死が二人を別つまで
貴方は太陽王と聖女、そして英雄王をご存知だろうか。
太陽王と聖女を知らない者はいないだろう。人類の父母として、一度は耳にした名だ。
だが、英雄王を知る者は少ない。
これは、後に新たな人類の祖となる銀の皇太子と漆黒の聖女、そして反乱軍の首領として処刑された一人の男の物語。
銀の皇太子が、いかに太陽王と呼ばれるようになったのか。
漆黒の聖女が、本当に『聖女』と呼ばれる存在だったのか。
そして、反乱軍の首領は本当に、処刑するに値する人物だったのか。
決して語られる事のなかった歴史の真実を、今語ろう。
これは、後に新たな人類の祖となる太陽王と聖女、そして彼らを影で支えた英雄王の物語____。
歴史学者 オーウェン=ハサウェイ
**
少女はその時、死を覚悟した。
神々しい豪奢な教会で大勢の歓声が上がる中、少女の体を貫いたのは二連に連なった弓矢だった。
少女を狙った矢ではない。
少女の隣で、白いウェディングドレスが真っ赤に染まり頽れていく様を、ただ茫然自失と眺めていた少女の伴侶、次期皇王としてフェリシアーナ皇国を背負う皇太子に対する謀反であった。
それはあまりに巧妙だったと言わざるを得ない。神業と言ってもいいだろう。観衆の隙間から皇太子までの動線が開くわずかなその一瞬を、暗殺者は見逃さなかった。
きっと仕留めたと思ったに違いない。現に誰一人として気づく者はいなかった。暗殺者の周りの観衆のみならず、精鋭と謳われた近衛騎士でさえも____。
なのになぜか貫いたのは皇太子ではなく、皇太子妃となる少女の体だった。
何が起こったのか、暗殺者にも判らなかった。ただ失敗した事だけは苦々しく理解した。
なぜあの少女には判ったのだろうか。矢を放つ瞬間、少女と目が合ったような気がする。まるで吸い寄せられるように、少女は皇太子と矢の間に立ちはだかり自らの体を盾にしたのだ。
地に伏した少女の体から流れ出るおびただしい血が、神聖な教会を汚していく。
我に返った皇太子は急速に失われていく血液を何とか体に留めようと傷口を必死に抑えたが、それらは虚しく徒労に終わった。
次第に血の気を失い、頬紅が塗られた頬はそれでも一目で死に近づいている事が判るほど青白い。皇太子が何かを必死に叫んでいたが、少女の耳にはもう何も入ってはこなかった。
少女は薄れていく意識の中で、そして皇太子もまた同じく、ただ一つのことを考えていた。
なぜ、私は殿下を助けたのだろうか。
なぜ、私は彼女に助けられたのだろうか。
互いに脳裏に浮かんだのは、その一つの疑問だった。
**
フェリシアーナ皇国______。
北西に位置し、比較的穏やかな気候だが一年の三分の一は厳しい冬に閉ざされるこの国は、魔力至上主義国家で有名な国だった。
命の根源と言われる魔力。
その言葉通り生きる事ですら魔力を必要とし、それは世界も人も等しく、なければただ死を迎えるのみだった。
魔力が高ければ病に冒されても治癒が早く、身体は基本健康で、そもそも病にかかる事すらほぼない。身体能力も高く、魔力が高ければ三メートルもある壁ですら難なく飛び越せた。
いわゆる『魔法』と呼ばれる現象を発現できるのは、よほどの高魔力者のみで非常に稀だが、それを差し引いてもただ体が強く身体能力が高いというだけで、彼らはとにかく重宝された。
生まれながらに得た魔力の量は生涯通して変動する事はなく、生まれた時点で人生の優劣が決定したのだ。
高官のみならず市井でも高魔力者は優遇され、低魔力者は当然のように奴隷のごとく扱われた。魔力の差がそのまま収入の差となり、低魔力者のほとんどは貧しい暮らしを強いられた。
