7
Ⅶ
台風なのかな、なんて思いました。
知ってますか、台風。
台風一過、その後はすっごい晴天なんですよ。空は何処までも青く、宙はどこまでも碧いんです。まるで台風が、溜まった澱を洗い流してくれたような、そんな蒼なんです。
私は台風がとても恐いんですけど、台風の後が大好きだったりするのです。ほら、一度洗い流した後って、新しく始められるような、そんな気がするでしょう?
水引小屋は、そんな台風の直撃を受けたかのように大きく揺れました。荒々しい風は簡単に小屋の入り口を吹き飛ばします。水引小屋の戸は、床に転がった私の上を越え、壁に当たり派手な音を上げました。続けざま、地鳴りのような音が風を纏って吹き込んできます。音は質量を伴って小屋の中を暴れ、その場にあるものを容赦なくなぎ倒しました。私は木々がへし折れるような音を何度も聞きました。激しい風は、時折り人の悲鳴のように聞こえると思いませんか。私の耳朶にこびり付くような音は、さながら断末魔のようでもありました。
地響きのような、暴風のような、濁流のような、三つの轟音が水引小屋に響き渡ります。
そして、静寂。
小屋の中には幾許かの雨が舞いました。
雨は私の顔を濡らします。私は両手を縛られているので、雨を拭うことが出来ませんでした。例え両手が不相応の自由を有していたとしても、幾度となく叩きつけられたコブシの雨が、私の身体能力を殆ど奪ってしまった後なので、どちらにせよ私は雨に濡れる他無いのです。
雨粒の幾つかはだらしなく開かれた私の口内へ入ってきました。呼吸もままならなくなっていた私は、その雨粒に抵抗する術はないです。
ただ、飲み込むだけ。
ん。
んむ。……しょっぱい。
ん? しょっぱいですね、雨。
私の思考は度重なる衝撃を受けた為、もはやまともに機能しているとは思えません。まるで朝霧に沈む湖畔のように胡乱でいます。いえ、聡明とは程遠い頭ですからね。いつだって胡乱でいるんでしょうけど。それにしても随分と吹き込んできますね、雨。先ほどから私の顔はびしょ濡れです。あんまり顔を濡らしてるとシキさんに叱られてしまいませんかね。美顔者はもっと顔を大事に扱えって。雨晒しになんてするんじゃないって。
うふふふ。シキさんならきっとそういう筈です。それで、そのあと「うははは」って笑う筈です。
だから。
だから。
だから、ですね?
そうやってお顔をクシャクシャにして泣いているシキさんを見るとちょっとどうしていいのか判りません。
ん?
んー?
シキ、さん?
暗い水底から顔を出すように私の意識は覚醒しました。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ! ハスッ! ハスッ!」
靄を吹き飛ばすような声でした。
あわわわ、痛い、痛い、痛いです。そんなに身体を揺さぶらないで下さい。私、満身創痍です。お腹なんて縦に裂かれちゃってます。それに結構殴られてますからちょっとの衝撃でも痛いです。
「おいコラッ! 返事しろ! 返事しやがれハス!」
わわわわ、無理、無理です。無理ですってば。私喋れませんよ。それに手話だって無理ですから、返事出来ません。もっとも、両手は縛られて動かせませんけど。
「ハス! ハス! テメェ、返事しろってんだ! その顔ボコボコにするぞ!もう二度と戻らないくらいにボコボコにして美顔者同盟から外すからな!」
それは辛い。ああ、それは辛いですね。何といいますか、あ、いえませんけどね。んまあ、私ね、皆さんと一緒に居たいです。皆さんと一緒に笑っていたいです。
はあ。
もう、独りは嫌だなぁ。
「ん? ハス、ハス? お前意識はあるな?」
あれ? 伝わりましたか? どうしましたかね。私、シキさんの言葉にお返事を返すことは出来ないんですけどね。もちろん言葉は出ませんし、身体も動きません。うふふふ、これはテレパシーですか? ついに出ちゃいましたか?
「よし! すぐに安心させてやるからな! 大丈夫。大丈夫だぞ! お前の不幸はもう終わりだ! これからは幸せになる! ずっと傍に居るからな! 俺はもちろん、ネコだって居るぞ! クマはデカイから少し遠くに居させる。キツネは五月蝿いから声が聞こえないくらい離れた場所に居させる。もう独りじゃない。独りじゃないぞ!」
ああ、嘘でも嬉しいですね。そういって貰えるなんて、まるで夢のようです。もし、本当なら今までの事、全部忘れることが出来ますよ。
例えば、一晩中響いた銃の音とか。
例えば、目の前で死んでいった大人たちとか。
例えば、どんどん冷たくなっていく子供たちの感触とか。
例えば、何度も刃を突き立てられ絶命したお父さんとか。
例えば、何度も身体を弄ばれ絶命したお母さんとか。
例えば、お祖母ちゃんからいわれ続けた言葉とか。
例えば、お祖父ちゃんから首を絞められた事とか。
例えば、今日の出来事とか。
「ハス! いいか! もう独りじゃないんだ! 寂しいのはお終いだ! これからは毎日楽しく暮らそう! ずっと笑って過そうな! そんな日々が信じられないか? よし、アレだ! お前さえよけりゃ、お前は今日から俺の嫁さんだ! どうだ! これならもう独りぼっちじゃない! 一生俺のことだけ見てろ! それなら大丈夫だろ! だから、だから……」
シキさんは捲くし立てるように言葉を紡ぎます。でも、途中から涙声になって全然聞き取れませんよ。
「だから、もう泣くなハス!」
あら。私、泣いていましたか。ああ、そうか、そうなのですね。でも仕方ありませんよ。シキさんの言葉を聞いているとあまりにも幸せだったから。
うふふふ。そんな未来があるといいですねぇ。
「すぐ、終わらせるからな、ハス。終わったら皆で遊ぼうな」
んむ。
何かが私の口を塞ぎました。苦しいですね、何でしょうか。
「おいネコ! ハスを連れて隅っこに居ろ! キツネ、クマ! そっちはどうだ!」
「おい! シキ! 冗談じゃねぇぞ! コイツ化けモンだろ! 何で二対一でこっちが押されてるんだ!」
「ハスちゃん、ちょっと動くよー、痛いかもよー」
いたたったたたたたたっ! 私は床の上を引っ張られていきます。私、今全裸じゃないですか? 多分全裸の筈ですよね? ささくれ立った床が容赦なく私の身体を引っかきますよ。
いくらか距離を進んだところで、私の全身を襲う痛みは止まりました。そして私の頭は柔らかいものの上に置かれました。あ、いい匂いです。んー、これ、ネコさんの匂いじゃないですかね? ああ、でも顔を何回も殴られた所為で、鼻の中が切れてますね。いい匂いとは別に鉄臭いのがいっぱいです。
「ハスちゃん、独りでよく頑張ったねー。もう二度とこんな思いはしないで済むからね」
ああ、やっぱりネコさんみたいですね。ネコさんは「今はコレで我慢してね」といって私に柔らかい布を掛けてくれました。あら。何でしょうか。確認したくても、まだ視界がぼやけているのでよく判りません。でも、ありがたいですね。流石に全裸ですと、ちょっと恥ずかしくもあったのですよ。
「全部終わったら一緒にお洋服買いに行きましょう。ハスちゃんは綺麗だから、何でも似合いそうだねー。あ、美味しいモノも食べようねー。私、ハスちゃんに話したい事もあるからね。いっぱい話すからいっぱい聞いてね? それから、私もハスちゃんのことたっくさん知りたいんだ。だからたくさん教えてね。んー、楽しみだねっと、と、んもう、クマちゃん危ないでしょ! いきなりこっちに来ない!」
「……むぅ、すまん。……まさか、こんなに吹っ飛ばされるとは思わなかった。……体格では俺の方が勝っているんだが」
あれ? クマさんですか?
「……ハス。遅れて済まなかった。お前には巡検……採石の素晴らしさを語っていなかったな。今度、一緒に皆で行こう。石はいいぞ、石は」
「うぁりゃぁッ!」
「五月蝿いナー、何よ、キツネ君」
「き、キツネってよ、呼ぶな、はー、はー。クマ、テメェ、休んでんじゃねぇぞ、おら、気張れ、や。シキの盾くらいにはなれんだろ。アイツ、あんな無茶苦茶な戦い方してると殺されちまうぞ」
ちょ、ちょっと待って下さい! 皆さんは何をしてらっしゃるんですか?
