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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 シーファス編・反撃 前編

 シーファスは、ティセオを逃がす準備を静かに整えていた。

 期日は二日後の夕刻。短すぎると嘆く時間すらない。


 まずやる事は、この重たい体に慣れる事だろうか。

 この体ではティセオを連れて逃げるどころか満足に動けない。最初の頃に比べてまだ動けるようになったとは言え、森の中を走るにはまだ足りないだろう。


 シーファスは何度も引きちぎろうと試みた痕の残る右腕に視線を落とす。

 この忌々しいガーネットの腕輪を取る事はもう諦めた。これを付けたまま動けるようになるには、低魔力者たちと同じように筋力を使って体を動かす事に慣れるしかない。


 体は十分鍛えている。筋力自体はあるのだ。ただ使い方が違うのだと悟ったのは、つい二日前の事。

 魔力が無意識に手助けしてくれるので、それに頼った筋力の使い方をしているのだろう。力を入れるべき場所が本来の筋肉ではなく、その筋肉に沿って癒着するように張り巡らされた魔力が通る道の方に無意識に力が込められている、と言った感じだろうか。


 だがその魔力が使えない今、この方法では満足に体を動かす事は難しい。

 力を込める場所を、筋肉に定めなければならない。それが意外に難しかった。


 生まれてからずっと、この動かし方が当たり前だったのだ。えら呼吸をする魚に、突然肺呼吸をしろと命じてもできないのと同じで、力を込める場所を意識して変える事が想像以上に難しい。


(…そう言えばシスカが昔、低魔力者のために鍛錬による筋力増加法を提唱していたな)


 筋肉を意識して動かす事で、普通の鍛錬よりもより効果的に筋力を上げられると、懇懇こんこんと力説していた事を思い出す。当時は興味本位でシスカの言葉に耳を貸していたが、結局それを実践することはなかった。それは特になくても困らなかったからだ。


 高魔力者でも筋肉の扱いを覚えれば今以上に動けるようになる、と言われたが、有り余る魔力が手助けしてくれるおかげで結局通常の鍛錬で満足してしまった事を、シーファスは今さらながらに後悔した。


(…シスカなら例えこの腕輪を付けられても、変わらず動き回れるのだろうな)


 シスカは操魔のみならず、体を動かすという事にも卓越していた。

 剣術のみならず体術にも精通しているのは、この筋肉の扱いに長けているからだろうか。


 自嘲を含んだ笑みを一つ落として、シーファスは遠い昔シスカが教えてくれた言葉を一つ一つ丁寧に思い出す。


 ____体を動かす時は必ず筋肉を意識する事。

 筋肉の構造を知り、その動作によってどこの筋肉がどう動くかを理解できれば、高魔力者でも容易く筋肉に力を込めることが出来る___シスカは確か、そう言っていたはずだ。


 シーファスは昔から医学に興味があった。

 特にシスカが皇宮医として常駐するようになってからは、人に教えるのが好きなシスカに問えば、自分が欲しい答え以上のものを懇懇こんこんと説明してくれた。そのおかげで、体の構造については医者と同等くらいには詳しい。


 シーファスは軽く、右の二の腕に手を添えてみる。

 腕を曲げ伸ばしすると、それに伴って筋肉が収縮と弛緩を繰り返しているのが判った。


(…なるほど、こうやって筋肉が動く事で手足が動くのか)


 一つ一つ確認するように、筋肉の動きをつぶさに観察する。それを繰り返しているだけで、今まで重いと感じた体が少しずつ軽くなるのが判った。


(…頭で理解できれば、自ずと使い方が判るというわけか。さすがだな、シスカ)


 まだ聖女が人間の体に魔力を注ぐ遥か以前は、こうやって筋力だけで体を動かしてきたのだ。それから幾星霜、時が流れたが、魔力の少ない低魔力者たちは未だにその方法が主流となっている。だとすれば高魔力者でも理解できれば筋力を容易く扱えるのは、当然といえば当然だろうか。


