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シュリー  作者: エリフル
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 何かが弾けるような、とても大きな音が私の耳を貫きます。鼻腔に届くのは肉が焼ける臭い。私は思わず咽てしまいました。

 轟音は連続して私の耳に突き刺さります。男性の怒声、それから女性の悲鳴。泣き喚いているのは子どもです。両手で耳を塞いでみても、大して意味を成すことはありませんでした。

 私は自分の両肩を抱き、震えていました。そんな私を優しく抱き寄せる手がありました。誰でしょうか。

 私を抱きしめるのは、誰ですか。顔を上げ、私を抱きしめる方のお顔を見ます。

 私?

 ああ、いえ。違いますよ。これはこれは。随分、お久しぶりです。私は目を細め、恭しく頭を下げました。

 ご機嫌は如何ですか、お母さん。

 うふふふ。

 やっぱりお母さんは私とそっくりですね。

 ああ、いえ。私がお母さんにそっくりなんでしたか。

「――?」

 何でしょうか。私、今、お母さんに呼ばれましたよね。でも、何でしょう。私、何て呼ばれましたか。ちょっと上手く聞き取ることが出来ません。

「――? 平気?」

 ええ。大丈夫です。先ほどから鳴り響く音は恐いですけど、今はお母さんが居てくれるから平気です。私はそう伝えるように頷きを返しました。お母さんは一瞬困ったような表情をしましたが、すぐに笑いました。とても綺麗な笑顔でした。これは私には出来ない表情です。

「――。ちゃんと、ここに居てね。すぐに迎えにくるからね? 約束だよ?」

 お母さんはそういって、強く私を抱きしめます。名残惜しそうに私の頬を撫でたあと、お母さんは部屋を出て行きました。

 ああ。駄目です。お母さん。ここから出ては駄目ですよ。私は直感します。ここから出てしまうと、もう、私はお母さんと会うことが出来なくなってしまうのです。そうは思うのですが、如何せん私は自らの考えを伝える手段を持ち得ません。

 お母さん。どうか、戻ってきてください。私はただ心で強く想うばかりでした。

 お母さん。私を置いて行かないで欲しいのですよ。私はお母さんがいなければ何も出来ないのです。

 そう。

 私、独りでは何も出来ません。

 私、独りでは皆さんへ迷惑をかけてばかりなのです。

 私、独りでは駄目なんです。

 私、独りではどうしていいのか判りません。

 お母さん。お母さん。お母さん。

 助けてください。私、どうしたらいいですか。判りません。判らないんです。

 お母さん。ここから、出て行っちゃ駄目ですよ。駄目なんです。出て行かないで下さい。私は強く願います。何度も何度もお願いしました。

 ああ。

 でも、私の願いは、想いは、お母さんに届かないのですね。

 それはそうですよ。

 だって、私は喋ることが出来ないのですから。私に考えを伝える手段なんて存在しないのです。

 だから、この心が伝わることはないのです。


◇◇◇


 喉が、渇きました。

 目が覚めたとき、いつも最初に思うことです。で、私は難しい選択肢を迫られてしまいます。

 つまり、このまま寝ているのか、水を飲みに井戸まで行くのか。

 激ムズ。

 激ムズです。

 出来るなら、このまま眠っていたいのが本音です。やはり朝は眠いです。則天去私ともいいますし、自然の流れに沿うことも大事ではありませんか。きっと漱石先生もそう思ってらっしゃる筈です。ああ、大所高所なんて言葉もありますね。やはり、このまま眠り続けるのがよろしいのでしょうか。

 私の意識はまどろみの中にあり、深い霧の中、湖面に浮かぶ小さな花の様に不確かです。

 つまり、今の私は睡蓮ですね。

 うふふふ。

 これは巧い。巧いです。思わず笑みがこぼれてしまいました。

 それはそうと、喉が渇きましたね。少なくとも、まどろんだままでは居れそうにありませんでした。

 どうしましょうか。暫らく考えたあと、私はゆっくりと目を開きます。遮るモノが無い窓からは、夜明け前のうっすらとした明かりが入って来ていました。

 早朝――黎明時。

 薄く開けた目に入ってくる空の色は褐返。それから熨斗目花。きっと山の上は卯の花色でしょうか。

 色を想像するだけで、眩いような気持ちになります。

 日の出までは須臾の時間ほどでしょうか。うん? 須臾って四十八分ですか? です、ね。だとすると、もうちょっと早いですね。

 うー……ん。困りました。

 これがおしっこだと別問題なんですけどね。私、あまり我慢がきく方ではないので、眠気より優先されてしまいます。

 でも、この喉の渇きは多少我慢できますからね。

 そういえば、いま思い当たりました。

 私、いつも喉が渇くわけではありません。ありませんね。

 夢。そう、夢です。私、夢を見たときに限って喉が渇きます。

 夢はほぼ毎日見ています。内容はマチマチなのですが、それでも私はだいたい同じ場所に居る、というか、うー……ん。どう表現したらいいですか。そう、ですね。私はいつも同じ椅子に座るんです。そして、目の前にある画面に映像が流れている、と表現すればいいのでしょうか。

 つまり、私は「夢」を「見て」いるのですよ。

 そして、私は夢を見終わると、決まって喉が渇くのです。この喉の渇きも実際の渇きとは違っていて、そうですね、先ほど山の向こうの空の色を想像したときに眩さを感じた、その感覚に似ています。

 ただ、そう考えると不思議です。

 空の色に関していえば、私は実際にそれを見たことがあります。見たことがあるので、それを思い出して眩さを感じています。

 そうすると、です。

 私は喉の渇きを体験したことがあるということになりませんか。

 早瀬村は水が豊富な地域です。私はお腹が空いても喉が渇いたことはありません。むしろ、お腹が空くので水ばかり飲んでいます。

 おかしいですね。うん。おかしいのですよ。

 それはそうと、世界のどちらかでは食べ物も水も無い、とても住みにくい場所があるとか。そんな噂を耳にしたことがあります。

 動物は冬になったり、気候変動で食物がなくなれば、その住みかを大きく移動するといいます。しかし、人間は違うようです。そんな過酷な状況でも移動することなく住み続ける方々もいらっしゃるようです。そう考えると人にとっての衣食住とは、場合によって等価値ではないのかもしれませんね。

 では、やはり一番重要なのは住ということになるのでしょうか。

 住。住む場所。人が主とする処。つまり、居場所です。

 居場所、ですか。そうですね。大事です。それはきっと、空腹に耐え、渇きに耐えてでも守り通したい場所なのかもしれませんね。確かに居場所がないのは、時として空腹より辛いですもんね。人は自分の居場所を守るためなら、他人を傷つけることすら厭わないですから。

 うん?

 あれ?

 これは、誰の言葉でしたか?

 ふむ。

 まぁ、いいです。

 それはそうと、居場所を戴く為には、ちゃんと人のお役に立たなければいけません。その点において、私は完璧ではありませんか。普段から……普段から……うん?

 えー……と?

 大変です。そうでした。私、昨日は失敗してます。それも一度ではなく、終日失敗続きではありませんでしたか。

 昨日は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんにだけではなく、神取さんにも迷惑をかけてしまいましたね。

 それから。

 それから、ネコさん達。……シキさん。

 迷惑を、かけてしまいましたね。

 私は人のお役に立つどころか、迷惑ばかりかけてしまっていますね。これでは居場所を戴くなどと考えることすら許されることではありませんよ。

 私は大きく息を吐いた後、ゆっくりと上体を起こします。しかし寝起きの身体はいう事を聞いてくれません。あ、この表現は如何なものでしょうね。私みたいに喋ることが出来ない人は、どう表現すればいいですか。身体がいう事を聞かないも何も、身体からすれば「え? 何かいわれたっけ?」みたいな感じではありませんか。

 そうですね。では、どのように表現してみましょうか。私は人差し指を顎先に当て、暫らく思案に耽ります。さっちんのポーズです。

 ああ、思いつきました。うん。では、これで。

 身体が空気を読まない。

 ああ。これはいいですね。実に良い。私の考えを適格に表現しています。では早速使ってみましょうか。私はもう一度寝転び、先ほどの状態をつくります。

 では。

 私はゆっくりと上体を起こします。全身には力が入らず動作は酷く緩慢です。私の思考とは裏腹に、寝起きの身体はあまり空気を読んでくれませんでした。

 うふふふ。ばっちりです。これならば誰が使ってもオッケーですよ。

 さて、私は空気を読めない身体を急かすように動かし、大きく背伸びをしました。知っていますか。朝、起きたばかりの身長が一番高いそうです。と、なるとです。背伸びも何も、すでに身体は伸びているわけです。つまり、寝起きの背伸びはあまり意味が無いのかもしれませんね。それでも朝の伸び体操は入念に行います。一通り終わると汗がうっすらと浮かぶくらいです。これをやるとやらないでは、やはり随分と違いますからね。

 ではそろそろ井戸に向かいましょうか。

 私は寝所を後にし、足音をたてないように気を付けつつ玄関へ向かいます。日頃から気を使っていますので、些細な音も立てずに移動出来ました。うん。上出来です。すばらしいです。

 玄関を出て、ビニールから靴を出します。靴をつま先に引っ掛けるように履いて裏庭へ向かいました。

 まだ薄暗い裏庭は、生き物の気配が無くひっそりとしています。そういえば、昨晩は此処で大変なことが起こりましたね。私は体中に出来た擦り傷を思い出しました。流石に全裸で地面を転がるのはもう経験したく無いですね。もちろん私が不注意だったことが一番いけません。それは神取さんにも注意されましたし、今後は気を付けなければいけませんね。ただ、いったい何に気を付ければいいのでしょうね。難しいところです。暫らくの間、思案に耽るのは良いと思うのですが、とりあえず先に顔を洗ってしまいましょう。

 そうです。そうなんですよ。私、水を飲みに来たわけではないのです。ちゃんと別に理由があるのです。あ、いえ。飲みはしますけどね。

 では早速。

 井戸の隣りに備え付けてあるポンプを動かします。暫くして冷たい水が出てきました。私は両手でその水を受け、顔を洗います。そして同時に喉を潤しました。

 水に濡れた指先で髪を梳きます。手櫛を通すと、昨晩出血したところが硬くなっていました。ははあ。結構大きな瘡蓋が出来てますね。相応の裂傷を思い浮かべると痛みがぶり返してきました。あう、本当に痛かったですものね。出来ることならもう二度と経験したくありませんよ。

