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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 ユルングル編・終一編

「目が覚めたか?ユルン」


 馬の蹄の音と馬車の揺れで目覚めを促されて、ぼんやりと瞼を開いたユルングルの耳に、馴染んだ兄の声が届く。次いで、いつもとは違う視界の端からひょっこりと顔を覗かせてこちらを見下ろすダリウスの姿に、昨夜告げた忠告を律儀に守っているのだと察して、ユルングルは小さく笑みをこぼした。


 昨夜、ユルングルはダリウスに一つ禁止事項を出した。

 明日一日は、ユルングルを抱きかかえたままでいる事を禁止する___と。


 夕刻には盗賊相手に大立ち回りをする予定だ。いざその時になって、両の手が痺れて動かない、なんて事にでもなれば目も当てられない。戦力の多くを占めるのはダリウスなのだ。彼には万全な状態でいてもらわなくては困る。


 いかにも納得がいかないと言ったふうのダリウスにそう諭して、不本意そうな顔をどうにかこうにか頷かせたのは昨晩の事。その経緯がユルングルに一抹の不安を抱かせたが、どうやら素直に言う事を聞いてくれたらしい。それは硬い荷馬車の床に寝かされていた事に起因する、体の節々から来る痛みからもよく判った。


「…気分は?…大丈夫か?」


 不安な調子を多分に含んだ声音で、ダリウスはそう問いかける。それに頷き返した後、ユルングルはゆっくりと体を起こした。


「…!ユルン…!あまり無茶をするな…!」

「…体中が痛いんだ…。起こしてくれ、兄さん…」


 ダリウスの手を借りながら何とか体を起こして、壁に背を預ける。その背すら、体をくるりと包んだ毛布越しでも壁に当たるとひどく痛んで、軽く顔を歪ませた。


 そうして、今まで自分が寝ていた場所を視界に入れる。

 そこに敷かれた一枚の毛布。直接寝かせては体も冷えるし痛むだろう、と思慮して敷いてくれたのだろう。体をくるむ毛布と合わせれば二枚分の毛布の厚みになる。その厚さでも、骨ばったユルングルの体には荷馬車の床が鉄のように硬い。衝撃を和らげてくれる脂肪が、もうほとんど残されていないのだ。揺れるたびに、突出した骨が何度も硬い床に叩きつけられて、体中のそこかしこが悲鳴を上げるように鈍い痛みが走った。


 痛みをこらえるように渋面を取りながら、体を丸めて頭を前に落とすユルングルの様子に不安を感じて、ダリウスは手を伸ばす。その手を、ユルングルは慌てて制した。


「…触るな…!……本当に、痛むんだ……。…少し待っててくれ……もう少しで慣れるから……」


 床に寝かされていたのは三、四時間ほどの事。たったそれだけの時間でこれほど痛むのは、元々、褥瘡じょくそう___つまり床ずれがあったからだ。


 ユルングルが倒れてからひと月余り。その間ずっと寝たきりだった。柔らかいベッドの上ですら、骨ばったユルングルの体は次第に褥瘡じょくそうを発症し始めていた。加えて、栄養状態が悪かった事、そして心臓を患った事で血流が悪かった事も大きな要因の一つだろう。


 そんな状況でも褥瘡じょくそうが比較的浅い状態を維持できていたのは、ダリウスとラン=ディアが気を配り、体勢を変え薬を塗り、あるいは血行を促進するために温めたりと手を尽くしてくれたからだ。だが、その浅い褥瘡じょくそうが、たった数時間で目に見えて悪化した。おそらく服の下は、体のあちこちが赤く腫れて皮膚がただれているのだろう。服がわずかにこすれるだけでも刺すような痛みが走って仕方がない。


 ダリウスは、ユルングルが前屈みになった事で開いた壁との隙間に、衣服の入った柔らかい鞄を置き、その上に敷物にしていた毛布を折りたたんで即席のクッションを作ると、もたれるように促す。当然クッションよりは硬いだろうが、何もないよりはましだろう。


