休息ー紐飾の願いー・後編
ユーリシアが目覚めたのは、まだ夜深い時分だった。
もう皆寝入った時間なのか、辺りはしん…と静まり返っている。
その割に、天幕の中はほのかに薄暗い。完全な闇ではない事を訝し気に思って、ユーリシアは薄暗い天幕の中を小さく見渡してみた。足元の方向にわずかな光が灯っているのを見咎めると、ユーリシアはそれを確認しようとおもむろに体を起こす。
(…!……ユーリ…?)
そこに至ってようやく、自分の寝台を枕代わりにして突っ伏すように寝入っているユーリの存在に気が付いた。
「…お目覚めになられましたか?レオリア様」
体を起こしたユーリシアに気が付いて、ゼオンの寝台の傍で座って看病をしていたダスクがこちらに歩み寄りながら声をかけてくる。見ればゼオンの寝台の傍でゆらゆらと燭台の炎が揺らめいていた。
「……ゼオン殿の体調は?」
「…相変わらずです。それよりもレオリア様はどうです?どこか不調などございますか?」
「……?…なぜそのような事を訊く?」
「…!……覚えておられないのですか?倒れられたのですよ?」
「!?私が…か……?」
眉根を寄せながらそう聞き返して、ユーリシアは記憶をたどるように目線をダスクから外した。
(……そういえば、私はいつ眠ったのだ…?)
自分の足で寝台に向かった記憶が全くない。
覚えているのはカルリナと別れて、騎士たちを見回っていたところまでだ。
「騎士と話されている最中、突然頭を押さえてお倒れになったそうです」
「…!……そうか…あの時ひどい頭痛がして……」
そう呟くように言葉を落としながら、ユーリシアは額に手を当てる。
文字通り、頭が割れるような痛みだった。
それは以前ダスクから操魔を教わった時の比ではない。あの時のように波打つようなじわりじわりと押し寄せる痛みとは違って、まるで金属のような硬い物で力いっぱい後頭部を殴られたような痛みに近かった。
(……そのまま昏倒したのか……)
内心でそうひとりごちて、ユーリシアは眠っているユーリに目線を落とす。
「……それでユーリが傍についていてくれたのだな」
「…ええ。とても心配しておりましたよ。…それで体調の方はいかがです?」
「…今は何ともない。少し疲れていたのだろう。出軍の準備でずっと眠っていなかったからな」
言ってはみたが、納得はしていなかった。
あの割れるような頭痛が単なる疲れから来るもののはずがない。眠っていないのはわずか四日の事、たかがこれだけであの頭痛が起こるのなら、おそらく今までも散々あの頭痛に悩まされていた事だろう。
今になってあの頭痛が起きたという事は、どこかしら体に不調があるという事だ。
だとしたら神官であるダスクにどれだけ取り繕ったとしても、もう筒抜けだろうか。そう思って小さく自嘲気味な笑みを落としてみたが、ダスクからは意外な言葉が返って来た。
「…そのようですね。診察いたしましたが、どこも不調はみられませんでした」
「…!そう…なのか?」
「はい。…陛下の事がございますので、レオリア様が思っている以上に心身ともに疲弊なさっておいでなのでしょう」
そうなのだろうか、と思う反面、そうかもしれない、と思う。
今もまだ父の安否は杳として知れないのだ。生きている可能性が高いだろうと推測はしたが絶対とは言い切れない。生きていると見せかけて、本当は殺していてもおかしくはないのだ。
昨夜は眠る時間があったにもかかわらず結局眠れなかったのは、そんな事ばかりが頭をよぎった所為だった。それを思えばダスクが言う事もあながち間違いではないだろう。
「…世話をかけたな」
ただでさえゼオンが病に伏して不安があるところを、他ならぬ高魔力者である自分が倒れてさらに不安を煽ってしまった。そう言わんばかりに悄然と肩を落として嘆息を落とすユーリシアに、ダスクはくすりと笑みを落とす。
「いいえ、お気になさらず。…ですが今後は日に一度、診察と神官治療を施しましょう」
「…?治療?どこも悪くないのにか?」
「神官治療には疲れを癒す効果もございます。貴方に倒れられては騎士たちも不安に思うでしょうから」
「そう…だな」
ため息を落としながら不承不承と承諾の意を示した後、ユーリシアははたと気づいて弾かれるようにダスクに視線を向けた。
「…待て、私に神官治療は出来ないはずだろう…!悪いが操魔の時のように頭痛が起こるのは御免被るぞ…!」
見るからに狼狽して頭を振るところを見ると、よほどあの頭痛が心的外傷になっているのだろうか。珍しいユーリシアの狼狽っぷりに思わず苦笑を漏らして、ダスクは宥めるように言葉を続けた。
「ご安心ください。神官治療を施すのは私ではありません」
「…?…では誰が?」
「この中に唯一、原始の魔力を扱える者がいるでしょう?」
「…!…ユーリか…!」
にこりと微笑んで、ダスクは頷く。
ユーリが原始の魔力を扱えるのは、すでに周知の事実だ。剣術の立ち合いで、ユーリは見事に原始の魔力を操作してユーリシアから一本取って見せた。
