休息ー紐飾の願いー・前編
「三日後の夕刻までには必ずお戻りください。その時刻に、我々の乗る馬車が盗賊に襲われます」
まだ夜も完全に明けきらぬ暁の頃、出立するアレインの見送りをしながらダリウスは告げる。
馬の準備も旅支度も何から何までダリウスが抜かりなく整えていたので、アレインがした事と言えば身支度を整えて朝食を摂っただけだ。おまけに昼食まで準備して鞄の中に入れてくれているのだから、有難い事この上ない。
皇族でありながら、こちらが恐縮するほど世話を焼いてくれるダリウスに謝意を述べて、アレインは馬上で恭しく頷いた。
「…必ず戻ります」
「…それと、陛下にはユルングル様が皇王救出のために動かれている事はお伝えしないでください」
「…!…なぜです?」
「…シーファス陛下には、疑心を抱いていただかないと困るからです」
「……?…意味がよく……?」
ダリウスの意を掴みかねて、アレインは怪訝そうに眉根を寄せる。
アレインが説明を求めている事は判ったが、それ以上話せないダリウスは困惑めいた笑みを落とした。
「…申し訳ございません。これ以上は差支えがございますので、お教えできないのです。…もし陛下に何か尋ねられたら、貴方はただソールドールに向かうユルングル様に同行を願い出ただけで目的は判らない、とだけお伝えください」
皇王救出をわざわざ隠す理由が見当たらないが、未来が見えるユルングルの事、何かしら狙いがあるのだろう。
アレインは小首を傾げながらも、承諾を示すように頷いて見せた。
「……承知いたしました。では、行ってまいります」
最後に深々と頭を垂れて走り去っていくアレインの後姿を見送った後、ダリウスは宿に入りユルングルを起こさぬよう静かに部屋に戻る。自身のベッドに座って、何とはなしに窓に目線を向けた。
外はまだ、空がようやく白んできた頃で薄暗い。
乗合馬車が出発するまではずいぶん時間があったが、かと言って寝直すには中途半端な時間だ。隠れ家にいれば、色々とやる事があるのでこの時間に起きる事は常だが、旅ともなると暇を持て余して仕方がなかった。
手持無沙汰になった現状にたまらずため息を落としたところで、弱々しい声がダリウスの耳に届く。
「………アレインは行ったのか……?」
「…!…申し訳ございません。起こしてしまいましたか?」
「……いや、自然と目が覚めた……暇そうだな…?」
くつくつと笑いを落とすユルングルに心中を悟られて、ダリウスはバツが悪そうに笑みを落とす。
「ここでは何もする事がございませんので」
「……たまにはゆっくりしろ……お前は働き過ぎだ……今も、昔も……」
「それが性分ですから。…アレイン様はつい先ほどご出立されました。ご指示通り、お伝えする事はすべて伝えております」
先ほどの質問にダリウスはそう返答したが、なぜかその返答に何も応えず、ただ茫然とダリウスの表情を窺うように見つめてくるユルングルの様子に眉根を寄せる。
「……?…ユルングル様…?どうなさいましたか…?」
「………そうだな…。……お前が働き過ぎなのは性分じゃない……俺が、いるからだろうな……」
「…!」
「……覚えているか……?…まだ幼い頃、お前に迷惑をかけるのが嫌で、ハクロウの元に逃げ込んだことがあっただろう……?……結局、俺はあの時お前を選んだが…時折ハクロウについて行けばよかったと思う時がある……」
「…!…なぜです?…私がお傍にいるのは、それほど苦痛でしたか……?」
悲しそうに眉根を寄せるダリウスに、ユルングルは困ったような笑みを落とす。
「……そうじゃない……。……俺が……俺がお前の人生を奪ったからだ…」
「…!」
「…俺がいなければ、お前は皇族として何不自由もなく暮らしていただろう……それが…お前の本来の人生だ……。…俺は、それをお前から奪った……。…あの時………あの時が、お前にそれを返す唯一の機会だったのにな………亅
「…っ!…そんなもの…!返していただかなくて結構です…!!」
「…!」
あからさまに怒気を表して険しい表情を取るダリウスに、ユルングルは目を見開く。
今までダリウスに叱られたことは何度かあったが、それはどれも怒りとは別の感情だった。だが今のダリウスには明らかに怒りが見て取れて、初めて向けられたその感情に、ユルングルはたまらず戸惑いの表情を見せた。
