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Ⅳ
悲憤慷慨。
自分の不遇な運命や社会に対して憤り、嘆き悲しむことでしたか。
そんなこと、今更考えたといって何がどう変わるということではないです。
ないのですが。
しかし、いわゆる「たら」「れば」は私の頭の中に溢れ、今にでもこぼれ落ちそうです。
はぁ。
私は今、バスの停留所にある椅子に座り、帽子のツバに切り取られた茜色の空を見上げています。中途半端に開いた口からは、もう何度目になるか判らない溜息が出ました。
今は夕方、本来なら夕食の準備を手伝わないといけない時間です。
「今日は一日ゆっくりと休んでいてください」
神取さんの言葉でした。私はその言葉に従い、今日はゆっくりとお休みさせてもらっています。神取さんの言葉には、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも異論を挟みません。いえ、今では村の全員が神取さんの言葉に頷くことでしょう。神取さんは、それほどまでにも早瀬村で信頼され、尊敬されているのです。
神取さんは今年の春、まだちょっとだけ朝夕が寒い日に早瀬村に来ました。
私は今でもその日のことをよく憶えています。
神取さん達は全員が大柄で、初めて拝見したときは、ちょっと恐かったです。いえ、想像してください。私、身長が百四十ちょっとしかありません。神取さん達は軒並み百八十センチを超えてらっしゃいます。そんな方々が村を闊歩する姿は、私からすれば恐怖を覚えてもやむなしといったところではありませんか。因みに神取さん達の身長を二メートル弱、と表現すればその恐怖感が誇張されますね。
さて、その日、神取さん達が早瀬村を訪れた日、神取さんは何とおっしゃっていましたっけ。うろ覚えではありますが、そう、たしか世界遺産の話も出てましたね。今日、幽明堂でネコさんと話したときはすっかり忘れていましたが、逆にネコさんとの会話が切っ掛けで思い出すことが出来ました。実際、神取さんがお祖父ちゃんとお話されているときに、ちらっと聞いたくらいですから私の記憶から消えてしまったとしても仕方ないです。仕方ないのですよ?
早瀬村には今後多くの投資がなされます。神取さんは、そうおっしゃったと記憶しています。村のライステラスが世界遺産登録されれば、その維持の為にいくらかの資金援助があるとかどうとか。その資金を元手に、少しでも農業を楽にしましょう。そんなお話ではなかったでしょうか。
神取さん達は、早瀬村の実態調査といいますか、何かのデータをとるために早瀬村に滞在しているとのことでした。
そういったことで、早瀬村全体の期待感といいますか、浮き足立った感じの中、神取さん達との共同生活が始まったのでしたね。
共同生活はとてもスムーズに行われました。なにより、神取さん達の働きぶりは素晴らしいものでした。農業に関していえば、村の方全員が楽になったと感じるほどだったといいます。また、神取さんがとても人当たりの良い性格だったことも、大きなプラスになったのだと思います。
問題は、何も無かったはずです。
少なくとも、今日までは。
◇◇◇
バスは定刻を少し遅れて到着しました。停留所で降りたのは一人だけでした。そして私は今しがたバスを降りた方、今万像シキさんに会いに来たのです。
「よぉ。相変わらず美しいなハス。ただ、斜陽のハイライトの所為で俺のが若干際立っているようだがな」
去っていくバスが巻き上げる風で、その長い髪をたなびかせながらシキさんがいいました。
ありがとうございます。私は頷きを返しました。
「ふ。判ってるじゃないか。お前のそういう謙虚なところ、美しいぜ」
勿体無いお言葉です。私なんてシキさんの足元にも及びませんよ。
「で、どうした? 今のバスに乗らなかったってことは、街へ用事があるわけじゃないんだろ? もしかして、俺を迎えにきたのか?」
どうして判ったのでしょうか。ひょっとして私の心はダダ漏れですか? それとも、ついに目覚めましたか? ふふふ。私のテレパシー、届いているのですね?
「ハス、何かを考えてるってのは判るが、結局どうなんだ?」
おおっと。まだまだ私のテレパシーも完璧じゃないようですね。私は頷きを返します。そう、私はシキさんを迎えに来たのですよ。
「ふーん。そっか。まぁ、うん。……悪い気はしないな」
そうですか。よかったです。
「なら、ちょうどよかった。ほら、コレ。コレやるよ」
シキさんは何故かそっぽを向きながら、私に紙袋を手渡しました。具体的には、横四十センチ、縦八十センチくらいの紙袋です。大きさの割りには軽いです。
はて?
これは、何でしょうか。
「開けてみてくれ」
はぁ。ええ、これを開けるんですね?
私はいわれた通り、紙袋を開きます。ちょうど取っ手の部分をテープ留めしてありますので、そこをビリビリと破ります。
「豪快だな」
ありがとうございます。
「で、どうだ?」
中から出てきたのは…………うーん。これは、たしかホワイトボード、でしたっけ? あれですよ、学校で使う黒板はチョークで文字を書くじゃないですか。それに対して、このホワイトボードにはマーカーを使うんですよね。紙袋の底を見ると、何本かマーカーが入ってます。そうそう、こんなヤツですよ。で、専用のスポンジっぽいので書いた文字を消します。因みに、それも紙袋の中に入っていました。
「いけそうか?」
シキさんは私を覗き込むようにしていいました。
ええと、私、何がなにやらよく判りません。いけそうか、と問われましてもどちらまで行けばよろしいのでしょうか。私は素直に首を傾げました。
「う! ま、マジかよ? ……結構、いや随分考えたんだがな。お前、これ使えねぇか? 役に立たないか?」
役に立つ? 私がこれを使う?
はぁ。
ええ?
