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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 ユルングル編・四編

 ユルングルは、ゆっくりとその瞼を開いた。

 例によって見慣れない天井がユルングルの視界を奪う。


 ここ最近はずっとそうだった。

 目が覚めると、真っ先に視界に入るのは見慣れない天井。そうして必ずその後に、心配そうに顔を歪ませたダリウスの顔が視界の端から覗いてくるのだ。


 なのに、そのダリウスの顔がいつまで経っても視界に現れなかった。


「…………ダリウス……?」


 しびれを切らして呼びかけてはみたものの、返答すらない。軽く見渡すと、ラン=ディアとラヴィの姿さえない事にユルングルは眉根を寄せた。


(……珍しいな。俺を一人にするのは……)


 ダリウスが傍を離れる時は必ずラン=ディアが、そしてラン=ディアすら離れる時は必ずラヴィが傍についた。この旅が始まって以来、基本的にユルングルを部屋に一人残す事は、まずない。

 ユルングルは怪訝に思いながら、自然と手をついて体を起こしてみる。その体がいぶかしく思うくらい軽い事に気付いて、思わず目を見張った。


 元通り、というわけではない。むしろまだ程遠いくらいだが、それでも倒れて以降これほど体が軽いと思ったことはなかった。そもそも、一人で体を起こす事すら出来なかったのだ。それが、わずかに息切れを起こすものの、それほど苦もなく体を起こせた事が信じられなかった。


 その体を、ユルングルは何とか背に立てた枕に預ける。

 軽く息を整えて、ユルングルは記憶をまさぐった。なぜこれほど目に見えて体が改善したのか、ユルングルに思い当たるものがなかったからだ。


(………そういえば……高熱を出したんだったか……?)


 正直、記憶はひどく曖昧だ。熱に浮かされていたためか、夢現ゆめうつつの中の出来事のようで確証はない。それでも一瞬、口の中にえたような味が広がったような気がして、体があの耐え難い吐き気を覚えている事を自覚する。


 ユルングルは体温を確かめるために、軽く額に手を当ててみた。


(……熱はまだあるか……だがそれほど高くはないな)


 まるで熱砂の上に寝かされていたような不快な感覚は、もうない。だるさはまだあるものの、熱で意識が朦朧とする事も、暑いはずなのに体の芯から起こる震えももうなかった。

 これならもうさほど気にするほどのものではないだろう。この程度の熱は日常茶飯事だ。どうと言うものではない。


 そう思ったところで、ユルングルはようやく思い至る。ラン=ディアに飲まされた薬が、実は酒だったことに___。


(……そうか、酒を飲まされてまた卒倒したんだったな)


 盛大にため息をいて、ユルングルは不快気に寄せた眉間のしわを覆うように、額に手を当てた。


(……ラン=ディアの奴、よりにもよって酒なんか飲ませやがって……)


 はっきり言って、酒にはいい思い出がない。

 正直に言うと、昔から興味自体はあった。ライーザやリュシアの街の年の近い者は皆、成人前でも構わず酒を飲んでいたからだ。だが頭の固いダリウスは決して首を縦には振らず、興味だけが募っていった。


 ようやくダリウスから許可が出たのは、成人したその日。街の住人たちがささやかながら成人祝いの宴を開いてくれて、祝い酒だと言われてダリウスから小さなお猪口に注がれた酒を手渡された。決して余裕のない暮らしの中から皆で金を出し合って、普段では決して手が出ないような高価な酒を用意したと聞かされて、妙に面映ゆかったことを覚えている。


 だが、気分がよかったのはここまで。高揚した気分に促されるようにお猪口に口を付けて、わずかに酒を口に含んだ時点で、ユルングルの記憶は途絶えている。目が覚めたのは翌日の昼過ぎ。ひどい頭痛と吐き気で目が覚めた。聞けば、初めて飲む酒という事もあってかなり度数の低い酒を選んでくれたらしいが、どうやら自分の体はそれすら受け入れられなかったらしい。低魔力者特有の体の弱さゆえに酒も弱いのかと考えたが、同じ低魔力者でも大酒飲みが存在するところを見ると、どうやらその思い込みは幻想のようだ。認めたくはないが、単純に自分の体が酒に極端に弱いのだろう。