「…………怒って、いるのか………?」
「これが怒らないでいられるとお思いですか…!?私は望んで貴方のお傍にいるのです…!誰かにやれと命じられたわけでも、望まぬことを強いられたわけでもございません…!それを貴方の勝手な思い込みで、私の人生から貴方をお奪いにならないでください…!!」
その言葉に、ユルングルは再び目を見開く。
顔は確かに怒気を表していたが、言っている内容が怒りとはほど遠いような気がしてならない。
これではまるで、傍にいたいからいさせてくれと懇願しているようで、ユルングルは怪訝そうに眉根を寄せた。
「………本当に、怒っているのか………?」
「………怒っているつもりですが………」
「……………」
しばらく互いに目を見合わせた後、どちらからともなく吹き出して部屋に小さな笑いが響く。
普段怒らないダリウスは、やはり自分に対して怒るのは上手くないらしい。
「……お前は相変わらずだな……」
相変わらず、自分にはどこまでも甘いのだ。
そう、くつくつと笑いを落とすユルングルに、ダリウスは穏やかに微笑みかける。
「ええ、私はユルングル様のお傍にいるのが好きですから。ですからどうか、もう二度とそのような事は仰らないでください。…私の人生です。私の好きに生きさせてください」
こう言われては、もはや何も口出しは出来ないだろう。
自ら進んで辛い道を選ぶダリウスに諦めにも似たため息を一つ落とすと、ユルングルは観念したように告げる。
「……ああ、判ったよ……」
**
いつものように見慣れた顔触れが集まって、皆それぞれに乗合馬車に乗る光景はもう日常に馴染んだ光景だったが、ユルングルだけは違っていた。朝、目が覚めていたのは初日だけ、旅五日目にして二度目の光景となった。
「あら?今日は珍しく起きているのね、ユルン」
「……人を寝坊ばかりしている無精者みたいに言うな……」
心底呆れたように、いつもの減らず口を告げるユルングルに、皆くすくすと笑い声を落とす。こうやって憎まれ口を叩ける間は、彼の体調がいくらかマシである事を乗客たちはもう学んでいた。
「相変わらず口が減らないな、ユルン。生意気な事ばかり言ってないで、早く元気になって兄さん達を安心してやれ!」
「……わ…っ!……こら…!…頭を撫でるな……っ!」
闊達な笑い声を上げながら、わしゃわしゃとユルングルの頭を撫でるのは『師父』の愛称で呼ばれている壮年の男だ。
彼が馬車に乗って来たのは、二日目の中休憩で訪れた街からだった。
特に武術を教えているわけではないのに『師父』という愛称がついたのは、その外見が年の割に筋骨隆々だったからだろう。加えて、人好きのする優しげな笑顔が『師父』という言葉の温かな印象に合致したからかもしれない。
薄い黄白色の髪色は明らかに高魔力者のそれだったが、彼は魔力至上主義などどこ吹く風で、魔力の保有量に関係なく誰彼構わず気さくに話しかける好漢だった。
「俺の元気をお前にも分け与えられたらいいのになあ」
「……取れるもんなら、俺が全部取ってやる……」
「言ったな、ユルン!」
「……わ…っ!…こら…!やめろって……!」
「…師父、できればもう少し手加減していただけると……」
憎まれ口を叩くユルングルに、にやりと笑って再び頭をわしゃわしゃと撫で回す師父に、たまらずダリウスが口を挟む。悪い人ではないが、どうやら加減を知らないらしい。
「ああ!すまん、すまん!楽しくてついな!」
慌てて手を離しながらも豪快な笑い声を落とす師父に、ダリウスは苦笑を漏らす。
彼はとにかく何をするにも豪快だった。
体の弱いユルングルを特に気にかけて、こうやってよく話しかけてはくれるが、加減を知らない彼はその有り余る力でユルングルに接するので、傍で見ているダリウスは内心気が気ではない。
だがそれでも、とダリウスは人好きのする笑顔を見せる師父を見返す。
彼は有り難い事に、ユルングルの事をいたく気に入ってくれているようだった。
彼だけではない。今この乗合馬車に乗っている乗客たちは皆揃って、低魔力者であるユルングルに友好的だ。それがダリウスには有り難く、この旅の数少ない安らぎだろう。
ダリウスは内心で謝意を述べて、皇都から幾人か変わった乗客たちの顔触れを見回した。