はぁ。
うーん、さっぱり意味が判りません。
「ま、マジみたいだな。そうか、そうなのか。く、くそ、美しくないな、俺」
いえ、シキさんは十分美しいと思いますよ。
「いや、アレだよ。昨日さ、俺お前に言っちゃいけないこと言っただろ?」
うーん、ああ、うん。私が逃げてしまったときのことですか。詳しく憶えてませんが、喋れないことに関して何かいわれた気がします。
「まー、あれだ。うん、その、本当に悪かった。口が滑った、なんて言い訳して済むようなことじゃないって判ってる」
あ、いえいえ。アレは逃げ出してしまった私が悪いんです。さらにいうなら、いえ、伝えるなら、私は帽子を取って貰ったのにお礼すら伝えてませんもの。
「俺、あのあと凄く後悔したんだ。でな、まぁ、何かしらお前の役に立てればと思って俺なりに考えてみたんだがな」
それで、このホワイトボード、ということですか。……残念ですが、さっぱり話が見えてきませんね。
「悪かった、本当に。喋れないこと、罵るつもりは全く無かった。でな、俺は生憎手話関係はさっぱりだからよ、それ、ホワイトボードに文字を書いてくれればお前が思ったこと、もっと伝わるかなって思ったんだ。まぁ、計画は美しいんだがな。それでもお前がそれを使えないとなると話は別だ。美しい計画も水泡に帰すといったところか。ま、その水泡に帰す様すらもある意味美しいのかもしれん」
シキさんはちょっと寂しそうに笑いました。
ホワイトボード。
使い方は、ちゃんと判ります。判りますよ。
えぇと。
わ、私はコレを使って、使って? えー……と。
「そうだよなぁ。お前、見た目まんま外国人だからなぁ。日本語、駄目なんだだろ? やっぱり理解出来るからって書けるとは限らないよな。あー、でもさ、俺もちょっとくらないなら英語大丈夫だぞ? そんなに気を使って貰わなくたって、案外いけるかもしれんぞ?」
あ、あぁ、いえ、そうではなくて、ですね。
「よし、ほら、これ持って。な、これで、ほら」
シキさんは私にホワイトボードを持たせ、紙袋の中からマーカーを取り出し私にあてがいます。
「ほら、とりあえず書いてみろ。大丈夫、コレでも大学生だ。中学生程度の英語ならばっちりだぜ」
え、ええ? えーっと、えーっと。な、何故でしょうか。私、震えてます。私の手、震えてます。マーカーとホワイトボードを持つ手が、まるで自分のものではないように思えます。
「ほら、どうだ。英語だ。英語でいいんだぞ?」
ちょ、ちょっと、待ってください。と、とりあえず書かなきゃいけませんか。なななななな何て書きますか。
えーと。
えーと。
えーと。
えーと。
て、手が震えます。震えてうまく字が書けません。
「おお! よし、そうだ、書いてみてくれ! よし、書いたら見せてくれ! 英語だぞ! 英語でいいからな!」
手が、手がぶるぶる震えます。えーっと、えーっと。
は、はい、出来ました!
私はホワイトボードをシキさんに見せます。因みに書いた言葉はこんな感じです。
『えいごはかんべん』
です。はい。
「………………」
シキさん、何もいいません。
えーっと。
「…………………………」
シキさん、腕組みしたまま動きません。
うーん?
私、字を間違ってますか?
私はホワイトボードをひっくり返し、読んでみます。
『えいごはかんべん』
うん。ちゃんと書けてます。手は震えていましたが、なかなかどうして。意外と綺麗に書けてます。
私はもう一度シキさんにホワイトボードを向け直します。
「…………じ」
おお? 反応ありですよ。「じ」なんですか? 「じ」なんなんでしょうか?
「…………字が汚い」
はい?
「あ、ああ、いや。うん。ああ、うん。まぁ、外国人だしな仕方ないか」
『はーふです』
「うお! は、はえぇ。いま、消したか? いや、消したから書いたんだろうけど。つか、書いたか? あ、ああ、うん。オーケー。ちょっと待て。うん。……よし。うん、あんまし考えないようにしよう」
『だいじょうぶですか?』
「うお! マジかよ。……ああ、うん。まぁ慣れれば大丈夫だ、と思う。いや、しかし恐ろしいくらいにハマッた感じだな」
『と いいますと?』
「お、おお。いや、そのボードのことだよ」
『はぁ』
「うお! 相槌も打てるのかよ? あ、ああ。うん。いや、我ながら完璧すぎるプレゼントになったな、と」
『ぷれぜんと?』
「ん? あ、ああ。それ、お前にプレゼント。さっきも言ったろ?」
『ぷれぜんと おくりもの』
「ああ。しかし、本当に器用だな。字はアレだけど。いや、それを選んで本当に良かったよ。是非活用してくれ」
『わたし もらっていいんですか?』
「あん? ああ、遠慮なくそうしてくれ」
はぁ。
え、と。
うん。
あはははは。
ちょっと、待ってください。
ちょっとでいいですから。
私はシキさんに背中を向けます。
どうしましょう。
どうしたらいいですか。
私、プレゼント、貰っちゃいました。
私、シキさんにプレゼント貰っちゃいました。
私、どうしたらいいですか。私、こんなの初めてです。私、私なんかが、貰っちゃっていいんですか。
「おい、どうした、ハス」
あう。
シキさん呼んでます。
でも、でも、でも、ですね。
ああ。
どうしましょう。
だって。
私、涙が出てきてとまりません。
私の意思ではどうしようも出来ないです。涙はポロポロと頬を伝い落ちます。言の葉を紡がない喉からは、息苦しい呼吸音が出ます。
「あ、お、おいおい! ちょ、ちょっと待てよ」
シキさんは私の両肩に手を置いて「おちつけーおちつけー」と繰り返します。
ふうううう。涙が止まりません。
次から次へ、涙が涙を呼びます。手先から伝わる震えはやがて全身へ。私は心も身体も震えています。
涙はとまりません。
涙がとまりません。
でも、嫌な涙じゃありません。
嫌な涙じゃないんです。
殴られて、痛くて出てくる涙じゃありません。
ご飯が食べられなくて、辛くて出てくる涙じゃありません。
居場所が無くて、寂しくて出てくる涙じゃありません。
私、私、私…………うれしい。うれしいです。
うれしくて出てくる涙です。涙なのですよ。
「ハス、ちょ、ちょっと座ろう! な! よし、ほら、落ち着け」
私はシキさんに促されるまま、バスの停留所にある椅子に腰掛けました。でも、涙はまだまだ溢れます。
「ハス、あ、あのな、涙に濡れるお前も美しいと思う。うん。だがな、出来れば笑ってくれている方が俺は嬉しい。というか、どう対処していいのかまったくわからん!」
シキさんはちょっと動転気味です。
『もうすこし まってください』
「あ、ああ。うん、判った」
私はバス停の椅子、シキさんの隣りに座ってしばらくの間泣いていました。
泣きながら考えたことですが、私、ちょっと変です。いえ、普段から変なのではないですよ。今、といいますか、シキさんと一緒にいると変なんです。私、とても奥ゆかしく賢い子です。ですから、普段の私なら人様からモノを戴いたりしません。ちゃんと丁重にお断りをします。そうするようにお祖母ちゃんからいわれています。厳しくいわれています。でも、でもです。私、シキさんがくれたホワイトボード、とてもお断りなんて出来ませんでした。いえ、私、それがとても嬉しく感じました。受け取りたいと、心から思いました。私、どうしましたか。一言で表すなら情緒纏綿。まさにその一言です。
シキさん。
見ず知らずだった私の帽子を取ってくれました。それは危険な可能性を孕む行為であったにも関わらずです。
