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シュリー  作者: エリフル
8/9


 その日はとても早くに目が覚めました。時間にして、午前四時くらいでしょうか。私の体内時計は割かし正確な時間を刻んでおり、おそらく殆ど誤差は無いと思われます。もう一度目を瞑り、眠りに落ちようかとも思ったのですが、心の奥がザワザワとしてそれを許しませんでした。

 今日は、私が早瀬村を出る日でした。

 出る、といってもちょっと遊びに行ったりだとか、そういうことじゃないです。私は住む場所を替えることにしたのです。

 新しく住むことになる場所は、早瀬村から遠く遠く離れた街。村からはバスと電車を何本も乗り継いで行かなければなりません。そしてその街はシキさんたちが住む街でもありました。

 私は上半身を起こし、脇に置いてある上着を羽織りました。上着からはとてもいい香りがします。ネコさんの香りです。冬は寒いから、とネコさんが私にくれた上着でした。

 体温の残った布団はとても名残惜しく感じるのですが、そこは心を鬼にして抜け出ます。

 ふふふ。

 こんな感覚なんて、ほんの半年前には知りませんでした。布団で寝るというのが、こんなにも魅力的だとは思ってもいませんでしたよ。しかも、外気が下がれば下がるほど魅力が増すのです。みなさんはこの様に強い誘惑と戦っていたのですねぇ。

 私は窓際に立ち、カーテンを捲ってみます。まだ日が昇る時間ではありませんから、外は真っ暗でした。

 カタカタと鳴る窓を開けてみます。その瞬間、凍りつくような外気が部屋に滑り込んできました。

 ううう。すごく寒いですね。冬なので当り前なんですけど。

 私はピシャリと窓を閉めました。

 ふぅむ。今ので完全に目が覚めてしまいましたよ。

 私は下へ行くことにしました。

 あてがわれた部屋を出て、冷えた廊下を歩きます。足を踏みしめるたび、きゅっきゅっと音がしました。廊下ってどこの家も同じなんだなぁ、なんて考えながら歩きます。そんなこと考えるのももう何度目でしょうかね。未だに環境に慣れていない所為なのかもしれません。

 階段を降りると、食堂の方から明かりが漏れていることに気付きました。

 あら。相変わらずお早いんですねぇ。

 私は食堂の扉をノックし、少しドアを開けました。

「おはよう。今日は早いね。寒いだろうから早く入っておいで」

 呼び込む声を確認して、私は食堂に入りました。

 じんわりと温かい空気が私を迎え入れてくれます。そして鼻腔をくすぐる甘い香り。

「ハス、ちょうどミルクを温めたところなんだ。飲みなさい」

 そういって、富一さんは私にコップを渡してくれました。

 私は椅子に座り、ミルクに口をつけます。んむ。甘い。ミルクにはたっぷり砂糖が入れてありました。これは最初っから私の為に入れてありますね。私は富一さんへ視線を向けました。

「はははは。上でごそごそやっていただろう? 起きてくるんじゃないかと暖めておいたんだよ」

 富一さんはそういって目を細めました。私は笑顔を返し、再びミルクに口をつけました。

「あまり、眠れなかったのかい?」

 暫くして富一さんが訊いてきました。私は視線だけを動かして肯定します。

「今日は出発の日だからね。どうだい、不安なのかい?」

 そう、ですね。大きな不安はあります。生活環境が大きく変化するのですから、当然といえばそうなのでしょうか。

「でも、お友だちが居るから恐くはないだろう?」

 はい。シキさんたちが居る街ですからね。生活に不安があっても恐さというものは全くありません。私は首肯しました。

 富一さんは小さく頷き微笑みます。

「まだ早いけどご飯を食べるかい?」

 私は何度も頷きを返しました。

「はははは。では暖炉の近くで温まっていなさい。こうやって食事を作ってあげるのも今日が最後だ。腕によりをかけて用意するからね」

 富一さんはそういいながら調理場の方へ入っていきました。私はその後ろ姿を見送りながら残りのミルクを啜りました。

 私は富一さんにいわれたとおり、暖炉の前に移動します。薪はくべられて間もないようで、まだ燃えていない部分の方が多いようです。私は炎がゆっくりと燃え移る姿を見ながら、今までのことを考えました。

 私が十数年暮らした早瀬村。

 今日が、この村で過す最後の日になるのです。なるのですよ。


◇◇◇


 早瀬村は世界遺産登録候補から除外されました。

 あの事件から一ヶ月ほど経ったころ、私にその知らせが届きました。そして、それを知らせてくれたのはネコさんでした。

「残念、なのかナ?」

 どうなんでしょうね。私にはどちらが良かったのかなんて判りません。私は肩をすくめ、曖昧な返事を返しました。

「そうだよねー。でもさ、皮肉と言えば皮肉なんだよねぇ」

 どういうことですかね?

「んー。そうだ! とみーッ! ハスちゃん借りていい? 散歩してきたいんだけどー」

 ネコさんは厨房に居る富一さんへ声をかけました。暫くして割烹着姿の富一さんが忙しそうに出てきます。

「おやおや、着くなり忙しいですね。もうすぐお昼になりますよ? ご飯はどうされるのですか?」

「あ、食べるよー。でもちょっとだけ、ね?」

「判りました。ではお待ちしておりますのでいってらっしゃい」

「ありがとー! よし、ハスちゃん行こうっ」

 ネコさんはそういうと、私の手を取って外へ向かいました。

「んー、今日も陽射しが強いねぇ。私もハスちゃんみたいに帽子が必要だったかもー」

 ネコさんは私の帽子を見ていいました。ふむ、お貸ししましょうか?

「ああ、いいからいいから。それはハスちゃんの大切な帽子でしょ? 私が借りることは出来ないよー。それにちょっと歩くだけだから大丈夫」

 そうですか。でも、無理はして欲しくないですよ。辛いようならすぐに戻りましょうね。

「そういえばさ、この前送っておいた服、着てみた?」

 もちろんです。私はコクコクと頷きを返しました。同梱されていたお手紙に、全部着ることって書いてありましたもの。でも大変でしたよ。十数着ものお洋服を送って戴きましたからね。

「サイズ、大丈夫だった?」

 ええ、概ねは。ただ、お洋服によっては多少……いえ、随分……胸の部分が余るようでしたが。

「あれはねー、私が小学生から中学生くらいにかけて着てた服なんだ。ちゃんと保管してたから、痛みは無いと思うんだけど。それはどうだった?」

 ははあ。これはこれは。小学生から中学生くらいのときに召していたものなんですね。へぇ。

「ハスちゃん?」

 おおっと。ええ、お洋服に関しては大丈夫。お洋服に問題はありませんでした。私は頷きを返します。そう。お洋服に問題は無いんですよねぇ。

「あはー、よかった」

 ネコさんはひまわりの様な笑顔で陽射しの中をクルクルまわってみせました。何といいますか、何をしても絵になる方ですよね。

 しかし申し訳ない気持ちにもなるのです。お洋服を戴いた話ですよ。

『なんだか もうしわけない』

「あら、良いのよ。私はもう着ることも出来ないしー。それに私自身が保管していたのではなくて、私の両親がそうしていたものだからねー。今回役に立つならって提供してくれたのよ」

 そうでしたか。今度お会いする機会があるなら、丁重にお礼を申し上げましょう。

「ねねね、ハスちゃん」

 はい。なんでしょうか。

「そのー、富一さんとはウマくやれてる?」

 ええ、もちろんです。私は首肯を返しました。

「そっかそっかー。なら良かったよー」

 ネコさんは仰々しく胸を撫で下ろして見せます。

 私は今、お隣にある富一さんのお宅で生活させて貰っています。そして、そのことを進言して下さったのはネコさんたちでした。

 結果として早瀬村全体を巻き込むことになった事件の後、私の生活環境は大きく変わりました。

 いえ、きっと早瀬村の全てが変わったのでしょう。

「さっきの話の続き」

 はい?

「早瀬村が世界遺産登録から除外された理由のことー。皮肉って言ったでしょ、私」

 ああ、ええ。そうでしたね。

「結局、早瀬村にとっては悪かったことなんだろうけど、ハスちゃんにしてみれば良かったの、かな? って感じでねー」

 んむ。これは、また何とも返しようがありませんね。

「んー、結構失礼なこと言ってるのは判ってるんだけどねー。それでもやっぱりハスちゃんが家を出たのは良いことだと思うんだよ」

 そう、なのでしょうか。私にはどちらが、とは考えることが出来ませんよ。ことさら「良かった」という基準では、ですね。

 それでもネコさんがおっしゃることも判ります。私の身体を気遣ってということでしょう。

 富一さんの家にお世話になるようになって、私の体に痣が出来るようなことはなくなりました。毎日三度も食事を戴けるようになりましたし、温かい布団で眠ることを許されました。

「当り前の生活、なんて言っちゃうと御幣があるかもなんだけどー」

 ネコさんは一度言葉を区切ります。

「やっぱり、ハスちゃんには今の生活が与えられるべきなんだと思うよー」

 そうなんでしょうか。ああ、今の生活が嫌だというわけではありません。私、富一さんのこと大好きですから。私が小さかった頃から、富一さんはずっと優しかったんです。そんな富一さんと毎日一緒に暮らせるのはとても、そう、幸せだと思うのです。

 でも、ネコさん。それは間違っていたりすることはないのでしょうか。

 隣り、つまり私がお世話になっている富一さんの家の隣は、本来私が暮らすべき家なのです。そこには私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんがいるのです。私と血縁関係にあり、本当の意味で家族であるのはお二人なんですよ。

 私、間違っていませんか?

 今の生活を幸せだと思ってしまう私は、本当に間違っていませんか?

 どうなのでしょう。

 私はその答えを出せずにいるのです。

「まだ、色々と考えるところがある?」

 ネコさんが覗き込むように私を見ました。私は曖昧に笑い頷きを返しました。

「何事も、全部がうまくいけばいいのにね」

 ネコさんはそういって、少しだけ悲しそうな表情をしました。

 そうですね。私もそう思いますよ。

 私はネコさんの隣に立ち、その手を握ります。私、ネコさんに悲しい思いはして欲しくないです。そんな気持ちを込めて握りました。

 私たちは手を繋いだまま道を歩きます。あたりでは真夏の強い日差しを喜ぶ蝉たちが大合唱をしています。見上げる空は瑠璃紺、そして杜若。それから山の向こうは薄花桜でしょうか。

 私たちは無言のまま歩きます。でも、それは息が詰まるような沈黙というわけではなくて、何といいますかねぇ、こう、とても心地良い沈黙とでもいうのでしょうか。それはネコさんも同じようで、ちらりと見上げた唇は微笑みを湛えているようでした。

 ああ、それはそうとネコさんの唇は美味しそうですね。あ、いえ、本当に食べたいってわけじゃないですよ。でもこうプルプルしてて瑞々しいんです。例えるなら……水羊羹?

「んー? どうしたのかナ?」

『くちびる きれい』

「ああ、グロスかな? じゃあ、あとでハスちゃんにもつけてあげるよー」

 いいんですか? 私は何度も頷きを返しました。ああ、でもうっかり食べてしまわないように気を付けないといけませんね。

「わあ、ここは涼しいねー。うん、ちょっと座ろうか」

 そういってネコさんは道の脇にある石段に腰を下ろしました。

「ここ、何だろうね。どうして道の脇に石段なんてあるんだろ」

 ネコさんはそういって周囲を見渡します。

 私たちが居るのは、竹が茂り道を覆う場所です。道が竹林を貫くカタチで伸びているため、このような状態になっています。背の高い竹がトンネルのように重なっていて、太陽の陽射しを遮っています。ですのでこの場所は気温が然程上がらず涼しいのでしょうね。まさにお陰様です。

『ここは むかし おどうが あった』

「おどう……? 御堂、かな? 幽明堂みたいな?」

 そうです。私は頷きを返します。

「へー。じゃあ、この石段はその名残なんだね?」

 そのようですね。私は頷きながらネコさんの隣りに腰を下ろしました。

 私は帽子を取り、膝の上に置きます。通り抜ける風が帽子のツバを僅かに揺らしました。

「はー」

 ん? どうしましたか? ネコさんはぽかんとした表情で私を見ています。

「いやー……。様になるなーって思ってねー。いいよねー。帽子の中から金色の髪が出てきて、風にさらさら揺れて。なんか外国のお姫様みたいーって、ああ、まあお姫様なんだよね」

 はあ。どうなんでしょうね。私はその辺りはよく判らないんですよ。難しいお話です。

「うーん。ハスちゃんは髪伸ばさない?」

 それも考えてます。実はネコさんとお会いして以来、ふわふわのロングに憧れていたりもします。

「伸ばそうよー。今も綺麗だけど、ずっと大人っぽくなっていいと思うよー」

 大人っぽい! これはこれは。決めました。私、決めました。伸ばします。私、髪を伸ばすことに決めましたよ! 私はネコさんに首肯してみせます。

「ほんと? じゃあ頑張ってみようね!」

 ネコさんはそういって、私の手を取り何度も上下させました。なんか、本当に嬉しそうだったので、私もたくさん笑顔になりましたよ。

 私たちは取り留めない話に華を咲かせます。もちろん私には声がありませんので、その表現が正しいのかどうか判りません。でも、そこに堅苦しさやもどかしさは無く、不自由さすらも殆ど感じていませんでした。それはネコさんも同じだったと思います。私自身、とても不思議な感覚でした。

 しばらくして、ネコさんがポツリと漏らしました。

「……まだ、見つからないんだって」

 うん?