低魔力者にとって、この国は地獄そのものだった。
そんな国で二人が出会ったのは、少女がまだ十二の頃だった。
少女の名は、ミルリミナ=ウォーレン。
美しい漆黒の長い髪を携えた、皇室に次ぐウォーレン公爵家の一人娘で、この世界では稀有な存在である事を皇太子ユーリシアは出会う前から知っていた。
「…失礼する」
ユーリシアはミルリミナが待つ一室の扉の前で歩みを止めて大きく深呼吸をした後、はっきりとよく通る声でそう告げる。
フェリシアーナ皇国次期皇王、皇太子ユーリシア=フェリシアーナ。
ミルリミナとは対照的な銀に輝く髪を持ち、齢十五でありながら凛々しく端正な顔立ちをしている。
銀色の髪は、その魔力の高さを表していた。
髪の色は必ず体内に宿す魔力の量で決まると言われている。
低魔力になればなるほど髪の色は濃く暗い。そして逆に、薄く明るい色であればあるほど有している魔力の量は多いとされていた。
銀髪の皇太子ユーリシアはその髪色が示すように、他に類を見ないほどの高魔力者だった。
子供でありながら大人をも超える身体能力を持ち、『魔法』の発現も難なくこなした。
齢十五で、どれほど精鋭な騎士でも勝てる者はいないと言われた皇太子はそれでも驕る事はなく、品行方正、清廉潔白を絵に描いたような人物である事は、国だけではなく世界でも共通の認識だ。
強すぎる正義感で厄介ごとを起こす事も少なくはなかったが、それでもその実直で素直な人柄は、高官のみならず市井からも大いに好かれた皇太子だった。
ユーリシアの声掛けに部屋の中から、どうぞ、とか細い返事が聞こえて、ユーリシアは少し躊躇いながらドアノブに手をかける。
この日は、顔合わせの日だ。
婚約が成立し、初めて顔を合わせる特別な日。
平静を装ってはいたが、ユーリシアは内心少なからず緊張していた。それは相手の前情報があったからか、それとも純粋に自分の伴侶に対する興味からなのか、あるいはその両方かも知れなかった。
ユーリシアはその緊張を解すように再び軽く息を吐くと、ゆっくりと扉を開いた。
視界に真っ先に入ったのは、どの色よりも存在感を濃く強く主張する、艶やかな漆黒の髪。その妖艶な漆黒の髪を有する少女が一人で椅子に腰かけ、紅茶を飲もうと口元に運んでいる最中のようだった。
この少女がミルリミナ=ウォーレン______。
ユーリシアは一瞬どきりとした。
自分より三つも年下と聞かされていたが、ひどく大人びているような気がした。透き通るような白い肌を漆黒の髪がさらに引き立てている。薄桃色の唇に妖艶さを感じたが、反面大きくくりくりとした瞳は愛らしく、年相応に思えた。
この少女を知らない者は、この世界にはいない。
それはあまりに稀有な存在であったからだ。
彼女には、命の根源とも言える魔力が存在しない。低魔力者と言われる者はたくさんいたが、無魔力者はミルリミナただ一人だった。
時折魔力を持たずに生まれてくる赤子はいたが、彼らは皆、一日と持たず死を迎えるか、生まれる事なく胎児のまま命を落とすかのどちらかだった。
歴史上、その奇跡を体現したのはミルリミナだけなのだ。
なにゆえ無魔力者であるにもかかわらず生きていられるのか、それを説明できる者はいなかった。ある者は奇跡と謳い、ある者はこの世界の理から外れた存在であると畏怖したが、今自分の目の前にいる少女が人外である事は間違いなくないだろう。
「待たせてしまっただろうか」
照れ隠しに軽く咳払いをし、ミルリミナの待つ卓に歩みを進める。
「いいえ、おいしい紅茶をいただいていたところです。…御尊顔を拝し恐悦至極に存じます。ミルリミナ=ウォーレンにございます。フェリシアーナの若き太陽に光があらんことを」