シキさん。
私に放った言葉を気にしていてくれました。私が喋れないのは当たり前のことです。生まれたときからそうでした。だから、そのことについて誰が何といっても良いんです。だってそれは全て事実なんですから。
シキさん。
情緒纏綿ですよ。様々な情が絡みついて、私の心を縛ります。
だとすると、私は。
「ハス」
私は隣に座るシキさんに呼ばれ、顔を上げました。
「大丈夫か?」
『はい』
「そうか。なら良かった。何つーか、お前見てると鳴かぬ蛍が身を焦がすって言葉を思い出したよ。知ってるか?」
『くちにだして いわないひとのほうが ふかく かんがえていること』
「……へぇ。よく知ってるな」
『にほんご たくさん べんきょうした』
「だろうな」
『にほんご わからないと おばあちゃんに たたかれるから』
「……そうだったな」
シキさんはそういって、私の頭をポンポンと叩きました。
「沢山詰まってそうだ」
『のうみそ?』
「違う。思い、つーか、想い」
『のうみそは?』
「それも重そうだ」
聞きましたか。私、脳みそ詰まってます。脳みそ詰まってる女、ハスです。
「ちっと、吐き出そうか」
『はきだす?』
まさか……脳みそを? と、思いましたが、どうやら違うようです。
「お前、俺に文句の一つだって言いたいだろ。あんな酷いこと言ったからな。重ね重ねになるけど、本当にすまなかったと思ってる。だから、こうやって意思の疎通っつーかそんな感じで出来ればな、と思ってそのボードを用意したんだ。それがあれば俺に文句を伝えることが出来るだろ?」
『もんく?』
「ああ。喋れないんじゃ、思ったことも十分伝えらんねーしな。あの時、ハスが思ったままに罵って欲しい。気が済むまで伝えてくれ。俺はそれだけのことを言ってしまったと思う」
そういうと、シキさんは深く頭を下げました。
こんな、私の為に。
シキさん。
私は、どう気持ちを伝えればいいですか。
私のなかに、シキさんを罵りたいという気持ちなんて、これっぽっちもありません。むしろ、私はシキさんにごめんなさいとありがとうを伝えなければいけないのですよ。そう、そうなのです。
つまり。
『ごとうシキさん』
私は頭を下げ続けるシキさんに、会心の一言を示しました。
「……いや、俺は今万像シキだけど?」
いえ、そうじゃありません。私、略語を使ってます。おや? しかしそういいますと、私ってばかなり高度なコミュニケーションツールを使用していますよね。いえ、略語のことですよ? これはこれは。ひょっとしてシキさんは略語が解りませんか? これは困りました。略語について私なりの知識を披露するのはやぶさかではありませんが、ちょっと長くなってしまいますね。それにボードには出来るだけ綺麗な字を書いていますので、長文ですとかなりの労力と時間を有してしまいます。
「おい、ハス。ちょっとボード貸してみ」
ええ? 嫌です。私、肌身離さず持っていたいです。
「ん? ほら、早く貸してくれ」
シキさんは、半ば強引に私の手からボードを取り上げました。指先から硬い感触が離れるとき、とても寂しい気持ちになりました。
「あ、おい、そんな顔するなよ。ちょっと借りるだけだからさ」
そういって、シキさんはボードの上でマーカーを滑らせます。
「ほら、これ。俺の名前な」
シキさんの手の中のボードには『今万像 志貴』とありました。ああ、なるほど。漢字ですね。シキさんのお名前です。漢字で書くとそうなんですね。
「よし、次はお前な」
シキさんはそういって私にボードをくれました。
「ハス、お前の名前を教えてくれ」
えぇと。つまり、漢字で書けばいいんですよね?
私はまだ少しだけ震える指先を使い、ボードの上でマーカーを躍らせます。
『母祢 蓮』
「もや、はす?」
『おもね はす』
「はやいっ! 今消したか? いや、書いたか? あ、いや、そうしたから新しい字が書けたんだろうけど……。ああ、もういいや。うん、よし。母祢蓮だな。じゃ、改めてよろしくな」
シキさんはそういって、私の両手を包むように持ちましたたたたったった、はわわわわわわわ! はははは恥ずかしい! なんか恥ずかしいです! ど、どうしましたか! どうしましたか私!
「よし、そういったワケで、とことん俺を罵れ! 気が済むまで罵ってくれ!」
シキさんは自信に溢れた表情でいいます。さ、さっぱり判りません。シキさん、私意味が判らないです。どういう経緯でそういったワケなんでしょうか。
『わたし ののしりません』
「ぐ! い、痛ぇ。心が痛ぇ。なんだよ、え、遠慮なんかすんなよ。ほら、思いっきりやってくれ」
『わたし ののしりません』
「ぐ! 何故一度消してまた書いた!」
『だって おっしゃってるいみが わかりません』
「えー。馬鹿なのか、お前?」
『ばか ちがいます むしろ かしこいです』
「あ、ああ。うん。そのようだな。いや、すまなかった。美しい俺とした事がってやつだな」
『うつくしいですよね』
「ああ、まぁな。でもお前も美しいぜ?」
『うつくしい=シキさん』
「お! おお! も、もっと! もっとだ! もっと言ってくれ!」
『シキさん>すべて』
「おお! お、おお? ちょ、ちょっとまて、そりゃいくらなんでも」
『シキさん∞』
「……いや、もうワケわかんねーし」
シキさんは「ははは」と渇いた声で笑いながら、椅子の背もたれに身体を預けます。そして片方の手で目頭を覆い、それから空いた方の手で私の肩を抱き寄せました。
えーっと。
これは。
おやおや。
必然的に、私はシキさんにぴったり寄り添ってます。
あはははは。
え、えーっと。
わ、わわわわ。
わ、わわわわわわた、私、私。
「ハス」
沸騰しそうな頭が一瞬で冷えてしまう。それくらい真剣味を帯びた声で名前を呼ばれました。間近にあるシキさんのお顔。でも、手で覆ってあるので表情は読み取れません。
「……本当に、ごめんな」
シキさんは、溜息を吐くようにいいました。吐き出された息には自らを責める言葉が混じっているように感じられました。
私は軽く頭を振ります。ボードを使っても良かったのですが、今は身体が密着していますから、その仕草だけで全て伝わるような気がしたからです。
私、シキさんを罵りたいなんて思っていません。やはり、あの時あの場所から逃げ出してしまったことがいけませんでしたね。結果として、私はシキさんを責めるようなことになってしまったようです。
私、うれしかったです。こんなに素敵なプレゼント、本当にうれしかったです。本来なら私はこうやってモノをいただく訳にはいかないのです。それでも、うれしかったんです。私、きっとお祖母ちゃんから怒られます。きっと叩かれるでしょう。それでも私、とってもうれしかったんです。今更、私はこのボードを手放すことなんて出来ません。ボードの利便性だけをいっているのではありませんよ。
シキさんが、くれたものだから、手放せないんです。
私、どうしましたか。どうしてしまいましたか。
不思議です。
不思議な気持ちです。
とても恥ずかしいのに、とってもあったかいです。
とてもくすぐったいのに、とってもうれしいです。
私はシキさんに身体を預けるように寄りかかりました。帽子のツバがちょっと曲がってしまいますけど、気にしません。
「…………」
シキさんは何もいいませんが、ほんの少しだけ口元が綻んだように見えました。
