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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 ユルングル編・三編

 ユルングルが高熱を出した。

 それは隠れ家を出てから六日後、アレインが出立した次の日の早朝だった。


 まだ夜も明けきらぬ頃、ユルングルの寝苦しそうな声でダリウスは目が覚めた。

 見れば頬は赤らみ、呼吸は荒い。慌てて額に当てたダリウスの手からは、布団の中で十分温まっていたにもかかわらず、それでもなお熱いと思えるほどの体温が感じられて、たまらず眉根を寄せた。

 ダリウスは、急いで隣の部屋で眠るラン=ディアを起こす。ユルングルの診察を行った彼は、やはりその顔に深く渋面を刻んだ。


「……ユルングル様の疲弊しきったお体では、そもそも長旅など無謀だったのですよ……」


 ユルングルの魔力は、低魔力者の中でも極端に低い。その髪色から察するに、辛うじて『ある』という体を為している程度だと言ってもいい。それは、大気に含まれている毒___『瘴気』に、通常よりも多く晒されている、という事だ。自己治癒力も低く、抵抗力も弱い。どんな病でも簡単に受け入れてしまうほど、その体は弱々しい。そんな体で長旅に耐えられるほどの体力はないだろうし、そもそも旅の幕開けからして最悪だった。


 大量出血で十二日間も生死を彷徨い、その後十日間は目覚めたと言っても意識はずっと混濁したままだった。それからたったの七日後に、彼の回復を待つことなく、この無謀とも思える旅が始まったのだ。それも心臓の手術を行った直後にだ。通常の状態でも長旅に耐えられるか、と言ったふうなのに、これだけ最悪な条件が揃った中での出立だった。


 おかげで食事を摂る事すらままならず、すっかり痩せ細っていた体躯は、旅を始めてさらに細く小さくなった。そのためか、毛布にくるまれて眠る彼の姿は、二十四の男とは思えぬほど小さく幼いように見える。師父がユルングルを子供のように扱うのも仕方のない事だろうか。


 それでも、回復の兆しは見えていたのだ。

 少しずつ目覚めている時間が増え、食事もしっかり摂るようになっていた。青白かった顔は、南に位置するソールドールに近づくにつれ、次第に赤みを帯びるようにもなっていた。牛歩の速度ではあるが着実に快癒に向かっていただろうし、危惧されていたデリックからの追っ手も今のところない。順調と言ってもいい旅路だったはずが、六日目にして見事に目論見が崩れたのだ。


「……かなり、お悪いのですか……?」


 ラン=ディアの様子がダリウスの不安を助長させる。

 控えめにそう訊ねたダリウスを、ラン=ディアはさらに渋面をきつくして見据えた。


「悪い?いいように見えますか!?これが…!」

「…ラン=ディア様、ダリウス様に苛立ちをぶつけるのはおやめください」


 思わず声を荒げるラン=ディアを、ラヴィは静かにたしなめる。

 落ち着いたその声音にラン=ディアもわずかに平静を取り戻して、荒立った心をなだめるように大きく息を吐いた。


「………申し訳ございません」

「…いえ、お気になさらず」


 できる限り笑顔を作って、ダリウスもラン=ディアが平静を保てるように努める。


 ラン=ディアがこれほど苛立ちを募らせるのは、こんな状態でもユルングルが決して諦めない事を知っているからだ。

 あの乗合馬車は、二日後の夕方には盗賊に襲われる。それを知っている以上、ユルングルは例え高熱が出ようとも、それこそ手足をもがれたとしても彼らを助ける事を諦めないだろう。それが判るからこそ、ラン=ディアは頭を抱えるしかない。途方に暮れて、苛立ちだけが募るのだ。


 その苛立ちを吐き出すように、ラン=ディアは再び大きくため息を吐いて、ようやくユルングルの容体を語り始めた。


「……大病を患われたと言うわけではありません。長旅による疲弊と、もともとないに等しい体力がさらに削られた事で、大気に漂う瘴気に過剰に反応して免疫反応が強く出たのでしょう」


 瘴気は毒だ。毒が体内に侵入したと判断して、免疫力を上げるために発熱を行う。ごく当たり前の免疫反応だった。実際、心臓を患う前のユルングルは、瘴気に絶えず晒されているためか、常に発熱しているような状態だった。当然それは微熱か、あるいは高熱と呼ばれる手前の体温である事が多かったが、発熱していない事の方が稀だった。

 ユルングルにとってはごく当たり前の日常____だが、時期が悪かった。


「…ユルングル様のお体にはもう、高熱に耐えられるだけの体力がありません。ただ高熱を出す、というだけでもユルングル様の場合、命に係わりかねないのです。しかも旅をしながら、この高熱に耐えるしかない。熱と旅で二重に体力が削られていくのです。……これがどれほど深刻な事か、医学の知識がないクラレンス卿でもご理解いただけるでしょう」


 ラン=ディアの言葉に、重苦しい空気が流れる。

 おそらくこの場にいる誰もがその心中で、誰かが『この旅をやめよう』という言葉を言ってくれないだろうかと、淡い期待を抱いていたに違いない。そしてそれを誰に告げてほしいと願ったかは、考えるまでもなくダリウスにだろう。