 さて、それはそうと。

 唐突ではありますが、私、思い立ったんです。昨日の件ですが、私、色々な方に迷惑をかけてしまいました。特に、その……シキさん、とか、です。ですから、私謝りに行こうと思うんです。ちゃんと、昨日のことを謝りに行こうと思うんです。これって大事なことですよね。

 私、ちゃんと気がまわせる子です。

 ああ、しかもシキさんに帽子をとって戴いたとき、ちゃんとお礼を伝えていませんね。

 これはいけません。

 私、ちゃんとありがとうがいえる子です。

 いえ、ありがとうが伝えられる子です。

 そういったわけで、これから私はシキさんに、ごめんなさいとありがとうを伝えに行くのです。行くのですよ。

 おお、これはこれは。私、気付きました。気付いてしまいましたよ。

 私、二つのことを伝えなければいけませんか。……いけないようですね。

 これは難しい。

 そもそも、ただ一つのことを伝えることも難しいというのに、二つのことを同時に伝えるとなると、その難易度たるや魚の木に登るが如し、です。

 それに一晩経ってしまっていますし、時間が経過し過ぎているかもしれません。すぐに謝れば事無きを得たことでも、時間を置いた為に手遅れになることだってあります。

 それは……困りますね。自分で考えておいて、とても恐くなってしまいました。シキさん。私、まだ手遅れになっていませんか? 先ほどまで意気衝天としていた私の心は、今や暗雲低迷しています。

 まあ、悪因悪果と申しますからね。仕方の無いことですが。

 うーん、何か良い例えがありませんか。ちょっとでも何かに縋りたいです。今の状態では心細いですよ。

 えー……と。うー……ん?

 ん? あとのまつり? ああ、これは違います。違いますよ。まだ終わらせないでください。泥棒を見て縄を……って、これも同じです! んー……。あ! ウサギを見てイヌを呼ぶ、ですよ! それです! 亡羊補牢です!

 よし、元気が出てきました! これなら頑張れます! うん、頑張りましょう!

 ではでは、次は具体的な段階を考えますよ。さあ、どのように伝えましょうか。ごめんなさいとありがとうですよ。何か良い案はありませんか?

 うふふふ。こうやって何か知恵を得たい場合はさっちんのポーズです。

 私は人差し指を顎に当て、考えを巡らせます。

 うーん。

 えーと。

 ごめんなさいとありがとう。うーん。つまり、二つ伝えるから難しいんですよね。そうです。そうなんです。二つは無理でも、一つなら何とかなりそうなんですよ。

 ああ!

 私、閃きました。閃きましたよ。

 至極単純なことではありませんか。二つが難しいなら一つにすれば良いのですよ。つまり、略語です。

 知ってますか。略語。これは、ちょっと長めの文章や単語をコンパクトにまとめる技術です。もともとの意味はそのままに、表現する為の言葉のみを圧縮する高等技術です。

 では、さっそく取り掛かってみましょう。

 えー……と、略したいのは「ごめんなさい」と「ありがとう」の二つです。コレを略してしまうわけです。

 ごめんなさい。ありがとう。

 つまり、ごとう。

 完璧です。

 どうですか。この言葉を使うことによって、私が喋れないというハンデキャップは十分に補われるのではないでしょうか。

 うふふふ。さすが、さっちんのポーズです。このように素晴らしいアイディアがポンポン湧き出すなんて、本当にさっちんは凄いですね。

 では妙案も浮かんだことですし、すぐに着替えを済ませてしまいましょう。

 私は急ぎ足で玄関へ向かいます。外では足音に気を使う必要もありませんので、歩幅も大きく元気に走れます。

 玄関に戻り、ビニール袋に靴を入れたとき、私は人の気配を感じ振り向きました。

「あれ? ハスさん。おはようございます」

 びっくりしました。神取さんです。

 私はおはようございます、と頭を下げました。

「お早いですね。……その、もしかしてあまり眠れませんでしたか?」

 いえいえ、私ばっちり眠りました。私は首を振りそう伝えました。

「……そう、ですか。本当に、申し訳ありません」

 何故神取さんが謝るのでしょう。ひょっとして昨晩のことですか? それなら、そもそも注意不足だった私に非があるのですから、神取さんがそうやって謝ることは無いんですよ。

「えぇと、その、ですね。まぁ、何と言いますか。夕べの発端となった男ですけど、彼にはですね、朝一番に帰省してもらいました」

 きせい……帰省でしょうか? 夕べの、ああ、あの神取さんのお友達の方ですね。え? 帰省ですか?

「その、やはり、このまま一緒にって訳にはいきませんからね。本来ならちゃんと何かしらの償いを受けさせるべきなのでしょうが……。本当に、すいません」

 そんな。神取さんが謝ることなんて何も無いじゃないですか。

「僕はちょうど、彼を見送ってきたところなんですよ。ハスさんはどうしたんですか? 寝つきが悪かった訳じゃないんですよね?」

 その通りですよ。私は身振りで顔を洗っていたことを伝えました。

「なるほど。では、今から朝食の準備……は早いですね。うーん……散歩、とかですか?」

 私はとりあえず頷きます。何といいますか、シキさんに「ごとう」と伝えに行くことを上手く説明できそうにありません。

「そうですか。しかし、川沿いの道は気を付けてくださいね。もうすぐ日が昇るにしても、場所によっては薄暗いですから。足を踏み外しでもしたら大変です」

 いえいえ。私はしっかり者ですから、心配されなくとも大丈夫ですよ。私は笑顔でそう伝えます。

「あははは。十分お気を付けて。僕はもう一眠りさせて戴くことにしますね」

 神取さんはそういうと、足早に立ち去ってしまいました。

 神取さん、眠そうでしたし、無理もありませんね。神取さんの目、もう閉じてましたから。

 うん?

 ああ、そうです。神取さんの目が細いのは普段通りでした。うーん。眠いのかどうかはわかりませんね。

 おお。私、着替えなければいけませんでした。私も神取さんに続き、家の中に入ります。

 私は行きと同じように、足音を立てないように廊下を進みます。まだ寝てらっしゃる皆さんへの配慮です。

 うふふふ。私、気が利きます。

 さて、無事に私の寝所へたどり着きました。気を使うとちょっとした距離でも疲れてしまいますね。うふふふ。

 では早速ワンピースに着替えましょう。鞄の上にある帽子は忘れずに。レースをあしらった顎紐は、ちゃんと結んでおきましょう。また風で飛ばされたりしてはいけませんからね。

 さぁ、頑張りますよ。着替えを済ませた私はすぐに玄関へ向かい、靴を履き外へ出ました。

 あら。山の向こうが白んでいます。眩しいですねー。これからどんどん明るくなります。日の入り後は本当に早いですからね。

 さて、目的地は富一さんのお家です。

 シキさん達はおそらく富一さんのお家に居るはずです。昨日、富一さんのお家付近で拝見したのは、シキさん達で間違いないと思うのです。それと早瀬村に外の人が来る場合、その殆どが富一さんのお家に滞在します。富一さんのお家にはお部屋が沢山あって、多くの人をお持て成し出来るようになっているのです。そういったことも踏まえまして、目的地は富一さんのお家、という方向でよろしいかと思うのですよ。

 そうそう。限界集落という、とても逼迫した状態である、らしい早瀬村ですけれども、わりかし外からのお客様は多いです。

 外からの皆さんは、観光のために早瀬村を訪れます。

 物心ついて間もない頃からこの村で過ごしている私にとって、いったいどれ程の価値があるのか判りませんが、観光される方々の主だった目的は、蟻尾山から延々と続くライステラスだそうです。

 ライステラス。つまりは棚田です。千枚田ともいいますか。

 これは神取さんからお聞きしたことですが、早瀬村のライステラスはとても貴重なものらしいです。これほどの規模は日本有数だということでした。

 そういったことで、日本国内外の方を問わず、観光を目的とした方々が訪問したりするわけです。で、そういった方々を受け入れているのが富一さんなのです。

 例外的に、神取さん達は私の家で受け入れていますけれども、それは神取さん達が観光ではなくて、農業支援? でしたか? とりあえず、そういった理由の為、なんだそうです。

 さて、富一さんのお家に着きました。お隣なのであっという間です。いえませんけど。

 私は玄関に付いたブザーを鳴らします。

 暫く経って、富一さんが玄関を開けて顔を出しました。

「おお、ハスか。おはよう。随分と早いな。どうしたね」

 私はお辞儀をして挨拶をした後、身振り手振りでシキさん達に会いに来たことを伝えました。

「うーん? ひょっとして今ここに滞在している大学生の人達に会いに着たのかい?」

 やっぱり。私の考えは的を射ていたようですね。

「どうなのかな、ハス」

 ああ、すいません。私はそうですよーと頷いて答えました。

「そうかそうか。ハスはもう友達になったんだね。良い事だね。でもな、ハス。皆さんはまだ眠っていると思うが、ハスはどう思う?」

 もう朝です。私は首を振ります。

「はははは。ハスは良い子だから早寝早起きだな。そうそう、大学生の皆さんはね、夜遅くまで星を見ていたそうだよ。だから、眠りに付くのも随分遅かったようだね。どうかな、ハス。もう少しだけ寝かせてやっておいてはくれないか?」

 おお、そうでしたか。私、判ります。夜、眠るのが遅いと次の日の朝はとてもじゃないですけど起きれません。

 なるほど。そういう理由があるなら仕方ないです。仕方ないですね。では一度、家に戻ることにしましょうか。随分と意気込んで来ましたから、ちょっと残念ではありますが。

「またおいで」

 富一さんの言葉に大きく頷いて、私は家へ戻ります。

 到着。

 お隣なのでとっても早いです。

 ああ、でも、富一さんがいう通り、ちょっと早かったかもしれません。せめて完全に陽が昇ってからにすれば良かったでしょうか。

 私はそんな事を考えながら家に入りました。そのまま廊下を突き当たり、食堂へ向かいます。食事の準備をするのにはちょっと早いですけども、お祖母ちゃんが起きてきたときに作業がしやすいように、出来るだけの準備はしておきましょう。

 たとえ小さなことでも、私は人の役に立ちたいのです。

 食堂へ入ると、お米が炊ける良い匂いが充満していました。うん、今日もきっと美味しいはずですよ。さぁ、人数分のお皿を用意しましょう。そういえば先ほど神取さんがおっしゃっていましたね。今日からお一人少ないのでしたか。

 ちょ、ちょっと待ってください。

 私、凄いこと思い付きました。ひょ、ひょっとして、ですけども、ご飯が余りませんか? 余りますよね?