「手強いのー?」
「……ちょっと、勝てそうにないな。他の三人とは次元が違う。あいつだけは不意打ちにも動じなかった。……何よりも、あの刃物が厄介だ」
「人を殺すのに躊躇がねぇ。普通じゃねぇよ。心臓刺されそうになったのは初めてだぜ。おら、大方ソコに転がってる仏さんもアイツがやったんだろうよ」
「ま! あれ死体? 初めて見たよー」
「……お前は呑気だな、ネコ」
「オラ! 行くぞクマ!」
私の傍から二つの気配が遠ざかりました。私より少し離れた場所で、風が暴れています。クマさんとキツネさんはそちらへ行ったのでしょうか。
私は腫れた目を必死に開きます。精一杯開いてみますけど、ほんのうっすらしか開きませんでした。回復までにはもう少し時間が必要みたいです。
でも、ほんの少し開いた視界でも、私はいくらかの状況を察することが出来ました。
シキさんです。
風のようだと感じたのはシキさんでした。シキさんはとても激しく、凄い勢いで周囲を削っていました。
そう。まるで台風のように。
私、夢を見てるのかと思いました。でも、この全身の痛みが現実であることを教えてくれます。今はこの痛みにも感謝したいくらいです。
シキさん。
シキさんが、目の前に居ますよ。
それから、キツネさんとクマさんも一緒です。私、ネコさんに膝枕してもらっていたんですね。道理で柔らかくて良い匂いがするわけです。
「ちょっと、待っててね」
ネコさんはそういうと、手にした小さなナイフで私の両手を拘束するモノを切ってくれました。私の身体から、ほんのり緊張が溶け出したような感じがしました。ああ、よかったですね。ただ拘束されているだけでしたよ。切断されていたりしたら、ちょっと辛かったですよね。
ネコさんが私の首を抱くように手を回してきました。ネコさんの指は細くしなやかで、それで温かいです。私はその温もりが欲しくて、必死に手を動かしました。私の関節は熱を帯び、腫れぼったくなって思い通り動きません。それでも私はなんとかネコさんの指先に触れることができました。ネコさんは私の震える手を優しくしなやかな指で包んでくれました。
私は大きな安堵感を得ることが出来ました。こんな状況に置かれているのに、そんな気持ちになれた自分に驚きました。
安堵感。
こんな気持ち、いつ以来なのでしょうか。心地良さなら味わうこともありました。あったと思います。でも、でもですね。こう、心からの安堵感というのは本当に久しぶり、あ、いえ、あまりにも久し振り過ぎて、まるで初めてのような感覚を味わっているのです。
だって、私が心安らかに過せていたのは、お父さんとお母さんお二人の笑顔があった日々なのですから。
「ぐああああ、く、くぅ、ちくしょう! 痛ぇッ!」
「キツネ君!」
びっくりしました。キツネさんが私の隣に倒れこんできたんです。うっすらとしか見えませんが、太ももを押さえてらっしゃるみたいです。
「め、面倒クセェことになったぜ。俺はちと休憩な」
「血出てるー?」
「ハスに比べりゃ大したことねぇ! ねぇんだけど、動き回るのは勘弁してくれ。クッソ、何なんだよあいつ。何で簡単に人を刺せるんだよ! オカシイんじゃねぇか?」
キツネさんは力任せに床を拳で打ちました。水引小屋のぼんやりとした灯りの下、キツネさんのズボンが赤黒く変色しています。それはゆっくりと広がっているようでした。
「……むぅっ!」
ゴトン、という音を立て黒い塊が床に転がりました。
ん?
アレはクマさんのモジャモジャですか?
「オラ! クマ、気合でこっちまで来い! ソコに転んでたらシキの邪魔だ!」
「……ぐ、う」
黒い塊がのそりのそりと動きます。見ていてちょっと恐いです。やがて固まりは私達の隣まで転がってきました。
「クマちゃんは何処刺されたの?」
「……脇腹。……実際刺されて判ったんだが、たった一刺しで体中の力が抜けてしまうもんなんだな。……貴重な経験だ」
「痛くないのー?」
「……ハスに比べれば傷のうちには入らない」
「ケッ、真っ青な顔して何言ってやがる。つぅか、これでシキまでぶっ倒れたら俺たちお手上げだぞ? ネコ、今のうちにハス連れて逃げろ」
「んー、そうした方が良いみたいだけどー。……どうしよっか、ハスちゃん」
ん?
え?
何でしょうか? 私、意味が判りませんよ。
「あのねー、ハスちゃん。私たち、ハスちゃんに謝りたくて戻ってきたんだ。やっぱりあのままお別れなんて出来なくて。途中、バスを停めて走って戻ってきたの。それでね、バス停の近くに来たときハスちゃんの帽子を見つけて、おかしいよねってなって。私たちの想像はどんどん悪い方向に行っちゃって、ハスちゃんのこと探したの。村中手分けして探したんだけど、何処にも居なくてさ。だから、この小屋に来てみたの。そしたら、とても大変な事になってて」
はぁ、そうでしたか。それはご迷惑をお掛けしました。本当に、申し訳ないですよ。
「……ハスちゃん。色々訊きたいこともあるんだよー」
はい。何でしょうか。
「でも、今はそんな時じゃないから、一個だけ教えて欲しいんだ」
はい。何でもお答えします。
「ハスちゃんはさ、望んでこうなってる訳じゃないよね?」
「おい、ネコ! 早く逃げろって!」
「キツネ君は黙ってて!」
「お、おう」
「ハスちゃん。全部投げ出して、それでこうなったんじゃないよね?」
ええ、と?
「ハスちゃん。もう、全部どうでも良いとかじゃないよね? 自棄になったとかじゃないよね?」
ん?
「は、ハスちゃん。わ、私たちの、こととか、どうでも良いとかじゃないよね? 私たち、まだ、友達だよね?」
ネコさんの細い指が私の髪を梳きます。そして私の額にはポツポツと水滴が落ちました。これは……涙?
「ハスちゃん。色々あったのに、判ってあげられなくてごめんね。沢山抱え込んでいたのに、判ってあげられなくてごめんね。私達、いっぱい反省したの。皆で話し合って、たくさん反省したのよ」
ネコさん。どうして、どうしてネコさん達が反省するようなことがありますか。結局、原因は全て私にあるじゃないですか。皆さんと上手くコミュニケーションを取ることが出来ないのだって、こうやって神取さん達から殴られたのだって、全部私に原因がありますよ。反省するべきなのは私です。私が悪いですよ。
「ハスちゃん、私ね、駄目んズが頑張ってる最中は逃げたりしたくないよ。大事な友達だもの」
「おいネコ! 面倒クセェこと言ってんな! 早くハス連れて逃げろって!」
「……正直、俺たちではどうしようもないぞ」
「ねねね、ハスちゃん。ハスちゃんはどうしたい?」
私? 私、ですか?
そんなの。
そんなの決まってます。
私、大事です。皆さんのことが大事です。
私も逃げたくありません。
私、決めたんです。もう二度と逃げないって決めたんです。そう決めたんです。
私はネコさんの手を握りました。私の気持ちが少しでも伝わるように、精一杯の力で掴みました。
私が自分の考えを伝えるには、あまりにも手段が少ないです。ですから、こうやって一生懸命考えて、それを必死に願うしかないです。
どうですか、ネコさん。伝わるでしょうか。薄くしか開かない目でネコさんを見ます。
ネコさんは涙に濡れた瞳でニッコリ笑いました。
「ん。そうだねー。友達だもんね?」
ああ、よかった。よかったです。伝わりました。伝わりましたよ。
私もネコさんにつられて笑いました。でも、あまり感覚がありませんから、上手く笑えていたかは判りません。
「ハス! お前何言ってんだ? ここに居ても守ってやれないかもしれないんだぞ! 面倒臭ぇことになる前にネコと逃げろって!」
「無理だよ。ハスちゃん決めちゃってるもん。それに私も。だから私達は絶対に動かないわよー?」
「……どうする?」
「ハッ、そりゃ俺が訊きてぇよ」
クマさんとキツネさんが同時に溜息を吐きます。その様子を見ると、選択を間違ったのかな、なんて思ってしまいました。
「大丈夫だよ、ハスちゃん。きっとなんとかしてくれる。だって、男の子たちだもんね。きっとシキ君が……」
「それはどうでしょうかね?」
ネコさんの言葉を遮るように、何かが床に落ちる音がしました。
「ちょ、おい、シキッ!」
キツネさんが切羽詰った声を上げました。どうしました? どうしたのでしょうか。私は白む視界を何度も瞬きしてピントを合わせます。多少ぼやけていますが先ほどよりは随分見えるようになりました。
「……シキ!」
「シキ君!」
クマさんとネコさんも緊張した声でシキさんを呼びます。シキさんはぐったりと寝そべっていました。そして赤黒い液がジワリと床を濡らします。
「まったく。こんなに苦戦をしてしまうとは思いませんでしたよ。この男は見た目とは裏腹に基礎がしっかり出来ている。まあそうでもなきゃ無手で挑んでくるわけもないか」
「おい、シキ、大丈夫かよッ!」
キツネさんがシキさんを引っ張ります。クマさんは二人を守るように神取さんの前に立ちました。
「最初はオマエから死んでおくか?」
神取さんは手の中で刃物を躍らせます。とても大きい刃物です。刃物は屋内を照らす電灯の明かりを受けて、鈍い光を発しています。その先端は赤く濡れていました。
「こ、こいつらには、手を出すな」
「……シキ、黙ってろ。後は俺たちでどうにかする」
「くくくくく。オマエらでは無理だろうな。頼みの綱であるその男も、その出血量なら直に意識が飛ぶだろう」