 その即席のクッションに身を預けて人心地ついたように小さくため息を落とすと、ちらりとダリウスを視界に入れた。


「……ありがとう、ダリウス兄さん。……少し落ち着いた……」


 旅が始まってから今まで、この痛みを味わう事がなかったのは、ダリウスがずっと抱きかかえてくれていたからだ。床には当たらないように、必ずダリウスにもたれかかるようにして抱きかかえてくれていた。決して寝心地がよかったとは言わないが、この配慮が自分の体を保護してくれていた事は明らかだろう。


 ユルングルはもう一度、謝意を込めた眼差しをダリウスに向けると、不安で押し潰れそうなほどの心許なげな表情を覗かせている兄の姿が視界に飛び込んできて、思わず吹き出すように笑う。


「…なんて顔しているんだ、兄さん。……少し痛みがあるだけだ。…体自体は薬用酒が効いてずいぶん調子がいい」


 言ったユルングルの顔色は、存外いい。痛みからか額に脂汗を浮かべてはいるものの、その顔色自体は頬にわずかな赤みが差して、ここひと月ほどの間では一番いいと言ってもよさそうだった。

 その事実にとりあえずの安心を得て、ほっと胸を撫で下ろしたのは、何もダリウスだけではないだろう。わずかに張り詰めた空気が緩むのを感じて、ユルングルは内心、誰も彼もが心配性だと呆れたように一笑する。


「ユルン様、診察と治療をいたしましょう。痛みが少し和らぎますよ」

「…ああ、頼む」


 願ってもない申し出に、ユルングルは素直に手を差し出す。正直、馬車が揺れるたびに刺すような痛みが走って、背を預ける事さえ苦痛だった。体力があれば座位を保持したいが、それも叶わないので結局痛みを我慢するしかない。その痛みがわずかでも和らぐのなら、神官治療のわずかな不快感くらい、いくらでも我慢できた。


 ラン=ディアは差し出された手を取りながら、言葉を続ける。


「もう少しで中休憩の街に着きますから、そこで褥瘡じょくそうの具合も診てみましょう。それまでは苦痛でしょうが、しばらくは耐えてください」

「……簡単に言ってくれるな」


 笑い含みに小さくぼやいて、神官治療の不快感を自覚する。同時に鋭い痛みがわずかに引くのを感じて、ユルングルは強張った表情を少し和らげた。


「…楽になられましたか?」

「…少しな。…そういえば薬用酒はまだあるのか?」

「ええ、あと一回分は。…今夜もお飲みになりますか?」

「…いや、もしもの時に取っておいてくれ。……今は誰が持ってる?」

「俺が持っていますよ」

「ならダリウス兄さんに預けてくれ。…その方が何かと都合がいい」


 言って、ラン=ディアの背後に見える一人の乗客に軽く視線を向ける。

 含みを持たせた口調と、その目の動きに言いたい事を察して、ラン=ディアは首肯しゅこうした後、鞄から取り出した薬用酒をダリウスに手渡した。


 その光景の横で、乗客たちの中から小さな舌打ちが一つわずかに荷馬車の中に漏れて、すぐさま馬の蹄の音に掻き消えた。


**


「ダリウス様はユルン様のお体をお支えください。ラヴィ様は俺の手伝いを」


 中休憩の街に着いて馬車から乗客たちが下りた事を確認すると、ラン=ディアはすぐさま二人に声をかける。頷き返した事を確認して治療が始まるその様子を、師父は馬車から下りたすぐ傍でただ眺めていた。


「…服をめくりますよ」


 一声かけて、少し前屈みに座ったユルングルの背中側から服をめくる。皇都よりも暖かいとは言え、脂肪の少ないユルングルの体が冷えないように、毛布を被せた状態での治療となった。露わになったのは骨ばった背中だけ。その背中には、痛々しいほどの褥瘡じょくそうが姿を現した。


(……これはひどいな。赤くただれて、所々皮膚が剥けている……これはではひどく痛むだろう…)


 褥瘡じょくそうがあるのは、肩と肩甲骨の周辺、そして特にひどいのが背骨が突出している腰周辺と尾てい骨の辺りだった。赤くただれるまでなら、まだ痛みはそれほど強くはない。だが皮膚が剥けると、軽く触れるだけでも強い痛みが出る。それは痛覚が、皮膚の中の真皮という部分にあるからだった。