 これは私もご飯が戴けそうな予感です!

 そう考えると体も軽やかに動き回ります。私は踊るようにお皿を出し、お祖母ちゃんが作業をしやすいようにお鍋や包丁なんかを準備します。

 今日はより一層綺麗に並べてますよ。これはちょっとしたものではありませんか。やはり作業前の準備は大事です。こうやって必要なものがちゃんと準備され、美しく並んでいる様を見れば、誰だって清々しい気持ちになると思いませんか。

 私は一通り準備し終わると、その状態を眺め、充実感に満たされて深く頷きました。

 早くお祖母ちゃんが起きてきませんかね。私は心を期待に躍らせます。

「……ハス?」

 あ、お祖母ちゃんです! おはようございます! 私は丁寧にお辞儀をします。何でしょうね、こうやってタイミング良く事が運ぶなんてとても素敵だと思いませんか。

「お前、何をしてるんだ?」

 お祖母ちゃんは並べられた食器類を見ていいました。

 お祖母ちゃん、見てください。私、早く起きたので準備をしていたのですよ。少しでもお祖母ちゃんの役に立ちたかったのです。

「この馬鹿がッ!」

 お祖母ちゃんは大声を上げました。食堂の空気が一瞬で凍りついたようでした。

 ど、どうしましたか、お祖母ちゃん。私は状況が飲み込めず、お祖母ちゃんの顔を色を伺います。

「お前つまみ食いしていたな? なんて卑しいんだ!」

 そ、そんな! 違いますよお祖母ちゃん。私、つまみ食いしてません。お祖母ちゃん、見てください。このお皿は先ほど並べたばかりです。私、お手伝いをしていたのですよ。

 私はお祖母ちゃんの視線を誘導するように、綺麗に並べた食器や器具類の方を指差しました。

「このッ! 馬鹿がッ!」

 お祖母ちゃんは言葉を荒げ、私の顔を叩きました。

 ち、違います。お祖母ちゃん、誤解です。私、つまみ食いなんてしていません。この、お皿とかを見て欲しいのです。

「このッ! 人様のッ! お米に手を出してッ!」

 痛い! 痛いです、痛いです、お祖母ちゃん。私のお話を、私の伝えたいことを、お願いします、少しでいいですから、じ、時間を、時間を、くだ、うぅ、い、痛い、痛いです、じ、時間をください!

「何もッ! 役に立たないッ! 何でッ! お前はッ! いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもッ!」

 お祖母ちゃんの掌が舞うたび、私の頬を熱く刺すような痛みが襲いました。

「っはぁ、っはぁ、この、糞餓鬼がぁッ!」

 お祖母ちゃんが水屋の引き出しを開けます。その中から棒を取り出すのが見えました。

 あれは……夕べの!

 私の頭の中に赤いイメージが浮かびました。

「今日という今日はもう許さんッ! 二度とこんなことが出来ないようにしてやるッ!」

 お祖母ちゃんは言葉と同時、手に持った棒を振るってきました。お、お祖母ちゃん、止めて下さい。それで叩かれると、凄く痛いんです。血が出ます。血が出て、本当に痛いんです。お祖母ちゃん、私、悪い子です。それはちゃんと判っています。だから、役に立ちたかったんです。少しでも役に立ちたかったんです。だから、だから、お願いします。も、もう叩かないでほしいです。

 お祖母ちゃんの腕が振り下ろされます。棒は私の頭頂部に何度も叩きつけられました。その内の数発はこめかみに打ち付けられました。私は頭が爆ぜてしまうような、とても激しい痛みを感じました。

 あれ?

 痛みの所為でしょうか。私の平衡感覚が曖昧なものになります。身体を支える両足が、まるで自分のものじゃないかのような感覚。おかしいな、と思ったときには、私の身体は床に転がっていました。

 すごく目が回ります。天井がグルグル回ります。気持ち悪いです。でも、それ以上に確かな痛みが私の意識を掴んで離しません。

 私が横たわっても、お祖母ちゃんの手は休むことなく振り下ろされます。打撃点は頭部から全身へ。

 痛いです。身体を庇うように横向きになります。殴打の嵐は私の腕を襲いました。暫らくすると、腕部の感覚がとても曖昧なものになってしまいました。

 お祖母ちゃんの振るう棒は、何度も私の身体を打ち続けました。私は心の中で、何度も、お祖母ちゃんに謝りました。頭の隅で、もう限界だな、なんて考えが過ぎりました。限界を迎えるとどうなるのか判りませんが、とても恐くなりました。

 私は苦しくて、喉を鳴らしながら視線を上げます。

 あ。

 お、お祖父ちゃん。

 お祖父ちゃんが食堂の入り口に居ました。いつもの険しい表情で私を見ていました。

 お祖父ちゃん、ごめんなさい、私、悪い子です。だから、私、役に立ちたくて、それで、その、だから、その……。

「…………」

 お祖父ちゃんは暫く私を見下ろしたあと、どこかへ行ってしまいました。

 ああ。ああああああ。お祖父ちゃん、お祖父ちゃん。私、お祖父ちゃんまで怒らせてしまいましたか。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 私、本当に、役に立ちたいと思っただけなんです。

 でも、うまく出来ませんでした。出来ませんでしたか。

 本当に、ごめんなさいです。

 お祖母ちゃんの振るう棒は何度も何度も私を打ち据えます。身体の感覚がぼんやりして、途中から痛みの度合いがよく判りません。

「何をやっているんですかッ!」

 食堂に声が響きました。

「はッ? は、はぁ、は、はぁ、はぁ、はぁ」

 続けてお祖母ちゃんの荒れた呼吸が連続して響きます。

「は、ハスさん? だ、大丈夫ですか? 母祢さん、何があったんですか? こ、こんなになるまで」

 私は抱きかかえられるように、上体を起こされました。

 あれ? 神取さんですか?

 ちょっと、涙で目の前がよく見えません。

「ハスさん? ハスさん? 大丈夫ですか?」

 ええ、大丈夫です。私は頷いてそう伝えました。

「か、神取、さん? す、すいませんが、食事はまだ出来ておりません。どうぞ居間の方でお待ちください」

「そ、それは判っています! しかし、この状況は……」

「ああ、いえ。ハスのヤツがつまみ食いをしましてね。この子は喋れませんでしょ? その所為ですかね、ちょっとばかり頭の発育がよろしくありませんで。言ってきかせるより、こうやってでも教え込まなきゃいけないんですよ」

「だからって、これはやり過ぎでは……?」

「ふぅ。しかしですね、私はこうやってハスを育ててまいりましたし、それでやっとコレですから。今後のことを考えますと、多少厳しくともちゃんと躾けておきたいのですよ。私もお祖父さんもあと何十年も生きるわけではありませんから」

「……そうですか。……しかし、今回のところはもう止めていただけませんか?」

「神取さんがそうおっしゃるなら」

「……ありがとうございます」

 私は胡乱だ意識の中、お二人の会話を聞いています。よく判らないのですが、やっぱり悪いのは私みたいですね。これは本当に申し訳のないことです。お祖母ちゃん、お祖父ちゃんだけではなく、神取さんにまで迷惑をかけてしまったようです。

 本当に。

 私はどうしたらいいのでしょうか。本当に、ごめんなさいです。

「ハスさん? 大丈夫ですか? ここはもう結構ですから、どうぞ部屋で休まれてください」

 神取さんはそういいながら、私を立たせてくれました。

「歩けますか?」

 大丈夫です。下半身に力は入りませんが、これ以上迷惑をかけたくありませんから。

「では、一旦部屋へ戻ってください」

 それは出来ません。私、迷惑をかけっぱなしじゃないですか。それは駄目ですよ。

「ハスさん。今はお部屋へ。そうして戴けないと、僕も心配で困ってしまいますよ」

 おお。それはいけません。いけませんね。私、神取さんを困らせたくありません。でも、どうしましょうか。私、お祖母ちゃんのお手伝いもしなければいけませんよ。私はお祖母ちゃんの方を見ます。

「……神取さんの言うようにしろ」

 お祖母ちゃんはそれだけいうと、何事もなかったかのようにご飯の準備にとりかかりました。

「さぁ、ハスさん。一人で大丈夫ですか?」

 大丈夫です。私は頷いて、ちょっとふらつく足取りで食堂を出ました。

 私は寝所に戻りながら、必死に考えました。

 私、何を失敗しましたか。

 出来ることなら、同じような失敗は繰り返したくありません。何度も同じことで迷惑をかけたくないのです。

 駄目です。どうしても、考えがまとまりません。

 私、どうしたら良いのでしょうか。

 私、どうすれば役に立てますか。

 困りましたね。どう考えても、私はどこを反省すればいいのか判らないのです。

 私はお祖母ちゃんの役に立てればと思って行動しました。でも、それはお祖母ちゃんの役に立っていなかったのでしょう。とても難しいです。

 原因が判れば次の目標が出来ます。次こそは頑張りましょうと思えます。

 でも、今回はどうしても判りません。

 どうしたら良かったのでしょうか。

 お祖母ちゃんは、私がご飯をつまみ食いしたのだと思っていました。

 私は考えを伝えることが出来ませんでした。出来ませんでしたね。そうですね。例えば、ですけども、私が喋れていたらどうだったのでしょうか。

「私、食べていませんよ。お祖母ちゃんの為に準備をしていたんです」

 そう、いえたらどうでしたか。

 これは、何事もなく解決しそうですね。解決するどころか、私、お祖母ちゃんからお礼をいわれたりするかもしれませんよ。ああ、良いですね。お礼なんていわれちゃうと、私舞い上がってしまいそうです。えーと、お礼をいわれたら何て返すんでしたか。えぇと、その、えー……えへへへへ、アレですよ、アレ。

「どういたしまして」

 なんていうんですよね。うふふふふ。考えるだけで恥ずかしいといいますか、面映いといいますか。

 ああ、良いですね。お祖母ちゃんの役にたって、お礼なんていわれてみたいですね。そうそう。私、富一さんからはよくお礼をいってもらえるんですよ。と、いうことは、です。私の頑張り次第ではもっと沢山の方からお礼をいって戴けるのではないですか。

 これはこれは。

 私、良い所に気が付きましたよ。

 ふふふふ。うふふふふ。いけます。これは、いけそうな予感がします。要は段階なのではないでしょうか。小さなことをコツコツ積み上げることで大きなことを成し遂げる。まさに、これです。私、ずっと頑張り続けていれば、お祖母ちゃんからお礼をいってもらえるのではないでしょうか。お祖母ちゃんからお礼をいってもらえる、ということは、私、ちゃんと役に立っているってことです。

 これは凄い。

 凄いです。私、役に立っているのですね。お祖母ちゃんからお礼をいってもらえるってことは、私、役に立ってしまっているのですね?