 もう二度と生きている間は酒は飲まない。飲むなら死んであの世に逝ってから、と頑なな誓いを立てたのは、二日酔いと呼ばれる症状が三日続いた時。どんな病よりもあれほど不快なものはないだろう、と過去を振り返って苦虫を潰したような渋面を取ったその時、ふと今の自分にその二日酔いの症状が全くない事に気付く。


 いや、むしろ頭の中が明瞭ですっきりしていると言ってもいい。あれほど苦痛だった幾万の未来が透過する事でさえ、変わらず頭の中が煩雑とはしたものの、以前ほど苦痛ではなくなった。当然、頭痛も吐き気もなく、そして体が軽い。


(………薬用酒…というやつか……?……すごいな、この効果は……)


 これなら、上手くいけば立ち合いが出来るくらいには回復するかもしれない。

 にやりと笑って、そんな希望を抱いたところで、ようやく部屋の外から聞き慣れた声がユルングルの耳に届いた。


「…何から何までありがとうございます、師父」

「ああ。いい、いい。気にするな、ダリウス。俺から手伝いを買って出たんだ。礼を言われる事じゃない。…それよりもユルンの容態はどうだ?」

「熱はずいぶんと下がりました。ラン=ディア様の薬用酒がよく効いたようです」


 その返答に、師父は大仰に目を見開いて豪快な笑顔を見せる。


「へえ…っ!そいつはよかった…!大したもんだな、薬用酒ってのは!…ちなみにそれは薬剤店で買える薬か?」

「残念ながら、これは俺の手製です。薬剤店どころかどこにも流通していません」

「…もったいない。それだけ薬効が確かなら、もっと出回って然るべきだろうにな」

「…仕方がありません。材料が希少ですからね。そもそも作る事さえ困難な代物ですから」

「あー…何だったか?……フリューネと…アーティ…オウレン……?…だったか?…どこぞで見かけたらあんたに真っ先に送ってやるから、その暁にはそいつを世界中どこにいても手に入れられるようにしてくれよ」

「…心得ました」


 野太い声でたどたどしく名を呼ぶ師父にくすりと笑みを落としながら、ラン=ディアは頷く。それに満足そうな笑みを一つ返して、師父は三人を促すようにひと際大きな声を上げた。


「さあ、もうユルンのとこに戻ってやれ。ラヴィもわざわざ礼を言うために出てこなくていいんだぞ」


 言いながら、まるで子供にするようにラヴィの頭を撫で回す師父に、ラヴィは困ったような表情を見せる。


「師父…!私はこれでも、もう二十六なのですよ…!子供扱いはよしてください…!」

「何だ、俺の半分しかまだ生きてないじゃないか…!もっと年を取ったら考えてやるぞ」


 いつもの闊達かったつな笑い声を上げる師父に、三人は同時に苦笑を落とす。この豪快な壮年の男は、とにかく誰彼構わず子供扱いをした。当然、自分と年の近い壮齢の男は除外していたが、中年の女たちにはわざわざ『お嬢さん』と呼称を付けて喜ばせていたし、ユルングルやラヴィのような盛年せいねんには、それこそ小さな子供さながらの対応を好んでする男だった。年の近い壮齢の男たちを除いて、彼が子供扱いをしないのはダリウスとラン=ディア、そしてアレインくらいだろうか。


「ほら、戻った戻った!ユルンが目を覚ましたら寂しがるぞ」


 もう完全にユルングルを子供だと思い込んでいるなと、三者三様にひとりごちたところで、部屋の中から不機嫌さを盛大に表現した怒声が響き渡った。


「…誰が寂しがるか…!」

「…!ユルン……っ!?」


 慌てて扉を開けたその先に、ベッドの上で体を起こしている渋面を取ったユルングルの姿が目に入って、三人は一瞬、呆けたように目を見張る。ユルングルが一人で体を起こしたその意味を知らない師父だけが、変わらぬ様子でいつもの闊達な声を上げた。


「威勢のいい声が聞こえたと思ったら、ずいぶん調子がよさそうじゃないか、ユルン」

「…熱はほとんど下がったからな。もう平気だ」


 返ってくる声の調子も、いつもの億劫そうな気怠い感じではない。歯切れのいい凛とした声音で、心許なさはもうなかった。それでも昼間に見せた不調が頭をよぎって、ダリウスは不安そうに訊ねる。