紅茶を置いて立ち上がり、形式的な挨拶をしてドレスの裾を持ち上げ深く頭を垂れる。無魔力者特有の漆黒の髪が、肩からさらりと落ちた。
ユーリシアは一呼吸おいて軽く頷き、顔を上げて座るよう促す。
「僕も貴女に会えて嬉しく思う。…今この場は僕と貴女二人だけだ。どうか楽にしてほしい。堅苦しい言葉もいらない。僕たちはいずれ夫婦になる。いつもそれでは疲れるだろう。今から慣れておくといい」
この国での婚約者との顔合わせは基本、当人同士のみで行う。どれだけ位が高くとも、この場に侍女や護衛が立ち入る事はしてはならないとされていた。それは相手を信用しているという表れであり、またこれから一生を添い遂げる相手として心を開いて話し合おうという心組みでもあった。
「お心遣い感謝いたします、ユーリシア殿下」
「いや。それより体は大丈夫だろうか。五日前に倒れたと聞いたが…」
「大事ありません。身体が弱い事にはもう慣れております」
微笑んで、こともなげにそう言い放つ気丈なミルリミナに、ユーリシアは胸が痛んだ。
彼女の体が『慣れる』という軽い言葉で片づけられないほど弱い事を知っている。
無魔力者ゆえに、その体はひどく脆い。それは命の根源とも言える魔力がない為の弊害なのだろう。
何度も生死をさ迷うような大病を患い、つい五日前も高熱で倒れて三日間昏睡状態に陥った。ようやく目を覚ましたのがつい昨日の事だとユーリシアが聞いたのは、今日の朝になってからだ。
当然、顔合わせは延期しようと申し出たが、熱で倒れるのはいつもの事で延期したとしても同じ事になるだろうと、心遣いに対する謝意と共に断りの文を従者が届けに来た。せめてウォーレン公爵家に出向いて失礼でなければ寝室で顔合わせを、と提案したが、殿下にお見苦しいところはお見せできませんと、気丈にもこうやって皇宮に出向いてくれたのだ。
「体が辛いようならいつでも言ってくれて構わない。決して無理はしないでくれ」
ユーリシアはできるだけミルリミナの体を慮る。自分ができる事はこれくらいしかないが、だが目を丸くしたようにこちらを見返すミルリミナをユーリシアも見返して、怪訝そうに小首を傾げた。
「…僕は、失礼な事を言ってしまっただろうか?」
失言してしまったのではないかと不安になって、ユーリシアは思わず手で口元を隠す。だがそんなユーリシアに、ミルリミナは慌てて首を振って否定の意を示した。
「いえっ!そうではありません!…失礼をいたしました」
「構わない、遠慮なく言ってくれ。…何がそんなに気になったのだ?」
その問いに、ミルリミナはやや逡巡したのち遠慮がちに口を開いた。
「……魔力を持たない私に、そのようなお言葉をかけて下さる方は少ないですので…」
その言葉に、今度はユーリシアが目を丸くした。
(…ああ、そうだ。彼女が無魔力者である事を失念していた……)
悄然としたように、ユーリシアは目線を落とす。
この国は、低魔力者にあまりにも冷たい。魔力至上主義者で溢れかえっているこの国では、奇跡と言われた無魔力者でも違いはないのだろう。誰もが当然のように受ける優しい言葉も、彼女にとってはないに等しいのだ。
ミルリミナは今までどれほど辛い目に遭ったのだろうか。常に病と闘い、そのほとんどは屋敷の中で過ごすと聞く。稀に外出してみれば無魔力者だと侮蔑され、いわれのない扱いを受ける。
それはユーリシアの日常とはあまりにかけ離れすぎて想像する事すら難しく、そんなミルリミナを思うといたたまれない気持ちになった。
どんな言葉をかけていいものか判らず、困惑したように俯くユーリシアを視界に入れて、ミルリミナも同じく困ったように笑みを落とした。