 にやりと笑って、シーファスは心中でシスカに賛辞と謝意の言葉をひとりごちる。

 まだ筋力の扱いにぎこちなさはあるものの、二日もあれば特に支障がない程度には動けるだろう。


 手のひらをしきりに開いては閉じてを繰り返しながら、筋肉が動く感覚に妙なくすぐったさを覚えて小さく笑みを落とすシーファスに、荷馬車の外から声がかけられたのは、そんな時だった。


「おはようございます。朝食ができましたよ」

「…!」


(…もう朝なのか)


 シーファスは小窓から見える、いつの間にか白んだ空を見る。

 ユルングルから文を受け取って、眠る事も忘れずっと思索と体の扱い方を深慮しんりょしていたらしい。期限が更に短くなって、もうあと一日半しかない。明日の夕刻には、連中がティセオを殺しにやってくるのだろう。


(…本当に短いな)


 準備を整える時間はそう長くはない。

 そもそも囚われの身でできる事もそう多くはないので、これだけ時間があれば逆に長い方だろうか。


 そんな事を考えて、つい返事をし忘れたシーファスを訝しげに思ったティセオは、怪訝そうに再び声をかける。


「……あの……まだ寝てますか?」

「!…いや、すまない。起きている」

「…ああ、よかった…!…朝食は食べられそうですか?」

「…ああ、いただこう」


 来たる時のために体力は温存しなければならない。

 正直、食欲はあまりなかったが、肝心な時に力が出ないのも困るので、シーファスは有り難く頂戴する事に決めた。


 荷馬車の中で食事を摂る音が聞こえて満足そうな笑みを落としながら、ティセオは再び問いかける。


「お昼は何か食べたい物ありますか?」

「…料理はあまり得意ではないのだろう?私の要望に応えられるのか?」


 揶揄するように、くすりと笑みを落としながら言われて、ティセオは軽く狼狽する。


「え…えっと…!そ、それはできれば寛大な心で目をつぶってもらえればと……!」


 その返答にシーファスは失笑して、何でもいい、と開きかけた口を唐突に閉じた。

 そうして、軽く思案してから要望を伝える。


「…なら、肉を所望したい」

「…肉、ですか?」

「ああ、肉なら何でもいい」

「…あまり上手く焼けませんけど、目をつぶってくれます?」

「ははっ、気にしないさ。…それと、私はこれでも一応貴族の端くれでね。肉をかぶりつくような真似はしたくない。できればフォークとナイフも用意してくれると助かるのだが?」


 その言葉に、今度はティセオが失笑する。


「…?どうした?」

「貴方が貴族だという事は話し方ですぐ判りますよ。気付かれないと思ってましたか?」

「…結構、口汚い言葉を使っただろう?」


 ティセオが御者になってすぐ、彼を怯えさせるために口汚い言葉で彼を罵ったりもした。自分の考えられる限り野蛮な言葉を使ったつもりだが、あれでは足りなかったのだろうか。


 そんな事を怪訝そうに考えているシーファスを尻目に、ティセオは再びくすりと笑いをこぼした。


「あれはわざとですね。…俺を追い払いたかったんでしょう?」

「…!」

「…どうして俺を追い払いたかったのかは判りませんけど、あれが心にもない言葉だという事は判りましたよ。…安心してください。俺は貴方が貴族だという事も、心優しい人だという事も、もう判っていますから」


 そう穏やかな声で告げるティセオの表情は、きっと笑顔なのだろう。

 そう想像しながら、シーファスは彼の人柄を好ましく思う反面、あの男の的確な人選に思わず嘆息を漏らした。


(…フォルッシモといい、ティセオといい、よくもまあ、これほど的確に好ましい人物を見つけられるものだな)


 それはあの男自身、彼らを好ましい人柄であると判っている事の証左に他ならない。それでもあの男は、躊躇なく殺せるのだ。何の感情もなく、ただ笑いだけを表情に残して、まるで蟻を踏み潰すように容易く首を落とせるのだ。


