

「………私は……足手まとい……?」


 躊躇いがちに問われたその言葉に、ユルングルは即答する。


「ああ、足手まといだ。師父と一緒にいてくれる方が、俺は安心できる」

「…!……安心……するの?」

「当たり前だろう。俺の傍にいてお前に何かあれば、俺は二度と自分を許せなくなる。一番安全な師父の傍にいてくれる方が、俺は安心だ」

「………私が怪我するのは……嫌…?」

「おかしなことを聞く奴だな。嫌に決まってるだろう。アーリアには笑っていてもらわないと、俺が困る」


 欲しかった返答以上のものをユルングルが口にするので、アーリアは思わず頬を紅潮させる。和んでいる場合でも、恋慕の情にほだされている場合でもない事は百も承知だが、慕っている相手からこう言われて、ときめかないわけがない。紅潮する頬を押し留めるように両手で覆い隠すアーリアに、ユルングルは怪訝そうに小首を傾げた。


「…?…どうした、アーリア?頬が赤いぞ?熱でもあるのか?」


 言って、冷たい手を額にあてがって来るので、アーリアはなおさら紅潮して思わず後ずさった。


「な、な、な、何でもないのよ…!!大丈夫だから…!!」

「…?そうか?」


 いつの間にやら険呑な空気が一変して、その微笑ましい二人のやり取りを、乗客たちは失笑交じりに見つめる。その甘い空気に気後れするように、師父もまた呆れと面白がる様子を交えた笑みを落とした。


「……で?どうするんだ、アーリア?行くのか、行かないのか決めてくれると助かるんだがな」

「…!い、行きます…!!」


 未だ紅潮する頬を持て余しながら、アーリアは慌てて返事をして荷馬車を降りる。そしてもう一度、荷馬車に残るユルングルに視線を向けた。


「…本当に、大丈夫よね?ユルン……」

「ああ、大丈夫だ。約束する」

「……ソールドールで、また会ってくれる?」

「俺から会いに行く」

「…!約束よ…!」

「ああ、俺は約束を破ったことはないんだ。必ず会いに行く」


 その言葉に満足したようにアーリアは満面の笑みを見せて、父親の元に駆け寄る。ようやく、ぞろぞろと歩みを進め始めた乗客たちを見届けて、最後に残った師父も荷を担いでユルングルに顔を向けた。


「俺にも会いに来いよ、ユルン。一日我儘言い放題の権利を捨てるなら別だがな」

「…?それはもう使っただろう?」

「お前は欲がない奴だな。こんなものに使うな。自分の事に使え」

「……意外と律儀な奴だな」

「当然だろ、義理堅い男で通ってるからな」


 言って、闊達な笑い声を上げる。


「…だったら、あんたが会いに来てくれ。あんな要塞の中に俺がおいそれと入れないだろう」

「お前たちならいつでも通れるように話を通しておくぞ」

「ずいぶんと買いかぶられたもんだ」


 失笑するユルングルに、師父は眉をひそめた。


「買いかぶりなもんか!……待ってるからな、ユルン」


 そうして師父も、乗客たちの後を追って足を進め始めた。彼らが進んだ方向は、荷馬車が向いている方角とは逆の方向だ。姿は見えず、ただ彼らの足音とわずかな話声だけが、ユルングルの耳をかすめる。その雑踏が次第に遠ざかっていくほど、ユルングルの周囲には静寂だけが残された。聞こえるのは風の音と、その風が木々を撫でる音だけ。次第に闇が訪れ、わずかに落ちていた陽光さえ、もうなくなった。その様子を、ユルングルは何とはなしに視界に留めていた。


(………静かだな…)


 暗闇と静寂の中に、ただ一人残された寂寞感と虚無感が胸の内に広がる。時折耳をかすめる獣のような鳴き声は、魔獣だろうか。そう思うのに、不思議と不安や恐怖はなかった。ただ、暗闇の森の中にただ一人取り残された現状が、幼い頃の記憶を刺激した。


 ダリウスの姿を探して彷徨った森の中で、邂逅を遂げた一匹の銀色の獣。

 もう二度とダリウスには会えないと絶望の淵にいた幼い自分を、あの銀に輝く綺麗な獣が救ってくれた。

 彼はもう、己の主を見つけたのだろうか。


 あの時と同じ状況が、ユルングルの心に幼い時に抱いた同じ感情をわずかに呼び起こす。

 孤独に体が震えるのは、寒いからだろうか。

 闇に閉ざされた森が死を彷彿させるのは、一度それを覚悟したからだろうか。


 それから逃れるように、ユルングルは無意識に幼い時に救ってくれた銀色の獣の姿を探そうと、森に視線を移す。その視界に一人の男の影が入って来て、ユルングルは警戒心を露わにしながらも、にやりと笑って見せた。


