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Ⅸ
時間は午後十時を回ろうとしていたけど、街が眠りにつく気配は感じられなかった。今日はクリスマスということもあってか、街はイルミネーションに彩られ、人の数はより一層増えているようにも思えた。
眠らない街。それを実感して随分時間が経っていた。
私が早瀬村を出て、もう四年が経っていた。
私は仕事を終え帰宅の徒についていた。あれほど苦手で仕方の無かった人ごみも、三年が過ぎた頃には当り前になっていた。今ではすれ違う人と肩をぶつけることさえ無い。
そう。人は慣れるのだ。
とは言え、それには相応の時間が必要だった。つまり、村から出てきたばかりの私にとって、都会での暮らしは苦痛でしかなかったのだ。
私を必要と言っていた男とは一年ちょっとで別れた。最期は随分とあっさりしたものだったと記憶している。
都会で暮らし始めて一年。その頃私は病気を患った。病気は肉体的なものではなく、精神的なものだった。医者に掛かると自律神経失調症と診断された。その後すぐに私の身体は言う事を聞いてくれなくなった。
彼は親身になって私を看病してくれた。今思えば大学生の身の上でよくあれ程尽くしてくれたと思う。その事に関しては今でも深く感謝している。
切っ掛けは何だったろう。
ああ、そうだ。
そう。
そうだった。
私の悪い癖だ。私にとって都合の悪いことに関しては記憶が飛んでしまうらしい。私はそんな自分がとても嫌いだと常日頃から思っているのだけど、こればかりはどうしても治らなかった。
私と彼が別れた理由。それはごくありふれた事。なに、単純なことだったんだ。ただ、私はすぐに気付くことが出来なかった。だから手遅れになっただけのことだった。
彼には別に女がいた。
彼は随分と顔が良かった。それに優しかった。そんな彼に言い寄る女が居ても不思議じゃない。でも私はそれに気付けなかった。
仕方無い。
仕方ないじゃないか。私は当時そんな余裕がなかった。余裕がなかったのだ。都会の暮らしが肌に合わなくて、ただひたすら眠る毎日が続いた。彼はそんな私の面倒を毎日見てくれていた。
疲れて当然だったと思う。
限界なんてすぐに訪れていたのだと思う。
それでも彼は私に尽くしてくれていた。
ある日、彼が酔って帰って来た。私は彼を責めた。彼は信じられないといった表情をしていた。私はその表情が癪に触り、激昂したのだ。それはもちろん八つ当たり以外のなんでもない。自分の身体が思い通りにならない苛立ちをただ発散したかっただけなのだ。もしくは、こんなに可愛そうな私を残して酔って帰った彼への当て付けか。
その日から、彼が帰らない夜が始まった。私はすぐに不安になった。なにせ療養中の身だ。彼の介助が無ければ私は人並の生活もままならなかったのだから。
彼が帰ってくる夜は決まって酒の臭いがした。彼は泥酔したまま私の身体を求めた。独り眠る毎日からくる不安も手伝い、私は思い通りにならない身体に鞭打って、必死になって応えた。幸い、村を出てから向こう、男の悦ばせ方は嫌というほど仕込まれていた。とりあえず幾つかのパーツが動きさえすれば彼を満足させることが出来ていた。
そんな生活が暫く続いて、私は自分の身体に違和感を覚えた。
それが懐妊したのだと気付くのに時間は掛からなかった。私は嬉しかった。子は鎹という言葉に希望を見た。これで彼は私を見てくれると確信めいたものを感じた。久しぶりに出歩く部屋の外。とても辛かったが自らに宿った命のことを思うと何とか耐えることができた。
命は順調に育まれていた。夢にまで見た母子手帳を発行された日、私は彼に妊娠したことを打ち明けた。
彼は笑っていた。笑顔じゃない。乾いた能面のような笑いだった。そして彼は中絶を望んだ。私との子供は必要ないと、そう言った。私は何故かと問うた。そして突きつけられた現実が、他に女が居るということだった。
