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シュリー  作者: エリフル
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 井戸水がポンプを通り流れ出ます。私はそれを口に含みました。やはり、といいますか、想像通りの激痛が口から全身に広がりました。口内の裂傷が原因でしょうか、ちょっとよく判りません。右頬はやけに腫れぼったく、それでいて熱いです。鈍い痛みは全身にあり、箇所によっては感覚が曖昧になっています。

 首を上げ、上方を仰ぎ見ました。

 空。

 この場合は宙ですか。星が輝いてますね。

 今回、幸いなことに、両目の周辺は何事も無く、モノが見えなくなるといったことはありませんでした。

 水を掬い上げようと、両手をポンプの口に運んでみて、何故か右手しか無くて、それで左手を見たらピクピクと痙攣していました。これ、感覚があったらすごく痛いのではないでしょうか。

 あるいは。

 そうですね、もし私に声が在ったなら。

 私はこの苦痛に対して大声を出して泣いていましたか。大声を出しながら、痛い痛いと地面を転がっていましたか。

 ず、っと鼻を啜ります。口内に鉄臭い味が広がりました。

 んむ。

 ちょっとこれは不味いですね。美味しくありません。それでも、冷水を口内に入れるのは躊躇されてしまいます。きっと口の中には何本もの切り傷が走っているはずです。うはぁ。想像するだけで痛いです。

 痛みにはなかなか慣れることが出来ません。あ、仕方ないって思うことは出来るのですけどね。やっぱり、痛いのは痛いと思ってしまいます。これではいつまで経っても楽になることは出来ないですね。うん。出来ないですよ。

 楽になる。

 楽しくはなったりするんですけどね。

 なかなか、あはは。うん。楽にはなりませんねぇ。

 痛む手でポンプの取っ手を上下させます。再び勢いよく吐き出される冷水に、感覚が曖昧な左手をさらしました。

 はぁ、気持ち良いです。あ、感覚は曖昧ですからね、何となくですよ。何となく。

 私は髪の毛に手櫛を通します。痛いです。掌をみると、あぁ、うん、これは血ですね。星明りの下ではっきりとは見えませんが、おそらく間違いないでしょう。きっと先日切れた箇所がまた切れたのでしょうね。

 しかし、それにしても、です。

 気が付いたら真夜中なんですよ。ちょっと浦島太郎さんと同じ気分を味わいましたね。あれです、月日に関守なしってやつですよ。実際気を失ったのは、おそらく夕方くらいだったと思いますから、月日って程ではありませんが。

 それでも時間を失ったことは事実です。

 あう。失ったといえば、ちょっと記憶も曖昧ですか?

 そもそも、どうして気を失いましたか。私は順を追って考えます。


◇◇◇


 私はシキさんと早瀬村の入り口で別れたあと、すぐに家へ戻りました。お腹も空いていましたし、思いっきり走ることは出来ませんでしたが、それでもほぼ最短の時間で到着したはずです。

 いつものように、靴をビニール袋に入れて、玄関の外に置きました。

 おっと。これはどうしますか。

 私は手元のボードを見ます。シキさんから戴きました。私、人様から物を戴いてはいけないと、お祖母ちゃんから厳しくいわれています。ですから、これを見つかってしまうと叱られてしまいますね。

 うーん。

 よし、隠しましょう。

 私はボードを靴の入っているビニール袋のなかに入れました。これで暫くの間は見つかることもないでしょう。

 そして私は屋内へ入りました。ああ、帽子は外しておきましょうね。私の帽子には、レースがあしらってある紐がついています。これを顎先で結ぶようになっているのです。私は紐を結んだまま、カウガールのように帽子を首の方へずらしました。帽子は私の背中、肩甲骨の辺りで止まりました。

 んむ。可愛いです。

 早瀬村の殆どの家がそうであったように、私の住む家も食べ物の匂いが充満していました。お米の炊ける匂いは何度嗅いでもたまりません。

 私はお祖母ちゃんのお手伝いをしようと食堂へ向いました。

 私は神取さんから、今日は一日休むようにいわれていました。お祖母ちゃんもそれは了承していました。でも、やっぱり何もしないというのも悪いじゃないですか。だからちょっとでもお手伝いがしたかったのですよ。ほら、そうすることで、お祖母ちゃんから褒めてもらえるかもしれませんし。

 急転直下。

 そう、そう表現するのがよろしいでしょうか。言葉の通り、私が対応しきれないほどの速度で状況が変化しました。ああ、対応というより反応ですね。反応できない速度です。

 私は食堂に入り、お祖母ちゃんの元へ行きました。お祖母ちゃんは私に気付くなり、私に向って包丁を振りました。

 まぁ、普通に切れますよね。私は左肩に焼けるような痛みを感じました。最初は何が起こったか判りませんでした。ただ、熱い、そう思いました。恐る恐る左肩へ視線を向けると、一筋の赤い線が走っていて、そこからトプン、といった感じで血が溢れてきました。

 私は動転してしまいます。両足から力が抜けて、その場に座り込んでしまいました。

 何といわれましたっけ。

 ああ、そうでした。「この米泥棒がッ!」でしたね。

 その瞬間は何のことか判りませんでしたが、お祖母ちゃんが指差した先、そこにはお皿がありました。

 お皿には何も載っていませんでした。

 お祖母ちゃんはそのお皿を私に投げつけました。お皿は私の頭に当たり、砕けてしまいました。

 ここで誤解がありませんよう申し開きをしておきますが、決して私の頭が固いというわけではありません。むしろ、柔らかい。柔らかく軟らかいのですよ。つまり柔軟な頭なんです。固くて堅くて難い頭ではありません。あしからず、です。

 柔らかい頭ですからね、やっぱり血も出ますよ。食堂の床はニス塗りの木造ですから、ある意味助かりました。これで畳敷きだったら、血痕は大変ですもの。とにかく、私は床にパタパタパタっと飛び散った血を、何となく他人事のように見てました。そういうことで幾分か冷静さを取り戻した私は発見したのですよ。

 私の頭で砕けたお皿。そのお皿の縁に、キラキラ光る結晶体を発見したのです。そう、料理の「さしすせそ」のアレですよ。

 さ。砂糖醤油。

 し。醤油。

 す。酢醤油。

 せ。せうゆ。

 そ。ソイソース。

 つまり、醤油です。

 うん?

 ああ、違います違います。何ですかこの柔軟すぎる発想は。これ、どこかで見たことありますが、絶対間違ってます。私がいいたかった結晶体というのはお塩のことです。しょっぱいアレです。

 私は砕けたお皿の上に、キラキラ光るお塩を見つけました。

 これは、アレです。お昼、私が居場所で目を覚ましたとき、おむすびが載っていたお皿ですよ。私、おむすびを食べたあと、お皿に付いたお米やお塩をこっそり取っておいたのですよ。もちろん後で食べるためなんですけど。

 なぜ、ここにありますか。

 お皿はちゃんとお父さんのトランクの中に入れておいたはずです。不思議です。

 そんなことを考えていたら、正面から蹴られました。ちょうど顎先あたりを蹴られましたので、大きく世界が揺れました。一度目を閉じ、開くと私は床に転がっていました。

 お祖母ちゃんが私を蹴ります。踏みます。

 本当に痛いです。痛いんですよ?

 私は心の中で叫びます。

 お祖母ちゃん、痛いです。私、血が出てます。すごく痛いです。やめてください。

 私は強く目を閉じ、身体を丸めます。

 私を打ち据える力はどんどん強くなります。それもそのハズで、涙で歪む視界の端で、お祖母ちゃんが棒を握っているのが見えました。私は強く目を閉じました。以前殴られたあの棒です。その時の痛みを思い出してしまい、私は両手で頭を庇いました。

 ああ。これはいけません。

 ほ、ほ、ほ。そんな小さな咳が何度か出ました。咳といっても、私は喉が鳴りませんから、ちょっとした空気の塊を吐くだけです。

 ああ、それよりも本当に痛いです。私は両手で頭部を庇ったのですが、そのぶんわき腹が開いてしまいました。そこに棒を突きたてられてしまい、ちょっと呼吸に乱れが出たのですよ。

 それでも私を襲う衝撃は続きます。

 だんだんと、私の意識が朦朧となっていきます。激しかった痛みは消え、鈍い衝撃を感じる程度になっていました。

 ああ、そういえば、ですよ。

 帽子、ちゃんと外しておいてよかったですね。これ、冠ったままだったら大変なことになってました。さっき、頭にお皿がぶつかったじゃないですか。もし、あの時に帽子を冠っていたら、帽子が破れていたかもしれません。いや、本当に良かったです。帽子は大事です。帽子はお母さんの形見です。大事なんですよ。

 それに、シキさんが危険を顧みずにとってくれた帽子なんです。

 シキさん。

 ゆっくりと、瞼が重くなります。

 シキさん。

 シキさん。

 シキさん、いま何してますかね。

 シキさん、ネコさんたちからお話聞いてますかね。

 シキさん、もうちょっとお話したかったですね。私、初めてだったんですよ。こんなにも人とコミュニケーションを取ったの。

 シキさん、お話しましょう。

 シキさん、私の言葉、見てください。

 シキさん、私の考え、心、知ってください。

 シキさん。

 たすけて。


◇◇◇


 私は玄関先を抜けた家の外、道と畑の間に堆く積まれた石段の上で星を眺めています。今日は月が出ていませんから、星の数が多いです。仰ぎ見る夜空は澄み渡り、散りばめられた幾億の星々は八面玲瓏というところでしょうか。