 ラン=ディアは手に持つ服をダリウスに託した後、患部を洗浄してラヴィの手に置かれた塗り薬をたっぷりと指ですくい取る。そして、できるだけ患部に指が触れないよう、慎重に塗り始めた。


「…っ!……もっと優しくしろ…!」

「これ以上は無理です!我慢なさい!」


 患部に指が触れていなくても、薬が軽く当たるだけで痛みが強く出る。薬を塗る以上、これより優しく出来ない事は百も承知だが、言わずにはいられない。


 痛みに顔を歪ませながら傷口を治療されているユルングルの様子に、師父は傷の具合を確かめようとちらりと背中を覗いてみる。その視界に入ったユルングルの背に、師父は思わず大きく眉根を寄せた。


 痩せ衰えて骨ばった背中以上に、褥瘡じょくそうの痕が痛々しい。それは、今回の褥瘡じょくそうだけではなく、今まで何度も褥瘡じょくそうを発症しては治ったであろう痕がいくつも見られたからだった。それが、今まで何度も寝たきりになるほどの病を発症した事を如実に語っているようで、あまりに痛々しく見るに堪えない。


 無意識に渋面を作って顔を背ける師父の姿が視界の端に入ってきて、ユルングルは痛みに堪える顔に自嘲めいた笑みを落とす。


「…気持ちが悪いなら見なくていいぞ。あまり気分がいいものじゃないだろ。…俺の体は醜いからな」

「…!…そういう事じゃない。自分の体をそんなふうに言うな」

「哀れみはいらない、本当の事だ。…痩せて骨と皮だけな上に、褥瘡じょくそうの痕だらけで醜い。どんな言葉で誤魔化しても、その事実は曲げられないんだ」


 ユルングルは、この弱々しく醜い自分の体が嫌いだった。


 どれだけ強くありたいと体を鍛えても、この体はいとも容易くその努力を無に帰してしまう。鍛えては病に冒され歩くことさえままならない体になり、それに嫌悪を抱いてまた鍛えても、幾ばくもかからぬうちに、また病に冒されるのだ。


 何度も何度もそれを繰り返して、それでも諦めなかったのは家族に対する憎しみがあったからだ。親に復讐すると誓った。弟から何もかもを奪おうと思った。そのために、力が必要だった。___だが今は、それすらもない。


 この一連の騒動が収拾を迎えたら、自分はようやく諦観を得てこの弱々しい体を受容する事になるのだろうか。


 何とはなしにそう思ったユルングルの耳に、ひどく困惑した悲しげな声音でぽつりと自分の名を呼ぶ声が届いて、訝しげにそちらの方に顔を向ける。その先に思った通りのダリウスの顔があって、ユルングルは目を白黒させた。


「…何で兄さんがそんな顔してるんだ」

「………ユルン…その言い方は……」

「…別に誰かを非難してるわけじゃないだろ。自分で自分の体を醜いと言って何が悪い」

「………だが…」


 言葉尻を濁したまま、ダリウスは口を噤む。まるで叱られた子犬のように悄然とうなだれながら、ただ黙ってユルングルを見つめ返した。


「…………」

「…………」

「…………ああ、判った判った…!もう二度と言わない、約束する。……これじゃまるで俺が兄さんをいじめてるみたいだろうが」


 いつまでも何かを訴えるように悲しげな瞳で見つめてくるダリウスに、ユルングルは顔をしかめながら不承不承と約束を交わす。口下手なダリウスにはこういう時、何と諫めればいいのかが判らず、結果として態度で訴えるしかないのだが、これがかえってユルングルの良心の呵責にひしひしと訴えてきて仕方がないようだ。


 ユルングルに忠言しようと開いた師父の口は、そんな二人のやり取りに小さく閉じて、代わりに口角を上げた。


「……いい、兄弟だな」


 ぽつりと呟いた師父の言葉に、治療を行っていたラン=ディアとラヴィがくすりと笑みを落とす。


 例え本当の兄弟ではなくとも、彼らの性格が歯車を合わせたように相性がいい事は、すでに折り紙付きだ。常に斜に構えたユルングルには、牧歌的なダリウスの性格がどんな場面でも歯止めの役割を担っているのだろう。あるいは、ユルングル自身その牧歌的なダリウスに救われているのかもしれない、と二人は思う。


