それぞれの旅路 ユルングル編・終二編
この日は一日、暖かい日だった。
この日だけではない。この旅は、終始天気には恵まれていた。乗合馬車に乗り合わせてから、わずかに曇る事はあっても雨には遭遇しなかった。
東の国などでは冬に雨が降ると暖かくなると言うが、冬が厳しいフェリシアーナ皇国では、そうはいかない。そもそも真冬になると、雨ではなく雪が降る。そうなると気温を上げてくれる太陽が顔を出さない為か、底冷えして凍えるように寒かった。まだ冬の前ではあったので、そこまでの寒気が来ることはまずあり得なかったが、それでも寒さに弱いユルングルには厳しいと言わざるを得ないだろう。そういう意味では、幸運にも天気には恵まれていた。そして、今日もその幸運にあやかったのだと、御者台に座る師父は思う。
このソールドール周辺は霧が立ち込めやすい。それは周辺一帯の気温が日中は比較的高く、反面朝夕になると一気に下がるからだ。加えて天気が崩れることも多く、この時期などは日中に雨が降ると夕方には霧が立ち込めた。そうなると、あの森は一気に視界が悪くなって苦戦を強いられる。それは何度もあの森で盗賊討伐を行ってきた師父の、経験則に基づく苦い記憶だった。
(…三十八人、か。またずいぶんと数を増やしたものだな)
あの森は、ソールドールや北部に位置する街々にとって生命線とも呼べる交通の要所だ。周りは切り立った崖や山々に囲まれ、北部に抜ける道はこの森しかない。それも森のほとんどは魔獣が跋扈し、結界を張ったその道だけが、旅人や商人が安全に通れる唯一無二の道だった。
だからこそ、盗賊たちはそこに目をつけたのだろう。ここで待っていれば、餌が自らやってくるのだ。どれだけ盗賊が出没すると聞いても、この道を閉鎖するわけにはいかない。閉鎖すれば、北部の街々は食料や物資が途絶え、飢えと寒さに震えることになる。それは北部の人間たちを見殺しにすることに等しい。
盗賊たちは、それをよく理解していた。だからこそ何度討伐しても、ねずみ算式にその数が増えていくのだ。
人員の確保は容易かった。ソールドールに向かう自称傭兵たちが街で門前払いされたあと、盗賊に身をやつす者が後を絶たないからだ。盗賊討伐を行っても、残党がまた人を増やして略奪を繰り返す。そうしてまた討伐を行っても、またしばらくすると盗賊が姿を現す。これではイタチごっこだと皮肉を漏らしたのは、他ならぬ自分だった。
それでも三十八人は今までで最多だと、師父はひとりごちる。それもこれも、あの無能な領主が無節操に傭兵を雇い入れているからだ。傭兵とは名ばかりのごろつき共が金に群がり、魔獣討伐で貰える褒美と盗賊になって得られる利を天秤にかけた結果、盗賊側に傾いた者たちが相当数いた、という事なのだろう。
(…あの無能領主め。厄介ごとばかり増やしやがって…!)