 その事実に、底気味の悪さよりも嫌悪と憎悪が沸き起こって、シーファスは一人胸に秘めた殺意を宥めるように、懐に忍ばせた紐飾りのお守りを強く握りしめた。


**


 昼食は、シーファスの要望通りのものとなった。


 朝食を終えてしばらく馬車に揺られた後、昼前に街に買い出しに出かけたティセオを見送り、彼が戻って来てからの食事となった。買い物袋からカチャカチャと食器同士が当たる音が聞こえるところを見ると、どうやら一緒に所望したフォークとナイフも買ってきてくれたのだろう。


「…いい匂いがするな」


 食欲をそそる匂いがシーファスの鼻をくすぐって、思わずそう声をかける。


「期待してください…!美味しい肉を焼きますから!」


 朝とは打って変わって自信満々のティセオに、シーファスは小首を傾げる。


「…目をつぶれと言ったティセオはどこに行った?」

「今はもう言いませんよ!…店主に美味しい肉の焼き方を伝授してもらったんです!待っててくださいね」

「…なら、期待しよう」


 半信半疑でありながら、そう返答したシーファスの前に、いい匂いと共に美味しそうに焼き上がった肉が出てきたのは、それからしばらく経ってから。その見た目だけでも空腹の胃を刺激してくるその出来に、シーファスは思わず感嘆を漏らす。


「…美味しそうだな」

「そうでしょう?…食べてみてください」


 促されて、シーファスは慣れた手つきでフォークとナイフで肉を切り、口に運ぶ。

 今まで何度かティセオの料理を口にしたそれとは明らかに出来が違う事に驚嘆したが、それ以上に妙に懐かしさを彷彿とさせるその味付けに、シーファスは目を見開いた。


「………美味しい」

「…!本当ですか…!?よかった…!」

「……この味付け……」

「皇都で美味しいと有名だったお店の味付けらしいですよ。少し前に味が落ちて潰れたそうですけど、店主はその店の本当のシェフから教わったそうです」

「……本当の、シェフ……」

「低魔力者を影武者にしていたらしいですよ。ひどいことしますよね亅


 憤慨するティセオの言葉を聞くともなしに聞きながら、シーファスは聞き覚えのあるその話に、くすりと笑みを落とした。


(……またお前の料理を食べられるとはな)


 これでも食べて英気を養えとでも言っているのだろうか。

 何となくフォルッシモから元気を貰ったような気になって、なかったはずの食欲を満たすように全て綺麗に平らげると、シーファスは本当に欲しかった目的の物を視界に入れる。


 小窓から差し込む陽の光を鈍く反射する、ナイフ____。


 フォルッシモのようにナイフが欲しいとティセオに言えば、何の疑いもなく渡してくれただろう。

 だが彼らが監視しているかもしれないこの状況で、それは出来れば避けたかった。決して彼らに気取られぬよう行動しなければならない。このガーネットの腕輪を過信して決して逃げられないと高を括っている節はあったが、用心するに越したことはないだろう。


 シーファスは一度ナイフをくるりと回して持ち直すと、音をたてないように静かに荷馬車の出入り口を塞いでいる干し草の壁の前に座り込んだ。


 目の前にあるのは、両手で何とか抱えられるくらいの大きさの干し草を、四角く固めて縄で縛った束が合計で六つ。二列に並べたものが三段に積み重ねられている。その一段目と二段目の間には、食事が通せる穴を作るために小さめの干し草の束が左右の壁に寄せて置かれていた。縄を切るのは、この小さな干し草の束だ。


 シーファスはおもむろにその小さな干し草の束を縛っている縄にナイフを当てた。

 全部を切ってはいけない。切っていいのは縄の半分に少し満たない程度。切り過ぎても、切らなさ過ぎてもいけなかった。この半分に少し満たない程度で、ちょうど明日の夕刻頃に上に詰まれた干し草の重みに耐えかねて縄が完全に解ける計算だ。