 ユルングルが誰かの言う事を聞くとすれば、それはダリウスしかあり得なかった。強く反発するだろうし、十中八九機嫌を損ねるだろうが、最終的に彼はダリウスの意見を受け入れるしかない。それほどユルングルにとって、ダリウスの存在が多くを占めているからだ。


 それを理解している二人は自然とダリウスに視線を向ける。求めるような二人の視線に気づきはしたが、ダリウスはそれを打ち払うように小さくかぶりを振った。


「………旅は、続けます」

「…!」


 断言したダリウスに思わず食ってかかろうとしたラン=ディアは、だが咄嗟に口を噤んで諦観のため息をいた。それは、この答えが返ってくるだろうと予想していたからだ。


 この旅が始まって以来、過保護だったダリウスは以前と違ってユルングルの意向を最大限汲むようになった。当然、ユルングルの体調もおもんばかってはいるだろう。だがそれ以上に、彼の自主性を尊重しているのが目に見えた。彼に寄り添い、彼が望む形をできるだけ整えようと、常に気を配っている___そんなふうにラン=ディアは感じていた。


 どんな心境の変化があったのかは判らない。あるいは、未来の視えるユルングルがダリウスにだけ事の詳細を教えているのかもしれなかった。動けない自分の代わりに____そんな話が出ているとすれば、ダリウスならできるだけその期待に応えようとするのは自明の理だろうか。


 それでもラン=ディアには、解せない事が一つだけあった。

 あのダリウスが、ユルングルの命に係わる事でも受容するだろうか。


 ユルングルの意向を汲むのは構わない。特に今回の件は皇王と、そしてゆくゆくはこの国の存亡まで大きく揺るがす事案だ。デリックの謀反が成就するかどうかは、未来が視えるユルングルの肩にかかっていると言ってもいい。そのユルングルの言葉に忠実に従うのは、ある程度仕方のない事だとラン=ディアはもう割り切ってはいる。


 だがそれがユルングルの命を脅かすとなれば、話は別だ。

 ただでさえ、見ていて痛々しいほどに痩せ細り衰えているのだ。そのうえ『命に係わる』と明言されてもユルングルの意向を優先させようとするダリウスの態度が、ラン=ディアは腑に落ちなかった。


 特にラン=ディアは、教皇から『黒獅子は短命』という情報を得ている。それをダリウスにも、当然当人であるユルングルにも伝えてはいないが、それを知っている以上、今の状態のユルングルを看過するのは、なかなかに難しかった。


 ラン=ディアはもう一度大きく息を吐いて、進言するようにダリウスに鋭い眼差しを向けた。


「…ご忠告申し上げておきますが、俺は誇張してご報告しているわけではありませんよ。ユルングル様のご体調は軽視していいものではない。軽く見ているのであれば、後で必ず後悔します。…それでもよろしいのですね?」

「………ご安心ください。ユルングル様がお命を落とされることはございません。…少なくとも、この謀反が終わるまでは」

「…それは、未来が視えるユルングル様からの情報ですか?」


 具体的な時期まで告げるダリウスに、ラン=ディアは半ば呆れたような表情を取った。


 滑稽だと思う。

 なぜここまで無条件にユルングルを信頼できるのだろうか。信用に足る人物ではない、と言いたいわけではない。だが、ことユルングル自身の体調に限っては、彼は平気で嘘をく人物だと知っている。周りに心配をかけさせないために、そして自分が無茶をするために。未来が視えるという事を盾にとって、ことさら自分の体調は大丈夫だと声高に告げる事は容易に想像がついた。


 ほんの数か月一緒にいただけの自分でも、ユルングルがそういう人物であるという事はもう認知しているのだ。生まれた時から彼を見ているダリウスならば、考える必要もなく判っている事だろう。なのに、盲目的に彼を信じようとするダリウスが滑稽に見えて仕方がない。


 だが、そんなラン=ディアの心中を払拭するかのように、ダリウスはぴしゃりと告げる。


「いいえ、教皇様からです」

「…!?……教皇様から……?……いつです?」

「十九年前に予見をいただきました。『御年二十四の時に、皇籍に再び戻られる』と。…教皇様が視ておられる未来は、決して変える事の出来ない分岐点と呼ばれる未来だと、ユルングル様は仰いました。だとすれば、少なくとも皇籍に戻られるまでユルングル様は生きておられる、という事」

「…つまり、この謀反が起こっている間は亡くならない……」


 呟くように言葉を挟んだラン=ディアに、ダリウスは頷く。


 あの異常なまでの魔力至上主義者であるデリックが生きている限り、ユルングルが皇籍に戻る事は決してないだろう。だとすれば、少なくともこの謀反が終わるまでユルングルの命が潰える事はない、という事だ。


 だが、だとすれば矛盾が生まれた。


「…お待ちください。それは、デリックの謀反は成就しない、という事ではありませんか?」


 軽く思議していたラヴィが、その矛盾を突いた。ユルングルが皇籍に戻れるという事は、デリックの存在がその時点ではいないという事を示唆している。だが、皇王が死ぬこともまた決して変わらない未来___分岐点なのだ。