私は取り乱した。いいや、そんな生易しいものじゃなかった。狂気の沙汰、なんて言うのだろう。
私は彼の腹を刺していた。
血に滑る両手。ああ、あとで聞いた話だと、滑るのは血ではなく一緒に流れ出てくる脂肪なのだそうだ。とにかく、私は両手に付いたどす黒い血を見て冷静さを取り戻した。その瞬間、私の上半身は弾け飛んだ。
私が目を覚ましたとき、私の全身は拘束衣で包まれていた。私の隣に座っていた警察官の話によると、私は彼に殴られ意識を飛ばしていたのだという。私はすぐに彼の安否を気遣った。何故ならあの行動は私の本意ではなかったからだ。それと何よりもこの身体に宿った新しい命の父親なのだから。
彼は無事だった。私は警察官の言葉に安堵し、胸を撫で下ろした。警察官は続けて言った。彼は被害届けを提出したのだと。私はその言葉の意味を理解するまで随分と時間が掛かった。しかし、私は納得することが出来た。実際、私の両手には彼を刺した感覚が残っていたからだ。彼が私を責めるのなら、それはちゃんと受け入れなければいけないことだと思った。
それから事務的な話がいくつかあったと記憶している。弁護士がどうだ、とかそんな感じの。私は彼に逢いたいと伝えた。直接話し合いをしたいと主張した。しかし、彼とは弁護士を通じてのやり取り以外は出来ないことになっていた。
私は絶望した。あのときの私はどうにかしていたのだと説明したかった。間に弁護士を入れたところで、彼に私の意思がちゃんと伝わることが無いと思った。どうにかして彼に逢いたいと食い下がった。しかし、下された結果が変わることがなかった。
それから数週間が経ち、私には実刑が下されることになった。とても寒い部屋で、多くの目に晒された中、私は裁判官に何かを言われ、誓約する旨を書いた書面にサインをさせられることになった。
私は質素な部屋に入れられた。衛生状態が悪そうな気がして心配だった。私は何度も下腹を摩り、生まれ来る命に動揺が伝わらないように気をつけた。
その後、狭い空間で集団生活を強いられることになった。
最初に健康診断があった。私は医師に妊娠していることを伝えた。ちゃんと順調に育っているか質問した。
医師の言葉は私を絶望の淵に追い落とした。
私の中に宿った命は、私の知らない間にその輝きを失っていた。
私はその場で嘔吐した。
数日後、医師に説明を受けた。私が彼を刺した日、あの日私が病院に運ばれた時点で既に流産していたのだそうだ。私の頭には他人事のように感じられていた。
もうどうでもいい。
私はそう思う以外何も無かった。私は全てを失ってしまったのだと理解した。
月日の巡るのは早かった。規則正い生活を強要された。その日々が私を少しずつ変えた。私が刑期を終え、出所する頃には立派な健常者になっていた。しかし下腹の虚無感だけは癒すことが出来なかった。
私が彼を刺した日からおおよそ四百日が経過していた。当ても無く街を流離う日々が始まった。
最初は早瀬村に帰ることも考えた。出所する際に渡された僅かな金。それを使えば何とか帰ることが出来そうだった。でも私は村に帰ることを選ばなかった。と、いうより帰ることなんて出来なかった。
私は村を出るとき、駆け落ち同然で家出したのだ。村には二度と戻らないという誓いも立てていたし、何よりこんな私をあの村が受け入れてくれるとは思えなかった。
生きる為、何でもやった。早瀬村の冬も厳しいものだったが、都会の冬もあまり変わったものではなかったのだ。
現金が必要だった。食べるにしても、寝床を探すにしても、まず必要なのは現金だった。
私はまともに働いたことがなかった。そもそも何も出来ないのが私なのだ。必死に考えた。私に何が出来るのか必死に考えた。夜の公園はとても寒く凍えそうだった。
そんなとき声をかけられた。
「お姉さん、ヒマ? 幾らならいい?」