ゼオンが病に伏してからはダスクとの操魔の鍛錬が立ち消えとなったが、おそらくユーリは原始の魔力の方が難なく扱えるだろう、とダスクは予想している。
(…この旅の道中に、もう一度操魔の鍛錬を再開してもいいかもしれない)
今までは自分が原始の魔力を扱えないために同調訓練の妨げになるとユーリシアを遠ざけていたが、あえて原始の魔力で操魔を行ってみるのもいいだろう。
そんな事を何とはなしに考えているダスクを尻目に、ユーリシアは眠っているユーリに再び目線を落として穏やかに微笑む。
「……ユーリは凄いな。私は彼に助けられてばかりだ」
「…貴方もユーリを救ったではありませんか。誰でも皆、そうやって支え合って生きているのですよ」
「…!」
その言葉が、かつてミルリミナから聞いた言葉を思い出させる。
(そうやって受けた御恩を、他の誰かにお返しする。人はそうやって生きているのです。それはユーリシア殿下も同じでございますよ)
もう長く聞いていないミルリミナの声が、ユーリシアの耳の奥でこだまする。
あれからまだ五か月ほどだというのに、もう何年も前のような気がして妙に懐かしい。
ユーリシアは愛しい彼の人に思いを馳せながら、小さく「そうだな」と言葉を返した。
**
「ユーリ、まずは体内の魔力の流れを感じる事から始めましょう」
翌朝、天幕の中でさっそく神官治療の修練が始まった。
進軍を止めるわけにはいかないので、ユーリが修練できるのはまだ空が白んできた早朝から出発するまでの短い時間と昼食時、そして野営地に着いて眠るまでの限られた時間だけだ。
短いと思う反面、扱うのが原始の魔力ならば可能ではないかと淡い期待もダスクは抱いている。
一つ難を上げるとすれば、魔力を持たないユーリにとって、魔力の流れを感じる、という事が一番難しいことだろうか。これを感じなければ、神官治療を行う事は一気に難しくなる。
寝台に座ったユーリシアの右手をユーリが、左手をダスクが握って準備を整え終わると、ダスクはもう一度念を押すように告げた。
「いいですか?おれは流れを監視するだけで一切手出しはしません。最初から最後まで、ユーリが一人で行うのですよ」
言っては見たが、ダスクはユーリが神官治療を行えるか半信半疑だった。
神官治療は相手の体内に自身の魔力を流して、相手の魔力を操作する。だがユーリには、絶対的に必要なその魔力がない。魔力なしで神官治療を行うことは、前例のない試みだった。
(……だが、ユーリならできるはず……)
大気に漂う魔力を操作する事ができるのであれば、人の体内にある魔力も操作する事は理論上可能なはずだ。特にユーリの中に存在する聖女には、人の魔力を奪う能力があるという事がすでに証明済みなのだ。奪えるのなら、操作もできるという事だろう。
ユーリは期待と不安が入り混じったようなダスクからの視線に頷き返して、意を決したように瞳を閉じる。そうして、ダスクがしているであろう事を見よう見真似で、とりあえずユーリシアの手を握る自身の手に意識を集中してみせた。
「…………」
「…………」
「………~~~~~っ!」
「……え……っと…ユーリ…?」
瞳を閉じてからずいぶん経ったが、何一つ変わりがない現状にユーリシアはたまらず苦笑を漏らしながら声をかける。ダスクも同じく、体内の魔力が微動だにしていない事に苦笑を漏らした。
「………ダスク兄さん…魔力ってどうやって感じるんですか……?」
まるで捨てられた子犬のように瞳を濡らして救いを求めるユーリに苦笑を落としつつ、ダスクは懸念していた通りの壁に突き当たった事に困惑めいた色を滲ませた。
「…何も感じませんか?」
「……はい、何も。…大気にある魔力は目に見えるので操作できるのですが、体内の魔力は目に見えませんので…。それに、手から、というのがとても難しくて……」
申し訳なさそうに悄然と肩を落とすユーリを見咎めて、ユーリシアが口を挟む。
「…では、手以外でやってみてはどうだ?」
「…!」
「そういえば神官はいつも必ず手からだな。何か理由はあるのか?」
「…手には多くの神経が走っております。それだけ魔力の通り道が多く存在するという事です。神官治療は自身の魔力を流す必要がありますので、通り道が多ければ多いほど相手の体の隅々にまで魔力を通しやすいのですよ」
説明しながら、ダスクはユーリシアの提案に妙に確信めいたものを感じていた。
(…確かに、ユーリの場合手にこだわる必要はない)
ユーリは自身の魔力を流すわけではないのだ。
だとすれば魔力の通り道が多い手よりも、魔力が一番体外に放出されている場所の方が、ユーリには最適だろう。
その考えに至って、ダスクは誰にともなく頷いてユーリシアに視線を向ける。
「レオリア様、横になっていただけますか?」
「…?…ああ」
「…ユーリ。レオリア様から魔力が体外に放出されているのは判りますね?」
「はい」
「では、より多くの魔力が放出されている場所は判りますか?」