 皇王が死ぬのに、謀反は成就しない。その矛盾をどう解釈していいのか、ラヴィには判らなかった。

 同様にラン=ディアもまた、思議するような仕草を見せる。


「……確かに妙ですね」

「…おそらくですが、デリックに玉座をかすめ取るつもりはないのかもしれません」

「…!?」


 この矛盾には、デリックの謀反が起きると判った時点でダリウスもまた気付いていたのだろう。訝しげに眉根を寄せる二人に、ダリウスはまるで前もって用意していた答えを差し出すように淀みなく返答する。その内容に、二人はさらに怪訝な表情を濃くした。


「……では何が目的なのです?」

「デリックは昔からシーファス陛下に異常な執着を見せておりました。それがさらに強く、そして歪んだものに変わったのは、陛下が魔力至上主義を捨てられた頃です」

「陛下を亡き者にする事自体が目的だと?」

「一番の理想は陛下の血を継いでおられるユーリシア殿下とユルングル様も一緒に亡き者にする事でしょう。ですが、それが例え叶わなくとも、陛下のお命だけは必ず奪おうとするはず。デリックにとっての謀反の成否は、その一点にのみあるのではないでしょうか」

「…なるほど、だから謀反自体は失敗に終わるはずなのに陛下は亡くなられるという、妙な構図が生まれるのですね」


 得心したように告げるラン=ディアの言葉に、ダリウスは頷く。


「ユルングル様は、陛下が亡くなればユーリシア殿下の命も潰えると仰っておりました。どういう経緯で亡くなられるのかは存じ上げませんが、デリックの謀反は殿下をしいして終わりを迎えるのでしょう。唯一生き残られたユルングル様を次期皇王にと考えるのは、ごく自然な流れでしょうね」

「……それで皇籍に戻られる、という事ですか。ずいぶんと手前勝手な話ですね……」


 これでは皇籍に戻ると聞いても、手放しには喜べない。ラヴィは半ば呆れたように、嘆息を漏らした。


 かつてユルングルは、低魔力者というだけで罵りを受け、生まれる事すら許されなかった存在だった。

 だがおそらく皇位を継ぐ者がいなくなった途端、彼らは手のひらを返したようにユルングルに皇位を継げと迫るのだろう。それが皇族に生まれた者の務めだと、責務を果たせと声高にユルングルを責めるのだ。それが容易に想像が出来て、そんな彼らと同じ官吏だと思うと恥ずかしくてたまらない。そしてきっとその官吏の多くは、『低魔力者の王』という彼らにとって容認し難いはずの冠よりも、体の弱いユルングルを傀儡かいらいの王に仕立て上げ利を得る事を優先するのだ。そんな事にすら容易に想像がついて、ラヴィは呆れる以上に腹立たしかった。


 そんなラヴィの内心を推し量って、ラン=ディアもまた嘆息を漏らす。


「…ですが、どれだけ手前勝手な話でも、それが教皇様に視えておられる未来___正史なのでしょう」


 教皇は決して未来を違えない。

 その言葉が示すように、これが本来あるべき正史なのだ。時が欲する『正当な歴史』と言えばいいのか。皇王と皇太子が謀反によって死を迎え、死んだと思われていた第一皇子が皇位を継ぐ。そう後世に伝わるはずの歴史を覆す事は、決して容易ではないだろう。それでもユルングルを待つその先に、これほど不愉快な未来が待ち構えているのかと思うと癪に障って仕方がない。


 教皇は『黒獅子であるユルングルだけが未来を変えられる』と言った。

 ならば、やる事は一つだ。


「…ではユルングル様には、胸糞悪い未来など早々に蹴散らしていただきましょう」


 にやりと笑って、ラン=ディアはおもむろに席を立つ。


「…!…ラン=ディア様、どうなさるおつもりですか?」

「薬を調合いたします。まだユルングル様に解熱剤は飲ませておりませんね?」

「…え、ええ……ラン=ディア様の診察を終えてからと思いまして……ですが、ユルングル様にはどのような薬も気休め程度にしか効きません」


 どれほど薬効が高いと言われた薬でも、ユルングルにはどれも効きが悪かった。それは体内に溜まった瘴気がその薬効を阻害しているのかもしれなかったし、あるいは元々、薬が効きにくい体質なのかもしれなかったが、どちらにせよ薬がよく効いた試しはなかった。それでもとりあえず解熱剤を飲ませるのは、飲ませればそれ以上熱が上がる事を止められたからだ。ユルングルにとって薬とは、その程度の効果しか期待できない代物だった。


 それをよく理解しているダリウスは、申し訳なさそうにラン=ディアにそう告げる。


「飲ませないより飲ませる方がまだまし、という程度ですので、調合していただいた薬が効くかどうかは____」

「ご心配なく。薬効は保証済みです。…調合してから飲めるまで二、三時間は要しますので、ユルングル様がお目覚めになられてから飲ませましょう」


 少しも不安のないその言いようでも、まだ困惑気な表情を見せるダリウスに、ラン=ディアは念を押すように言葉を重ねた。


「…大丈夫です。飲ませないより飲ませる方がまだまし、なのでしょう?でしたら騙されたと思って飲ませてください」


 こう言われては否とは言えない。

 困惑気な表情に諦めたような笑みを浮かべて頷くダリウスを待ってから、ラン=ディアは再び足を速めて自室に戻ろうとドアノブに手をかける。その背にもう一度、ダリウスの声がかけられた。