 シーファスは慎重にナイフを縄にてがった。今シーファスが手に持っているものは食事用のナイフなので、当然その切れ味は普通のナイフよりは劣る。だが今回のように微調整が必要なら、かえってこちらの方が都合がいいだろう。


 少しずつ切り過ぎないように、小刻みにナイフを動かして縄に切れ込みを入れる。左の束の縄が終われば、次は右の束の縄を。そうやって慎重に、だが素早く縄に切り込みを入れて、シーファスは外にいるティセオに聞こえないほど小さく、安堵のため息をいた。


(…これで、計算通り明日の夕刻頃に崩れてくれれば問題はない)


 そうして何食わぬ顔で食器をティセオに返して、あとはただ時が来るのを待つことにした。


**


 シーファスは定期的に縄の状態を確認しながら、この数日間でなまった体をほぐすように出来るだけ体を動かす事を意識した。とは言っても激しい運動が出来るような状況でもなく、強張った筋肉をほぐすように軽く体を伸ばしたりひねったりを繰り返す程度だ。


 あの重かった体は嘘のように消え、こうやって立っていても辛いと思う事はもうない。

 魔力が手助けしてくれた以前に比べれば、やはり体の軽さは違ったが、ティセオを逃がして彼らと軽くやり合う程度なら特に問題はないだろう。


 シーファスはユルングルからの文を確認するように、もう一度取り出して目を通す。

 これから行う事の一切が詳細に書かれたユルングルからの文。この二日で、両手では数えきれないほど目を通した。おかげで何度も開いては折りたたんでを繰り返した紙は、くたくたによれて折り目のところで今にも数枚に分かれてしまいそうな状態だ。それは、段取りを頭に叩き込むというよりもむしろ、最愛の息子からもたらされた希望を噛みしめるためと言った方が的を射ているだろう。


 彼に憎まれ嫌われていると判ってはいても、この文を読んでいる間だけ、彼から許されたような気になった。決してそれはあり得ないと頭では判っていても、そうでありたいと願う心が幻想を抱かせる。それが幻想だと判っていても、そう思える時だけ心が軽くなった。どのみち彼は今この場にいないのだから、自分が望むように好きに解釈しても構わないだろう。


 小さく笑みを落とした後、大事そうに懐にその文を戻すと、シーファスは小窓から見える空に視線を移す。

 もうそろそろ逢魔が時だ。

 遠くなるにつれ濃い藍色に変わる空と、反面、茜色に染まる世界が目によく映えた。その二つがちょうど混じり合う場所は紫色に染まって、空と世界が混然一体となった感覚に陥る。


 シーファスが好きな、短い幻想的な空間。

 その空間で、フォルッシモは生を終えた。

 そして今、同じ時間にティセオの命を救うのだ。


 刻限が刻一刻と近づく中、馬車がぴたりと止まる。ティセオが夕食を作り始める時間だ。この時間に切れるように細工した縄は、だがあと残りわずかのところで千切れまいと奮励している。糸のように細い一本だけが、切れそうで切れない。そのもどかしい状況に、シーファスはたまらず肩を落として盛大にため息を落とした。


(…読み違えたか)


 苦笑を落としながら心中で自嘲するように呟いて、そうして強硬手段に出る事を決意した。



 ティセオはいつもと同じように夕食の準備をするつもりだった。

 馬車を止め、必要な物を取り出し、火を起こす。

 そこまではいつもと変わらない日常。少し違ったのは、荷台から何やら軋むような音が聞こえる事くらいだろうか。まるで何かしらの力に耐えかねて悲鳴を上げているような、軋む音。ティセオはその音を訝しんで、たまらず立ち上がり荷台に歩み寄る。その刹那____。


「…!?」


 大きな衝撃音と共に、今まで壁として存在していた干し草の束が吹き飛ぶように轟音を上げて飛び出してきた。重く低い音を立てながら、干し草の束が地面に落ちると同時に巻き起こる突風から庇うように、ティセオはたまらず腕で顔を隠して目を強く閉じた。