 ちょっと暗くなりかけた私の心が明るくなっていくのを感じます。そうです。もっともっと頑張って、私、お祖母ちゃんからお礼をいってもらえるように努力を続けましょう。

 私は窓から差す朝日を身体に浴びて、清々しい気持ちになりました。

 あれ?

 私の帽子が二つあります。おかしいですね。いえ、見てください。私の寝所、そこにお父さんの形見である鞄が置いてあるのです。そしてその上にはお母さんの形見である帽子を置いているのですが、その帽子が二つ、あります。

 あれ?

 いえいえ、そうではなくて、帽子だけではなくて、鞄も?

 あれ?

 おかしいです、ね。

 謎々です。不思議です。目の前もグルグルです。

 不思議なこともあるものだなぁ、なんて。

 私、眠いです。

 あれ?

 ゴトン。そんな音を聞いた後、私の意識はプッツリと途切れてしまったようなのですよ。


◇◇◇


 私が目を覚ましたのは、太陽の位置が正午を僅かに過ぎた後でした。

 夢は見ませんでした。ですから、目覚めた後に喉が渇いているということもありませんでした。

 ただ、強烈な空腹感がありました。

 超エンプティです。

 私は気だるい身体を引き摺るようにして寝返りを打ちます。初夏を過ぎ、もう真夏が間近に迫っています。身体はじんわりと汗ばんでいました。身体にかけたお布団、といいますか、これはタオルケットというんでしたっけ? とにかくそれが煩わしく思えてしまいます。

 おや。

 おやおや。

 ちょっと待ってください。私、何故こんなものを羽織ってますか。私は眠るとき、何も羽織ったりしません。冬であっても夏であっても、雨が降っても雪が降っても、何かを羽織るなんてことはありません。

 お布団はお客様のもの。これはお祖母ちゃんから厳しくいわれていることです。

 これはおかしいですね。

 ちょっとぼんやりする頭をもたげ、私はあたりを見回します。

 家の中は静かです。人の気配はありませんね。

 それはそうでしょう。この時間なら、皆さん畑でお仕事をされているはずです。

 そういえば、私は何故こんなところで寝てますか。

 ちょっと考えてみます。

 確か、朝早くに起きて、食堂で叱られて、神取さんから寝所へ戻るようにいわれて……?

 それからどうしましたか。

 私は深く考えてみますが、こんな羽織るものを持ってきた憶えはないようです。

 私はあたりを見渡してみます。

 うは!

 ちょ、ちょ、ちょっと、こ、ここここここお? こ、これ、これは?

 私は眼前にあるものを何度も確認します。

 や、やはり、これって。……わ、私、知ってます。知っていますとも。きっと間違いありません。これ、おむすびっていいます。おむすびっていうはずですよ。食べたことはありませんが、小さい頃絵本で見たことがあります。

 お父さんの形見の鞄の横、私が横になったときちょうど頭上にあたる場所に、おむすびが三つ、なんと、三つも置いてあります。あ、お皿の上に置いてあります。

 ははあ。見事なお米の塊りですね。大きいです。お米が何粒集合しているのでしょうか。きっと途方も無い数ですね。ああ、なんという輝きでしょうか。炊き出して時間が経っているのか、湯気が立ち上るようなことはありませんが、それでも十分に魅力的な色艶をしています。

 それはそうと、これは誰のものですか。そんな疑問が浮かびます。私の寝所、それも私の鞄の上に置いてあるのですから、これは私のモノってことで良いのでしょうか。……私の、モノ。……はっ! だ、駄目ですよ。だ、駄目です。私は鞄の上に鎮座する三つの山を見ます。……美味しいそう。私は今にもおむすびを掴み取りそうになるのを必死に堪えます。あううう! わ、私、こんなこと、耐えれそうにありません。私の空腹感は大変なものです。私のお腹が食べ物を入れてくれとグゥグゥ抗議しています。ほれ、目の前にあるじゃないかと。そら、手を伸ばせば届くじゃないかと。お腹から聞こえる音は、まるでシュプレヒコールのように要求の声を重ねます。もうその勢いたるや星火燎原とか燎原烈火とかうんぬんうんぬん! もういいですッ! これ以上我慢なんて出来ませんッ! 限界です! 

 いただきますッ!

 私は両手でおむすびを掴みます。指先にお米の感触。触感で食感が容易に想像出来ます。震える手を引き寄せ、口を大きく開けて、それから、それから、それから、それから……。

 それから……です……ね。

 私は、そっと、おむすびをお皿の上に戻します。

 私は大きく息を吐きました。……駄目ですよ。駄目です。

 よく、考えてください。私、どうしようと思いましたか。私、お祖母ちゃんにお礼をいってもらえるようになりたいって考えたはずです。こんなことをやって、お祖母ちゃんはお礼をいってくれますか。違います。そんなはずありません。逆に、何故食べてしまったのかと怒られてしまいますよ。

 うふふふ。私、偉いです。偉いじゃないですか。ちゃんと、思い出せました。

 はぁ。

 本当に、よかったです。食べてしまわずに、本当によかったです。ちょと意味合いは違いますが、報本反始って感じです。気持ち的な意味で。

 私は羽織っていたタオルケットを脇に除け、と、これではいけません。ちゃんと畳んで置き、もう一度おむすびを見ます。

 これは、見れば見るほど見事なお米の塊ですね。美味しそうです。諦めが付いたとはいえ、私のお腹がぐぅと音を鳴らし、口の中に唾がたっくさん出てしまうくらいに、美味しそうです。

 さて、それはそうと何故ここにおむすびが置いてありますか。不思議です。それと、不思議といえばタオルケットもそうです。どうしましたかね。

 ん?

 これは?

 私の帽子の横に紙が置いてありました。私はその紙を取り、広げてみます。

 紙はB5サイズのルーズリーフです。そこには「蓮さんへ。おむすびを食べて元気を出してください。今日のお仕事はお休みして、ゆっくり身体を休ませてください。神取」と書いてありました。

 これは、神取さん? 神取さんが書かれたものですね。私へ、神取さんが書かれたものです。

 ふむ。

 はぁ。

 と、いうことは?

 おお。

 おおおお。

 おおおおおおおお!

 こ、このおむすびは私が食べて良いのですね?

 私はもう一度紙に書かれた文字を読みます。

 うん! 大丈夫です! 食べて良いみたいですよッ!

 では! いただきましょう!

 私は再度おむすびに両手を伸ばし、口いっぱいに頬張りました。

 これは美味しい!

 こんな大量のお米を戴いたのはいつ以来でしょうか! すごいです! 食べても食べてもなくなりません! いえ、凄い勢いで無くなっていきます!

 三つのおむすびを平らげてしまうのに、五分もかからなかったと思います。私は掌や指に付いたお米の粒を一つ一つ啄ばみながら、とても幸せな気持ちで満たされていました。やはり、お米はとても美味しいと再確認しました。

 お腹が満たされると、胡乱だ私の思考も明瞭になります。ですから色々なことに気が付きますよ。おにぎりは神取さんが用意して下さったようです。となると、タオルケットも神取さんがかけて下さったのでしょうね。これは、ちゃんとお礼を伝えないといけません。いけませんね。

 そういえば!

 そう、お礼です。お礼ですよ。私、シキさん達に会いに行かなければいけません。お会いして、ごめんなさいとありがとうを伝えなければいけませんでした。

 私は鞄の上に置いた帽子へ視線を滑らせます。

 帽子は窓の隙間から入る風を受けて、その可愛らしいツバを微かに揺らしていました。

 うふふふ。可愛い。

 そんな可愛い帽子ですけど、昨日は大変なことになっていたのですよね。そして、シキさんや、ネコさん、他の皆さんも大変な目に遭ってしまわれたのでした。

 私は心がゾクリとするのを感じました。これは、心が震えていますか。……そう、ですね。やはり恐いです。私の所為で、皆さんを危険な目に遭わせてしまったのだとすると、やはり恐いです。それは、単純な恐さではありません。なんといいますか、認めたく、ないのですよね。私が原因で、皆さんへ迷惑をかけてしまったことを、私は認めたくないのでしょう。そうしてしまうと、私は本当に要らない人になってしまいますから。

 私はそれが一番恐いです。

 私は、要らない人になるのが一番恐いです。

 でも、それではいけません。このままではいけないのです。

 私は失敗に失敗を重ね、ひょっとしたら取り返しの付かないことになってしまっているのかもしれません。でも、このままではいけません。いけないのですよ。私は私の失敗をちゃんと受け入れなければいけません。そうしようと決めたのです。

 私は小さなことをコツコツと積み重ねると決めたのですよ。私、失敗と努力の積み重ねは、きっと同じレール上にあるのでは無いと思うのです。努力のプラスを失敗のマイナスが打ち消すことはないのだと思うのです。それぞれは独立していて、より大きな方が目立ってしまうのではないでしょうか。

 そう、思うのです。思うのですよ。

 ちょっと、強引でしょうか。

 でも、それでもいいんです。私の心が挫けないなら、それでいいんです。例え、他の皆さんが呆れるような理屈でもいいんです。私の心が前を向いて、努力を続けようと歩けるのなら、どんな理屈も理由も大歓迎です。

 私は皆さんの役にたち、必要とされたいんです。

 そのためにも、今やらなければいけないことをコツコツと積み重ねましょう。

 本当なら、今は畑へ行かなければいけない時間です。でも、神取さんからお休みを戴きました。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんはどういうでしょうか。やはり怒りますか。でもでも、私ちょっとした考えがあります。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんは、神取さんがおっしゃることには反対しません。それはもちろん神取さんが素晴らしい方だからという理由に他なりませんが。でも、これはこれで事実だと思うのですよ。ですから、今日の畑仕事はお休みです。また、明日から頑張りましょう。