「あのー、神取って人。まあ、それも偽名だろうって言ってたから、難しいんだろうね」

 ああ、そうなんですね。私は何気なさを装いながらも、きっとこのことを話す為にネコさんが私を連れ出したのだと考えていました。

 あの日。覚えていますか、水引場で神取さんたちと一悶着あった日のことですよ。まあ一悶着って表現するのもアレですけどね。

 あの日、クマさん達は気絶していた神取さん達を縄で縛り、絶対に逃げることが出来ないようにしていました。それは私もこの目でしっかりと確認しましたから間違いありません。しかし、数時間後、警察の方を伴い村の人が訪れた際、水引場に神取さんの姿はなかったそうです。

 代わりに、水引小屋には四つの死体があったそうです。

 死体は神取さんのお友達だった方々なのではないかといわれています。何故曖昧な表現になってしまうかというと、全ての死体は顔面がエグられていたとのことでした。凶器は水引小屋にあった鍬だったそうです。

 身元を確認出来ないようにするためだろう。そう、結論が出たそうです。そしてその結論はどうやら間違いがなかったようです。何故なら、今現在も死亡した四人の身元が不明のままだからです。

 それから数日もしない内に、様々な人たちが早瀬村へやってきました。とても多くの人が村を訪れていました。あんなに騒がしい毎日は初めてでした。

 早瀬村は随分と有名になったそうです。閑静な農村でしかない早瀬村に、身元不明の死体が四つも出たのですから無理からぬこと、らしいです。それに主犯とされる一人は行方知れずですからね。

 喧騒は約一ヶ月間に渡り続き、村に静けさが戻ってきたのはつい先日といったところでした。

 んー。人が四人亡くなって、終息するまで一ヶ月っていうのは長いんでしょうか。それとも短いんですかね。

「ニュースなんかではあまり見なくなったけど、早瀬村からしたらこれからもずっと続いていく事件だよねー」

 ネコさんはそういって溜息を吐きました。

「それでも、そうやってニュースになったからこそ判ったこともあったんだよね」

 ああ、そのことですね。

 早瀬村は世界遺産登録候補から除外されました。それはネコさんから教えて戴いたことです。しかし、その理由となった原因は、ちょっと前から耳にしていたことでした。

「ハスちゃんも知ってるよね? 村の人口が問題になったってこと」

 私は頷きを返しました。

 早瀬村が登録候補から除外されたのは、先日起こった事件が原因ではありません。問題はその先で露見したのです。

 以前、シキさんがおっしゃった言葉ではありますが、世界遺産は登録されるよりその維持の方が何倍も大変なのだそうです。結論から申し上げれば、早瀬村にはその維持を続けるだけの体力が無かったということです。

 早瀬村は限界集落の定義を越え、ゆっくりと消滅集落に向かっている。これは神取さんの言葉でしたか。今回問題になったのは、まさにその言葉の示すところでした。

 早瀬村には体力が無い。つまり、今後も現在の環境を維持するにあたり、人間の数がまったく足りていないということです。

 魚を与えるより釣り方を教えろ。そんな風にいうんですよね。発展途上国への国際援助の在り方ってヤツです。そう考えると、いくら村に資金が投入されたとしても、それでは意味が無いのです。資金が無くなれば、またお金を要求するほかありません。ここでは維持をするための技術を教えて戴かないといけないってことですね。

 しかし、です。

 早瀬村の人々が、世界遺産基準の環境を維持をする為の技術を得たとしても、日々の暮らしを支えることで精一杯なので、他に何か活動を行う余裕なんてないのです。

 早瀬村で起きた殺人事件。そして陽の目を浴びた村の現状。世界遺産登録について問題点が持ち上がったのは、やっぱり必然だったと思います。

「ハスちゃん」

 はい。私はネコさんに視線を向けます。

「あれから……お祖母ちゃんや、お祖父ちゃんとは会えた?」

 あう。それを訊きますか。私はゆっくり頭を振りました。

 私はあの事件以来、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会っていません。ああ、厳密にいえば違いますね。会うには会ったのですけど、って感じです。

「んー……。そうかぁ。あの時は私たちもどうして良いか判らなかったからナー。ん、でも、今でもどうして良いのか判らないんだけどねー」

 あの事件の日、早瀬村に警察の方が来て、救急車が来ました。救急車はシキさんたち三人を乗せすぐに村を出たのですが、警察の方は村中を調べ回りました。もちろん水引小屋もです。そしてネコさんがコトのあらましを警察の方に説明をしました。問題はその時起きました。

『あのときは ほんとうに すいません』

「どうしてハスちゃんが謝るのよー」

『わたしの みうち ですから』

「みうち……身内か。うーん、でも、傷が残ったりしたわけじゃないし。まあ、急に殴られたからびっくりはしたけどね。でもハスちゃんだって痛かったでしょうに」

 あの時、ネコさんが警察の方へ説明をしているとき、そこに居合わせたお祖父ちゃんがネコさんを殴ってしまったのです。私はすぐにネコさんに覆いかぶさりました。お祖父ちゃんは構わずに私の上から殴りつけてきました。警察の方が慌ててお祖父ちゃんを止めに入りましたが、お祖父ちゃんはその場で暴れ続けたのでした。

『わたしは なれてる』

「痛みに慣れるわけないでしょー。駄目だよ、そんなコトが当り前みたいに思っちゃ。体の傷は、んーん、心の傷だってどっかに溜まっていくんだから。傷は塞がっても、そこに溜まったものは消えないんだよ?」

 そういうもの、なんでしょうか。

 よく判りませんね。

 そうそう。そのときでしたね。私、お祖母ちゃんからいわれたんです。「お前の所為で何もかもおかしくなった。二度と姿を見せるな」って。それでネコさんたちが富一さんへ掛け合ってくれたんですよね。

 私は事件の日、神取さんからいわれた言葉を思い出しましたよ。「外来種である蓮はその池の生態系を乱す。駆除の対象だ」ってヤツですね。

 その名の通り蓮である私は、早瀬村という池の生態系を乱す外来種なんです。

 まー、巧いこといいますよね、神取さん。その言葉を元に考えますと、思い当たるフシというのが結構ありましてですね、こう申し訳がないなぁ、なんて想いで胸がいっぱいになったりもするのですよね。

 仕方ないですけどね。私こうやって生きてますから。

 うふふふふ。

 私、けっこうさっぱりしてますでしょ。ふふふ。さっぱりしている筈ですよ。実はシキさんからそうするようにいわれているんです。どうですか、私ちゃんといい付けを守っていますよ。偉いです。ふふん。

「んー、どうしたの? 鼻なんて鳴らして。女の子がそういうことするのは感心しないナー。男の子の夢壊しちゃダメよ?」

 はう。怒られましたよ?

「シキくんだって嫌がるんじゃないかなぁ?」

 それはマズい。

 そうですか、シキさんが嫌がりますか。これは反省が必要ですね。うん。

『ごめんなさい』

「はい。もうやっちゃダメだからね?」

 私はコクコクと首を縦に振りました。

「あはー。そうそう。そう言えば」

 ネコさんは目を細め、なんだか意地悪そうな顔をします。

「シキくんにはどう返事を返したの?」

 うん? 返事、ですか?

「んもー、しらばっくれてー。シキくんからプロポーズされてたじゃない。あれ、どう答えたのー?」

 あわわわわわわ、そそそそそんなこともありましたね。

「んー? ほら言ってみ? 言ってみ?」

 ふうううう、いえませんいえません。私喋れませんから。

「まだ答えてない?」

 も、ももももちろんです。私は首肯します。

「へー、じゃ、どう答えるつもり?」

 え! ええ? そ、そんなこと判りませんよ!

「んー、ほらほら、どんな風に考えてるかもう喋っていいんじゃない?」

 いえいえいえいえ、私喋れませんから!

「よし! 私ハスちゃんが喋るまでここ動かない!」

 いつまで居るつもりですか! 私が喋ることなんて永遠にありませんから!

「このー、強情だなー。あ、ボード、ボードに書いていいから、ほら! ほらほら!」

 ネコさん! どうして今日はそんなに強引なんですか! 目が凄くキラキラしてますよ? いったい私に何を期待されてるんですか?

「シキくん良いヤツだよー? イケメンだし。あー、残念なところもあるけどね。でもハートはばっちり。私もオススメしちゃう!」

 は、はあ。そうなんですかね。

 シキさん達は事件の後、一週間ほどして早瀬村に遊びに来てくれました。傷は治ったなんておっしゃって騒いでらっしゃいましたが、三人ともシャツに血が滲んでいたんですよね。いえ、キツネさんはジーンズに滲んでましたか。とにかくあれ、絶対傷口開いてますって。一週間で完治するはずがありませんものね。あー、まあそれは置いておいて、です。

 実はその時に改めてプロポーズをされてしまいました。

 いや、もう、思い出すだけで身体が熱くなっちゃいます。もー恥ずかしくて恥ずかしくて。シキさん、皆さんの前でいうんですよ? 俺と結婚してくれって。皆さんの前でさらりといってのけるんです。そうするとほら、皆さんが私を注目するわけじゃないですか。こう、一挙手一投足を見守るみたいな。私どうして良いのやらまったく判らなくて。ですから、ちょっとお時間を下さいって返答をお返ししたのですけど。

「ハスちゃんはシキくんのことキライ?」

 ネコさんは悲しそうな表情でいいます。

 そんなワケあるはず無いじゃないですか。私がシキさんから戴いたモノは計り知れないです。そんなシキさんを嫌うなんてことありません。私は何度も首を振りました。

「じゃあ……好き?」

 えええええ! そ、そう訊くんですか? ……あー、えーっと。はうう。恥ずかしい。ううう。多分、その、あ、ああ、いえ、多分とか失礼なことじゃないです。うん。ちゃんと、その、はー。ふうううう。えと、んー、好き、かな。違う。かな、なんて失礼なことじゃないです。……好き、です。

 あー……。

 ん。

 私、シキさんのコトが大好きです。

 それは、その、富一さんやネコさん、クマさんとかキツネさんへの好き、とは違う好きです。私がシキさんに抱いている気持ちは、特別なものだと確信しています。

 あー……。これでも随分と悩んだりもしたのですよ。最初は戸惑い以外の何でもなかったんですから。まあ、その辺りの変遷に到りましては誰にも打ち明けるつもりはありませんけどね。

「どうなのかナー?」

 ネコさんは首を傾げます。ふわふわの髪がそよぐ風に揺れていました。私はそれに気を取られ、うっかり見過ごしてしまいそうになりましたが、ネコさんの口元はちょっと意地悪そうに笑っていました。笑っていたんです。

『いじわる です』

「えー! そんなことナイナイ。無いよー?」

『ネコさん は けっこう、』

 私はボードをそのままバッグにしまいます。

「ちょ、え? えー?」

 私は帽子を冠り、腰を上げました。んー、良い風が吹いていますね。帽子のツバも嬉しそうに羽ばたいています。

「わ、は、ハスちゃん?」

 さて、そろそろ帰りましょう。富一さんがご飯をつくって待ってますからね。私は来た道を戻り始めます。

「わーっ! ハスちゃん待って待って! 私も一緒に行くっ!」

 ネコさんが慌てた様子で私を追ってきます。

「ねねね、ハスちゃん! 読点で文章終わらせちゃダメよ! 言葉と違って話が途中で終わるとすっごい気になるんだから!」

 ははあ。アレですね。本を途中で読み終えるときと同じですね。続きが気になって仕方ないんですよね。

「で、何かナ? 私、けっこう、何かナ?」

 私は隣を歩くネコさんの手を取り、にっこり笑顔を返します。

「わー、ズルいナー。それズルいナー。でも、あれでしょー? ハスちゃんシキくんのこと好きでしょー?」

 私はにっこり笑顔を返します。

「ええ! 何、その笑顔! え? どういうことかな?」

 私はにっこり笑顔を返します。

「ちょ、は、ハスちゃん? ええ!」

 私はにっこり笑顔を返します。

 ふふふ。

 私はネコさんの手をとり、しっかりと握ります。

「ん? んー? んんんー?」

 ネコさんはしきりに首を捻り、私の気持ちを読み取ろうとしてくれます。

 ふふふ。

 いじわるしてるんじゃないんですよ?