不機嫌そうに腕を組んで、眉根を寄せたまま前を見据える師父の様子を、御者は半ば怯えながら、ちらちらと視界の端に入れる。中休憩の街を出立する時、なぜかこの筋肉隆々の大男は何を思ったのか御者台に乗り込んできた。気にするな、と闊達な笑い声を上げてはいたが、唐突に大男が隣にやって来て、気にならないわけはない。
御者は幾度目かに大男を視界に入れて、躊躇いがちに声をかける。
「……あ、あの……今さらですけど……どうしてこちらに座ってるんですかね……?」
彼がここに座ってからもう三時間と少しばかり経つ。早々に訊ねたかったが、ずっと険しい顔をしていて、とても訊けるような様子ではなかった。何よりその見た目が筋肉隆々の大男なのだ。機嫌を損ねれば何をされるか判ったものではない。
それでも一体いつまでここに居座られるのかが大いに気になって、御者は勇気を振り絞って訊ねてみたのだった。
「ん……?ああ、気にするな…って言っても気になるか。…まあ、何だ?護衛みたいなもんだ。あんたは気にせず、しっかりと手綱を握ってくれりゃあそれでいい」
「……護衛……ですか……?…あの森……ですよね?」
言って、御者は目前に現れた森を指差す。
「…あそこは盗賊がよく出るって御者の間でも有名なんですよ。俺の御者仲間も盗賊に襲われて命からがら逃げだしたって奴が何人もいて……だから南部行きの乗合馬車の御者は嫌だって言ったのに、無理やりやらされたんですよね……」
悄然と肩を落として、愚痴めいた言葉を御者は落とす。
そんな御者の背中を、師父は鼓舞するように闊達な笑い声と共に何度も叩いて見せた。
「なら安心しろ!あんたは幸運だぞ!何しろこの馬車には勝利の女神が乗ってるからな!」
「……女神……ですか?」
「正確に言うと男だが、まあ小綺麗な顔しているから女神でもいいだろ」
その師父の言葉に、すぐさま荷馬車の中から怒鳴り声が響く。
「誰が女神だ!」
「おーおー、女神さまがお怒りだ」
くつくつと笑う師父を、やはり御者は怪訝そうな顔で窺う。そんな御者に、前を見るよう師父は促した。
「…ほら、もう森に入るぞ。ちゃんと前を見ておけ。そして何があっても決して手綱を離すなよ」
この言い方では、まるでこの森で何かが起こると言わんばかりだ。そしてこの森で何かが起こると言えば、盗賊が出ること以外、あり得ない。御者はそれを察して、青ざめた顔に怯えを含ませる。手綱を握る手に汗がにじみ、わずかにカタカタと震え出した。その御者に様子に、師父はようやく自分が余計な一言を付け加えた事に思い至る。
「……あー…何だ…。そんなに鯱張るな。もう少し楽にしろ」
「………で、で、でも…!!」
「安心しろ、お前さんは何があっても俺が守る。そのためにここに座ってるんだ。それともあんたの護衛が俺じゃ不服か?」
言われて御者は、今一度師父を視界に入れる。筋肉隆々の屈強な男。彼に守ると言われたら、どんな偏屈な人間でも鵜呑みにして信じてしまうだろう。
「……ほ、本当に守ってくれます?」
「ああ。だからお前さんは、前だけを見てしっかり手綱を握っててくれ」
御者はまだ怯えを含ませた顔で、それでもゆっくりと首肯し顔を前に向ける。
森の中に入ると、視界は一気に悪くなった。この森はかなり奥深く、広い。鬱蒼と茂る葉が太陽の光を遮り、真昼でも薄暗かった。夕方ともなれば、まるで夜の如く光を失ったが、完全な闇ではない。葉と葉の隙間から落ちる陽光が、わずかに森の中を照らしてくれる。それでも元々悪路なだけに、洋灯の光は欠かせなかった。手綱を握りながら洋灯に火を灯そうと伸ばした御者の手を、だが師父はおもむろに遮る。
「…灯りはつけるな」
「……え?……でも…」
「まだ日の光が差してる。目が慣れてくれば問題ないはずだ」