 それに比べ、私はぼんやりしています。そうですね、星に例えたら六等星くらいですか。今日の満天の空に居場所は無いです。

 夜風は肌に優しく、腫れて熱を持った頬をいたわるように撫でていきます。頭部の出血も収まり、深くかぶり直した帽子のツバが微かに揺れました。うふふふふ。可愛いです。

 可愛いといえば、です。

 これ、どうですか。私は自分の腰へ視線を落します。今、私の腰にはバッグが巻かれていますよ。

 バッグはお母さんの形見です。今まで、私にはこれといって使用する機会がありませんでした。しかし、今日シキさんから戴きましたホワイトボード。こちらを持ち歩くのに、このバッグはとても適しています。本来なら肩に掛けるなどして使用するのでしょうが、私は腰につけることにしました。うふふふ。ネコさんの真似です。ネコさんはカメラのレンズをバッグに入れていましたね。

 それと、何といえばいいでしょうか。私、何となくこうやってお母さんの形見を身に着けたいと思ったのです。今までそのように思ったことはありませんでした。まぁ、私には帽子がありますからね。それで、最近はそれだけじゃ足りないような気がしていたのです。ですから、今回は身に付ける理由もありましたし、こうやって持ち出したわけなのですよ。

 ちなみにバッグはですね、とても柔らかい皮で出来てます。物を出し入れする部分はチャックで開閉されます。チャックの先っぽにはこれまた皮で作ってある紐がぴょーんって付いてます。紐の先っぽは玉になっていて、私の歩調に合わせてポンポン跳ねるのです。それがまた可愛いんです。

 バッグの内側、チャックの近くにお母さんのイニシャルが刻印してあります。この刻印のお陰でお母さんの持ち物だと判別が出来たと聞いています。

 刻印は「BB」と打ってあります。

 お母さんのお名前は「ボタン」といいます。ボタン。牡丹ですね。キンポウゲ科の落葉低木。原産地は中国北西部。季節は5月ごろ。何度も調べてしまいましたから、忘れようがないくらい憶えています。牡丹。私と同じ、お花のお名前です。とっても可愛いですね。

 お母さん、どんな方だったんでしょうね。私には殆ど両親の記憶がありませんから、想像することしか出来ません。お母さん。そのお名前のように、高貴で、壮麗で、誠実な方だったんでしょうか。もしそうなら私は申し訳が立ちませんよね。私の名前、蓮の花言葉って「雄弁」なんですよ。喋れない私からしたら、なんて皮肉なんだろうって感じです。

 それでも、私は微かに覚えています。今の私と殆ど同じお顔。おそらく、私と違うのは髪の毛と瞳の色くらじゃないでしょうか。ううん? まぁ、その二つが違えば殆ど別人ですけどね。でも、お隣の富一さんはよくいってくれます。私、お母さんにそっくりだって。うふふふ。嬉しいですよね。

 ああ。お母さんに会いたいな。あ、もちろんお父さんにも会いたいです。

 どうしたら会えますか。

 私、死んだら会えますかね。

 人って死んだらどうなりますか。やっぱり天国に行きますか。でも、天国があるなら地獄だってあるのですよね。私はあまり皆さんの役に立つこともなく生きていますから、やっぱり天国には行けませんか。お父さんとお母さんは立派な人だったと聞かされています。人の役に立っていたって聞かされています。ですから、お二人は天国に居るはずです。

 あははは。私、死んでもお二人には会えそうにもないですねぇ。これは困った。こんなにお二人に会いたいと思っても、私はもう会うことは出来ないのでしょうかね。

 私は夜空を見上げます。人は亡くなると星になるともいいます。と、いうことはそっちの方が会える可能性がありますか。私、星になりますか。その方が同じ夜空に居れますかね。

 うーん。

 それもなんか違いますね。私なんてぼやけた六等星でしかありませんし、煌く夜空に居場所がありません。そもそも、星同士って凄く離れてるんですよね。私の目前にはひしめきあうように輝く星。でも、実際星から星までの距離は、光の速さで何年も何年もかかるほど離れているとか。それだったら今と一緒です。私、何年もお父さんとお母さんを探しました。山を駈け、川を上り、ありとあらゆる場所を探しました。その何倍も時間をかけ、何倍も距離を進まなければいけません。

 ははぁ。それは気が遠くなりそうなお話ですね。

 あ、でも。それでもいつか会えるというのなら、それは試してみる価値がありませんか? うん、ありそうですね。

 よし。ちょっと星になってみましょう。

 私は痛む身体を石段から引き剥がすように立ち上がります。

「おやおや。お嬢さん、こんな夜更けに何処へ行こうというのかにゃ?」

 ほわ! 私は声がした方へ振り向きます。

「ふぅむ。まさに光彩陸離にゃー」

 あ、ネコさんです。

「えへへへー、こんばんは、ハスちゃん。相変わらず星のように綺麗だねー」

 こんばんはです、ネコさん。星は星でも六等星なので、あんまり綺麗でもないんですよ、これが。

「……ん? ……んー」

 ネコさんの表情がちょっと険しくなります。ええと、どうしましたか。

「えいッ」

 はわわわわ! ネコさんがいきなり抱きついてきましたよ!

「超かわいいー」

 私はネコさんの胸に顔を埋めるようなカタチで抱きしめられています。ああ、ネコさんすごく良い匂いがします。

「んー、んー、んんん……。……うーん。……えーと。その……いたく、ないかな?」

 ん? あ、ああ。なるほど。そうですね。月明かりが無いとはいえ、代わりにといっては十分過ぎるほどの星明りがあります。きっと、見えたんでしょうね。

「ちょっと、触っていい?」

 私はネコさんに抱かれたまま頷きます。

 ネコさんは恐る恐るといった感じで私の頬を摩ります。そう、腫れて熱をもった頬ですよ。

「あちゃー。腫れてるねー。口の中、結構ぼろぼろ?」

 ズタズタです。私は頷きを返します。

「うーん。そうかぁ……困ったナー」

 今回は何が困りましたか。私はネコさんを困らせてばかりですね。

「……ネコ」

 む。その声はクマさんですね? 私は今ネコさんに抱きしめられ、声の方向を確認することは出来ませんが、この獣が嘶くような声、おそらく間違いないでしょう。

「あー、駄目んズはこっち来ないで。向こう行って!」

「んだよ、面倒臭ぇ。お前そればっかじゃねーか。つか、そう言うってことはハスが居たんだろ?」

 あら。この声はキツネさんですか? 面倒臭いっていってますし、まず間違いないでしょう。

「あ、もう、向こう行ってよー。もー、ボンメン共はこっちに来んじゃねーよ。私の美顔を裸眼で見ると目が潰れるぜ? ああ、でもお前らの顔なんてフシアナが二つ空いてるようなもんだから、別に潰れようも無いのかもな。ボンメンならぬボクメン、そう! 木面だな! ってハスちゃんも言ってるよー」

 はわわわ! それヤバくない? ネコさん、それヤバくない?

「んだとォッ!」

「……酷いな!」

「はっはっはっは、オラ、どけよ凡面改め木面共。イケメン様が通るからよ。道あけろ」

 その声は!

「出たな、馬鹿シキ!」

「……シキ、お前は呼ばれていない」

「黙ってろ、フーリッシュワイドフェイス共」

「……なんだ?」

「てめぇ、まさか厚顔無恥って言いたかったのか? おいおいおいッ! 使い方も英訳も間違ってるぜ! 得意そうに、ニヤリ、とか笑ってんじゃねぇよ! 厚顔無恥ってのはまさに今のお前だよ!」

「光顔夢地……。光る顔は夢心地ってことか」

「……本物の馬鹿だな」

「いや、もはやコイツの馬鹿に真贋なんて無いだろ」

「うははは。貴様らが何と言おうが涼風と同じだ。馬耳東風とでも言おうか」

 シキさん、それ使い方微妙に違ってます。言っちゃ駄目ですよ!

「しかしハス、俺は嬉しいぞ。お前が美顔者としての自覚を持ってくれたことがな。ハス、お前は美しい。お前にはその言葉を言う資格がある! そう、そしてこの俺もな!」

 そもそもいえませんし、例えいえたとしてもいいません! 美顔者ってなんですか。新し過ぎます!

「シキくんストーップ!」

 ネコさんはそういって、私をシキさんから匿うように移動させました。もちろん私の顔はネコさんの胸に押し付けられたままです。

「ん? どうした、何故駄目なんだよ」

「シキくん、それ以上近寄っちゃ駄目だからね」

「ネコ、そりゃどういう意味だ……………………………………おい」

 低く、唸るような声。え、と。シキさんの声、ですよね?