魔力が体外に出ないよう訓練を積んだ者は例外として、基本誰もが多かれ少なかれ体外に魔力を放出しているものだ。当然、全身から魔力が放出されているものだが、より多くの魔力が放出される場所、というものが存在している。その部位は人によって千差万別だった。
魔力の流れを視覚化できるダスクは、だがその視えすぎる目が逆にユーリシアの原始の魔力を視る事を妨げた。
原始の魔力は、普通の魔力と違って濃く強い。
ただでさえその量が尋常ではない上に濃く強い原始の魔力は、ダスクの目には強い光のように映っていた。目が眩むような強い光に妨げられて、正確な流れが把握できないのだ。
おかげでダスクの目には、ユーリシアは全身が光で包まれているようにしか見えなかった。
「おれでは原始の魔力を細部まで視る事はできません。ですがユーリなら視えるでしょう」
そう言い添えるダスクを一度視界に入れて、ユーリは目を凝らすようにユーリシアを視る。しばらく丹念にユーリシアの頭から足先に向けてゆっくりと視線を動かした後、ユーリはおもむろに口を開いた。
「………心臓です。そこから一番、魔力が放出されています」
「では、そこに手を添えて」
頷いて、ユーリはゆっくりと心臓の上に両手を重ねるように添える。
違いはもう、明らかだった。
「…!」
手を添えた瞬間、ユーリは強い光が弾けるように自身の体内に入っていく感覚を覚えた。それと同時に、添えた手から暖かな光る道がユーリシアの体内を微に入り細に入り、一つの漏れもなく細部まで行き届くように走っている事を理解する。
これが、体内の魔力を感じる、という事なのだろうか_____。
「判ります…!魔力を感じます…!」
嬉々とした声を上げてダスクに輝いた瞳を向けるユーリに、ダスクは安堵したようなため息と笑みを落とす。
「では、次に魔力の流れを診てください。魔力は血液と同じように心臓から始まり全身をくまなく回って、再び心臓に戻ります。…判りますか?」
「…はい」
「その流れに淀みがある箇所がありませんか?それが澱と呼ばれる体に不調をもたらす原因となるものです」
ユーリは無言のまま頷いて、瞼を閉じる。
手から意識を飛ばすように、心臓から流れる魔力に沿って全身をくまなく観察した。
「…ありました。ごく小さな澱が三つ…左こめかみ部分に一つ、右目の上部に一つ、右胸に一つです」
(…大したものだ)
自分ではあまりに小さく気づかなかった澱を、ユーリは容易く見つける。原始の魔力が自分には感じにくいとはいえ、その精度の良さに内心で驚嘆しながら一つ頷いて、ダスクは言葉を続けた。
「では流れを元に戻しましょう。戻し方は____」
「…判ります。大気の魔力を扱うのと同じですから」
ダスクの言葉を遮るように告げて、迷うことなく流れを滞らせている澱を正しい流れに導いていく。
ユーリシアの手を握って流れを監視していたダスクは、その淀みない操魔に感嘆と同時に驚嘆を含んだ息を吐いて、一仕事終えたように肩の荷を下ろしたユーリを視界に留めた。
「…できました…!レオリアさん、どうですか?」
「…驚いた。本当に体が軽くなるのだな…。それに頭痛もない」
ユーリシアにとっては、これが生まれて初めての神官治療だ。
ダスクの同調訓練とは違って不快感もまるでなく、むしろ暖かく柔らかいものに包まれているかのような心地よさに驚嘆を漏らして、ユーリシアは体を起こす。
そんなユーリシアの様子を満足そうな笑みを落としながら見ているユーリに、ダスクは訊ねた。
「…ユーリ。もしや一人で操魔の鍛錬を?」
最後に操魔の鍛錬をしたのは、もうひと月近く前だ。
いくら扱いやすい原始の魔力だとは言っても、その時のたどたどしい操魔に比べて、あまりに熟達したその動きにダスクは驚きを隠せないでいた。
そんなダスクの問いかけにユーリはにこりと微笑んで、ユーリシアが答える。
「ユーリはずっと一人で鍛錬をしていた。毎日欠かさずな」
「…レオリアさんにも手伝っていただきました。普通の魔力はまだ上手く動かせませんが、原始の魔力ならばもうある程度は思うように操作できます」
「手伝ったと言っても、私はただ座って見ていただけだがな」
原始の魔力を有しているのが自分だけなので手伝ってほしいとユーリに請われたが、座って見ていただけの自分が手伝ったなどと言うにはあまりにおこがましいと、ユーリシアは苦笑を漏らす。
「そんな事はありません…!お忙しいのにわざわざ僕のために時間を作ってもらったんですから…!」
「おかげで休憩するのにいい口実が出来た、ユーリ」
気にするなと言外に含ませてそう告げるユーリシアと共に、二人くすくすと笑いを落としあっているユーリ達を見咎めて、ダスクもまた安堵のため息と笑みを落とす。
(……おれが心配するまでもなかったか)
操魔の鍛錬をすると自分が言い出したにもかかわらず、ろくに鍛錬もできずに立ち消えとなっていた事を、内心申し訳ないとダスクは思っていた。特にユーリは操魔が思うようにできず、苦悩と苛立ちを抱えていたようにも見えたのでなおさらだった。
(…だがそれでも諦めず、鍛錬を続けてくれていたのか)