明るい外から森に入った瞬間、一気に暗闇に閉ざされた視界は、確かに師父の言う通り、次第に森の輪郭をしっかりと捉える事が出来た。とは言え、悪路で馬車が大きく揺れるたび、心許なくて仕方がない。荷馬車からも大きな揺れと共に小さな悲鳴が上がって、御者は訴えるように師父に目を向けた。だがその視線を、師父は躊躇いもなく一蹴する。
「速度を落とせ。馬車がひっくり返っては目も当てられんからな」
「……え……ですが……」
この森は普通に走っても、一時間近くかかる。速度を落とせば、この森を抜ける時間はさらに長くなる。盗賊が出るかもしれないという時に、わざわざ滞在時間を延ばす意味が御者には理解できなかった。むしろ速度を出して出来るだけ早くこの森を抜けだした方がいい。そう言おうとした御者を制するように、何かを察した師父は立てた人差し指を口に当てがって、小さく「しっ」と息を漏らした。
そうして一呼吸置いてから、御者台と荷馬車の中から申し合わせたように揃えた声が響く。
「……来る…!」
同時に空を切る音が耳をかすめて、突然馬車は大きく左右に揺られ荷馬車から悲鳴が沸き起こった。馬車を引く二頭の馬のうち、左側を走っていた馬の肩に矢が直撃したからだ。痛みで我を忘れて暴れる馬を、御者はどうにか手綱を引いて落ち着かせようと試みる。その御者にさえ矢が飛んできて、思わず手綱を離そうとする彼を、師父は叱咤した。
「離すんじゃないっ!!!!手綱を握っていろっっっ!!!!!」
その怒鳴り声に、御者は我に返る。
思えば師父はずっと手綱を離すなと何度も忠告していた。ここで手綱を離してしまえば、暴れる馬を制御できなくなる。馬車は間違いなく横転、あるいは木に激突して破壊は免れないだろう。そうなればきっと、乗客たちから多くの死傷者が出るはずだ。それだけは、御者として容認するわけにはいかなかった。
御者は自分に向かう矢の存在すら念頭から消えて、ただがむしゃらに手綱を引いた。暴れる馬が馬車を左右に振って、時折車体が木に当たり、投げ出されそうになっても御者は手綱を強く握って引き続けた。幸い右側の馬は無傷だ。暴れる馬に引きずられるように一時、混乱の様相を呈したものの、御者が手綱を強く引いたおかげですぐに冷静さを取り戻した。その馬と手綱を使って、痛みに悶える馬を何とか落ち着かせ、ようやく御する事に成功する。
どれだけ暴走したのかは、定かではない。だが、この悪路で左右に大きく振られ、木に何度も軽く衝突したせいだろう。今にも車輪が外れてしまいそうなほど、みしみしと音を立てて悲鳴を上げてはいるが、どうやら車体はおおむね無事なようだった。
一瞬訪れた静寂の中に、御者の息遣いと乗客たちの小さなうめき声だけが響く。
馬車が止まった現状を再確認するように目を見開き、呆けたように肩で息をする御者は、ようやく自分に向かって飛んできた矢の存在を思い出す。慌てて顔を上げた御者の視界に、満面の笑顔を見せる師父の顔があった。
「やるじゃないか!大した手綱さばきだ!!」
言って、師父はその太い腕で御者の背中を何度も叩く。痛むのはその背中だけだという事は、師父が宣言どおり自分を守ってくれたのだろう。面映ゆそうに笑って礼を述べようとした御者を遮って、師父は再び険しい表情を見せた。
「礼は後だ。ここは危ないからあんたも荷馬車に乗れ!」
そう叫んで、御者と共に御者台を降り、荷馬車に駆け込む。
「おい!!大丈夫か!!?」
声掛けと共に視界に入れた荷馬車の中は、森の中以上に薄暗く判然としなかった。おぼろげに人影は確認できたものの、どういう有様なのかは目視で確認することは叶わない。ただ、そこここから聞こえる、うめくような声が惨憺たる現状を想像させた。あれだけ左右に振られたのだ。横転しなかったとは言え、掴むところもない荷馬車の中では、坂を転がる玉のように抗う事も出来ず、大きく体を振られたに違いない。壁に激突した者も多くいるだろう。
そう思ったところで、師父は何よりユルングルの無事が気になった。