「……やっぱり来たか」


 ユルングルのその言葉に、男は下卑た笑いを落とす。


「…ようやく君と話が出来た。君の兄さんは、君に触れる事すら許してくれなかったからねえ」


 くつくつと笑う男の背は丸い。元々小柄な体躯が猫背でさらに小さく見えるその男は、のそりと荷馬車に上がって来た。


「当たり前だ。お前のような奴が近づくことを、あのダリウスが容認するはずがないだろう」

「…その包みには何が入っているのかな?大事な物のようだ。あの薬も欲しかったが…まあ、君が手に入るなら良しとしよう」

「勝手に手に入れた気になるな」

「…ああ、本当に綺麗な顔だ…!そうやって眉間にしわを寄せても、美しさは変わらない…!!」


 その恍惚な表情が、悪寒を覚えてたまらない。


「……気色の悪い奴だな」

「…残念なのはその口の悪さだな。せっかく品のある顔が台無しだ」

「ほっとけ」

「……そうだな、売る時は声を潰してしまうか。声が出なくなるのは残念だが、君の顔はその負債を補って余りある。君が死んだときには是非ともはく製にしてあげよう」

「物騒な事をさらりと口にするな」


 じわりじわりと間合いを詰めてくるその緩慢な動きが、彼の外見と相まって不気味さが五割は増している気分になる。距離を取りたい気になったが、残念な事に後ろは壁で、なおかつ自由に動ける体さえなかった。今はただ、この不気味さを耐えるしかない。


「…なあに、そんなに怖いことはないよ。ただ声帯を切るだけだ。ちょうど喉仏がある所だね。そこをこう、ばっさりと___」

「なら今すぐ、してやろうか?」


 唐突に、小男の後ろから聞き覚えのない冷たい声が響く。同時に硬直したように動かなくなった小男の喉仏辺りに、きらりと鈍い光が見えた。その暗闇の中で異様な輝きを見せるそれが、ユルングルの遠い記憶に刻まれた恐怖の対象を彷彿とさせて、一瞬体が強張るのを感じた。


「俺の縄張りで何やってんの?この辺りの奴隷商人は一掃したはずだけど?」

「あ…………いや、私は………」


 口調は軽妙なわりに、その声音はひどく冷たい。それが喉に突き付けられたナイフの冷たさを彷彿とさせて、小男は恐怖に震える喉に何とか声を落とし込む。


「ドビナス商会の奴隷商人?それとも個人かな?…何にせよ、ここは不可侵だって盟約がある事、知らない?」

「………わ…私は……!」

「お兄さん、大丈夫?何もされなかった?」

「…!…あ、ああ。別に何も___」


 唐突に声をかけられて、ユルングルは我に返る。その彼の顔を視界に入れた男は、目を白黒させてユルングルの言葉もそこそこに歓声に似た声を上げた。


「って、お兄さん、すっごい別嬪べっぴんさんだね!!…そうか!!あんた奴隷商人は奴隷商人でも、男娼専門だな!!」

「…!?男娼…っ!!!?」

「いやー!!良かったね、お兄さん!!捕まってたら確実に男娼宿に売り飛ばされてたよ!!」

「冗談じゃない!!!!それなら奴隷の方がまだましだ!!!!」

「だってさ!!」


 ケラケラとひとしきり笑って、男はすぐさま酷薄の笑みを奴隷商人に向ける。


「…さあ、どうする?このまま声帯切っちゃおうか?簡単なんだろ?」

「…!………くそ…っ!!…邪魔しやがって……!!!……お前さえ来なければ…彼を手に入れられたはずなのに……!!」


 切歯扼腕せっしやくわんする奴隷商人を、男はさも意外そうに視界に入れる。


「…何だ、やっぱり気付いてなかったのか」

「……?…何のことだ…?」

「俺、お兄さんを助けたのと同時に、あんたの事も一応助けたつもりなんだぜ?」


 その言葉の意味を掴みそこねて、奴隷商人はユルングルと男の顔を互替かたみがわりに見る。理解はできなかったが、何かを察してひどく狼狽しきった様子だった。


「あんた、あと一歩でも近づいてたら、このお兄さんに殺されてたよ」

「…!?」


 耳を疑う言葉が聞こえて、奴隷商人は弾かれるように男を見たあと、続けざまにユルングルを見る。まさか、と半信半疑で向けたその視界に、酷薄な笑みを浮かべるユルングルの顔が入ってきて、奴隷商人の表情から波が引くように血の気が失せていった。