「…申し訳ございません。詮ないことを申しました。お忘れください」
自身の置かれた辛い境遇など些末な事だと言うように微笑んで、ユーリシアを気遣うその心根が嬉しい。
ユーリシアは目前にいる心優しい無魔力者を微笑ましく視界に留めながら、魔力を持たない彼女がなぜ、魔力至上主義国家であるフェリシアーナ皇国の次期皇妃に選ばれたのかを思い返していた。
今までの皇室の慣例では、家柄はもちろん高魔力者である事が大前提だった。
魔力の量は遺伝ではないと言われてはいるが、低魔力の遺伝子を皇室に入れる事を嫌う者は多い。ゆえに家柄よりも魔力の量が何よりも重要視される。
だが、父である現皇王はその慣例をひどく毛嫌いした。
元々は例にもれず魔力至上主義者だったようだが、ある日を境に低魔力者に対する態度を改めた。皇妃との婚姻の儀から一年ほどたった頃だったという。心優しい皇妃が皇王に進言したと噂されたが真実は定かではない。
どういう心境の変化があったのかは推測する他ないが、現皇王はフェリシアーナ皇国の魔力至上主義を壊す事を宣言したのだ。
この国の低魔力者への冷遇は世界的に見てもかなり珍しい。
魔力の有無で変わるのはあくまで身体的能力のみ。手先の器用さや芸術的感性などはむしろ低魔力者に多かった。他国には芸術方面や技術者などで名を馳せている低魔力者も多く、身体的能力は劣っても頭の良さで官吏を務めている低魔力者も稀ではない。
この国の異常なまでの魔力至上主義は、他国に比べて低魔力者の排出が少ないせいである事を現皇王は理解していた。高魔力者や中魔力者が大半を占める中、少数派である彼らは侮蔑の対象となっていったのだ。
それゆえに、現皇王は次期皇妃として魔力を持たないミルリミナを指名した。
無魔力者が皇室に入る事で、皇族は魔力至上主義ではない事を知らしめようとしたのだ。
だが、とユーリシアは思う。
父の決断は英断だと思うし、この婚姻自体に異論はない。もとよりユーリシアは魔力で人の優劣が決まる事はないと知っている。
だが、まるで政治の道具として体の弱いミルリミナを利用しているような気がして、なおさら申し訳ない気持ちで胸が締め付けられる思いがした。
押し黙ったまま変わらず悄然と俯くユーリシアを見つめて、ミルリミナはさらに困惑したように遠慮がちに声をかける。
「……ユーリシア殿下?」
その控えめな呼びかけに、己の内実を彷徨っていたユーリシアはようやく我に返って、ミルリミナを視界に入れる。どうやらずっと口を噤んでしまった事に思い至って、ユーリシアは慌てて居住まいを正した。
「…ああ、すまない。何でもないのだ。気にしないでくれ」
言ったが、それでも困惑したように、気遣うようにユーリシアを見返してくるミルリミナを好ましいと思った。
彼女となら、伴侶になれる。
そう思って気が緩んだのか、つい余計な事が口をついて出てしまった。
「…貴女は、噂とは違うようだ」
「…噂?」
瞬間、彼女の表情がわずかに曇った事を自覚して、思わず口元を手で覆った。
(…やってしまった)
決して話題には出さないようにしようと思っていた。だが気を付けようと思えば思うほど、念頭から離れず何かの折にふと口をついて出てしまう。
自分の悪い癖だ。
後悔したが、言葉にしてしまった後ではもう遅い。ユーリシアはミルリミナには判らないほど小さく嘆息を漏らして肩を落とした。
ミルリミナは未だ社交界には出ていない。
体が弱く外出する事すら稀だが、稀有な存在である為かその噂は意外と多かった。