そんな感じだったかな。最初、私は意味が判らなかった。ただ、相手の顔を見ているとその男が求めているのが私の身体だということに気付いた。
躊躇はあった。しかし生きていく為の当てが無い状況で、私には選択肢が無いも同然だった。
私はその夜、名前も知らない男に抱かれた。そしてその報酬として一万円という現金を得た。
私は声をかけられた公園へ戻って泣いた。ただ、ひたすら泣いた。手に握っていた金はゴミ箱に捨てた。せっかく稼いだ金だったけど、私は酷く醜いものに思えたのだ。
私は公園のベンチの上で横になった。ネオンに照らされた夜空に星を見ることは出来なかった。無性に早瀬村の夜空が恋しくなった。でも帰ることなんて出来なかった。煌びやかな光に煙る夜空はとてもじゃないけど美しくなかった。でも私にはそれで丁度良いのだと思った。
二回目はあまり躊躇しなかった。要は気の持ちよう。意識の置き方次第なのだと悟った。
三回目には男はどれも一緒だな、なんて思いながら腰を振っていた。
現金は貯まり、私に余裕を与えてくれた。たまにムシャクシャして散財したりもしたけど、ほんの数人を相手にすればすぐに財布の中は満たされた。
私はちょっとした学校に通うことにした。気まぐれだった。生きる為なら男を悦ばせてれば済むことだ。それでも都会の人間が送る普通の暮らしをマネしてみたくなったのだ。
ただの気まぐれだ。別に普通の人生が歩みたくなったわけじゃない。
それでも勉強は面白いと感じた。新しい知識を得、知らないことを追い求めるのは楽しかった。
学校は一年間で終わった。私には幾つかの資格が与えられていた。それと、全工程を終了した証として賞状を貰った。ただの紙切れだったけど、それが妙に誇らしく思えた。ちょっと嬉しかったので贅沢をしようと思った。雑誌で見たような、値段の張る店で食事をしてみようと思ったのだ。財布の中を見ると心もとなかった。学ぶことが楽しかったので、金を稼ぐことを忘れていた。私は夜になるのを待ち、いつものように適当な男を掴まえ交渉した。行為のあと、その男は随分と満足したらしく大層な金額を貰えた。私はその金を使い、流行りの店で生まれて初めてコース料理を注文した。腹は膨れたけど、味はよく判らなかった。
勉強し、得た知識は以外なところで役に立った。私が得た資格は事務職用のものだったが、ちょうどそれらを欲するオフィスがあったのだ。
かくして私はオフィスレディという肩書きを得た。
私が都会で暮らす人間になった日でもあった。
◇◇◇
クリスマスとう風習はいまひとつ理解できないと思った。そもそも午後十一時を回ったというのに、この人だかりは何なんだ。これでは今日の収入に悪影響を及ぼしてしまう。そもそも今日は私が取り入るスキのある男なんて一人も見当たらなかった。道を行き交う人間は須らく幸せそうな表情を輝かせている。
これは今日の収穫は無しだな。そんなことを考えて路上に立つ時計塔を見た。
あと五分間だけ待ってみよう。
そう思ったとき、肩を叩かれた。やっと声を掛けられたのだ。私はその分の嬉しさもあり笑顔で振り向いた。
だれ、コイツ。
最初に感じたのは違和感だった。
そもそも目の前にいるのは男じゃなくて女だった。
目の前の女はニコニコと笑っていた。見事な金髪碧眼。どう見たって外国人だ。頭には真っ白な帽子を冠っていた。こんな夜に帽子なんて冠って何考えてるんだろうか。
女は腰に巻いたバッグから取り出したクリップボードに字を書き出した。ああ、何かテレビで見たことあるな、と思った。外人が英語でクイズとか出すんでしょ。私は英語なんてわかんないよ。他を当たって欲しかった。
『おひさしぶりです』
意外なことに日本語だ。しかしとても汚い字だった。
そもそも誰だよコイツ。人違いもいいとこだ。女は一度字を消して、新しい字を書いた。
『おげんきでしたか さっちん』
はあ?