「…ああ、言い忘れておりましたが、先ほどお伝えした教皇様の予見に関しては、ユルングル様に一切お伝えしておりません。できればどうか、ご内密に」


 声を密やかに、そして立てた人差し指を口元に当てるダリウスを訝しげに一瞥する。


 未来が視えるユルングルに内密にしたところで意味などないだろうに、と思いながらもとりあえず頷き返して、ラン=ディアは早々に部屋を辞去した。


**


 その日の朝、乗合馬車に集合した面々は、やはり高熱を出して辛そうにしているユルングルの姿に目を丸くした。

 ある者は眉をひそめ、ある者は嘆息を落とす。皆が共通して思ったことは、それでも同じ乗合馬車に乗ろうとしてくれた嬉しさよりも、なぜこれほどの不調を押してでもこの乗合馬車にこだわるのか、という疑問だった。


「…体調が落ち着いてからまた出立すればいいものを……。これじゃあユルンの体がもたないだろう」


 真っ先にそう切り出したのは師父だった。

 乗客の胸中を代弁するかのような師父の言に、皆一様に頷く。


「……そうできない事情が、あるのです」

「…ユルン様の病状を考慮すると、無駄に旅を長引かせるわけにはいきません。一刻も早く旅を終えて、しっかり体を休ませられる環境を整える方が重要なのです」


 ダリウスの言葉を補足するように、ラン=ディアがそう言い添える。

 その言葉に師父は嘆息を漏らしつつ、「言いたいことは判るが…」と呟いて、ダリウスの腕の中でぐったりと横たわるユルングルの額に手を当てた。その手から伝わる熱は、かなり熱い。押しのけられた黒髪がさらりと下に落ちるのが視界に入った。頭に触れるといつもは渋面を取って声を荒げるユルングルに、目覚める気配はまったくない。普段、青白いその頬は熱の所為で紅潮して、呼吸は荒かった。それが痩せて骨ばった首元と相まって、なおいっそう痛々しい。


 ユルングルの黒髪を忌々しげに視界に入れた後、師父は再び、今度は盛大にため息を落とした。


「…とにかく、俺に何かできる事があれば何でも言ってくれ。力になるから」


 それだけ言ってその場を離れる師父の背に、ダリウスは謝意を述べてこうべを垂れた。


 それからしばらく経って出立した乗合馬車では、皆が皆、不安を多分に含んだ視線を向けユルングルの病状を固唾を呑んで見守っていた。いつもはユルングルの周りに集まる女たちも、今日ばかりは離れて見守るに留めている。周りでうるさくしては、休まるものも休まらないだろうと気遣った結果だった。


「…有り難いですね。この乗合馬車にはユルン様に好意的な方ばかりが乗り合わせている」


 ユルングルの診察をしながら、ラン=ディアは心底有り難い事のようにぽつりと呟く。

 ラン=ディアも低魔力者に部類されるが、神官であったためにこれと言って被害に遭う事は一度もなかった。時には村を訪れた神官が低魔力者であったことに、あからさまな落胆と侮蔑的な瞳を向ける者たちもいたが、それでも何事もなく村を出る事ができたのは、間違いなくこの祭服のおかげだろう、とラン=ディアは思う。低魔力者の自分がこの魔力至上主義国家で放浪していても無事でいられるのは、この祭服がずっと守ってくれていたからだ。


 だが、ユルングルは違う。彼にはこの神官の祭服のように身を守ってくれる何かがあるわけではない。あえて挙げるとすれば、高魔力者の兄であるダリウスの存在だけが幾ばくかの牽制にはなるだろうが、それだけだ。そんなものがいようがいまいが、魔力至上主義者たちは低魔力者というだけで侮蔑の感情を抱いてくるのだ。


 だが幸いなことに、この旅では未だそういう者たちと遭遇してはいない。

 ユルングルの体調が芳しくない今、たったそれだけの事が非常に有難かった。


 ダリウスはラン=ディアのその言葉に頷きながらも、周りの乗客には気づかれないように鋭い視線で一人の男を視界の端で捉えた。ダリウスには似つかわしくない、その冷ややかな怒気が含まれた視線に促されるように、ラン=ディアとラヴィもまた、その男を小さく一瞥する。


「…ああ、あの男ですね」

「…ええ、いつもユルングル様を見ております」


 声を密やかに言葉を交わす。


 小柄な体躯にさらに猫背まで加わって、なおさら小さく見えるその男は、暗く淀んだ瞳に常にユルングルを映していた。見るからに胡散臭い雰囲気を紛れさせるためか、乗客たちに笑顔を向けて彼らの輪に溶け込むような素振りを、男は見せている。その小男がこの乗合馬車に乗って来たのは、昨日の中休憩で立ち寄った願いの街イーハリーブからだった。


 乗合馬車に乗ってすぐ、その小男は乗客たちの顔触れを確認するようにひとしきり見渡すと、ダリウスの腕の中で眠るユルングルを見咎めて、彷徨わせていた視線をピタリと止めた。以来、まるで目的を定めたかのように、気づけばユルングルばかりをその視界に納めている。その不快気な視線が、ダリウスはとにかく気に入らなかった。


 ユルングルに対して、敵意があるというわけではない。その視線に含まれているものは、低魔力者に対する侮蔑とはまた違ったものなのだと思う。それでも男を警戒するのは、ユルングルに向けるその視線が、まるで値踏みするかのようにめつすがめつしているからだった。舐め回すようなねっとりとしたその視線が、ことさらダリウスの嫌悪感を刺激するのだ。


