化け物たちのインドネシア語
私の母はインドネシア人だ。日本に出稼ぎ(海外実習生制度? というらしい)で日本の大宮と言うところで暮らしている。
日本人の父が帰ってくるのは夜遅い。私は高校から帰って、家に誰もいないのを確認してからベランダに出た。秋口の冷たい風が、少しだけ肌寒かった。
集合住宅の一階。お世辞にも治安が良いとも言えないここら一帯では煙草を吸っても文句を言われない。日本という国は嫌煙だと聞いていたから、これは私にとってもありがたかった。インドネシア本国では男はともかく、女で、それも学生の私が煙草を吸うのをよく思わない人は多い。
「Selamat sore, Sara(こんばんは、沙羅)」
誰かが私のことを呼んだ。振り返ると見慣れた茶トラの猫が器用に隣のベランダの手すりを歩いてきた。
「sore,今日も集会帰り?」
日本の猫がインドネシア語を理解し、また話せることを知ったのは最近のことだ。他の人間にはにゃあにゃあ言っているようにしか聞こえないらしい。私は猫好きだということで通している。
「そうだ。年寄り猫どもの面倒くさい風習だ。相変わらずお前はその臭い葉っぱの煙を吸うのが好きだな」
猫は伸びをしてから私の足下で横になった。
「おいしいよ」
私はそう言ってからラッキー・ストライクの箱を振って見せた。
「要らん。人間の興味は理解できん。そんな物身体に悪いに決まっている」
猫は不機嫌に尻尾を揺らした。
「今日は集会で妙な報告があったぞ」
「へえ、どんな?」
「人が死んでいた」
私は煙草を咥えたまま硬直した。開いたままの間抜けな口から煙が漏れ出して、少しだけ目にしみた。
「ちょっとまって、どこで?」
「しらん。そういう報告があった」
「近くにパトカーは? 赤いランプの車はあった?」
「俺たち猫には赤なんて分からん。色弱なのを忘れたか」
猫はさも他人事と言うように言った。
「ええと……白黒の車は?」
「そんな報告は上がっていない」
私は携帯灰皿に煙草を押しつけた。一般市民に過ぎないが、それでも人死にとなれば放っておけない。
「案内して!」
「……眠いんだが」
「いいから!」
私は高校の黒いセーラー服のまま着替える時間も無くサンダルを引っかけた。
「仕方ない。あとで何か食い物を寄越せ。あと抜け毛を何とかしてくれ」
「何でもするから! 早く!」
猫に先導されて走る様は滑稽に見えただろう。それが気にならないくらい、私は焦っていた。
「北与野とかいう駅の近くのガード下だ。もう警察とかいうのが到着しているんじゃ無いのか?」
「放っておけないでしょ」
「猫は毎日大勢死んでるぞ。何がそんなに重要なのか、俺には理解できん」
猫が言ったところに到着したのは大体十分後だった。運動部でもない私は息を切らしたガード下を見渡す。
「……無くなっているな、いや、これは」
猫が地面の臭いをかいだ。
「人間の血か? いや……これは違うな」
「違うの?」
「人間の血は子猫だった頃に人間に散々噛みついてばかりいたから分かる。これは、違う動物の血だ……」
こういう場合、どうすれば良いのだろうか。まさか猫に死体を見たと言われたなんて言えない。
「……」
人の気配を感じた。振り返ると年配の女性が、花束を持って立っていた。
「……どうも」
「ど、どうも」
私は動揺しながら答える。
「……あなたも、息子の関係者でしたか」
「ええっと……」
婦人は私の横の猫を見て、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「なるほど、そういう方でしたか」
「……沙羅。あれは、人間じゃ無い」
猫の発言に私の肌に鳥肌が走るのを感じた。
「……人間に化けても、最後は獣として死ぬんです。どうか、気に病まないで」
老婦人は花束を置いた。
「Selamat jalan, mbak(さようなら、お嬢さん)」
酷くジャワ訛りの強い、インドネシア語だった。
風が吹いた。ガード下を駆け抜ける強風とともに、地面の枯れ葉が舞った。
枯れ葉に紛れ、婦人の姿はかき消えた。残ったのは、丸々とした狸だった。一瞬、此方を見やったあと、夕闇の中へと消えていった。