それが何よりも嬉しく、何でも一生懸命に頑張るユーリの姿が健気で愛おしい。
思い起こせばあの剣術の鍛錬でさえ、痣や傷だらけになっても決して諦めず、あのユーリシアに果敢にも挑戦し続けたのだ。それを思えば、ユーリの諦めの悪さは折り紙付きだろうか。
それに思い至って、ダスクは思わずくすりと一つ笑みを落とすと、そんなダスクを怪訝そうに見ている二人に満面の笑顔を向ける。
「…ありがとうございます、ユーリ。これで何の憂いもなく次に進めます亅
「…………………はい?」
何やらその言葉に悪寒めいたものを感じて、ユーリは呆然と聞き返す。
「また操魔を一から教え直すには時間が足りないと思っていたところです。これで心置きなく次の段階に進むことが出来ますね」
「…………え…っと…?」
「神官治療は申し分ありませんので、このまま毎日続けましょう。また大きな澱が出た時には、その対処法をお教えします。今は操魔の鍛錬を優先しましょう」
「………あの…?」
どうやら狼狽するユーリの声は聞こえていないようだ。
一人嬉々として目を輝かせながら言葉を続けるダスクは、狼狽するユーリと苦笑を漏らすユーリシア、そして寝台で横になりながらずっと耳をそばだてて会話を聞いていた呆れ顔のゼオンを尻目に、最大級の聖母の微笑みを見せて告げる。
「今日の昼食後から早速鍛錬を再開しましょう!ユーリ」
相手に有無を言わさないこの手腕はある意味シスカの才能だな、と内心で漏らしたのは、果たしてゼオンだけだろうか。
**
ダスクの言葉通り、昼食後のわずかな時間を使って操魔の鍛錬が再開された。
騎士たちが休憩している場所から少し離れた人目の付かない所で、二人きりの鍛錬の口火を切ったのはダスクだった。
「まず最初に伝えておきますが、おれは貴方に戦う術を教えるつもりはありません」
「…!」
「おれが教えるのはただ一つ、身を守る術だけです。この力は人を傷つけるものではない。守るための力と心得なさい」
ユーリは令嬢だ。
今は男の姿を取って戦場に向かおうとしているが、本来であれば守る力さえ必要はない。誰かに守られ、安全な場所にいたはずの彼女は、運命のいたずらか危険な場所に身を置いている。
それゆえに必要な力だった。
心優しい彼女に、人を傷つける方法は教えたくはない。教える必要もない。
今ユーリに必要なのは、守る力なのだ。
ユーリはダスクの宣言を受けて、迷いなく頷く。
「願ってもない申し出です」
短い返答の中にユーリの覚悟と感謝が見て取れて、ダスクは満足そうに一つ頷いた後、鍛錬の詳細を話し始めた。
「今から貴方に教えるのは『結界』と呼ばれるものです」
「結界……遁甲のようなものですか?」
「似て非なるものですが、同じものと捉えても問題はないでしょう。…見ていてください」
言って、ダスクはおもむろに何もない空間に右手をかざして、スッと横に手を払う。たったそれだけの動きで、ダスクの周囲にとても薄い膜のような壁が現れて、綺麗に彼を包み込んだ。
「…!……これが結界…ですか?」
「触れてみてください」
ユーリは頷いて、恐る恐るその薄い膜を指で軽く突くように触れる。その触感が思ったよりもかなり柔らかい。いや、柔らかいと言うよりも弾力がある、と言った方が的確だろうか。突く指を押し返すように弾くさまは、まるで風船のようだとユーリは思う。
「…こんなに弾力性があるものなのですね。それにとても薄い……」
その薄さは紙切れ一枚にも満たないだろうか。
「これほど薄くて攻撃に耐えられるものなのですか?」
普通に考えれば、分厚ければ分厚いほど強固な印象がある。それは誰もが想像するものだろう。
だが当然のように抱くその疑問に、ダスクはにやりと笑って見せた。
「では試してみましょうか」
用意したのは、先ほどと同様薄く伸ばした魔力の壁と、分厚い魔力の壁だ。
ダスクはその壁から三メートルほど離れた所に立って、二つの壁を見据えている。
「今からあの二つの壁に同時に攻撃をします。見ていてください」
頷くユーリを待ってから、ダスクは手刀を打ち出すように何もない宙を思いっきり振り払う。その動作に呼応するように圧縮された魔力の刃が真一文字に二つの壁に向かって、ぶつかる瞬間突風と共にキーンっと甲高い音を立てながら弾けるようにふわりと掻き消える瞬間を、ユーリは突風から顔を守るように上げた腕の合間から見ていた。
そうして、視界を塞ぐように立ち込めた砂埃が次第に落ち着きを取り戻した後に残ったのは、薄く伸ばした魔力の壁だけだった。
「…!………どうして…?」
「先ほど貴方も言いましたね。弾力があると。弾力性があるのは魔力が持つ特性の一つです。そしてそれゆえに、分厚くすればするほど脆くなるのですよ」
「……?……意味がよく…?」
ダスクの意を掴みかねて小首を傾げるユーリに、ダスクはくすりと笑って頷く。
「では想像してみましょう。例えば弾力のあるボールを地面に落とすとどうなりますか?」
「…弾んで、また手元に戻ります」