ちょっと戸惑ってしまった。そもそもその名前はとうの昔に捨てた名前だ。私は今別の名前を使って暮らしてる。不便もあるが、楽なことの方が多かった。それに、色々なシガラミを考えずに済むのだった。
『さっちん みちがえました きれいになりましたね』
綺麗? 良く言うよ。私が綺麗なら目の前のあんたはどれ程の美人なんだ。
私の中で何かが繋がった。
ああ、そうか。コイツか。
「相変わらずぽーっとしてるわね、ハス」
そう。コイツは母祢蓮。私と同じ早瀬村で生まれた女だった。
『おひさしぶりです』
「あー、そうだね。元気だった?」
当たり障りのない言葉を返す。別に何かしらの感慨があるわけでもなかったし。しかし、驚きだ。この女とこんな場所で出くわすなんて。そう、そうなのだ。この女はとにかく間が抜けていて、こんな都会で生きていけるような人間じゃない。そもそもこうやって筆談めいたことをしなければコミュニケーションを成立させることすら出来ないのだ。人間として最低限必要な機能の一つが欠けている。
そんな女が何故この街にいる?
『げんきです』
「そう? なら良かったわ。ねえ、あんた何故ここに居るの?」
今更この女と昔話に花を咲かせるつもりはないが、その一点だけは興味があった。
『えきに むかう とちゅうでした』
ハスは通りの先を指差して見せた。確かにこの先には駅がある。終電まではもう少し時間もある。しかしこの時間から早瀬村へ帰るのは無理だろう。
「どこに行くの?」
『くうこうです』
「くうこう……空港ね。こんな時間でも飛んでるんだ。で、どこに行くの?」
『きゅうしゅう です』
「はあ? 九州? 九州まで何しに行くのよ?」
『おっとの じっかまで』
一瞬気が遠くなりかけた。この女、よもや気が触れたんじゃないかと疑うってしまった。思わずボードの字を指先で確認してしまったくらいだ。
おっと?
じっか?
おかしい。それはおかしいじゃないか。だってそうでしょう。この女がそんな言葉を使うなんてどうかしてる。ああ、これはドッキリとかそういうのかしら。
「はは、はははは。あははははは」
笑いが出た。目の前の女は私の声に合わせニッコリ微笑んだ。ムカつく。最悪だ。何故なら私は気付いてしまった。フイに気付いてしまった。ボードを持つハスの左手。その薬指にリングがあった。あれは私の勘違いじゃなければ既婚者の証でもあった。
でも私は認めたくなかった。
「あんた、結婚してんの?」
『はい』
ハスは屈託無く笑ってみせた。学生時代から見慣れた笑顔。その心の奥底を覗き込めないほど深い笑顔だった。
私はハスの笑顔が嫌いだった。この女は喋らない。だから何を考えているのか判らなかった。その真っ直ぐな視線は私を責めているように思えてならなかった。学生生活も終盤に差し掛かった頃、私はハスを遠ざけた。距離を置いて付き合うようにした。
そう。
私が選んだんだ。私が選び、そしてハスを遠ざけたんだ。私がハスを遠ざけた。それなのにどういうことだろう。逆に遠くに行ってしまったのはハスの方だったようだ。ハスは結婚しているらしい。一体いつの間に私の方が目下の人間になってしまったのだろう。そんな考えで頭はいっぱいになった。
私はハスの視線がとても苛立たしいと感じた。ふざけるなと思った。どうしてこの女が結婚をしているんだろう。この私が得ることの出来なかった幸せを享受しているのだろう。
間違っている。
私の頭の中でその一言が何度も繰り返された。
『さっちん?』
「ああ、悪い。んで、九州だったけ? 何しに行くの?」
私は早口に質問を浴びせた。ハスはボードの上でマーカーを滑らせた。
『しゅっさんの ため』
衝動的に殴りつけたくなった。こういった大通り、天下の往来でもなければハスが動かなくなるまで殴りつけただろう。人の目がなければ殺していたかもしれない。
おかしい。
おかしいじゃないか。
なんだ、それ。
出産? お前が? 子どもを産むの?