「綺麗な花には棘があるって言葉、言い得て妙だよな。お兄さん、殺気を隠すの上手すぎ。俺でも身震いしたよ」

「…よく判ったな?」


 にやりと笑って、ユルングルは毛布の中に隠し持っていたナイフを取り出す。

 あと、ほんの僅かだったのだ。手が届く範囲に、何も知らない小男が入ってくるはずだった。それを、この男に邪魔された形になる。上手く隠したはずの殺気は、だが見も知らない男には筒抜けのようだった。


「まあ、俺も一応場数踏んでっからね!」


 年に似合わず、少年のような得意げな顔を見せて、男は笑う。

 そうして再び、奴隷商人の処遇をどうしようかと、彼の喉元に当てたナイフをもう一度強く押し当ててみた。


「…ひ……っ!!!」

「どうする?おっさん。選ばせてやるよ。ここで俺に声帯を切られるか、この綺麗なお兄さんに殺されるか、何もせずにここから離れて、二度と姿を現さないか」

「き、消えます…っ!!もう二度と姿を現しませんから…っ!!」

「あっそ、ならさっさと消えな」


 言って、男はナイフを喉元から離して奴隷商人を荷馬車から蹴落とす。彼は慌てふためきながら、それでも振り返ることなく、ソールドールとは逆の方へと逃げ去って行った。その後ろ姿を見送りながら、ユルングルは呆れた声を出す。


「…意外と優しいんだな。いいのか?あんなの野放しにして」

「…ああ、お兄さんって奴隷商人、それも男娼専門の奴に会うの初めてだろ?」

「当たり前だ」


 そう頻繁に会ってはたまらない。


「あいつらはこだわりが強いんだよ。誰でもいいってわけじゃない。とにかく自分が気に入った男に会うまで仕事はしないんだ。奴隷商人の中でも性質たちは悪いが害は少ない。特にあのおっさんはお兄さんみたいな美人を見つけちまったからなあ!一度、極上品を目にしたら、並の男じゃ満足なんてできねえよ!」


 ケラケラと笑う男の言葉が、腹立たしいやら気持ち悪いやらで、ユルングルは何とも言えない複雑な表情を落とす。そのユルングルの視界に、男が手に持つナイフの鈍い光がチラチラと入ってきて、ユルングルは眉根を寄せながら、その光を遮るように額に手を当てた。


「……いいから、さっさとそのナイフをしまえ」

「…?何?ナイフが怖いの?自分も持ってるのに?」

「……ナイフが怖いんじゃない。その鈍い光が苦手なんだ」


 視線を逸らしているユルングルと、自身が手に持つナイフを、男は互替かたみがわりに見る。


「………心的外傷トラウマなんだ?」

「……ほっとけ」


 本人には自覚がないのか、鋭く古傷をえぐってくる男にユルングルは渋面を取る。そんなユルングルの様子に、ふーん、と声を漏らして、男は言われるがままナイフを収めた。そうして男は、気になっていた事を、だがどうでもよさそうに訊ねる。


「…あのさ、あっちで大量の盗賊崩れがふんじばられてんだけど、まさかお兄さんが一人でやったの?」

「そんなわけあるか。俺の兄貴たちだ」

「へー…。で、その兄貴たちは?」

「仲間が連れ去られて助けに行ってる」

「お兄さんは一緒に行かなかったんだ?」

「俺は歩けないからな。ここで待ってる」

「…!………歩けないって……?足……怪我でもしてんの?」


 何がそんなに気に障ったのか、男は急に真顔を取って呆けたような声で訊ねてくる。


「…?…そうじゃない。見ての通り、病で体の自由が利かないんだ」

「…!?」


 その返答に、男は目を見開く。

 思えばこの綺麗な男は、あの奴隷商人に襲われようとしている時でさえ、身じろぎ一つしなかった。背を壁に預け、悠然と待ち構えているように見えたが、実のところそうではない。襲うつもりなら、わざわざ待ち構えたりせず飛び掛かればいいだけの話だ。それをしなかったのは、したくてもできなかった、という事に他ならない。


 それを理解して、男は慌てて荷馬車の壁に備え付けられている小窓を開く。そこから月明かりが暗い荷馬車に差し込んで、ようやく目前に座る、この綺麗な男の全容が見えた。


 小綺麗なその顔は、病弱なまでに青白い。血の気が失せたような顔色に、毛布から覗く首や腕は、触れれば折れてしまいそうなほどの細さだった。毛布にくるまれたその体躯も、やはりひどく痩せ細っているのだろう。その痛々しいほどの姿を凝視している男の様子に、ユルングルは訳も判らず小首を傾げる。


