「坂」
無機質な白い坂をくだっていくと、行く先はほぼ垂直な崖のようであった。
反比例のグラフの曲線のように、ある点を過ぎると急激に勾配が険しくなる。
臨界点とも言えるその地点にひとたび足を踏み入れれば、そのまま底に流れ落ちていってしまうような気がした。
幼い娘の手を引きながら辺りを見回した。私と娘は、知らない世界にいる。
周りにはスーツ姿のサラリーマンや買い物袋をさげた主婦が歩いているので、つまり、ここは少なくとも現代だ。地面が一面に白いコンクリートであることと、遠くの景色が黒一色であること以外に特に違和感はない。空も夜のように黒かった。辺りは明るく、行きかう人々の様子がはっきりと見えた。しかし、どこが光源になっているのかはわからなかった。
すれ違った女性は、フォーマルな装いだった。クリーム色のカーディガンとスカート、薄いピンクのシャツを着て、黒い髪はゆるく巻かれている。歳は30代半ばだろうか、彼女は片手に白いチケットを握っていた。低めのハイヒールをカツカツ鳴らして、彼女はどこかへ向かおうとしていた。
向かいからやって来たありきたりな革靴を履いた男性は、ビジネスバッグを片手に急いで歩いていた。目的地に向かっているようだ。彼もまた、白いチケットを握りしめていた。
人々は、皆どこかへ急いでいる。
全員が手に手に白いチケットを持っていた。
催し物でもあるのかしら、と思ったとき、坂の底からうめき声のような低い音が響いていることに気づいた。
妙なリズムの重低音と、牡牛の鳴き声のような歌声が聞こえる。坂の底を覗き込めば、簡素なつくりのステージで何かショーをやっている。ショーは私たちよりずいぶん下の方に、遠くにあった。見下ろすようにして、私は娘の手をしっかり握り、催し物を観察した。
ぼろぼろの衣服をまとった人間が4人と、司会役であろうピエロ。ピエロの化粧は、お世辞にもコミカルとは言えなかった。ステージの役者は奇妙な踊りをしていて、観客の笑いを誘っていた。
「皆が持っていたチケットはこれね」
独り言のように娘に話しかけた。娘はそもそも何が起こっているのか見えなかったのか、ショーには目もくれず私の右手にぶらさがっていた。
「さ、行こうか。」
ショーに背を向けて娘の手を引いた。娘は素直についてきた。ショーを見にいった人たちは、坂の上に戻って来られるのだろうか、と考えた。ぼんやり明るい世界は、気が付けば、私たちだけになっていた。
私は先ほどのショーの役者が気になった。あやつり人形のようなおかしな踊りと、うめき声のような歌声には、どうも違和感があった。ピエロは鞭を持っていたような気もする。役者のぼろぼろの衣服は、衣装ではないように思えた。観客たちは笑っていたが、やがてピエロにステージへ上げられる運命にある気がしてならなかった。
娘は私を見上げて言った。
「ママ、こっちでいいの?」
周りに誰もいないから不思議に思ったのだろう。
「うん、いいんだよ。」
私は答えた。
娘はまた安心して私の右手にぶらさがった。
「あっちにはいつでも行けるから」
(完)