「ケッ! そう簡単にはいかねぇってんだ! 面倒クセェけど刺し違えてもテメェをぶっ殺してやるぜ」
「殺す、ね。オマエ、人を殺した経験は? まあ、あるわけ無いよな。くくくく、そもそもオマエに人を殺すのは無理だ」
「ハンッ! 言ってくれるじゃねぇか! テメェ一人くらい……」
「無理だ」
「ンだと!」
「オマエじゃ駄目なんだよ。……いいかい。人間には二種類いる。使う側と、使われる側。大学生なら半分社会に出ているとも言えるだろうから、判るよな」
「そ、それがどうしたっていうのよーッ!」
ネコさんが声を上げます。その声は上ずっていて、緊張と恐怖が入り混じっているようでした。
「いいかい。使う側の人間からしたら、使われる側の人間というのは数字でしかない。たとえば企業でいえば工数だったり、人件費だったり。更に、死者でいえば戦死者であったり被災者であったり。それらは規模を現す数字であって、個々人の人生は無視されている。転じていえば、使う側の人間と使われる側の人間の命は同等ではないんだ」
「……話が見えんな」
獣の嘶きのようなクマさんの声。本能が恐れを抱くほど低い声でした。
「人を殺すというのは難しい。どうしても心が規制してしまう。しかし、だ。人を管理する側からすれば、それはいつしか規制の対象から外れてしまうんだ。人を管理し続けていけば、そこにリアルな命の価値を見出せなくなる。つまり、代わりの有る命であり、消耗品でもある。必要になればまた補充すれば良いだけなんだ」
「ケッ! やっぱりコイツ狂ってやがるぜ」
キツネさんが唾棄します。
「だからオマエに人を殺すことは無理だと言ってるんだ。命に区別が出来ないなら、殺しは無理なんだよ。有償無償の命だけれども、そこに線引きは確かに存在しているんだ。つまり管理する側とされる側の線引きがね」
「じゃぁ、ハスは、何故、こうなってる。……お前の理屈の中で、ハスは関係ないだろう」
「シキ!」
「シキ君!」
「……シキ」
シキさん。
シキさんの呼吸は乱れ、とても苦しそうでした。
「ふん。その女の命の価値、という点でいえば、それは虫なんかに似ているな。生殺与奪の権限は、より強者であるものが持つ。それだけのことだ」
神取さんはその目をさらに細くして続けます。
「それともう一つ、計画上不必要になったというのもある。僕はこの村で、十分な信頼と地位を得た。今その女が居なくなったとしても、なんら影響がない。それよりも、オマエ達が先ほど気絶させてしまった奴等に、こういった餌を与えない方がやっかいな事になりかねないからな。この村で若い女はソイツくらいしか居ないのでな」
「クソ、野郎が!」
シキさんはお腹から搾り出すように声をあげます。
「ふん。意識も朦朧としているオマエが何を吠えるんだ。どのみち、オマエ達は全員ここで死んでもらう。計画は最後まで推し通す。死体の処理は、まあ、どうにでもなる」
「さっきから計画計画って、人を殺してまで何をするつもりなのッ?」
「ん? それはすぐに思いつくだろう?」
神取さんは一度肩を竦めて続けます。
「金だよ、金。金以外で人の命に釣り合うものがあるかい?」
「い、命に、代償が、あってたまるか!」
「……シキ、もう喋るな。出血が増すぞ」
「ふん。この世の中に、金で買えないものは無いぞ。俗物的な物言いが気に入らなければ、そうだな。……ああ、こういうのはどうだ? 人は何にでも値段をつけるだろう? そこには道徳観が入ることはない。あるのは損得の概念のみだ。現に、心や身体だって金で取引出来ているじゃないか。そうすると、金は世の中の絶対的な価値観だ」
「そんなッ! お金のためだっていうの? でも、ここまでして得る価値があるお金なんてあるわけないでしょー?」
「……こんな辺鄙な村で一体どうすれば金が動くんだ」
「ヘッ! 一人勝手に盛り上がってるだけじゃねぇのかよ! こんな湿気た村の何処に金があるってんだ!」
ネコさん、クマさん、キツネさんがそれぞれに声を上げました。シキさんは口を開きかけ、噤みます。何か、思うところがあったのでしょうか。
私、思います。神取さんがいっていることは、間違いではないのでしょう。価値観のことですよ。お金を中心とした価値観は私に理解することが出来ません。でも、お金の大切さは判ります。なんとなく、ですけど。神取さんの言葉を否定しても、私達はお金を利用することで生きています。それは事実です。
お金は大事です。それは時として人の命と天秤にかける場合もあるのでしょう。お金と命。傾いた先がお金なら、人は躊躇なく人を殺します。
ああ、そうか。そうなんですね。やっと神取さんの事が理解出来ました。
神取さん。あなたは私の両親を殺した人たちと同じなんですね。
神取さんは目を細め私たちを見下ろしています。その視線がふいに私を捉えます。
そして、神取さんは歌うようにいいました。
「光榮は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々に。神や光榮は爾に帰す。主憐れめよ。光榮は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々に」
「はぁ? テメェ、何だよそりゃ狂ったのか?」
キツネさんがいいます。
ネコさん、クマさん、それから私も、神取さんの言葉の意味が判らず、ただ首を捻るだけでした。
ただ、一人を除いて。
「プサルモィ……?」
シキさんは、驚いたように呟きました。
「ふん。やはりオマエは知っていたか。が、本典ではなかろう?」
「オイ! 何だよそれ。シキ、説明しろッ!」
「あ、いや」
シキさんは眉を顰め、怪訝な表情を浮かべます。怪我からくる疲労より、困惑の方が強いようでした。
神取さんは小さく咳払いをして、淡々と語ります。
「今のはプサルモィという本からの引用さ。いいかい。ギリシャ語でプサルモィ。日本語だったら詩篇と呼ばれるものに相当するもの。聖詠経なんても呼ばれている。ユダヤやキリスト教なんかで祈祷文に用いられているな。それから神への感謝の歌なんてのも認められているのさ」
「……それが、どうしたというんだ?」
クマさんが問います。
「なぁに。ソイツが村を徘徊していた理由がプサルモィなんだよ。但し、外典もいいところだけどな。外典プサルモィ。書店へ行けば比較的簡単に手に入れることが出来る。内容は英国貴族であり著者でもあるボルドウィン卿が、故郷を出て、放浪した先々で見聞きしたモノを神への感謝の言葉と共に記し本にしたものさ。お前たちは不思議に思わなかったか? その男だけが異質なルートを選び村を徘徊していただろう? 僕はね、その線を疑っていたんだが、ビンゴだったな」
「それが今回の件とどう関係するのよ! ぜんぜん話が見えないんだけど?」
ネコさんが声を荒げます。しかし、その声は震えていました。
確かにネコさんがおっしゃる通りです。神取さんが主張するお金の件と、シキさんが早瀬村を訪れる切っ掛けになった本に関連性を見出すことは出来ません。
神取さんは一度息を吐き、説明を続けます。
「本来なら、その本は只のガイド本にしか成り得なかった。貴族出身のボルドウィン卿が、酔狂として出版した本でしかなかったんだからな。しかし、ある事件が切っ掛けで本は脚光を浴びることとなった、という流れがある。話は変わるがね、早瀬村が世界遺産に登録されるのは知っているか?」
「知って、る。……それで?」
シキさんです。語尾が掠れていて、とても痛々しいです。
「僕たちはね、その遺産登録にあたり、出資される資金を戴きに来ていたんだよ。それが先ほどの質問への回答だ。人の命をベットしてでも欲しい金っていうのは、そのことだ。金額にして数億になるぞ? どうだ、すごいだろう? 普通に暮らしていたら、到底あり付けない金額だ!」
神取さんは嬉々としていいます。狂信的、とでも比喩すればいいでしょうか。もちろん信仰の対象はお金です。神取さんの言葉にシキさんたちは圧倒され、押し黙るだけでした。無理もありません。先ほど神取さんから聞かされていた私だって、未だ信じることが出来ないでいるのですから。
神取さんの言葉は、あまりにも壮大で、大胆で、夢想のようです。しかし、神取さんは自信に満ち溢れています。計画を成功させるのは児戯に等しいといわんばかりです。神取さんの表情、声、身体の動き、その全てが自らを全肯定しているようでした。
私と、正反対だと思いました。
「ヘッ! まるでガキの妄想だな。世界遺産登録の為に出資される資金を戴くだぁ? そんなことが出来てたまるかよ!」
キツネさんが大きく吠えました。
「くくくく。だからこうやって村の中心に居座っているんだろうが。現在に至り、僕の言葉は村人の心に深く響く。それだけの信頼を得ている。それは村の長である母祢家ですら例外ではないぞ。つまり、信憑性のある理由付けさえすれば、村の全ては僕の言いなりというわけさ。いいかい? 金の流れというのは川の流れに似ている。流れる道筋を作ってやれば、自然とそちらへ流れてくれるものさ。例えば、農機具の購入費用として、または環境保全の協力を得るために、各種団体へ人員確保を依頼する、などそんな感じだ。信憑性のある理由付け、もとい金の流れる道筋なんて、いくらでも用意出来るってことなんだよ」
「……どういうことだ?」
クマさんは脇腹を押さえ、苦しそうにいいました。クマさんの手、赤く汚れています。