「そうですね。では今度は、凍らせたボールを地面に落としてみましょうか」
「…!」
「どうなりますか?」
「……割れます。粉々に……」
その返答に、ダスクは満足そうににこりと笑う。
「そういう事です。ボールが地面に落とされても割れないのは、その弾力性が衝撃を吸収しているからです。ですが凍らせるとその弾力性が失われて簡単に割れてしまいます」
「…魔力にも同じことが起きるのですね?」
「ええ。分厚くすればするほど、その弾力性は失われて脆くなります。結界を張る時は必ず出来得る限る薄く作る事を意識しなさい」
「薄くすればするほど強度が増すという事ですか?」
その質問には頭を振った。
「いいえ、一定以上薄くすると逆に弱くなります。最適なのはこの薄さです」
言って、最初に見せた薄い魔力の壁をもう一度作って見せる。
「これで耐えられない攻撃ならば、もう一枚この上に薄い膜を張ります。それでも耐えられないならもう一枚、と言ったように分厚い壁を作るのではなく薄い膜を何重にも重ねる事で強度を持たせるのです。遁甲はこうやって何十、何百と幾重にも薄い魔力の壁を張って、さらにその上に緻密な術式を載せ細かな指示を与える事で作られます」
「…!この薄さのものを何十、何百もですか…!?」
「ダリウスがいかに操魔に長けているかが判るでしょう?」
思わず目を見張って声を上げるユーリに、ダスクはくすくすと笑みを落としながら告げる。
実際初めてあの遁甲を見た時、ダスクは見事だと感嘆したほどだった。
特にあのダリウスの強い魔力で作られた事もあって、より堅牢なものに仕上がっている。
彼は六年かかったと嘆息を漏らしていたが、逆にあれほどのものをたった六年で作り上げたダリウスの技術には心底脱帽した。彼に操魔を教えた者として、誇らしい気持ちと共に畏敬の念を抱かずにはいられない。
(…そういえばダリウスは昔から瞬間的な操魔は苦手だったが、遁甲のように持続性を必要とする操魔は得意だったな)
細かなことをコツコツと根気強く継続できるダリウスらしい特性だと、ダスクは思う。
そう内心で友に賛辞を送って、ダスクは仕切り直すように手を叩いた。
「…さあ、では始めましょうか。まずは出来る限り薄い膜を作ってみてください」
「…はい!」
言って、ユーリはダスクと同じように宙に手をかざしてみる。さすがにダスクと同じように、とはいかなかったが、そこからしばらくして少しずつ薄い魔力の壁がふわりと姿を現して、ユーリは一息つくように、そして安堵するように大きく息を落とした。
その薄い魔力の壁を、ダスクは精査するようにしばらく注視する。
「……初めてにしては上出来です。紙切れ二枚分、と言ったところですね。まだ分厚いですが、初めてでこれだけ薄く出来れば優秀ですよ」
これでも分厚いのか、とユーリはたまらず苦笑と共に内心で嘆息を漏らす。
「ですが____」
にやりと笑って言葉を続けたダスクは、再び何もない宙を今度は指で軽く弾いて見せた。同時に針ほどに小さな圧縮された魔力の刃が飛び出して、ユーリが作った魔力の壁をまるで風船でも割るように、いとも容易く割って見せた。
「…!……こんなに簡単に……」
「薄さは及第点ですが、その厚さに斑があります。斑があると一気に強度は落ちます。ひとまず薄さはこれで構いませんので、斑なく厚さが均一になるように心掛けなさい」
容易く言うがそれが一番難しいのだ、とユーリはたまらず苦笑を落とす。
薄い魔力の壁を維持するだけでも、一仕事なのだ。
細部にまで神経を行き届かせて薄い魔力の壁を作るだけでも精神が擦り減るのに、それを維持するのがたまらなくきつい。その上、その薄さを均一にするなど途方もない労力___もとい精神力を必要とするだろう。
(……いつもながら、ダスク兄さまは簡単に仰るわ…)
自分が操魔の練達者であるという事を知らないのか、ダスクは必ず自分に近しい技術を要求してくる。もうそろそろ凡人には過ぎた要求であるという事を認識してもらいたいと内心でぼやきながら、げんなりするように肩を盛大に落としたところで、ユーリシアの声が二人の耳に届いた。
「ユーリ、ダスク!鍛錬中悪いがもう出発の時間だ」
その言葉に思わず目を輝かせたユーリだったが、すぐさま再び地獄に突き落とされる。
「おや、残念。もう少しユーリを休ませてあげたかったのですが」
「…………はい?」
そうして目を丸くするユーリに、にこりと微笑む。
「今から大いに神経を擦り減らせてもらいますよ、ユーリ」
**
ユーリシアは手綱を握りながら、午後からずっと眉根を寄せて不機嫌そうに自身の前に座っているユーリを訝し気に見つめていた。
「……一体何をしたんだ?ダスク」
呆れたようにため息を吐いて、馬車の中でこちらを見ているダスクに問いかける。
「何も。ユーリは別に機嫌が悪いわけではありませんよ。結界を張らせているのでそれに集中しているだけです」
「結界?どこに?」
「この馬車です」
「…!」