 だって。

 だって、私すごく嬉しいんですもの。こうやって、ネコさんと手を繋いでお話をして、のんびり歩いて笑いあって。ずっと、ずっと思い描いていたんですよ。お友達が出来たらやりたいなって。それが叶っているんです。ネコさんが叶えてくれたんです。私、ネコさんと居ると自然に笑顔になるんです。あ、あまりにも締まりがないって思われるのは嫌なので、なるべくキリっとしてるんですけどね。

 だから、私の笑顔は心からのもの。だからきっと伝わりますよね?

「うー……まー、ハスちゃん笑ってるなら良いかな」

 ふふふ。ちゃんと伝わってます。

「あ、ちょっと意地悪な笑顔になった」

 あら。そうですか?

「あはー。何か楽しいね」

 はい。

「お腹すいたね」

 はい。

 私たちは無言のまま歩きます。相変わらず陽射しは強く、僅かな時間で汗ばんでしまいます。でも、それすらも心地良いと感じることが出来るほど私の心は清々しいものでした。それはきっと私の指先に感じる確かな存在のおかげだと思うのです。

「ハスちゃん」

 はい。

「ずっと、お友達でいてね」

 はい。

 私は大きく頷き、そして何度も笑顔を返すのでした。


◇◇◇


 ぱちり。

 ちょっと大きめの音が私をまどろみの淵から引き戻しました。うっすら目を開け暖炉を見ると、大きめの薪が二つに割れていました。ああ、火が小さくなってますね。火が消えてしまう前に新しい薪を足さなければいけません。そうは思うのですが、私はまどろみに足を取られなかなか動き出すことが出来ませんでした。

 不等間隔で途切れる意識の脇で、新しく薪が足されていきました。火は再び勢いを取り戻し、赤く燃え上がりました。

 ありがとうございます、富一さん。胡乱だ意識のまま、私の隣に座った富一さんに頭を垂れました。

「うははは。悪い。起こしちまったか?」

 いえいえ――。

 はい?

 私は両目を開け、隣の方を確認しました。

「おお、おはよう」

 お、おおおおおはようございます、シキさん。ききき、今日はお天気もよく、ですね?

「今日は凄い雪だな。ちゃんと暖かくしてろよ?」

 は、はい。お天気は雪でしたね。は、ははは。

 私の頭は最悪の事態を想定しながらも、視線を気取られないようにゆっくり、つまり恐る恐るってことですけど、壁に架けられた時計へ動かしました。

 七時二十分。

 うわあああああ! 私、眠ってしまってました? そうなのですね? そうなんですね?

「うおおお、何だ、どうした? 急に立って」

 と、富一さん、富一さんは?

「んー、富一さん探してんのか? 今、厨房に居るぞ」

 私は転がるように厨房へ駆け出します、ます、ません!

「おい、じっとしてろ。もうすぐ朝食持ってきてくれるから」

 シキさんはそういって私を強引に座らせてしまいました。

 あわわわわ。しっぱいです。大しっぱいしました。まさか寝過ごしてしまうなんて。私の背中を変な汗が流れていきます。し、シキさんもう到着していらっしゃったんですね。あ、いえこんな時間なら当然ですけど。

 はううう。もう何やってますかね、私。シキさんとは半月ぶりに会うというのに、さっそく迷惑をかけてしまいましたよ。はあ。

 シキさん。半年ほど前に知り合い、そして私に結婚を申し出た方。そして今日から私がお世話になる方です。

 私は今日、シキさんの住む街へ移り住みます。そして私の住む場所は、シキさんのお部屋でもありました。

 あう。

 その、同棲、というヤツです。

 私は隣に座るシキさんの横顔を盗み見ます。まるで女性のように丹精な顔立ち。そして私より長い髪。シキさんの視線は暖炉の火に向けられ、私の視線に気付いてはいないようです。私の頬が熱いのは、暖炉の火の所為でしょうか。それとも、上気しているのですかね。

 私は半年という時間をかけ、シキさんのプロポーズを受けることにしました。ただ、それがすぐに結婚に繋がるわけではないのですけどね。

 私はまだ未成年です。法的に入籍が出来る年齢には達しているのですが、それを私の意思のみで決定できる年齢には達していないのです。ですから、その、にゅ、入籍は私が成人してからということになります。なるのですよ、はい。

 そういえば、キツネさんからは年齢に拘る必要が無いっていわれました。それでも私はシガラミがあるままの状態での入籍は避けたかったのです。

 シガラミ。

 自分で考えておいて嫌になります。私、シガラミなんて思っちゃってるんですね。

 シガラミ。漢字で書けば柵です。その意味するところは読んで字の如く、柵。

 私にとっての柵。囲い。それはお祖父ちゃんとお祖母ちゃん。他ならない、私にとって唯一の家族。その唯一無二の存在が私を縛る檻。

 あれほど求めたお父さんとお母さんの姿。それは私にとっての家族。でも、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんだって同じ家族なのです。なのですよね。それなのに、今の私はその存在をシガラミだと考えてしまっているのです。

 何故、そんな風に思ってしまうようになったのでしょうか。

「寒くないか?」

 私の方へ視線を向けたシキさんがいいました。

 ああ。うん。

 そうですよね。

 貴方が居るから、私はそんな風に思うようになったのでしょう。

 都合、良いですよね。

 以前、私には縋るべき相手がお祖父ちゃんとお祖母ちゃんしかいませんでした。私はお二人に育てて戴きました。ですからお二人から要らないといわれてしまうとどうしようも出来なかったのです。

 しかし、私を必要だとおっしゃる方が現れました。その方は私と居ると楽しいのだそうです。面白いのだそうです。ずっと一緒に居たいのだそうです。私はその手を取ることを決めました。おそらくそう決めた瞬間から、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは私にとってのシガラミになってしまったのでしょう。

 なんて即物的な思考なんでしょうね、私。他に頼れる方が見つかったらそちらに気持ちを乗り換えてしまうなんて。

「ん? 大丈夫なのか、ハス」

 ああ、すいません。私は首肯します。

 んーむ。いけません。いけません。しっかりしないと。これ以上失敗を重ねては駄目です。それに、今更こんなこと考えても仕方ないですね。

「あ、おい。まだここに居ろって」

 いえいえ、そうおっしゃらずにちょっと付き合ってください。

 私は隣に座るシキさんからちょっと距離を開け、ちゃんと座りなおします。そして深々と頭を下げました。

「おいおい。何やってんだよ?」

「はははは。シキさんに謝っているんでしょう。そうなんだろう、ハス」

 厨房から出てきた富一さんがいいました。私は頭を上げ、目は伏せたまま頷きます。

「謝るって、なにを?」

「シキさんを迎えにいけなかったことをですよ。ハスはちゃんと早くから起きていたんです。責めないであげてくださいね。転寝をしているのを起こしても良かったのですが、そうしなかったのは私なのですから」

「いやいや、別にそんなことはいいから。つか、そんなこと考えていたのかよ?」

 もちろんですよ。これからお世話になるというのに、お迎えにも上がらずに転寝していたなんて。本当に、申し訳ないにも程があります。

「あー、こんなの仕方無いだろ。ここの村行きのバスは早すぎるんだよ。もし迎えに来られてたら逆に申し訳ない気持ちでいっぱいになるって」

 シキさんは手をぱたぱた振りながらいいました。

「それにな、んな堅苦しいこと考えていたらこれから先息が詰まるだろ? テキトーで良いんだよ、テキトーで」

「はっはっは。シキさんらしいですな。しかし、ことハスのことに関して適当は……許しませんよ?」

「う、うお、あ、はい。……つか、ハス、富一さんはお前のことになると人が変わるよな」

『やさしいでしょ』

「いやいや、恐ぇよ。あんな凄みのある老人はみたことねぇよ」

「はっはっは。私にも歴史がありますからな。さあ、お喋りはご飯を食べながらでも良いでしょう。暖かいうちにどうぞ。……ハス、手伝ってくれるね?」

 私は頷きを返し、すぐに富一さんの手伝いにかかります。私の仕事はお皿を並べることです。水屋から三人分の食器を取り分けますよ。今朝のご飯はパンにシチュー、それから目玉焼きです。

「朝から豪勢だな」

「いやいや、こうやってハスに食事を作ってやるのも最後ですからね。昨日、何が食べたいか訊いておいたんですよ」

「最後って、やっぱりそうなるのか」

「ええ。最後です」

 そう、最後なんですよね。

 これは私と富一さん、それからシキさんを交えて取り決めたことです。

 私が村を出ると決めたとき、富一さんがいいました。

「二度と村に戻ってはいけないよ」

 最初、私には富一さんの真意が計り知れず、ただただ戸惑うばかりでした。しかし、結婚を前提に村を出るということはそういう事なのだそうです。これから新しい生活を始めるにあたり、私たちには様々な困難があるそうです。その際頼るべきはお互いの存在であり、故郷に住む人たちではないそうです。

 とてもじゃないですが、納得の出来る考え方ではありませんでした。それはシキさんも同じだったようで、何度も富一さんに説得を試みて下さいました。それでも富一さんは頑として譲ることはありませんでした。

 私の心を折り、考え方を改めさせたのは「旦那様と奥方様もそうやって自分たちの生活をつくりあげたのです」という富一さんの言葉でした。

 あ、此処でいう「旦那様」と「奥方様」は私のお父さんとお母さんですよ。その時に初めて知ったのですが、富一さんはもともと早瀬村の人間じゃないのだそうです。お父さんが日本へ来たときに雇われたのだといっていました。

 まあ、それは置いておいて、とにかく私の考えは富一さんの一言で大きく変わったのでした。お父さんとお母さんが選んび辿った道なら、それはきっと間違いではなかったのでしょう。お父さんは遠く離れた国からやってきて、お母さんはお父さんと連れ添って外国へ行きました。きっと大変だったことは私にだって判ります。だから私は富一さんの言葉を受け入れることが出来ました。

 シキさんは今も渋ってくれていますけどね。一応私の心の中で踏ん切りが着いたことを申し出たら納得はして下さいましたけど。私の代わりに執着して下さっているのはシキさんの優しさだと思いますよ。いつか、私があの時もっと良く考えていれば、なんて思わないで済むために。

 優しい方々ですよね。私の事を想い、確かな心根を持って接して下さっています。そう考えると私はなんて幸せなんだろうって思います。んー、でも、ですね。これって今に始まったことじゃないですよね、きっと。富一さん然り、他の方々然り、です。今までだって皆さんがそういった気持ちで私に接していて下さったはずです。でも私はそれに気付くことが出来なかった。村を去るギリギリになって気付くなんて、短慮にも程があります。皮相浅薄と揶揄されたとしても仕方無いところです。

 ずっと、独りだと思っていたんですけどね。でもでも、よく考えてみてください。私はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに育てて戴いたわけですし、学校にだって行きました。もちろん学校では先生が勉強を教えて下さいますし、周りの皆さんも気を使って下さったのだと思います。そう考えるとこれまでの私の人生は決して独りではなかったのですね。大なり小なり周りの皆さんから助力を戴いて生きてきたのですから。