シキさん。私の気持ちは伝わりますか。私、何かを伝えることがとても苦手です。それこそ、お腹が空いても、傷が痛くてもそのことを伝える術がありません。それでも、それでも私は今、この気持ちを伝えたいです。
シキさん。私はあなたを罵りたいとか文句をいいたいなんてまったく思っていないのです。いないのですよ。私があなたに本当に伝えたいのは、心からのごめんなさいと、精一杯のありがとうなんです。
だから。
だから、シキさん。
『泣かないで』
私はシキさんの腕へ手を添え、ボードを渡しました。
「……なんだ。漢字も書けるじゃないか」
シキさんは、ちょっと震える声でいいました。
「悪ぃ。何でかな。普段はこういう事は無いんだけど。……ああ。……きっと、鏡みたいなモンなのかもな」
鏡、ですか。私はシキさんを見上げます。
「うん。それだ。鏡なんだよ。俺はきっと、自分で自分を責めてるんだろう。喋らない、つーか、喋れないお前と対面してるとだな、何つーか、自分の罪を責められてるような気がするんだよ。あ、もちろんお前がそんなこと思ってないのも判るんだぞ。だからな、鏡なんだ。結局、自分自身で見ないようにしている部分っていうのかな、そんな心の声ってのか? それで自分自身を責めてる。そんな感じだ」
はあ。うーん、ちょっと、よく判りませんね。
「まぁ、うまく伝わらないだろうけどな。言ってる俺もよくわからん」
なるほどです。喋ることができるシキさんでさえ、うまく伝えることが出来ませんか。それなら私ではなお難しいことですね。
「とにかく、悪かった。お詫びと仲直り? の印であるそのボード。活用してくれたら嬉しいよ」
『シキさんは そのためにまちへ?』
「そうだよ。アレだよな。バスって片道一本ずつしかないんだよな」
『はい まちでは じかんがあまりませんでしたか?』
なんといっても、早朝一本、夕方一本ですからね。買い物が用件だった場合は大変です。まず、街に着いても店が開くまで時間を潰さなければいけません。それに、買い物が終わってしまうとまた帰りのバスまで時間を潰さなきゃいけないんです。
シキさんは何度か咳をして、うん、うん、と唸ってみせます。声はもう震えていません。そしてにっこり笑っていいました。
「あー、割かし平気だったな。アレだ、ずっとな、こう、鏡を見てるんだ。いや、鏡に限らずショーウィンドに映る自分でもいいんだ。すると不思議なことに、一時間や二時間なんてあっと言う間に過ぎ去るもんさ。今度お前もやってみるといい。良い時間潰しになるぜ」
はぁ、そうなんですね。それは初めて知りました。今度、街で時間が余ってしまった時に試してみましょうか。
「それはそうとだな、お前は何故俺を迎えに来たんだ? ネコ達から言われたのか?」
違います。そういうわけではありません。私は首を振り伝えます。
「んー、やっぱり俺に用があったんだよな?」
はい。その通りです。私は頷きます。
「それで、文句を言いたい訳じゃない、と」
はい。
『まず シキさん ごめんなさい』
「いきなりどうした」
『あのとき にげて ごめんなさい』
「いや、そりゃお前、俺が悪いよ」
私は何度も首を振りました。
「えー。そりゃないぜ。お前バカだろ?」
『ばか ちがいます むしろ シキさんがばかです』
「あ? いや、どうしてそうなった?」
『ぼうし とるの キケンでした』
「あー、あー、いや、良いよ。好きでやったし。それに飛んでる俺、カッコいいし」
『うま・しか・ぞう!』
「おう、二十点な」
シキさんは「ふっ」と笑って髪をかき上げました。
『でも キケンでした』
「あー、うん。まぁ、一人なら出来なかったよ。俺、泳げないし。あいつらが居たから何とかなるって思ったんだ。それにな、アレやコレやと悩む前に行動したかったんだよ。あのままなら状況が悪くなることはあっても、劇的な改善が望めたわけじゃないだろ?」
それは、そうですが。
『いのちとぼうし つりあいません』
「そりゃそうだ。でもお前にとっちゃ吊り合うよな。目の前のヤツがそうなら、俺にだってそうさ。それに手を出すなら中途半端じゃ駄目だ。本気にならなきゃな。だったらあの行動だって自然さ。んでもよ、最初に言ったように、あいつ等が居なきゃ俺は飛ぶことも出来なかったよ」
シキさんは溺れるような素振りをしてして見せました。私は困ったような、可笑しいような、そんな脱力感めいたものを感じ、つい噴出してしまいました。
「おー、笑った。いいぞ、ハス。やっぱり笑ってるお前は美しい。それに、その帽子だって凄く似合ってる。やっぱりあの時ちゃんととってやることが出来て良かったよ」
シキさんは私の帽子を撫でながら、そういいました。
『シキさん ありがとうございます』
「あ? ああ、うん」
『ぼうし ありがとうございます』
「ああ」
『それと コレ ありがとうございます』
私はボードを指差し、そう伝えました。
「ああ、どういたしまして」
私とシキさん。お互い顔を見合わせたまま笑いました。
やりました! やりましたよ! 私、ちゃんと伝えることが出来ました。ごめんなさいと、ありがとう。私、ふたつも大事なことを伝えることが出来ました。ただ言葉を伝えるだけじゃありません。そこへ至る経緯や今の心境もちゃんと織り込んで伝えることが出来たと思います。もちろん、シキさんから戴いたボードがあってこそではありますが。それでも、私の目標は満足以上の結果で達せられたのです。
私の心は大きな達成感で満たされました。
でも。
でも、ここで満足して終わってしまってはいけません。
私には次の目標があります。あるのですよ。
実のところ、これはどのように伝えるべきか大いに悩んだところでもあります。シキさんにお会いして、それからどうするかなんて、全く考えていませんでした。ですから、何かしらその場にある手段で粘り強く伝えようと考えていた次第です。つまり、出たとこ勝負です。
しかし、今はその時と状況が変化しました。そうです。私には今、とても強い味方があります。私は視線を手元に落とします。私の指先が触れている、白い板。私にとって、このボードは世界観を大きく変化させるものでした。劇的、といってもいいでしょう。
だからこそ、やれると思うのです。
いえ。
やらなきゃいけません。
私がやらなきゃいけないんです。
目を閉じるとはっきりと思い浮かびます。
ネコさんと、キツネさんと、クマさんの辛い表情。
私は、そのことをシキさんに伝えなければいけません。
そして、神取さん達のことも。
うん。
頑張りましょう。
私は一度大きく深呼吸をして、マーカーを動かしました。
『シキさん おはなしがあります』
私は隣に座るシキさんへボードを見せます。
シキさんは「どうした?」と優しい笑顔を浮かべながらいいました。
私は純白のボード黒い線を引きます。私の考え、思いを込めて。
過ぎてしまった時間の糸を手繰り寄せ、今日の昼に起こったことを伝えます。私が見たこと、感じたことを精一杯の文字で伝えます。順を追い、何度も文字を書き、消して、そしてまた書いて。
私の説明が進むにつれ、シキさんのお顔から表情が消えていきます。先ほどまでの柔らかくて暖かい微笑みはありません。シキさんの言葉と同じではありますが、私もシキさんには笑っていて欲しいです。まるで女性のように美しいお顔ですもの。強張った表情や、気持ちを押し殺したような表情より、柔らかい笑顔の方がシキさんに合っていると思います。
それでも。
それでも、私は伝えなければいけません。