「……ユルン…体の調子は……?……気分は悪くないか……?」

「…だから平気だと言っただろう、ダリウス兄さん」

「……だが、昼間あれほど体調が悪かっただろう……?」

「………相変わらず心配性だな、兄さんは」


 不安と心配をたっぷりと含ませたダリウスのその表情に、ユルングルは呆れたようにため息を落とす。


「心配ならラン=ディアに診てもらえばいいだろ」


 言ってラン=ディアに視線を寄越すので、ダリウスもまた彼に視線を移して促すように一つ頷く。ラン=ディアはそれに応えるようにユルングルの手を取って、すぐさま診察を始めた。答えは、いくらもかからぬうちにラン=ディアのその表情に現れた。目を見開き、感嘆のため息をく。


「……驚いた…これほど如実に効果が表れるのは初めてだな…!さすがは俺が作った薬か…!」

「…おい、こら。そこじゃないだろ」

「!…ああ、お体の調子はずいぶんよろしいようですよ」

「…適当だな、おい」


 呆れたように合の手を入れるユルングルと軽くいなすような答えを返すラン=ディアの二人のその掛け合いに、小さく苦笑交じりの声が部屋の中に漏れる。

 そうしてユルングルの手を離したラン=ディアは、仕切り直しに「冗談はさておき」と前置きをして、言葉を続けた。


「驚くほど改善しておりますね。体がずいぶん軽いのではありませんか?」

「ああ」

「もちろん弱った心臓がよくなったわけではありませんが、それでも疲弊した体力が目に見えて回復したのは確かです。…とは言うものの、元通りというわけではありません。なけなしの体力がわずかばかり回復しただけ。一から二十に上がったくらいだとお思いください。当然まだ歩くことはできませんし、一人で座位を保持する事すらまだ難しいでしょう。できるだけ回復したその体力を維持できるように努めてください」

「…食事は?まだ粥とスープか?」


 一気に体調が改善した事で、忘れていた食欲が降って湧いてきた。とにかく空腹で仕方がない。正直もうひと月以上粥とスープで飽き飽きしていたところだ。ダリウスが気遣って、あれこれと味付けを変えてはくれているが、粥とスープである事に変わりはない。そもそも食べ応えがないから、今の空腹の状態では考えるまでもなく物足りないだろう。


