黒い髪の少女
東西に長く伸びる大陸。その中央を南北に断ち割るように、灰白の山脈が走っていた。山脈の中腹、いつも濃い霧に包まれるその一角に、霧の国と呼ばれる小さな国がある。
その霧の国で今、黒い髪の少女が息を切らして走っている。朝の光がまだ周囲に残る霧に反射し、少女の細い髪の毛の先で煌めきを散らしている。少女の名は華仙といった。
「おはようございます、姫様。また宮殿ですか?」
宮殿へ続く坂道を駆けていると、畑に立つ老人が手を止めて声をかけてきた。
「おはよう! 凱爺さん!」
片手を上げている老人に向けて、華仙も走りながら片手を大きく振り返して頷く。
老人がまたと表現したように、華仙が宮殿に向かってこの道を走るのは毎朝のことで、ほぼ日課になっているといってよかった。
日が昇ってからしばらく経っている。霧の国という名の由来となっている濃かった霧も随分と晴れてきていた。だから華仙には、自分の視界が悪いといった感覚はない。
走る華仙に合わせて、腰まで伸ばされた艶のある黒髪が、まるで別の生き物であるかのように宙を泳いでいる。それを靡かせながら、意志の強さを感じさせる黒色の瞳を真っ直ぐ前に向けて、華仙は大地をまるで飛ぶかのように走っていた。
老人が口にした宮殿という言葉は少し大げさだった。宮殿といっても、実際には少し大きな邸宅ぐらいなものだ。
住民が五千人にも満たない小国とも言えないような小さな国。それが華仙たちの住む霧の国だった。
息を切らせた華仙が宮殿の前に着くと、城門前にいた兵士が声をかけてきた。城門と言っても少し大きな木の扉といった感じの物だ。
「おはようございます、姫様」
「おはよう。今日もご苦労様」
華仙が笑顔で答える間に兵士は扉を開けてくれる。これもほぼ毎日といってよい見慣れた光景だった。
宮殿内に入った華仙は、迷わず玄の寝室を目指して歩みを進める。
玄。
この霧の国の君主であり、同時に華仙の幼馴染でもあった。年齢は十七歳になる華仙の二つ上で今年、十九歳となる。
朝が極端に弱い玄は、いつものようにまだ寝ているはずだった。
それでは霧の国の民に示しがつかないといつも言っているのだけれど、朝の早起きだけはどうにも改善されない。
玄の寝室に着いた華仙はその扉を叩く。
「玄、起きて。もう朝だよ!」
部屋の中からは一向に返事がない。もっとも、毎朝これで玄が起きてくることは稀だったりもする。
逆に華仙が扉を叩いてすぐに起きてくる日は、玄の体調が悪い日が多い。だからそれはそれで華仙には心配だったりもする。
玄は幼い頃から病弱で、頻繁に発熱する体質は成長した今でも大して変わりはない。幸いなことに熱が長引くことはあまりなくて、三日、四日で大概は回復するのだったが、たまに高熱が続いて華仙を心配させる時もあった。
華仙は軽く溜息を吐くと勢いよく扉を開けた。案の定と言うべきか、玄は寝台で穏やかな寝息を立てている。窓から差す淡い光が、玄の明るい灰色の髪を静かに照らしていた。
そんな玄を見ていると君主とはいえ、全くもっていい身分だなと華仙は改めてそう思う。華仙は寝台に近づくと、玄の髪に片手を入れてそれを無造作に掻き回した。
「玄、起きて。起きなさい、玄」
何事かと玄は瞼を開いて濃い茶色の瞳を華仙に向けた。だが、まだ寝ぼけているのか、視点が定まっていないようだった。
「おはよう、華仙……」
髪の毛を掻き回しているのが華仙だと気づいたようだった。玄はそう言いながら、寝台の上で上半身をゆっくりと起こす。
「華仙、いつも言っているのだけれど、起こす時に髪の毛を掻き回すのは止めてくれ。僕は寝ているのだから、びっくりする」
玄の言葉に、華仙は言われていることが分からないといった風に小首を傾げてみせた。
「それと昨日みたいに、頬を突っつくのも禁止だ。僕はもう子供ではないのだからね」
玄のそんな不平を聞きながら、いい歳になっても起こさなければ起きないのだから、まだまだ子供でしょうにと華仙は思う。




