それぞれの旅路 シーファス編・反撃 後編
「あ…あの…、どうして俺が狙われてるんですか……?」
シーファスの後を追いながら、おずおずと問いかけるティセオを視界に入れる。
ティセオはシーファスが想像していたよりもずっと若い男だった。
確かにその声はフォルッシモよりも若々しい印象を受けたが、それでもユルングルか、若くともユーリシアと同じくらいにはあると思っていた。だが今、自分の目の前にいる彼はどう見ても十代中頃か、よくてせいぜい十代後半に入ったばかりと言った感じだろうか。青年というよりも少年という言葉の方が似つかわしいティセオを軽く一瞥して、シーファスは口を開いた。
「…不運にも私を乗せた荷馬車の御者になったからだ」
「…え?」
「…一人目の御者は私の目の前で殺された。……私を苦しめるためにな」
「!?」
「…お前はまだ子供だろう。なぜこの仕事を引き受けた?」
シーファスのその質問に軽く目を丸くした後、ティセオは妙にバツが悪そうな表情を落とす。
「…え…っと…俺これでも成人してます。…と言っても二十歳になったばかりですけど……」
「…!?……それは…すまない……。…かなり小柄だからてっきり……」
ティセオの告白に思わず歩みを止めて、シーファスはティセオの顔を凝視しながら何とも気まずそうに口元を抑えている。そんな様子のシーファスに、ティセオはたまらず破顔した。
「いえ、よく間違われるので慣れたものです。…幼い頃に捨てられて、盗みやたまに貰える施しで何とか命をつないできたんですけど、成長期に満足な栄養が取れなくて体が成長せずに大人になったんです。だからまともな仕事になかなかありつけなくて……」
「……それでこの仕事を引き受けたのか」
その言葉に、ティセオはただ頷く。
(…ただでさえ低魔力者なのに、外見が子供では確かに仕事は貰えないだろうな)
この国では、ほとんどの者が低魔力者に仕事を与える事を嫌がる。それは皆が、低魔力者と同じ仕事をしている、という事実を屈辱と受け取るからだ。だから必然的に、低魔力者が就ける仕事は過酷な肉体労働に限られていた。だがそれもティセオのように外見が子供では誰も雇いたがらないだろう。
この国を治める王として彼のような低魔力者を救済する術が何もない事に、情けなさと羞恥心がこみ上げていたたまれない。過去に何度か救済案を出した事はあったが、そのどれもが貴族や官吏の反対によって潰されてきた。彼らには、余剰を低魔力者に割くつもりはないのだろう。それは疑いようもなく、自身の力不足による結果だ。その結果として今、自分の目の前に彼がいるのだ。
(…不甲斐ない。なんて情けない王なのだ、私は……)
ティセオの存在は、自分が何もできなかった不甲斐なさの象徴そのものだ。そこから目を逸らすように、シーファスはティセオから顔を背けて目線を落とした。
「……すまない」
「…?やだなぁ、どうして貴方が謝るんです?こうやって俺を助けてくれてるんですから、感謝してるんですよ」
そう言って屈託なく笑うその笑顔が、なおさらあどけない子供のように見えて胸が疼く。
何やら困ったような微笑みを返してくるシーファスを怪訝に思いながらも、ティセオは努めて明るい声で訊ねた。
「できれば恩人のお名前を知りたいんですけど…訊いてもいいですか?」
ティセオのその要望にシーファスは快く頷いてから、先を促すように再び歩みを進めた。
「…シーファスだ。そう呼んでくれ」
「判りました、シーファスさんですね」
言いながらティセオは、何やら聞き覚えのある名だと何とはなしに思う。
記憶のどこか片隅にでも似たような名があるのだろうか、と思ったが特に思い出す気配もないので、ティセオは気にする事をやめて、淀みなく進むシーファスの後をただひたすらに追った。
「…シーファスさんはこの辺りの地理に詳しいんですか?」
「…いや、なぜだ?」
「…何だか目的があるように思えて……」
森に入ってから、シーファスはまるで道順を知っているかのように淀みなく進んでいる。その躊躇いのない歩みは、いかにも目的があるように思えた。