一人で座位を保持する事すら出来ない、病弱なユルングル。特に今は褥瘡で背中のあちこちを負傷している。そこが壁にでも当たりさえすれば、彼は痛みで顔を歪ませているだろう。いや、それ以上に骨が折れていてもおかしくはない。
おそらく乗客の中で一番か弱い存在であるユルングルの無事を、師父は確かめずにはいられなかった。
「ユルン…!!ユルンは無事か…っ!!?」
「大丈夫です…!師父…!!」
答えたのはダリウスだ。同時に目が暗闇に慣れてきて、ユルングルを庇護するように抱き寄せているダリウスの輪郭が、視界の中にぼんやりと姿を現した。師父はひとまずの安心を得て、ほっと胸を撫で下ろす。
「…ダリウス兄さん…!俺は大丈夫だから、もう放してくれ…!息がしづらい…!」
「…!…ああ…!…すまない、ユルン…」
ダリウスの腕の中に埋められた頭を、どうにかこうにか掘り起こして、ユルングルはようやく外の空気を吸えたかのように大きく深呼吸をする。そして人心地つく間もなく、ユルングルは険しい表情を取った。
「来るぞ…!兄さん、行ってくれ!アレインも!!」
その言葉に二人は首肯し、あとをラヴィとラン=ディアに託して、剣を手に荷馬車から下りる。その様子を、乗客たちは恐怖に怯えながら、震える身を寄せ合って眺めていた。その内の一人が、ぽつりと震える声で訊ねる。
「……ユ…ユルン……一体、何が……?」
「盗賊だ」
躊躇なく応えたユルングルの返答に、馬車の中から喧騒が巻き起こる。
「……そ、そんな…!!」
「私たち……これからどうなるの……!?」
「こ…殺されるの…!?」
「い、嫌だ!!まだ死にたくない…!!!」
体中が痛み、薄暗い森の中でピタリと止まってしまった馬車。逃げたくとも、この馬車はもう使い物にならないのだろう。ふと気づけば、外からは大勢の人間が雄たけびに近い声を上げている。そこかしこから聞こえるその声は、まるで乗客たちを逃がすまいと、馬車の周囲を包囲しているような気分にさせて、怯え切った心に追い打ちをかけるように恐怖心を煽った。その恐怖心から逃れるように、平常心をかなぐり捨てて馬車から逃げ出したい衝動に駆られたが、幸いなことに衝動よりも恐怖心が勝った事で、誰一人硬直した体を動かすことが出来なかった。
そんな恐怖が蔓延した荷馬車の中から、いつもと変わらぬ凛とした声が空気を撫でる。
「師父、約束通りこいつを借りるぞ」
「……おいおい、本気か?お前の細腕じゃ絶対無理だぞ」
「いちいち癇に障る奴だな!…そこまで言って俺が弓を引けた時、どう詫びを入れるつもりだ?」
「そうだな…。一日お前の我儘を何でも聞いてやるってのはどうだ?」
「…大きく出たな。後で後悔するなよ?」
「男に二言はない!」
にやりと笑って、師父は背後に忍び寄っていた盗賊の腹部を振り向きざまに勢いよく薙ぎ払う。その光景に乗客たちは再び悲鳴を上げたが、師父はそれには構わず、倒れる盗賊のその先に見えた、こちらに向かっている幾人かの人影を見咎めて、すぐさま駆けた。
それに呼応するように、ユルングルも師父から借り受けた弓を取り出して、弦を張り準備を整える。その様子に真っ先に目を見開いたのは、アーリアだった。
「ユルン…!?何をするつもり…!!?」
「…俺はまだ歩けないからな。弓を引くのがせいぜいだ。…ラヴィ兄さん、体を支えていてくれ」
言いながら、ユルングルは体力を振り絞るように体を起こし、片膝を立ててしゃがみ込む。本当は両膝をついた体勢を取りたかったが、どうやら自分の今の体力では、それを許してはくれないらしい。片膝をついた体勢ですら、ラヴィが支えてやっと、という状況なのだから仕方がないのだろう。
そんなユルングルの体調を慮ったのか、アーリアは矢をつがえようとするユルングルの手を、慌てて自分の腕に絡めとった。
「だめよ…!!ユルンのそんな弱り切った体で戦うなんて…!!神官様もラヴィさんもどうして止めないの…!?」