「そ、それって詐欺ってことー?」
ネコさんの声が震えていました。
「だから最初からそう言っている。オマエたちは僕の話を荒唐無稽のように感じているだろうが、僕の計画は完璧なんだ。くくくく、お前たちがどう思おうとも別にどうだっていい。僕は僕のやり方でその金を手に入れる。そしてそれはもう目前だ。だからこそ……」
神取さんはゆっくりと刃物を構えます。その動きはどこか緩慢に思えるのですが、それと同時に絶対に逃げることが出来ないという恐怖感を煽るものでもありました。
「ここでオマエたちには死んでもらおうと思う」
言葉と同時、神取さんが軽やかに床を蹴りました。五歩の距離を二歩で駆け抜けます。私には、影がぬるりと動いたようにしか見えませんでした。
ガチィ。
そんな、金属の擦れる音がしました。
先ほどまで横たわっていたシキさんが神取さんと対峙していました。
「ほう。オマエ、まだ動けたんだな。しかも、得物まで隠し持っていたとはね」
「ぐ、ぐぐ」
余裕のある神取さんに比べ、シキさんはガチガチと歯を鳴らしていました。
「はははは、ほら、どうした。押されているぞ。くくくく。そんな細いナイフ一本でいつまで受け止めていられるかな? くくくく……ほら、ほら。このまま頚動脈までイってしまうぞ!」
神取さんは手に持った刃物をシキさんへと押し付けていきます。
「シキッ!」
「……ぬぅ!」
神取さんたちに向かい、二つの影が動きます。
あ。
私は神取さんの動きを見失いました。どこ? と思った瞬間、左右の壁にキツネさんとクマさんが叩きつけられていました。
「キツネ、クマ……」
シキさんは動けずにいました。
「そんな! 片手でシキくん止めた状態で、二人も相手にするなんて」
ネコさんはそういうと、私を庇うように抱きかかえました。ネコさんの顔には明らかな恐怖が浮かんでいました。
「ふん。無駄だよ。無駄。そう、無駄なんだ。今更なにをやっても無駄だ。くくくくくくくくくくく。まるで、オマエの様だよな?」
神取さんはいいながら私を見ました。
「あ、あなた! 取り消しなさい! 今言ったこと取り消しなさい!」
ネコさんが絹を裂くような声を上げます。あまりに大きな声だったので、私はびっくりしてしまいました。
「取り消すもなにも、それは事実だろう? くくくくく」
神取さんはクツクツと笑います。そして造作も無いといわんばかりにシキさんを押し返してしまいました。
シキさんは大した抵抗も出来ず床に倒れこんでしまいました。
「う……ぐぅ」
「はははは。その身体でよくやる。そうやって這い蹲るのが好きなのか? くくくく、目出度いヤツだよまったく。いや、目出度いのはオマエだけじゃないな。そこに転がっている男たちも、そこの女もそうだ。そもそも、喋ることも出来ない欠陥品のために、どうしてそこまで身を挺す?」
「と、友達! 友達なら当然でしょ!」
「くくくく、友達、ね。しかし、だな、それでオマエたちが死んでしまったら意味ないだろう? 友達? それはそんなに大事なものなのかい? 命よりも?」
「あ、当り前でしょ! 簡単に見捨てるなんてこと出来ない! 絶対にやらない!」
「くくくく。そう思っているのはオマエだけじゃないのか? 相手はそこまで思って無いかもしれんぞ? それにな、オマエだって本当の理由は違うんじゃないか? そうやって友達のためにとやっている自分自身が好きなんじゃないか?」
「そ、そんな!」
「だってそうだろう? その女、喋れないんだぞ? どうやって意思の疎通をするんだよ。何を言ってもただコクコクと頷くだけだぞ? オマエたちがどう思っても、何も伝わってはいないよ」
「ケッ、そりゃお前がそう思ってるだけじゃねぇ……がァッ」
「黙ってろ、死に損ない。お前の声は耳に刺さる」
「キツネくんッ!」
神取さんは閃光のような速さで足を振りました。いえ、あまりの速さにそうだったようだ、としか例えようがありません。
「おや。気絶したようだ。意識のある内に苦しませながら殺したかったのに。つまらないヤツだな」
「……むぅ」
「おい、クマ、止めとけ」
「……シキ。しかしだな」
「うるさいクマ。お前はソコに座ってろ。……後は俺がやるから」
「くくくくっ! オマエが? どうやって? どうやって僕をヤる?」
「は。イケメンに不可能はねぇんだよ」
「ならどうする。その身体で僕をどうするつもりだ。口先だけではどうとでも言える。だがな、いくら言葉を重ねようとも現実は変化しないぞ?」
「そりゃお前の理屈だろうが。俺が何とかするって言ったらするんだ。これ以上この村で好き勝手してんじゃねぇよ。この村はお前なんかが好きにして良い場所じゃないんだ」
「ふん。えらく執心するんだな」
「お前もプサルモィを知っているなら、何かしら、感銘を受けている筈だろうがっ!」
「くくくくく。確かにボルドウィン卿が書いた外典は素晴らしい内容だ。誰も知らなかった早瀬村を世界遺産の候補へと押し上げたのは、その外典の功績に因るところが大きいだろう。読めば一度は早瀬村を訪れたいと思うだろうし、現に海外からの探訪者だっている。が、ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「くっ、お前は、この村、に、想いを馳せることがないのかっ?」
「想い? ……くくく、無いな。僕に見えたのは一時的なマーケティング展開と、国から投入される資金だ。むしろ通常と比べて規格外に膨らんだ資金にこそ目がいくだろう。お前はおかしいと思わなかったのか?」
「何の、話だ」
「疑問すら浮かばなかった、いや、何も知らないのか。くくくく。……いいかい。読者に大きな影響を与える外典プサルモィ。それが世に出て十数年が経つ。しかし早瀬村が世界遺産に登録される話が出たのはここ数年だ。それはどうしてだ?」
「そ、それは……プサルモィの、存在がゆっくりと浸透していった、からだろ」
「ふん。それは違うな。実のところを言うと、村を世界遺産へ登録する計画は、外典プサルモィが発行された翌月くらいから密かに立ち上がっていたんだよ」
「翌月、だと?」
「そうだ。今回、世界遺産への登録を控えた早瀬村だが、計画自体は十数年掛かりで推し進められてきたことなんだ」
「どういうことだ?」
「くくくくく。ところでオマエ、ボルドウィン卿の死因を知っているかい?」
「い、遺跡、での虐殺……だ」
「そうだ。それは知っていたみたいだな。……事件は日本では大きく取沙汰されなかったが、卿はアジア圏の内紛の地、その場所にあった古代遺跡の保護を訴求していて殺害された。卿は遺跡保護団体の旗手だったからな。では、これは知っているか? 卿が殺害されたのは外典プサルモィが発行された翌月なんだが」
「な……?」
「ここで予備知識として確認しておこう。この話はオマエと僕しか知らないことでもあるしな。せっかくギャラリーが居ることだしね。ふん、まあ、死に行くオマエ達への手向けだと思ってくれればいい」
神取さんは視線を動かし、私たちを見回しました。神取さんの言葉に誰も反論しなかったのは、神取さんの言葉が持つ、冷たさを感じる威圧感からでしょうか。それとも、皆さんの興味が一点に集中しているからでしょうか。私の考えなんて他所にして、神取さんは言葉を続けました。
「卿の出身地は英国だ。しかも、卿は王室との血縁関係にあたる。しかし卿殺害の報が流れた際、英国王室はボルドウィン卿と王室は無関係であることを強調した。一節では、卿は諜報目的で各国を巡っていたと疑われていたらしいからな。真実は闇の中だが、卿が持っていた王室との太すぎるパイプを考えると、その説も真実味を帯びるのだがね」
神取さんはいつにもなく饒舌です。私はこれほど嬉々としてお話する神取さんを知りません。大きな刃物を両手で弄ぶ姿は、まるで子どもがはしゃいでいるように思えました。
「さて今回、早瀬村が世界遺産に登録されるにあたり、資金を提供するのは日本政府だけじゃない。そこにはボルドウィン卿の祖国である英国も噛んでいるんだ。だからこそこうまでも以上に援助資金が膨れ上がっているのさ」
「それ……で?」
「結局、ボルドウィン卿の謎に包まれた死因の所為で、英国が計画していた早瀬村への資金提供は十数年という期間を必要とした」
「その言い方だと、世界遺産登録をダシに、英国が早瀬村に金を投入したがっているようだ」
「そう。まさにそうなんだよ。表向き、英国王室はボルドウィン卿の遺志を尊重するというスタンスを取り、卿が愛した土地や遺跡の保存に力を入れるとなっているがね」
「なんの、為に? 英国王室は何故、そうまでして金を?」
「くくくく……何の為に、か」
「何がおかしい」
「いや。ここまで話してもピンと来ないものなのか、とね。」
「なに?」
「では、説明してやろう。これが最後のピースだ。この一欠片で全てが繋がる」
神取さんは一息付き、私をちらりと見た後で口の端を歪に曲げながらいいました。
「実はな……卿が殺害された日、つまり百二十七名で構成される保護団体が全滅した日だが、生き残りが居る」
「なんだと?」
「死者は百二十六人。生存者は一人。結論を言えば、英国が大きな資金を投入したい理由はその生存者に対してだ」
「は? おい、その言葉が本当なら、その生存者は、早瀬村に居るってことか?」