「ネコ、ちょっとハスの顔見せろ」

 様子がおかしいです。シキさんの声、恐いです。

「五月蝿いナー! ハスちゃんは私と話があるからシキくんは向こうに行って」

「ハス、ちょっとこっち来い」

 シキさんがいいました。えぇと。どうしますか。私、ネコさんにしっかり抱かれてます。顔を上げることも出来ないです。

 でも、シキさん呼んでますね。

「あ、ハスちゃん駄目!」

 私はネコさんのスキを付く、といいますか、そんな感じでネコさんの拘束から逃れました。

「うお! マジかよ」

「……酷いな」

 目の前でクマさんとキツネさんが目を丸くしました。うーん、結構腫れてますからね。やっぱり目立ってしまうのですね。

「クマちゃんッ! シキくん抑えてッ!」

 切羽詰った、まるで空気を切り裂くような、そんな緊張感のある声でネコさんが叫びました。

「チッ! おいッ! 放せッ!」

 し、シキさん?

「うおおお、クマ、よく動けたな」

「……まぁ、俺も予想出来たからな。……シキ、暴れるな」

「オラァッ! 放せクマッ! 邪魔してんじゃねーぞ!」

「何言ってんのよー。自由になったら何するつもりなの?」

「ちょっと用事が出来た」

「それってこんな夜遅くにやらなきゃいけないくらい大事な用事なのー?」

「ああ、すぐにやる」

「当事者の気持ちや意見も無視してやるのー?」

「それは……」

「じゃあ訊いてみるよ?」

 ネコさんはそういって、私の手をとりました。えぇと、いったい何がどうなっていますか。シキさんは何か用事が出来て? え? それで私に何を訊くのですか? うん?

「ハスちゃん、答えたくないときは答えないでいいからね?」

 ネコさんは優しく微笑みました。

「今シキくんが問題行動を起こそうとしたの。理由はハスちゃんのお顔。そのほっぺが腫れてること」

 ほぉあ! それは不味い! し、シキさんのことですから、顔を傷だらけにするな、とかのお叱りを受けなければなりませんか? こ、これに関しては私の不徳が致すところではあるのですが、こう、成り行き上仕方なかったといいますか、ですね? 私は戦々恐々としながらシキさんを見ました。

 うん?

 あら?

 シキさん?

 シキさんはクマさんに両腕を羽交い絞めにされています。長い髪が揺れていて、その隙間から見えるお顔。お顔が、その……。

 シキさん、泣いてませんか?

「ね、ハスちゃん。……その傷は、お祖母ちゃんがやったんだよね?」

 私の視界を塞ぐようにネコさんが立ちます。

 ん?

「どうかナ?」

 えぇと、何故それを知ってますか?

「ハスちゃん」

 はい。

「それは………………虐待を受けたんだよね?」

 え、えぇと、その、それは、ですね。

「ハスちゃん」

 は、はい。

「それは、お祖母ちゃんからやられたんだよね?」

 ネコさんは確信してます。そんな表情です。どうして知ってますか。どうして知ってますかね。あ、でも待ってください。ネコさんいってましたね。憶えていますか。ネコさん幽明堂でいってましたよ。私の事、富一さんから聞いたって。私のこと、虐待を受けているって思うっていってました。

 私は考えます。いえ、正直に申し上げますと、私虐待って判らないんですよね。ああ、もちろん言葉の意味は知っていますよ。でも、虐待ってどんな状況をいうんですか? 今の私みたいなことをいうんですか? しかしですね、考えてみてください。これ、私にも非がありませんか。うん、あります。あるのですよ。だって私、どうやっても人並みにやれていません。お仕事のことです。私、叱られるだけの理由があります。それならそれは虐待というんですか? 私には、その辺りがどうもよく判らないんです。

 困りました。これはどう伝えるべきでしょうね。

「ハスちゃん。お祖母ちゃんがやったの?」

 ああ、はい。それはそうなんですけど。私は頷きます。

「オラァッ!」

 わっ! びっくりしました。シキさんです。シキさんが大声をあげました。

「もう我慢できねぇッ! クマッ! 今すぐ放せッ!」

「シキッ! いい加減にしろッ! お前の気持ちなんざどうだって良いんだ! クマ、絶対に放すなよ!」

「んだとッ! 放せクマッ!」

「……悪いが無理だ。キツネが言う通り、今回優先すべきはお前の気持ちじゃない。……ハス、どうだ。お前は祖母を恨んでいるか?」

 うん?

「ハスちゃん。お祖母ちゃんのこと、嫌い?」

 いえ、そんなワケあるはず無いじゃないですか。私は首を振り否定します。

「んなッ! おいハスッ! 何だそりゃッ! 本気で言ってんのかッ!」

 わわわわわ。こ、恐いです。シキさん、すごく恐いです。

「答えろハスッ! お前本気で言ってんのかッ!」

 こ、答えます。答えますから、怒らないでください。わ、わたし、私はですね、え、ええと、その……あの……。

「馬鹿シキッ!」

 ぴしゃん、という音が響きました。

 え、と。

 なんといいますか。今の、ネコさんです。

 ネコさん、シキさんを叩きました。シキさんのお顔を手のひらで打ちました。

「何やってんのよー! シキくんはハスちゃんをどうしたいの! なんで追い詰めるようなことするのッ!」

 ぴしゃん。

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「ちょ、ちょ」

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「馬鹿シキーッ!」

 ぴしゃん。

「つぅッ! イテェよ!」

 わわわわ、見てる私も痛いです。

「ばか、し」

「……ネコ、もういいだろ」

 クマさんがいいました。

「んー? ちゃんと反省してるのかナーッ!」

 ぴしゃん。

「んぐッ! は、反省してる。す、すまん。取り乱した俺が悪かった! 頼むからもう叩かないでくれ」

「馬鹿シキー」

 ごす。

 い、今のはキツネさんです。

「オラァッ! 何やってんだテメェッ!」

「ウルセェよッ! テメェがハス泣かしてどうすんだッ!」

「んぐ、それはそうだけど、でも」

「言い訳してんじゃねぇゾ、コラ? テメェが取り乱す理由は判ってるつもりだけどよ、それでテメェの好き勝手が正当化されるなんて思うなよ! 免罪符得る為にハスを恫喝するような言い方しやがって!」

「……キツネ、それくらいにしとけ」

「キツネって言うなッ! シキのこういうところはマジでムカつくんだよ! イイか、シキ! どんなに気に入らなくても他人の家庭問題は他人のもんだろ! 主役はあくまで当事者だ。それを差し置いてセンターに躍り出るようなマネしてんじゃねぇゾ! テメェが誰にも解決してもらえなかったように、テメェが誰かの解決を担うことなんて出来ねぇだろうがッ!」

「う、く」

「今のテメェは以前のテメェの延長だろうがよッ! 昔があって今があるんだろぉがよッ! ならハスにだってその過程が必要なんじゃねぇのかよッ! 悩まなきゃいけないのも本人だし、解決しなきゃいけないのも本人だろうがッ!」

「ッく、ぐ、くぅ」

 シキさんは頭を垂れます。固く横一文字に結ばれ口元からは、押し殺した感情の残滓が微かに漏れ出していました。

「……ネコ、もう良いだろう?」

 クマさんはそういいながらシキさんを解放しました。シキさんはゆっくりと膝から崩れていきます。

 シキさん。

 私の身体は動き出していました。不思議ですよね。本来ならまともに歩くのさえ辛かったんです。関節なんて妙に熱っぽくて、頬の腫れほどではないにしても、所々が歪な大きさになっていたんです。そんな身体なのにこの瞬間、その一瞬だけは背中に羽根が生えたかのように軽やかでした。

 私はシキさんが膝を地面につく瞬間、正面から抱きつくようなカタチで割り込みました。

「ハスちゃん!」

 私はちらりとネコさんへ視線を送ります。大丈夫ですよと頷いてみせます。心配が必要なのは私じゃないです。私なんかじゃないです。

「う、く、ぅ」

 私の耳元で、シキさんが苦しそうに声を漏らします。ネコさんやキツネさんから叩かれたのが痛かったということもあるのでしょうが、それだけではないようです。

 シキさん。

 シキさんの身体が小さく揺れます。まるで漣が寄せて返すように。

 私はネコさんの方を見ます。ネコさんは俯くように視線を落していました。ネコさんだけじゃありません。クマさんも腕組みをしたまま空を見上げてます。表情はとても険しいです。それと、キツネさん。シキさんへ言葉の意味は判りませんでしたが、言葉を紡いだキツネさんも辛そうでした。

 空気が重い。

 凡庸な言葉ではありますが、そう申し上げるに他ありません。

 どうしましたか。どうしてこうなりましたか。皆さんは断琴の交わりといっていい関係のハズです。それなのに、どうしてこんな気不味い雰囲気になってしまいましたか。

 それは。

 それは、うん。そんなこと、考えるまでもありません。これ、全部私が悪くありませんか。私がこの場所に居なければ、こんなことにはならないと思います。

 私が居なければ。

 私は思わず唇を噛みます。口の中であの味がします。錆臭いというか、そんな不味い味です。シキさんを受け止めたとき、また出血したのでしょうか。

 シキさん。

 シキさんは今、私に身体を預けてくれています。いえ、何か表現がおかしいですね。うんと、全身から力が抜け落ちてしまい、自らを支えることすらままならないといった感じです。

 シキさん。

 私、よく判りません。シキさんはどうしてあんなに怒りましたか。そして何故とても悲しそうな顔をしていましたか。

 シキさんは私の腫れた頬を見て様子が変りました。シキさん。あなたは何処へ行って何をしようとしたのですか。私、判りませんよ。状況が目まぐるしく変化しました。私には何が起こっているのか、ちっともついていけません。

 それでも、ですね。

 私は思うのですよ。私は、私の所為で皆さんが気不味い雰囲気になって欲しくないです。過程が理解できなくても、原因というか根幹にあるものは判っていますから。

 私はシキさんからゆっくり離れます………………ません。ちょ、ちょっと、これは困りました。困りましたよ。

 私、シキさんから抱かれてます。

 は!