勢いに任せて二人に向けたアーリアの視界に、少し困惑した、だけれども絶対に大丈夫だと、確信めいたものを宿す笑みを湛えた二人の顔が、飛び込んでくる。アーリアはそれに気を取られて、呆けたように目を白黒させた。そうして再びユルングルに視線を戻したアーリアに、ユルングルはにやりと笑う。
「アーリア、安心しろ。ここにいるお前たちに、盗賊が指一本触れることはない。俺たちが必ず、お前たちを守る」
言って、馬車の奥で恐怖に震える乗客たちにも強い瞳を向けた。
「お前たちも諦めるな。必ず俺たちが道を切り開く。そのために、俺たちはここにいるんだ」
その言葉に、乗客たちはようやく胸につかえていたものが取れた気がした。
今目の前にいる、強い瞳を宿した黒髪の青年。弓を持つ彼の体躯は、弓を持つというよりも弓に持たれていると表現してもいいほど、細く弱々しい。その見た目通り、彼は何度も体調を崩し、旅ができるような状態ではないにも関わらず、決してこの馬車を下りようとはしなかった。何度も何度も訝しげに思い、なぜ、と答えの返ってこない問いを投げかけては、憶測の域を出ないでたらめな推測を並びたてたものだった。
その答えが、ようやくこの最悪の状況の中で見つかった。未来が視えていたとは言わない。それは偶然の産物だったのかもしれなかったが、そう思う事が一番座りがよかったし、何より乗客の中の恐怖心を幾分か和らげる光になった。
耳をすませば、遠くで剣を交える音が聞こえる。
あれは先に立った、ダリウスとアレインが奮闘する音だろうか。周囲の喧騒から察するに、盗賊の数は相当数いるのだろう。そんな多勢の中にたった二人で切り込んだ彼らを思えば、比較的安全な馬車の中にいる自分たちが、一体何を怯える必要があるというのだろうか。
乗客たちは互いを鼓舞するように頷き合うと、手を繋いで怯えた顔に笑顔を作ってみせた。
馬車の中の空気が変わったことを察して、ユルングルはラン=ディアに視線を向けたあと、自分の手を制するアーリアの腕をそっと離した。
「さあ、アーリア。危ないから奥に戻っていなさい」
「……あ…」
ラン=ディアに背を押されて奥に戻ろうとしたアーリアは、それでも不安げな眼差しをユルングルに向ける。その視線にユルングルは笑みをひとつ返すと、矢をもう一度、つがえ直した。大きく深呼吸をして、目標を定める。矢をつがえた状態で弓を頭の上まで上げ、息をゆっくり吐きながら、ユルングルは力の限り弦を引いた。
大したものだ、と師父は舌を巻いていた。
自分の少し前で戦う二人の姿は、葉と葉の間から零れる陽光がかろうじて映し出してくれている。その動きが、いかにも戦い慣れしている戦士のように洗練されていた。わずかの隙も見せず、互いに互いの背を預けて、まるで申し合わせたかのように時折互いの位置を取り換えて、背後の敵を蹴散らす。まるで、あらかじめ決まった型を決められたままに動く、演武でも見せられているような華麗さがあった。
何より特筆すべきなのは、これだけの多勢にたった二人で切り込む事への恐れや逡巡が全く見られない事だ。よく訓練された騎士でさえ、やはり多勢に無勢だと判れば武者震いのひとつも掘り起こして自らを奮い立たせるものだ。だが彼らは、平静そのものだった。ちょっとそこまで散歩に行くような気軽さで戦いに向かい、そして戦っている最中でさえ、相手を殺さずに戦闘不能にさせる事を涼しげな顔でやってのけているのだ。
戦いの中で、平静さを保つことは何よりも難しい。それは強さを磨くための訓練では決して養えないものだ。とにかく場数を踏むしかない。気概のある青年たちだとは思っていたし、腕も立つだろうことは容易に想像がついたが、この若さでこれだけの屈強な心を保持できる二人を、師父は素直に感嘆した。
(俺の騎士団に是非とも入団して欲しいものだ)
騎士団員はどれも師父が育てたが、ダリウスとアレインに敵う者はいるまい。ダリウスの世界は弟を中心に回っているようだから、きっとユルングルを理由に入団拒否されそうだが、アレインは誘えば入団してはくれないだろうか。