 人はひとりでは生きられない。今ほどこの言葉を強く想うことはありません。んー、まあこの言葉に関しては人それぞれ想うところがあると思いますけどね。私にとっては結果論としての言葉となりますよ。独りで生きてきたんじゃないんだなぁって。そう考えると報本反始の気持ちがより強くなるというところです。

 でも結局こんな気持ちになれたのは、他でもないシキさんの存在に因るわけなんですけども。

 やはり貴方は私にとって特別なんでしょうねぇ。

 私はシキさんの方へ視線を投げます。シキさんはまだ納得のいかない表情でした。

「……どうしたよ」

 いいえ。私は笑顔を返します。

「本当に、良いのか? まあ何度も訊いたけどさ。ここにはお前の家族だって居るんだぞ?」

 はい。心残りが全く無いとはいえませんが、それでもそれは仕方の無いことだとも考えています。以前ネコさんもおっしゃっていましたけど、全てが上手く行けばいいのに、なんて考えていた時期もありましたよ。でもそのことばかりに囚われていたら次の場所に進むことなんて出来ません。

『はんとし かんがえて けつろんだした』

 私を次の場所に誘ったのは貴方です。そして私はその手を取ると決めたのですから。だから、私は現状に不満はありませんよ。




「あー、うん。まぁそうだな。結局そうなんだよな。はー」

「まあ仕方ありますまい。人生とはそういったものなんです。大きな変化が

訪れるのは、自分が考えているタイミングより少し早いものです。あと少し時間をかければ納得出来るだけの状況が揃うなんてことはザラです。しかし、それからでは遅いんですよね。その頃にはタイミングを逃していますからな」

 富一さんは遠くを見ながらいいます。富一さんにも何か想うところがあるのでしょうね。

「うーん。そういうモンなのかね。まだ俺にはわからねぇっすよ」

「年を取れば判ります。そしてハスが採った結論が正しかったこともね。シキさんの杞憂はハスの祖母たちについてでしょう? あの方たちは大丈夫。私が責任を持って引き受けています。これは早瀬村を後にする旦那様と奥方様から託されたことですから。だから若いあなた方がその責任を背負う必要はありません」

「……そっすか」

 シキさんは富一さんの言葉に渋々頷きました。

 その後は取り留めの無い会話をしながら食事がすすみました。富一さんが作るシチューはとても美味しくて、きっと一生忘れることはないと思います。

 一生忘れることがない、ですか。そう考えるとこの村での生活は忘れようがありませんよね。山から吹きおろす風も、村の隣りを流れる川も、大地を覆う草花も。そのどれもが特別です。それらは私の五感全てに存在を刻んであります。風は薫り、水は喉を潤し、花は目を楽しませてくれました。私はこの大地に生かされ、村に育まれたのですよ。

「どうした、ハス?」

 食事を終え、コーヒーを愉しんでいたシキさんがいいました。

 いえ、特にどうというわけではないのですが。

『きもちのせいり してました』

「……そうか。なんつーか、悪いな」

『あやまらないで えらんだのは わたし』

「そうだな。そこは一番尊重しなきゃな」

 シキさんはそういいながら席を立ち、私の隣に座り直しました。

「いいよな、俺イケメンだし」

 良いも悪いも、もう座ってるじゃないですか。別に構いませんけど。

『珈琲 おいしいですか?』

「いや、まあ美味いけどさ。お前って漢字の配分が間違ってるよな。別に構わないけどさ」

 あら、そうですかね。よく判りません。それはそうと、私コーヒーは苦手なんですよね。あの苦味って慣れるんでしょうかね。で、さらに発展して美味しく感じるんですか? 判りませんねぇ。コーヒーの苦味って、以前お腹を壊したあの草の味に似ているんですよね。こう、香りはコーヒーの方が断然マシなんですけどね。味、というか苦味はそっくりなんですよ。

「んー。飲んでみるか?」

 結構です。私は首を振りました。私にはコレがありますから。

「お前牛乳好きな。でもその割りにはちっこいよな」

 ちっこい! ほうほう。おやおや。これはこれは。んまあ、確かに小さいでしょうとも。色々と。方々が。しかしですね、小さいと形容されて、私にも許せる箇所とそうでない部分とがあるのですよ。その指摘箇所如何によっては普段温厚な私だって怒りを覚えることもあるわけです。では、訊いてみましょうか。

『どこが ちいさいと?』

「うん? あー、全部?」

 げ、幻聴?

『どこが ちいさいと?』

「全部」

 ありえなくない?

「あのよ、あんましそんなこと気にすんな? 俺はそんなお前が大好きなんだから」

 嬉しくないです! そんな好きとかいわれれば私がはうあうあわわするって思ってますかね。そもそも仮にも……ふぃ、フィアンセに向かって全部が小さいなんて失礼にも程がありますよ! 謝れば済むような問題じゃないかもしれないです。もう普通の言葉で誤魔化しが効かないレベルの怒りかもしれませんよ。どうしますかね、シキさん。

「ああ、そういやお前も大きいのがあるな」

 おっと。

 おっととっと。そう。それ。そういうのが聞きたかった。聞きたかったのですよ。さすがシキさん判ってらっしゃる。さあ、いっちゃってください。私の大きい部分、どこですかね。

「お前は目が大きいよな。とても可愛いと思う」

 うわ。

 何か、普通です。普通ですよね。もっと気の利いた言葉は無かったんでしょうか。女の子褒めるときって、大概目を褒めませんか? たしかそうですよ。ネコさんから借りた本に書いてあった通りですね。

 なんだかなぁ。

 初めにそう褒めて戴けたなら素直に喜べるんですけど。全部が小さいっていわれた後にそういわれてもなぁ。なんか、とって付けたみたくないですかね。

「それにな」

 はい?

「……それに、母親にそっくりだ」

 あうう。

 それは、ズルイですねぇ。

「お? うははは。やっぱりお前は笑うと美しいな」

 ええ? 私笑ってますか? 自分ではそんな締まりの無い顔をしているつもりはないのですが。

『なぜ おかあさん しってますか』

「ああ、富一さんに写真を見せて貰ったことがあるんだよ。お前の両親が写ってるヤツな」

 写真? 写真があるのですか?

「ハス」

 厨房から富一さんが顔を出しました。あのあの、富一さん! お父さんとお母さんの写真! 写真があるって!

「ハス、今シキさんのお話にあった写真は荷物の中に入れてあるから。向こうで落ち着いたら開けて見るといいよ」

 ほわああああ、今、今見たいんですけど! 駄目ですか? 駄目なんでしょうか? わ、私、お父さんとお母さんの写真は一枚も持っていないんです。ですからお二人の姿は記憶の中にあるだけなんですよ。

「うははは。ハス、今荷物をひっくり返しちまうと大変だぞ? 昼前にはクマとキツネが着くからな」

 そ、そうでした。うん。そうでしたね。すいません。我慢しますよ。

「そういえば、ハスは荷造り終わってるのか? まだなら手伝うぞ?」

 ん? ああ、いえ、大丈夫です。そちらにある分で全てですよ。私は部屋の隅に積まれたトランクを指差します。

「何? あれだけ? あれだけなのか? トランクが三つしかないぞ?」

 そうですよ。私は首肯を返します。

「ハスはあまり私物を持っていませんからな。漣音子さんから戴いた服がなければトランク一つで十分な程です」

「へぇ。トランク一つで十分な荷物か。……何か格好いいな」

 どうなんでしょうね。私にはよく判りません。

「それからシキさん。一応必要なものは全てまとめてあのトランクに入れてあります。印鑑、通帳。それから戸籍の写し。あとでシキさんもご自分の目で確認されてください。それから本籍の移転につきましては、ハスが成人した後にと考えております。よろしいですか?」

「ああ、はい。それで宜しくお願いします。それと、必要なものがあった場合は富一さんに連絡を取ればいいんスかね?」

「そう、なりますな。残念ですが、この村でハスを取り巻く状況が改善することはないでしょう」

「そっすか」

 シキさんはちょっと悲しそうな目で私を見ました。

 あらあら。

 そんな目をしないで良いんですよ、シキさん。私だって色々考えて選んだ道ですから。迷ったとしても、過ぎたことに後悔はありません。貴方が気に病むようなことは何も無いのです。ふふふ。本当に優しい方ですよ。

 私はシキさんに身体を預けました。

「お、おい。富一さんの前だぞ」

「おやおや。では私は退散しておきましょう」

「あ、いや、そのッ!」

「はっはっはっ。そのままハスの傍に居てやってください。私は食器を片付けてしまいます」

 富一さんはそういって厨房の中に引っ込んでいきました。

「ぐあ……。ハス、なるべく人前はやめとこうぜ?」

 む。そうなんですか?

「うーん。まあ今は良いけどな。よし、暖炉の前に行こうぜ。あそこが暖かくて気持ち良い」

 判りました。私はシキさんに頷きを返しました。

 私たちは再び暖炉の前に座ります。私はシキさんに寄り掛かり、暖炉の火をぼんやりと見ていました。

 何か、いろいろあって、あっという間に時間が過ぎましたね。いえませんけどねー。時間が過ぎたっていうのはここ半年間ですね。でも今までのことを振り返ってみても、やっぱりあっという間だったんですよね。

 私はずっと早瀬村で生きていくのだと思っていました。これまでの生活がずっと続くと考えていました。人の縁は不思議です。これまで考えもしなかった状況に私は戸惑いを感じています。いえ、自分で選んで決めた筈なんですけどね。後悔は無いのですが、これで良かったのかな、なんて疑問は残るわけなんですよ。どう表現すれば良いのでしょうか。んー。きっと、地に足が着いていないって感じなんでしょうかね。

 さて、それはそうとこれから忙しくなりますよ。新しく始まる生活なんですが、一体どうなるんでしょうね。期待と不安で胸がいっぱいです。そんなこともあってか、夕べは全然眠れなかったんですよ。今はシキさんのお顔を見たことで、幾分落ち着きもしてはいるのですが。

 あふ。

 んー。ちょっと眠いですねぇ。

 薄くなり始めた意識の先で、暖炉の火が煌々と燃えています。とても暖かいです。去年まではただ震えて耐えるくらいしか出来ませんでしたからね。今の私はちょっと贅沢をし過ぎているのではないでしょうか。んー……。なんか、悪いですねぇ……。

 んー。

 私は傍に在る暖かさに身を委ね、ゆっくりと目を閉じました。

 こんなに暖かい眠りがあるなんて、私、ずっと知りませんでしたよ。


◇◇◇


 時計の音が鳴ります。

 ポーン。ポーン。ポーン……。

 時計の鐘は正確なリズムを刻み、まどろみの海をたゆたう私の意識を優しく揺り動かします。

 私は意識の底で鐘の音を数えます。

 あれ?

 ちょ、ちょっと待って欲しいです。

 鐘の音が八回を越えた辺りで違和感を感じました。それは心の奥底がザワザワとして落ち着かない感じ。そして十一回目の音が鳴って、私は哀願するようにせめて此処で終わって欲しいなあなんて思っ……。

 ポーン。

 十二回目の音は、無常に鳴り響きました。

 私の意識は一瞬で引き上げられます。私は、酸素を求めて水面から顔を出すような勢いで跳ね起きました。

 し、失敗しましたッ!

 私は霞む視界を手で擦り、壁に架けられた時計を確認します。

 あわわわわ。

 当り前ですけど時計の針は正午を指していました。

 はう!

 視界の横、テーブルには富一さん、シキさん、キツネさん、クマさんの四人が座っていて、じーっと私を見てます。

「おはよう、ハス」

 シキさんがマグカップを傾けながらいいました。

 お、おはよう、ございます。

「テメェ、ちっと寝過ぎじゃねぇの?」

 ご、ごもっともですね、キツネさん。

「……まあ、いいじゃないか。俺たちもちょっと一息入れることが出来たし」

 き、気遣いの言葉、痛み入りますクマさん。

「ハス、ちょっと顔を洗ってきなさい。お客様の前に出すのはちょっと恥ずかしいよ」

 あわわわわ……!