 あ、ああ、いえいえ。抱きつかれています。その、ですね。シキさんの両手は私をしっかりと囲んでしまって、全く離れられそうな気配がありません。

 ああ、これはこれは。誤解があってはいけませんからね、ちゃんと申し開きをしておきますが、決して嫌だとか、そんなことではないんです。ないんですよね。ないんですけど、ただとにかく恥ずかしい。恥ずかしいです。だ、だって考えてみてください。ふ、二人っきりだったら、うん、まぁ、それはそれで何も気にしないで良いと思うのですよ。でも、今は違います。私とシキさん以外に人が居るじゃないですか。

 ど、どうしましょう。

 シキさん。わ、私思うのですけど、ひょっとして皆さん見てませんか? 見てるかもしれませんよ?

 えぇと。

 ど、どうしましょうか。

 なんて、そう思ったときでした。

「いつまで抱きついてんだこのロリコンッ!」

 そういって私からシキさんを引き離したのはキツネさんでした。

「ぐおッ!」

 シキさんは私から一メートルくらい離れた場所で、仰向けに転がってしまいました。キツネさんが勢い良く引っ張った所為ですが、それにしても相当な力でないとあそこまでは飛ばないと思います。

「このロリコン野郎、これ以上面倒事を起こすなよな。テメェがやってることは犯罪だぞ」

「……シキ、中学生相手に抱きつくのはどうかと思う」

 クマさん?

 ちょっと今、何ていいましたかね?

「……もっとも、相手が中学生で無ければいいのかと言われれば、もちろん駄目だがな」

 確実に聞き取れました。

 クマさん、私のこと中学生っていってます。

「あぁー、二人とも、ちょぉっといいかな?」

 ネコさんです。ちょっと笑いながら、ああ、コレ苦笑いってやつですよ、そう、そんな微妙な表情で続けます。

「ハスちゃんね、来年成人するんだよ?」

「嘘だろッ!」

 酷い! シキさんがどうしてそんな反応するんですか! 予想外の場所から一番に反応されるとびっくりしますよ! それとクマさんにキツネさんッ! どうして「信じられない」みたいな顔しているんですか!

『しつれいすぎます!』

「おお? 何だそれ? あぁ? いつの間に書いた?」

「あれー、最初から仕込んでたのかナ?」

「……いや、書いてた、よな?」

『かいてます』

「早ッ!」

 ネコさんたちは声を揃えていいました。ああ、いえ。クマさんだけはちょっと遅れてましたけど。

 いえ、それよりもですね。

 私はシキさんを見ます。

「うん? どうした、ハス」

 どうしたじゃありませんよ。

『だいじょうぶ?』

「あー、ああ、うははは」

 シキさんは気恥ずかしそうに笑いながら立ち上がりました。

「すまん、ハス。ちょっと取り乱しちまったよ。うはは、すまん。つぅか、俺はお前に謝ってばっかりだな」

 なんて。

 もう。

 どうしてそんな笑顔でいえますかね。

『ほんきで しんぱいした』

 それと、です。

『とても こわかった』

「あー。……うん。ごめんな。こればっかりは言い訳も出来ないよ。さっきキツネに言われちまったけどな」

「ケッ! 面倒臭ぇヤツだ」

「まぁまぁ。シキくんも駄目だよー。ちゃんと反省しなきゃ。でなきゃまた殴るよ?」

「お、お前はそういうのヤメロよな! お嬢様なんだからもうちっと淑やかにしろよ! 無茶苦茶痛かったぞ!」

「んー? 反省してないのかナー?」

「し、してるよ! 顔はやめろよ! もう顔叩くのやめてくれよ!」

「……反省は必要だろう。シキは自分の気持をもう少しコントロールするべきだ。……もちろん、シキが大変だったのは知ってるからな。すぐにとはいかないが。……ゆくゆくは、だな」

「クマ、馬鹿シキにいくら言っても変わらねぇよ。今回が初めてじゃねぇし、全く成長してねぇ」

「ぐ! 何だと」

「もー、喧嘩は止めてよー。ハスちゃん困ってるじゃない。このクズ男どもが、諍いを起こすことしか能が無いのかよ。不愉快極まりないわ。荷物まとめてさっさと村から出てけ。でもお前らクズが公共バスを使用するの禁止な。お前らが居るだけでみんな迷惑だろ? 這って行けよ。うん。這って行け。クズ男にはそれが相応しいだろ。這って、這って、這いつくばって行けよ。あははは。お前らの人生そのものだな、って言ってる。ね? ハスちゃん」

 ほおおおおおあああ! そそそそそそれはマズイです! 何故そこで私に振るんですか! ネコさんそれ代弁になってません! ご、ごご誤解、誤解ですっ! 誤解なのですよ皆さん! だから怒らずにですね、その!

「ハス」

 は、はひぃ! 何でしょうキツネさん!

「すまなかった」

 は、はい? 深々と頭を下げるキツネさん。ど、どうされたんですか?

「ほら、お前らも」

 キツネさんはクマさん達を促します。えと、その?

「……む。……申し訳ない」

「すまん、ハス。もう、何度目になるか判らないけど」

 え? あ、あの? わ、私は別に、ですね。

「行くぞ、シキ、クマ」

 えぇと、その。どうして皆さん地面に腹這いになるんですか?

「……結構、キツイな」

「文句言うな、クマ。俺だって昼間やられた傷がイテェんだ」

「おお、そうか。お前らボコられたんだったな」

 そんな会話をしながら、三人は腹這いのまま進んでいきます。

「あはー。あれ、わき腹を蹴ったら面白そうだねー」

 ネコさん!

『だめですよ!』

「あら? ハスちゃん凄いね、それ」

『そんなことより』

「ん? ああ、あの駄目んズ? いーのいーの。昼間もそうだったけど、血の気が多過ぎるのよ。シキくんは暴走するし。私、ちょっと怒ってるんだからー」

 ネコさんは腰に手を当てて、ぷんぷん、と口でいいました。

 うん。まぁ、そうなのでしょうね。先ほどシキさんへの平手打ちは相当なものでしたから。

 それでも、です。

『わたしは へいきです』

「ん? んむ。むー」

『ゆるしてあげてください』

「うー。んー。んむむむむ」

 ネコさんは腕を組み考えます。先ほどおっしゃったように、昼間の件もあります。ネコさんも心中複雑だと思います。思うのですよ。それでも、ですね。どうしても私は皆さんに争って戴きたくは無いのです。

 もちろん、私がネコさんにこんなことを伝えるのは不相応だと承知しています。私を気遣ってくれるネコさん。こうやって心内を伝えることは、ネコさんの優しさに甘えているのだと思います。

 それでも、やっぱり、争いは好きじゃないんです。その、原因の私がいうのもなんですけれども。

 いかが、でしょうか。ネコさん。許して戴けませんか?

「……そうかー。そうだね。ハスちゃんがそう言うならそうしなきゃだね。ん、判ったよー」

 はぁ! ありがとうございます! ネコさんありがとうございます! 私はネコさんへ一礼して、三人の元へ走ります。って、遠いです! どうしてこんな僅かな時間でそんなに距離を進めますか。

「おお、ハス、どうした?」

 追いついた私にシキさんが声をかけてくれました。

『ネコさん ゆるしてくれました』

「おお? そうなのか?」

「馬鹿シキ。ネコが許すとかじゃねぇだろ。ハスはどうなんだよ」

「……そうだな。ネコの意見よりハスの気持ちが問題だろう。……ネコが許してもハスに許して貰わなきゃ意味が無い」

 そ、そんな。許すも何も、私は最初からどうとも思っていません。許さなきゃいけないことなんて、何も無いです。何も無いのですよ。

『わたしはへいき』

「平気って言われてもな。どう思うクマ」

「……そう言うキツネはどうなんだ?」

「キツネって言うなよ。いや、しかしなぁ」

「なぁ、ハス」

 はい、なんでしょうかシキさん。

「平気ってのはどういう意味だ? 傷ついても平気ってことか?」

 そんな。傷ついて平気なワケありません。傷がつけば痛いですよ。私は首を振り否定します。

「んじゃ、その平気ってなんだろうな?」

 んと、えと、その。ああ、これは難しいですね。あ、いえ、そうですね。難しくないですよ。こんな微妙な気持ちだって、コレがあればちゃんと伝えることが出来るじゃないですか。

『わたしは けんかはすきじゃありません』

『でも げんいんは わたしですよね』

『わたしだって わるいとこあります』

『みなさんだけが いっぽうてきに わるくない』

『わたしこそ ごめんなさい』

 私はボードに文字を書いて、消して、また書きます。どうですか、皆さん。私の考えは伝わるでしょうか。私、ちゃんと伝えることが出来ていますか。こうやって気持ちを伝えるのに慣れていませんから、私の心内を上手く表現出来ていないかもしれません。きっと、文章の順序だってチグハグです。それでも、断片的な情報であったとしても、こうやって沢山書いていけば大まかな全体像といいますか、私が伝えたいことは伝わりませんか?