こうやって進軍している最中は常にこの馬車に結界を張るようにと、ダスクはユーリに課題を出した。常に意識して、決して絶やさず張り続けるようにと、ユーリに告げたのだ。
厳しすぎる要求だと自覚はあるが、いかんせん時間がないので、こうやって進軍の時間さえも有効に活用するしかない。そして、これができるようになればいずれ寝ていても結界が張れるようになる。
(…初めてでこれだけの結界が張れれば申し分ないが…)
あえて苦言を呈するならば結界は球状に作るのではなく守る対象の形に添ってピタリと癒着していた方が、相手に結界の存在を気づかれにくいので望ましい。____だが、始めたばかりのユーリにそれを言うのは酷だろうか。
(…それでも、甘やかすつもりはない)
にやりと笑って、ダスクはまた宙で指を弾く。
「…………あ…っ!!」
「…!?どうしたっ、ユーリ!?」
「~~~~~~っ!………またダスク兄さんに結界を壊されました……」
頭を抱えるように額に手を当てて、ユーリは盛大にため息を吐く。
結界を持続させるのも骨だが、また新しく結界を張り直すのもかなりの精神力を必要とした。できるだけ壊されないように、と慎重に作っているつもりだがわずかでも隙を作ると、ダスクは容赦なくそこを突く。おかげで結界を張り直すのはこれでもう五度目だった。
「言ったでしょう?ユーリ。少しでも気を緩めて斑を作れば、おれはそこを突きますよ」
(…容赦ないな)
苦笑と共に内心でそう呟いたのは、おそらくユーリシアだけではないだろう。
**
「思ったよりも進軍が速いな」
ユーリの操魔の鍛錬が再開して四日目。
この日は予定していた野営地を早朝に通り過ぎて、明日、野営地を取るはずだった場所で天幕設営に着手したところだった。
かなり余裕を持たせた日程が仇となったのだろう。毎日少しずつ野営を取る場所がずれて、予定よりも一日早い行程となっている事に、ユーリシアはわずかばかりの不安を胸に抱いていた。
「…申し訳ございません」
「いや、カルリナが悪いわけではない。皆、浮足立って知らず知らずのうちに足が速くなっているのだろう。…だが、工程を見直す必要があるな」
言いながら、ユーリシアは地図を広げる。
この速度で進軍を進めれば、予定よりも三日程度早くソールドールに着く計算になる。
不安の種はゼオンの体調だ。少しずつ良くなって昼間は熱が引くこともあったが、やはり夜になると高熱が出て寝込むことが常だった。体力も疲弊していて、口の減らないゼオンは今では必要最低限しか話さない。それがことさらユーリシアの不安を煽った。
「…もう少し遅らせたいが……ただ不特定要素が強いのはここだな」
言ってユーリシアが指差したのは、ソールドール近くの森だった。
「この辺りは死の樹海が近い事もあって、魔獣が出る可能性がある。もし遭遇した場合、騎士団員に負傷者が出る事は必至だ」
「…遭遇する魔獣によっては壊滅もあり得ます」
カルリナの言葉に、ユーリシアは重々しく頷く。
ソールドールへ行くには、この森は必ず通らなければならない道だった。
乗合馬車が通る安全な道は存在するが、その道は小さな乗合馬車がようやく通れるほどの道幅で、二百人以上の騎士団員と天幕などを積んだ大きな荷馬車には不向きだと言わざるを得ないだろう。
必然的に魔獣が出る可能性のある道を進むしかないのだが、できればここは一気に進んでしまいたかった。森の手前で野営を取って翌朝早朝に出発し、一気に駆け抜けて夕刻には森を抜ける。それが一番理想ではあったが、この速度で進めば森の手前に着くのは昼頃だ。半日そこで待機してからの出発となるが、やはり森に近い場所で半日もの間待機となると、それだけで魔獣と遭遇する可能性が高くなった。
森の周辺に滞在するのは出来る限り短くする必要があるのだ。森の手前に夕刻過ぎに着いて、翌朝早朝に出立する。その一択しかない。
「…ここで特に何も起きなければ、さらに行程が短くなるな亅
元々の行程では、ここで不測の事態が起きることを想定した上での十五日間だった。魔獣と遭遇したいわけではないが、さらに短くなるのはできれば避けたいとも思う。
「…進軍する時間を少し短めにいたしましょうか?早朝からではなく日が昇ってから出発して、夕刻前に野営地に到着する」
「…いや、あからさまに進軍を遅くすれば騎士団員から不満が出るだろう」
彼らの足が無意識に早くなっているのは、何も浮足立っているからだけではない。彼らは早くこの状況から解放されたいのだ。
カルリナの話から想像するに、彼らの中の皇太子は魔獣に等しい存在なのだろう。そんな皇太子を相手にしなければならない不安と恐怖から、彼らは一刻も早く解放されたいと願っているのだ。
それは毎日野営地に着いて必ず彼らと交流を重ねていたことで、つぶさに見て取れた。
そんな彼らに、この進軍を長引かせる事を受容する余裕はないだろう。
どうしたものかとカルリナと二人嘆息を漏らしたその時、天幕を開いてかけてくる声があった。
「では、彼らの憂さを晴らして差し上げてはいかがです?」