「へぇ。……妊娠してんだ」
熱く、黒く滾る感情とは裏腹に、私の声は冷ややかなトーンだった。頭の中ではどれくらいの力で腹を蹴り上げれば流れるかなんて計算していた。くそ。もっと先の尖ったパンプスでも履いてくればよかった。
「そういえば、旦那さんはどんな人? 写真ない?」
反射的に妊娠の話題を逸らしてしまった。別にそのままでも良かったはずなんだけど。コイツを憎む気持ちで心を満たして退廃的な多幸感を得るのも悪くはないと思った。
私の気持ちも知らないで、ハスは腰に巻いたバッグの中を弄っていた。よく見るとSTEPHENのバッグだった。ちょっと苛立ってしまったが、どうにも中古感があることに気付いた。まあそうだろう。コイツがブランド物を持っていることに驚きもしたけど、中古なら納得もいく。
ハスはバッグの中から手帳を取り出し手渡してきた。手帳はB5サイズほどで、皮で装丁されてあった。普段使い用なのだろうか、その皮は飴色に変色していた。
私は手帳を開いてみた。目的のモノはすぐに見つかる。表紙を捲ると写真が挟んであった。純白のドレスに身を包み、たおやかな表情を浮かべ椅子に座るハスと、その横で暖かい視線をハスに向ける男性。目も眩むような美男美女がそこにあった。まるで雑誌のモデル写真のようだった。
「ありがと。旦那さん格好良いね」
私は素っ気無く手帳を返した。よく、そんな言葉を吐けたと我ながら感心した。正直、もう余裕なんてなかった。これはもう認めるしかないと思った。
私はハスが羨ましかった。
違う。
私はハスが妬ましかった。
もう、認めるしかなかった。
何故か目頭が熱くて仕方なかった。これは、この感情は久し振りだったのでちょっと戸惑ってしまった。乾燥してカサカサにささくれだった私の心は涙に濡れていた。もちろん本物を流すようなことはしない。どんなに心で泣いてもそれを悟られるようなことはしない。これは私が生きるために学んだことの一つだ。やっと手に入れた力の一つなのに、手放してしまうわけにはいかなかった。しかも、コイツが原因でなんてもっての外だと思った。
『さっちんは どうですか』
ハスは手帳をしまい、そう訊いてきた。
「なにが?」
私はあえてそう言ってみせた。
『けっこん しましたか?』
「なかなか上手く行かないわね。アンタくらい顔が良いならすぐに見つかるかもしれないけどさ」
『かおは かんけいないですよ』
「そうかもね」
私は肩をすくめてみせた。私の言葉じゃ嫌味にすらならないらしい。そもそも、というか相変わらずこの女との会話はかみ合わない。一方的に命令するくらいが丁度いいと再認識した。
『さっちんは ここで なにしてましたか』
「私? 人を待ってる最中ね」
言ってることは間違ってはいない。モノは言い様だし、そもそも売春相手の男を探してるなんて言えるわけもない。道徳的にも、道理的にも、感情的にも。そのどれをとっても惨めな理由だけど、微塵も表に出すことは出来ない。悟られるわけにはいかなかった。
現状がどうであれ、コイツが私を見下すなんてことがあってはならない。私が劣等感を抱くのは仕方が無い。でもハスが優越感に浸るようなことは、
絶対にあってはならない。コイツは社会的弱者であり、欠陥的人間であるのだから。
ちくしょう。
一体何なんだ。
何故コイツは私の目の前に現れた。
どうして私を認識した。
外見だって随分変わったはずだ。それなのにどうしてコイツは私を見つけた。ここは大都会。数え切れないほどの人間が行き交う街なんだ。そんな中からどうして私を見つけてしまったんだ。
自分の最悪な運命を呪うしかないと思った。いや、運命なんて何度も何度も呪ってきたから、これが何度目になるのか判らないけど。それでも強く呪った。呪って、呪って、呪い倒してやった。