 私は一通り書き終わり、皆さんの反応を伺うことにします。因みに皆さんはまだ地面に腹這いのままです。

「うーん」

 キツネさんは首を捻り、隣りのクマさんを見ます。

「……むぅ」

 クマさんは獣が嘶くような声を上げ、これまた隣りのシキさんを見ます。

「いや、何と言うかだな」

 キツネさん、クマさん、シキさんはそれぞれ目を合わせたあといいました。

「字が汚い」

『きたなくない!』

 失礼です! 全然汚くないですよ、コレ。確かにちょっとペラ字ですけど、それでも十分美しい字じゃないですか。皆さん何処見ておっしゃってるんですか。その六つの眼はフシアナですか? 本当に木面なんですか? 何かネコさんって本当に私の心内がわかってるのかも、なんて思っちゃうじゃないですか!

「ホントにフシアナだよねー」

 わわ、ネコさんです。いつの間に隣りに居ましたか。

「ほらほら、駄目んズ。ハスちゃんが許してくれるって言ってるんだから、ちゃっちゃと立って。当初の目的から随分脱線してるでしょー」

「……そうだったな」

 クマさんはそういって立ち上がりました。

「何やってんだよお前ら」

「馬鹿シキッ! テメェが一番かき乱したんだろうが!」

 続いてシキさんとキツネさんが立ち上がりました。

「もー、また喧嘩なのー」

 ネコさんの言葉に、シキさんとキツネさんの身体がビクリ、と反応してました。うふふふ。ネコさん凄いです。私は思わず笑みを漏らしてしまいました。

 はて。そういえば。

 ネコさんが先ほどいいましたね。目的。当初の目的っていいましたよ。よくよく考えてみると、ちょっと不思議です。私が夕方気を失って、目を覚ましたのが深夜です。時間にすると、日付がもう変わってしまうかどうかといったところだった筈です。

 はて。

 皆さんは、こんな時間にいったい何をしていたのでしょうか。

「ハスちゃん、約束覚えてる?」

 ネコさんが私の前でクルリと回ります。まるで踊っているようです。

 約束? 約束、ですか。

「……俺たちはな、お前を誘いに来たんだ」

 クマさんが腕を組んだままいいました。

 誘い? 誘い、ですか。

「ハス、お前昼間ネコから誘われてたろ? 星を見ようって」

 ああ! 私はシキさんの言葉でピンと来ました。来たのですよ!

 そうです。私、誘われましたし約束しました。これはこれは。私、何故このような大事なことを忘れていましたか。ああ、いえ、すっかり忘れていたという訳ではないのですよ。ちょっとそこまで考えが至らなかった、そんな感じです。

「ハス、別に問題ないよな? 行けるよな? おら、面子も揃ったんだし、そろそろ行こうぜ」

 そういうキツネさんはすでに背中を向けています。いつも不機嫌そうなお声なのに、今は楽しそうに聞こえたのは気のせいでしょうか。

「あはー。キツネくん張り切ってるね。さ、ハスちゃん行こ!」

 ネコさんが私の手を引きます。

「ほらほら、行くぞ」

 シキさんが私の肩を押しました。

「……今日も星が美しいな」

 隣りでクマさんがいいました。

 何といいましょうか。その、すごく不思議です。えぇと、私、みなさんと一緒に行動してます。あ、いえ、その通りなんですけど。

 伝わりますか?

 私、独りじゃないんです。独りじゃないんですよ。みなさんと一緒なんです。その、あははは。どんな言葉を使えばいいのでしょうか。どうやったら伝わりますかね。

「こうしてると、ずっと昔から友達だったみたいだねー」

 ネコさんが振り向いて、にっこり笑いました。

 ふ。

 ネコさんの言葉を聞いたとたん、私の鼻が鳴りました。横隔膜がきゅっと持ち上がります。お腹がひくっと鳴ります。私は知らずに奥歯を噛んでました。

「あらら」

 ネコさんは私の手を引き寄せます。私はそのままネコさんの胸の中へ吸い込まれるように身体を預けました。

「ん? ネコ、どうしたんだ?」

 シキさんの声です。

「んー、んふふふふ」

「……また、向こうに行けとか言わないだろうな?」

「クマちゃんがこっち見ないならねー」

「……判った。ほら、シキも前向いていろ」

「お、おお。よくわからんが判ったぜ」

 私はネコさんに抱きしめられているので目視は出来ませんが、クマさんとシキさんの足音が少しずつ遠ざかっていくのが判りました。

 しばらく、そうですね、お二人の足音が微かに聞こえる程まで遠ざかるくらいの間を置いた後、ネコさんがクスクスと笑いました。

「さすがに駄目んズでも気がまわせたかナー」

 ネコさん?

「んー、もう大丈夫? 急に泣きだすんだもん、びっくりしたよー」

 え、と。私、泣いてましたか。どうしましたかね。

「んふふふ。今回のは悪い涙じゃないみたいだからね。心配は必要ないかなー?」

 あう。またネコさんに心配をさせてしまうところでしたね。私はネコさんに抱かれたまま頷きました。大丈夫です。別にどうということではありません。痛みがあるわけでもありませんし、悲しいわけでもありません。私、自分が泣いていることも判りませんでしたもの。ああ、それにしても何といえばいいのでしょうね。どういうわけでしょうか、私の心はとても満たされているのです。きっと、今の私はご飯をお腹いっぱいに食べるより幸せなのではないでしょうか。

 幸せ?

 ああ。うん。そうですね。この感覚が幸せ。うん。きっと幸せと申し上げてよろしいのではないでしょうか。

 ネコさん。私、幸せなのだと思います。思うのですよ。

「よーし、じゃあ私たちも行こうか」

 私はネコさんに手を引かれ、シキさん達のもとへ急ぎました。

 空を見上げれば満天の星空。とても美しいです。お母さん。お父さん。私が見えますか? とても小さくてぼやけた六等星ですけど見付けて戴けるでしょうか。もし私がここに居ることが判ったなら、お二人に聞いて欲しいです。私、今とても幸せです。幸せな気持ちを味わっています。届きますか。届いていますでしょうか。言葉を発することも無い、出来損ないの私の気持ちですけれども。それでも私の心の声は届きますでしょうか。

 私の指先は、ネコさんがしっかり握っています。その指の先はとても暖かく、大きな安心を感じました。何故かまた鼻が鳴りました。息が上手く出来ません。ネコさんが一度振り返り、私の顔をみて困ったように笑います。でもとっても優しい笑顔です。そして何事も無かったように正面を向きなおしました。それと同時に、私を手を握るネコさんの指先にきゅっと力が入りました。

 私は何が起こっているのか理解するのに少し時間が必要でした。

 私、泣いていました。また、泣いていました。

 でも、悲しいときに出る涙じゃないです。お腹が空いて出る涙じゃないです。とても息苦しいけれど、とてもたくさんの涙が頬を流れ落ちているけれど、私の心はとても満たされていました。

 満たされて、いたのですよ。


◇◇◇


 幽玄堂。

 私の住む家から裏手に周り、小道を山沿いに登った先にあります。早瀬村を囲む蟻尾山の中腹あたりに位置していて、堂内からは村を一望できます。御堂の周囲はそれなりに開けていて、空を見上げれば視界を遮るものは殆どありません。

 私たちの頭上には大パノラマの星空が広がっていて、星々はその遠近すら測れるかのように強い輝きを放っています。

「いいか、あっちの空、東な、あそこからこっち、南東にある山へ向かって流れてるのが天の川だ。で、東に視線を戻して、川の下に明るい星が見えるだろ。あれがはくちょう座のデネブ。んで、川の対岸にあるのがこと座のベガ。織姫星な。それからさらに川の対岸、むこうの山よりちょっと上らへんにある明るい星がわし座のアルタイル。彦星だ。んで、その三点を結ぶと」

「夏の大三角なんだよねー?」

「そうだ。梅雨が明ければ二十一時位から東の空で一晩中見ることが出来るぞ。ま、夏の大三角なんて銘打ってあるから判るだろうけど、一晩中見れるのは夏の間な」

「……星なんて、年中一緒の場所にありそうだけどな」

「クマ、てめぇは年中地面ばっかり見てるからそうなんだよ。ま、一年中見れる星なら幾つかあるけどよ。あれだ、有名なとこだと北の空にある北斗七星やカシオペア座なんかはそうだろうよ。北極星の周りをまわっている星、つまり周極星って呼ばれてるんだけどな。あれは年中見れるからな」

「おい、あんまし難しい言葉使うなよ」

「馬鹿シキは黙ってろ」

「それにしても綺麗だねー。キツネくん、ガジェット貸してちょうだい」

「おう」

「あ、ハスちゃん先にどうぞー」

 は、はい。私はネコさんから双眼鏡を受け取りました。

 えと、これはどうやって使うのでしょうか? 私はキツネさんを見ます。

「とりあえず覗いてみろ。んで、手元の、そう、それな。そのリングで倍率を調整できる」

 私はいわれた通り、双眼鏡越しに夜空を見ました。

 こ、こ、これはすごい!