乗合馬車は同じ方角に点在する街を回って客を乗降させるので、当然顔触れは少しずつ変わってくる。
ユルングルたちは皇都から遠いソールドールに向かっているため、ずっと乗り続けてはいるが、人によっては一日で降車する者もいた。眠っている事の多いユルングルにとっては、顔触れが代わる代わる移ろっているように見えるだろう。
それを思うと、ユルングルに友好的な者ばかりが乗車してくれるのは心底、有り難い。
どれだけユルングルに友好的でも、目的地に着けば別れを告げ代わりに魔力至上主義者が乗ってくる可能性はないわけではないのだ。
その時の事を思って不安げな表情を取るダリウスの耳に、不機嫌なユルングルの声が届く。
「……あいつは、いつになったら俺が子供じゃないと気づくんだ……」
いつでも必ずユルングルを子供扱いする師父に不満を漏らしている弟を視界に入れながら、だが結局彼も師父の事が気に入っているのだろう、とダリウスは内心で失笑した。
「…少し街を見物なさいますか?ユルングル様」
そうダリウスが尋ねたのは、中休憩として訪れた街に着いた時だった。
他の乗客はすでに馬車を降りて、体をほぐしたり用を足したりと思い思いに短い休憩を楽しんでいる。
馬車に残っているのはダリウス達四人だけ。眠っている事の多いユルングルを連れて歩くわけにもいかず、いつも馬車に残って出発までに時間を潰していたが、今日は珍しくユルングルが目を覚ましているのでそう尋ねてみたのだった。
「……いや……いい……。…それよりもたまには俺を下ろして、少し休んだらどうだ……?…ダリウス……」
そう告げるユルングルの顔には珍しく赤みが差している。
つい先ほど昼食のスープを綺麗に平らげたところだった。温かいスープと、食事を摂った事による体温上昇で、冷えた体が温まったのだろう。
心中でアレインに謝意を述べながら、その事実に安堵の笑みを浮かべてダリウスは口を開いた。
「ありがとうございます。ですがご心配には及びません。何度も申し上げますが、貴方は軽いくらいなのです。どうぞお気になさらないでください」
「……お前はいつも同じ答えが返ってくるな……」
「…ユルングル様がいつも同じことをお訊きになるからですよ……」
呆れたように返って来た言葉に、ダリウスも負けじと苦笑を漏らしながら応酬する。
「今日は暖かいですからね。少し散策なさったらよろしいでしょうに」
「気持ちがいいですよ、ユルングル様」
もうすでに馬車から下りて、長く座ったままの体をほぐすように背伸びするラン=ディアとラヴィに、ユルングルは視線を移す。ダリウスが開け放たれた馬車の荷台の端に座る場所を変えてくれたおかげで、ユルングルも暖かな陽気に包まれて気持ちがいい。
今まで寒さに震える事が多かった旅の道中は、皇都を離れれば離れるほど暖かさを増していくようだった。
「……ああ……確かに気持ちがいいな……」
そう返答したが、上手く言えたかどうかは判らない。
体を包む暖かさが呼び込んだ眠気で、もう意識を保つことが難しくなった。思考も口を開くこともすべてが鈍麻になって、暖かな陽気に誘われるように瞼を閉じては開いてを繰り返している。
「ユルングル様。お眠りになりたければ眠っていただいてよろしいのですよ?」
「……ん……うん……」
「…ユルン…!!」
返事をしたのかしていないのか判らぬほど小さく声を漏らした直後、突然呼びかけられたその声にユルングルは再び瞼を開いた。急いでいるのか、何やら駆け寄ってくるその声の主に、ユルングルはゆっくりと視線を向ける。
「ユルン…!!あ、あの…!私…____!?…やだ!!もしかしてユルン寝てたの…!?起こしちゃった…?」
場に流れる微妙な空気と苦笑を漏らしているダリウス達に気が付いて、声の主___アーリアはたまらずあわてふためく。何やら重大な失態を演じてしまったかのように盛大に困惑するアーリアに、ユルングルは恍惚とした顔に笑みを浮かべた。
「……いや、大丈夫だ……。……どうした…?アーリア……」
「あ、あの…!ごめんね、ユルン…!これを渡したらすぐに行くから…!」
言ってアーリアは、ユルングルの手に何やら握らせる。
ユルングルは怪訝そうにその手に置かれたそれを、ゆっくりと視線の先に入れてみた。
「……これは……紐細工……か…?」