 私はこの空いた時間を別のことにあてます。あてるのですよ。

 私、今からシキさん達を訪ねてみようと思います。今朝はちょっと時間が早かったこともあり失敗してしまいましたが、今なら大丈夫ではないでしょうか。

 私は窓から空を見上げます。うん、今ならきっと大丈夫。

 まずはシキさん達にごめんなさいとありがとうを伝えます。そのあとで、おむすびとタオルケット、それからこのお休みの時間をくれた神取さんにお礼を伝えましょう。

 では、その運びで。

 私は鞄の上の帽子を冠ります。ワンピースにはちょっとシワがよってますけど、こうやって掌で伸ばせば大丈夫。行けます。

 あ、ちょっと待ってください。私としたことが、これではいけません。

 私はおむすびが置いてあった皿を持ち上げ、端っこの方に付いたお米の粒を集め、口に放りました。

 ああ、美味しいです。それにお塩の粒も美味しいです。

 私は綺麗になったお皿を鞄の中に仕舞いました。鞄にはちゃんと鍵を掛けておきますよ。何といってもこのお皿は大事です。実は、まだちょっとだけお塩の粒が残っています。これ、あとで食べましょう。

 さぁ、出発しますよ。

 私は誰も居ない家の中を歩きます。普段は足音にも気を使いますが、今は誰も居ません。たとえばこうやって大きな音を鳴らして歩いても大丈夫。うふふふ、大丈夫です。

 ちょっと、スキップなんてしてみましょうか。

 スキップ、久しぶりです。

 私はギッシギッシと音を立てながら、軽快に廊下を駆け抜けました。

 踊るように玄関を出て、流れるような動作でビニール袋から靴を出し、滑るように足を動かして靴を履きます。

 うふふふ。楽しい。

「あー! ハスちゃん!」

 私は玄関を出たところで私を呼ぶ声に顔を上げました。

 あ、ネコさんです。

「ハスちゃんの家、ココだったんだねー」

 私はそうですよー、と頷きました。

「あのね、ハスちゃん今朝訪ねて来てくれたんだよね? 富一さんから聞いたのー」

 ネコさんはこちらへ駆け寄りながらいいました。

 実はその通りです。私、朝一度伺っています。でも、その時はちょっと時間が早くて、出直すことにしたんですよ。

「あー……。ハスちゃん怒ってる? やっぱり、夕べのこと、怒ってるよね?」

 どうしてでしょうか。私は首を傾げます。

「あのね、その、シキ君の言葉なんだけど」

 あ。

「あ、あのね! あの後、シキ君凄く後悔してたの! だからね、許してもらえないかもだけど、シキ君が、そういう気持ちでいるってことは知っててもらえたら、なーって。……ごめんね、嫌な思いさせて」

 いいえ、私の方こそ何も伝えずに走り去ってしまいました。私のその行動が一番いけないことです。それなのに。シキさん、後悔してますか。……そうですか。

 私、何故あのとき逃げてしまいましたか。今は私もそのことを深く後悔してます。だから、私はシキさんに「ごとう」と伝えに行こうとしていたのです。あ、ネコさんにもちゃんと伝えなければいけませんね。

「その、ハスちゃん?」

 なんでしょうか。

 ネコさんは大きく息を吸います。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ間を置いてネコさんはいいました。

「私、ハスちゃんと友達になりたいなー、なんて。……えへへ、駄目かナー」

 はぁ。

 え?

 ええ?

 私とお友達に、ですか?

 私と、お友達になってくれますか?

 で、でも、まだちゃんとごめんなさいを伝えていませんし、その、ですね。

「……どうかナー」

 ネコさんは首を傾げ、私を見ます。

 わ、私がネコさんと、お友達。お友達になれますか。

 私、ネコさんのこと、凄く好きです。いい匂いがします。すごく大人っぽいです。そして、とても優しい人です。私、ネコさんと会って間もないですけれども、それでもネコさんのこと凄く好きです。

 私、私こそお友達になって欲しいです。

「うー……ん。ハスちゃん、やっぱり、駄目?」

 いいえ、滅相もありません! 私は大きく首を振りました。

「え? いいのー? 私、ハスちゃんと友達?」

 もちろんです! 私の方からお願いしちゃいます! 私はそんな気持ちをたくさん込めて頷きました。

「やったーッ! ありがとー!」

 ネコさんはそういうと、私の身体をギュウギュウと抱きしめました。ちょっと、痛かったのですが、それよりも、とても恥ずかしいやら面映いやらくすぐったいやら、なんといいますか、そんな気持ちになってしまいました。でも、それらの気持ちは嫌なものではなくて、うん、とても好きな気持ちでした。

 ううー。それはそうと、どうしましょうか。私「ごとう」を伝えたいですけど、うーん。

 そう、ですね。

 うん。

 ネコさんには後ほど、ということにしますか。うん、そうしましょう。

「そうだ! お散歩しましょー!」

 随分と長い時間私を抱きしめたあと、ネコさんがそういいました。

「ハスちゃん今から大丈夫?」

 私は頷きを返します。

「やった! どこに行こうかー。あ、ハスちゃんがオススメの場所に連れて行って欲しいナー」

 ネコさんは、どうかナー、と私の顔を覗き見ました。クリクリとした髪の毛が、風にふわふわ揺れていて、それがとても印象的でした。

 お散歩、ですか。どちらへご案内しましょうか。

 オススメの場所、ですか。

 うーん。

 あ、そうです。あそこに行ってみましょうか。おそらく、まだその場所には行かれていないと思います。

 私はネコさんを先導するように、歩き出しました。

「あ、ちょっと待って」

 ネコさんはそういって、私の隣に並びます。

「手を繋ごうよー」

 そういって私の手を握ってきました。

 ネコさんの指は、すらっとして、それでいて柔らかかったです。

「じゃあ、しゅっぱつー」

 私はネコさんと手を繋ぎ歩き出しました。

 私たちは手を繋いだまま、私の家の裏手まで回りました。裏手まで回ると、山の斜面に沿って伸びる小さな道があります。私達は膝下ほどまで伸びた草を掻き分け、その小道に入りました。

 ところで、私はネコさんを幽明堂へご案内しようと思います。

 幽明堂は、畳でいうと六枚ほどの広さのちいさなお堂です。私が生まれるずっと昔からある建物なのだそうで、とても古いです。学生の頃、さっちんとよく行っていました。

「何処かなー何処かなー何っ処っなのっかナー」

 ネコさんは言葉に調子をつけて楽しそうに歌ってます。

「遠い?」

 いいえ、それほど距離はありませんよ。私は首を振ります。

「そっかー。綺麗なところ?」

 そうですね。何といいますか、綺麗ではあります。私は一度首を傾げたあと、曖昧に頷いてみせます。

「おー。他にも特徴があるんだね?」

 そのとおりです。私は頷きます。

「そっか。あ、手話の方がいいかナ?」

 滅相もない! 私、手話なんて判りませんよ! 私は首を横に振ります。

「あー、ごめんね。気を使わせちゃって。今度来るときまでに、もっと出来るようになっているからねー」

 ヤバ。

 マジでヤバいです。

「そうそう、私ね、この村の写真を撮ってるんだよ」

 そういって、ネコさんは肩からタスキ掛けしたカメラを見せてくれました。とても大きなカメラです。すごく立派な感じがします。

「今から行くところ、撮ってもいいかな?」

 それは大丈夫だと思います。私は頷きました。

「そっかそっか。おー、そうだ、うりゃー」

 パシャ、という音がしました。

「えへへー撮っちゃったー」

 は? いま、写真を撮りましたか? 写真ってカメラを覗きながら撮りませんか? 先ほどネコさんはカメラをこちらへ向けただけでした。ううむ。私は学生のときの集合写真を思い出します。うん、確かにカメラを覗いていた筈ですよ。

「ん? ちゃんと撮れたか心配?」

 あ、いえ。まあ心配といいますか、それでよかったのでしょうか、と思っているのですよ。私はとりあえず頷きを返します。

「大丈夫だよー。ほら、みてみて」

 ネコさんはカメラについている画面を見せてくれました。ははぁ、撮った写真を確認出来るんですねぇ。

 うーん。何といいますか、よく撮れてます。被写体が私なので、そういう表現もどうかと思うのですが、ピンボケというんですか? それも無く、まぁ、よく撮れているんですよ。

「まー、これくらいならね。本体もレンズも良いヤツだからねー。結構アバウトでも大丈夫なの」

 はあ。そういうものなんでしょうか。

「私、じっくりフレーミングするのは植物だけなの。それ以外は結構ざっくりやっちゃうからね」

 ははあ。私はよく判らないながらも、ネコさんの言葉に首肯を返します。

「早瀬村付近の自然は感動しちゃうよねー。適度に人の手が入っていて、生活に即した風景が切り取れるのね。こう、収まりがいいっていうのかナ。植物の絵が欲しいといっても、未開の秘境が撮りたいワケじゃないからね。伝わるかナー?」

 なるほどです。私、さっぱり判らないです。判らないことが判りました。

「でもね、やっぱりハスちゃんとこうやって歩けるのが一番嬉しいかも。楽しいよね! んー楽しいね! えーと、楽しいんだけど、まだ登るのかナー?」

 私達は今坂道を登っています。坂道とはいっても、簡易的に舗装されただけの道で、気を抜くと足を取られてしまいそうになります。道幅は人がすれ違うのがやっと、といった感じでしょうか。私の家から裏手に入ればすぐにこの坂道の入り口なのですが、目的地である幽明堂までは少し距離があるのです。私はネコさんへ軽く頷きを返しました。

「そっかー。でも、村のこっちはまだ散策してなかったなー。えーっと、こっちは蟻尾山の一部になるの?」

 蟻尾山は早瀬村をぐるりと囲むように尾根を巡らせています。ですから、村から見える山は全て蟻尾山なんですよ。私は頷きを返します。

「大きな山だねー」

 大きいですよね。私、何年も駈け周りましたから、その大きさは身に染みてます。私は帽子のツバを見ながら、ちょっとだけ昔のことを思い出しました。

 私、何年もお二人、お父さんとお母さんを捜していたのでしたね。

「あ! 何か見えてきたよ?」

 ネコさんが正面を仰ぎ見るように指差します。

 おお。着きましたか。あれに見えるが幽明堂ですよ。私も来るのは久しぶりですね。最後に来たのは、高校の卒業式の日でしたか。

 あの日はよく憶えています。さっちんとお別れした日でしたね。さっちんは村を出て、都会に行くのだといってましたね。

 さっちん。元気でしょうか。

「あと、ちょっとだね! がんばるぞー」

 ネコさんは手を繋いでいない方の手を、空高く上げました。私も同じように空いた手を上げました。

 幽明堂。

 古い、とても古い御堂です。いつから此処にあるのか誰も判りません。誰がその名前を付けたのかも判りません。そもそも、この御堂は何をするために建立されたのかも判らないのです。