 私の視界には星の海が広がります。ちょっとこれは凄いです。肉眼とは全然違いますよ! 本当に海みたいです! あ、ちょっと待ってください。これは海というより雲に近いですか? そうですね、うん、これは雲ですね。しかも赤だったり緑だったり。これは豪華絢爛、千紫万紅の眺めです。ほらほら、ネコさんも見てみて下さいよ!

「ん? もういいのかナ? んじゃ失礼してー……。おー、これは凄いねぇー。はぁー、凄く綺麗だ。昨日見たのよりずっと綺麗だね」

「ああ、そりゃそうだ。昨日は観測地点が悪かった。こんな良い場所があるなんてな。シキ、お前村中ふらふらしてたろ。ここ知ってたか?」

「あ? いや、ここは知らなかった。何か不思議な場所だな」

「……うむ。それは俺も思った。どういうわけか、ここら一帯を掘り起こしたいという気にはならん」

「クマちゃん、それ普通だからねー。あー、キツネくん? このガジェットでこれだけ綺麗なら、倍率が大きいヤツだともっと凄いの?」

「ネコ、そりゃ違うぜ。人にもよるだろうけどよ、俺は大口径であれば寧ろ低めの倍率を使うほうが良いと思う。カメラだってそうだろ? いくら画素数が高かろうが、粒子が細かくなけりゃ意味ないんじゃないか?」

「あー、なるほど。そんな関係かぁ。それじゃこのガジェットはマスト?」

「俺にしたらな。それは倍率七倍、口径五十ミリってとこだ。重さも重要でな。それでちょうど一キロだ。パフォーマンスは最高だと思ってる」

「なんかよ、お前らの会話さっぱりわかんねぇよ。どうだ、ハス、お前ついていけてるか?」

 シキさんが訊いてきました。そうですね、お話の内容はさっぱり判りません。私は首を振ります。

「だよな。こいつらマニアックなんだよ。ネコは写真、クマは石ころ、キツネは星。のめり込み過ぎていて、普通とは違うんだよな」

「あらー。でも普通なんてつまんないよー。ね、ハスちゃん」

 えぇと、どうなんでしょうね。私は普通でも良いと思いますよ。五体満足なら、それだけで幸せでしょうし。

「……それも人それぞれだろうな」

 私が答えあぐねていると、クマさんがそういいました。ネコさんは「それもそうだねー」といいながら、再び空を見上げました。

 幸せ、ですか。

 幸せとはなんですか。

 そんな質問があるのですよね。

 以前、あぁ、そうですねぇ、んと、日本語を一生懸命憶えている頃の話ですよ。私、たくさん本を読んだんです。その中の一冊にそんなくだりが有ったと記憶しています。

 本に登場する主人公は、本当の幸せ、なんていうものを探して旅にでるのです。主人公には家族も居ましたし、仕事だってありました。でもそれら全てを捨てて旅に出るのです。物語のオチとしましては、本当の幸せというのは結局主人公が旅立つ際捨てた家族や暮らしだった、そんなところです。

 しかし、結論ありきで考えてみますと、本当の幸せであるところの家族や暮らしを持っていた主人公は、どうしてそれを捨ててまで旅に出たのでしょうか。満たされていた主人公を駆り立てたものは何だったのでしょうね。その手にある幸せを幸せだと気付かないほど主人公も愚者ではなかったのですよ。

 私、思うんです。

 幸せの価値は、個々人で違います。しかし、個人の中であっても時間の経過とともに変化していくってことです。

 つまり、人は一時的に満たされても、すぐに飽きてしまいさらに大きな充足得たいと考える。他人を押しのけても、です。

 人は、他人を排除してでも、自分の幸せを追い求めることがあるのですよ。それに幸せといっても、その場限りの小さな欲求を満たすような行為である場合だってあります。たったそれだけの為に他人を排除することがあります。

 私はそれを考えたとき、とても疑問に思うのです。

 人の命はたったそれだけの価値しかありませんか、と。

 人の命は、他の誰かの小さな欲求を満たすほどの価値しかありませんか、と。

 おかしいと思います。それじゃ釣り合いがとれないじゃないですか。

 働きの大小で差が出るのは仕方ない、といいますか当り前だと思います。でも、それは得られる報酬に差が出るのであって、各個人の命に大小があるわけじゃないと思います。思うのですよ。

 命に軽重はありません。

 これは、私が障害といいますか、ハンデキャップを持っているから述べるわけではないです。

 まぁ、私の命をどうこうというのではなくて、まるで消耗品のように消費されていく命がある、それが間違っていると思うのですよ。現状に即した表現を使えば、消費する側の命も、消耗される側の命も、それは等価値なのですよ。私はそう考えています。

 では、どうして。

 どうしてお父さんとお母さんは。

「ハス」

 ん?

「ハス、どうだ。星は美しいか?」

 シキさんです。私は頷きを返しました。

「お前も相変わらず美しいな」

『ほっぺ はれてますよ』

「いや、それでも美しい。俺はそう思う」

『はずかしいですよ』

「うはははは。神からの贈り物だ。他人が持ち得ないものなのに、引け目を感じるのは間違ってるぞ」

 神様、ですか。シキさんの仰るとおり、私の顔が神様からの贈り物だったとしたら、なんて割りの合わないことでしょう。

『かわりに りょうしんと こえを なくしました』

「そうか」

 シキさんは困ったように笑いながら、私の隣に腰を下ろしました。

「隣り、いいか?」

『もう すわってます』

「あれ? 気付かなかったよ。ま、良いよな、イケメンだし」

 よく判りませんが、隣りに座るのは全然構わないですよ。スペースは他にも沢山あり、こうやって窮屈な感じで座るのはどうかと思ったりもします。でも、でもですね。何といいますか。それでもやっぱり誰かが隣りに座っていると安心感がある、というのでしょうか。こう、心がソワソワしないというか、寂しくないというか。そんな感じがするのです。ですからシキさん。私はこうやって隣に座って戴けるのはちょっと嬉しいです。嬉しいのですよ。

「ハス」

 はい。

「お前、家族は爺さんと婆さんだけなのか?」

 はい。私は頷きます。

「両親は亡くなったって聞いた。子供の頃なのか?」

 はい。もう殆ど憶えてもいません。私は頷きます。

「そうか。……辛かったろうな」

 そう、ですね。どうなんでしょう。私、ずっと一生懸命だったから、そんなに辛いとか考えたことがありませんね。こう、そういう暇がなかったといえばいいのでしょうかね。

「あのよ、俺も両親居ないんだよな」

 はぁ。

 うん?

 ええ?

 私は勢い良くシキさんを見ました。

「おお、反応が良いな」

 し、シキさん。それはどういう意味ですか? あ、いえ、意味なんて言葉が示すままなんでしょうけど。

「ま、両親が居ないっつっても今は居るぞ。立派な方が」

 え、えと? うん?

 どういう意味でしょうね。ちょっと難しいといいますか、複雑、なんでしょうか?

「俺な、孤児なんだよ。だから、今の両親は産みの親ってわけじゃない。でも素晴らしい方達でな、本当のっつーより、理想の両親って感じかな」

 孤児、ですか。そうですか。

『りそうの りょうしん』

「ああ。でな、今の両親の元へ行く前は施設に住んでいたんだ。俺の他にも身寄りのない子供が何人もいてな。すっげぇ大家族みたいになってんだよ。何をやるにしても大人数でな。全然まとまらなくってさ、スゲェ大変なんだよ」

『たのしそうですね』

「おう。貧乏で大変だったけど、それはそれで幸せだと思えたよ。でもな、その前は酷かった」

『そのまえ?』

「ああ。その前。施設に預けられる前のことだ。因みにそれも本当の両親じゃない。ちょっと遠縁に当たる人らしい」

『ふくざつです』

「だな。当事者である俺が把握出来てないくらいだしな。ま、それはそうと、その酷かったってのがそこの家でのことな」

 はぁ、そうなんですね。

「毎日身体のどっかから血が出てたよ」

 酷い。

 それは、酷いです。

「食事はな、まぁ、なんとか人が食べれるモノを貰ってたんだ。でも、その代わりといっちゃアレだけど、とにかくよく殴られてたんだよな」

 殴られていましたか。私は自分の右頬を触れました。当初より熱っぽさは引きましたが、大きさに違和感を感じます。

「で、言い訳になってしまうんだけどな……」

 シキさんは一度私から視線を外し、逡巡するように瞼を閉じました。小さな、本当に小さくて誰も気付けないような溜息のあと、私を見ました。

「俺は、お前の姿に昔の自分を重ねてしまった。だから、お前を殴った婆さんが許せなかった。あの時、皆が止めてくれなきゃ、きっと取り返しの付かないことをしていたと思う」