 何が起こったのかも判らず、かと言って目を開くことも憚られて、強張った体と同じように固く目を瞑ったティセオの耳に聞き慣れた、だがいつもの愁いを帯びた声音ではなく妙に清々しい声が届く。


「…ちまちまと細工するよりも、いっそこの方が潔くて楽だな。…反面、派手で目立つのが困る」


 恐る恐る目を開いたティセオの視界に真っ先に入ってきたのは、茜色の光を浴びて強く輝く金の髪を携えた、怖いくらいの威厳が漂う壮年の男。彼は重力を感じさせないほど軽やかに荷馬車から飛び降りると、軽く服のほこりを払ってティセオに歩み寄った。


「…ティセオ、か?」


 未だに状況を把握できないティセオは、それでもそう問うてきた男に無言のまま頷く。自分も同じように名を訊ねたかったが、そもそも彼の名前を知らないので訊ねようがない。それでもあの荷馬車が出てきたという事は、今まで会話を重ねてきた彼である事に違いはないだろう。


「……あ、あの……これは……?……出てきても大丈夫なんですか……?」


 呆けたようにそう問いかけるティセオに、男はたまらず吹き出す。

 瞬間、我に返ってから自分でも何て馬鹿げた質問をしたのだと顔を赤らめて俯くティセオを、男は突然、険しい表情を取って力強く押しのけた。


「…っ!?」


 勢いよく尻もちをつくティセオの視界を素早く横切ったのは、鈍い光を放つ短剣だった。その短剣が、今までティセオが立っていた場所を目掛けて矢のようにティセオの視界を真一文字に切った。金髪の男は空を切るように飛んでくるそれを難なくつかみ取ると、そのまま慣れた手つきでくるりと刃を返して、短剣が飛んできたであろう方向に投げ返す。


 その一連の動きがあまりに早くてティセオの目に捉える事は出来なかったが、音だけはしっかりとティセオの耳に届いていた。空を切る音と、ほぼ同時に小さな悲鳴らしき声が鳴って、最後に聞こえたのはどさりと重い何かが落ちる音。その落ちてきた何かの喉元には、先ほどの短剣が見事に刺さっていた。


「ひ…っ!?」

「…やはり監視がいたか」


 尻もちをついたまま小さく悲鳴を上げて後ずさるティセオを尻目に、男は悠然と歩みを進めて、つい先ほどまで生きていたであろうその死体に近づく。喉元に刺さった短剣をひとつも表情を変えることなく抜き取り、露を払うように短剣に着いた血痕を払って、死体が持っていた鞘に納めて自身の腰に差した。人一人を殺したとは思えない男のその悠然な態度に、ティセオは言いようのない恐怖を抱いた。


 そうとは知らない男は、踵を返してティセオの元に戻って告げる。


「ティセオ、時間がない。私と共に逃げてくれ」

「…!に…逃げるって……俺も……?」


 それとも人質にでもされるのだろうか。

 失念していたが、彼は囚われていたのだ。その理由は当然知らないが、あれほど厳重に退路を塞いでいたところを見ると、よほど危険な人物なのだろう。それは先ほど眉一つ動かさず人を殺めた事で、ティセオの中で確固たる真実へと変わった。


 カタカタと体を震わせて畏怖の感情を色濃く載せたその瞳に気付いた男は、一瞬悲しげな表情を取った後、座り込むティセオに目線を合わせるように膝をついて、宥めるような声音で語りかけた。