説明ならネコさんにお願いした方が断然判りやすいと思います。喋ることが出来る時点で私とは比べ物になりません。でも、私からネコさんにお願いするわけにはいかないのです。
ネコさん、とても悩んでいました。
ネコさんは、私のことを一生懸命考えてくれていました。だから、神取さんのことを悪いようにはいいませんでした。気を使ってくれたのでしょう。でも、きっとネコさんはキツネさん達を庇いたかったハズです。やりきれない気持ちが沢山あったと思います。それでもネコさんは私を目の前に、公平であろうとしてくれました。
公平。
公平ですか。
これはどのように考えればいいのでしょうか。
公平とは、今回の件のように、お互いが手を出せばそれはイーブンといいますか、ノーサイド的なものと処理されることをいいますか。私は喧嘩をやったことがないので判りません。喧嘩といえば両成敗といいますね。確かにそのような場合もあるのでしょう。しかし、私には今回の件が、両成敗の一言で終わらせるべきではないと思うのです。
争いが起こるとき、双方に大義があり名分があります。それらは往々にして、どちらか一方が完全に正しいといいきる事が出来ないです。
では、どちらも何も主張しなければ良いのでしょうか。いいたい事は胸の中に仕舞い込み、状況に合わせて黙々と生きていくことが正しいのでしょうか。
いいえ、違います。違いますよね。
人には自らの考えを伝える技術があります。人には自らの心を伝える手段があります。それらの術を持ち得るからこそ人が人たる所以だと思います。思うのですよ。
人は自らの心内を、表現して良いんです。
あ、私のコトはそこから差し引いて、と注釈が必要ですね。そう、私はちょっとアレですからあまり自由奔放に物事を表現することを許されませんが、他の方々はちゃんと自らを語る権利があります。ありますね。
では、何が問題なのでしょうか。
人が意見や意思を主張するとき、そこに摩擦が生じるときがありますね。主張の内容が氷炭相容れずといった風に。
では、その時はどうしましょう。
ここです。まさにここなんです。
私は思うのです。この摩擦への対応にこそ問題があるのではないでしょうか。
つまり、暴力での対応。
悲しいことですが、世の中には最終手段として暴力に訴えてしまう人がいます。それまでの行いが聖人のようであっても、です。
人は人を殺します。大きな力、強い暴力で人の命を奪います。
うん?
ええ。確かにそうではありますが。
はあ。
どうして私そんなこと知ってますか。
おかしいですね。
うーん。
はぁ。
すごく喉が渇きます。
まあ良いです。とにかくですね、暴力はいけません。暴力は嫌いです。ネコさんだってそういってましたよ。
だから、だからですね、シキさん。
「ん、判った。もういいぞ、ハス」
は、はい。
「ほら、マーカー動かすのやめて」
え、ええ。
「……ハス。もういいから」
あ、あははは。ど、どうしましたかね。
「ハス」
シキさんの大きな手が私の手を包み込みます。私の意思とは関係のないところで動き続けていた手が止まります。指先が食い込むように握られたマーカーはホワイトボードの殆どを真っ黒に変えていました。
これは。
私、何を書いていましたか。
私、途中から何を書いていましたか。ぜんぜん判らないです。
「ハス、これじゃちょっとなんだから、一度綺麗に消してしまおう」
シキさんは静かにいって、黒く塗りつぶしたボードを少しずつ白に変えていきました。
その途中、シキさんがポツリと呟きます。
「……ハスは、争いが嫌いなんだな」
はい。私は争いが大嫌いです。ほら、こんなにも喉が渇いてしまうのですよ。私はシキさんに頷きを返しました。
「俺も得意じゃないんだよな」
そうですか。あ、でも喧嘩が強いって聞きましたよ。
「ん? その顔は知ってるな?」
はい。存じ上げてます。私は首肯します。
「ネコあたりが喋ってそうだもんな。あー。まぁ、そういった練習っつーか、訓練をしてた時期があったからな。身体は動くけど、好きでやってるって訳でもないさ」
はあ。
そういうものなのでしょうか。
「あのな、喧嘩やって人を殴るとするよな? それが嬉しいってヤツもいるんだろうけど、俺は逆だ。後悔ばっかりする。殴った手も、心だって無事じゃいられない。だから争いは得意じゃないんだよ。ハスは人殴って平気か?」
そんなことありません。想像するだけで辛いです。私は首を何度も横に振りました。
「だろ? 強いとか、身体が動くとか関係ないんだよ。俺は喧嘩は好きじゃない」
なるほどです。私もシキさんも同じです。同じですね。
では。
それではどうしましょうか。あ、いえ。その前にちゃんと伝わってましたか? 私は元通り白くなったホワイトボードへ視線を落とします。先ほどは真っ黒になってました。私、ちゃんと字を書けていたのでしょうか。
「うん? あ、ちゃんと伝わってるからな。キツネ達のことだろ? 大丈夫。とりあえずアイツ等の話も聞いてみるよ。その、神取って人も悪人って訳じゃないんだろ? ま、どこかしら掛け違った結果が暴力沙汰になったと思うしな。キツネにもクマにも悪い部分はあっただろうし」
シキさんは笑いながら、私の頭を帽子越しにポンポンと撫でました。
シキさん。
シキさん。それはそうなのですけど。
喧嘩両成敗。
それはそうなのですけど。
『けんかりょうせいばい』
「そうそう。それな」
『ちがうとおもいます』
「ん? ……んー。んんん」
シキさんは腕を組み、うなり声を上げます。
「んー。そうだなー。うん。ま、お前も当事者の一人みたいだしな。当たり障りの無い言葉じゃ納得は出来ないかな」
納得とか、そういうのじゃないんです。何といいますか、こう、不安が心の奥からもうもうと湧き上がってくるといいますか。今回の件は、たまたまこのようなカタチで落ち着いた、とか。そう、場合によってはもっと状況が悪くなる可能性があったのではないのでしょうか。
「あー、んじゃアレだ。俺に任せとけ。俺が何とかする。それでいいか?」
シキさんは髪をかき上げ、ニッと笑って見せます。
不敵です。
それでもそのシキさんの表情は私を安心させるのに十分でした。先ほどまで心の中に蔓延していた黒い煙のような不安は、まるで嘘だったかのようにすっと抜けてしまいました。
どうしましたか。こんなに簡単に消えるような、単純な不安じゃなかったはずです。掛け違った、とは先ほどのシキさんの言葉ではありますが、そもそも掛け違うのではなく、最初からそういうモノなのではないでしょうか。その根本的なズレが、とてつもなく大きな危険を孕んでいるのではないでしょうか。
そう、思ったはずなのに。
こんなに簡単に消える不安じゃありません。
そう、心が訴えているのにもかかわらず、私はどうしてこんなに安心してしまいますか。私はシキさんの笑顔に安心してしまいましたか。
私はシキさんのお顔を見ます。シキさんはただ柔らかく微笑みを返してくれました。
「よし、んじゃそろそろ帰るか。アイツ等からも話が聞きたいしな。行くぞ、ハス」
そういうと、シキさんは私の手を取り立ち上がらせました。あう。ぼーっとしていたので、勢いでボードを落としてしまいました。
ああ、駄目です駄目です。
「おっと、悪い」
私はすぐに拾おうとしゃがみます。
そしてシキさんもしゃがみます。
自然と、私達の顔は間近で見合わせるるるるるるるるるッッ! ちちちちち近いッ! 近いですッ! 私の目前、ほ、本当に言葉の通りの目前に、し、シシシシシキさんのお顔! お顔なのですッ!