「ところでハス、時間大丈夫なの? 終電まであまりないわよ?」
私はもう一秒だってコイツと一緒に居たくなかった。私の言葉にハスは慌て始めた。
『また あえますか』
ハスは祈るような表情で訊いてきた。
「どうだろね。私は他に行き様もないから、ひょっとしたらまた会えるかもね」
そして他に生き様もないから。
私はアンタとは違うから。
だから。
だから、次は無い。
今日、こうやって邂逅したことも何かの間違いだ。本来なら私が村を出た時点でアンタとの接点は無くなったんだ。
そう。
今日は何かの間違い。
何か変な力が働いたんだよ。
「ほら、早く行きなさい」
私はハスを急かした。もう話していたくなかった。
『きょうは クリスマスです』
「らしいね」
まだ話すのかよ。そう思いながらも余裕のある素振りを取り繕った。
『プレゼント おねがいしたんです』
「ああそう。プレゼントは貰えたの?」
『はい』
「よかったわね。何貰えた?」
『さっちん』
「何よ」
『さっちん あいたいって おねがいした』
「……そう。じゃ、来年もお願いすると良いわ。また会えるかもよ」
『はい そうします』
『では おげんきで』
『よいクリスマスと よいとしを』
ハスは深々と頭を下げ、そして駅への道を急いだ。
転べ。
転んで流産しろ。
そんな想いを込めて後姿を見送った。
ハスの姿はすぐに人ごみの中に消えていった。私は力無く息を吐いた。もうそれすらも億劫に感じられた。
やれやれ。
サンタクロースも嫌なことをする。ああ、でもアイツにしたら良いことなのか。何か力が働いてるんじゃないかと思ったけど、サンタクロースが裏で動いていたとは驚きだ。サンタクロースっているんだな。私にも何かくれても良いんじゃないかしら。ああ、でも駄目ね。私は悪い子だもん。無理だわ。
何かどっと疲れが押し寄せてきた。
はあ。
色々諦めて生きてきたけど、ああやって目の前で見せられてしまうとやっぱり辛いものだと思った。
私は下腹を摩ってみた。
からっぽ。
何にも這入ってない。
はあ。
産みたかったな。
私も産みたかったな。
私も大好きな人の子ども、産みたかったな。
どうしてこうなったんだろう。
ハスが羨ましい。
いいな、ハス。
私も赤ちゃんが欲しかったな。
ねえ、サンタクロース。あんた、私に赤ちゃん頂戴よ。そしたら、そしたら良い子にするから。昔から私は優秀だったのよ。だから、子どもだってちゃんと育てられるわ。良いお母さんになると思うのよ。きっとハスの何倍だって素晴らしい母親になれるわ。
良い子にするから。
ちゃんと良い子にするから。
私も。
私も。
私だって。
私、ハスみたいに赤ちゃんが欲しいよ。
「……は、ははは。……馬鹿みたい」
限界だった。
私の両の眼から涙が落ちた。
ずっと枯れていたと思ってた。
「くやしい……くやしいよ」
私は近くにある街灯に身体を寄せた。立っていられなかった。独りで立っていられなかった。寄り添いたかった。誰かに寄り添いたかった。誰かに寄り添って欲しかった。
今夜くらいは良い、そう思えた。
そう、今日は特別だ。
ちょっとだけ思い出に浸るのも悪くない。ほんの数年前、全てが上手く行ってた頃の思い出に浸ってもいいだろう。それくらいは許して貰えるだろう。
今日は特別だ。
だって今日はクリスマス。私は悪い子だから何かを貰えるわけじゃないけど、自分の思い出に浸るくらいやっても良いはずだ。
私は街灯を背もたれにして、冷えた地面に座り込んだ。上を見上げるとネオンに曇った空が広がっていた。
「早瀬村とは違うな」
早瀬村の夜は、こう、何ていうのかな。もっと静かだ。今日みたいに曇っていたにしても、この街で見る空のように閉塞感が無い。考えてみれば当り前なんだけど、まあ今日は良いじゃないか。