視界に入ったのは、真っ赤に染め上げた紐で編みこむように作られた花と、その先に付けられた巾着に鈴が付けられた、紐細工の飾りだった。
「あ、あのね…!これ、願いが叶うって有名なお守りなの…!その巾着に願い事を書いた紙を入れるんだって…!」
「……へー…可愛いな……」
「…!そ、そうよね…!…やっぱり男の人が身に付けるにはちょっと可愛らしすぎかしら……!!ご、ごめんね…!ユルン!!いらなかったら____」
「……いや、嫌いじゃない……」
「………え?」
場違いな物を渡してしまったかと焦るアーリアに、ユルングルは変わらず笑顔を見せたままぽつりと呟く。
嫌いじゃない、は素直ではないユルングルの最上級の誉め言葉だ。
それを知っているダリウスは、思ってもみないユルングルの反応に呆然としているアーリアに、言葉を添えた。
「ユルンはこういった工芸品が好きなのですよ、アーリア」
「……え…!そ、そうなの…?」
「……ああ、物を作るのが好きなんだ……」
「……そ、そうなんだ……!」
「……ありがとう、アーリア……大事にする……」
「…っ!!う、うん…!!」
咲き誇らんばかりの笑顔を見せるアーリアに、ユルングルもくつくつと笑みを落とす。
貰ったのはこちらなのに、なぜか贈った側のアーリアの方が幸せそうにしている事実が、とにかく不思議でたまらなくおかしい。ユルングルは素直に嬉しさを表現するアーリアに微笑みかけた後、手に持つ紐飾りのお守りを再び視界に入れた。
「………願い事を考えないとな………」
「…?…考えないと願い事が出てこないの?」
「……その言い方だと、アーリアは願い事が山のようにあるらしいな………」
「…!ち、違うのよ…!!私そんな欲張りじゃない…!!そ、そりゃあ確かに欲しいものとかしたい事とかいっぱいあるけど…!!!」
思わぬ切り返しに、アーリアは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに言い訳をする。それがまたことさら面白くて、ユルングルはたまらず吹き出した。
「……欲があることは、別に悪いことじゃないだろう……?」
「…じゃ、じゃあ…ユルンにも願い事はあるの……?」
赤面を隠すように頬を抑えながらアーリアはそう問いかける。
その質問に、ユルングルは小さな笑みを浮かべながら、だがどこかしら寂寥感を思わせる複雑な表情を見せた。
「………願いが叶ったことは、一度もないからな……」
幼い頃、色々なことを祈るように願ったことを思い出す。
この病弱な体が治りますように。
誰にも迷惑をかけなくてすみますように。
両親がいつか会いに来てくれますように。
そして、ダリウス兄さんとずっと一緒にいられますように____。
どれも、そう難しい願いではないはずだ。人によっては生まれた時にすべて持っている者だっているだろう。
だが結局、どの願いも叶わなかった。
唯一最後の願いだけ今のところ叶ってはいるが、いずれ必ず処刑される未来が訪れるのだから、結局これも最終的には叶わずに終わるのだろう。
自分の願いはもう、何ひとつ叶わないのだ。
だから_____。
「……だから……俺は願う事はやめたんだ……祈る事も……意味はないと知ったから……」
呟くように落とされたその言葉が嫌に寂しそうで、アーリアは憐憫の情を含んだ視線をユルングルに向ける。
その顔には確かに微笑みが浮かべられているはずなのに、どこか生きる事を諦めているようなユルングルの様子に胸が疼いて仕方がなかった。
アーリアはそんな様子のユルングルに、たまらず声を荒げる。
「……っ!!!だめよ、ユルン…!!希望は捨てちゃダメ…!!信じていれば、いつか必ず願いは叶うんだから…!!だから…っ、絶望なんてしないで……っ!!!」
「…!…………俺は別に、絶望してるとまでは言ってないぞ………?」
「…!!!?やだ…っっ!!!!私また間違えた…っ!!?」
再び大いに顔を赤らめて背を向けるアーリアの慌てた姿に、ユルングルはたまらず吹き出した後、盛大に笑い声を上げる。その珍しい光景にダリウスのみならずラン=ディア達も目を瞬いていたが、そんな事など意に介さないように文字通り抱腹絶倒した後、ユルングルは目尻に溜まった小さな涙を軽く拭った。