そんな事を考えていた師父の前に、突如として三人の盗賊たちが姿を現す。
「…!…おいおい、一度に三人も相手しなきゃならんのか。次から次へと____」
辟易したようにぼやく師父は、だが次の瞬間、後ろから一筋の突風が自分の顔のすぐ隣を高速で過ぎ去っていくのを感じた。その空を切る音が耳に届くと同時に、三人の内一番右側にいる盗賊の肩に鈍い音を立てながら何かが突き刺さって、吹き飛ぶように地面に倒れ込む。師父は一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、同じように呆けた残る二人を続けざまに切り伏せた後、痛みに悶える盗賊の肩に見慣れた矢が刺さっている事を見咎めて、やはり目を白黒させた。
「…………………冗談だろ……?」
ひとりごちるように呟いて、師父は馬車を振り返る。
「……っ!」
「…ユルン…っ!?大丈夫ですか……!?」
矢を放った直後、突然左側のあばらを抑えて蹲るユルングルを慌てて支えて、ラヴィは背中をさする。弦が当たったのだろうかと不安に駆られたラヴィは、だがこの後放たれた、これ以上にないくらい不機嫌なユルングルの声音に、そうでなかった事を理解する。
「………あー…くそ…っ!何でこんなに、かったい弓使ってるんだっっ!!あの筋肉ゴリラはっっっ!!!!」
「おいっっ!!!聞こえてるぞっ、ユルンっっ!!!」
「聞こえるように言ってるんだっっ!!!」
心配して損した、と言わんばかりに、ラヴィは頭を抱える。
「ラヴィ兄さん!もう一度だ!!」
「…え?まだですか?」
「当たり前だ!!最低でも弓を使う奴は一掃する!!」
言って、ユルングルはすぐさま矢をつがえる。同じように息を整えて目標を定め、ゆっくりと吐きながら、力の限り弦を大きく引く。その姿に、弱々しさは微塵もない。背筋を伸ばし、顎を引き、目標を射抜くように見据える鋭い瞳は、まるで野生のそれだった。そうして集中力が極限まで高まり、感覚が研ぎ澄まされたその瞬間に、矢と共に弦を勢いよく放すのだ。
ラヴィには、薄暗い森の中で弓使いがどこに隠れて、どこを狙っているのかさえ判らない。だが、ユルングルが確実にそれらを排除している事は、矢を放った瞬間、どこからか大きな何かが木々をへし折り地面に落ちる音が耳に届くことで、よく判った。
(……この視界の悪さで、よくお判りになられるな……)
素直に驚嘆したラヴィだったが、同時に彼の体を支えている事で、ユルングルの体調が矢を放つたびに少しずつ、悪化しているような気になった。それは緩やかに、だが確実に進行している。それは、ユルングルの額に脂汗がひとつ、またひとつと増えていくのに従って、彼の体もまた小刻みに震えを起こし始めたからだった。弦を引く腕に、震えはない。だが、体だけが妙に震えていた。思えば一番最初に矢を放った直後、彼はあばらを抑えてはいなかっただろうか。
不安に駆られて口を挟もうとしたラヴィは、だが先に、背後に何かを察したユルングルのその険しい表情に、思わず閉口した。
「アーリア!御者台の連絡窓を開けて、かがんでいろ!」
突然向きを変えて、矢先を乗客たちに向けるユルングルに、皆、目を丸くする。アーリアもまた同じように目を見開いたが、言われたように連絡用の小窓を開けて、すぐさま下に屈み込んだ。
その小さな小窓に矢先を向け、ユルングルは躊躇いもなく放つ。寸分も違わず吸い込まれるように小窓を通過した矢は、そのまま木の上にいた盗賊に見事に直撃して、ユルングルはようやく弓を手放した。
「………すごい……あんな小さな小窓に通すなんて……」
乗客たちから感嘆めいた声が漏れる中、ユルングルは力尽きるように倒れ込む。
「…!?ユルン……!!?」