「くくくく。そうだ。まさにその通りだ。英国王室がその身柄をすぐにでも引き取りたかった存在。しかし、ボルドウィン卿に掛けられた諜報活動の疑い。その疑いが邪魔をして王室は動けない。くくくくく。まさに苦肉の策だ。保護団体を全滅と発表し、その存在を隠蔽。さらに十数年の時間を経て、世界遺産登録の援助という形での関与。其れほどまでに英国王室は慎重に慎重を重ねなければいけない存在。そしてそれほどまでして守りたい存在。どうだ? もう理解出来ただろう? くくくくく……ほら、そこに居るじゃないか。本来なら早瀬村に居るはずが無いのが。容姿も、戸籍も存在してはいけないのが。ライオネル・ボルドウィン、そして妻である母祢牡丹の一人娘、母祢蓮が」
「な、んだと?」
全員の視線が私へと向けられました。
「確証は取ってある。先日その女の私物を調べた際、卿と妻のモノが数点出てきた。正直、戦々恐々としたよ。本来なら存在するはずのない人間だ。さらに英国王室に縁ある人間。アンダーグラウンドで動いているにしても、流石に僕が個人で立ち向かえる相手じゃない。手を出して分が悪いのは僕だ」
「そ、それなら、何故ハスへ危害を加えた!」
「僕にとって、ソイツには生きてこの村に存在し続けられるのが一番問題なんだ。しかし、その女が居なくなってしまえば、あるいは死んでしまえば英国王室は早瀬村に関わることもなくなる。無論、表立った理由からして資金援助が打ち切られることもない。なら、リスクの芽を摘み取るのは当然じゃないか?」
「く! お前の都合で、ハスの命をどうこう語るんじゃねぇ! 生まれがどうだって関係ないだろ! 今、この場所でハスは生きてる! 命が美しく輝いているじゃないか!」
「美しい。……美しいか? 全身をアザだらけにして、日々を死んだように過す生き物が」
「それはお前たちがやったことだろう!」
「くくくく。僕たちがこいつを殴り始めてそうそう時間は経ってない。そのアザはずっと前からあっただろう? 実の祖母、祖父たちからの虐待の痕が」
「……お前ッ!」
「おっと、それに関して僕は関係ない。ソイツが虐待を受けていたのは事実だ」
神取さんはいい切ります。ああ、やっぱり、そうなんですね。ネコさんがおっしゃっていた事は事実でしたか。ん。いえ、判っていたんです。お祖母ちゃんの暴力は、一般でいう度を越しているのだと。ただ、認めたくはなかった。認めたくはなかったのですよ。
「母祢蓮。その女は早瀬村に似ている。一見は美しくも、中身は疲弊し、存続が危うい。世界遺産という外的要因があって、無理やり延命される村。このまま静かに消えていけば、あるいは幸せだったろうに。この場合、母祢蓮への外的要因はオマエたちになるわけだが」
「な、に?」
「そ、それは私たちがハスちゃんを無理やり生かしてるってこと?」
「違うのか? お前たちは母祢蓮に自身のエゴをぶつけ、生半可な希望や期待を抱かせた。今までは人の言いなりになるだけだったソイツに、自ら考えて動く切っ掛けを与えた。わざわざ意見を述べさせる為のツールまで与えてな。さぞ、いい気分だったろう?」
「なん、だと! ハスが、自分の意見を、述べることが、悪いってのか」
「悪い。ソイツは何も考えず、ただ生きて、ただ死ねば良かったんだ。僕にとっては英国王室が世界遺産登録の乗じ、資金提供を決定した時点で、ソイツの命の意味は終わっていたに等しいからな」
「馬鹿野郎ッ! そんな、ことが、あってたまるか!」
「あのな、こんなハンデを背負った状態で、こんな生き辛い世の中を生きていけって言う方が酷じゃないのか?」
「そんなことない! ハスちゃんはその名前の通り、どんな生き辛い泥水の中でも見事な花を咲かせることが出来るわ!」
「蓮の花か。ふん。外来種であるソレは、居付いた池の生態系を壊す。もとからあった小さな生態系を淘汰してな。最近は駆除の対象になっていることを知らんのか?」
「そんな……」
「しかし、言い得て妙だな。ボルドウィン卿が、いや母祢蓮が居なければ早瀬村はこうならなかった。限界集落を経て、静かに消滅出来たんだ。なまじ人の目に触れてしまったからこそ村に住む人々の苦悩が始まった」
神取さんは静かに息を吐き、続けます。
「早瀬村にとって、母祢蓮という存在は必要じゃなかった。その女は望まれていなんだよ」
その言葉を聞いて、私は全てに納得がいきました。今までのこと、これまでのこと。小さく、小さくではありますが、疑問はあったのだと思います。いえ、疑問があったのですよ。
どうして私は人と違うのだろう。
容姿の話ではありません。こう、扱い、といいますか、接し方といいますか。もちろん、容姿の所為もあったり、言葉のこともあるのですが、そうではありません。こう、根本的なものと例えれば良いですか。命と命の触れ合い方っていうんでしょうか。
どうして私は人と違うのだろう。
つまり、つまりは神取さんがおっしゃった通りなんですね。こう、胸につっかえていたものが落ちた感じです。
私は要らない人間。
私は要らない人間なんです。
要らない、存在だったんですね。
ああ、そうだったのか。
やっぱりね。
なんて。
「それは違う! 違うぞハス!」
シキさんでした。シキさんは全身を震わせて叫びます。
「お前は必要とされている! 必要とされているんだ!」
そう、でしょうか。シキさん。そうなんですか? もし、シキさんがそうおっしゃるなら私聞きたいです。今までのこと。これまでのこと。私は、私はどうしてああいった扱いを受けてきたのでしょうか。
気が付けば殴られるのが日常でした。アザや切り傷が絶えない毎日でした。痛くて、恐くて、寂しくて、辛かったです。私って、必要とされていたんですか?
「馬鹿! こんな殺人鬼の言葉をいちいち真に受けるな! お前は俺の言葉だけ聞いてりゃ良いんだ!」
「くくく。傲岸不遜の極みだな。オマエが母祢蓮の核心に辿り着くことは無いな」
「五月蝿い! お前は黙ってろ! ハス、余計な事なんて考えるな! お前は生きてるんだぞ! これからのこと、楽しいことだけを考えてりゃ良いんだよ!」
シキさん。これからって、これからって何を考えれば良いんですか? 今までのほぼ全てから想像を膨らませても、あまり楽しそうな想像は出来ませんよ?
「ハス! 諦めるなって! な? 大丈夫だって。な? だからそんな顔すんな! 諦め入ってんじゃねぇぞ! ほらっ! こっち向けって! 下向いてんな! ちゃんと、こっち見て俺の話聞けよ! こっち見ろ、ハスッ! くそ、何故届かないんだよ! 何故なんだよっ!」
いえ、ちゃんと聞いてます。聞いてますから。
「泣くな! もうそうやって泣いて欲しくないんだ! 届けよ! 俺の言葉、届けって! お前は必要とされてる! 必要とされてるんだ! 必要とされているんだッ! だから下向いてんじゃねぇぞっ! くそ! くそ!」
「おいおい。オマエが泣いてどうするんだ。くくくく」
「ちくしょう。ちくしょう。なんだよ。俺とお前の言葉の何が違うんだ。お前の言葉はあれだけハスを打ちのめしているのに、どうして俺の言葉はハスを支えることが出来ない!」
シキさん。シキさん。苦しいです。私、苦しいですよ。シキさんがおっしゃるように考えてみたくもあるのです。シキさんの方を向いていたくもあるのです。ですが、どうしても、どうしても疑問が浮かび続けるのです。
私の生に意味はあるのでしょうか。
私の人生に意味はあるのでしょうか。
私の生きてきた日々に意味はあったのでしょうか。
「くそ! 泣くな! 泣くなよハス! 俺は、俺は認めないぞ! あいつの理屈を受け入れるなんて、ぜったいに認めないぞ! ハス、お前がそれを認めてしまったら、お前の、お前の両親の気持ちはどうなるんだよ!」
あう。
それは……。
「ちっくしょおっ! ハス! お前には両親の記憶があるんだろうがッ! 両親の笑顔を知ってるんだろうがッ! 俺とは違うんだろうがッ! お前は! お前は、その人生を両親の幸せの証として生きることが出来るだろうがッ!」
シキさん。
「甘えるんじゃねぇッ! 自分の人生だろッ! その命の責任を他人任せにするんなッ! その意味、終わり方は自分自身で決めろ! 今は頑張って生きろッ! 他人に迷惑を掛けてもいい、生きて生きて生きて、最後の最後で、ちゃんと両親にお礼を言いながら眠れッ! 命を与えてくれてありがとうって言いながら眠れよッ!」
シキさん。
「うぅ、はぁ、う。っくそ! 何だよ、くそッ! 声なんてあっても意味ねぇじゃんか。ちっとも伝わんねぇ。伝わんねぇよ……うぅ、ふぅ、うく」
シキさん、泣かないで。泣かないでください。
「は、ハスちゃん」
大丈夫です。私は視線でネコさん伝えました。
私はゆっくり立ち上がります。その際身体を包んでいた布が落ちましたが、気にしないです。
「うぁ」
ネコさんが小さく息を呑みました。
うん。おそらくは、私の背中にある傷を見てのことでしょう。
普段の私なら、傷を人に見せることなんて出来ません。でも私はそんなことに気を取られている場合じゃないです。すぐにシキさんの元へ向かいます。
シキさんは深くうな垂れています。その瞳からは大粒の涙が落ちていました。
「ハス?」
はい。
「辛かったとは思うんだけどさ、これからもずっとそうだとは限らないだろ。だからさ、諦めたりするなよ。これからのこと、諦めたりするなよ。どんな夢を描いて良いかわからないなら、俺たちも手伝うよ。だってよ、俺たちは……」
友達、ですよね?