 あの目はまるで、商品でも見ているような目だと、ダリウスは思う。あの男の視界にユルングルが映っているかと思うと、それすらダリウスには許容できなかった。


「……デリックの手の者でしょうか?」

「……判りません。少なくとも、ユルングル様からそのようなお話はお聞きしていない」


 本当にデリックの手の者ならば、前もってユルングルから忠告を受けるはずだろう。だがそれもないし、そもそもユルングルが男の存在を認知しているかも怪しい。彼がこの乗合馬車に乗ってから、ユルングルはずっと眠ったままだ。唯一起きていたのは、昨夜、宿に着いてから。この男とは顔すら合わせてはいない。


「……ですが____」


 短く言って、ダリウスは言葉を切る。


 この男が本当に害を為す存在であれば、顔を合わす合わせないに関わらず予見で警告を出しただろう。それがないという事は、きっとそういう類の者ではないという事だ。だがそれでも、気に入らないのだ。


「…ユルングル様を見るあの目が、気に入らない」


 いつもの穏やかなダリウスとは思えないほど低くこもった声に、ラン=ディアとラヴィは互いに顔を見合わせる。

 思えば、ダリウスは初見からあの男を警戒しているようだった。乗客たちに軽く挨拶回りをしていた男が、すり寄るように近づいただけで、あからさまに嫌悪感を表現したダリウスの姿を思い出す。


 男は名を名乗っていたが、それが何だったかは覚えていない。それよりも珍しいダリウスの態度がひどく印象に残ったからだ。

 他愛もない会話をしながら、男はチラチラと眠るユルングルに視線を向けては外すを繰り返す。そして業を煮やしたかのように、ふいにダリウスの腕の中で眠るユルングルの事に話題を変えたのだ。


「弟さんですか?」


 言いながらユルングルに延びる男の手を、ダリウスは見逃さなかった。男から庇うようにユルングルの体を強く抱き寄せ、男から見えないようにユルングルの顔を両のかいなで覆い隠す。


「___弟にれるな」


 そう、ぴしゃりと言い放ったダリウスの冷たい声と威圧を含んだ鋭い視線は、ラン=ディアとラヴィだけではなく、その場に居合わせた乗客全員を驚かすのに十分事足りた事だろう。あの礼節正しく穏やかなダリウスがあれだけの拒絶を見せた事で、男は以降近づく事も話しかける事もせず、ただユルングルの姿を視界に納めるに留めている。それすらダリウスには気に入らないようで、男がいる前では眠るユルングルの顔に外套のフードを被せているほどだった。


(……無断でユルングル様に触れようとした事がお気に障ったわけではないだろう。師父はいつも断りなくユルングル様に触れるし、つい先ほども師父はユルングル様に触れたが、それをお咎めにはなられなかった……)


 だとすれば、あの男の存在そのものがダリウスの警戒心を呼び起こしているのだろう。それが何なのか厳密には判らないが、ダリウスはことユルングルの事に関しては、その第六感が神がかり的に働く。ここはダリウスと同様、あの男に警戒を持って間違いはない、と心中でそう結論に至ったラヴィは、同じくその結論に至ったであろうラン=ディアと視線を交わして頷き合った。


「…そう言えばラン=ディア様。調合された薬はもう飲み頃に?」


 張り詰めた空気を和まそうと、そう穏やかな声で問いながら、ラヴィはすっかり生暖かくなったユルングルの額にあるタオルを取って氷水に浸す。澄んだ水音が警戒心ですっかり荒んだ心に優しく染み入るようで心地いい。

 ユルングルに神官治療を施していたラン=ディアもまた、和ますように努めて明るく返答した。


「ええ、いい頃合いでしょう。いつお目覚めになられても結構ですよ」

「それは良かった」


 笑顔を返しながら絞ったタオルをユルングルの額に乗せたところで、彼の瞼がわずかに動いたことを三人は確認した。


**


 心地いい、とユルングルは思った。


 まるで熱砂の上で一人横たわっているような気分だった。暑くて暑くてたまらない。絶えず流れ落ちる汗がさらに不快感を助長した。熱に悶えるように肩で息をして、その口の中でさえ熱を帯びた呼気で干からびたようだった。

 そんな体に救いの手を伸ばすように、ひやりとした感覚が体を包んで、ユルングルは心地いいと思った。その心地よさに誘われるように、ユルングルはゆっくりと瞼を開く。


「…………兄…さ……?」


 真っ先に視界に入ったのは、不安げな表情を取る大好きな兄の姿。名を呼ぼうとしたが、干からびた喉がそれを許さなかった。


 なぜ声が出ないのだろう。

 なぜこれほど、熱いのだろうか。

 そもそも、ここはどこだろうか。


 思ったところで、兄の姿が記憶よりもずいぶん年を取っている事に気付く。訝しげに思って、ユルングルは小さく視線を巡らせてみた。


 ここは荷馬車の中だろうか。馬の蹄の音と、時折軋む車輪の音が耳をかすめる。一番近くにいるのは、大好きな兄の姿だ。不安を顕著に表した、見慣れたその顔を覗かせている。そしてそのすぐ近くに、兄と同じように不安げな視線を寄越す祭服を着た神官と、人のよさそうな灰桜色の髪の青年___。


(……あれは……ラン=ディアと…ラヴィ……?)