ラヴィは慌てて、その体を支えて、ラン=ディアに助けを求めるように視線を送る。ラン=ディアもまた急いでユルングルの傍に行き、すぐさま彼の手を取った。
「……あー…大丈夫だ……。力を使い果たした……治療は必要ない」
気怠そうな表情を取りながら、それでもにやりと笑って二人を安心させる。小さく胸を撫で下ろした二人は、だが念のため、と診察と治療が行われた。
「……ユルン…あばらが痛いのですか?」
「……痛い……正確には肋骨じゃなく筋肉の方だ……。…化物弓だな、あれは。…筋肉が引きちぎられるかと思ったぞ……。あれを使いこなす師父は、間違いなく化け物だな」
くつくつと笑いながら軽口を言うユルングルに、ラン=ディアは呆れた声を出す。
「……それを使える貴方も、十分化け物ですよ」
「……使った後が、この有様だがな」
もう一度くつくつと笑った後、ユルングルは治療もそこそこにラン=ディアに告げる。
「…俺はいいから、乗客たちの治療を優先してくれ。頭を打った者もいるからな。この馬車周辺はもう安全だから、降ろして広いところで治療しろ」
ラヴィとラン=ディアはそれに首肯した後、寒くないようにユルングルを毛布で包んで即席のクッションに託し、そのまま言われたように乗客たちの治療を開始した。
**
「…よお、女神さん。調子はどうだ?」
馬車に一人残されたユルングルの元に、師父が満面の笑みで歩み寄ってくる。どうやら手持無沙汰になって、暇を持て余していたらしい。見れば、もう盗賊の数も少ない。あと少しもすれば、すべてを掃討してダリウスとアレインも帰ってくるだろう。
「…よさそうに見えるか?」
「疲労困憊ってとこか?」
「…よく判ってるじゃないか」
だったら訊くな、と言外に含ませて、ユルングルは盛大なしかめっ面を見せる。
その表情に小さく失笑を漏らした後、師父はおもむろにユルングルの腕を掴んだ。
「…っ!」
「……骨は折れてないな」
「当たり前だ…!もっと優しく掴め…!」
それでなくとも、あの化け物級に硬い弓を引いたばかりなのだ。もう疲弊しきって腕のひとつも上がらない。
師父は、彼にしては出来る限り優しく、腕の骨に異常がないかを丹念に調べ終わると、今度はユルングルのあばらに触れる。
「…っ!だから…!!」
「…よくもまあ、この細い体であれが引けたもんだな。下手すりゃ骨が折れるぞ」
「ああ…!折れる寸前だった!あんなもの師父以外に一体誰が扱えるんだ…!」
その問いかけに、師父はさも意外だとばかりに目を瞬いた後、他でもないユルングルを指差す。
「……俺を頭数に入れるな!…もう二度とあんな弓使うか!!」
御免だとばかりに、がなるユルングルを、師父は笑う。
不思議な青年だと、師父は思う。彼はとにかく人目を引いた。その外見の美麗さもさることながら、何より人を魅了したのはその性格だった。口が悪い癖に、人を気遣う優しい気性と、妙に冷めているかと思えば、思わぬところで直情的な子供っぽい顔が突如として現れる。彼の中には常に、相反する性格が違和感なく同居していた。その最たるものが、病弱で弱々しいわりに、信じられないほどの強さを見せるところだろうか。
思って、師父は弓を手にする。
彼が化物弓と評したこの弓は、その言葉通り騎士団員の中でもごく限られた者しか扱えなかった。いや、『扱う』という意味ではもっと少ないだろう。高魔力者で力自慢の者だけが何とか弦は引けたものの、ユルングルのように正確に目標を射抜ける者は自分と副団長の二人だけだ。
それをこれほどの細腕で、いとも容易く扱うとは。
「…一体どうやって体を鍛えた?それとも魔法でも使ったか?」
「……俺の体のどこに魔法が使えるほどの魔力があると思うんだ」
「はははっ!!…まあ、何にせよ、約束は守らんとな」
闊達な笑い声と共にそう告げた師父の後ろに、戦いを終えたダリウスとアレインの姿が視界に入る。返り血を浴びる事もなく、涼しい顔で悠然と返って来たところを見ると、怪我を負ってはいないのだろう。小さく安堵したユルングルの疲弊しきった表情を見て、だがダリウスはその涼しい顔を一変させた。