『無魔力者を体現した奇跡の人』は当然のことながら、社交界で流れる噂はそのほとんどがあまりよくないものばかりだったと記憶している。『傲慢な態度』『公爵の立場を笠に我儘ばかり』あまつさえ『他の令嬢を突き倒し、ワインを頭からか吹っ掛けた』というものさえある。
そのどれもが、無魔力者の彼女を揶揄し貶すための流言である事を、ユーリシアは実際にミルリミナに出会って理解した。
どう見ても目前にいる、優しく慎ましやかな彼女がそんな事をするはずなどない。
だからこそ、決して話題にはしないようにと思っていたのに____。
「…申し訳ない。気にしないでくれ」
取り繕うように小さく咳払いをして、ユーリシアは言葉を続ける。
「…嘘偽りの噂だ。ひどい事をする」
「……私が、我儘で傲慢だと?」
「!」
目を瞬いて、思わずミルリミナを視界に入れた。
「令嬢を突き飛ばしワインを頭から吹っ掛けた…でございますか?」
「…知っていたのか?」
「本当の事でございます」
思いがけない言葉に、ユーリシアは思わず絶句した。すぐさま我に返り、勢いに任せて立ち上がる。
「まさか…っ、そんなはずはない!貴女がそのような事をするようには…」
「私の何をご存じなのです?殿下は無魔力者や低魔力者がどのような扱いを受けているかご存じなのですか?」
そう問いかける口調は厳しく、見据える瞳は強い。目前にいるミルリミナは、もうつい先ほどまでの穏やかな彼女ではなかった。
そんな彼女に触発されて、ユーリシアもまた声を荒げた。
「それは聞き及んでいる!」
「聞き及んでいるだけで、知っている、とは違います」
「!」
痛い所を突かれて、ユーリシアは押し黙る。
「私達は人ではないそうですよ。どこに行っても侮蔑の目で見られ、石を投げられる」
「…だからやり返したというのか?」
「幸い私には地位がございました。それを利用して何が悪いのです?」
先ほどまでの彼女が到底口にはしないような言葉を、当然と告げる。あまりの変貌ぶりにユーリシアは困惑を通り越して、茫然自失となった。
「貴女は…っ!恥ずかしいと思わないのか!」
「では石を投げられても笑顔でいろと?」
「…!」
「魔力がない者は何をされてもただ耐えろとおっしゃるのですか?」
「それは…っ」
返答に困って、ユーリシアは言い淀む。
「殿下がとても正義感のお強いお方だという事は存じ上げております。ですが正義を向ける相手をお間違えではございませんか?」
「…っだが!やり返すのは間違っている。さらに扱いが悪くなるだけだ。それでまたやり返すのか?それでは同じ事の繰り返しではないか!」
「…では誰が我々を守ってくれるのです?変わらなければならないのは我々ではなく、魔力があるというだけで傲慢な態度を続ける彼らです。彼らが変わらない限り、我々は自らを守る他ございません。それを恥ずべき行為だとなぜ言えるのです?それが傲慢だとおっしゃるのでしたら甘んじてお受けいたしましょう」
冷静に、だが毅然と言い放つミルリミナは驚くほど堂々としているように見えた。
華奢な体に弱々しさを感じたはずなのに、今のミルリミナの瞳には、その強さで並ぶ者はいないと評されたユーリシアでさえ圧倒するほどの強い光が宿っている。
ミルリミナの言う事は正論だ。きっと間違ってはいないのだろう。
だがどうしても賛同できない。暴力が暴力を呼ぶ事を知っている。仮にも一国の皇太子がそれを認めてしまっては、きっとこの国から暴力は決してなくならないだろう。何よりユーリシアの正義感がそれを許さなかった。
「…どうやら、いくら話し合っても平行線のようだ」
「…そのようでございますね」
「失礼する」
ミルリミナに目もくれず、身を翻し扉に歩みを進める。
「…残念だ。貴女とは一生を共にしていけると思ったのに」