 取り返しの付かないこと。それは。

『ぼうりょく』

「そうだな。それだ」

 暴力はいけません。暴力で何かが解決するわけないじゃないですか。あ、いえ。一応の解決は見るのでしたね。

 暴力がもたらす解決。それは、どちらか一方の存在を失くす事。

 それは解決するはずですよ。反発する相手が居なくなるのですから。それで自分の意思を曲げることなく押し通すことが可能です。シキさんは喧嘩が強いと聞きます。きっとどんな相手でも鎧袖一触なのでしょう。

 シキさんはその力を用いて、解決しようとした。

 でも。

 それじゃ、説明が付かないことがあります。ありますね。

 シキさんは一体何を解決したかったのですか。

 シキさん。

 シキさん、あの時泣いてました。そう。泣いていたと思うのですよ。

『なぜ なきましたか』

「ん? なんだよ。見てたのかよ」

『わたしに りゆうがあるのなら あやまりたいです』

「うははは。別にお前の所為じゃないさ。勝手に気持ちが入っちゃって涙が出ただけだよ。ま、すごく恥ずかしいことなんだけどな」

 泣いた理由。

 シキさん、気持ちが入ったそうです。

『かんじょう いにゅう』

「それだ。お前は外国人なのに日本語詳しいな」

『ハーフです』

「そうだっけ? まぁ、お前が喋れたらそうとう違和感ありそうだよな。その外見で日本語ペラペラ、しかもそんな難しい日本語使うとなると……」

 し、シキさん? 感情移入って言葉は比較的、常用される言葉ではありませんか?

「か、感情移にょ、入……あ、駄目だ。こりゃ舌がまわらねぇ。難しいな」

 そうですか。それなら仕方ありませんね。私も「感情移入」の使用回数を減らすようにしましょう。

 うふふふ。私、気の利く女性です。どうですか。

 さて、それはそうと、です。結局のところ、シキさんはあの時暴力を振るってまで何を為したかったのでしょうか。

「んでな、これはあまり褒められたことじゃないんだが。んむ。まぁ、結局のところあの時の俺は、自分とお前を重ねてしまった。で、お前の婆さんを殴り思い知らせてやりたかったんだ」

 何を、思い知らせたかったのでしょうか。

「あんたが暴力を振るっている相手だって、それは一つの命なんだぞって。命の価値はみんな同じなんだ。一方的に虐げられるなんておかしい」

 その通りですね。命は須らく等価値です。それは確かにその通りなのですよ。しかし、考えてみてください。私が叱られているのは、私に至らない部分がありまして、ですね。きっとシキさんがおっしゃってるものとは多少ならからぬ差異があるのではないでしょうか。

「ハス。例えどんな理由があっても、一方的で行き過ぎたら、それは虐待だぞ」

 いえ、それはそうでしょうけど。それでも、ですね。

「ハス」

 はい。

「お前は婆さんと爺さんを正当化しようとしてるだけだ。お前は暴力を嫌い、他人の痛みを理解出来る。それなのに、どうしてお前自身の痛みには気付かないフリをするんだ?」

 え、えぇと、その、シキさん?

 私は混乱してしまいます。シキさん、どうしてそんなことおっしゃいますか。正当化なんて、どうしてそんな言葉を使いますか。それだとお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが、本当は悪いみたいじゃないですか。シキさん。わ、私ちょっと嫌な気持ちです。嫌な気持ちになってしまいますよ。え、えと、その、ああ! シキさん言葉の正しい意味を知らずに使っていませんか? そうですね。そのようですよ。シキさん。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが正しいんです。そして私が駄目なんです。だから、こうやって叱られるのです。暴力じゃありません。叱られているだけなんです。暴力なんかじゃないです。

 暴力というのは、もっとですね。

 は。

 は。

 は。

 あれ。

 は。

 えと。

 は。

 おかしいです。

 何ですか、これ。

 頭がズキズキします。喉がきゅっとなります。苦しい。苦しいです。喉。喉が渇きます。急速に喉が渇いていきます。どうしましたか。こんなに喉が渇くなんて。

 これは。これは?

 夢を見た時と同じ?

「ハス?」

 は、はい? 私は視線をシキさんへ戻します。

「お前、このままじゃ駄目だよ。お前のためにも、んで婆さんや爺さんのためにもさ。ちょっと状況を動かしてみないか。俺たちだってお前の力になるからよ」

 正直、シキさんがおっしゃっていることの意味が判りません。そんな余裕が無いといいましょうか。上手く考えることが出来ません。とても頭が痛いです。それに、シキさん。私、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんが間違ってるとは思わないです。思わないのですよ。

 悪いのは私なんですから。

「ん? おい、ハス、お前大丈夫か?」

 大丈夫です。私は手を上げそう伝えます。

「いや、あんまし大丈夫には見えないぞ?」

 大丈夫ですよ。シキさん。

「おい、ネコ。なんかハスの様子がおかしい。見てやってくれないか」

 シキさん。大丈夫だって伝えてるじゃないですか。私、大丈夫だって伝えてるじゃないですか。どうして伝わりませんか。

 どうして、伝わりませんか。

 お祖父ちゃんやお祖母ちゃんのことだって、どうして伝わりませんか。私は虐待を受けているわけではありません。ただ、叱られているだけなんです。私が与えられたお仕事をきちんとこなせれば、ちゃんと褒めてもらえるんです。褒めてもらえるはずなんです。

 誰も間違っていません。

 お祖母ちゃんは暴力を振るっているのではありません。ただ、そう、ただ私が至らないのでお叱りを受けているだけなんです。

 暴力というのは。本当の暴力とは、また違う。

 赤。

 あれ?

 赤。赤。

 おかしいです。

 目の前が赤く明滅します。

「ハスちゃん。ハスちゃん」

 は。

 視線を上げると、いつの間にかネコさんが私の前に居ました。

「ちょっと、大丈夫なのー? シキくん、苛めた?」

 ああ、ネコさん。違う。違うのですよ。シキさんは何も悪くありません。ちょっと誤解はあるようですが、それでも伝えれば判るはずです。判るはずなんです。

 ああ。

 でも、ちょっと駄目かもです。ふらふらします。ふらふらしますよ。

「なぁネコ。ハスの頭、裂傷があるだろ。それ関係ないか? ソレの所為でこんなになったりしないか?」

「うーん。何とも言えないけど、今は安静することが一番なのは確かだよー。ほら、ハスちゃん横になって。ね?」

 嫌です。大丈夫。大丈夫ですから。私、大丈夫ですから。

「んー。どうしたのかナ? 気分が楽になるまでで良いから、ちょっとだけ横になってなよー。大丈夫。私達も傍にいるから」

 ネコさん。ありがとうございます。で、でも、私は大丈夫。大丈夫なんです。だからそんなに心配しないでください。

「くそッ! こんなになるまで殴ったのかよ。頭の裂傷だって道具を使ったような傷じゃねぇか! 何でハスがこんな目にあってるんだ」

 シキさんがいいます。気を使ってか、小さな声ではありましたが、それでも私にはしっかりと聞こえました。

 シキさん。

 シキさん。そんなに怒らないでください。悪いのは私なんです。他に誰も悪くないんです。シキさんが怒らなきゃいけないようなことは無いんですよ。

「……大丈夫なのか?」

「クマ。よくわかんねぇけど、安静がいいみたいだ」

「ケッ、あのよ、シキ」

「なんだよキツネ」

「チッ、キツネって言うな。……まぁ、アレだ。さっきはお前に偉そうなこと言ったけどな。ここまで酷いようなら介入するべきじゃないのか。まぁ、ハス自身に解決する意思があればまた違うんだろうけどな。どっちにしろ、既に面倒臭ぇことになってるぞ」

 キツネさん。誤解。誤解なんですよ。介入とか、そんなこと必要ないんです。解決する意思、ちゃんとあります。私が、私がちゃんとお仕事を達成できれば良いんです。それでちゃんと解決するんです。

「私達より、公共の機関を利用するべきじゃないかなー。クマちゃんどう思う?」

「……そう、だな。……それが良いだろう」

「ばか、んなこと言ってる場合か? 直ぐにでも動いた方が良いだろ」

「ハッ馬鹿シキが。お前が行って何が出来るってんだ。状況をかき乱して、面倒臭ぇことになるだけだろうが」

「そうだよー。それに、今一番大事なことは、ハスちゃんの体調なんだからー。ね?」

 ネコさんがいいます。わ、私は全然平気。大丈夫なんです。皆さんが心配してくれるようなことは何もありません。

「……ハス。暫く横になっていろ」

 クマさん。どうしてそういうこといいますか。見てください。私、どこも悪くありませんよ。

「フン、おいハス。お前このまま倒れたらもっと皆に心配かけちまうぞ。面倒なことにならないうちに、ちゃんとこいつらの言う事聞いとけ」

 キツネさん。私、皆さんに心配かけたくないです。これ以上、とかじゃなくて、全くかけたくないんです。だって、私のことです。私の頑張りが足りないせいなんです。私が頑張れば、それだけで済む話なんです。

「とりあえず、現状が悪化する前に、コイツの婆さんと爺さんには釘刺しとこうぜ」

 ちょっと待ってください! シキさん、今何ていいましたか。何ておっしゃいましたか!