「…!?ユルン……!?大丈夫なのか……!?亅
「…大丈夫だ。少し疲れただけだ……他は何ともない」
その返答にやはり安心しきれないダリウスは、おもむろにラン=ディアの姿を探そうと周囲を見渡す。それに気づいた師父とアレインも同じく周囲を窺ってみたが、ラン=ディアどころかラヴィの姿すらないことに、訝しげな表情を見せた。
「…おかしいな、二人一緒に乗客たちの治療をしていたんだが」
馬車の近くにいた師父だけは、乗客たちを治療する二人の姿を何度か目撃していた。ほんの少し前にも二人を見たばかりだ。なのに、どこを見渡しても二人の姿はない。かと言って、乗客たちが騒いでいる様子もなかった。それが妙に底気味が悪い。
「…ユルン様、お二人はどちらに?」
不安に駆られてたまらず訊ねたアレインに、ユルングルは潜めた声で思わぬ答えを返した。
「…二人は攫われた。連戦で悪いが、すぐに二人を追え」
「…!」
三人同時に目を大きく見開いて、感情に委ねるまま声を荒げそうになるのを、何とか自制する。そうして一呼吸おいた後、三人は周囲の様子を窺うように小さく視線を泳がした。
どうやら乗客たちは何も気づいてはいないらしい。ここで騒いで事を露見させれば、乗客たちはまた恐怖を抱くことになるのだろう。できればそれは避けたい。だからこそ、ユルングルも声を潜めて告げたのだ。
ダリウスもそれに倣って、声を潜めて問いかけた。
「…ラン=ディア様の死の未来は、もうなくなったと思っておりましたが?」
ダリウスの口からも予想だにしていない単語が出てきて、今度は師父とアレインがダリウスを一瞥する。情報が錯綜し過ぎて、もう何が何やら判らない、といったふうな困惑と呆れが混ざったようなため息を、どちらからともなく落とした。
「…ああ、もう死ぬ未来はない。だから放置した」
「拉致されると判ってて放っておいたのか?…まったく、お前たち兄弟はどれだけ秘密を抱えりゃ気が済むんだ」
「…ここで彼らが拉致されなければ、俺の弟が困ることになるからな」
「…!」
この言葉に得心を得られたのは、ダリウスとアレインだった。
どこがどう繋がっているのかは、当然判らない。だが、この事がゆくゆくはユーリシアに何らかの影響を及ぼすのだろう。それがユーリシアにとって不利な事であるならば、是非もない。
二人は小さく視線を合わせて頷き合うと、もう一度ユルングルに向き直った。
「お二人を攫った者たちは、どちらの方向に逃げたのです?」
「この道から西の方向に進むと、ソールドールに向かうもう一本の道に出る。連中はその道を辿ってソールドールに向かっている亅
「…!待て!この道以外は魔獣が出るぞ!」
「大丈夫だ、連中は魔獣避けの魔道具を身に着けている。奴らが通った道にもしばらくは効力が消えずに残っているから心配はするな。連中の人数は五人。見つければ一瞬で勝負はつく。だが、油断はするな。この森を抜けたらもう二人を助けられない。必ずその前に奴らを見つけ出して二人を救え」
手短に要点だけを淡々と説明するユルングルに、二人は黙って首肯する。
「俺はここで待っている。二人を連れて戻ってこい」
「はい、必ず。…師父、弟をよろしくお願いいたします」
「…ああ、さっさと行って帰ってこい」
師父に一礼するダリウスを追い払うように、彼は軽く手を払う。森の中に消えていく二人の後ろ姿を見送りながら、師父は半ば呆れと、自分だけが理解できていない現状に嫌気が差すように大きく息を吐いた。そうして、同じく取り残されたユルングルを睨めつけるような眼差しで見つめて、告げる。
「…一体お前には何人兄弟がいるんだ?」
その質問に、なぜか師父以上に不機嫌そうな顔を見せて、おもむろに背けた。
「……今も昔も、俺の兄弟はダリウスだけだ」
その態度はやはり、頑なだった。