「………これだけ笑ったのは久しぶりだな………」
言いながら視界に入れたアーリアは、もう恥ずかしさのあまり穴に入りたいと言わんばかりに赤面を俯かせている。
「……ああ、悪い悪い……。…笑い過ぎたな……」
今度はくつくつと失笑を落とす。
「……ありがとう、アーリア……。……願い事を決めたら、巾着に入れてみる……」
「…!!絶対よ…!!約束したからね…!!」
「………ああ、約束だ……」
嬉々とした顔で手を振りながら再び街の方に去って行くアーリアをユルングルと共に見送りながら、ダリウスは再び微睡みが訪れたように恍惚とした瞳に変わった主を視界に入れた。
(…あのように、思わせてしまっていたのか……)
ダリウスの頭から、先ほどの寂し気な笑顔を浮かべるユルングルの表情が忘れられない。
願い事が叶わないと諦観を抱かせてしまったのは、他ならぬ彼を育てた自分の落ち度だ。たとえどんな願いでも、いつか必ず叶うと希望を持たせる事が、育てる者の役目なのだろう。
それが出来なかった自分が、情けなく申し訳ない。
ダリウスは小さく逡巡した後、眉根を寄せた顔に重々しく口を開く。
「…ユル____」
「…ダリウス……このお守り……落とさないように持っていてくれ……大事な物だ………」
だが意を決したダリウスの声は、ユルングルのひと際億劫そうな声音に虚しくかき消された。
恍惚とした瞳をゆっくりとダリウスに向けて、ユルングルはにやりと笑う。
謝らなくていい。
そう言われているようで嬉しくもあり、だが決して謝罪を受け取ってはくれないユルングルに罪悪感ばかりが溜まっていくようで、ダリウスは複雑そうな笑みを落とした。
**
「……ずいぶんと量を増やしたな……」
その日の夕方、宿について夕食を綺麗に平らげた後、ユルングルは満足そうな顔をしているダリウスに小さくぼやく。
今日も今日とて変わらず粥とスープだけだったが、その量が昨日よりもずいぶんと割増しになった。途中、残そうかと思ったが、ダリウスがいかにも残してはいけないと言いたげに凝視してくるので、結局言い出せず終わりの方は半ば無理やり胃に流し込んだような感じだ。おかげでかなり久しぶりに感じた満腹感で、睡魔が大いに暴れている。
「お休みになりますか?」
「………いや……紙とペンを用意してくれ……それと、紐飾りのお守りも……」
「…!」
もう睡魔に負けそうな様子でうつらうつらとするユルングルは、だが頭を振ってそう要求する。
思いがけない言葉に目を瞬きながらも、ダリウスは言われるがまま所望された物を用意して、ユルングルの体をゆっくりと起こした。
「願い事がお決まりになられたのですか?」
「……ああ………見るなよ……願い事は誰かに知られたら、叶わないらしいからな……」
ユルングルの口から非現実的な言葉が出てきて、ダリウスは思わず失笑する。
「…承知いたしました」
ことさら嬉しそうに言って視線を外すダリウスを、ユルングルは彼に知られないようにゆっくりと視界に入れる。
ずっと苦労ばかり掛け続けてしまっている兄____。
この二十四年間、彼に迷惑をかけない時など一瞬たりともなかった。
本当の兄なら、まだこの罪悪感は和らいだのだろう。
だが、彼は本当の兄ではない。
背負う必要のない重荷を、ダリウスに背負わせているのだ。
彼は何かにつけてすぐ謝罪をしようとするが、謝るべきは迷惑ばかりかけている自分だ。
だけどきっと、ダリウスはその謝罪を受け取らないのだろう。
(……ならせめて、願うならダリウスの事がいい……)
ユルングルはゆっくりとペンを手に取って、インクを付ける。
『ダリウスがいつか、自分の人生を生きられますように』
どんな形でもいい。
いつかダリウスが本当の意味で自分の人生を生きられたら、きっと自分が死んだ後でも生き続けようと思ってくれるだろう。
(……後を追ってくれるな……生きてくれ、ダリウス…)
いつか必ず、自分は彼よりも先に死を迎えてしまう。
自分が死んだ後の未来は、どうあっても決して見る事は出来なかった。
その後ダリウスが、何を選択しどう行動するのか、ユルングルには判らない。
これはもう、願うしか術はないのだ。
ユルングルはペンを置いて紙を小さく折りたたむと、巾着に入れたそれを握りしめて、祈るように額に当てた。