 そうこうしているうちに薬を塗り終えたラン=ディアは、その上に透明の薄いフィルムを貼ってからガーゼで覆って軽く仮止めし、体全体を包帯で巻いていく。その様子を、師父は「満身創痍だな」と揶揄しながらも、顔をしかめて見せた。


「……そんな体で、本当に盗賊たちとやり合うつもりなのか?」

「……実際にやり合うのはダリウス兄さんとアレインだ」


 服を整え毛布に身を包んで、再び即席のクッションに背を預けながら答える。


「…アレイン様はまだ…?」


 問うたのはダリウスだ。


「…もう、すぐそこまで来ている。そろそろ見えないか?師父」


 言われて師父は荷馬車側から顔を出すように覗いてみる。言われた通り、馬に跨って疾走するアレインの姿を見咎めて、これ以上にないくらい呆れた表情を見せた。


「……お前は本当に末恐ろしいな……」

「…とりあえず誉め言葉として受け取っておく」

「お前に判らん事なんてあるのか?」

「……さあな。俺に訊くな、俺に」

「お前じゃなきゃ、誰に訊くんだ?」

「……この力を与えた奴にでも訊け」

「……?……神か?」

「…いたらいいな」


 生産性のない不毛な会話をひとしきりしたところで、手綱を引いて馬車の傍で馬を止めたアレインが、師父の姿を見咎めて怪訝そうな表情を取った。


「……師父?…どうしたのですか?」


 馬を下りながら問いかけたアレインの顔に、怪訝さよりも不信感が募っているように見えるのは、おそらく気のせいではないだろう。アレインにとって師父はまだ部外者の一人だ。中休憩の時にはいつも、乗客たちが気を遣って、ユルングルがゆっくり休めるよう馬車を下りて思い思いに過ごす事も知っている。なのに、わざわざ馬車に残って彼らと共にいる師父を、何も知らないアレインが不信に思うのは仕方のない事だろう。あるいは、未来が視えるという特殊な能力を持つユルングルに、素性の知れぬ者が近づく事への警戒心だろうか、と師父は思う。


 そんな警戒心を解かせるように、師父はできるだけ人好きのする笑顔を見せた。


「…そんな怖い顔をするな。俺は敵じゃない」

「…!……いえ、そういうつもりは……」


 知らず知らずのうちに警戒を表わしていた事に気付いて、アレインはバツが悪そうに顔を背ける。そのアレインの耳に自分の名を呼ぶユルングルの声が聞こえて、アレインは荷馬車の方へと足を進めた。


「…ユルン様。遅くなって申し訳ございません」

「…いや、無事に帰って来たならそれでいい。……上手くいったようだな」


 それには微笑を返す事で返事とする。


「…ずいぶんお体の調子がよろしいようで、安心いたしました」


 出立した時とは違って顔色も良く、力のなかった声も朗々としている。何やら額に脂汗をかいている様子が気になるところではあるが、それでもこの短期間でここまでの回復を見せた事に、アレインは素直に目を見張った。


「…ああ、ラン=ディアのおかげで少し体調が戻った。…詳細はまた後で聞かせてもらうとして、とりあえず今は盗賊の件だ。師父には少し手伝ってもらう事になった」

「…!……それは…私が帰ってこなかった時を想定して、ということでしょうか?」

「師父に協力を仰いだのは昨日の夜___お前が帰ってくると判った後だ。もともと人手が足りなかったからな。戦力が増えるに越したことはない」


 その返答に、アレインはわずかばかりの安堵を得て小さく胸をなで下ろす。


「…それで?俺は何をしたらいいんだ?」

「師父にしてほしい事は二つだ。一つは後方で乗客を守ってもらいたい。基本的には前線でダリウス兄さんとアレインに応戦してもらうつもりだが、どうしても取りこぼしが出るだろうし、戦いを回避して弱い乗客を狙ってくる奴も出てくるだろう」