 私はすぐさま洗面所へ向かいます。食堂兼リビングを出るとその温度差に驚いてしまいます。でも寒くなんてありません。そんな余裕無いです。冷たい廊下を裸足のまま駆け抜け、洗面所に着くなり冷水を顔にかけました。

 うー……。顔を上げると水が顎先からポタポタ落ち、私のつま先を濡らします。正面に配された鏡には、髪がもっさりなった私が居ました。もともと癖の強い髪質ですが、これは無いだろうってくらいもっさりしてます。

 失敗です。

 大失敗ですよ。

 転寝をしてシキさんをお迎えに上がることが出来ず、さらに転寝をしてキツネさんとクマさんをお迎えに上がることも出来ませんでした。不味くない? ありえなくない? 何度も同じ言葉が頭の中を過ぎりますよ。あう。

 何といいますか、失敗というより失態ですね。

 いやいや、そんな自分相手にあげ足取りしてどうするんですか。とりあえずこれ以上の失敗……失態を犯さないように速やかに身なりを整えましょう。

 私はタオルで顔を拭き、寝癖の付いた髪に手櫛を入れます。癖の強い髪は直ぐに跳ね上がりました。

 以前、髪の癖についてネコさんと話したことがあります。んー、まあ私は喋れませんがね。会話、という言葉の意味で、です。

 ネコさんの髪は腰上くらいまであります。部分的にウェーブの強弱があって、こう、フワフワしてるんですよね。手入れが大変だとおっしゃってましたけど、とても綺麗な髪です。で、何とかっていう整髪クリームを使ってらっしゃるそうなんですよね。私も試しに使わせて戴いたんですが、残念なことに私にはあまり合っていなかったようなんです。

 そこでこれならば、と送って戴いたのがコレ、椿油です。読んで字の如く椿の油ですよ。日本では古くから整髪するのに使っていたそうなんですが、これがまた良いのです。こう、私の髪にぴったり合うっていうんですか? どんな寝癖もこれで解決出来ます。

 ほら、こんな感じです。

 鏡に映った私は、先ほどまで転寝をしていたなんて思えない程きっちりしていました。……転寝していた事実は消えませんけど。

 ああ、そういえば。ちゃんと荷造りしたつもりでいたのですが、洗面用具は置いたままでしたね。どうしましょうか。

 うーん。

 うん。

 よし、忘れていったということにしましょう。私は手に取った歯ブラシと椿油を元の場所に戻します。うん。決して戻って来る日の為ではないです。忘れていったんですよ。

 私は洗面所を出て、冷えた廊下を進みます。んー、スリッパくらいは履いてくるべきでしたね。冷たいです。向かう先、食堂兼リビングからは談笑が漏れていました。何といいますか、これは入り辛いですね。学生のときよく感じていたアレと同じです。ま、まあ今は状況も違いますし、入っても大丈夫ですけどね。

 大丈夫ですよね?

 だ、大丈夫ですか?

 私はリビングのドアを少しだけ開きます。漏れていた談笑の声がより大きくなって、そして一瞬の間の後ぴたりと止みました。

 う、うーん?

 私は恐る恐る顔を出します。

 ど、どうも、です。

「遅ぇ」

「キツネ、そう言うな」

「……女は身だしなみを整えるのに時間が掛かるもんだろう」

「へーへー、そうでございますか。つか、準備が出来たならそろそろ出ようぜ?」

「おや、もう出発されますかな?」

「そうですね。本当はもっと居たいんですが。このままだと名残惜しくて動けなくなりそうです」

「ケッ。テメェにゃ似合わねぇよ」

「……シキだけのことじゃ無いんだろう。なあハス?」

 クマさんが大きな「●」を揺らしこちらを見ました。

「ハス。――大丈夫か?」

 シキさんは優しく、それからどこか寂しそうな表情でいいました。

 出発。

 何気ない言葉です。

 でも、私にとっては大きな意味を持つ言葉です。

 出発です。

 早瀬村とのお別れの時です。

 私はもうこの村に戻ることはありません。

 本当に、お別れです。

 お別れにあたり、私は村の隅々を歩きました。全部周るのに数日を要したくらいです。

 早瀬村。全てを失った私を受け入れて、そして育ててくれた場所。

 色々ありました。どのような積み重ねがあったにしろ、この場所には私の半生、いえ、それ以上の時間が刻まれていますから。そういうこともあって、いざ出発となると躊躇してしまいそうになりますね。

 うん。

 でも、大丈夫。

 大丈夫ですよ、シキさん。

 私はシキさんに大きく頷きを返します。

「そっか」

 シキさんは困ったように笑って、そして私を抱きしめました。

「ケッ。おいおい、先行っとくぞ。荷物はこれだけか?」

「ええ。その二つをお願いできますか。そっちの一つはハスが自分で運ぶと思いますので」

「おら、クマ! お前一個持てよっ」

「……ああ」

 私の隣をキツネさんとクマさんが通り過ぎます。その後を富一さんがほくほく笑いながら歩いていきました。

 あの、シキさん?

「すまん。もう少し、このままな」

 はい。

 私はシキさんの背中に両手を回します。シキさんは大きいので、私の体躯では左右の指先が触れることはありません。でも指先に微かな違和感がありました。

 これは、傷ですね。私と同じ傷。

 私はシキさんの傷について詳しいお話を聞いたわけではありません。ですから私がシキさんの半生について思案を巡らせることは失礼にあたるでしょう。それでも、私は考えてしまうのですよ。

 シキさんは傷を隠しません。いつ頃からそうなのかは判りません。でも、ネコさん達と出会ったときには、傷を隠すような素振りをしなかったそうです。

 傷は悔恨。辛い記憶の澱。ですから、傷を隠してしまうのですよ。悔やんだ時間を悟られないように。恨んだ日々を見透かされないように。

 傷を隠す必要が無くなる日。それはその傷にまつわる全てを昇華した日です。諦めでもなく、無かったことにするでもなく。ただ、あるがままに受け入れ、そしてそれでも良いと思えるとき。正直、私にはそんな日が来るのか疑問でなりません。目を瞑り傷のことを思えばとてつもない恐怖で胸がいっぱいになります。呼吸は乱れてしまうし、涙だって流すこともあります。

 それでもシキさんは傷を隠さない。

 私がたった半年という期間で、生活の全てを替える決断が出来たのは、シキさんのそういった部分に惹かれたからに他ならないのです。

 まあ、誰かに打ち明けることはありませんけどね。やっぱり仄暗い感情が混じってますから。

「何故笑う」

 あれ? 笑いましたか、私。

「不安でいっぱいな俺はおかしいか?」

 あら、そうなんですね。私には余裕があるように見受けられますけど。

「正直、嫁に来いって言葉がここまで重いとは思わなかった」

 はあ。そうなんですね。よく判りませんが。

「でもな、絶対に幸せにするからな。ここでの暮らし以上に幸せだと思わせてやるからな」

 はい。不束者ですが、よろしくおねがいしますね。

 でも、一つ勘違いされているようですよ。

「ん? ……あ、な、た、が、い、れ、ば、し、あ、わ、せ……。お、おう。そうか」

 やった。伝わりましたね。こう、シキさんの背中に指で文字を書いてみたんですよ。正面から抱きついてますから、鏡文字になってるんですけどね。さすがシキさんです。えらい。

「ハス」

 はい。

 シキさんが私を見ます。その瞳はいつもより熱を帯びているようでした。私はその瞳に吸い込まれそうになりながらも、必死にシキさんの視線を受け止めます。そしてシキさんのお顔との距離が徐々に縮まって……。

「おい馬鹿ップル」

 はい?

「邪魔するには最高のタイミングだったろ?」

「キツネ、てめぇ」

「五月蝿ぇよ、馬鹿シキ。外で待ってる身になれよ。無茶苦茶寒いんだぞ。天気崩れる前に山越えなきゃいけないんだ。面倒臭ぇことになる前に出るぞ」

 あらら。だ、そうですよシキさん。

「判ったよ。よし、行こうかハス」

 はい。

 私はシキさんに手を引かれ家を出ました。家の前には黒くて大きめの車が停まっていました。はあ、立派ですね。この村では見たことが無いタイプの車です。んーとCHEVROLETとか書いてますね。んー、チェブロレット? 何でしょうかね。

「何だ、ネコの車借りて来たのか」

「……それ以外の誰に借りるんだ」

「いや、レンタカーとか」

「ケッ! そんな金あるわけねーだろ」

「はっはっはっ。……いやしかし良いものですな。堅牢さとエレガントさを併せ持つデザイン。んー、やはりシェビーは良い」

 何か富一さんが変ですね。車をあちこちから眺めては溜息を吐いて、所々を撫でては溜息を吐いてます。

「ちょっとエンジンを掛けてもらえますかな?」

「じぃさん、好きモンだな? ほらよ」

 キツネさんが車のエンジンを掛けました。静かな村に排気音が響きます。

「ほほう。うーん、旧式も良いが高年式も素晴らしい」

「なあハス。富一さんって車好きなのか?」

 さあ。どうなんでしょうね。私は首を傾げます。でも、あの富一さんの喜び様は初めて拝見しますよ。

「……シキ、ハス。そろそろ行くぞ」

 先に車に乗り込んだクマさんが急かします。ちょ、ちょっと待って戴けますか。私は富一さんの元へ駆け寄ります。

「おや。どうしたね、ハス」

 いつもと変わらない笑顔で富一さんがいいます。この笑顔はずっと変わりません。私が小さかった頃から、ずっと変わらないです。思えば、富一さんはずっと私を見ていてくれたのでしょうね。

「はっはっはっはっ」

 何故笑いますか。

「これから幸せになる人間が、いったいどうしてそんな顔をするんだね?」

 そんな顔? そんなに酷い顔ですか?

「ほら、せっかくの綺麗な顔が涙で台無しだよ。何の心配もいらない。

だから笑って行きなさい」

 そんな。無理ですよ。自分の意思で止められるわけないじゃないですか。

「はっはっは。これは困ったね。ハスや、お前のお母様は旅立ちの日に涙は見せなかったよ。ちゃんと笑顔で旅立ったんだ。だからお前も笑っておくれ」

 無理ですよ。どうやっても笑うことなんて出来ませんよ。次から次へと感情が溢れてくるんです。胸の中が伝えたい気持ちでいっぱいになるんです。今にも張り裂けそうなんです。でも喉からはひゅうひゅう息が漏れるだけで、私の気持ちを紡いでくれないんです。喉がヒリヒリします。目頭が熱いです。外の寒さなんて関係ありません。頬を伝い落ちる涙がとても熱いんです。

「シキさん」

「はい」

「どうか、ハスを宜しくお願いします。人並みで結構です。ハスを、幸せにしてやってください」

「はい。任せておいてください」

「さあ、ハス、もうお行き。このままだと皆さんに迷惑を掛けてしまうよ」

 ……はい。

「ハス。行こうか」

 はい。

 私はシキさんに手を引かれ、車の後部座席へ乗り込みます。革張りのシートはひんやりとしていましたが、それもどこか他人事のように感じられました。

 私に続いてシキさんが車に乗り込みました。そして窓を開けます。富一さんが覗き込むように私を見ています。でも、窓枠に切り取られたその姿は、まるで別世界のように遠く思えました。