「…怖いか?ティセオ」

「…!」

「怯えてくれていい。怖がるお前の気持ちも判る。だが時間がない。奴らがもうすぐここに来る。…お前を殺しにな」

「…!?…お…俺……?……貴方じゃなく……?」


 訝しげに思いながらも、先ほどの短剣を思い出す。

 あれは紛れもなく自分を狙ったものだ。この目の前の男が突き飛ばしてくれなければ、今頃あの短剣が突き刺さっていたのは自分だった。


 そう思うとなおさら体が強張って、逃げなければと思うのに、思うように体が動かない。

 体の芯から震えが起こって息をする事さえ忘れたような様子のティセオに、男は申し訳なさそうな顔を向けた。


「…すまない、ティセオ。お前を巻き込んでしまった。…だが必ず助ける。命に代えてもお前を守ると誓おう。だからどうか、私を信じてついてきてくれ」


 言って差し出された手をティセオは小さく一瞥した後、男の顔に目を向けた。

 先ほど怖いと思ったその男の表情は柔らかい。自分を見つめるその瞳には、申し訳なさと同時に優しさと力強さが窺えた。それは今まで互いに姿が見えなくとも、会話を重ねていく中で頭の中に作り上げた想像通りの人物だった。


 この人は、決して自分に危害を加えない。

 根拠はないのになぜだか強くそう思えて、そしてそう思うほどに体の震えが納まるのを自覚した。

 ティセオは力強く頷き返すと、差し出されたその手を躊躇いもなく掴んだ。


**


「見張りが死んでおります…っ!!!」


 男はその言葉で、自分が煮え湯を飲まされたことを自覚した。


 信頼していた、と言えば語弊があるだろうが、男は皇王が決して逃げることはないだろうと確信していた。そもそも魔力は封じているはずだ。抵抗するのに必要な力もなく、そして皇王の希望も綺麗に打ち砕き、彼にはもう一縷の望みどころか気力さえ残っていないはずだった。あるのはただ、フォルッシモを殺した自分への殺意のみ。

 だから、皇王は決して逃げないと確信した。逃げるとすれば自分を殺した後だ。だがそれを実行するだけの力がない____そう、思っていた。そういう意味では、男は皇王を信頼していたと言ってもいいかもしれない。


 だが、それは見事に裏切られた。


 再び御者を殺しにやって来た男の目に真っ先に飛び込んできたのは、目を疑うような惨状だった。

 決して逃げられぬよう積み重ねた干し草の壁は、ものの見事にすべてが荷台から落とされている。それも『崩れた』とか『倒れた』という言葉では足りないほど、生易しいものではない。荷台の中から外に向かって、衝撃と呼べるほどの何かが起こって勢いよく飛び散った、という方が的確だった。


 干し草一束の重さは約30キロ。それが六つで180キロの壁をこれほど散乱させるには、よほどの力が必要だろう。


 男は荷台の中に足を踏み入れる。

 小さく見渡して、男は下に敷き詰められた干し草をまさぐるように何かを探す仕草を見せた。


(……ない。やはり魔力は封じられたままか)


 封じられた状態で、これほどの力を使えたのだろうか。

 そして、監視の男すら容易く殺して逃げ出したのか。


(…化け物の親もやはり、化け物という事か)


 歴史上最も魔力を有していると言われる、皇太子ユーリシア=フェリシアーナ。

 一度その皇太子を間近で拝謁した事があるが、彼が近寄るだけで体全体を圧迫するような威圧を感じた事を覚えている。体の奥から湧き出る恐怖に似た感情で震えが起こり、目を合わせる事すら出来なかった。皇太子はただ、賓客と歓談していただけなのに。


 すべての感情を支配したつもりになっていた男は、この出来事を屈辱と捉えている。魔力至上主義者ではあったが、あの皇太子だけは別だった。以来、男は皇太子を化け物と蔑み、未だに畏怖の感情が拭えない。


 その化け物の親なのだ。きっと常識では測れないのだろう。

 忌々し気に舌打ちをして荷馬車から下りた男に、狼狽した配下らしき男の声がかけられた。


「どういたしましょう…!?ピアーズ様…!」

「どうする…だと?探すに決まっているだろう…!!皇王はまだ魔力が封じられたままだ!!まだそう遠くへは行っていない!!草の根分けても探し出せっ!!!!!」


 男のその声にはもう、冷たさも静かさも窺い知る事は出来なかった。

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