独り言
昔はよく本を読んでいた。本をよく読むようになったのは、小学生高学年になってからだ。きっかけは、友人がよく本を読む人で、友達が興味を示しているものを私も知りたいと思ったからだ。その友達はいろいろな本を、特にコバルト文庫の本を持っていて、私に貸してくれた。一度彼女の家に遊びに行ったことがあるが、彼女の家には本がいっぱい並んである棚を見て驚いた記憶がある。私の家にはそんな高尚なものは無かったので素敵だな、という気持ちとたもによく覚えている。学校の図書館からも沢山本を読んで借りた。図書委員になって本の整理や貸し借りの手続きをしていたくらいだ。本の中の物語の世界に自分がいるような感じがして物語の話を想像しながら読むのが好きだった。また、自分で物語を想像しながら話を作ってもいた。
中学生に上がってからもそれは変わらなかった。学校の図書館や市の図書館から沢山の本を借りてはいろいろと読み漁った。仲良くなった友達も、偶然か、それとも私に影響されてからか、本の好きな子だった。小学生の頃、交換日記というものが流行っていたのだが、それを真似たのか、私たち仲良し3人組で順番に物語を考えて書くリレー小説というものも書いていた。そんな本好きが幸いして、中学一年生のときには漢字検定二級に合格してしまった。試験中は緊張もしたが、正直言うと、過去問題を一通り練習して受けたらすらすらと簡単に解けてしまった。それほど私は本に熱中していたということだ。
そんな本好きで物語を考えるのが好きだった私だが、今では滅多に本を手に取って読むことが無くなった。スマホが世に出て、本からでなくともスマホからいろいろな情報を得ることができるようになったからだ。ピッコマ、ラインマンがなど、毎日マンガを一話ずつ無料で読めるというサービスもある。ネットサーフィンやマンガに夢中になって本から遠ざかってしまったのである。頭ではマンガは脳に良くないと分かっている。電子機器で小説を読むより紙媒体で読んだ方がいいと分かってはいる。しかし、手軽に楽しめる方に行動してしまうのだ。紙の本に情熱を燃やしていた昔の私はどこへ行ってしまったのだろうか。いろいろなストーリーを考えたり、友達と一緒に物語を考えて話を作る情熱を持っていた私はどこへ行ったのだろう。何か物語を書きたいと思うのだが、こうして誰でも気軽に小説を書けるものがあっても、今の私には書きたい話が思い浮かんでこない。
大人になって、現実を生きなければならない環境に置かれると、物語や夢を想像することが難しくなってきた。ふわふわと生きていると厳しい現実では生きられないのだ。昔はピアノを弾いていたのだが、純粋な心を持った子供の頃に引いていたピアノは、美しく、感情豊かな音色だった。しかし、厳しい現実で毎日を生きている今は、あのときのように美しい音色で弾けなくなってしまった。出るのは感情のない事務的な音色ばかり。モーツァルトがあのように多くの美しい作品を生み出せたのは、彼が夢の中で生きる繊細な人だったからだ。彼は現実の世界で生きていなかった。辻井伸之さんが美しい音色を出すのは、彼の心が澄んでいるからだ。私が再び美しい音色を出すためには、厳しい現実の中で築いてきた今の安定した生活を捨て、夢をみながらふわふわと生きなければならないだろう。私には家族に負担をかけて夢の中でふわふわと生きることはできない。私は家族が苦しい思いをするのを見るのに耐えられないからである。だから、私が夢の中に生きる人間にならない限り、再びあのときのような美しい音色を出すことはもうないであろう。あれは純粋な心を持った者にしか出せない音である。
物語もそうだろうか。純粋な心を持っていないと美しい物語を紡ぎ出さないだろうか。短いけれど、少しずつ書いていたら、また書けるようになるだろうか。自分はまた想像豊かな人物になれるだろうか。少しずつでも何か想像したことがあればそれを物語という形にして残していきたい。