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霧深き国の姫  作者: yaasan


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黒い雲

 華仙(かせん)たちの後方では頭上から降り注ぐ矢の雨を受けて、(くま)の国の兵たちがまだ混乱から立ち直れないでいた。


威候(いこう)、今だね」


 (げん)が呟くように言うと、威侯は大きく頷いて片手を上げた。すると周囲に銅鑼の音が響き渡った。それに呼応して獣道の左右に立ち並ぶ木々の間から、いくつもの長槍が繰り出される。


 矢の雨を受けて、それを防ごうと上空ばかりに気を取られていた熊の国の兵が次々と倒れていく。そこへ霧の国の将軍、威侯が長剣を片手に姿を見せた。


 すると、混乱の極みと化している熊の国の兵たちを掻き分けるようにして、同じく長剣を抜き払った厳韓(げんかん)が姿を現す。


 厳韓の両目は血走っていて、極限まで見開かれていた。威侯と厳韓は敵対する国の将軍同士ではあるが、同時に昔からの顔見知りでもあるはずだった。


 華仙は隣にいる玄に黒色の瞳を向けた。玄は何とも表現し難い顔、強いて言うのであれば悲しげな表情を浮かべている。


「威侯!」


 厳韓が吠える。


「厳韓、馬鹿な真似を。何ゆえに皆を止めなかった。東の狩場の占拠などと、何ゆえにこのような暴挙に出た? 貴様であれば、これがどれ程の暴挙であるか分かったはずであろう!」


 しかし、威侯の言葉に厳韓が答えることはなかった。


 華仙の父親が言う馬鹿な真似。

 やはりそれだけ熊の国が、国として追い込まれているということなのだろうと華仙は思う。


 厳韓の左肩には矢が深々と突き刺さっていて、左腕を伝って鮮血が流れ落ちている。だが、厳韓はそれを気にする素振りも見せずに片手で長剣を構えた。そして、そのまま威侯の前に進み出る。


 雨の前のような静けさが二人の間に流れた。


「威侯!」


 訪れた静寂のあと、厳韓は再びひと声吠えて片手で威侯に斬りかかった。上段から振り下ろされた厳韓の長剣を威侯は難なく弾き返す。そして、その流れのまま威侯は長剣を振り上げた。


 一瞬、厳韓の顔にどこかほっとしたように見える穏やかな表情が浮かんだ気がした。


 それは目の錯覚だったのだろうか。

 華仙がそれを確かめる間もなく、厳韓は威侯によって斬り伏せられた。


 厳韓が威侯によって討たれたあと、熊の国は総崩れとなった。すでに戦意はなく、生き残った者たちは武器や鎧を捨てて逃げ出すだけだった。


 勢いそのままに(きり)の国の兵は熊の国が設置していた柵を薙ぎ倒して、その中に雪崩れ込んだ。柵内に残っていた熊の国の兵も、ろくに戦う意志は見せずに逃げ出す者が大半だった。


 大勝利と言ってよいのだろう。霧の国の被害は軽微で、大地で動くことなく横たわっているのは、誰もかれもが熊の国の兵だった。


 それらを見ながら、華仙の横で玄が呟くように口を開いた。


「酷い有様だね……」


 確かに玄が言うように華仙も酷い光景だと思う。

 二度と動くことなく、大地に横たわっている熊の国の兵士たち。彼ら個人個人には何の恨みもない。


 だが、先に手を出してきたのは彼らなのだ。


 華仙たちにしてみれば当然、黙って東の狩場を取られるわけにはいかない。となれば、この結果も仕方がなかったとしか言いようがない。そう華仙には思えるのだった。


「それにしても、玄が講じた策が見事に嵌まったわね。これも、いつも玄が読んでいる書物の兵法というものなの?」


 重苦しい空気を取り除こうとして、華仙は他の話題を口にした。


「これは兵法にもなってないような、初歩の初歩だよ。熊の国は集団戦というものが分かっていない。それは霧の国にも言えることだけどね」


 玄は自重気味に笑う。

 その笑みがどこか泣き顔に見えた気がした。それは気のせいなんかではなかったのかもしれない。


「この戦いで、熊の国はまた霧の国に恨みを持つ。ここで命を失った者たちの親族が、いつかは霧の国の民に害を及ぼすのだろうね。そうして、害を受けた霧の国の者が恨みを抱いて……遥か昔からその繰り返しだ。この繰り返しはいつ終わるのだろうね」


 玄が言おうとしていること。今、玄が思い感じていることが華仙にも分からないわけではない。でも、ならば東の狩場を大人しく奪われればよかったのだろうか。


 そんなことができないことは明らかだった。だから、玄自身も兵を率いて戦ったのだから。


 華仙はふと空を見上げた。禍々しい雰囲気を醸し出している黒い雲が、空に広がりつつあった。ほどなく雨が降り出しそうな雲行きだ。


 雨が降る前に倒れた者たちを火葬しなければいけない。このまま死者を放置しておけば、疫病が流行ってしまうかもしれない。


 雨が降るのならば、明日の霧は一層濃くなるのだろう。

 圧倒的な勝利を得たというのに、晴れることがない玄の横顔。

 自らの胸の奥にある小さな痛みを感じながら、華仙はそう思うのだった。

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