それともただがむしゃらに前に進んでいるだけなのだろうか。思えば左に見える切り立った崖壁に沿って進んでいる気がする。目印らしい目印と言えばそれくらいだろう。
訝しげに、そしてことさら不安を前面に押し出した声音で訊ねてくるティセオに、シーファスはにやりと笑って見せた。
「私の息子は私以上に物知りでね。あの子の言う通りにすれば間違いはない」
ではその息子が、この辺りの地理に詳しいのだろうか。
嫌に自信満々なシーファスの背中を見つめながらそうひとりごちたティセオは、だが突然開けた場所に出たその光景に唖然とした。
「…!……崖……っ!?」
目前には視界を遮るものは何もない。あるのは、ぱっくりと大きく口を開いた崖だけ。それもかなり深い。向こう岸までには遥か遠く、それを渡る術もないように見えた。
「……シーファスさん、ここから先へは行けません。来た道を___」
戻ろう、と言いかけたティセオの耳に、恐れていた誰かを探す何者かの声が届く。複数いるのだろうか。聞こえるのは遥かうしろ、だが確実にこちらに近づいているように思えて、ティセオの体は強張った。
見つかるのは時間の問題だ。
ここから先へは行けない。
前にも後ろにも行けない状況に思わず悲鳴を上げそうになるティセオの口をシーファスはやんわりと手で塞いで、立てた人差し指を自身の口元に当てた。
「…しっ。…大丈夫、退路はある」
宥めるように笑顔を見せてシーファスが指さした先は、ずっと沿って歩いてきた崖壁だった。その根元、草木が生い茂った場所に歩み寄り、シーファスは何かを探るように草木を掻き分けた。そこに何やら見つけたのか、シーファスの手がピタリと止まる。
「……大したものだな」
誰にともなく感嘆を落としたシーファスは、不安と共に成り行きを見守っていたティセオに判るように、大きく草木を開いて見せた。
「…!……階段……!」
そこに見えたのは、人ひとりがやっと通れるような小さく開いた空間。その先に、下まで続いているであろう階段が視界に現れた。
「…さあ、早く降りなさい」
「はい……!」
促されて、ティセオは屈み込んでその空間に入る。
出入り口はずいぶん狭かったが、数段下りてみると大人が立って歩けるほどの空間はあるようだった。崖沿いに作られたその通り道は、うまい具合に木々の葉や根が覆い隠してくれて、外からでは判りにくい。それが人為的に作られてそうなったのか、あるいは自然が作り上げたのかは判らないが、どちらにせよこんなところに道があるなど、地元の人でもなかなか気づきにくいだろう。
「……どうしてこの道を……?」
崖の存在を知って別の場所へと去って行く彼らを木々の隙間から安堵と共に見つめながら、ティセオは後ろにいるシーファスに問いかける。
「…私も驚いた。本当にあるのだな」
くすくすと笑うシーファスに目を瞬いて、ティセオは軽く吹き出す。
どうにも彼といると緊張感が伴わない。それは怖がる自分のために努めてそう振舞ってくれているのか、それとも彼自身の人柄なのかは判らなかったが、それでも自分に対して最大限、気遣ってくれている事がよく判った。
彼と共にいれば、決して危険な目に遭うことはない。
そう思わせてくれるシーファスに、ティセオは追われている事も忘れてただただ心の底から安堵した。
「…これ、崖の下まで続いてるんですよね?」
「ああ、その崖下にある洞窟で私の知人が待っている。ティセオは彼と一緒に逃げなさい」
「…!シーファスさんは…!?シーファスさんはどうするつもりですか…!?」
「…私は彼らに借りがある。それを返すまでは逃げられない」
今まで柔らかな表情を取っていたシーファスは、唐突に険しい顔をする。眉間にしわを寄せ、その瞳には怒気とも憎しみとも取れる感情が露わになった。
一緒に逃げよう、と告げるつもりだったティセオは、その覚悟とも取れる表情にかける言葉を失い、途端に口を噤む。
彼が賭しているのは、彼自身の命だろうか____そんな不安が、頭をもたげて仕方がなかった。
しばらく階段を下りてようやく下まで着くと、シーファスが言う通り傍に洞窟があった。