「ハス、大丈夫か?」

 シキさんが困ったように笑います。

 はい。大丈夫です。たぶん。私は首肯を返しました。

「んー」

「おいシキ、もう良いか? 出すぞ?」

「ちょっと待てキツネ」

「何だよ」

「うははは。まあまあ。……あの、富一さん」

 シキさんは窓から顔を出し富一さんを呼びます。

「はい。どうされましたかな」

「いや、大したことじゃ無いんスけどね」

 シキさんはそういって一度こちらを見ます。何か、心なし意地悪そうな表情でした。

「今度、家族が増えたらまた遊びに来ますよ」

「シキさん、それは……」

「うははは。言ったモン勝ちっスよ。じゃ、楽しみに待ってて下さい。な? ハス」

 シキさんはニヤリと笑います。私は何度も頷きました。

「はっはっは。こりゃ私の負けですな。……ハス、幸せにおなり。そしていつかお前の家族を見せておくれ。それまで、楽しみに待っているよ」

 富一さんの言葉が終わると同時、車がゆっくりと走り出しました。私は腰を上げ、シキさんの前を覆うようにして窓から顔を出します。

「おいおい」

 すいません、シキさん。私は心の中で謝りながら、富一さんに手を振りました。富一さんは笑顔のまま手を振り返してくれました。

 ありがとうございます。本当にありがとうございます。ほんの数ヶ月でしたが、一緒に暮らせた日々は私にとって掛け替えの無い時間でした。本当に、本当に幸せでした。

 私は富一さんの姿が見えなくなるまで手を振り続けました。そして富一さんもずっと手を振ってくれていました。

「ハス、もういいか?」

 シキさんがいいます。私は頷き、もとの場所に座りなおしました。

「ほら、コレ。顔拭いとけ」

 うう。ありがとうございます。私は差し出されたティッシュを受け取りました。

「そぉいやぁよ」

 運転席のキツネさんが肩越しにいいます。

「ハスの保護者はどうしたんだ? 話はついたのか?」

「保護者ねぇ。まああれ以来顔を見てないんだよな」

「……むぅ。結局何も言わずに連れ出す訳か」

「そこらへんは富一さんが任せておけって言ってたんだがな」

「へぇ。あのじぃさんも世話好きなこって。んじゃハスはそれで納得できてんだな」

 皆さんの視線が私に集まります。私はティッシュで目元を拭いた後、頷きを返しました。

「へぇ。俺はもっと面倒臭ぇことになってると思ってたよ」

 キツネさんは視線をシキさんへ向けます。シキさんは私を見て肩をすくめました。

「どっちかっつぅと俺の方が納得出来てないんだよ。保護者の件も、富一さんとの約束の件もな」

「約束? ああ、もうこの村に帰って来ないってアレか? ふーん。それでさっきのやり取りにつながる訳か。へっ」

「そうだな。しかしお前は随分急かしたよな。もう少しゆっくりしてても良かったんじゃねぇの?」

「五月蝿ぇ。つか、苦手なんだよ、ああいうの。こう、ジメジメしててよ」

 あう。ジメジメしてますか。すいません。

「うはははは。ハス、気にするな。コイツの苦手はちょっと違うんだよ」

 はい?

「おい、馬鹿シキ。てめぇつまんねぇこと言ってんじゃねぇぞ?」

「別にいいじゃねぇか。涙もろいってのは悪いことじゃないと思うぜ?」

「て、てめぇっ! 適当なこと言うな! 俺は面倒臭いだけだ! それ以外の何でもねぇよッ」

「うははははは」

「……おい」

 先ほどまで黙っていたクマさんが低い声で呟きました。

「……本当に面倒臭いことになりそうだぞ」

「チッ。どうすんだシキ?」

「まあ、無視する訳にはいかないよな。車、停めてくれるか」

「クソ。面倒臭ぇな」

「そう言うなよ」

 車はゆっくり停車しました。

 いえ、停車させられた、と表現するべきでしょうか。車の進路を塞ぐように、二つの人影が路上に立っていたのです。

 ここは早瀬村から少し離れた場所にあるバスの停留所付近です。

 人通りが無いバスの停留所付近は、うっすら雪が積もっていました。今、天候は落ち着いているとはいえ、昨夜から今朝にかけては降雪が続いていましたから。

 私、ずっと窓から外を見ていました。だから、あったらすぐに気付いたはずです。でも、路上にあるべきものが無かったんです。道にあったのは浅い轍だけ。轍は今乗っている車がつけたものでしょう。

 轍しか無かったんですよ。

 そう。

 お二人の、足跡が無かったんですよ。

 そうなると考えられることは一つです。

 お二人は、少なくとも昨夜雪が降る前からこの場所に居たということになります。

 何故ですか?

 決まってます。

 私がいつ出発するか判らなかったから。

 だから、お二人はずっとここに居たのでしょう。

「ちょっと行ってくる」

 シキさんが車から出ようとしたので、私は反射的にその手を掴んでしまいました。

「どうした、ハス? ん?」

 どうした、ではありません。

「ちゃんと話してこないとな。だからその手を離してくれないか?」

 私は首を振ります。

「でもな、やっぱりこのままってのは良くないよ。俺が話してくるから、お前はここで待っててくれないか?」

 私は首を振ります。

「ハス。聞き分けてくれ」

 私は首を振ります。

 違う。

 違うんですよ、シキさん。

「うん? どうしたんだ?」

 ここは、私が行かなきゃいけないんです。私に行かせてください。

「ハス、まさかお前が行くのか?」

 そうです。私は首肯を返します。

「それは、駄目だ」

 何故そんなこといいますか。あそこに居るのは私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんです。私が行かなきゃいけないです。

「ハス。こんなこと言いたくはないけどな、お前はあの二人から酷い仕打ちを受けてきたんだぞ? もし今あの二人の目の前に立つなんてしてみろ。きっと痛い思いをしなくちゃいけなくなる。ちゃんと説明して判ってもらうから、ここは俺に任せてくれよ」

 シキさん。そのお気持ちは本当に嬉しいのですが、それじゃ駄目なんです。私がお話をしなくちゃいけないんです。

「ハス、頼むから――」

「シキ! てめぇは黙ってろ!」

 キツネさんでした。車内の空気が緊張を含んだものに変わりました。

「な、何だよキツネ。いきなり大声出すな!」

 怒りよりも驚きの色を濃く含んだ声でシキさんが訊ねます。

「あのなぁ、以前も言ったことがあるだろうが。これはテメェの問題じゃねぇんだ。口出してんじゃねぇぞ」

 キツネさんは前を向いたままです。その表情を伺い知ることは出来ません。

「ハスは俺と家族になるんだ。なら、俺の問題でもある」

「ケッ! まだお前の家族じゃねぇだろ。今ケジメつけなきゃなんねぇのはハスだ。部外者は黙ってろっ!」

「何が部外者だッ! この村からハスを連れ出すのは俺だ! 俺も当事者だろうが」

「……シキ、それは違う」

「クマ、お前もそう言うのか?」

「当り前だろ馬鹿シキ! ハスは連れ出されるんじゃねぇ! 自分の意思でこの村を出るんだ! 違うかよ! テメェは切っ掛けの一つでしかねぇ!」

「何だと?」

「……シキ、お前を信じ共に歩くと決めたのはハスなんだ。諸々の決意があって、その積み重ねがハスを動かしたんだろう。……なら、最後のケジメはハスに付けさせてやれ」

「しかし、だな」

「割り切れよ、シキ。テメェが取り乱すのも判るぜ。でもな、ハスに対して過保護になり過ぎるな。ハスは納得してこの村を出るんだろ?」

 キツネさんが振り向き「そうだろ?」と訊いてきました。私は深く頷きを返します。

「ほらみろ。コイツぽーっとしてる風だけど、しっかり芯があるんだよ。駄々こねて面倒臭ぇ状況にしてるのはテメェだぜ、シキ」

「……シキ。ハスがお前を信じたように、お前もハスを信じてやれないか」

「でも、よ。……そうだけどよ」

「……シキ。行かせてやれ」

「クマ……。ハスにやらせるべきなのか? でも、だな……」

 シキさんが私を見ます。その瞳は迷っているようでした。シキさんの手は固く握られ、何かに耐えるように小さく震えていました。

 シキさん。

 私はシキさんの手を取ります。

 シキさんの手。

 ぬかるみの中にあった、私の意識を外へ引いてくれた手です。私はシキさんと出会わなければ、ずっと何も気付かないままで生きていたのでしょう。その生が長いか短いかは判りませんけど、きっとあのままではいけなかったのだと思います。それを気付かせてくれたのは他でもないシキさんです。

 シキさんは私をとても大事にしてくれているのでしょうね。人の心内を読み取ることが不得手な私でさえその想いを感じることが出来ます。先ほどおっしゃったように、ひょっとすれば酷い目に遭うかもしれません。でも、それなら尚更ですよ。そんなことは今日で終わりにしましょう。

 早瀬村の生活に幕を下ろすのは、他の誰でもない私の仕事なのですから。

 では、行って参りますよ、シキさん。

 私が外へ出るのをシキさんが止めることはありませんでした。大丈夫ですよ。私は何が合っても貴方の傍に居ますから。だからそんな不安に怯えるような表情はしないで下さい。

 私はにっこり微笑みます。するとシキさんは一度大きく顔を顰めた後、「頑張ってこい」といってくれました。

 はい。私は首肯を返し、路上に立ちました。

 車の外は一面雪景色です。歩を進めるたび、新雪を踏みしめる感覚が足の裏に響きます。雪は深い場所で足首ほど積もっていました。

 ああ、ちょっと寒いですね。いえ、寒いですか? 私は薄着のまま車外に出てしまったんですが、んー、それほど寒いとは感じませんね。やはり、緊張しているからでしょうかね。寒さを感じる余裕がないのかもしれません。

 車を出て、ほんの十数歩でお二人の前へ辿り着きました。路上を塞ぎ立つお二人の表情は強張っています。目じりには深い皺が刻まれていて、その眼光の鋭さを一層引き立てているようでした。

 ふふふふ。ああ、いえ、そんな可笑しいことではないんですけどね。以前の私なら、こんな息の詰まるような状況の中で冷静でいれることなんて無かったと思います。

 そう。

 私は今、冷静です。

 私の心は凪ぐ海のようです。そこには日頃感じていた怖れの気持ちはありませんでした。

 私はゆっくりと歩を進め、ついにはお二人の眼前まで辿り着きました。

「お前、何処へ行くんだ」

 最初に口を開いたのはお祖母ちゃんの方でした。

 私は腰に巻いたバッグからホワイトボードを取り出し、その上でペンを滑らせます。

『むらを でます』

「だから何処へ行くと訊いてる」

 お祖母ちゃんは険しい表情でいいます。

『とおくのまち です』

「遠くの街? ふざけるな。何をしに行くんだ? ええ?」

『およめにいきます』

「およめ……? 嫁のことか! ははははははは!」

 お祖母ちゃんが大きな声で笑い出しました。でも、その目は笑っていませんでした。

『なぜ わらいますか』

「馬鹿言ってんじゃないよッ!」

 お祖母ちゃんは叫ぶのと同時に私の頬を打ちました。

 外気が冷たい所為でしょうか。頬に刺す痛みはとても熱く感じました。

「お前が嫁に行く? ふざけるな! お前が嫁ぐなんて出来る訳がないだろう! お前は一体何が出来るんだ! 簡単な仕事さえ人並みにこなすことも出来ないクセに! そもそも喋ることが出来ないお前が人並みに出来ることなんて何も無いだろう! よそ様に迷惑をかけることが判らないのか? お前は馬鹿だがそれくらいの分別もつかない程なのか! 一体どれだけ苦労してお前を躾けてきたと思ってるんだ! 自分の分別くらい理解するんだッ!」

 そうですね。

 お祖母ちゃんがいってること、間違ってないです。ないですよ。

 でも。

『ごめんなさい でもおよめにいきます』

「この馬鹿がァッ!」

 パァンッ!

 音が冷たい空気を震わせます。先ほどより鋭い痛みが頬に刺さりました。私は倒れないように足を踏ん張ります。どんなに叩かれても倒れてはいけません。いえ、ふら付いてもいけません。私は自分の考えを押し通すと覚悟を決めたのですから。

「ハス」

 お祖母ちゃんの後ろでお祖父ちゃんが口を開きました。名前を呼ばれたのは何年ぶりになるのでしょうか。

「お前は勘違いしている。お前は病気なんだ。自分では普通のつもりかもしれないが、お前は病気なんだよ。知能だって人並み無いじゃないか。それが判っていない。お前は病気なんだ。村の外に出てはいけない」

 そうなんですか? 私、病気なんでしょうか。確かに何事も人並に出来ませんが、それは私が病気だからなのですか?