「…なるほど、そいつらを叩けばいいんだな。で?もう一つは?」

「それを貸してくれ」


 言って指差したのは、師父が肩から下げている布にくるまれた『ある物』だった。


「……?……これか?」


 訝しげに思いながらも、師父はそれを肩から下ろして手に取り、ユルングルに手渡すように腕を伸ばす。


「こんな物どうするんだ?一体誰が使う?」

「俺に決まってるだろう」

「…!?」


 受け取ろうと伸ばしたユルングルの手が、それにわずかに触れた瞬間、思わぬ言葉を聞いて師父は周章狼狽したように慌てて伸ばした手を引き戻す。掴み損ねたユルングルの手が所在なさそうに残されて、彼は最上級のしかめっ面を見せた。


「………おい、何で引っ込めるんだ?」

「当たり前だろうが…!何考えてる!?」

「言っただろ、戦力が増えるに越したことはないと」

「だからってお前を頭数に入れる奴があるか…っ!!」

「!?」


 何のことやら判らず小首を傾げていたダリウスは、ようやく状況を飲み込んで目を白黒させた。


「師父…!それは何なのです…!?」

「弓だ、弓っ!!それも剛弓ごうきゅうだぞ!!お前に扱えるか…!!」

「失礼な奴だな」


 変わらず淡々と返答を繰り返すユルングルを、ダリウスは半ばめつけるように振り返った。


「ユルン…!!一体何を考えている…!?」

「………だから言っただろ。戦力が___」

「私は聞いていない!!戦闘は任せると仰ったから、私は承諾したのです!!貴方が戦われるとお聞きしていれば私は___」

「俺を連れて逃げたか?」

「…!?」


 我を忘れて兄から侍従の口調に戻り、声を荒げるダリウスの言葉の先を察して、ユルングルが遮るように言葉を奪う。そうして大きくため息をいた後、少し後ろめたそうに視線を逸らした。


「……そう言うと思ったから、話さなかったんだ」

「……その未来が……?」

「視なくてもお前がどう動くかくらい予想がつく。どれだけ一緒にいると思ってるんだ」


 ダリウスは善良な人間だった。当然、困っている人間を放ってはおけないし、人を助ける事に微塵も躊躇うことはない。だが、ことユルングルの命が関わると対応が一変した。すべての事に措いてユルングルの安全が重要視され、時には非情とも思える決断さえ辞さなかった。


 だから敢えて、言わなかったのだ。


 未来の中では、自分が戦う姿も見えた。これを素直に告げれば、ダリウスは決して首を縦には振らないだろう。だからもう逃げられない今になって、ようやくユルングルは告げたのだ。


 これは、ダリウスには告げていない後ろめたい三つの事実の内一つだった。


「……だが、ユルン……その体では……」

「三十八人だ」

「………え?」

「盗賊の数は全部で三十八。中には弓を使う者もいる。……本当にお前とアレインだけで対処できるのか?」

「………それは、師父が…」

「師父は後方で乗客を守る必要がある。弓を使う者にまでは気を配れない。お前も判ってるんだろう?」


 逃げ口上をすべて奪われて、ダリウスは声を失う。


「……師父がいない未来では後方はすべて俺が一人で守った。だが今回は師父がいる。俺の負担はかなり軽減されるだろう。……それでも不満か?」


 ユルングルの訴えかけるような視線を受け止めて、ダリウスは硬直したように口を閉ざす。その表情はいかにも肯定を拒否しているかのように眉根を寄せ、やはり頑なな態度を見せていた。


(………だめか…)


 ユルングルはもう一度、説き伏せようと口を開く。だがその呼気に声が乗る直前、頑なに閉じたままのダリウスの口が開いて、ユルングルはぴたりと動きを止めた。


「……なぜなのです?」

「……?…何がだ?」

「…なぜいつも貴方は私の承諾を得ようとなさるのです?貴方は私の主です。私は貴方に異を唱えることはできても、意に反することはできません。なのに、なぜです?」


 もう師父がいることすら忘れているのだろう。口調をそのままで慮外りょがいな質問をするダリウスに、ユルングルは目を瞬く。そしてすぐさま不快を表すように、眉間のシワを深く刻んで見せた。