二人は互いに目を合わせて頷き合うと、シーファスが先に立って洞窟に足を踏み入れる。少し歩いた先に馬が見え、そのすぐ傍らにシーファスを見咎めて不安と安堵が入り混じったような複雑な表情を見せる一人の青年の姿が見えた。
「……ご無事で……っ!」
感極まったのか、その青年は何とかそれだけを告げて、恭しく頭を垂れる。
「……心配をかけたな、アレイン」
静かに告げるその言葉に、アレインと呼ばれた男はやはり泣きそうな表情のまま強く頭を振った。
「……いえ…!…貴方がご無事であればそれだけで……!………お怪我は?」
「ない」
きっぱりそう言い放ったシーファスの手首に痣と出血を見つけて、アレインは我を忘れたように声を荒げる。
「…!その手首はどうされたのです…!?」
「心配ない。ただのかすり傷だ」
「ですが…!」
「心配性だな、お前は」
呆れたようにため息を吐くシーファスに構わず、アレインはそこにあるガーネットの腕輪を訝しげに見つめる。
「……失礼いたします」
短く言って、アレインはシーファスの返答を待たずに彼の腕を取り、その腕輪に小さく触れてみた。
「……これは魔装具ですね」
「…お前は意外と目聡いな」
やはり呆れたように言って、シーファスは再び盛大にため息を落とす。
「これで魔力が封じられているようだ」
「…!?……魔力を?…それでよく平然としておられますね?」
「最初は難儀したがな。シスカのおかげで今ではそれほど苦でもない。……外せそうか?」
それには肩を落として頭を振る。
「…申し訳ございません。私には複雑すぎて解くのは厳しいかと……」
アレインはシスカに操魔を教わっていた。
それはもちろんシーファスを守るための力として得たものだったが、結果としてこういった捕縛系魔装具の解除も可能になった。ただ如何せん、シスカのように操魔に卓越しているわけではない。簡単な術式であれば解除はできるが、魔力を封じるほどの複雑な術式はアレインには手に負えなかった。
肝心な時に役に立たない力に悄然と肩を落として済まなさそうにするアレインに、シーファスは何でもない事のように告げる。
「今では何の効力もないに等しい物だ。気にするな、アレイン。……それよりも」
言って、ちらりと視線を寄せたのは、少し後ろで二人のやり取りを何とはなしに聞いていたティセオだ。
何となく二人の間に割って入ってはいけない雰囲気があって、ティセオはできるだけ気配を断って居心地悪そうに二人を見つめている。その困惑気な上目遣いがなおさらあどけない子供のようで、アレインは想像と違った人物に目を丸くした。
「…!?……子供…ですか…?私は御者だと伺ったのですが……」
「…すまない、ティセオ。彼に悪気はないのだ」
「……いえ、慣れてますので」
「……?」
バツが悪そうに軽く咳払いして謝罪するシーファスに、ティセオは笑い含みに返事を返す。そのやりとりを怪訝に見つめるアレインに、シーファスは短く説明した。
「…彼はユーリシアと同い年だ」
「!?」
見えない、と言おうとした口を、アレインは理性で何とか固く閉ざした。
外見をとやかく言うのは好きではないし、そもそも彼が低魔力者である事を鑑みると、彼が幼く見える理由は容易に想像がつく。十一で亡くなった最愛の妹も、やはり同年代の子供に比べると一回り小さかった。貴族の娘がこうなのだから、市井で暮らす貧しい低魔力者ならなおさらだろうか。
「彼には色々と世話になった。外見は幼いが、中身は意外と肝の座った青年だ」
「それは……!失礼をいたしました…!陛下にとって大恩ある方とは知らず、ご無礼を……」
「いえいえ!そんな大げさな。俺は別に何も____」
慇懃な態度で頭を下げられて、ティセオは居心地悪そうに狼狽する。自分はただ、仕事として彼の世話をしたに過ぎないのだ。なのに頭を下げられては忘れていた罪悪感が大いに疼いてしまう。
慌てて頭を振ったティセオはだが、そこまで言ってピタリと動きが止まった。
何やら聞き捨てならない単語が、耳を掠めなかっただろうか。そう思うと、途端に色々な事が腑に落ちた。