 そんなことを考えているうちに、私たちは幽明堂に辿り着きました。

「これは……」

 隣りでネコさんが息を呑みます。

 そうですね。そのような反応をされるのも判ります。私も久しぶりに来て思いましたが、やはりここはちょっと不思議な場所ですね。

「ハスちゃん、ここ、名前教えて」

 私はネコさんから携帯電話を受け取りました。覚束ない手つきではありますが、ちゃんと入力できましたよ。

「ゆうめいどう?……ゆうめいって、有る明かり……ううん、違うかナ。ここは……此岸と彼岸の境の幽明?」

 そうですね。そのような意味がありましたね。私は頷きを返します。

「……そっか。うん、そうだね。ね、ちょっと見て周ってもいいかな?」

 私は頷きます。ネコさんは御堂の周りをぐるぐると歩き、何枚か写真を撮っていました。そのお顔は真剣そのもので、言葉をかけるのも躊躇われてしまう程です。かけれませんけどね。

 私はネコさんの様子をずっと見てました。暫くするとネコさんは私の前へ戻ってきて、お礼をいってくれました。

「ありがとう、ハスちゃん。私、こんな写真撮れたの初めてかもー。連れてきてくれて、本当にありがとう」

 聞きましたか。私、お礼を戴きましたよ。すごく嬉しいです。私もネコさんをお連れして、本当に良かったです。

「ちょっと休憩しようか。登りっ放しで結構疲れたかもー」

 私はネコさんの言葉に頷きます。私たちは御堂の端っこに並んで座りました。

 幽明堂は、簡単に表現すると神社のような造りです。高床式で、四辺の内、一辺は壁がありません。扉は無く、そこから屋内へ出入りします。そして、御堂をぐるりと囲むように、これは、廊下、でいいのでしょうかね。なんでしょうか。まあ、屋根より向こうへ出っ張った、吹きさらしの廊下があるのですよ。私達が座っているのは、その廊下の端っこです。

「なんか、造りは神社っぽいんだけどー……うーん。でも仏教関係の御堂でもなさそうだしー……うーん」

 隣りでネコさんが頭を捻っていました。

「不思議だねー」

 ネコさんは目を細くして笑います。その様子は真剣に悩んでいるというよりは、不思議を発見して嬉しいといった感じです。とても楽しそうな笑顔だったので、つられて私も笑顔になりました。

 そういえば、さっちんともこうやってお話をしたものです。

 学生のとき私はさっちんから頼まれて、ここでさっちんの提出物を手伝ったりしていましたね。さっちんは色々と忙しいそうで、学校の課題や提出物まで手が回らないとのことでした。さっちんは夜遅くまで起きていることが多くて、私がお手伝いをしている横で寝ていることが殆どでした。

 卒業式の日、私とさっちんはここでお別れをしました。

 何て、いってましたかね。

 ええと。

 そうそう。「ハスのお陰で随分と楽が出来た。ハスと仲良くしてるとナイシンがどんどん良くなるんだよ。すごく役に立ったよ。これからは会う事もないだろうけど、適当に幸せになってね」でしたか。

 私、さっちんの役に立てていたみたいです。私、さっちんにそういってもらえて本当に嬉しかったです。それだけじゃなくて、さっちんは私に幸せになってともいってくれています。私、それだけでご飯を三日食べなくても大丈夫でした。こう、満たされてしまってお腹がいっぱいだったんですよ。

 さっちん。さっちんは今どうしているのでしょうね。出来ればまた会いたいですね。

 パシャ。

 隣りで音がしました。私は驚いてそちらを向きます。ネコさんがカメラを私に向けていました。今度はカメラを覗いています。

 どうしましたか、ネコさん。

「ね、ハスちゃん。ちょっと写真撮らせてくれない?」

 はぁ。よく判りませんが、お役に立てるのなら。私は頷きました。

「ありがとー」

 それから暫く、ネコさんの出す指示に従い、御堂の周りで写真を撮って戴きました。

「……うん。……うん」

 ネコさんは撮り終わった写真を念入りに確認して、何度も頷いていました。私はネコさんが何に満足しているのか判りませんでしたが、それでも最後にネコさんからお礼をいわれ、とても心の中が満たされました。

「ねーハスちゃん」

 再び御堂の端っこに並んで座っていると、ネコさんに名前を呼ばれました。

「ハスちゃんは、ずっとこの村にいるの?」

 はぁ。とりあえず私は頷きを返します。と、いいますのもネコさんの質問の真意がよく判らないのです。

「……うーん。そうかぁ。外に出れば、ハスちゃんにしか出来ないお仕事もありそうだけど……。ん、でも……うん。今の私が全てを保証することも、守ってあげることも出来ないからね。学生の身分じゃ、どうしようも出来ないなぁ」

 ネコさんは残念そうにいいました。

「あ、でもね、今後ハスちゃんが村の外に出ることがあるのなら、その時は私も近くに居たいな。いいよね?」

 それはそうですよ。何といっても私たちはお友達じゃないですか。

「友達だもんね」

 うふふふ。その通りです。

「そうそう。そういえばだけど」

 ネコさんは一度言葉を区切ります。

「早瀬村に行こうと言い出したのは、シキ君なんだよね」

 はあ。

「私ね、シキ君に聞くまで早瀬村のことなんて知らなかったんだよ。それはキツネ君もクマちゃんも一緒でね。シキ君は熱心にこの村のことを話すの。で、休みを利用して行ってみようかってことになったのよー」

 なるほどです。皆さんは学生さんですよね。今は夏休みということですか。

「私達ね、同じ大学で同じサークルなの。サークルというか、やってるのは地学なんだけどね」

 サークル? ちがく?

「うーん、地学もちょっと違うかなぁ。私は写真が主だしね。因みにキツネ君は位置天文学、クマちゃんは鉱物学、シキ君は民間伝承や土着の諸々って感じかな。まー、学問の垣根はあるけれども、とりあえず気の合う人間が集まったのかなー」

 はあ。

「それぞれ興味の対象が違うから、目的地ではみんな別行動が多いんだよ。昨晩はキツネ君主導で皆で星を見たりしたけどねー」

 ああ、なるほどです。富一さんがそのようにおっしゃってましたね。皆さん星を見ていたって。

「そうだ! 今晩も観測会をやるけど、ハスちゃんもおいでよー」

 なんと! 私も誘って戴けるのですか? お邪魔でないなら、是非お供させてください! 私は万感の思いを込めて頷きました。

「やったー! けってーい」

 私とネコさんは、手をパチンと合わせました。

「そうそう。話を戻すけどねー。シキ君は、どうして早瀬村を知っていたのかなぁ。早瀬村の千枚田は有名らしいけど、シキ君がそれを見たいって風でもなかったんだよねー。実際村に着いた後も、ただふらふらと村の中を周っているだけだったし。どんな理由があって早瀬村へ行こうと思ったんだろうねー」

 うーむ。何故でしょうか。あ、そういえば、ネコさんが私にシキさんと知り合いかどうかと訊ねたのも、そういう理由があったからだったのでしょうか。

「シキ君が言っていたんだけど、早瀬村の千枚田って世界遺産へ申請されているんですってねー」

 はあ。

 ええ?

「知らなかった?」

 知りませんでした。うん? ああ、いえ、どうでしたか。以前、そういう単語は耳にしたことがあったような、なかったような。私は曖昧に頷きます。

「そっか。まぁ、住んでいる人からしたら、当たり前の風景だからねー。それを世界遺産って言ってもピンと来ないよねー」

 そもそも世界遺産って言葉自体ピンと来ませんよ。

「それはそうとしてもね。私、自分の足で歩いてみて思ったことは、この土地は本当に美しいということだナー。目に見えるものはもちろん、人々が丁寧に毎日を織り込んでいくって言えばいいのかな。伝わる?」

 見た目は千紫万紅、日々は常住坐臥、そういったことでしょうか。私は頷きます。

「んー。ハスちゃんってさ、すごく難しいこと考えてそうだね。とても思慮深いっていうか、そんな表情するよね」

 おやおや。これはアレですね。

 私ってば知的でクール系ですから。

 うふふふ。

「ハスちゃんはとても美人さんだよね」

 それはありません。

「だから、特に気をつけた方がいいよ?」

 はぁ。何をでしょうか。

「美人が押し黙った表情つくってると、とても威圧感があるからね」

 威圧感、ですか? これはまた、私とは無縁な言葉ではありませんか。

「本人はあまり気にならなくてもね。特にメンズは気にするから」

 はぁ。

「まーハスちゃんは顔立ちが幼いから、深刻な被害が出てるわけじゃないけどね……って、そう言えば!」

 はい?

「ハスちゃんってさ、本当に十九? 来年二十歳?」

 おやおや。

 これはこれは。

 私の記憶違いでなければ十九の次は二十で間違いない筈ですが?