「…!……ダスク」
にこりと微笑んで、ダスクは二人の傍に歩み寄る。
「憂さを晴らすとはどうするつもりだ?」
「この近くにイーハリーブという比較的大きな街があります。明日一日、彼らに休養を与えてその街で気分転換をさせてはどうでしょう?」
「…なるほど、悪くはありません」
ダスクの提案に応えたのはカルリナだった。
思案するように口元に手を当て、カルリナは言葉を続ける。
「…こういった長い進軍では緊張や不安から、どうしても不満や心労が溜まりますからね。その憂さを晴らすために、進軍途中で気分転換させることは、ままある事です。…それに、ゼオン様の体調を憂慮するならば、例え一日でも馬車の中より天幕の中で休まれる方がいいでしょう」
カルリナの言葉に頷き返すダスクを見咎めて、ユーリシアもまた了承の意を示すように頷く。
「…判った。では明日は一日、彼らにゆっくりと休んでもらおう」
**
突然与えられた一日だけの休暇に、騎士団員たちは思いのほか喜びの声を上げた。
野営地を無人にするわけにはいかないので、団員を半分に分け午前と午後に分かれてもらった。街に行く事を強制しているわけではないので、野営地に留まりながら思い思いに過ごす者もいれば、街で酒や食べ物だけを買って、小さな宴会を開く者達もいた。翌朝に響かなければ、この程度の羽目の外し方なら大目に見てもいいだろう。
久しぶりに見た彼らの笑顔を何とはなしに視界に入れて、ユーリシアは天幕の中に足を踏み入れた。
「ゼオン殿、調子はどうだ?」
「……いちいち訊くな。それよりもお前も街に行ったらどうだ?」
熱は出ていないのだろう。視界に入れたゼオンは、体を起こしてクッションに背を預けている。
「いや、私はいい」
「…連れて行ってやれと言ってるんだ」
呆れたようにため息を落として顔でクイっと示した先は、ダスクの手伝いをしているのか水を張った桶を手にしているユーリだった。
「……え?ぼ、僕ですか…!?いえ、僕は別に…!」
「行ってきなさい、ユーリ。この四日間、ずっと結界を張り続けて心労が溜まったでしょう。…少し気晴らしする事も大事ですよ」
「あの街は別名『願いの街』とも呼ばれていますからね。散策するにはうってつけですよ」
「……え……でも……」
強く頭を振ったユーリは、ダスクやアルデリオにも背を押され困惑しながら、だが少し期待するように上目遣いにユーリシアを見上げる。その所作がいかにも行ってみたいと言っているようで、ユーリシアは小さく失笑しながら問いかけた。
「…行ってみたいか?ユーリ」
その問いに瞳を爛爛と輝かせるユーリの姿だけで、返答はもう十分だろうか。
ダスク達に見送られながら二人で訪れた願いの街イーハリーブは、想像以上に賑やかな街だった。
観光地として大いに栄えているのだろう。道の両端には露店が所狭しと並んでいる。
まるで競い合うように客寄せの言葉が行き交うその道を、ユーリはユーリシアの隣で心躍りながら目を輝かせて見つめていた。
「うわー…っ!!凄いです…!!こんなに賑やかだなんて…!!」
「そうだな。まるで祭りのようだ」
「…!…レオリアさんはお祭りに行った事があるんですか?」
「?もちろんあるが……ユーリはないのか?」
訝し気に眉根を寄せるユーリシアに、ユーリはバツが悪そうに視線を逸らす。
「……レオリアさんと出会う前は、体が弱くて満足に外に出る事も出来なかったので…」
その言葉に、まだ杖を突いていた弱々しい印象の頃のユーリの姿がユーリシアの頭をよぎる。
「……それは、その……やはり魔力が低い所為……か?」
「…仕方がありません。魔力が低いとどうしても瘴気の影響は避けられませんから。…でも今は、ダスク兄さんに操魔を教えてもらったのでずいぶんと体が強くなったんですよ!これからはもう、こうやって行きたいところにいつでも行けるようになったんです…!」
「…!」
本当に嬉しそうに、晴れやかな表情でユーリはそう告げる。
聖女のおかげで健康になった体を操魔のおかげと嘯くユーリにも気付かず、ユーリシアはわずかに罪悪感で疼く胸を自覚しながら彼を見つめた。
(……操魔……そうか、操魔なのか……)
ほんの数日前、ユーリの体が健康である事に疑いの目を向けたのは他ならぬ自分だった。
今のユーリが本来の姿ではないかもしれないと疑った上に、彼の健康な体にさえ疑心を抱いた。
低魔力者ではないのではないかと疑った彼は、だがその体の弱さゆえに外に出る事さえままならなかったのだ。その事実がミルリミナやユルングルと重なって見えて、そんな彼を疑った自分がいかに愚かだったのかを突き付けられるようで心苦しい。
ユーリシアはそんな自分を恥じ入るように、悄然と目線を落とした。
「……すまない、ユーリ」
「…?どうしてレオリアさんが謝るんです?」
一時でも彼を疑った罪悪感から思わず謝罪を口にしたユーリシアを、ユーリは小首を傾げて訝し気に顔を窺う。その様子にうっかり失言してしまったことを悟って、ユーリシアは慌てて頭を振った。