私は精一杯の笑顔で応えました。
「ああ、そうだ。友達だからな」
「なら――」
声。神取さんの。
小屋の中の空気が、一瞬で異質なものへ。
「ネコッ!」
シキさんは私を後方へ突き飛ばしました。そのまま私はネコさんに抱きかかえられます。
「――仲良く殺してやる」
神取さんがシキさんへ身体ごとぶつかります。その手にはあの大きな刃物が握られていたはずです。
「キツネッ! クマッ!」
シキさんの言葉が響いた瞬間、床に伏せていた二つの影が動きます。
一つは弾けるように。
一つは爆ぜるように。
「ッ!」
神取さんが息を呑んだのがわかりました。その瞬間、時間が止まったようでした。
神取さんは対応出来ません。その両手はシキさんを貫いています。その硬直を狙うように、二つの影が神取さんを襲います。
左右から同時に放たれた豪腕は一撃で神取さんの顔面を変形させます。それでも勢いが緩まない過剰なエネルギーは、神取さん宙へと大きく吹き飛ばしました。
――刹那、衝撃が水引小屋を大きく揺らしました。
「ケッ! どうだってんだ!」
静寂を破りキツネさんが叫びました。
「……これで借りは返したぞ」
吠えるようにクマさんがいいました。
部屋の隅、動きを止めた神取さんが横たわっています。キツネさんとクマさんは臨戦態勢のまま、神取さんの様子を伺います。しかし、どれ程待っても神取さんが起き上がることはありませんでした。
「ハスちゃん大丈夫?」
ネコさんが私の身体に布をかけてくれました。ああ、これ、ネコさんが着ていた上着ですね。どうりでネコさんに包まれているような香りがしたんです。申し訳ないですね。血が付いちゃってますよ。
「ふぅ。つかれた」
シキさんはそういってどっかりと床に腰を下ろしました。
「三人ともへーき?」
「面倒くさい」
「……むぅ」
「あー、俺はちょっと休憩させてくれ。クラクラする」
「シキくん、さっき刺されたの?」
そうです。ネコさんがいう通りです。私の目からも刺されたように見えました。
「あー、コレコレ。コレで凌いだ」
そういってシキさんが見せたのは小さな本でした。
「何だ、それ?」
キツネさんの問いに、シキさんは「プサルモィ」と答えました。
「……が、満身創痍なのは違いないな。とりあえず次にあいつ等が動き出したら敵わん。ネコ」
「うん」
ネコさんは立ち上がり、クマさんの隣りへ。そしておもむろにクマさんの「●」に手を入れました。
「コレかな?」
そういって取り出したのは細めのロープのようでした。
「……先ず、全員の両足を縛ってくれ。そして全員を背中合わせにし、一繋ぎで腕を縛る。キツネ、シキ、動くのは辛いだろうが、ここまでは手伝え」
「マジかよ、面倒くせぇ」
「俺が一番傷深いんだぜ? つぅか、ぶっ倒れそうだ」
皆さんは口々にいいながらも、テキパキと行動しました。五分もしない内に神取さんたちは縛られ、一つの場所に集められました。
「ふー。これで一安心、かな?」
ネコさんはクマさんを見ます。
「……だな。刃物類は取り上げたし、ロープの端は小屋の柱に括りつけてある。目が覚めても何も出来ないだろう」
「ヘッ! 目が覚めたときには塀の中だろうぜ」
「とりあえず、小屋を出よう。ハス、こっちへ来い」
私はシキさんに呼ばれ、隣りへ並びました。
シキさんは私の肩を抱きます。自然とシキさんに寄り添うようなかたちとなり、とても気恥ずかしく思いました。
私たちはそのまま小屋を出ます。空を見上げると満天の星空が私たちを照らしていました。
「ハス」
はい。私はシキさんを見ます。
「よくがんばった」
シキさんはそういって私を抱きしました。……優しく、抱きしめてくれました。
う。
ううう。
もう、我慢できませんでした。
恐かったです。
恐かったです。
本当に、恐かったです。
殴られました。たくさん殴られました。
痛かったです。
痛かったですよ。
辛かったです。
辛かったです。
ずっと、ずっと辛かったです。
何年も、何年も辛かったです。
シキさん。シキさん。私、もう寂しいのは嫌です。独りは嫌です。
私の心はドロドロに溶けてしまい、助かったことに喜んでいるのか、恐ろしかったことに怯えているのか、全く判らなくなってしまいました。それでも涙は次から次へ流れ落ち続けます。時折り空気を貪るように咳き込んで、そしてまた涙を流し続けました。
シキさんは何もいわず、そっと抱きしめたまま頭を撫で続けてくれました。
私の心が落ち着くまで、もう暫くの時間が必要でした。
◇◇◇
星が瞬く空の下、私は半身を川の水の中に沈めていました。
「大丈夫かなー。痛くない?」
私を気遣うように、ネコさんが声を掛けます。
私はゆっくりと首を振り、大丈夫だと伝えます。
「痛かったら言ってねー、じゃなくて教えてねー」
ネコさんはゆっくりと私の下半身を撫でました。私の太ももに付いた血が川の水に洗い流されていきます。川の水は程よく冷たくて、血と一緒に痛みも消してくれているようでした。
「んー……んく」
ネコさんは何かをいいたかったみたいですが、それは嗚咽になってしまったみたいです。
私たちの間に沈黙が訪れました。
向こうではシキさんたちがお話していました。離れているのはネコさんから注意を受けたからです。私は沈黙に耐えかねて、シキさん達の方へ耳を傾けました。
「ふらふらする。血が足りない」
「……足がガクガクするな」
「面倒くさい」
そんな感じでよくわからない会話を続けていました。
ネコさんはブツブツと「なんでかなー、まだ出てるなー。もーヤダー」なんていってます。ずっと涙を流し続けているのが心配です。それでもネコさんの手はとっても優しく私の身体を撫でてくれました。
暫くして、シキさんがこちらへやってきました。その足取りはとても力無いものでした。
「こら! 近寄るな!」
「すまん。けど、俺たちもそろそろ限界っぽい」
「五月蝿い! それじゃその辺にぶっ倒れてろ! 女の子の傷と一緒にすんな! 殴るよ!」
「お、おい。そんなこと言うなよ。……ハス、酷いのか?」
「当り前でしょー! 無理矢理だったのに酷いに決まってるでしょ!」
「……ネコ、落ち着け」
「ウルセェな、どうした?」
「む! 集まって来てんじゃないの! 向こうに行ってなさいよ!」
「……ネコ」
「なによ! あんたたちに何がわかるのよ!……まだ、血だって止まってないのに」
「そ、そうなのか。すまん。ウルセェとか言っちまってよ」
「……むぅ」
私は皆さんのやり取りをぼんやり聞いていました。ちょっと喧嘩してますかね。困ったなぁ、なんて思っていますと、全身がブルブルと震えてしまいました。結構な時間川の水に浸かっていた所為で、身体が冷えてしまったようです。
「ハスちゃん?」
私はネコさんの手をそっと撫で、立ち上がりました。
「わ、わ、わ、ちょっとハスちゃん! 駄目よ、裸なんだから!」
はあ。でも、私は服がありませんからね。破かれてしまいましたし。
「お、おい。ネコ、ハスの足」
「あ!」
キツネさんの言葉を受け、ネコさんは急いで私の足に川の水をかけました。私の太ももに走った赤い線が薄くなり、やがて消えます。それでもやっぱり新しく赤い線が走るのでした。
おやおや。これはこれは。さすがにこれは恥ずかしいですね。
「ううぅ。ふぅ、だ、駄目んズ、向こうに行きなさい、行きなさいよ」
ネコさんは再び涙を流しながら私の太ももに走る赤い線を消します。
シキさんたちはその様子を辛らつな表情で見ていました。ちょっと困りますね。恥ずかしいですよ。
そんなコトを考えていると、シキさんがこちらへ一歩踏み出してきました。ネコさんが慌てて制止しょうとしましたが、シキさんはそれを遮るようにいいました。
「なあハス。お前どうする?」
はあ。何をどうしたらいいですか? 私はシキさんの言葉の意味を推し量ることができませんでした。
「さっき言ったことだけどさ。お前、俺の嫁さんになるか?」
はい?