一瞥もくれず、静かにそう言い放ちユーリシアは部屋を辞去した。
それは決別の意を含んでいる、とミルリミナは理解した。ならばきっと婚約破棄が言い渡されるだろう。
(それでいい…)
もとより断るつもりだった。体の弱い自分に務まるとは思えない。他に適した令嬢を迎える事がこの国の、ひいては殿下の為になる。意図していたわけではないが、うまく嫌われてくれた。正義感の強い殿下のこと、こんな自分が好かれるとも思ってはいない。
そう考えてはいたが、実際嫌われてみると何とも言えない寂寞感があった。胸にぽっかりと穴が開いたように、どうしようもない空虚感がミルリミナを支配した。
あのように優しさをもって自分に接してくれたのは、ウォーレン公爵家の人間以外初めてだった。
言葉の端々から、ユーリシアの心遣いや優しさが伝わった。無魔力者の自分に対して、ほんのわずかの侮蔑も含まないその態度に、ミルリミナは好感が持てた。
それを永遠に失ったのだ。虚しく感じてしまうのは仕方のない事なのだろう。
諦めにも似た心境で婚約破棄が言い渡されるのを待っていたが、幾日たっても終ぞその話は出なかった。それどころか皇王には皇太子がいたくミルリミナを気に入ったようだと報告が挙がっている事に、ミルリミナは驚きながらもわずかに期待してしまった。
そうでない事は、嫌と言うほど判っていたのに。
それは皇宮で定期的に催される茶会で、わずかに抱いてしまった期待がただの自惚れであった事に、気付く事になる。
その茶会は皇太子と婚約者の親睦を深める為の慣例となっている茶会だったが、そこにユーリシアが現れる事は決してなかった。病をおして皇宮に赴いても、忙しいの一言で茶会はうやむやになり、皇宮の廊下ですれ違ってもユーリシアがミルリミナを見る事はなかった。
最初の頃は外聞があるからと皇宮に赴いていたミルリミナだったが、体が思うように動かなくなり、二年が経つ頃にはそれも途絶えた。あの顔合わせ以来、ユーリシアはあからさまにミルリミナを避け、ミルリミナはそんなユーリシアに辟易した。
何が正義感の強い皇太子だ。自分の意に沿わない者を排除する事に正義があるのか。
十人いれば十通りの考えや思想がある。その中から自分の意に賛同する者だけを肯定するユーリシアに、落胆の意を隠せなかった。
結局はユーリシアも魔力至上主義者と同じなのだ。己が信じる正義だけを信じて、そうではないものは全て悪と決めつける。それはユーリシアにとって、ミルリミナは悪なのだと言われているようでならなかった。
ならばもう自分から歩み寄る事はしない。これほど嫌われてもなぜか婚約破棄はされなかったが、どうせ短い命だ。仮に婚姻の儀まで生きていたとしても、皇太子妃の仮面をかぶって数年我慢すれば自分の命は散りゆくだろう。
死ぬまで、ただ我慢すればいいのだ。
そうやって己に言い聞かせるように日々を過ごし、顔合わせの日から五年の歳月が流れた。
その間お互いを避け続け、顔を合わせるどころか、ただの一言も口を利いてはいない。皇王からあまり一緒にいるところを見ないからと茶会の席を用意された時ですら、ミルリミナは病を理由に断った。
実際ミルリミナの体は五年前に比べてさらに病弱になった。床に臥す事が多く、この五年で死線をさまよったのは一度や二度ではない。そのたびに死を渇望したが、腹立たしい事になぜかいつも死を迎える事は出来なかった。
どれほど神を憎んだだろうか。これほど死を渇望し肉体も死にゆく寸前だというのに、神はなかなか天に召してはくれない。この死に損ないにまだ何かをさせたいのだろうか。それともただ、神に弄ばれているだけなのだろうか。考えれば考えるほど泣きたい気持ちになった。