 ラン=ディアは軽く思案するような仕草を見せた後、答えを返す。


「……そうですね。正直まだ胃腸も本調子ではありません。食欲がおありなのは喜ばしい事ですが、残念ながら普通の食事はまだ無理だとお思いください」

「……また粥とスープか」


 辟易するように、そしてことさら残念そうに呟くユルングルに、ダリウスが助け舟を出す。


「…消化がよく柔らかいものでしたら食事に取り入れてもよろしいですか?」

「…そうですね。かなり柔らかく煮たものでしたら問題ないでしょう」

「老人食か」

「病人食と仰ってください」


 何でも失礼な言い方に変えるのは、ある意味ユルングルの才能だろうか。

 そんなやり取りを聞いていた師父は、豪快な笑い声を部屋中に響かせた。


「ユルンの相手は大変だな!」

「ええ、それはもう」


 さもありなんと応えるラン=ディアに再び笑い声を上げながら、師父は思ったよりも容態が良くなったユルングルに安堵の表情を落として、小さく息を吐く。


「…さあ、邪魔者はさっさと退散しようか。下の部屋にいるから、また何か入用なら遠慮なく言ってくれ」


 言って、部屋を出ようと踵を返す。その辞去しようとする師父の背中に、ユルングルは声を掛けた。


「師父、ずいぶんと世話をかけたようだな」

「何だ、話を聞いていたのか?…気にするな、大したことはしていない」

「アレイン様の代わりをしていただいた。宿の手配や護衛まで買って出てくださって、本当に感謝のしようもない」

「大げさだな、ダリウスは。…まあ、旅には慣れているからな。この程度は本当に大したことじゃない。気にするな」


 礼はいらないと意を示すように軽く手を上げ、師父は再び踵を返す。その背にやはりユルングルの声が届いて、その内容にドアノブに伸ばされた手がピタリと止まった。


「…厄介払いされたついでに情勢を見て回っていたらしいな」

「…!?」

「本当はもっと前にあの乗合馬車を降りる予定だったんだろう?俺たちがいたから残ったか……何がそんなにあんたの後ろ髪を引いたんだ?」

「…………何を……いや、どうしてそんな事を知っている…!」


 動きを止めて、ユルングルを振り返る。いつも朗らかな笑顔をたたえていた師父のその顔には、最大級の不信の念を表現するかのように、眉間に深くしわを刻んでいた。

 そしてダリウス達もまた、ユルングルの意図が判らず怪訝そうな表情を向ける。


「……ユルン…?……一体何を……」

「ダリウス兄さん、師父にも手伝ってもらおう。手は多い方がいい」

「…いや、だが……」

「もともと師父は今の時点であの乗合馬車に乗っていなかった人物だ。それが俺たちがいる事でこうやって乗り合わせた。偶然にしちゃ出来過ぎてる。天の采配だと考える方が自然だな」

「待て待て!俺を置いてくな…!一体何の話をしている…!?手伝うって何だ…!?だいいち、俺はまださっきの返答を貰っちゃいないぞ…!」


 あずかり知らぬところで話が勝手に進んでいくので、師父は慌てて口を挟む。見ればラン=ディアとラヴィも怪訝そうな表情をしてはいるものの、事情を知っているからか半ば得心したような様子だった。何も知らないのは自分だけ。それもユルングルが話す事の一割も理解できてはいない。頭の出来がいいわけではないが、それでも馬鹿ではないつもりだ。なのに何一つ理解できない現状が腹立たしくて仕方がない。


 返答が欲しくてたまらない様子の師父に視線を向けた後、ユルングルは躊躇うことなく口を開いた。


「俺には未来が視える」

「…!」

「明日の夕方、あの乗合馬車は盗賊に襲われる。それを阻止するのを手伝ってほしい」

「…!いや…!待て待て…!なおさら訳が判らん…!」

「何もそんな難しい事は言ってないだろ。手伝うか手伝わないかだ」

「手伝う…!それは手伝うが…!いや……待て待て……馬車が盗賊に襲われる……?……その未来が視えただと……?そんなはずは……それが出来るのは教皇様だけだろう……?」


 あまりに呆気あっけなく、そしてあけっぴろげに信じられないような事を吐露するので、さらに頭が混乱して話について行けない。情報を整理するように、あるいは心を落ち着かせるように、師父は自問自答するように独白を零していた。

 そんな師父に同情めいた視線を向けた後、ダリウスは呆れたようにため息を落とす。


「……ユルン、その言い方ではかえって混乱を招くだろう…」

「なら何て言えばよかったんだ?あからさまな嘘はかえって疑心を抱かせるだけだ。あの乗合馬車が盗賊に襲われる未来が視えたから、彼らを助ける手伝いをしてほしい。これ以上に判り易くて明瞭なものはないだろう。あとはこれを、師父が信じるかどうかだ」

「…!」


 自問自答する師父の耳にユルングルの強い声音が飛び込んできて、師父は弾かれるようにベッドに座るユルングルを視界に入れた。


 「座位を保持するほどの体力はまだない」___先ほどラン=ディアが言ったように、ユルングルは背に当てた枕に身を預けている。その体躯はあまりに細い。乗合馬車に乗り合わせてから、師父の中で彼は常に弱々しい存在だった。


 なのに、今自分を見据える彼の瞳は、どうしてこれほど強いのだろうか____。


 その瞳には、自分が疑われる事はおろか、師父が一片の疑心を抱く事の可能性さえ念頭にないようだった。絶対的な信頼___瞳から読み取れるのは唯一それだけ。師父はその強い瞳に促されるように、狼狽していた心が波が引くように落ち着きを取り戻すのを自覚して、小さく諦観のため息を落とす。


「……俺がユルンを信じる未来も視えたのか?」


 これほど確信めいた態度を見せるという事は、そういう事だろうか。思った師父に、ユルングルはにやりと笑みを返す。


「…さあな」

「…食えない奴だな」


 くつくつと笑う師父に、ダリウスは軽く驚きの表情を浮かべた。


「…信じていただけるのですか?」

「…こんな嘘をく利が、あんた達にないだろう」

「判らないぞ?盗賊と結託しているのかもな」

「……お前は信じて欲しいのか欲しくないのかどっちなんだ?」


 呆れたように腕を組む師父を、ユルングルはくつくつと笑う。そんなユルングルに、やれやれ、と呆れたため息をきながら、師父は彼らを信じた理由は何も利があるかどうかに限った事ではない、と内心で漏らす。