「……?何なんだ、一体___」

「体が悪いならさっさとそう言えよ!!何で今になって言うんだよ!!」

「…?お前には関係のない事だろうが。大体、言ったところで良くなるわけじゃあるまいし____」


 ユルングルの言葉も聞かず、男はおもむろにユルングルの体を抱えようと手を伸ばす。


「!?おい…!!何をするつもりだ!!?」

「こんな寒いところに病人を一人放って行けるか!!感謝しろよ!!普段なら男なんて抱きかかえたりしないんだからな!!」

「だったら下ろせ!!必要ない…!!」

「この荷物も持って行ったらいいんだな?」

「おい!!人の話を聞け!!」


 まるで耳を貸さない男は、だが抱きかかえたユルングルのあまりの軽さに目を白黒させて、憐憫の情にも似た眼差しを向ける。


「……何だよ……飯さえまともに食わせてもらえてないのかよ…!」

「…!…待て、お前激しく誤解していないか?」

「これじゃあ、女の方がまだ重いじゃねえか…!!」

「……いや、そんなに軽くないだろ」


 上背はあるのだ。骨格自体も意外としっかりしていて、痩せてはいても、あのダスクほど華奢という印象ではない。


 何やら憤慨した様子の男に、ユルングルはたまらずため息を落とした。会話を交わす間も、男は有無を言わさずユルングルを抱えてその場を離れようと荷馬車を降りる。体の自由が利かないユルングルは、成す術もなくされるがままになっていた。


「……おい。…おい…!!さっきも言ったが、兄貴たちが戻ってくる…!!放っておいてくれ…!!!」

「戻ってこねえよっっ!!!!」

「…!?」


 ユルングルの言葉に一向に耳を貸そうともせず、それでも荷馬車から離れようとする男を押し留めようと荒げたユルングルの声は、突如として吐き出された男の怒鳴り声に見事にかき消されることになった。


「ちょっと考えれば判る事だろ…!!魔獣が出るかもしれない森に!!こんな病弱な弟を、たった一人残して行くわけねえだろうが…っ!!捨てられたんだよ!!お前は!!!」

「…!」


(……やっぱりか……っ!!)


 誤解どころか偏見も甚だしい。

 確かに自分は低魔力者で病弱だ。この魔力至上主義国家では、そういった低魔力者を捨てる話はそこかしこに落ちている。しかもこんなところに一人置き去りにされた現状を思えば、勘違いしても仕方がないだろう。


 だが、誤解は誤解だ。それだけは絶対ない、と断言できる反面、ユルングルがそれを声高に叫べば叫ぶほど、この男は認めたくないからだと、さらに誤解を深めていくのだ。


 それが判ってユルングルは、思った通りの難解な誤解が生じている事に、たまらず盛大なため息を落とした。


「……あのな」

「…低魔力者だからってだけじゃない…!病弱であればあるほど、足手まといになるんだよ…!重荷になるんだ…!戻ってくるって言っても……必ず戻るって何度言われても……もう戻ってこねえんだよ…!!戻ってこられねえんだ…!!家族なら……なおさらだ……っ!!!」


 渋面を取って、思いの丈を吐き出すように声を絞り出す男の様子に、ユルングルは目を瞬く。彼の諦めに似た、だけれども縋るようなその言葉に、ユルングルは呆然と口を開いた。


「………お前も、捨てられたのか?」


 思わず出たユルングルの言葉に、男の足はぴたりと止まる。


「………『も』?……やっぱり捨てられたんじゃねえか…!!!」

「…!」


(しま…っ!)