「ハス。お前が結婚し、子を産んだとしよう。そうしたら、その子は不幸だ。そして皆が不幸になる。ハス。お前は村を出てはいけない」

 そうですか。そうなんですね? でも、私はもう決めたんです。私はシキさんと一緒に居るって決めてしまったんですよ。

『ごめんなさい でも わたしは むらをでます』

「この白痴者がッ!」

 お祖母ちゃんの手が私の頬を打ちます。一瞬送れて、口内に鉄臭い味が広がりました。どこか切れてしまったようです。

「お前のッ! お前の身勝手が通るとでも思っているのかッ! 喋ることも出来ない、人並に生きることも出来ない、何も出来ないくせにッ! 今まで育ててやった恩はどうした! 村に後ろ足で泥をかけるつもりかッ!」

 そうですね。お祖母ちゃんのいう通りですよ。何も反論することなんて出来ません。それこそ、何も出来ないですからね。育てて戴いた恩に報いることすら出来ないです。

『ごめんなさい』

「もういい、ハス。帰るぞ」

 お祖父ちゃんが私の手を引き、強引に連れて行こうとします。

 駄目ですよ、お祖父ちゃん。

 私はその手を振りほどきました。ずいぶんあっさりと離れたな、なんてやけに冷めた考えが頭を過ぎりました。

「お前お祖父さんに何をするッ! いい加減にしろこの馬鹿がッ! 急に村に来て、言葉も通じない、喋ることも出来ない、知能も遅れている、仕事もろくに出来ない、そんなお前を育てたのは私らだッ! 逆らうことは許さない! 絶対に許さない! お前を村から出すものかッ!」

 お祖母ちゃんが叫びます。呼吸は乱れ、苦しそうに息を吐きながら、何度も「馬鹿が」と叫びます。私は何もいい返すことが出来ません。いえ、喋ることは出来ませんから、言葉の通りって意味じゃないです。何といいますか、こうやってお祖母ちゃんやお祖父ちゃんから感情的な言葉を投げつけられるのは初めてなんです。一個人として言葉を戴いたりすることもなく、時には無関心であり続けられたりしましたから。ですから、私はいい返す事が出来ません。出来るわけないです。どんなに辛辣な言葉を浴びせられたとしても、こうやって私という人間に意見を戴けたのですから。言葉や口調は今までと変わりなくても、そこに感情が入っていれば、やっぱり心に響くものですね。

 私、初めて叱ってもらってます。叱ってもらってますかね。

 お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。今まで本当にありがとうございました。私は最初から最後までお二人に迷惑をかけ続けてしまいました。ですから、これからはお二人で心安らかな時間を過ごしてください。

『ごめんなさい』

 私はボードの文字を書いては消します。

『いままで ありがとうございました』

『ずっと ごおんは わすれません』

『これからは おふたり ゆっくりすごしてください』

『ほんとうに ありがとうございました』

『それから ごめんなさい』

『できれば ふつうにうまれたかった』

『めいわく かけたくなかった』

『おふたりの たすけになりたかった』

『おふたりと おはなし したかった』

『おふたりと こえをあげて わらいたかった』

『おふたりの なまえを よびたかった』

『それと』

『そだててくれたこと』

『がっこう いかせてくれたこと』

『おれい いいたかった』

『ありがとう いいたかった』

『ずっと いいたかった』

『こえ でなくて ごめんなさい』

『ちゃんと ありがとう いえなくて ごめんなさい』

『ずっと おもってた』

『おじいちゃん ありがとう』

『おばあちゃん ありがとう』

『たくさん ありがとう』

『それから ほんとうに』

『ほんとうに』

『ごめんなさい』 

 私は字が汚いらしいので、ちゃんと伝わっているか不安になりながらも、沢山の気持ちを書き綴りました。その最中、ずっとシキさんに感謝をし続けていました。こうやって自分の意思を伝えることが出来るのは、シキさんに戴いたホワイトボードのおかげです。でも、それ以上にシキさんの生き方が私に良い影響を与えてくれたと思います。

 おぼえていますか。

 私が帽子を風に飛ばされたとき、シキさんがいいました。

「大事なものなら躊躇するな」

 その時の私は意味を理解出来ていませんでした。でも、今ならその言葉が含蓄するものに気付くことが出来ますよ。

 大事なもの。

 もちろん、これからのシキさんとの生活も大事です。でも、今こうやってお祖父ちゃんやお祖母ちゃんにちゃんとありがとうとごめんなさいを伝えること。これは今一番大事なことだと思えました。思えたんですよ。

 今までは、私が意見することは許されなかったんですけどね。今回は大事なことだったので、躊躇は出来ませんでした。

 私の目の前に居るお二人にこれといった変化はありません。表情も固いままです。ああ、やっぱり私の言葉は伝わりませんかね。精一杯やってみたんですけど。やっぱり私は駄目な子ですねぇ。でも、それも仕方ありません。今出来ることを一生懸命やったんです。納得するべきでしょうね。

 ああ。これで早瀬村でやるべきことは全て終わりました。納得していたとはいえ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんについては心残りがありましたからね。ちゃんと気持ちを伝えておきたかったんです。

 さあ、最後です。

『ごめんなさい』

『もう いきます』

『おふたりとも おげんきで』

 私はマーカーに蓋をして、ボードと共にバッグに仕舞います。そしてお二人に対して深々と頭を下げました。

 これは日本の良い風習です。握手やハンドサインの何倍も想いを込めることが出来ますよ。私も今知ったんですけどね。

 本当に、ありがとうございます。

 お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。

 さようなら。

 私は踵を返します。情けないことですが、最後にお二人の顔を拝見することが出来ませんでした。叱られてしまうかもって思うと恐かったこともあるんですが、それ以上に泣いてしまいそうだったんです。

 顔を上げ、シキさんたちが乗る車を見ます。みんな、心配そうに私を見ていました。見守ってくれていたんですね。そういえば、私がお祖母ちゃんから頬を叩かれたとき、シキさんは何もいいませんでしたね。シキさん、ちゃんと私に任せてくれていたんですね。嬉しいです。

 私が車に近付くと窓が開きました。

「お疲れ様。頑張ったな、ハス」

 はい、シキさん。私、頑張りました。

「……立派だったぞ」

 ありがとうございます、クマさん。

「さ、さっさと乗れよ、面倒臭ぇ」

 なぜ声が震えてますすか、キツネさん。

 私はシキさんが開けてくれたドアから車に乗り込みます。その時、私の背中に声が刺さりました。

「行くなッ!」

 お祖母ちゃんです。私は動きを止めてしまいます。

「行くなッ!」

 お祖母ちゃんは叫びます。私は目を瞑り、そして再び車に乗り込むために姿勢を低くしました。

「行くなッ! 行くなッ!」

 悲愴な声。そう表現するしかない声でした。そんなお祖母ちゃんの声は初めて聞きました。

 それでも私はなんとか身体を動かして車に乗り込みました。

「出すぞ」

 キツネさんの言葉に私は小さく頷きました。私は車を早く出して欲しかったのです。もう、あんなに辛そうなお祖母ちゃんの声を聞いていられなかったのです。

「行くなッ! 行くなぁッ!」

 縋るような声。年経た皺枯れた声。だけど、それは小さな子どもが駄々をこねるような、そんな風にも聞こえて不思議だなと思いました。

「行かないで! 行かないでくれぇ!」

 窓から入り込む声は、すでにどちらの声なのか判別が出来ませんでした。車は排気音を上げ、ゆっくりと進みだしました。

「行くなぁ! 牡丹ッ! 行くなぁ! ワシらを置いて行くなぁ!」

 最後に聞こえたのはその言葉でした。

 車は雪を散らし道を進みます。窓の外ではいつしか雪がちらついているようでした。私はそれをぼぅっと見ながら、窓に吐く息の白さに目を細めるのでした。

 午後過ぎから雪が降る。今日はそんな予報が出てましたか。降雪量はどれくらいなんでしょうね。早瀬村から街へ抜ける道は一本しかありませんが、それはきちんと舗装されていて、わりかし広いのでそれ程心配をすることもないとは思います。夕方には無事に街へ出ることが出来るでしょう。

 街へ出たら駅へ向かうことになっています。駅でネコさんと合流するためです。それからみんなで食事をして、ホテルで一泊します。で、明日の朝新居、つまりシキさんのお部屋に向けて再出発するのです。

 そうそう、ネコさんが途中から合流する理由です。これは本当に申し訳なく思ってしまうのですが、ネコさんは私の生活用品一式を手配して下さっていたのです。ネコさんがおっしゃる生活用品一式というものが、いったいどれ程なのか判りませんが、その準備に半日を必要とするらしいです。

 楽しみにしててね。これはネコさんの言葉です。うーん。ひょっとして大変なことになっているのではないか、何故かそんな予感がしますよ。

「ハス」

 お隣に座るシキさんが私を呼びました。私はシキさんの方を振り返ります。

「大丈夫か? 目が赤いけど、泣くのは我慢しなくて良いんだぞ」

 あら。バレてますね。

 んー。でも大丈夫です。気の紛らし方ならちゃんと知ってますから。とても悲しいとは思うのですが、それでも納得して選んだ道ですからね。

 うん。もう大丈夫ですよ。

 私はシキさんに微笑みました。

「そうか。……お前がそうなら良いけどな」

 はい。気を使って戴いてありがとうございます。

「……ハス」

 はい? 助手席に座るクマさんが私を呼びました。

「……俺の聞き間違いじゃなければ、お前の祖母はお前のと違う名前を呼んでいなかったか?」

「あぁ。ソレは俺も気になったんだよ」

 運転しているキツネさんもいいました。そのお声はもう震えていませんでした。

 んー、やはり、皆さんも聞こえていましたか。

『ぼたん おかあさんのなまえ』

「ああ、やっぱりそうか」

 これはシキさんです。

「おいおい。ばぁさんは最後の最後に娘と孫の名前を間違えたのか?」

 キツネさんが心底呆れたようにいいました。

「……それはちょっと酷いな」

 クマさんも溜息交じりにいいました。

「ちょっと違うんじゃねぇの?」

 シキさん? ああ、そうか。シキさんは富一さんから少し事情を聞いていたのでしたね。

『おかあさん かけおちした』

「マジかよ! お前等親子で駆け落ちか?」

「……キツネ、ハスの場合は完全な駆け落ちとは違うんじゃないか?」

「五月蝿ぇ、クマ! 駆け落ちの定義なんざ知らねぇよ! んで、それと今回の呼び間違いはどう繋がるんだよ?」

『おかあさん なにも いわずに むらをでた』

『しっていたの とみいちさん だけ』

『おじいちゃん おばあちゃん なんねんも こうかい してたみたい』

『そう とみいちさん いってた』

『おばあちゃん ずっと いえなかった ことば』

『だから たぶん』

「出ちまったんだろうな」

 最後にシキさんが締めくくりました。

「へぇ、なるほどなぁ。……しかし女ってのは強ぇな。生活環境をガラッと変えるのって厳しいだろ? それを簡単にやれんだからよ。俺は面倒臭いからちょっとでも変化するのが耐えられねぇ」

『かんたんじゃない』

「……そうだろうな。キツネ、お前は短絡的すぎる」

「五月蝿ぇ。俺からしたらそう見えるから仕方ないだろ」

「ああ、俺にもそう見えるよ。もちろん簡単じゃないのは頭では判ってるんだけどな。それでも自分の心を納得させるのは早かったように思えるよ」

 あら。シキさんまでそういいますか。そうさせたのは貴方なんですよ?

「……お前等二人ともネコが居たら殴られるぞ?」

「何だと?」

「はあ?」

 うん。私もそう思いますよ。私はクマさんの言葉に頷きました。

「おいシキ! ひょっとしてハスもネコみたいになるんじゃねぇだろうな? 只でさえ弱い俺らの立場が更に窮地に立たせられるんじゃないのか?」

「あ、ああ。俺もちょっと心配になってきた」

「……なるだろうな」

 クマさんの言葉にお二人がびくっと身体を竦めました。私はその様子が可笑しくて、つい笑ってしまいました。

「おお、笑った。やはりお前は笑顔が美しいな」

 あああ、すいません。いつもお褒め戴き申し訳ないですよ。でもシキさんの美しさもかなりのものですからね。

「うーん。そうなんだよな。変なヤツだけど本当に美人なんだよな」

 キツネさん、変とかいわないでください。

「……うむ。大人になれば相当なものになるだろう」

 大人? 私は年が明ければすぐにでも成人してしまいますが。あと数日でそんなに変化するものなんですか? しませんよね?

「……ハス、何故そんなに睨むんだ?」

 いえ、別に。クマさんが私を中学生くらいだと勘違いしてるんじゃないかって勘繰っているだけですよ。

「……シキ、どうにかしてくれ。ちょっと恐いぞ」

「うははは。ハス、許してやれ。お前が言わんとすることは判ってるからな。んー、そうだ! ハス、写真だ。写真を見てみよう」

 写真? ああ! お父さんとお母さんの写真ですね?