シーファスに必要以上に礼を尽くす、アレインという名の青年。腰に剣を差しているところを見ると騎士だろうか。彼のシーファスに対する態度はどう見ても、高位の貴族に対するそれに他ならない。
そして金の髪に、怖いくらいの威厳と高潔さが満ち溢れている男。
彼が名乗ったシーファスという名に聞き覚えがあるはずだ。彼の名を知らぬ者はいない。特に魔力至上主義を捨て低魔力者に寄り添う彼は、自分も含め低魔力者たちに絶大な人気があった。
その彼が崩御したと伝えられたのは、つい五日前のこと。病らしい病の話など何もなかった時期での崩御とあって、市井ではまことしやかに流れる噂がある。
『皇王は本当はご存命で、魔力至上主義者の貴族や官吏たちに拉致監禁されている』
そう、その噂が今まさに、自分の目の前で確固たる真実として存在しているのだ。
「………っっ!!!!??へ、陛下……っ!!!!???ももももも、申し訳ございません…っ!!!!お、俺…!!まさか皇王様だとは知らずにこんな仕事請け負って……!!!!判ってたら絶対にこんな仕事しなかったのに……!!!!!!」
「………まさか、ご自分が皇王だと名乗られなかったのですか?」
「名は名乗ったぞ」
「………貴方という方は」
たまらず嘆息を落として、アレインは頭を抱えるように額に手を当てる。
皇王のこういうところを、ユルングルは見事に受け継いでしまったのだろうか。
シーファスは、狼狽しながら慌ててその場で叩頭するティセオに苦笑を漏らしつつ、彼の傍で膝をついた。
「お……俺…!!罰なら受けます……!!不敬罪でも何でも…!!どうせ天涯孤独の身だし、俺が死んで困る人もいないだろうし……!!」
「…それは困ったな。ティセオに死なれては私が困る」
「………へ?」
「せっかくこうやって助けたのに、お前は死ぬことが望みか?」
「…!?」
思わず上げた頭を、ティセオはしきりに横に振った。
死にたいわけではないが、惜しむほどの命でもないと思っていた。まさかその命を、自国の王が惜しんでくれるとは。
「立ちなさい、ティセオ。友人に叩頭されては気分が悪い」
友人、と口の中で小さく呟いて呆けたような表情を取るティセオに立つよう促して、シーファスは後ろのアレインを振り返った。
「アレイン、彼をどこで保護する予定だ?」
「……ダリウス殿下から、ここから少し戻ったところの小さな村に滞在している女性に引き渡すようにとご指示を頂いております。最終的にはリュシアの街の遁甲の中で彼を保護するおつもりのようです」
「……女性?ユルングルの知人か?」
「…詳しくは存じ上げませんが、ダリウス殿下のお話では、ユルングル殿下にとってとても大事な方だから決して失礼のないようにと」
「…!?……それは……!!…ユルングルの想い人か、あるいは恋人ということか…!」
「………ですから存じ上げません」
(……思った以上に食いつかれるな……)
ある程度は想像していたが、これほど瞳を恍惚とさせて、期待と不安が入り混じった表情を取る皇王も珍しい。
長年会うことも叶わなかった我が子に意中の相手がいるかもしれないと思うと、心中穏やかではいられないのだろう。アレインはそんなシーファスの胸中を想像して、小さく笑みとため息を落とした。
「…またユルングル殿下と会われた時にでも、直接お聞きすればよろしいではありませんか」
「…!………そう、だな…」
恍惚とした表情は、だがアレインの言葉でまるで灯った火が掻き消えるように、瞬間曇った。
バツが悪そうに目を伏せ、妙に歯切れの悪い皇王の返答がアレインの後ろ髪を盛大に引く。皇王のその様子がまるで、それを訊ねる機会はもうやってこない、と言っているように聞こえたからだ。
今の今までアレインは、ユルングルの言葉に従うつもりだった。それは皇王の様子が、いつもと変わりなかったからだ。魔力を封じられても悠然とし、何でもない事のように笑顔まで見せた。実際その動きに一切の制限はないように見えたし、皇王の強さはずっと傍にいた自分が一番よく判っているつもりだ。信頼という名の安心感があったからこそ、アレインはこのまま皇王を行かせても大丈夫だと、一抹の不安さえ抱く隙もなかった____はずだった。