うん?
えぇと。
嫁、ですか。
お嫁さん?
「いや、出来れば嫁さんになってくれれば嬉しいんだがな。お前綺麗だし、面白いし。一緒に居て楽しいからさ」
「シキくん?」
ネコさんは呆けたような表情でした。
「あー、ネコ黙ってろ。無茶苦茶恥かしいから」
「……お前、プロポーズしてるのか?」
クマさんはよろよろと蹈鞴を踏んでいます。眩暈がするって感じでしょうか。
「そうだよ、悪いかよ」
「テ、テメェ、馬鹿じゃねぇのか?」
「馬鹿って言うな。でも、俺は正直に自分の気持を言うことしか出来ねぇ。俺はハスと結婚したいんだ」
はい?
結婚?
結婚っていいましたか?
え、ええと? ねねねねネコさん、何かシキさんが変ですよ?
私はネコさんへ助けを求めるように視線を投げました。ネコさんは私の視線を受け止めたあと、何かを考えるように目を細めました。
そして、いいます。
「ハスちゃん。シキくんは馬鹿だけど、とっても誠実だよ。その……細かいことには拘らないからね。出会ってからの日数に不安はあるかもだけど、大丈夫、幸せにしてくれることは間違いないから」
おかしい!
ネコさんも変です。変ですよ。
「あー、でもコイツあれだろ? お姫様なんだよな?」
やり取りを聞いていたキツネさんが私を指差していいます。
「……血縁的には、な。……が、存在自体を否定されているから正式にそうとは言えないみたいだが」
クマさんの言葉にキツネさんは頷きを返します。
「よし! シキが嫌なら俺にするか?」
キツネさんも変です!
「……むぅ」
「クマちゃん?」
「……いや、何でもない。何でもないぞ」
クマさんは「何でもない」と繰り返してます。やっぱり変ですね。
「ハスちゃん。女の子の幸せは沢山あるよ。……その、ね、初めてを自分の意思で、出来なかったのは辛いと思うんだけど……その、ね」
ネコさんは言葉を濁します。
はあ。
初めて、ですか。
えぇと。初めて。初めてって何ですか?
んー……。
私は指先を顎にあて考えます。さっちんのポーズですね。
んー……。
んー……。
んんんん……。
ああ!
なるほど!
はぁ、そうかそうか、そうでしたか!
私は得心しました。なるほど、初めてってそういう意味ですね。あまりこういったことを考えたことが無いのでピンと来ませんでしたよ。しかし知識はあります。この頭の隅に置いてありますからね。何も知らないわけではありません。
しかし、そうなるとです。うーん。これは、どうしましょうか。どうしたらいいですかね。
私はネコさんの肩をトントンと叩きます。
「ん? なぁに?」
えぇ、と、ですね。うー、男性が居ると恥かしいですね。ん。でも仕方ないです。
「ん? お腹? お腹痛いの? んー……。何だろう。んー……あ!」
あら、伝わりましたか?
「あ、ああ、そうなの? ハスちゃん、そうなの? 私、てっきり……。そっか、そっかぁ……」
私は頷きます。どうやらネコさんには伝わったっぽいですね。反面、男性には伝わってないみたいです。ぽかん、としてます。まぁ、その方が良いんですけど。
「本当に本当? 大丈夫なの?」
私は何度も頷きました。ネコさんは安堵したように息を吐きました。そして「よかったよー」といいながら私を抱きしめてくれました。
「あ! そうか!」
向こうで見ていたキツネさんがポン、と手を打ちました。
あ、駄目ですよ! 判ってもいっちゃ駄目ですからね!
「こいつアレだ! せい……」
すぱーん!
そんな音が響いてキツネさんは地面に転がりました。
「はぁ、はぁ、ん、もう! デリカシー無いにも程があるわよー! ちょっと、二人とも電話して! クマちゃんは警察、シキくんは富一さん! ハスちゃんが無事ならこんなトコに長居は無用よ!」
二人はあたふたとネコさんの指示に従っていました。でも、今ネコさんは何をキツネさんに投げつけたのでしょうか。手に取れるのは川底の石くらいですけど……。
「キツネくん、死にたくなかったら自分で救急車呼びなさい!」
キツネさんは手をヒラヒラと振り、携帯電話を弄り始めました。
そうそう。この早瀬村なんですが、山奥にあるにも関わらず、携帯電話が使用出来るそうなんです。以前、友達のさっちんが驚いていたのを思い出しました。私にはどこを驚いていいのか判りませんでしたが。
「ふぅ」
隣りでネコさんが大きく息を吐きました。
どうしましたか、ネコさん。
「何か、すごく疲れちゃったかもだよー。お風呂入りたい」
ああ、良いですね。私、随分お風呂というものに入っていませんから、ちょっと憧れてしまいます。こう、お湯を張って。んー、湯船っていうんですっけ? 斬新な日本語ですよね。湯船。こう、贅沢の極みのような言葉ですよ。
「ハスちゃん、この後富一さんの家で一緒にお風呂入ろう?」
あら、いいんですか?
「駄目んズは病院に直行だろうし、警察が来れば取調べ始まっちゃうだろうからね。人死んでるし。今入っとかないと、随分後になっちゃうよ。あー、ハスちゃん下着や服は私のがあるから良いよ。今日は帰らずに、私と一緒に居ようよ」
ネコさんはそういって私の手を握ってくれました。私は頷きを帰し、ネコさんの手を握り返しました。
「ネコ、これ」
シキさんがネコさんにシャツを手渡しました。必然的にシキさんは上半身に何も身に着けない状態になります。そしてその身体を見て、改めてシキさんの傷の深さが理解できました。痛そう、なんて生半可な言葉では表せないほどの傷の深さでした。大丈夫なんでしょうか。私のそんな心配を他所に、シキさんは私に微笑みをくれました。
「血、ついてるけど何も無いよりマシだろ? ハスに着せておいてくれよ」
「りょーかい」
ネコさんが手早く私にシャツを着せてくれました。私はというと、シキさんの背中から目が離せないでいました。
「気になる?」
はい。
シキさんの背中。先ほど付いた傷とはあきらかに違う傷がありました。
「きっと、ハスちゃんと同じ傷だよ」
ネコさんは私の背中を摩りながらいいました。その指先はとても優しく、少しでも痛みを和らげたいという想いが伝わってきました。
そう、ですか。私と、同じですか。
そうなんですね、シキさん。
そういえば、です。シキさんの先ほどの言葉。小屋の中での言葉ですよ。
シキさんは、私とは違うっていってました。私は両親の幸せを証明する為に生きることが出来るって。そんな考え方があるなんて、全然思い浮かびませんでしたよ。それでもその言葉の裏を返してしまえば、シキさんはそう生きることが出来ないってことなんですね。
幽明堂でシキさんとお話したときのことを思い出しました。
シキさんは生い立ちが複雑なのだそうです。生傷が絶えない日々が続いたこともあったそうです。あの背中の傷は、その日々の証。そしてそれを人目に出せるのは、自分の中にあるわだかまりを克服した証でもあると思います。
私は、今日の様な例外を覗けば、やっぱり人前に晒すことなんて出来ませんから。
甘えるな。
ふいにシキさんの言葉を思い出しました。
そう、シキさんに叱られちゃいましたね。
あれって、どういう意味なんでしょうね。表面的といいますか、上澄みだけを掬い上げてしまいますと乱暴な言葉ですよね。痛みっていうのは本人にしか判りません。私がシキさんの痛みを知ることが出来ないように、私の痛みは私だけのものです。ですから、他人が抱える痛みをとやかくいうのは少し違うと思います。でも、きっとシキさんはそんなつもりでいってませんね。だって、アレだけのものを背負ってなお克服したんでしょう? そんなシキさんがいった言葉です。深く、その意味を考えなければいけません。
どうなのでしょうね。私が思い至る節としましては、まぁ、頑張れる内は頑張りなさいってことなのかもしれませんね。だって、私はまだ生きていますもの。やるべき事、やれる可能性、それぞれがまだ沢山残っています。
ふぅ。
私は一つ息を吐き、シキさんを見ます。
シキさん。私、あなたのいう通り、頑張れるでしょうか。私が両親の幸せの証であることを、ちゃんと証明し続けることができるでしょうか。とても……不安ですね。でもでも、あなたの言葉で私の心が震えたのは本当なんです。
だから。
だから、私頑張りたい。頑張りたいですよ。そう、思えたんですよ。
シキさん。これからもあなたが、そして皆さんが私の傍に居てくれたなら、とても心強いです。そして何より嬉しいですよ。
それを望むのは我儘になってしまいますかね?