「それで、少しでも自分達の行いを反省してくれりゃいいだろ」

 シキさん!

 シキさん、それはおかしい。おかしいです。その理屈でいうなら、私のお祖母ちゃんとお祖父ちゃんは悪い人じゃないですか。お二人が反省すべきことなんて、何もないです。反省は私にこそ必要です。

「ハス、大丈夫だからな。俺たちが何とかしてやるから」

 シキさん。一体何をして戴けるんですか? シキさん、私は今シキさんがおっしゃっているようなこと、望んでない。望んでいないのですよ。よく考えてください。私、ずっとお二人に育てて戴いているんです。お父さんもお母さんも居ません。どこにも居ません。居ないんです。ずっと、ずっと探しました。何年も、何年も探しました。居ないんですよ! そんな私を育ててくださったのはお祖母ちゃんとお祖父ちゃんなんです。

 それに。

 それに、私、こんな、こんな、じゃないですか。

 私、どうやって生きてくればよかったですか。

 私、どうやって生きていけばいいですか。

 シキさん。

 皆さん。

 教えてください。そうやって、力になってくださるというのなら、教えてください。お願いします。私、全然判りません。判らないのですよ。

 私はお祖母ちゃんとお祖父ちゃんに迷惑をかけたくありません。だってそうじゃないですか。私はお二人にどこまで許して貰えますか? 許して貰える、その許容量にゆとりはまだありますか? これから、私はどれだけ許し続けて貰えるんですか?

 そんなこと、判るはずありません。

 だから、私が頑張らなければいけないんです。私がお仕事をちゃんと達成して、そしてお二人に必要だと感じて戴かなければいけないんです。

 シキさん。

 シキさん、どうして伝わりませんか。

 皆さん、どうして伝わりませんか。

 私がお二人と離れてしまえば、いえ、お二人から興味を失われてしまった場合、どうなるか、判りませんか。

 伝わりませんか。シキさん。シキさん。私の気持ち、伝わりませんか。とても文字や文章で表現なんて出来ません。出来ませんよ。考えるだけで胸が張り裂けそうです。不安です。心配です。私、私、私は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんから関心を無くされてしまうのが恐いんです。不安なんです。

 シキさん。

 シキさん。

 私とシキさんの距離は殆どありません。

 伝わりませんか、シキさん。

 これほど隣り合わせじゃないですか。そう、そうですよ、テレパシーじゃなくてもいいんです。私の気持ち、伝わりませんか。

 私、恐いんです。

 先ほどから、ずっと、そう伝えたいのに、どうして伝わりませんか。

「それじゃ、ハスの具合がよくなったらその方向でいいな」

 シキさんがいいます。

「ああ」

「うん」

「……そうだな」

 キツネさん、ネコさん、クマさんが応えました。

 皆さん、納得してます。

 私だけ、納得していません。

 何故ですか。

 何故こうなりますか。

 皆さんは一言二言交わして意思の疎通を行いました。それぞれに意見や思うところがあるのでしょうが、大枠については合意を得たといった感じです。

 どうしてこうなりますか。

 私の気持ちは伝わることなく、しかし皆さんの心は一つに纏まっています。

 何が違いますか。私と皆さんの間には何故このような隔たりがありますか。

 違い。

 私と、皆さんの違い。

 は。

 ははは。

 なんて、そんなこと考えるまでもありません。ありませんよ。私と皆さんとの違いなんて明らかです。一つしかありません。

 私、喋れません。

 それですよ。

 言葉が持つその力は十分承知しています。ほんの些細な言葉であっても、その有無で人の心は大きく変化します。言葉を発し受け取る事で、人は幸せになり、不幸にもなります。明るくなることだって、落ち込む事だってあるのでしょう。

 私は。

 私は受け取ることがあっても、発することがありません。

 私は何も返すことが出来ません。言葉を投げかけられても、何も返すことが出来ないのですよ。

 だから、こうやって皆さんと意思の疎通が出来ないでいるのです。いるのですよ。

 私は、私は皆さんが取り組もうとされていることを望んでいません。望んでいないのです。

「ハスちゃん」

 はい。なんでしょうか、ネコさん。

「もう少しゆっくりしておこうね。体調が良くなったら村へ下りましょう」

 そういってネコさんは私の頭を撫でます。

 止めてください。

 私はネコさんの手から逃げるように頭を振ります。

「ん? あれ? ハスちゃん?」

「どうした、ネコ?」

 キツネさんがネコさんへ質問します。でもネコさんは質問に答えられません。どうしていいのか判らないような表情で私を見てます。

「おい、ハスどうした?」

 シキさんです。どうしたもこうしたもありません。ありませんよ。

 私は立ち上がります。

「ハスちゃん、座ってなきゃ」

 結構です。

 私は御堂を取り囲む縁から降り、その足で幽明堂を後にします。

「あ、おい、ハス!」

 シキさんが慌てた様子で私を追います。私は伸びてくる両腕の間をスルリと抜けます。

 私は歩調を速めます。

「ハス! 何処に行くんだ!」

 何処もなにも、帰るんです。お祖母ちゃんとお祖父ちゃんが居る家に帰るんです。

 私の居場所です。

 私の居場所に帰るんです。

 私にはそこしかありません。何があっても、どうあっても、私にはそこしか居場所が無いんです。必死にすがりつくようなカタチでも良いんです。どんなに笑われても良いんです。私には、私にはそこしか無いんです。

「おい、ハス!」

 シキさん、走って追いかけて来ます。でも追いつかれることはありません。幽明堂から村へ下る道は、大変な悪路です。さらに、星明りがあるとはいえ今は深夜です。道に不慣れなシキさんが如何に走ったとしても、私程の速度で坂を下ることは出来ないでしょう。

 後ろから私を呼ぶ声がします。皆さんが私の名前を呼んでいます。それでも私は振り返りません。一つ、また一つ声が遠退きます。私はどんどん道を進んでいきます。私を呼ぶ声はあと一つ。何度も、何度も私を呼びます。それでも私は振り返りません。

 だって。

 だって、今更振り返ってどうなるんですか。

 私は歩調を弱めることなく進みます。途中、道の脇から伸びる小枝が私の身体を打ちつけます。これは罰ですか。罰なんでしょうね。私、きっと叱られているのでしょう。

 いいです。私、それでも良いです。

 居場所を失くしてしまうより、罰を受け続ける方が良いです。

 私はそう思い、唇を噛みます。口内には錆臭い味が広がりました。ああ、私そんな力いっぱい噛みましたかね。唇が切れて血が出ているようです。

 そうですか。

 そうなんですね。

 私、そんな風に思ってましたか。

 そう。

 私、きっとすごく悔しいんです。

 悔しいんですね。

 こんな気持ち、持ってしまうのはいけないことなんです。いけないことなんですけど。

 ああ。

 でも、気付いてしまったら、駄目みたいです。

 私の心の中に、重く、暗いものが広がっていきます。何といいますか、真夏の夕立雲のような、そんな感じです。

 真っ暗です。

 私は喉の渇きに気付き、喘ぐように上空を見上げます。視界いっぱいに広がる星屑のカーテン。眩さのあまり目を細めてしまいそうです。先ほどまで皆さんと一緒に見上げていた星空。とても楽しかったです。星空の中に私の居場所はありませんでしたが、皆さんと並んで空を見上げたとき、私は独りぼっちじゃなかったです。

 それ、私が一番欲しかったものです。

 シキさんが隣りに座ったとき、強く感じました。私、とても安心したのです。その気持ちが、私の一番欲しいものだったはずです。

 私、何をしているんでしょうね。

 私、今、何をしていますか。

 私が一番欲しかったものに背を向けて、自分から遠ざかって、私何をしていますか。

 私は急に恐くなって立ち止まります。そして振り返ってみました。

 黒。

 黒。

 黒。

 真っ黒です。

 幽明堂までの道に外灯はありません。ですから、振り返った先は全てを拒否するかのような、とても重い暗闇です。そこからは私を呼ぶ声も聞こえません。いつから聞こえなくなったのでしょう。きっと、最後まで私を呼んでいたのはシキさんです。

 シキさん。

 やっぱり私は駄目な子のようです。

 ごめんなさい。

 シキさん。

 暗闇の中、私は坂道を這う木の根に足をかけてしまいました。私はそのまま転びます。全身を強く打ちましたが、どこがどう痛いかなんて判りませんでした。口の中に沢山の土が入ってきました。

 にがいです。

 ああ、そういえば。私、お腹空いてます。

 でも、どうでも良いですね。

 もう、どうでも良いです。

 私。

 私。

 私。

 私……。

 駄目みたいです。



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