 そうして彼らの後ろにいる見慣れた乗客の姿が目に入って、ユルングルはようやく自分が今どこにいて何をしているのかを悟った。


(……今はまだ、ソールドールに向かっている途中か………)


 思って、確認するようにダリウスの顔に視線を戻す。


 状況を把握できないのか必死に周囲に視線を泳がせていたユルングルの様子に、さらに不安を掻き立てられたのだろう。困惑するように、だがひと際不安におびえた様子でこちらを窺う、ダリウスの顔。彼がこちらを見ているという事は、ここは現実なのだ。決して自分が視ている未来ではない。


 ユルングルはいつもこうやって、ここが現実か視ている未来なのかを判断する。

 視える未来の中では、決してダリウスと目が合わないからだ。こうやって、気遣わしげな瞳を向けられることもない。ダリウスの瞳に映る自分の姿を見る事で、ユルングルはここが現実なのだと確信を得られた。そうする事でしか、ユルングルにはもう現実と未来の境を作る事が出来なかった。


 特に大量出血をして生死の境を彷徨っていた間、長く幼い頃の夢まで見ていた。記憶が混乱しているところに否応なく幾万の未来が頭を通り過ぎていくので、なおさら記憶が混沌としている。常に傍に控えて自分だけを見ているダリウスだけが、混沌とした記憶を整えてくれる指標となるのは、仕方のない事だろうか。


「……ユルン……?……大丈夫か…?私が判るか……?」


 いつまで経っても声を発しないユルングルの様子に、ダリウスは業を煮やす。不安の色を濃くしてたまらずそう訊いてくるダリウスに返事をしてやりたかったが、ユルングルの声は思うように出なかった。


 声だけではない。熱で意識も朦朧として、頭の奥底では鈍く鳴り響く鐘が絶えず打ち鳴らされているかのように、鈍痛が一定の間隔で襲ってくる。そんな不快の中にあっても、幾万の未来は残酷なまでに容赦なく頭をよぎるのだ。


(………気持ちが悪い…………頭が……割れそうだ……)


 熱の不快さと脳の許容量を超える情報量に喘ぎながら、それでもダリウスに声を掛けようとユルングルは口を開く。だが虚しく唇だけが動いて、わずかに呼気だけが漏れた。その呼気に何とか声を落とし込もうとした、その瞬間______。


「………っ!!!?」


 耐え難い吐き気が襲ってきて、ユルングルは思わず身を翻して口元を強く抑えた。


「ユルン………っ!?どうした……!?」

「………兄さ……………吐きそ………っ」


 何とかそれだけを伝えて、ユルングルは吐き気を堪らえるようにダリウスの服を力いっぱい握りしめる。

 ダリウスは慌てて自身の大きな両の手を合わせて作った受け皿を、下を向いたユルングルの口元にてがった。


「ユルン…!私の手に吐きなさい……!!構わないから…っ!!!」


 言われたが、到底容認できるはずもない。

 今まで散々、迷惑をかけてきたのだ。その上、自分を育ててくれたその手に自分の汚物を吐くわけにはいかなかった。ユルングルは強く拒絶するように何度もかぶりを振る。その間も容赦なく襲う吐き気に、ユルングルの目からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。


 そんなユルングルの口元に、どこからか取り出した紙袋を急いでてがったのはラヴィだった。


「これを……っっ!!」


 慌ててそれを受け取って、ユルングルはたまらず何度もえずく。出てくるものは、何もない。朝は何も食べていないし、昨晩に食べたものは粥とスープだけ。それも消化がいいから、胃には何も残っていなかった。それでも治まらない吐き気のために、ユルングルはただ胃液だけを吐き出しているに近い。


 何度も何度もえずきながら、なけなしの胃液を吐き出すユルングルの背を、ダリウスはただひたすらさすった。痩せて骨ばった、ごつごつとした感触の背を何度もさすって、時には落ち着かせるように軽くとんとんと叩く。自分に出来る事はもう、これくらいしか残されていなかった。どれだけ苦しんでいても、辛そうだと思っていても、それを変わってやれない、無力感。それに必死に耐えるように、ダリウスは無意識にユルングルの体を支える手に力を込める。


「………すまない……すまない……ユルン……耐えてくれ………っ」


 誰にか懇願するように、あるいは許しを請うように、ダリウスは己の膝の上で何度もえずくユルングルに覆いかぶさるように、こうべを垂れる。その消え入りそうなほど小さな声で何度も何度も許しを請うように落とされるダリウスの嘆願は、すぐ傍にいたラン=ディアの耳にだけ辛うじて届いた。


 そうしてようやく、ラン=ディアは理解したのだ。

 ダリウスは、教皇の予見など少しも信じてはいない事に____。


(……あれは、信じておられたのではない。何とか信じようと、自分に言い聞かせておられたのか___)