他愛もない会話で終わるはずだったのだ。
アレインの言葉に、躊躇いもなく『そうだな』という言葉が返ってくるものだと思っていた。
なのに、どこか諦めたような皇王の姿が否応なくアレインの後ろ髪を引いた。皇王の見つめるその先には、死が映っている。どうしてもそんな気がしてならなかった。
「…さあ、もうあまり時間がない。アレインは彼を連れて早く逃げろ」
「…っ!…シーファス陛下が…っ!!陛下が彼と______っ!!」
___陛下が彼と共にお逃げください。私が彼らを足止めしている隙に。
咄嗟にそう告げようとした声を何とか押し留めて、アレインは上げた手を所在なさそうに下ろす。そして苦渋の表情を俯かせた。
本当は、そう言ってしまいたかった。そう言って、今すぐにでも有無を言わさず馬に皇王とティセオを乗せ、二人を見送りたかった。だけどそのたびに、ユルングルの言葉が脳裏に浮かんだ。
___(最終的にどちらを選ぶかは、お前に託す。皇王を連れて逃げたいのであれば、そうすればいい)
ユルングルはそう言ってくれた。
それがかえって、彼を裏切る事への罪悪感を強くした。あれは自分を信じてくれた証だ。信じたからこそ、他ならぬ自分をここに寄越した。それは、裏切れない。
そう思うのに、それでも揺れ動く心を振り払うようにアレインは小さく頭を振った。
___大丈夫なはずだ。ユルングルが必ず皇王を救ってくれるはずだから。
衝動に駆られて半ば強制的に皇王を馬に乗せようとする自分を宥めるように、アレインは何度も心中でそう言い聞かせた。皇王を救うのは今ではない。いずれ必ず、その機会が訪れる。そう噛んで含めるように何度も何度も唱えながら、それでも納得していない自分が無意識に拳を強く握らせている。
シーファスは洞窟を出ようと一歩踏み出した足を止め、渋面を取るアレインを軽く一瞥してから、にこりと微笑んだ。
「…アレイン、訊いてもいいか?」
「…!……何なりと」
「お前は今でも、私が嫌いか?」
「…!」
かつてその質問に淀みなく頷いた愚かな自分が脳裏に浮かぶ。
やり場のない憤りを子供のように皇王にぶつけ、何も知ろうとさえしなかった。忠誠心も守るべき者も見失い、ただ力だけを求める空虚な自分を救い上げてくれたのは、今目の前にいる皇王だ。この忠誠心は誰にも負けたくないし、譲りたくもない。
アレインはかつて頷いたその質問に、今度は強い眼差しを返した。
「…私はあまり口数が多い方ではありませんが、それでもできる限り態度で示したつもりです」
その返答にシーファスは軽く目を見開いて、満足そうに頷く。
「…そうだな。お前ほど信頼のおける騎士は他にいない。……頼む、アレイン。私の友人を必ず無事に送り届けてくれ」
「…!」
真っすぐにこちらを見返すシーファスの瞳に、アレインもまた目を見開いた。
その瞳には一点の曇りもなく、ただ自分に対する信頼だけが見えたからだ。
(……こう言われては、信頼を裏切るわけにはいくまい)
アレインは諦めにも似た心境で一つため息を落とすと、返答を待つシーファスにおもむろに威儀を正して頭を垂れた。
「…仰せのままに」
決して命令に背かず、寄せてくれた信頼には必ず応える。それが、アレインが胸に掲げた騎士としての矜持だった。それに従うように深々と頭を垂れるアレインを満足げに視界に入れて、シーファスはティセオに目を向ける。
「…ティセオ、世話になったな」
「…!い、いえ…!お世話になったのは俺の方です…!!助けていただいて、ありがとうございました…!!」
不慣れな仕草で頭を下げるティセオに、シーファスはくすりと笑みを落とす。彼ならリュシアの街でも上手く馴染めるだろう。そう思いながら踵を返そうとするシーファスを、だがアレインが呼び止めた。
「…シーファス陛下…!!これを…!…ダリウス殿下からです」
言って、革袋から取り出した水晶の首飾りをシーファスに手渡す。
