できぬとは言わないか
怒気を発している呂桜に向けて、夏徳が口を開こうとした時だった。幕内に入ってくる者がいた。
凱鋼代将軍。
夏徳は心の中で呟く。
陽の国の帝、緑帝の一番目になる息子であり、正妃の息子でもある。歳は三十歳をいくつか超えているはずだった。正式に擁立されているわけではなかったが、実質第一位の帝位継承権を持っているといってよかった。
「呂桜、随分荒れているな」
凱鋼代は横の夏徳を一瞥したのち、呂桜に視線を向けた。呂桜はそんな凱鋼代を見て、眉間に少しだけ皺を寄せる。
ほう、中々の顔をするものだ。
それが夏徳の率直な感想だった。
「兄上、お久しぶりです」
頭を下げる呂桜に凱鋼代は皮肉な笑みを浮かべた。
嫌な笑みだった。
相手を試し、踏みつけるための表情といってよかった。
「麗しの妹よ。お前が挨拶に来ないから、私の方から出向いたぞ」
「失礼しました。二万の軍勢が到着したのです。立て込んでいましたゆえ」
「まあ、いい」
呂桜の返答に凱鋼代が面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。
「それにしても、妹よ、随分と荒れていたようだったが」
「それは……」
呂桜が言い淀む。さすがに命じられたことが気に入らず、荒れておりましたとは言えないのだろう。
「凱鋼代将軍、申し訳ありませんでした。私に不手際があり、呂桜将軍より叱責を受けていたところです」
夏徳はそう言って一礼をした。凱鋼代はそんな夏徳をつまらなそうな目でみる。
「ふん、お前、見たことがある顔だな。名は?」
「夏徳と申します。以前は凱鋼代将軍の配下、東方軍において軍師の末席におりました」
「ほう、あの夏徳か。思い出したぞ。久しいな。能力不足で我が陣営から追い出された奴だったな」
凱鋼代が唇をわずかに曲げながら言う。
「あの時は将軍のお力となることができず、申し訳ありませんでした」
表情を変えることなく頭を下げた夏徳を凱鋼代は興味なさそうに見る。
「それで兄上、いえ凱鋼代将軍、何用で?」
「何、久しぶりに愛する妹の顔を見にきただけだ」
凱鋼代の言葉に呂桜は眉ひとつ動かすことがなかった。これら一連の様子を見ただけで、呂桜と凱鋼代の関係性が分かるというものだ。
「相変わらず可愛げのない奴だな。お前の母親と同じだ」
「母上の話は関係ないかと」
呂桜の返答に凱鋼代は、面白くなさそうに再び鼻を鳴らした。
「まあいい。いずれにしても、西方軍は待機。何、心配するな。いずれ出番がくる。西方軍には是非とも牙城砦を陥落してもらわなければならないからな」
凱鋼代はそう言い残して天幕を後にした。凱鋼代を見送った後、呂桜は無言で机を平手で叩いた。かつてないほどの大きな音が周囲に響き渡る。
やれやれだな。姫のお怒りだ。
夏徳は心の中で呟き、溜息を吐き出した。そんな夏徳の心の中が読まれたわけではないだろうが、呂桜が鋭い視線を向けてきた。
「夏徳、我々西方軍だけで、この悪名高い牙城砦を陥落させられると思うか?」
ほう。怒りの中にあっても冷静な判断はできるのか。
夏徳はそんな言葉を心中で呟きながら口を開く。
「牙城砦攻略で失った兵は一万五千を数えます。加えて海の国は強兵です。なかなか厳しいかと」
「ほう……できぬとは言わないか」
呂桜は夏徳の言葉に薄く笑った。
「さあて、どうでしょう。考えてみなければといったところでございます」
「私が率いる二万の将兵。その進退においては、国が何を考えようと私の知るところではない」
呂桜がゆっくりと、それでいて静かに言い放つ。
「はい、もっともなお言葉かと」
「私は彼らを無駄に死なせるつもりはない。夏徳、策を考えろ」
簡単に言うものだと思わないわけでもない。だが、一方で呂桜の気持ちが分からないわけでもない。それに夏徳自身も兵を無駄に死なせる策などは、もっとも忌み嫌うことだった。
例え陽の国の目的が、併合した国々の将兵を殺すことであるとしてもだ。
「この夏徳、非才の身ではありますが、呂桜将軍の期待に応えるべく粉骨砕身するとしましょう」
何、熱くなっているのだ。この俺は。
自分の意外な感情の揺れに対して心の中で呟きながら、夏徳は呂桜に一礼したのだった。