 あるいは、すがっているのかもしれない、とラン=ディアは思う。


 どれだけ教皇は未来を違えないと言われていても、絶対であると誰が言えるのだろうか。

 今までは確かに違えたことはない。だが、これから先もそうであるとは限らない。最初の一回が、よりにもよってユルングルの予見で起きることだってあり得るのだ。


 特に、今目の前にいるユルングルの姿を見れば、あの予見が本当に正しいのか嫌でも疑ってしまう。

 ダリウスは本当は、不安で、心配で、仕方がないのだ。ユルングルの命がこのまま尽きてしまわないかと、それだけが彼の心を苛んでいる。


 本当は、無理やりにでもユルングルを休ませたいのだろう。何を措いても彼の体調の事だけを考えたいのに、あらゆる状況がそれを許してはくれなかった。皇王の事、皇太子の事、この国の事、そして唯一未来を変えられるユルングルの事____。そのどれもが、彼の病状の事などお構いなしに、やれと訴えている。ユルングルが嫌だと首を横に振れば、ダリウスはすぐさまユルングルを連れてどこへなりとも逃げただろう。だが、よりにもよってユルングル自身までもが、やれと言っているのだ。ダリウスにはもう、どうしようもなかった。


 だから、すがる何かが欲しかったのだ。

 どんな不確かなものでもいい。ユルングルの命が未来まで繋がっている保証が欲しかった。

 ただ、それだけなのだ。


 ユルングルの背をさすりながら詫びるように嘆願するダリウスの姿を、ラン=ディアは視界に留める。

 彼を滑稽だと思った自分が忌々しい。

 ここにいるのは、ただいたずらに予見を信じている侍従ではない。

 ひたむきなまでに弟を心配する兄の姿だけが、そこにはあるのだ。


 荷馬車に異様な緊張感が続く中、ひとしきりえずいてようやく吐き気が収まったのか、ユルングルの声がピタリと止んだ。肩で息をして、少し荒くなった呼吸音が落ち着きを取り戻し始めた頃、ユルングルはようやく自分の背をいつまでもさする手の存在に気付く。ひとつ気付くと、今度は自分を支えるもう一方の手に力が込められている事も判った。


 ユルングルは濡れた瞳をゆっくりと、その手の主へと向ける。


「………もう…大丈夫だ……。……吐いて……ずいぶん楽になった……」


 言って、弱々しく笑う。

 その笑顔がダリウスに安堵と、そこから来る涙をもたらす。


「………ユルングル様……っ!!」


 吐息交じりに小さく落とされたその言葉に、ユルングルもまた小さな声で返した。


「………相変わらず…大げさだな………お前は……」


**


「…お飲みください、ユルン様。口の中が不快でしょう」


 言って、ラン=ディアが差し出してくれた水を、こくりこくりと飲み込む。

 熱く干からびた喉に冷たい水が触れて気持ちがいい。いくらか飲み干して、ユルングルはようやく人心地ついたように小さく息を落とした。


「…………何か…食べたい……」


 珍しいユルングルの要求に、三人は目を丸くした後、小さく顔を綻ばす。


 胃の中はもう完全に空っぽだった。唯一残っていた胃液さえもうない。もう腹と背がくっつきそうなところに、わずかに水が流し込まれて、食欲はないはずなのに空腹感が大いに刺激された。


「…スープで構わないか?」


 鞄から、作っておいたスープが入っている水筒を取り出して問う。

 ユルングルが食べられるものはこれしかないので、嫌だと言われてもこれを食べさせるしかない。そもそも首を横に振ることはないだろうと確信して問うたそれに、やはり頷きが返って来て、ダリウスは器にスープを注いだ。


「…熱いから気を付けなさい」


 ユルングルは猫舌だ。熱いものは苦手だが、かと言って冷まし過ぎるのもあまり好きではない。なので、いつもは少し冷ましたものを用意するのだが、この水筒はその微妙な温度の調節が難しかった。すぐ飲むものではないから、いつものように冷ましてから入れると飲む頃には冷たくなっているし、かと言って熱いまま入れると、今日のように予定より早く飲む時にはユルングルが苦手な温度になる。


 恐る恐る器に口をつけてわずかにスープを口に運んだユルングルは、やはりその熱さに眉根を寄せた。


「…………熱い……」

「…貸しなさい」


 笑い含みに優しくそう言って、ダリウスは受け取った器の中にスプーンを入れ込む。スープをすくっては二、三度息を吹きかけて冷ましてやると、ユルングルの好む温度になったそれを満足そうに頬張った。その光景を、ラヴィとラン=ディアは失笑交じりに見つめる。


(……甘えておられるな)


 ダリウスに食べさせてもらう光景はもう見慣れたものだが、いつもの面映ゆさがユルングルにはない。

 それは高熱のために、誰かにすがりたいという気持ちからくる甘えかもしれなかったし、あるいは、また幼い頃の夢を見て記憶が混濁した事による退行現象が原因かもしれなかったが、どちらにせよ兄に甘える弟になっている事に違いはないだろう。


 滅多に見られない珍しい光景なだけに失笑を禁じ得ないが、普段、意地を張って素直に甘えられないユルングルなのだから、体が弱っている時くらいは甘えてもいいだろうと、二人はユルングルに気づかれないように内心で失笑するに留める。