私は頬を流れる涙をそのままに、ずっと空を見上げ続けた。頭の中では楽しかった学生時代の思い出が、まるで昨日のことのように繰り返していた。楽しかった時間は、何度反芻しても楽しかった。
でもずっと涙は止まらなかった。
化粧はボロボロだな。
そんな心配をしてみたけど涙は止まらない。
「今日は男を引っ掛けるの無理だよ」
誰に対してでもなく呟いた。私の言葉は吐き出す息と共に虚空に消えていった。
私は空を見上げ続けた。
思えばずっと見上げ続けてばっかりだった。都会に憧れ、そこでの生活を夢見た。病床の折りは人並の人生と幸せを夢を見た。一転してからは人並の生活を追いかけた。
結局、私は何がしたかったんだろう。
自ら捨てたと思っていた昔の友人は、いつのまにか遥か高みを歩いていた。都会で暮らし、人並の人生と幸せを手に入れていた。彼女は私が欲しかったものを手に入れていた。
どうしてなんだろう。
あの娘よりも私が追い求めていたというのに。
あの娘よりも私の方が真剣に追い求めていたというのに。
誰か教えて欲しかった。
私は何処を間違え、どうするべきだったのかを。あの娘がどの道を選び、どう過してきたのかを。
誰かに指摘をして欲しかった。
私の間違いと、反省すべき点を。それから、この先どうすればいいのかを。
はあ。
私は深く息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。ああ、二つじゃ足りない。もう一個くらい馬鹿がついてもいい。こう、同じ漢字を三つ重ねて強調した文字があるでしょう。あれの馬鹿を強調した文字はないかしら。近いところで言えば「囁」なんていいかもね。口にパンの耳を頬張ってる様子に見えないかしら。その姿を思い浮かべると滑稽だった。パンだってケーキだって何でもいい。そうやっていっぺんに頬張れば滑稽なんだ。それは幸せだって同じことなのね。
私の失敗は、そうね、きっと求めすぎたことなのかもしれないわ。
ふん。
今更そんなこと考えたって仕方無いのにね。
今日はもう帰ろう。
何か、毒気も抜けてしまった。それにこんな顔してたら男だって寄ってこない。収入が得られないのはちょっと痛いけど、明日にどうにかすれば良い。
そう、ただそれだけのことなんだ。
今日が駄目なら明日やればいい。
そうだ。
私は何も間違っちゃいない。
間違っていないじゃないか。
よし。
なんだか元気が出てきた。
とりあえず帰ってたっぷり眠ろう。
私は腰を上げ、一度大きく背筋を伸ばした。
「あのー」
びっくりした。正直、心臓が止まるかと思った。
「はい」
それでも私は冷静に返答する。自分に染み付いた行動がありがたかった。
「あなた、大丈夫ですか?」
「ええ。別にどうということはありませんが」
「そんなことは無いでしょう。ずっと泣いてらっしゃった」
「……見てたんですか?」
「ああ、いえ、すいません。その、綺麗な人が泣いてるなーって思ってはいたんですが、なかなか声が掛けれなくて」
「はあ」
「で、どうしようかなって思ってたんですけどね。もし他にあなたに声を掛ける人がいたら諦めようかと考えてはいたのですが」
「はあ」
「ずっと待ってたら、他に誰も居なくなっちゃって」
「それで声を掛けた、と」
「え、ええ。その、迷惑でしたかね?」
「そうじゃありませんけどね。どうせ声を掛けるならもっと早くにしてくださいよ。泣いてる女を遠くから見続けるなんてどうなんですか?」
「あ、いや、あはははは。すいません。生来無精者でして。よく注意されます」
「もう。良いですけどね。で、私に声を掛けてきたってことはあなたお独りですよね?」
「は、はあ。まあこんな夜に恥ずかしいことですが」