そして何より、婚姻の儀を行う年までに死ねなかった事に、ひどく落胆した。成人の儀を迎えるユーリシアに合わせて二人の婚姻の儀を執り行う事は、婚約した当時からすでに決まっていた事だった。だからこそこの年までに死んでしまいたかった。
これからは自分を毛嫌いする人間と過ごさなければならない。おそらく向こうもできるだけ顔を合わせないようするつもりだろうが、同じ皇宮に暮らしていれば嫌でも顔を合わせる事になるだ。この先はただひたすら我慢の日々が続くだろう。そう思うとうんざりした。
明日、その悪夢の日々を告げる婚姻の儀が執り行われる。
婚姻の儀は大々的に執り行われると聞いた。それは無魔力者と婚姻をする事で皇族が魔力至上主義ではないという事を市井に広める為だと、ミルリミナはようやく理解した。そのためにどれほど嫌っていても、婚約破棄をしなかったのだ。
(茶番だわ…)
お互い心底嫌い合っているのに、民の前で幸せなふりをして祝福されるのか。なんという悲劇。いや、いっそ喜劇だろうか。
この数か月、弱った体に鞭を打ち婚姻の儀の準備を進めてきた。身体が思うように動かない日も何とか気力を振り絞って皇宮に赴いた。この茶番劇の為に。
もう後戻りはできない。ここで意地を張ってしまっては両親に迷惑をかけてしまう。自分はいいのだ、もうすぐこの世を去る身。だが、愛情を持ってここまで育ててくれた両親には決して迷惑をかけたくはなかった。
(きっと私がすぐに死ぬ事を想定しているのね…。私が死ねば悲劇の皇太子だわ。それでも無魔力者を娶った事実は変わらない。あとは喪に服して、ほとぼりが冷めた頃に本命の令嬢と婚姻すれば何の問題もないもの。…私はただの道具。道具が死んだところで悲しむどころかお腹を抱えて笑い転げるかしら)
その時の事を考えると何やら笑いが込み上げてきた。これはきっと自嘲の笑いだろうか。
明日、一世一代の茶番劇が始まる。
幸せな皇太子妃を演じられるのか、不安はあるが演じ切らねばならない。
これがミルリミナにとって最初で最後の大舞台なのだから。
**
その日は朝から快晴だった。
春の穏やかな日差しと相まって、祝福ムードは奇妙な高揚感に包まれている。国全体がお祭り騒ぎで婚姻の儀が行われる教会は大勢の観衆で溢れかえっていた。
これほど祝福されるとは一体誰が想像しただろうか。
蔑みの対象である無魔力者が皇太子と婚姻を結ぶ。当然、魔力至上主義者たちの反発は大きいと思われていた。実際反対する者や脅迫めいた文書を皇宮に送る者も数多くいたが、それらは厳重に取り締まられた。
そのおかげか、もしくは『無魔力者を体現した奇跡の人』との婚姻であるがゆえなのか、民の多くはこの婚姻を大いに喜んだ。特に低魔力者たちにとっては感慨ひとしおだろう。ミルリミナの存在が、低魔力者にとって救いとなる。
控室で純白のウェディングドレスに身を包んだミルリミナの耳にも、民の歓声が届いていた。
自分が低魔力者の希望になる。絶望の中でその事実だけが唯一ミルリミナを動かす原動力であり、耳に届く歓声がその重責を担っていると自覚させ、身が引き締まる思いだった。
「ウォーレン公爵令嬢、お時間です」
司祭に促され控室を後にする。
礼拝堂に続く扉の前で白い礼服に身を包んだ皇太子ユーリシアの姿があった。その姿を見るのは実に三年ぶりのこと。まだ幼さのあった顔立ちは今や立派な青年になり、その精悍な顔つきに一瞬どきりとした。
だがその感情も一瞬のうちに消え失せる。ミルリミナを見るユーリシアの表情に何の色も見いだせなかったからだ。あまりに冷たい表情にミルリミナは顔を背け、ただ淡々と差し出された腕に手を回した。