「…!……これは…」
「これをお持ちになっていてください。そうすれば、陛下の居場所をダリウス殿下が感知なさることが出来ます」
「………これはユルングルの魔力が宿っているのだな」
「…!…陛下も感知能力がおありなのですか?」
「いや、私にその才はないらしい。シスカに頼み込んで訓練したが、こうやって近くで何とか感じるのが、せいぜいだ。……ユルングルが何のためにソールドールに向かっているのか、お前は聞いたか?」
「……いえ、陛下の後を追うとお聞きしたので同行を願い出ただけです。目的は存じ上げません」
「……そうか、判った」
ひとつ頷いて、シーファスは水晶の首飾りを首につけ、服の下に潜り込ませる。
「…私が行ってしばらくしたら、すぐにここを発て」
それだけ告げて、シーファスはアレインの返事を待たず踵を返して洞窟を出ていく。その背は大きくもあり、儚げにも見えた。それが隠れ家で彼を見送った時を彷彿とさせて一抹の不安を呼び起こしたが、もう彼を止める事は出来なかった。皇王の命に背くことはできない。それは自分の中に掲げた矜持を裏切る行為だ。
アレインは瞼に焼き付けるように、姿が見えなくなるまでただその背を見続けていた。
**
「まだ見つからないのか…っ!!?」
ピアーズは焦っていた。
それは皇王の魔力を封じた事で、大丈夫だと高を括ってしまったからだ。そして逃げられた直後も、大丈夫だと油断した。魔力を封じられた状態で、そう遠くへは逃げられない。目の前に広がる森もそれほど大きな森ではなかった。人員を増やして捜索すれば、すぐに見つかるはず。___そう、思っていた。
なのに一向に見つかったという知らせは来なかった。
時間だけが無為に過ぎ去って、時間が経てば経つほど油断した自分に苛立ちが募った。あるいは、やはり魔力封じの腕輪を何らかの方法で解除したのかもしれないと思って、馬車の中や周りに散乱した干し草の中も念入りに探させたが、やはりガーネットの腕輪を見つける事は出来なかった。
神官ほど強くはないが、近辺であれば何とかかんとか魔力感知できる者にすぐさま辺りを探らせてみたものの、やはり皇王の魔力は見当たらない。あれほど大きな魔力を見失うという事は、やはり魔力封じが効いているとみて間違いないだろう。
だとすれば、やはり魔力を封じられても難なく動けるという事か____。
そう思うと同時に、ピアーズは小さく頭を振った。
そんなはずはない。自分も一度試してみたが、全身に重しを乗せられたように身動き一つ取ることは叶わなかった。座る事すら億劫で、腕さえ上げられる状況ではないはずだ。なのに____そう思う反面、目前に広がる光景がそれを頭から否定した。
荷馬車から散乱している干し草の壁。180キロあるはずのその壁は、いとも容易く崩れ落ちていた。それも衝撃と呼べる何かに押し出されるように____。
ではやはり、皇王には魔力封じが効かないのだろうか。そもそも効かない人間などいるのか。体質的なものか、いや、もしかしたらあの魔力封じの魔装具自体に不具合があったのかもしれない。
ピアーズは頭の中で色々な可能性を考えては否定する事を繰り返す。目まぐるしく思考を彷徨わせているのは、主であるデリックに申し開きをするためだ。どう言い訳をしようと叱責を免れることはない。それが判ってはいても、情状酌量を求めるように、いい言い訳を探るのは、デリックが非情な男であると理解しているからだった。
デリックは失態を演じた者を生かしてはおかない。だからこそ、彼の作った暗殺部隊は皆必ず自害用の毒を奥歯に仕込まされている。それはピアーズも例外ではなかった。だが彼は、死が怖いわけではない。死ねと言われれば奥歯の毒を噛み切る覚悟はもうずいぶん昔にしているつもりだ。
ピアーズが怖いのは、何も成し得ぬまま死ぬことだった。
今回の謀反の指揮を、デリックから直々に賜った。その報酬として、第一皇子と皇太子ユーリシアの命を弄ぶ権利を貰った。皇王の命も貰いたかったが、それだけはデリックが承知しなかった。