「よし、見るか?」

 はい! 私は大きく頷きました。

「よしよし。写真はこのトランクに入ってるんだよな。ほら、開けてみろ」

 シキさんが私のトランクを取ってくれました。お父さんの形見のトランクです。以前、色々あって鍵がかけられなくなってしまいましたが、それでも大事に使ってます。

 私はトランクを開けます。指先が震えてしまいます。何故か喉が鳴ってしまいました。

 ゆっくりと蓋が開かれます。見慣れた私物の中に、私の知らない封筒が入っていました。

 封筒は二つありました。

 私はその一つを手に取り、中を確かめます。

 おお、ビンゴです! 私が手に取った封筒からは写真が三枚出てきました。

 あう。

 私の涙腺は一枚目の写真で崩壊してしまったようです。零れ落ちる涙に写真が濡れないようにするのがぎりぎり間に合いました。

 写真には微笑むお父さんと、お父さんに肩を抱かれ寄り添うお母さんの姿が写っていました。お二人はとても幸せそうに見えました。

 こうやってお二人の姿を見れたのは何年ぶりでしょうね。私の記憶の中にあるお二人と少し違ってますけど。んー、ああ、これはまだ私が生まれる前のお二人ですか? きっとそうですね。よく見ればお母さんの髪が長いです。私の記憶にあるお母さんは肩までくらいでしたからね。それにしてもお母さんは本当に私に似てますね。いえ、私が似ているんでしょうけど。あ、そういえばお父さんにお髭がありません。この頃はまだお髭ではなかったのですね。

 私は二枚目と三枚目の写真を見ました。二枚目はお母さんの写真。帽子を冠ってます。私はこの帽子を戴いたのですよ。お母さんは帽子を大切にしていましたね。確かお父さんから戴いたのだと聞いてます。私も大切にしていますよ、お母さん。次は三枚目の写真です。

「家族写真だな」

 シキさんがいいました。私は頷きを返します。三枚目の写真は家族写真でした。

 家族写真。

 お父さんと、お母さんと、それから私。

 記憶は次第に薄れ、思い出は少しずつ輪郭を失ってきていますが、この写真が示してくれています。私たちは、家族なんだって。

「ハス。ほら、こっち来い」

 私はシキさんに手を引かれ、その胸に顔を埋めるようなかたちになりました。

「よしよし。こうしてりゃ誰にも泣顔見せずにすむからな。存分に泣いてろ」

 あう。

「うおお。何だよ、初めてお前がカッコいいとか思っちまったぜ」

「……一周して気持ち悪いな」

「うははは。言ってろや。あとでネコに報告しとくからよ」

「はあ?」

「……むう」

 シキさんは笑いながら私の頭をさすってくれました。次第に呼吸は乱れ、幾許もせずに嗚咽に変わります。目頭は熱く、溢れる涙はシキさんの胸元を濡らしました。申し訳ない気持ちもしますが、ここはシキさんに甘えておきましょう。

「なあシキ、そっちの封筒には何が入ってるんだ? 写真じゃねぇんだろ?」

「ああ。おそらく戸籍の写しとかだと思う。出る前に富一さん言ってたからな。ハス、確認しても良いか?」

 私は顎を引いた程度の頷きを返したのですが、シキさんに密着しているのでちゃんと伝わったようでした。

「んー、三枚? ん? なんだこりゃ。ああ、こっちは戸籍の写しだな。うん。父、Lionel……? ああ、ライオネルな。母、牡丹。んで子であり本人は母祢蓮、と。んー、お前は母方の姓なんだな。つうか、お前は英国戸籍も持ってるのか?」

「……シキ、英国に戸籍は無いぞ? そもそも家制度が無い」

「ありゃ、そうなのか?」

「……ああ。そっちの二つ、貸してみろ」

「おう。なんか英語で書いてあるぞ」

「……おそらくサティフィケイトで間違い無いと思う」

「サティフィケイト?」

「……ああ。証明書、だな。……こちらはハスの両親の名が刻んである。おそらくマリッジサティフィケイトだ。……要するに結婚証明書だ」

「おいクマ、もうちょっと詳しく説明してくれ」

「……詳しくも何も、英国では役所で証明書を発行するだけだぞ。その写しは役所で保管して、原書は個人で保管するんだ」

「じゃあそっちのもう一枚は?」

「……こちらが結婚証明書なら、想像つくだろう?」

「もったいぶるなよ」

「……バースサティフィケイト。……つまり、出生証明書だ。ほら」

「お、おお。なるほど、ハスの出生証明書か。ええと、これ、名前か? ん? Laxmi Hasu Baldwin……? クマ、ちょっと説明頼む」

「……最初のがファーストネーム。次のがミドル。で、最後のがセカンドだな。……日本に当てはめれば、ファーストが氏。セカンドが姓だ」

「ああ、そりゃ判る。んじゃミドルってのは?」

「……日本国籍にミドルネームの概念は無いらしい。……この場合は母親が日本人だからな。……日本名も付けたかったんじゃないのか」

「そうか、成程な。つか、ハス。俺、お前のフルネーム初めて知ったよ。ああ、違う。フルネームは母祢蓮なのか。んじゃ、もう一つの名前ってことか」

 もう一つの名前、ですか。私はシキさんの胸でお話の流れを聞いていましたが、私も初めて聞く名前でしたよ。そもそも両親からは愛称で呼ばれてましたから、本名がハスだと知ったのは日本に来てからですもの。

 その愛称はとっくに忘れてしまったのですけどね。

「なあクマ。このLaxmiってラクシュミーって読んでいいのか?」

「……そうだろうな。……どこかで聞いたことある名前だな。……キツネ、知ってるか?」

「ああ、アレだろ? 吉祥天じゃねぇの? 星に関係無い神話は専門外だから詳しく判らないけどな。そっちはシキが専門だろ」

「ああ。読みがラクシュミーで良いのなら、な。まあハスの名前からしても間違いないと思うけどな」

「……どういう関係がある?」

「あのな、ラクシュミーってのは蓮の花の化身って言われてる」

「へぇ。んじゃあれか? 日本名と同じ意味にしたってことか?」

「そうだろうな。なかなか洒落てるな」

「……そうだな」

「ケッ! そうか? 名前何個もあったら面倒臭ぇだけだろ?」

「お前、絶対ネコに言いつけるからな」

「はあ? 訳わかんねぇッ!」

「うははは。あとな、洒落ついでに思うんだが。ハス?」

 はい。

「お前さ、幼名っつーか、愛称とかなかったか?」

 はい、ありました。何故知ってますか。私は頷きを返します。

『でも おぼえていない』

「うははは。そうかそうか。でもな、おそらく確実にそうだって名前があるんだな、これが」

「……随分と自信があるな」

「ケッ! ハードル上げ過ぎて自滅しろ!」

「言ってろ凡人ども! 良いか、一発で当ててやる! つーか、蓮の花の化身にはもう一個名前があるってだけなんだけどな」

 何ですか? 何でしょうか? 私、ずっと気になっていたんです。私の愛称、気になっていたんです。

 私、お父さんとお母さんの声、今でも覚えています。その優しく語り掛けてくれるお二人は、ずっと私を愛称で呼んでいたんです。私、またちゃんと呼ばれたいです。シキさん、私は何と呼ばれていたのでしょう。教えてください、シキさん!

「おいおい、どうしたハス。そんなに急かすなよ。あれだ、お前シュリーって呼ばれてたろ? シュリーで間違いないはずだぜ?」

 シュリー。

 その言葉を聞いた瞬間、私の記憶の扉は開かれました。

 溢れてきます。私が小さかった頃の記憶。お父さんと、お母さんと三人で暮らしていた記憶。

 なぜ、忘れていましたか。なぜ今まで忘れていましたか。おかしいです。今はこんなにはっきり思い出せるのに。

「シュリー」

 私は呼ばれます。手元にある写真。家族で写った写真です。

 お父さん。お父さんは慈しみを込めて呼んでくれてました。

「シュリー」

 私は呼ばれます。

 お母さん。お母さんは愛を込めて呼んでくれてました。

「シュリー」

 お二人が私を呼びます。

 お二人の声は慈愛となって私を呼びます。

 どうして。

 どうして私は忘れていたのでしょうか。

 最後に。最後に私がお二人から呼ばれたのはいつでしたか。

「シュリー。幸せになりなさい」

 ええ。そうですね。これがお二人にいわれた最後の言葉です。

 そして、そのあとお二人は?

 ああ、そうか。

 そうでした。

 なぜ忘れたのか。

 答えは簡単です。

 だって。

 だって、そうしようとしたのは私。私自身です。理由も簡単。辛かったから。そう。お二人の死を受け入れられなかった私が選んだこと。過酷な状況を

受け入れられなかった私が選んだこと。

 そうです。

 私、自分で忘れてますね。

 いつ頃忘れたか。それはちょっと思い出せません。でも、日本に来てお二人の姿を探し回っていた頃には、既に忘れてます。それは間違いないですね。

 そうか。そうでしたか。

 私、何てことしてたんでしょう。お父さん、お母さん、ごめんなさいです。私、本当に駄目な子みたいですよ。本当に駄目ですねぇ。

「ハス、ハス?」

 私はシキさんの呼びかけで我に帰りました。

「おい、ハス?」

 は、はい。すいません、ちょっとぼーっとしてました。

「うーん、その様子だとビンゴっぽいな? 合ってたか?」

 え、ええ? 何の話ですか?

「お前、シュリーって呼ばれてたんだよな?」

 ああ、はい。そうです。そうでしたよ、シキさん。私は頷きました。

「おおおおッ! 馬鹿シキの言う通りだと! ありえねぇっ!」

「……むぅ。なんか釈然としないな」

「うはははは! どうだ! 貴様ら凡面どもとは違うんだよ! そしてハス! どうだ、惚れ直しただろう? 惚れ直さざるを得ないよな?」

 みんなの視線が一同に集まります。

 んー。

 惚れ直すも直さないも、それ以上が無いほど惚れていますけどね。でも、シキさんを好きになって良かったって改めて思いました。そういった意味では惚れ直したのかもしれませんね。だから私は頷きを返しました。

「お、おおおおおおおおおおッ! やったぜ!」

「し、信じられねぇ。なんでこんな馬鹿にそこまで惚れるんだよ」

「……男の趣味は良くないのかもしれんな」

「て、てめぇら!」

 私はシキさんの腕を引きます。

「お、おお?」

『わたしから ねこさんに いっておきます』

「はあッ?」

「……ゲェェ」

 キツネさんもクマさんも、私の好きな人をあまり悪く言わないで欲しいです。とりあえずネコさんに叱ってもらいましょうね。

 窓の外は相変わらず雪がちらついています。きっと寒いのでしょうね。うってかわって車内はとても暖かい空気に満たされていました。暖房が効いているということもありますが、それ以上に皆さんのつくりだす雰囲気がとても暖かいのです。

 私は手元の写真へ視線を落しました。

「シュリー、幸せかい?」

 お父さんが、そういったように聞こえました。

 私は頷きをかえします。私にも優しいお友達が出来たのです。とても幸せですよ。

「シュリー、幸せかしら?」

 お母さんが、そういったように聞こえました。

 私は頷きをかえします。私、とても好きな人が出来たのです。その方からは沢山のモノを戴きました。便利なものから掛け替えのないものまで。

 でね、お二人に報告しなきゃいけないことがありますよ。

 私、シキさんと結婚するんです。お嫁にいくんですよ。シキさんと家族になるんです。

 急にこんなこといってごめんなさいです。でも、許してくれますよね?

 私は若いお二人が並ぶ写真に問いました。

「シュリー。幸せになりなさい」

 お父さんとお母さんの最後の言葉。

 私、ちゃんと幸せになります。

 だから、ずっと見ていてくださいね。

 お父さん、お母さん、お二人と過せた時間は本当に短いものでしたけど、それでも沢山幸せを感じていましたよ。

 これからはシキさんと幸せになります。

「シュリー。幸せになりなさい」

 ようやく。

 私は、ようやくその言葉に頷くことが出来るようです。

 たくさんの気持ちと、たくさんの思い出を心に湛えたまま、私は深く、深く頷きを返したのでした。

 私は、写真の中のお二人が微笑んでくれたのを確かに見たような気がしました。




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