よく判りません。
判らないですね。
ですから。
ですから、もう少し時間をかけて、ゆっくりと理解していこうと思います。今までのこと、そしてシキさんがいった言葉のことを。
「あ、きたー」
ネコさんが皆に声をかけます。ネコさんが見ている方へ顔を向けると、平行に並んだ二つの光点がこちらへ近付いていました。
光点は六地蔵の脇を通り、一本松を渡ります。そのころには点は線となって私たちを明るく照らしていました。
「とみー、こっちこっち」
とみー? ネコさんは大きく手を振ります。
「ど、どうしたんですか? 何があったんですか?」
富一さんは軽トラックから転げ落ちるように出てきます。酷く狼狽してますね。
「うーん、見ての通りかナー。みんなボロボロだよー。詳しい話は車の中でするから、とりあえずとみーの家に連れていってよ」
「わ、わかりました。軽トラックですから、男性は荷台でもよろしいですか?」
「うん。荷物扱いだねー。ハスちゃんは前で良いでしょう?」
「ん? ハス、ハスが居るのかい?」
はい。ここに居ますよー。
「ハス? そ、その顔はどうしたんだ? それにその服、血が付いているじゃないか! だ、大丈夫なのかい?」
とりあえず、命に別状はないです。私は縦に首を振り、肯定します。
「そ、そうか。とにかく一旦家へ戻ろう。ハス、具合が悪かったりしたらすぐに言うんだよ」
はい。まあいえませんけどね。
私たちは富一さんの軽トラックに乗り込みます。シキさんたちは荷台に乗り込むなり横たわってしまいました。本当に大丈夫でしょうか。すごく心配です。
「心配?」
ネコさんの言葉に頷きを返します。
「大丈夫だよ、ハスちゃん」
ネコさんは優しく笑いました。
そうでしょうか。キツネさんは足を刺されていた様ですが、シキさんとクマさんはお腹を刺されていましたよ?
「危ない傷ならすぐにでもシキくんが対応してるよ。シキくん、そういう知識もあるみたいだからね」
「随分と物騒な話をされてますが、その、本当に大丈夫なんですか?」
富一さんは蒼い顔色をしてネコさんに訊ねました。
「んー、今はとりあえず大丈夫かも。警察も救急車も呼んであるしー」
「警察っ?」
「んー。実はねー……」
ネコさんは状況を順序立てて説明します。掻い摘んで、ではありますが、とてもわかり易い説明だと感心してしまいました。その語り口は淡々としていて、普段のふにゃっとしたネコさんの口調と随分違っていました。きっとそれはネコさんが物事を公平に、ただ起こった事実のみを説明するためだと思います。
中庸。そんな言葉が頭の中に浮かびました。中道、メソテースなんかと通じる言葉。過不足なく偏りのない価値観。うん。そうですね。ネコさんのソレに通じます。中途半端ではなくて、真ん中であること。ただ真ん中に価値観を置くだけでは中庸たりえないんですよね。そこにある種の徳を見出せてこそ、なんですっけ。
憶えていますか。ネコさん、私とシキさんを公平に見るために自分の意見をぐっと堪えていたことがありました。ありましたね。公平であるために自らを律するネコさんにこそ、やはり相応しい言葉なのだと思うのです。
「そうですか。……神取さんが」
説明を聞き、富一さんが呟きました。神取さんたちは早瀬村にとって、とても大切な方でした。早瀬村の人間は、神取さんを通じ村の未来を見ていました。その神取さんが執った行動は、村人の期待する道を大きく逸脱していたのです。いえ、そうではありませんね。神取さんはおっしゃってました。僕たちは早瀬村に入るお金が目的なんだって。結局、期待していたのは村の人たちなのであって、言葉にするのは憚れてしまいますが、やはり騙されていたということです。
人は何かしら期待が大きければ大きいほど、その期待から逸れた事実を受け入れることは困難になるのでしょう。そして意にそぐわないものを否定するに到ることもあるのです。
でも、です。
「残念ですね」
富一さんはそういって事実を受け入れました。
「うーん。ごめんねー」
「漣音子さんが謝ることではありません。ワシらが勝手に信じ、騙されただけですからね」
誰が説明しても、こう巧く伝わるものではないです。やっぱり、ネコさんの言葉だからこそ、富一さんは納得したのでしょう。
車内には沈黙が訪れました。富一さんの表情は険しいです。自分の中の葛藤と戦っているのでしょうか。軽トラックの車内には、荷台を確認するための窓があります。私はそこからシキさん達の様子を伺いました。
「みんな何してる?」
ネコさんが訊ねます。
何か、談笑してますね。車が風を切る音の所為で何を話しているのかは聞き取れません。でも、三人の表情はとても明るかったです。
「あー、やっぱり男の子だねー。ああいうトコロに乗ると気分が良いのかしらー」
「はははは。男はみんな、心の奥底でピックアップに憧れを抱くものなのですよ」
「そういうものかしら?」
「そういうものです」
そういうものらしいです。後ろの三人の表情を見れば納得もできますね。あんな事があって、あんな目に遭っても笑いあっていられるのですね。私はとても不思議な気持ちになりながらも、ああ、そういうものなのかもな、なんて思いました。
「友達っていいでしょ?」
ネコさんが悪戯っぽく笑います。なんか、私の心は見透かされているようですね。私は素直に頷きを返しました。
「だよね。でも駄目んズはメンズだからね。私たちはガールズトークで盛り上がりましょう。女には女の友情よ」
はぁ。そういうものなんですかね。どうやら私にはまだまだ知らないことがあるみたいです。しかし無理からぬことですよね。私はこうやって沢山のお友達に囲まれる経験がありませんでしたから。ですから、時間が許す限り、状況が許す限り、一つ一つを学んでいきましょう。
「ハス」
富一さんが呼びました。私は視線を向け、軽く頷きを返します。
「……お友達は大切にな」
その一言に、とても沢山の想いが込められているように感じました。私は頷きを返し、そしてもう一度深く頷きました。
軽トラックは咳き込むような排気音を響かせ走ります。暫くすると点々とした村の明かりが見えてきました。
「あとちょっとでお風呂だー。とみー、すぐに入れる?」
「ええ。ちょうど湯を張ったばかりですよ」
「やったね、ハスちゃん。到着したらお風呂に突撃だよー」
私はネコさんに抱きかかえられます。ネコさんは相変わらずいい匂いがしました。その香りは早瀬村には無い香りです。きっとネコさん達が住む都会の香りなんでしょう。出来るなら、私もネコさんたちが住む街を見てみたいと思いました。
私が住む早瀬村とは違う、どこか遠くの街。ネコさんや、シキさん、それからキツネさんとクマさんたちが住む町。そこはどんな町なんでしょうね。きっと私が想像も付かないような場所なんでしょうね。
早瀬村。その周囲は長い尾根を持つ蟻尾山に囲まれ、周囲の町からは隔絶された場所。住むのは高齢者を中心とした、数十人。一番年若いのは来年成人する私、母祢蓮ただ一人。他の若い人たちは仕事を、それから安定した生活を求めて街へ移住しました。神取さんの言葉を借りれば、限界集落を越え、ゆっくりと、でも確実に消滅集落へと向かっている場所。
そんな早瀬村の住人は、いつしか夢を見ていました。神取さんたちという集団を受け入れ、共に働き、共に生活し、想いを共感させて。集う気持ちは少しずつ編み上げられ、束ねられ、一つの夢になったのだと思います。
以前、お祖父ちゃんがいった言葉をふいに思い出しました。
「これで、昔のように活気溢れる村を取り戻すことが出来る。なくしたものを取り戻すことが出来る」
取り戻す。そう、何度も繰り返していました。お祖父ちゃん。なくしたものってなんですか。
無くしたもの?
失くしたもの?
それとも。
亡くしたものですか?
私にお祖父ちゃんの心内はわかりません。でも他の村の人と同じように、神取さんたちを頼りにしていたのは知っていました。
お祖父ちゃんは事実をどう受け止めるでしょうか。村の人たちはどうでしょうか。
早瀬村は、その事実を突きつけられたあと、どうなるのでしょうか。
シキさんがおっしゃってましたね。世界遺産は登録認定されるより、維持を続ける方がずっと難しいって。神取さんたちが居なくなってしまったあと、早瀬村はその維持を続けることが出来るのでしょうか。
何もかもが暗闇の中に溶け込んでしまったようです。暗中模索。そんな感じになるのでしょうね。年老いた早瀬村に何かを探し続けるような体力があるのでしょうか。疲弊した村に模索するだけの気力が残っているのでしょうか。
私は軽トラックの窓を開け、夜空を見上げます。今は帽子を冠っていませんので風に髪を晒します。殴られ腫れた頬に夜風が心地いいです。ああ、帽子、ネコさんたちが拾ってくれたっていってましたね。良かったです。あれ、大切なんですよね。本当に、見つかって良かったです。
「ハスちゃん?」
何となく、ネコさんが呼んでるような気がします。でも、身体が重くて振り返ることが出来ません。
「…………?」
なんか、ぼうっとしちゃってうまく聞き取ることも出来ませんね。ネコさんは何をおっしゃってますか?
私の視界は徐々に明度を失い、彩度を失くします。瞼は重く、これ以上開けておくことは出来そうにないです。
「……おやすみ、ハスちゃん」
色々なことがあって消耗し、疲れ果てた私の意識は暗い闇の中に溶けていきます。でも、私を包む空気はとても暖かくて、ただただ安堵の中を落ちていくのでした。