 ユルングルの体が弱いことは誰が見ても明らかだ。何よりあの髪色なのだ。有する魔力はほとんどないのだろうし、心臓が悪いのも嘘ではない。彼らの___特にダリウスの狼狽ぶりを見る限り、体の弱いユルングルが体調を崩すと言うことは、その命を脅かすに等しいことなのだろう。


 それでも、ユルングルはこの乗合馬車にこだわった。どれほど自身の体が不調に襲われても、彼はこの乗合馬車から離れることを頑なに拒んだのだ。

 乗客たちはそんなユルングル達の行動に訝しげな目を向けた。誰もが何故と思ったその答えが、ここにあるような気がしてならない。彼らを救うため____それが一番腑に落ちるのだ。


 そうしてもう一つ、師父には彼の言を信じざるを得ない事があった。


「…一つだけ聞かせてくれ、ユルン。お前は俺が誰だか知っているのか?」


 自分が厄介払いされた事も、ましてや自分が本来立ち寄るはずだった街の事も誰にも告げてはいない。言外に含めるような事すらしていない情報を、ユルングルは当然のごとく口にした。それが、解せない。


 ユルングルはその質問に、肯定も否定もなく、こう告げる。


「ソールドール周辺はあんたの庭だろう?むしろあんたの仕事を肩代わりしてやってるんだから、感謝して欲しいくらいだ」


 確信を得るには、十分過ぎるほどの返答だ。その上、皮肉を込めて言われた言葉すら的を射ていて、ぐうの音も出ない。師父は諸手を上げるように降参すると、ユルングルの傍らで軽く頭を傾げながら二人の会話を聞いているダリウスに視線を向ける。


「……お前の弟は末恐ろしいな」

「……申し訳ございません」


 彼らの話の半分以上、理解は出来ていないが、師父に対して皮肉を言った事だけは判るので、ダリウスはとりあえず謝罪する。


「…とりあえず今日はもう飯を食って休め。これ以上の長話は体に障るからな。明日、また改めて話を聞く」


 そう言って踵を返す師父の背に、ユルングルは三度みたび、声をかけた。


「俺も一つだけ聞かせてくれ。…どうして馬車に残った?俺たちの何がそんなに気になったんだ?」


 その質問に答えようと開いた口は、次の瞬間、静かに閉ざされる。

 この部屋に入ってからというもの、ユルングルに調子を狂わされっぱなしだ。ずっと主導権はあちらに握られたままで、その上この質問まで素直に答えては癪に障って仕方がない。


 師父は閉じた口の口角を上げてにやりと笑うと、挑戦的な瞳を向けて言う。


「…さあな。知りたきゃ、そのよくできた頭で考えてみろ」


 闊達な笑い声を上げながら部屋を出ていく師父の背に小さなため息を落とされて、ぱたりと静かに扉が閉まった。


**


「…不機嫌そうだな」


 ユルングルがそう訊いたのは、食事を終えて一息ついた頃。ずっと不機嫌そうに黙々と手を動かすダリウスの空気に嫌気が差して、たまらずそう訊ねたのだった。


「…貴方は相変わらず、肝心な事は何も仰ってはくださらない」


 小さく息を吐いて告げた言葉は、今まで幾度となくダリウスの口から聞いた言葉だ。いつも独断専行で行動を起こすユルングルに、信頼を置きながらもわずかに不満があるとすれば、この一点だけだった。

 その返答に、ユルングルは「そんな事か」と小さく笑みを落とす。


「今回はほとんどお前に教えてるだろう?」

「師父の事はお聞きしておりません」

「…仕方がないだろ。師父がここまで馬車を下りずについてくるとは思わなかったからな」


 その言葉に、ダリウスはぴたりと動きを止めて、ユルングルに視線を向ける。


「…どういうことです?」

「…言っただろう?もともと師父は、もっと早い段階であの乗合馬車を下りるはずだったんだ」


 師父が本来下りるはずだったのは、願いの街イーハリーブの前の街だった。

 下りていなくなるはずだった師父は、だが翌朝いつもと変わらぬ顔で乗合馬車に乗って来て、結局今に至るまであの乗合馬車に乗り続けている。


「街に着くたびに、師父の未来は必ず二つに分かれるんだ。馬車を下りて街に残る未来と、再び馬車に乗り旅を続ける未来。いつもギリギリまで迷って、結局あの乗合馬車に乗る事を選択する。……何がそんなに気になるんだか」