 失言をしたと気づいても、後の祭りだろうか。

 見ればもう荷馬車もずいぶん遠い。今からこの男を説得して、またあの荷馬車に戻るのは骨が折れた。ユルングルは諸手を上げるように、諦観のため息をく。


「………まあいい。どうせ俺の魔力を追って来るだろ」

「…?…兄貴がお兄さんを追って来るって?…そんなわけねえだろ、捨てたのに」

「だから捨てられたわけじゃない。俺は待ってただけだ。…十中八九、あんたは人さらいとして認識されるだろうが、まあ頑張って兄貴の誤解を解いてくれ」

「ははは!まさかそんなわけ______」


 ケラケラと笑いながら、だが真顔でこちらを見返すユルングルに、男の思考は止まる。


「…………………まじで?」


 にこりと微笑んで返すユルングルに、男は慌てて後ろを振り返った。


「……あー……今から戻る?」

「自分で招いた事態だろ。先に進め」

「……綺麗な顔して鬼だよなあ、お兄さん」

「まあ、大丈夫だろ。あんたずいぶんと強そうだし」


 男の髪色は、暗い。月明かりに照らされて辛うじて見える色は、深い藍色だろうか。おそらく魔力量で言えば、ユルングルに少し毛が生えた程度だろう。それでも腕が立つと思えるのは、自分の体を抱える腕が相当に力強いからだ。加えて先ほど奴隷商人を撃退した彼の動きは軽快だった。軽妙な語り口とは裏腹に、彼は相当場数を踏んでいて間違いないだろう。


 そう思って告げたユルングルのその言葉に、男は嬉々とした表情を向ける。


「…!まじで…!?お兄さんには判るんだ…!!初見で俺を強いって言ってくれたの、お兄さんが初めてだよ…!!」

「……その『お兄さん』って呼び方やめろ。どう見ても、あんたの方が年上だろうが」

「じゃあ、何て呼べばいいんだよ?」

「…………ユルングル」


 なぜだか偽名を使う事が憚られて、ユルングルは素直に本名を名乗る。


「ならユルンちゃんだ」

「『ちゃん』は余計だ!!」


 にもかかわらず、結局ユルンで落ち着いたばかりか何やら余計なものまでついてきて、ユルングルは盛大に顔をしかめた。


「俺、ミシュレイ=アーシュレイっての。よろしく、ユルンちゃん!」


 どうにも人の話に耳を貸さないこの厄介な男に、ユルンはただただ疲れ果てたようなため息を落とした。


**


「…大丈夫ですか?」


 救出したラヴィに、ダリウスは声をかける。

 ユルングルが告げた通り、勝負は一瞬でついた。彼らの姿を見つけてすぐ、背後から襲って後ろにいた二人を瞬殺した後、続けざまにラヴィとラン=ディアを抱える二人も容易く昏倒させた。一瞬のうちにたった一人残され狼狽しきった最後の一人は、呆気ないほど簡単に自死を迎え入れた。


 ユーリ拉致事件の時にも思ったが、彼らは対峙する、という事に慣れてはいない。あくまで暗殺をする事だけを目的とした集団なのだろう。一人一人はあまりに弱く、そして切羽詰まると容易く自死を受け入れるのだ。ユルングルの命を狙い、あまつさえ暗殺未遂まで起こした連中だとは言え、何やら彼らの生き様があまりに哀れなように思えて仕方がない。


 そう思う事は不遜だろうか、と内心で漏らしながら、ダリウスは首肯するラヴィを視界に入れた後、意識の戻らないラン=ディアの様子に不安に駆られて、彼の首元に手を当てる。しっかりと脈を打つ頸動脈と、同時に小さくうなった彼の声に、ダリウスは安堵のため息を落とした。


「ラン=ディア様のご様子はいかがですか?」


 暗殺者たちを縄で縛りあげたアレインが戻って来て、昏倒しているラン=ディアを不安げに見下ろす。


「…大丈夫です。もうしばらくすれば意識も戻るでしょう。…ラヴィは平気ですか?亅

「…はい、申し訳ございません……ご迷惑をおかけいたしました……」

「いえ、無事なら何よりです。…魔獣除けの魔道具は?」

「彼らに一つ残しております。一つは我々がいただきましょう」


 くすりと笑って、アレインは鈴の形を取った魔獣除けの魔道具を、ちりん、と揺らして見せる。その姿に小さく笑みを落としたダリウスは、だが次の瞬間、険しい表情を取って荷馬車があるであろう方角へと勢いよく顔を向けた。


「…!…ダリウス殿下…?どうなさったのです?」

「………ユルングル様の魔力が移動なさっておられる…!」

「…え?」


 一人では動けないユルングルの魔力が移動している、という事は誰かが彼を抱えてどこかに連れ去ろうとしている、という事だ。あるいは師父が彼を抱えて移動しているのかもしれなかったが、ダリウスにそれを確認できる術はない。ただ、ユルングルの魔力が移動している、という事実が恐怖に似た感情を湧き起こして、ダリウスはなりふり構わず森の中に駆け出した。


「アレイン様とラヴィはラン=ディア様が目覚められてから、後を追ってきてください!!亅

「ダリウス殿下…!!」


 二人が呼ぶ声もそこそこに、ダリウスの影はそのまま仄暗い森の中に溶け込むように、ふわりとその姿を消した。


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