乳母の思い
「皆が無事で、この戦いを終わらせることができたらいいのにね」
華仙の言葉に玄は少しだけ辛そうな表情を浮かべた。
「一人の犠牲もなくというのは無理かもしれない」
華仙は頷く。他に策があるのか、やる気が見られない陽の国からの攻撃とはいえ、霧の国の中にはすでに負傷した者も出ている。
戦いである以上、何もかもが無傷でというわけにはいかないことは華仙にも分かっている。だが、それでも無傷で終えられたらと言いたかった。
そもそも、何でこんなことになってしまったのだろうか。
華仙にはその思いが強かった。霧の国に領土的な野心なんてない。あるはずもない。他国から攻め入られる謂れなんてないのだ。
時には隣国である熊の国と揉めたりもするが、基本的には平和な国だ。国としては貧しいが、民は穏やかで霧と常に寄り添い生きている静かな国だった。
その平穏が破られる理由なんてどこにもないと華仙は思っている。
「でもね、華仙。何百年も存在する国なんてないんだよ。百年と少し前は霧の国だって、かつては今の熊の国も含めた数国が集まったひとつの国だったのだからね」
華仙は玄の言葉に頷いた。
その話ならば知っている。霧の国はかつて紺の国と呼ばれた国の一部だったのだ。百年以上前に、そこから分裂してできたのが霧の国だった。
「それは分かるけど、何も今、今この時に国がなくならなくてもいいじゃないっていう話よ」
鼻の頭に皺を浮かべた華仙を見て、玄は苦笑を浮かべた。
「そうだね。何も僕たちの代でなくならなくてもね」
「そうよ」
鼻息も荒く大きく頷いてから華仙は思い出したのだった。玄の体調がよくないことを。
「ごめん、玄。少し長居をしてしまったわね。ゆっくり休んで。明日、皆の前に姿を見せられるぐらいには回復しないとね」
「情けないね。でも明日はきっと大丈夫だよ。ありがとう、華仙」
玄はそう言うと、静かに濃い茶色の瞳を閉じた。それから大した時も経たない間に玄は寝息を立て始めてしまう。
発熱のせいもあるのだろうが、体力は限界だったのかもしれない。だが、それでも玄は霧の国の君主として、戦う皆の前に立ち続けていたのだ。華仙は玄の寝顔を見ながらそう思っていた。
玄は自分に出来得る限り、霧の国における君主としての役目を果たそうとしている。ならば、華仙自身も役目を果たさないといけない。
玄の寝顔を見ながら、華仙は改めて強くそう思うのだった。
玄を守るのだ。何があっても。霧の国の行く末なんかとは関係なく、自分が玄を守るのだ。幼い頃の思い。あの時の思いと何ら違わぬ思いで。
玄の寝室を出ると、待ち構えていたかのように梅果が近寄ってきた。梅果は玄の乳母で、今も身の回りの世話をしている。歳は今年で五十歳を超えたはずだった。
「姫様、威候将軍が先程からお待ちです」
「そう、ありがとう。心配だったのかしら。玄様はお休みになられたわ。起きたあとのことは、梅果にお願いするわね」
梅果は華仙の言葉に頷いたものの、おずおずといった感じで口を開いた。
「姫様、霧の国は大丈夫なのでしょうか? 陽の国の攻めを何度も撃退していると、勇ましい話を聞いてはおります。でも、もし負けてしまったら、玄様はどうなってしまうのでしょうか?」
皆、不安なのだと改めて華仙は思う。
「大丈夫よ。勝つことはできないかもしれないけど、負けないようにはできるはず。玄様もこうして頑張っておられるのだから」
梅果は不安気な表情を変えようとはしなかったが、華仙の言葉に頷いて再び口を開いた。
「私は玄様の母上、美麗様から玄様を託されました。まだ幼いあの子をお願いしますと。私のような者に美麗様は何度も何度も頭を下げて、私に玄様を託されたのです」
今度は華仙が頷く番だった。梅果は尚も言葉を続けた。
「玄様さえ無事であれば、私にはこの国がどうなろうと関係ないのです」
玄の母親が先立って以来、常に玄の傍にいて時には母親代わりとなって玄に尽くしてきてくれた梅果。梅果にとってはこの言葉が偽らざる真実なのだろうと華仙は思った。
梅果はそこまで言うと、自分が言った今の言葉が華仙の前では適切ではなかったことに気がついたようだった。