 未来は視えても、その心中まで視えるわけではない。師父が一体何に後ろ髪を引かれているのかは、結局判らずじまいだ。それでも自分たちがあの乗合馬車に乗り続けている事で、本来いないはずの師父が乗り続けているという事は、その理由に少なからず自分たちが関わっているという事だろう、とユルングルは思っている。


 小さく息を吐いたユルングルは、未だ不満げにこちらを見返してくるダリウスの視線に気づいて怪訝そうな顔を向けた。


「…この答えじゃ不満か?」

「…いえ、そういう事でしたら」


 言って、ふいと顔を背けるダリウスの態度はまだ不機嫌そうだ。その態度に、悟られてはいけない事を察しているのではないかと一瞬、不安が頭をよぎったが、忽然と視界に現れたダリウスの手にある『それ』に意識を奪われて、ユルングルの頭の中は嫌悪感でいっぱいになる。


「さあ、薬の時間です。お飲みください」


 にこりと微笑むダリウスの表情は、いかにも意趣返しだと言わんばかりに嬉々としている。

 内心、楽しんでいるな、と思いつつ、後ろめたい事を隠しているだけに強くは出られない。ユルングルは渋面を取りながら不承不承と『それ』を受け取ると、微笑むダリウスを一度小さく一瞥してから、一気に『それ』をあおった。


**


 翌朝、ダリウス達が乗合馬車の停留所に姿を現すと、乗客たちは不安の色を強くして軽い喧騒が起こった。その集団から飛び出して、慌ててダリウス達の前に駆け寄ってきたのはアーリアだった。


「あの…!ユルンは…!?ユルンは大丈夫なんですか…!?」


 ダリウスの腕の中で未だ眠っているユルングルを起こさぬよう声を潜めて、だがことさら不安と心配を顕著に表した声音で問いかける。そんなアーリアに、ダリウスは穏やかな微笑みを見せた。


「大丈夫ですよ、アーリア。薬用酒がよく効いたようで、もう熱もだいぶ落ち着きました。心配はいりません」

「…!!よかった……!」


 思わず出た言葉が思いのほか大きくなった事に慌てて、アーリアは口を抑える。その様子にダリウス達は小さく笑いを落とした。


「薬用酒で寝入っているので、ちょっとやそっとでは起きません。お気になさらず」

「…そっか」

「お昼頃には目が覚めるでしょうから、またその時にはユルンの相手をしてあげてくださいね」


 ダリウスのその言葉に満足そうに頷き返して再び集団の中に戻っていくアーリアの背を視界に入れながら、ラン=ディアはぽつりと呟く。


「…期せずして、ユルングル様の嫁候補ができましたね」


 アーリアの態度は明らかにユルングルへの好意が見て取れる。浮いた話のないユルングルに業を煮やしていたラン=ディアは、軽く揶揄するようににやりと笑った。


「ご存じでしたか?リュシアの街で診察を行うと必ず出る話題が、ユルングル様の結婚相手の話題なのですよ。もう二十四ですからね。結婚していてもおかしくない年齢です。浮いた話のないユルングル様がことさら心配なのでしょう」


 そう、業を煮やしているのもやきもきしているのも、正確にはラン=ディアではない。街の住人がこぞってその話題を出しては、やれいい相手はいないかだの、誰か紹介してやれだの言うものだから、ラン=ディアはすっかり辟易していたのだ。きっとユルングルの保護者として認識されているダリウスにも、同じように口を酸っぱくして飽きもせずに言い続けているのだろうと思っていたラン=ディアは、だが少し困ったような表情を見せるダリウスに訝しげな表情を向けた。


「……ユルングル様は、まだ恋心というものを理解なさってはおられないでしょう」


 その思いがけない言葉に、ラン=ディアとラヴィは目を瞬く。


「……もう、二十四ですよ?」

「…ユルングル様は十六になられるまで、私とユニ以外の人間と接触を持たれた事はございませんでした。狭い世界の中で生きておられたので、そういった感情自体よくは判っておられないのでしょう。ユルングル様がアーリアに気を遣われるのは、おそらくユニの家名と奇しくも同名だからです。…それ以上の感情は、おそらくお持ちではない」