 スープを綺麗に飲み干した頃、ラン=ディアは鞄から手のひらほどの小さな瓶を取り出した。


「…さあ、薬の時間ですよ。一息で飲み干してくださいね」


 言いながら、瓶からとろりとした緑の液体を小さなコップに注ぐ。量はお猪口に半分程度。だが見るからに苦そうなその謎の液体に、ユルングルは最大級の渋面を刻んだ。


「……………苦いのか……?」

「当然です。良薬口に苦し、ですからね」


 その返答に、ユルングルは助けを求めるようにダリウスに視線を移す。

 ユルングルはとにかく苦いのを嫌う。特に薬特有の薬品臭い苦みが何より苦手だった。ユルングルがよく口にする鉄剤も、そんなユルングル専用に比較的無味無臭のものを調合したのだが、それすら紅茶に混ぜても吐き出すほどの徹底ぶりだった。


 ユルングルに薬を飲ませる苦労と難しさを重々承知しているダリウスは、だが助けを求めるユルングルの視線を苦笑と共にさらりとかわす。


「…ユルン、我慢して飲みなさい。薬を飲まないと、いつまで経っても治らないだろう?」


 言われたが、自分の体が満足にその薬効を発揮できない事をユルングルは知っている。なのに、いつも飲んでいる解熱剤よりも苦い薬を飲まされるのは納得がいかない。


 そう心中で思いつつも、高熱でそれを口にする体力はないし、何よりつい先ほどダリウスを盛大に心配させてしまった負い目がある。薬効が効く効かないに関わらず、これを飲めば幾ばくかの安心をダリウスに与えられるのであれば、飲まないわけにはいかないだろう。


 ユルングルは諦観のため息をくと、ラン=ディアから得体のしれない薬を受け取る。

 緑色の、とろりとした液体。苦い以前に不味そうだ。幸いにも量は少ない。口に含んで一気に飲み込めば、そこまで味はしないだろうか。

 そんな悪あがきにも似た事を考えつつ、逡巡しながら口元に近付ける。思いがけずその薬の苦々しい匂いが鼻をくすぐって、ユルングルはなおさら渋面をきつくした。その苦々しい匂いの中に、何やら昔嗅いだことのある匂いがあるような気がして、軽く小首を傾げた。


(……この匂い…何だったか……?)


 きっと、いい思い出ではない。嗅いだだけで頭がふわりとする感覚。熱の所為か、覚えがあるのに思い出せない。


 思考を巡らせながら、ユルングルは覚悟を決めて一気に口の中に放り込む。そのまま勢いに任せて飲み込んだところで、今自分が飲まされたものが何かをようやく理解した。


「………!!!……らん……でぃあ………これ……しゃ……け………」

「…!!!ユルンっっっ!!!!!」


 飲み込んだ直後に熱で赤らんだ顔がさらに真っ赤になって、恍惚な瞳に呂律の回っていない言葉を吐いた後、力尽きるようにコップを持っていた手を放り出して爆睡したユルングルに、ダリウスとラヴィは目を丸くした。


「おや?効果覿面ですね」

「一体何を飲ませたのです!!?ラン=ディア様っ!!!」

「酒です」

「……!!?酒っ!!?」

「もちろんただの酒ではありませんよ。これは薬用酒です。それもかなり希少な、ね」


 この薬用酒は、希少な柑橘系のフリューネと呼ばれる果実から作られる果実酒に、さらに希少なアーティオウレンという薬草を一年漬け込むことで完成する薬用酒だった。


 フリューネには自浄作用と食欲増進、そして血行、血流を促して体を温める効果があり、アーティオウレンには解熱と解毒効果、そして造血促進の効果もある。その薬用酒に疲労回復や免疫力を増加させる薬効が確かな薬を調合して作ったのが、ラン=ディアお手製のこの薬だった。


「薬効は確かなのですが、如何せんその材料となるフリューネとアーティオウレンがかなり希少なのです。なので手持ちの薬用酒はわずかにこれだけ。使い時を間違えると取り返しがつかないので今まで温めておりましたが、まあ今がその使い時でしょう。度数も高いので一気に飲み干せばすぐに爆睡します。薬用酒ですので悪酔いはしませんし、眠りが浅くなることもありません。強制的に体を休ませると言うわけですね。これを二、三度繰り返せば嫌でも回復しますよ。………ところで、ユルン様はもしや酒に弱いのですか?」


 すぐに爆睡する、とは言っても、通常はやんわりと眠りに誘われるのが普通だ。ユルングルのように卒倒するように爆睡するのも珍しい。そのあまりに顕著な反応に、ラン=ディアはもしやと訊ねてみる。

 あまりの展開に茫然と説明を聞いていたダリウスは、問われてやはり呆然と返答した。


「……弱いも何も…成人したその日に祝い酒として初めて飲ませたのですが、それほど度数の高くない酒を少し口に含んだだけで卒倒しました……」


 その後三日ほど二日酔いの症状に苦しんだユルングルは、以降絶対に酒を飲もうとはしなかった。

 それをまさか薬と言われて飲む羽目になろうとは。


 苦笑さえ落とす事も出来ないダリウスを尻目に、ラン=ディアはくすくすと笑みをこぼす。


「…それは上々。酒に弱い方が効果は期待できます」


 そうして、すっかり爆睡しているユルングルを視界に入れて、ラン=ディアは少し勝ち誇ったように笑う。


「…意外と可愛らしいところがあるじゃないですか、ユルン様」


 その笑みには揶揄が多分に含まれているのだろうと、ダリウスはようやく苦笑を落とした。


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