「んー。美しいな、お前」
キョッ! キョーシュクですっ!
「ほら。悪かったよ」
そういって、シキさんは私にボードを持たせてくれました。
「さ、帰ろうぜ?」
は、はい。私はシキさんの後ろを続きます。
うー。
ど、どうしましたか私。ば、ばくばくばくです。心臓が、ばくんんッ! ばくんんッ! です。
はぁ。
うううん。
とても暑いです。
私はシキさんの背中を、ちょっとだけ早足で追います。シキさんの遠く先には、早瀬村が黄昏時の蕩けそうな陽射しを受けているのが見えます。風は凪ぎ、家々からは麻糸を垂らしたような細長い煙が立ち昇っています。私が育った早瀬村の、ずっと変わらない見慣れた景色です。それなのに、シキさんが居るだけで全く知らない場所のように思えるのは何故でしょうか。
私たちは長い影を引き連れて歩きます。横目で追うと、ずっと向こうで私の影とシキさんの影が手を繋ぐように重なり合っていました。
自然と私の視線はシキさんの手へ。
はう。
あわわわわわ。
ほんとうに、私はどうしてしまいましたか。
「それにしても、この村は良いトコだよなー」
わあ!
び、びっくりしましたよ。
「どう思う?」
シキさんは振り返らずに続けました。
は、はい? な、なんでしょうか? 私は、斜陽に目を細めるシキさんを見ます。
「あん? あー、村な。早瀬村。すげぇ綺麗だ。ハスはどう思ってるのかなってさ」
シキさんは手のひらを夕日に透かすようにかざしました。私は不思議な気持ちのまま、その指先を視線で追いました。
「住んでるお前からしたらピンとこないかもしれないけどな。でも外からくれば格別だ。……うん、綺麗だ。そうだな……流離ったなら尚更だったろうな」
はい? シキさん、何といいましたか。さすらう?
私はシキさんを見ます。シキさんは何かを考えるような素振りを見せ、そして軽く頭を振りました。閃いた何かを自ら否定するような、そんな素振りでした。
「……なあハス。お前プサルモィって知ってるか?」
ぷ、ぷさ?
「プサルモィな」
はぁ。
うーん。
その問いかけに対する答えはコレですね。
『えいごはかんべん』
「……英語じゃねぇ。ギリシャ語だ。それと字が汚ぇよ」
『!』
「うははは。怒るなよ。だって汚いのは事実だろ」
『きたなくないです じょうずです』
「いや、それは無いだろ」
『ど』
「ど?」
『怒』
「ああ、なるほど。わかり易い」
『弩』
「いや、逆にわかり難いよ」
『°』
「いやいや、それは既に伝える気がないだろ。あ、いやそうか。ソレくらい怒ったってことか? うはははは。子供みたいだな」
こ、子供っていいましたか!
うー。
もう知りません。
私はシキさんからそっぽを向きます。
あれ? そっぽ、そっぽ、ですか。うふふふふ。可愛い。そっぽ。そっぽ。
「……ん? んー……。よくわからんな。でもあれだな、このまま嫌われるのは嫌だし、仲直りしよーぜ」
シキさんはそういうと、私の空いた方の手をそっと握りました。
シキさんの暖かさが、触れ合った手から伝わります。先ほど見た、私達の影と同じです。おおおお同じですよ!
「握手な。仲直りな」
は、はははははい。な、なかなおり、です。
「うははは。あー、でな、プサルモィだよ。そういうタイトルの本なんだけど、知らないか?」
はぁ。ぷさるもぃ、ですか。知りませんね。私は首を振りました。
「ふーん。そうか。ま、そう上手く辿りつけるもんじゃないとは思ってたけどな」
たどり着く、ですか。
あ、そういえば。ひょっとしてそれが理由ですか?
『そのほんを さがしに むらにきたのですか』
「どうしてそう思う?」
『ねこさん ふしぎがってました』
「……そっか。ま、この村に来た理由は誰にも言ってないしな」
『ほん みつかりましたか』
「うははは。いや、そう稀有なもんじゃないんだよ。本は大きめの書店で探せば普通に売ってる」
はぁ。
「プサルモィには、著者が長旅の中、心を動かされたモノ、コト、ヒトなんかを神への賛美の言葉と絡めて書かれてる。俺は著者の書く文章に魅せられたクチでな。それで著者が感銘を受けた地を訪れてみたくなったんだよ」
ははぁ。なるほど。では、そのぷさるもぃの中に早瀬村が紹介されているのですね? ははぁ。
うん?
あれ?
ギリシャ語、なんですよね?