 私は頷きを返します。

「うはー。やっぱり本当だったんだねー。私、失礼な事言っちゃったよね?」

 中学生っていわれました。私は頷きを返します。

「えへへへー。ごめんね」

 ネコさんは目の前で手を合わせます。

 うー。

 そんな、そこまでしていただかなくても結構ですよ。私は誤解が解ければそれで結構です。私はネコさんの両手に自分の手を添え、首を横に振ります。

「許してくれる?」

 私はちょっと困ったような、そんな表情で笑顔を返します。

「あ! それ卑怯なくらい可愛い!」

 は、はぁ。

「あー、女の私でもちょっとドキッてしたよー」

 私はネコさんと一緒にいるとドキドキしぱなっしです。

「ねぇねぇ、ハスちゃん! 今度一緒にお買い物に行こうよ! デートしよう! 私、色々案内してあげる。街とか興味ない?」

 街、ですか。そうですね、興味が無いといえば嘘になりますか。さっちんも村より街の方が良いといっていましたしね。でも、私には仕事があります。私はお祖母ちゃんやお祖父ちゃん、そして早瀬村の方々の役に立ちたいという気持ちもあるのです。小さなことでも、コツコツと積み重ねたいのです。皆さんが働いているのに、私だけが遊んでしまうというのも申し訳がたちませんからね。

 もちろん、今、こうしている最中だってそう思っているのですよ。

 私はネコさんの両手に自分の手を添えたまま、静かに頭を振りました。

「……うーん」

 ネコさんが悲しそうな表情をしました。私はとても申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

「ん! ごめんね! ちょっと無茶を言ったね!」

 ネコさんはパッと表情を明るくして続けます。

「でもねー、私って我侭だからいつかはハスちゃんを村から連れ出しちゃうよー。その時は、覚悟してね?」

 とても、いたずらっぽい表情です。大人なネコさんにはアンバランスな、とても子供っぽい表情でした。私はそれが可笑しくて、つい噴出してしまいました。

「えへへへー」

 ネコさんも笑いました。

 私達は暫くの間笑い続けました。

 ああ。

 なんといいますか。

 うん。

 もどかしいですね。

 出来ることなら。

 出来ることなら私もネコさんのように声を出して笑いたいです。

 そう、思いました。

 心から、思いました。

 だから、ネコさんの一言に驚いてしまったのです。

「ハスちゃん、とっても良い笑顔だね。私も釣られちゃうよ」

 ネコさん、そういいました。

 それ、本当ですか?

 私、ちゃんと笑えていますか。

 ちゃんと、伝わっていますか。

 私の気持ち、ちゃんと伝わってますか。

 私、心から嬉しいんです。だから、心から笑っています。

 ちゃんと、ちゃんと、私の気持ちが伝わっていますか。

「んー? んふふふふ。あらあら。んふふふふ」

 ネコさんは私をぎゅっと抱きしめてきました。

「心、震えたかなー。いいよー、そのまま泣いちゃえー」

 は。

 はははは。

 いやだなぁ。何をいってますか。

 私、笑ってますよ。

 私、泣いてなんかいません。

 ネコさんが手櫛で私の髪を梳きます。

「……血、出たんだね」

 そういうこともありました。

「……お祖母ちゃんから、叩かれたんだね」

 何故そんなことを知ってますか。

「……久しぶりに笑った?」

 何でもお見通しですか?

「……ごめんね」

 ネコさんはそういって、私を抱きしめたまま、何度も何度も私の髪を、頭を撫で続けます。

 次第に、私の呼吸は乱れていきます。

 どうしましたか。

 何故、こんなに苦しいですか。

 は、は、は、は、は。

 息が、心が、苦しいです。くるしいですよ。

「私はハスちゃんの友達。だから遠慮しちゃ駄目だよ。怒ったときはそう態度に表していいし、悔しいときだって同じだよ。それから……苦しいときも、ね?」

 うぅ。うぅぅぅぅぅ。

 心が、唸り声を上げます。食いしばった歯が、ガチガチと音を立てます。駄目です。駄目ですよ。静かにしてください。これじゃ、これじゃ伝わってしまいます。伝わってしまうじゃないですか。

「ハスちゃん」

 ネコさんは静かに続けます。私の頭を優しく撫で続けながら。

「……独りで、よく頑張ったね」

 あ。

 私は、多分、驚きとも、絶望ともいえない表情で顔を上げました。

「!」

 声にならない声が出ました。

「……ごめんね。ごめんね。ごめんね」

 ネコさんが、泣いていました。綺麗なお顔をくしゃくしゃにして、大きな目からは大粒の涙をこぼしていました。

 あ……。あああああ。

 わ、わたし、私は。

 ひく、と身体が震えました。それが合図だったかのように、私の目からは涙が落ちました。

 涙は止め処なく出てきます。声の出ない口からは、何度も何度も空気が漏れます。お腹の上らへんが、小さく痙攣をします。とても苦しいです。息苦しいのとは違います。痛いです。胸が、心が痛いです。こんな、こんなに痛いなんて、私どうしましたか。

 涙は止まりません。私もネコさんも、涙が止まりません。ネコさんの涙を見ると、私の涙はより一層勢いを増し流れ落ちます。それが呼び水になったかのようにネコさんの瞳から大粒の涙が落ちます。

 私達は泣き続けます。ネコさんは声を押し殺して。私は声を上げようともがきながら。

 どれくらい、そうしていたでしょうか。体感としては随分と長く感じましたが、実際にはそれほどではなかったかもしれません。とにかく、私達はお互いの涙が枯れるまで泣きました。

 暫くして、ネコさんが小さいくいいました。

「……富一さんからね、聞いたの」

 とても弱々しく、消え入りそうな声でした。震えるネコさんの声を聞くだけで、止まりかけた涙があふれ出そうになります。

「富一さんがね、話してくれたの」

 ネコさんは続けます。

「今日の朝、ハスちゃんが来たって。私、私たち、ハスちゃんと友達になりたいって言ったの。そしたら、富一さんが教えてくれたの。ハスちゃんのこと。ハスちゃんのご両親のこと。そして、そして……お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんとの暮らしのこと」

 はぁ、とネコさんが息を吐きます。

「……ハスちゃん。ハスちゃんの、その暮らしは、ハスちゃんの日常は、それは、それは……私、虐待だと思う」

 ネコさんの目じりから一筋涙が落ちました。

「ごめんね。私見でモノを言うのは、間違っているとは思うんだけど。それでも、ハスちゃんの怪我や傷を見ちゃうとね」

 ネコさんは大きく溜息をつきます。

「……ハスちゃん。村を出るつもりは無いよね? さっきは良い案を出せなかったけど、私、いっぱい頑張るから、ハスちゃんの居場所、ちゃんと確保してあげるから、村を出よ? このままじゃ、いけないよ」

 ネコさん。

「伝わってるかな?」

 私は大きく、そして深く頷きます。

「じゃあ、私たちと一緒に村を出よ?」

 ネコさん。

 私は。

 私は。

 うん。

 私はまだ、やるべきことがあるのですよ。

 私は静かに首を振りました。

「んー。んんんー。や、やっぱり、駄目かー」

 ネコさんは何かに耐えるように声を震わせました。

「富一さんが言ってたよー。ハスちゃんはとても聡明だって。すごく沢山考えているって。状況も理解してるし、私の言ってることもちゃんと伝わってるんだよね。……そのうえでの答えだもんね」

 私は頷きを返しました。

「……うん。判った」

 ネコさんはきゅっと目を瞑り、何かを吹っ切るように頭を振ります。そして笑顔でいいます。

「じゃ、現状で出来る最良の方法を探しましょー」

 私は、何といえば、いえ、伝えればいいのでしょうか。

「私に任せてちょうだいよー」

 眩しいくらいの笑顔でネコさんがいいます。

 私は、この気持ちをどう伝えればいいですか。私、こんなにも満たされたのは初めてです。ネコさんへ、どう伝えればいいですか。

「んー? どうしたの?」

 私はネコさんの顔を、瞳を見つめます。どうか、この気持ちが少しでも伝わりますように、そう願いを込めて。

「あははー。お礼はまだ早いからね?」

 え?

「もっともっとハスちゃんが幸せな気持ちで満たされたとき、まとめて伝えてちょーだい。まー、そもそも友達のために何かするのは当たり前だし、お礼を伝えられるようなことでも無いんだけどねー」

 ネコさん。私の気持ちは、ちゃんと伝わっているのですか? いるのですね?

「友達なら当然よー」

 ネコさんはにっこり笑いました。

 私はまた泣いてしまいました。先ほどの涙とは違います。我慢をする必要も無いです。自然にすぅっと流れる涙です。

 ネコさんは笑顔のまま私の髪を何度も何度も梳いてくれました。

 私は涙を流したまま、笑顔です。不思議ですね。

「私、ハスちゃんのことたくさん知りたいなー」

 私もネコさんのこと、いっぱい知りたいです。

「よし、決めた!」

 ネコさんはコブシをぐっと握り締めます。

「私、本気で手話を覚える!」

 それは困ります!

「ん? そんな驚いた表情しないでよー。私、本気だよ。もっと、もっともっとハスちゃんと仲良くなりたいんだよ。ハスちゃんが、気兼ねなく手話を使って表現できるように、私頑張るから!」

 頑張らないでください!

「えへへー。毎週は無理だけど、毎月一度くらいなら遊びに来れるからねー。楽しみだね。二ヶ月もすれば、きっと大丈夫だと思うよー。それくらいあれば、ハスちゃんの手話もちゃんと理解できると思うからー」

 許してください!

「よーし! やる気が出てきたぞー! ほらほら、ハスちゃんも立って立って!」

 ネコさんは私を強引に立たせます。

「頑張るぞーッ! おーッ! あ、ほら、ハスちゃんも一緒に! 動きだけでいいから」

 そういって、私にもコブシを上げるようにいいました。

「うおー! 頑張るぞー! ほら、おーッ!」

 お、おー!

「おー! 頑張るぞー! いえーッ!」

 い、いえー?

「どんどん行くぞーッ! おーッ!」

 お、おおー!

「おー!」

 ふわあああ、おー!

「ほらほら気合入れてー! にゃーん!」

 にゃー! ……にゃーん?

 私はネコさんの顔を見ます。

「うん。気合入り過ぎた。今のナシね」

 ネコさんは真面目な顔でいいました。

 な、なるほど。今、少しネコさんのことを知ったような気がします。

「むー? あれ?」

 ネコさんが眉間にシワをよせています。視線はどこか遠くを見ているようでした。

「……あれは? ……うん? ね、ハスちゃん、あそこ、見える?」

 ネコさんが指差す先は木々が覆い茂った場所です。

「あー、その木じゃないよー。その向こう。枝の隙間から見える村の横、川になってるよね。たぶん、あそこにある橋って夕べハスちゃんと出会った橋だと思う。でねー、その近くに建物あるんだけど」

 私はネコさんがいうように、木々の向こう側、一本松の近くを見ます。

 水引場ですね。昨日、私がお祖父ちゃんを捜しに行った場所です。

 おや?