「それは私も同じです。どうですか、せっかくですから何か食べに行きません?」
「え ?ああ、いいんですか?」
「どうせ下心だってあって声を掛けたんでしょう? 良いですよ、別に。私もこれから家に帰るだけでしたし。あなたに時間があるなら付き合ってください」
「あ、はい。わかりました。お供します」
「ああ、途中化粧を直したいですからコンビニ寄っていいですか? ってちゃんと聞いてます?」
「あ、はい。聞いてますよ」
「そもそもあなたちゃんと前見えてますか?」
「ひ、酷いですね。目が細いのは生来のモノなんです。ちょと気にしてるんですから言わないで下さい」
「あははは。ごめんなさい。あなたお名前は?」
「僕ですか? 僕は神取っていいます」
「じゃあ神取さん、行きましょ。今日はいくらでも呑めそうだわ」
「えええ、僕あまりお金持ってませんよ?」
「大丈夫。お金なら沢山持ってるから。今日は奢るわ。たまに散財してみるのも良いわね」
「……へえ、そりゃすごいですね」
「でしょ。さ、行きましょう」
よし。とりあえず今日はこの冴えない男で我慢しておこう。金が無いならその分愚痴をたっぷり聞かせてやろう。私はそう決めて人通りの無くなった通りを闊歩した。
私は冷えた空気を肩で切って歩く。
私はこれでいいと思った。
そう、これでいい。
私の人生はこれでいい。
私は自分で選び、そして生き抜いている。
なら、今の自分を受け入れることだってちゃんと出来る。今日はちょっとしたイレギュラーだった。そう、こんな場所であの娘に会ったりしたもんだから、ちょっと自分を見失ってしまっただけなのだ。
私は私。
これまでも、これからだって私は私。それ以上でも以下でもない。なら私は私らしくこの人生を謳歌し続けてやろう。私の人生はまだまだ続くんだ。耐え難い出来事があっても、ちょっとだけ嬉しいことがあっても私の人生は続いていく。ボロボロになったっていい。私はその度に笑ってやろう。私が憧れた大都会。私は今、紛れも無くその大都会で生きているのだから。私は夢を叶え続けているのだから。
歩き続けよう。
これからも私は歩き続けよう。
道を抜ければネオン煌びやかな街が広がっている。遠く感じてしまうアノ場所も、重く感じる歩調でさえも、全てが愛おしい私の生なのだ。
これからも私の人生は続く。
これからも私は憧れを追い求め続けよう。
もうあの娘は関係ないよ。
私は私なりの幸せを噛み締めながら生きていくのだから。
そうは、思うんだけど。
そう、思うんだけどね。
でも、ちょっとおかしいね。
さっきから全然前に進まないの。
疲れてるのかも。
眠いっていうか、力が入らないっていうか。
でも腰にある鈍い感覚だけがリアルだった。
神取さんだっけ?
ごめん、ちょっと休憩ね。
おかしいなぁ。
こんなこと初めてで、どうして良いのかわかんないよ。
んー。
私は重くなる瞼を必死に開こうとする。でもどうしても抗い難くてついに目を閉じてしまった。視界は真っ暗。私の大好きなネオンの光さえ見えない。
でも大丈夫。
少し眠れば大丈夫。
あと数時間もすれば朝が来て、何事もなかったように街は動き出す。私も忙しい流れに身を任せ、いつもの暮らしを続けていく。
今日は色々あって疲れたから。
だから、もう眠ろう。
また、明日から頑張ろう。
深い、深い眠りがやってくる。最期に浮かんだのはあの娘の笑顔。
「ふふふ。見てらっしゃい、ハス。来年のクリスマスには私だって幸せになってるんだから。きっと私の方が幸せになってるに違いないわ。その時は昔みたいにお話しましょうか。楽しみね」
それまで、バイバイ、ハス。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。