『なぜ ギリシャのほんに むらのことがでてますか』
「お前バカだろ」
『ばか ちがう ちがいます』
「うははは。んー、そりゃな、タイトルのみがギリシャ語なんだよ。原書の中身は英語な」
『えいごはかんべん』
「俺だって勘弁だ。大学生なめんなよ?」
はう。怒られましたか。
「さっきも言ったけど、プサルモィは書店でも簡単に手に入る。で、日本で販売されてるものは、ちゃんと日本語に翻訳されてるってワケだ。そうでもなきゃ俺が読めるはずねぇ。お前バカだろ」
『ばか ちがう ばかはきっと、』
「読点で止めてんじゃねぇよ! そんな含みのある文章やめろよ! お前の日本語美しく無ぇよ!」
『でもシキさんはうつくしいですよね』
「おお。それは言えてる」
『うま! しか!』
「ゾウ入れろよ! それじゃ只の馬鹿ってことだろッ!」
『憎』
「うッ……ひょっとして、すごく怒ってるのか?」
シキさんは顔を引きつらせながらいいました。私はその様子が可笑しくなって、つい笑ってしまいました。
「お、おおお。マジでビビッたぜ。やっぱりお前は鏡だな。俺一人で焦ってるみたいだ」
シキさんは大きく息を吐き、胸を撫で下ろしました。
「まぁいいや。うん? どこまで話したか。ま、とにかくプサルモィは全世界で読まれてるんだよ。早瀬村の観光客って、外国人もいるだろ? それは本に影響されたのだと考えて間違いないよ。確かに棚田も有名だろうけど、プサルモィに書かれてるのはそれだけじゃない。むしろそれ以外の部分がとても美しく描写されてるんだ。今度外国人観光客が来たら観察してみるといいさ。日本人観光客とは見る場所が随分違うはずだ」
な、なるほどです。
ああ!
そういえば、そうですね。
憶えていますか。ネコさんいってましたよ。いってましたね。シキさんはライステラスを見るんじゃなくて、村の中をうろうろしてるって。シキさんもそういった視点で村を見ていらっしゃったんですね。なるほどです。ネコさん、疑問は解決して謎は解けちゃいましたよ。
「そういえば、早瀬村が世界遺産に登録される予定なのは知ってるよな? さっきそんな話したよな?」
ええ、そうですね。私は首を縦に振りました。
「それ、どう思う?」
どう、ですか。どうなんでしょうね。月並みではありますが、この早瀬村に住んでいる私には、ただの日常風景なのです。どこがどう世界遺産なのやら、といった感じですか。
『よくわかりません』
「そうだよな。それが当たり前の答えだよな」
はぁ。なんか、申し訳ないですね。もっと面白いコト書けば良かったですか。でも、私は人様を笑わせることが得意じゃないんですよね。笑われることは多いんですけど。私の意思で笑わせることが出来たら、それは幸せを感じることですよね。
「世界遺産ってさ、わりかし大変なんだよ」
そうでしょうね。何といいましても、世界の遺産へと登録してしまうのですからね。
「もちろん認定基準も厳しいものなんだけどさ、一番の苦痛は保存義務ってやつでな」
保存義務、ですか。しかも、苦痛なんですね。
「カンタンに言うと、登録へ向けて、その場所にそれだけの価値があることをアピールしていくわけだよ。ま、何でもそうだけど目標に向かい、一致団結するのは楽しいよ。それに凄く大きな力を生む。判るか?」
アピールが必要なのは理解できます。ただ、目標に向かい一致団結となると私にはうまく想像することが出来ません。なぜなら、私は多人数で行動した経験が殆ど無いからです。友達と呼べるのもさっちん以外は居ませんでしたし、どちらかといえば、私は皆さんの邪魔にならないように独りで居ましたから。
ああ、でも。
そうですね。私も皆さんが楽しそうに何かに打ち込んでいる姿は拝見したことはあります。えぇと、体育祭だとか、そんな感じの催しです。当日は私が参加することを許してもらえませんでしたけど、うん、何となく判ります。判りますよ。目標に向かい一致団結するのは、きっと楽しく、そして大きな力を生むのでしょうね。
私はシキさんへ頷きを返しました。
「そうか、うん」
シキさんはにっこり笑って続けます。
「それでな、念願の世界遺産登録が叶ったとしよう。次の目標はどうなる?」
はぁ。
世界遺産への登録が叶ったら、ですか。
ああ!
判りました。判りましたよ、私。うふふふ。そう、目標は常に大きく! 常に前へ! ですよね。
つまり、次の目標はコレでしょう。
『宇宙遺産登録!』
「せっかく漢字で書いてもらってなんだが、お前バカだろ?」
『異次元遺産登録……?』
「あれ? 私何か勘違いしてる? みたいな表情で書いてんじゃねーよ。違う。全然違う。根本的に違う」
『シキさんを……?』
「俺? 俺を? 登録? 登録するの? 気持ちは判るけど、それも違う」
『うま しか』
「お前がな」
『贈』
「いいよ! 贈ってくんなよ! 逆に熨斗付けて返してやるよ!」
『ノシ』
「手ぇ振って断んな! イヤイヤイヤ、みたいな顔すんな! それに縦表記だとわかんないだろ!」
はぁ。えぇと、ではどうしたらいいのでしょうか。
「あれだよ、最初に言ったように、維持だ。次の目標は、世界遺産に登録された状態の維持にある」
維持、ですか。
「いいか、これは言うほど簡単じゃない」
『わたしは いうのも かんたんじゃないです』
「……悪い。例え方に配慮が無かった。あれだ、えーっと」
『行住坐臥』
「それだ! いや、よく書けるな、そんな熟語。ま、つまり日常的に努力を続ける必要が出てくるってことだな。登録されるまでは何かと楽しくていいさ。目標達成の為に一時的な努力ならやれる。でもな、それがずっと続くとなれば話は別さ。判るか?」
ええ、なんとなく。
「登録の前後では、生活者の日常に大きな変化がある。必ず、それに対応出来ない生活者だって出てくるさ。だから、俺は思うんだよ。早瀬村が世界遺産に登録されるのはどうなんだろうってな」
はぁ。
『どういうことですか?』
「んー? お前、気楽に何かを変化させることが出来なくなるんだぞ? 利便性を考えて工事をしようにも、景観が崩れてしまうって理由でそのままだ。ちょっとしたことで楽になるようなことも、世界遺産ってことで認可されなくなるんだ」
『たとえば?』
「そうだな。早瀬村って年寄りが多いよな?」
そうですね。
「農業が主産業だと思うんだけど、それってずっと今のままってわけにはいかないだろ。人は減るし、老いる。効率と効果を上げるために機器の導入は必須だろ? そうなるとその機器を運搬するために道がいる。しかし舗装された道は景観を崩すため造れない」
なるほどです。
「だからと言って、荒れ地を増やすわけにはいかないからな。土地の手入れだって今のまま維持しなきゃいけない。人不足を解消するために移住者を募っても、世界遺産の維持という縛りを負った村で、いったいどれ程の人間が暮らしていけるだろうな。この村で生まれ育ったなら大丈夫なんだよ。でも、都会から移住してきたヤツが、当り前だったものを取り上げられるのは我慢なら無いものさ」
