殿
華仙と玄が天幕に入ると、呂桜はこの忙しい時に何用だといった感じで、あからさまに不満げな顔を向けてきた。よくも悪くも素直な人間なのだなと華仙は思う。
それに対して呂桜の横にいる夏徳は無表情で、何を考えているのか分からない。
互いに儀礼的な挨拶もないままで、呂桜が口を開いた。
「玄殿、かつては一国の君主であったお主の立場は尊重するつもりだ。しかしながら、分はわきまえてほしいものだが」
状況は分からないまでもないが、辛辣とも思える言葉が玄に浴びせられた。その言葉を聞いて、思わず前のめりとなった華仙を玄が片手で制した。
「申し訳ありません。火急の要件でしたゆえ、無礼をお許し下さい。丁統殿に無理を頼みました」
「で、その要件とは?」
呂桜の隣にいる夏徳が言葉を継いだ。
「単刀直入に言わせていただきます。この度の撤退戦、我々、元霧の国の民が殿を引き受けようかと思っております」
は? 殿? 我々?
想定外の言葉だった。思わず華仙は子供の頃そうだったように、玄の頭を叩きそうになる。
「ほう?」
玄の意外とも思われる言葉を聞いて、夏徳が興味深そうな顔つきとなる。
「玄殿には何か考えがあるようで」
「はい、愚策かもしれませぬが」
玄が夏徳の言葉に頷いた。
「夏徳、そのような話を聞いている時などない。七万もの軍勢が迫っているのだ。撤退を急がねば、成す術なく飲み込まれるだけだぞ」
一方、呂桜は全く興味がないといった感じで、玄の言葉を一刀両断にする。
「呂桜将軍、七万の大軍を相手にして、その殿を引き受けようというのです。その覚悟は誉めるべきであって、非難することではありません」
陽の国において軍師というものの存在が、どれほどの物なのか華仙には分からない。
だが、随分と大それた意見を言うものだ。それが華仙の率直な印象だった。それとも、それは二人の関係性に寄るところが大きいのか。
いずれにしても呂桜が最初に見せた玄に対する態度。それを見て瞬間的に頭に上ってしまった血が、この夏徳の言葉で下がっていく。
夏徳の言葉を受けた呂桜は一瞬だけ考える素振りを見せたあと、玄に頭を下げてみせた。
「すまなかった、玄殿。こうして、詫びよう。火急の時ゆえ、判断に誤りがあったようだ。無礼を許してほしい」
「いえ、七万の大軍が迫っているのです。兵を置いて逃げ出さない。それだけでも賞賛に値するかと」
玄も普通に辛辣なことを言う。
熊の国との時もそうだったが、玄は気が弱そうに見えて実は性格が悪いのかもしれない。
そして、そのような玄の言葉に呂桜が苦笑した。
その苦笑を見ながら、それにしても美しい人だと華仙は改めて思う。呂桜は陽の国の皇帝、緑帝の三番目にあたる姫様だと聞いている。
この美貌であれば、戦場に立つ必要などないのではないだろうか。それとも陽の国の王家は、男女関係なく戦場に立つ風習でもあるのだろうか。
華仙がそのようなことを考えていると、夏徳が口を開いた。
「それでは玄殿、将軍のお許しも出たゆえ、貴殿のお考えを詳しくお聞かせいただきましょうか。それなりの勝算があっての殿……ということなのでしょうな?」
「はい。これは我が将、威侯の考えでもあります」
いやいや、父親の威侯は何も言っていなかったはずなのでは……。
威候の名を出した方が話を通しやすいというところなのか。やはり玄は人が悪いようだった。
「ほう、あの威侯殿……」
威侯の名を聞いて、夏徳は一層の興味を引かれたように見えた。
あの、とはどの威侯なのか。やはり、他国では神話級の化け物であるかのように、威侯の名が語られているのかもしれない。
鬼瓦のような顔と大きな体、そして声の大きさに限って言えば神話級なのだけれども。
そんな華仙の心の呟きを知るはずもなく、玄は一つの策を提示したのだった。