「…あ、いや…!その……それを知っていればもっと早く街に連れてきたのだが……すまない、気が回らなくて……!」
何とか取り繕ってそう告げるユーリシアに、ユーリはくすりと笑みを落とす。
今はもう夕刻を過ぎようという時間だ。冬の時期という事もあって、日が落ちるのは早い。あともうわずかもすれば、日が完全に落ちて辺りは暗闇に閉ざされる。
ユーリシアが言うように、この時間から街を散策するには時間が足りないだろう。それでも、ユーリシアと二人こうやって街を散策できることが、ユーリにはとても特別な時間だった。それをこんなふうに申し訳なさそうにされては、嬉しさも半減してしまう。
ユーリは困り果てたように肩を落とすユーリシアに声をかけようと口を開きかけたその瞬間、薄暗くなった街を照らすように一斉にいくつもの灯篭に火が灯って、淡く温かい琥珀色に染まった街並みがユーリの視界を奪った。
その幻想的な光景に目を見開きながら、ユーリは告げる。
「……いいえ…!むしろこの時間に連れてきてくれた事に感謝します…!レオリアさん…!!」
「…!」
恍惚とした瞳で満面の笑みを湛えるユーリの姿に、ユーリシアも同じく目を奪われ視線を外せなくなった。
ユーリは自分に疑いの目が向けられていたことを知らない。
それでもその満面の笑みが、疑われていた事すら些細な事だと笑い飛ばしてくれているようで、心に灯った温かさと同時に重荷が消えて心が軽くなった気がした。
ユーリシアは、そんなユーリに微笑みを返して告げる。
「…どういたしまして」
礼を言われる事は何一つしていないが、せっかくのユーリからの礼だ。彼から貰えるものは何でも有り難く頂戴しておこう。
欲張りな自分にも小さく笑いを落として、ユーリシアはユーリを促すように歩みを進ませる。
「…行こう、ユーリ」
「…はい!」
琥珀色の街並みを二人で見て回りながら、すっかり暗くなった空にもうあまり時間がない事を悟って、惜しむように、そして記憶に留めるようにもう一度街を見つめる。
「…綺麗な街だな」
「…そうですね」
二人呟くようにそう告げてから、ユーリははたと気づく。
「…でも、どうして願いの街と呼ばれてるんでしょうね?」
「…そうだな。特にその由来らしいものは何も……」
すべてを見て回ったわけではないが、今のところそれらしいものと巡り合ってはいない。
小首を傾げる二人に、くすくすと笑い声がかけられたのはそんな時だった。
「…言い伝えがあるんですよ」
穏やかなしゃがれた声に、二人は同時に振り返る。見れば腰の曲がった杖を突く老婆の姿があった。
「…言い伝え、ですか?」
「…昔この辺りには白鷺花という真っ白な花がありましてね。その花を手折って願いを込めると、願いが叶う時真っ白な花が赤く染まるという言い伝えがあるんですよ」
「…うわー…!素敵ですね…!その花は今もあるのですか?」
「…私が子供時分にはまだたくさん咲いていたんですけどねぇ。言い伝えを聞いた者たちが花を手折っていくので、今はもうこの辺りには咲いてないんですよ……」
「あ………」
自分が手折ったわけではないのに、興味本位で花の所在を聞いたことが何やら申し訳ない気分になって、ユーリは口を噤んで肩を落とす。
そんなユーリの姿に、老婆は気落ちさせてしまったと慌てて頭を振った。
「…ああ、ごめんなさいね…!そういうつもりで言ったわけじゃないんですよ…?」
「…いえ」
「ああ、そうだ。よかったらこれをどうぞ」
言って、老婆はポケットから取り出す仕草を見せて、二人に何やら差し出す。
老婆の手に乗せられていたのは、深紅に染められた二つの紐飾りのお守りだった。
「……可愛い…!…これは?」
「この街の工芸品です。この巾着に願い事を書いた紙を入れると、願い事が叶うんですよ」
「…この花は、先ほどの話に出てきた白鷺花ですね?」
「ええ、だから赤いの」
にこりと微笑んで、老婆は二人を促すように手をもう一度前に差し出す。
二人は一度顔を見合わせた後、どちらからともなく微笑んで一つ頷いた。
「…ありがとう、ご老女」
「…ありがとうございます…!」
謝意を伝えて、老婆の手から紐飾りのお守りを受け取る。そうして老婆に手を振りながら、二人は再び歩みを進めた。
「…いい物が貰えたな、ユーリ」
よほど嬉しかったのか、終始笑顔でお守りを見つめているユーリにそう声をかける。笑顔で頷くユーリを満足そうに視界に入れて、ユーリシアもまたお守りを見つめた。
「…ユーリはどんな願い事をするのだ?」
「…内緒です。願い事は誰かに話すと叶わなくなるんですよ?」
本気でそう信じていそうなユーリに小さく失笑して、ユーリシアもそれなら、と頷きを返す。
「…なら私も、秘密にしておこう」
願い事はもう決まっている。
できればユーリも同じ願いを持ってくれれば、とわずかに期待しながら、ユーリシアはもう一度お守りを視界に入れた。
『ユーリと』___
『ユーリシア殿下と』____
『ずっとこうやって、一緒にいられますように』