ただの暗殺者として生を終えるはずだったピアーズに訪れた、最初で最後の大舞台なのだ。そして何より、未だに畏怖の感情が拭えない皇太子の命が欲しくてたまらなかった。彼の命を弄ぶことで、自分は彼に畏怖の感情など微塵も抱いていないと証明したかった。それを成し得ぬまま死ぬことは、ピアーズのなけなしの矜持が許さなかった。
なのに、このまま皇王を逃がしたとあっては間違いなく処罰の対象になる。デリックの皇王に対する執着はピアーズから見ても異常なほどだ。その皇王をようやく捕らえたとあって、デリックは謀反が成就したかのようにご満悦だった。その皇王を逃がしたと報告すれば、死を賜る事になる。
苛立ちから親指の爪を噛むピアーズにようやく朗報が届いたのは、いよいよ死を覚悟した頃だった。
「ピアーズ様…!魔力感知できる者から崖下に大きな魔力が感じられると報告がありました…!!」
「…!大きな魔力…?皇王ではないのか?」
「はい…!別の魔力だそうです。その魔力が今しがた北に向かったと…」
「…!今すぐ追え…!決して逃がすな…!」
皇王かどうかは判らない。全く無関係な者かもしれなかったが、皇王が逃亡して時を置かずに北に逃げた魔力があるのだ。全くの無関係だと考える方が愚かに思えた。何より今のところ当てがない。もうこの情報に賭けるしかないのだ。
だがピアーズのその目論見は、脆くも崩れ落ちる事になる。いや、目的のものは現れたのだから、良しと見るべきなのだろうか。
「…!!?」
魔力を追おうと駆け出した者たちに向かって、森から何かが飛び出して来た。
その場にいた者たちは最初、森に住む動物か何かだと思った。身を小さく屈み込ませて、動物さながらの跳躍で森から勢いよく飛び出した___金の鬣を持つ、それ。それは森から拾ってきたのか、あるいは飛び出す時に木々の間を潜り抜けて来たのか、体に無数の葉が纏わりついてる。舞い散る葉と一緒に現れたそれは、呆けて立ち尽くしている彼らの喉を躊躇いもなく掻き切ると、そのまま一息つく暇もなく、すぐさまピアーズに向かって駆けた。周りの者たちには見向きもせず、ただピアーズだけを定める。狙っているのは、同じく喉元。それが判っているのに身動きが取れなかったのは、咄嗟の事で判断が鈍ったからか。あるいは、その金の獣が放つ殺気に、怖い、と感じてしまったからだろうか。
ピアーズは硬直した体を___いや、腕だけを何とか動かして、喉元を守るように腰に下げた短剣を構える。ピアーズが構えた短剣が先か、それとも金の獣が持つ短剣が喉元を貫くのが先か。そんな秒さえ跨がないほどのわずかな差で決着がつくと思われた瞬間、ピアーズの周囲にいた者たちが既のところで何とかその金の獣を取り押さえる事に成功した。
取り押さえたのは四人の男。羽交い絞めにするように後ろ手で両手を捕えて、地面に押し付けたその背を彼らが力の限り抑えているにも関わらず、少しでも力を抜けば拘束を解かれる心許なさがあった。
____これが本当に、魔力を封じられた者の動きだろうか。
九死に一生を得たピアーズは、未だに硬直した体を宥めるように肩で息をしている。短剣を握る手が、カタカタと震えて仕方がない。体も表情も強張って、見開いた目が金の獣から離れなかった。
そんなピアーズの無様さを嘲笑うように、金の獣は酷薄の笑みを浮かべる。
「……滑稽だな、ピアーズ=ガーデン。一杯食わされた気分はどうだ?」
「…!………なぜ、私の名を………」
「そんな事はどうでもいい。…さあ、次はお前の顔と名を覚えたぞ。…どうする?また御者を雇うか?そうすればまた私は逃げ出すぞ?そしてまた、お前の喉元を狙ってやろう。何度も、何度も、私の切っ先が、お前の喉元に届くまでな」
金の獣の、仄暗い声が腹の底にまで鈍く響く。
硬直は一向に萎えることはなく、ただ体の奥底から震えが止まらなかった。
これは、あの皇太子に対して抱いたものと同じものだ。
屈辱____だがそれ以上に、ただひたすら、怖い。
ピアーズは震える喉から絞り出すように、ようやく言葉を発した。
「………この……化け物め……っ!!」