「………異を唱えることしかできない…だと?どの口が言うんだ、どの口がっ!!確かに普段はそうだ!だが俺の命が少しでも危険に晒されると判れば、お前は絶対首を縦には振らないだろうがっ!!力づくで俺を危険から遠ざけるだろ!!俺がお前に力で勝てると思うか!?勝てないだろっ、どう考えてもっ!!お前の首を縦に振らせないと、何もできないんだよっ、俺はっっ!!!」


 特に今は歩くことさえできないのだ。今はダリウスが、その足を担っている。なのでダリウスの機嫌を損ねようものなら、抱えてどこかに連れて行かれたとしても、自分には手も足も出ないのだ。そしてダリウスには、それを行う可能性が多分にある。


 それを言外に含ませるように、何を判り切った事を、と不満を一息で吐露するユルングルに、ダリウスは思い当たる事があり過ぎて、バツが悪そうにちらりと視線だけを逸らす。


「………………そう、でしたでしょうか……?」

「自覚はないのかっ、自覚はっ!!」


 あり過ぎるくらいだが、あるとは言いたくない。


 ユルングルは決まりが悪そうに目を合わせようとしないダリウスを視界に留めて、半ば呆れたように、もう半分は心配ばかりかけている負い目を吐き出すように、ため息を落とす。


「……すまないな、ダリウス。お前には心配ばかりかける。…俺の傍にいると心痛が絶えないだろうな」

「…!そのような事は…!」

「だがそれでも言うぞ。…俺の傍にいたいなら耐えてくれ、ダリウス。俺はこの生き方を変えるつもりはない、諦めろ」


 はっきりとそう告げるユルングルの瞳は、強い。

 いつもそうだ、とダリウスは思う。病に冒され、どれだけ痩せ細り弱々しい姿になっても、この強い瞳だけは変わらなかった。いつも前だけを見据えて、決して逃げ出さず、諦める事の無意味さを宿した、強い瞳。


 この瞳には、ダリウス自身何度も救われた。ユルングルの病状がどれほど悪くても、この瞳のおかげで大丈夫だと信じられた事は、もはや両の手で数えられるだけの数をとうに超えている。そうして今も、この瞳に大丈夫だと確信を得られるのだろう。


 ダリウスは諦観を込めたため息を一つ落とすと、ユルングルの視線を真っ直ぐに受け止めて告げる。


「…では、お一つだけ質問にお答えください」

「…何だ?」

「…これから先も、私の未来には貴方が隣におられますか?」


 何かを含んだような物言いに、わずかに怪訝に思いながらもユルングルは頷く。


「…ああ」

「お約束できますね?」

「…誓って嘘はない」


 この誓いは、もう何度も立ててきた。そして、裏切った事は一度もない。

 ダリウスはようやく諦観するようにため息をくと、ひざまずいたままこうべを垂れる。


「承知いたしました。ですがどうか、ご無理はなされませんよう。できるだけ師父をお頼りください」


 判ったと首肯して、ユルングルはもうすっかり兄である事を忘れたダリウスに、呆れ返った声を返す。


「……あとな、ダリウス。俺は何度も言葉遣いには気を付けろと言ったぞ?」

「…!」


 ようやく我に返って、一部始終を見ていた師父を慌てて振り返る。何か申し開きを、とは思ったものの、もう後の祭りだろうか。


 失態を演じていた事にようやく気付いたダリウスの様子に、師父はくつくつと笑みを返した。


「…まあ、薄々勘づいてはいたがな。特にラヴィは兄という割に弟に遠慮し過ぎてる」

「………申し訳ございません」

「だがユルンとダリウスは、本当の兄弟だと思ってたんだがなあ」


 少し残念そうに、師父は笑う。

 その返答に、ユルングルはやはり顔をしかめた。


「昔も今も、ダリウスは俺の兄貴だ。こいつが頭が固いんだよ」

「…私にも立場がございますから……」

「いっつもこう言うんだ、こいつは」


 そのやりとりに師父は目を白黒させた後、いつもの闊達な笑い声を上げた。


「何だか複雑そうだが、やっぱりお前たちは、いい兄弟だな」


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