たしかに、そうかもしれませんね。私の場合で例えるなら、やはり喋れないこと、でしょうか。私は生まれつき声帯が無く、声が出ません。しかし、何かしらの切っ掛けで声を失ったのだとしたら、どうだったのでしょうか。
辛い、でしょうね。
うん、辛いと思います。だって、今ですら私はいわゆる「たら」「れば」を想像してしまうのです。諦めがついているとはいえ、そうなんです。そうなのですよ。
『つらいですね』
「だよな。だから総じて世界遺産に登録されることが、必ずしも早瀬村にとって幸せだとは言えないんじゃないかって思うんだよな。ま、この場所で生活をしていない俺がとやかく言えることじゃないんだけどな」
シキさんはそういって髪をかき上げます。しかし、蟻尾山から川沿いに吹きおりてくる風が、再びシキさんの髪を乱しました。
「しっくりこないもんだな。この村はこれほど美しいのに。それはある意味失われる直前の儚さゆえってことなのか? プサルモィに描かれた美しさと今の美しさはまた別物なんだろうな。そうなると、やっぱり俺はたどり着くことが出来ないのかもしれん」
シキさんは早瀬村の方を向き、目を細めます。私にはシキさんが追い求めるものを共感して差し上げることが出来ませんが、それでも出来るならシキさんの願いが叶って欲しいと思いました。
「ま、何にせよ美しいという事実には変わりないのだし、それはそれでってことにしとくか」
シキさんはそういって笑いました。私もその笑顔につられて笑いました。
私たちはお互い笑いながら歩きます。吹き抜ける風はとても心地よく、陽の光も先ほどより幾分和らいでいました。てろってろで、ぽってりとした時間の中を私たちはのんびり歩きました。
私、こんなに穏やかで緩やかな時間に包まれたのは初めてです。今、私とシキさんの間に会話はありません。でも、何となく繋がってます。同じ風景を見て、同じ風を感じて、同じ時間の中を歩いてます。いつものように、誰かの考えを読み取ろうとする必要がありません。いつものように、私の意思を伝えようと考える必要がありません。
どうしましたか。何が違いますか。私は視線を手元に落とします。私の手にはシキさんに戴いたボードが握られています。このボードがある余裕からでしょうか。今までより格段に意思の疎通が容易になったから、余裕が出来たのでしょうか。
いいえ。
きっと、違います。違うのですよ。
それは、シキさんとこうやって歩いているからではありませんか。
シキさん。
「案外近いもんだな」
シキさんの声で我に返りました。目の前には早瀬村の入り口がありました。
「朝は停留所まで随分遠かったんだけどなぁ。アレだ、ハスと話が弾んだからだろうな」
『たのしかったですね』
「おお。また話そうぜ」
『はい』
「おおう、その笑顔、美しいぜ。珍魚落雁、閉月羞花ってな」
あう。いいすぎです。
『はずかしいですよ』
「ん? そうなのか? でも事実だ」
『きょうしゅくです』
「うははは。ま、俺も十分美しいがな」
『おっしゃるとおりです』
「それだ! うははは! まさに打てば響くような会話だな!」
シキさんはうんうんと頷きました。
あら、そういえば、です。
『かんどりさんとは なにか おはなしに?』
「ん? かんどり、ああ、神取さんか? いや、俺はまだ会ったことも無いよ。村の中でそれらしい集団を見たことはあるけどな」
あら?
「ああ、そうだ。ハスとの会話が楽しくて忘れてた。その神取さんとやらの件もあったんだったな。よし、俺は一足先に宿場へ戻る。ネコ達から話を聞いてみるよ。お前ももう家に帰るよな?」
あ、は、はい。私は頷きを返します。
「おし、んじゃまた後で遊ぼうぜ!」
シキさんはそういって、駆け出しました。
ああ、あの、シキさん? シキさんが向かう宿場と私が住んでる処はお隣なんですよー。
シキさんの背中はどんどん小さくなっていきます。
あらら。
せっかくですから家の前までご一緒したかったですね。
残念です。
あ、いえ。そう。そうです。それも大いにあるのですが、それよりも。私、ちょっと勘違いしていますか。
神取さんとシキさん。お二人に面識は無いのですか?
ちょっと、不思議ですね。いえ、憶えていますか? 今朝、神取さんはバスの停留所に行っていたとおっしゃったハズです。確か、お友達をお見送りに行かれたのではありませんでしたか。そして、その場所にはシキさんが居たハズなんです。思い出してください。早瀬村から街に向かうバスは、早朝に一本のみなんです。ですから、お二人がお顔を合わせないなんてこと、無いと思うのですが。
私、何か勘違いしてますかね。
うーん。
まあいいです。
さて、私も家へ帰りましょう。シキさんはどんな道順で帰りましたか。何となく、その足取りを追ってみたくなりますね。うふふふふ。変なの。
私が歩くのにあわせ、真っ白な帽子のツバがゆらゆら揺れます。可愛いです。蝶々みたいです。ツバの揺れにあわせ、何故か私の心もフワフワします。するのですよ。とっても不思議です。
うん?
これは?
うふふふ。
良いんですか?
良いんでしょうか?
いっちゃいますよ? あ、いえ、いえませんけど。
うーん。
うふふふ。
私、きっと今、幸せなんですね。
幸せ、なんですね?
うん。幸せなのですよ。
お父さん、お母さん。私、お二人が居なくなって、何年も立ちました。それで、ずっと、ずっと辛いと思っていたのですが、今日、それこそ何年ぶりかに幸せだと思っています。幸せだと感じていますよ。
ネコさんや、シキさん。とても優しいです。私のこと沢山気遣ってくれます。とても面映い気持ちです。でも、とても嬉しいです。私、何かをお返ししたいです。いえ、きっとどれだけお返ししても足りません。それほど、私の心を幸せにしてくれています。
幸せ。
幸せはとても甘い果物のようです。口内いっぱいに広がる甘味。溢れる果汁。あれです。白鳳とかいう桃の品種を思い出します。以前、富一さんから戴いたことがあります。その味を思い出すだけで、ご飯を暫く戴かなくても大丈夫でした。
ああ、そうです。それですよ。
私は今、幸せを感じてお腹がいっぱいになってます。
不思議ですね。何故か胸もお腹もいっぱいです。
私の足はこれまでに無いくらい軽やかに跳ねます。家まではあと少し。この道はシキさんが通った道ですか? そんな事を考え空を見上げます。山の向こうは鳩羽鼠。それから葡萄鼠。きっとその向こうは薄鼠でしょうか。
視界の端に煌く一番星を見つけながら、私は軽やかに道を抜けます。私の心はとても幸せで満たされています。
とても、とてもすばらしい時間なのでした。