厳かな音楽とともに礼拝堂の扉が開き、二人はゆっくりと歩みを始めた。割れんばかりの歓声に教会全体が地響きに包まれているような感覚になる。
だがミルリミナにはその歓声に応えるだけの余裕がなかった。
幸せな皇太子妃を演じようと決めていたのに、あの冷たい皇太子の顔が、その決心を鈍らせる。
今、皇太子はどんな顔をしているのだろうか。笑って歓声に応えているのだろうか。ユーリシアの顔を見る勇気が出せなくて、ミルリミナは何とはなしに観衆に目を向けた。
皆、一様に笑顔で祝福してくれている。その多くが自分を蔑んできた魔力至上主義者である事に、何とも言えない複雑な気持ちになった。
ふとその時、一人の青年に視線が止まった。
フードを軽くかぶってはいるが、そこから見える黒い髪が周りの薄い髪色の中でよく目立った。ミルリミナほど漆黒というわけではなかったが、それでも低魔力者の中でもかなり黒い方だ。有している魔力はそれほど多くはないだろう。きっと自分と同じように病弱な体に苦労しているに違いない。
そんな事を考えながらふと青年から目線を外そうとしたとき、視界の端で何かがキラリと光っているように見えた。
その瞬間、ミルリミナを激しい悪寒にも似た感情が襲う。
あれは、矢だ。
向けられた相手は自分ではない。ミルリミナの隣で観衆に手を振る、皇太子ユーリシア。
悟った瞬間、ミルリミナは自分でも驚く行動に出た。ユーリシアへの動線を自らの体で塞ぎ、文字通り盾になったのだ。
何が起こったのか、その場にいた誰もが判らなかった。あれほどの歓声が鳴り止み、しー…んと静まり返っている。
静寂を破ったのは皇太子ユーリシアだった。
「ミルリミナ嬢…っ!?何をしているっ、早く皇医を呼べ!」
慌てて白い外套を外し、矢が貫いた腹部を必死に抑える。白い外套はみるみる赤く染まり、代わりにミルリミナの顔色は青白く血の気を失っていった。
「ミルリミナ嬢、しっかりしろっ!死ぬ事は許さない…っ!私の声を聞け!」
神官たちが数人ミルリミナを取り囲んで治療にあたっていたが、出血は止まるどころか外套が吸いきれなくなった血で徐々に地面が血の色に染まっていく。晴れやかな舞台で幸せの象徴になるはずだった純白のウェディングドレスは、もはやその姿を保ってはいなかった。
「頼む…逝くな……逝かないでくれ…っ!!」
ユーリシアの悲痛な懇願は、すでにミルリミナには届かなかった。
あれほど死を渇望していたのに、神は病での死は認めてくれなかった。なのにここであっさりと死ぬのか。
薄れゆく意識の中でミルリミナは己の運命に自嘲した。
もしかしたらこの瞬間の為に生かされていたのかもしれない。そう思うと意外にも悪い気はしなかった。
(…ああ、そうか)
渇望した死の直前に、ミルリミナはようやく己の想いに気が付いた。それはあまりに淡く、本人でさえも気づく事のなかった小さな小さな想い。
(…ユーリシア殿下は今…どういうお顔をされているのかしら…?)
もう何も見えない。何かを叫んでいるような気がしたが、ミルリミナにはもう、ユーリシアの言葉や表情を想像するしかなかった。
自分の死は、ユーリシアにとってどう受け止められるのだろう。やはり喜ばれるのだろうか。できればほんのわずかでもいいから、悲しんではくれないだろうか。そしてたった一筋でいいから、涙を流してくれれば、これほど嬉しい事はない。
ミルリミナの瞳の端から、一筋の涙が流れる。それがユーリシアから流れ落ちた涙と重なって勢いを増した事を、ミルリミナに知る術はなかった。
どうか殿下の記憶の片隅に、私が残っていますように。
ミルリミナの思考はそれを最後に、完全に途絶えた。