 ユニ、と口の中で反芻したラン=ディアは、彼女がシスカの妹だったことを思い出す。


「…ユルングル様とご姉弟のように育ったと聞きましたが、彼女に対してユルングル様はご姉弟以上の感情をお持ちにはなられなかったのですか?」


 狭い世界であるがゆえに唯一存在する女性に心惹かれる事は、ままある事だ。ダリウスもそれを察して一つ頷く。


「…ええ。確かにその傾向は見て取れました」


 ユニは、ユルングルが唯一多くの時間を共に過ごした異性だ。そういう感情が芽生えるのは自然の成り行きと言えるだろう。だが_____。


「…ですが、それが本当に恋慕の情だと言えるでしょうか?」

「…!」

「私には、家族に対する情を恋慕の情だと勘違いなさっているようにお見受けいたしました。……そして、今もまだユニに対する気持ちを勘違いなさっておられる……」


 ユルングルは昔から家族に対する情愛がかなり強かった。それは本当の家族から、ただの一度もそれを受け取ったことがないからだろう。

 同性であるダリウスには生まれた時から兄であったことも手伝って、彼に抱く気持ちが家族に対する情愛だと理解していた。だが生まれて初めて接した異性のユニに対して抱く強すぎる思慕の念を、彼は果たして家族への情愛だと理解できただろうか。特にユルングルの場合、思春期と呼ばれる時期まで彼の世界にはユニだけが唯一の異性だったのだ。その特殊な環境下で、家族への情愛を恋慕の情と勘違いしても仕方がない事かもしれない。


「……ユルングル様の身の安全を重視するあまり、彼の世界を狭めすぎたのです……。その責は、私にある」


 そう言って、自身の腕の中で眠る己の主の無垢な寝顔を見下ろす。感情を表に出すことが苦手だったユルングルは、その表情に次第に感情を表すようになったものの、複雑な感情を理解するには至っていないのだろう。


(……いずれ、ユルングル様にも恋慕の情を向ける事のできるお相手に巡り会えるのだろうか?)


 時折ユルングルは、生きることに対して諦観を表す時がある。そういう相手ができれば、わずかばかりでも生きようと思ってはくれないだろうか。___そう、思わずにはいられない。


 ユルングルを見つめたまま口を閉ざしたダリウスの言葉に、ラン=ディアもまた、わずかばかりの不安が頭をもたげた。


 獅子であるシスカには、恋愛感情と呼べるものが一切存在していなかった。それは本人も認めているし、何より人間という一つの大きな種族そのものを守護する任にある獅子には、個人に固執する恋慕の情は邪魔でしかないのだろう。


 では、同じ獅子であるユルングルはどうなのだろうか。ユルングルの前任である教皇もまた、伴侶を持つことなく生涯を終えようとしている。その事実が、嫌な符号を呼び起こして仕方がない。


(……教皇様にお訊きできればよかったのだが……)


 おそらくその機会は、もう二度と訪れることはないのだろう。


 ラン=ディアは己の詮ない考えを振り払うように小さくかぶりを降ると、沈んだ空気を追い払うように努めて明るい声を出す。


「…そういうダリウス様はいかがなのです?意中の相手などはいらっしゃるのですか?」

「…!??……わ、私ですか…!?」


 急に自分に飛び火して、ダリウスは思いがけず周章狼狽する。


 リュシアの街の住人は、結婚適齢期を過ぎたダリウスの相手をユルングル以上に気にかけていた。彼の話題もラン=ディアにとっては悩みの種だったが、思わぬ反応にラヴィと共に目を瞬いた。


「……おや、意外ですね」

「…!わ、私はユルングル様さえお幸せであれば、他には何も…!さ、さあ…!馬車に乗りましょう…!」


 言って、慌てて二人を置いて馬車へと足を進ませる。

 赤面を俯かせながら、いつもは落ち着き払ったダリウスの狼狽っぷりが面白い。それの意味するところは、一つしかないだろう。


 ラン=ディアはラヴィと一度目を見合わせて、ぽつりと呟く。


「…ダリウス様には、意中の相手がおられましたか」

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