「誰か、いるよねー。でね、そのうちの一人はクマちゃんだと思うんだナー」

 この場所から見る水引場は随分遠いのですが、そこに数人の方が居るのは判ります。そして、そのうちの一人がクマさんだということも判りました。

 りっぱな「●」です。

「何してるんだろー。あ、そうだ!」

 ネコさんはそういうと、腰から下げたバッグ? あ、えーと、うーん……メディスンバッグ、ですっけ? それを開け、中から……望遠鏡? を取り出しました。

「じゃーん。持ってきてよかったよー。三百ミリレンズー」

 ネコさんは首に掛けたカメラからレンズを外し、その望遠鏡のようなものに交換しました。

 ははぁ。カメラって望遠鏡も取り付けることが出来るんですね。初めて知りました。

 ネコさんはカメラを構えます。おお! 胴体がさらに伸びますか!

「うーん。木が邪魔でピント合いにくいなぁ。マニュアルでいいかナ。うーん。えーっと…………うん、きた! きたよー!」

 な、何が来ましたか?

「あ、やっぱりクマちゃんだね。隣りにはキツネ君も居るみたい。あ、でも他の人は誰だろー」

 他の方、ですか。お友達でしょうか。

「うーん。村の人じゃないなぁ。それと、若い、感じがする」

 はあ。

「ねねねね、ハスちゃんと歳が近い人って村にいる?」

 早瀬村には私より若い方は居ません。唯一同い年だったさっちんは都会に出ていますし、一番年が近い方とは一回り以上離れています。私は首を振りました。

「そっかー。んー、でも、若い人達だよー。あ!」

 おお、そういえば!

「ハスちゃん、今、村にいるよね! 若い人たち」

 そうですよ! 神取さん達がいらっしゃいますね! ちょうど、ネコさんたちとあまり変わらないくらいのお歳ではないんでしょうか。私は頷きました。

「うん。そうそう。やっぱりそうだよ! んー、でも、そうだとするといったい何をしているんだろうねー」

 みなさんお友達になったのでしょうか。お友達はいいですね。お友達がいると、何をするにしてもとっても楽しいです。それに、困っているときは助けてくれます。例えばご飯を食べるときです。私がご飯がなくてお腹を空かせているときも、食べかけのご飯を戴いたり出来るのですよ。ご飯を戴ける。イコールこれ、親友です。超親友です。キツネさんや神取さん達もそういう仲になったのでしょうか。

「……あー」

 あー、ですか。

「……なんか、ヤバイかも」

 ネコさんはカメラから目を離し、私の方を見ます。その表情はちょっと強張っていました。

「喧嘩、始まっちゃったよ」

 はあ。

 ネコさんは本当に困った表情です。

 喧嘩、ですか。

 喧嘩……。喧嘩?

 ええ!

 それは大変ですッ!

 だ、だって、皆さんは友達になったのではないのですか? ご飯を分け合ったりしないのですか?

「……何なのよ、もー」

 ネコさんはカメラからレンズを外し、メディスンバッグの中に乱暴に入れました。指先、震えてますか。ネコさんのお顔から血の気が引いているのが判ります。これは、大変なことになっているのですね?

「ハスちゃん、私ちょっと行ってくる」

 そういうと、ネコさんは御堂の端から飛び降り、走りだしました。

 ええと。

 私も行きましょう。うん、行くのですよ。

 私はネコさんの後を追い、走り出しました。

 幽明堂の周りは木の根がうねるように這い、道を塞ぎます。何年も山の中を走り回っていたので、この程度なら私は平気です。でも、ネコさんはそうはいきません。慣れていない山道のため、何度も足を取られて思うように前に進めないようでした。

 そういうこともあって、私はすぐにネコさんに追いつきました。

「ハスちゃん! どうしたの? 私についてくると危ないよ!」

 ネコさんはそんな危ない場所に行こうというんですか。なら、尚更お一人では行かせるわけにはいけません。

 私はネコさんより三歩分先行します。いわゆる露払い、です。

「ハスちゃん! 話せば判るような雰囲気じゃないかもなんだよ? 危険だよ!」

 そもそも、私には話すことも出来ません。話せば判るっていう選択は最初からないです。ないのですよ。それでも、何かのお役に立てることもあるかもしれません。例えば、私は神取さん達と面識があります。それはとても大きな意味を持つのではないでしょうか。

「ハスちゃん! ちゃんと聞こえて、意味も判ってるんだよね!」

 私はネコさんの方を一瞬見て、頷きます。

「……判った」

 ネコさんは一瞬迷ったような表情をしたあと「立場が逆なら、私も、同じ事すると思うから」と続けました。

 私達、似たもの同士です。

「私達、似たもの同士だね」

 うふふふ。友達ですから。

「ハスちゃん! 危険だと思ったらすぐに離れるからね! それと、邪魔だと思ったら身を引きましょー!」

 大丈夫です。私、奥ゆかしいです。男性の邪魔になるようなことをするつもりはありません。ありませんが……。

「そもそも、何で喧嘩とかするかなーもー!」

 その通りですよね。ネコさんは走りながら駄目ンズめッ! なんていっていますが、それについては私も弁護して差し上げることが出来ません。争いからは何も生まれることはないのですよ。

 争いは、嫌ですね。争う様を考えるだけで、私は胸が張り裂けそうになります。そして、とても喉が渇いてしまいます。しまうのですよ。

 私は坂道を駆け下りながら、吐き出す息で喉が張り付くような錯覚を覚えます。

 はて?

 この感覚は……?

 私はこの感覚に覚えがありそうですよ。何でしたかね。

「ハスちゃん!」

 はい?

「一番の近道は? やっぱり、真っ直ぐ川沿いかナ?」

 ネコさんが後ろから訊いてきます。そうですね、やっぱりそれが一番近いと思います。私はネコさんの方を振り返り頷きを返しました。

「うーん。どうしてこんなときにシキ君居ないかなー」

 ネコさんが悔しそうにいいます。なんと、シキさんはいらっしゃいませんか。どちらに行かれたのですか? まさか、もうお帰りに? それは困ります。私、シキさんに「ごとう」を伝えてないです。

「シキ君、朝早くに出ていっちゃったの。ハスちゃん会わなかった? ちょうどねー、富一さんの家を訪ねてきてくれた頃だと思うんだけど」

 いえ、お会いしていませんね。私が今朝お会いしたのは神取さんでした。

 は?

 ま、まさか、神取さんはシキさん?

「何かねー、バスに乗るって言ってたんだけど。早瀬村ってバスが少ないんだよね?」

 ああ、なるほどです。シキさん、バスに乗りましたか。あやうく神取さんはシキさん説が採用されるところでした。私は頷きを返します。

 早瀬村と街を結ぶ公共の移動手段は市営バスです。運行は早朝と夕方の二本のみ。学生のときは、その二本を利用して通学していました。そういえば、今朝神取さんがお友達を見送りに行かれていましたね。そこにシキさんもいらっしゃったのでしょう。おお。と、いうことはです。お二人は顔見知りなのではありませんか。バスの停留所はコミュニケーションを取るのに最適ですからね。きっと、挨拶もされているはずです。

 挨拶といえば、挨拶は時の氏神、ですよ。この場合、挨拶って仲裁って意味ですよね。神取さんも、シキさんのことを伝えれば諍いを収めてくれるはずです。これはこれは。私、ものすごく賢いのではありませんか?

 うふふふふ。これ、いけますよ。大丈夫です。魚心あれば水心あり、です。誰もが進んで人を憎もうとは思いませんからね。

「ねねねね、ハスちゃん。シキ君、すぐに帰ってくる?」

 ネコさんが不安そうな声で訊いてきます。シキさんがバスを利用するなら、帰りは夕方になります。時間にしておおよそあと四時間は必要かと思いますよ。私は首を振り、そのことを伝えました。

「そっかー。私たちで何とかするしかないねー。シキ君ってね、見た目細いけど喧嘩はすごく強いって聞いた事あるんだよー。でも、必要なときには居ないねー。あはは」

 ネコさんが乾いた声で笑い、喧嘩は嫌いだけどね、と続けました。

 うふふふ。でも大丈夫ですよ。私、すごく良いことを思いついているんです。きっとうまくいきます。大丈夫ですよ、ネコさん。

 私たちはようやく坂道を下りきりました。上りのときと比べ、下りは時間がかかります。逆のように感じますが、傾斜で過剰に加速してしまうのを防ぐ為に、変に両足に力が入るのです。結果、慎重さが勝ってしまい、効率よく道を下ることが出来ないのです。さらに道が悪いのも手伝って、上りのときより随分と時間がかかりました。

 富一さんの家の脇をすり抜け、そのまま川沿いへ。あとは真っ直ぐに道を抜ければキツネさん達の居る場所へいけます。

「ハスちゃん!」

 ネコさんが横に並びました。

「さっきも言ったけど、危なかったり、邪魔になりそうなら直ぐにその場所を離れるよ」

 私は頷きを返します。

「とにかく、頭を冷やさせないと」

 そうですね。それが先決です。

 私たちは並んだまま走ります。川の土手沿いに群生する、背の高い草花を横目で流し、ぐんぐんスピードを上げていきます。暫くして、一本松が見えてきました。夕べ、私たちが出会った橋です。

 一本松の横に来たときには、水引場に居る神取さん達とキツネさん達の姿を確認することが出来ました。誰かが大声を上げているようです。

 私たちはそのまま皆さんが集まっている水引場まで走りました。

 水引場には、キツネさんとクマさん。そして神取さんとそのお友達の方三人、合計六名がいらっしゃいました。

 私たちはその場に合流します。

「ちょっと! 何、やってんの、よー」

 ネコさんが肩で息をしながら、キツネさんとクマさんにいいました。

「ネコ!」

「……むぅ」

 お二人はネコさんの方へ駆け寄ります。

「おや、ハスさんも?」

 神取さんです。

 おや?

 そういえば、何故この時間に、神取さん達がここにいらっしゃいますか。たしか、今日の作業は夕方までのはずだったと記憶していますが?

 私は神取さんの方へ歩み寄ります。

「あー、あははは。ハスさん、その様子では、一通りの流れが判ってここへ来たのですか?」

 神取さんはバツが悪そうにいいます。

 一通りの流れ、ですか。私には何があったのかなんて判りません。ただ、喧嘩をされているとは聞きました。

「実はですね、午前中作業をしていたら、この方々が村のあちこちを物色していると報告がありまして。注意をしてくれないか、と頼まれたのですよ」

 神取さんは細い目をさらに細くして笑います。

「何が注意だッ!」

 キツネさんです。

「ちょっと、止めなよー。もー」

 ネコさんが制止しますが、キツネさんは止まりません。怒ってますか。

「……いきなり殴りつけるのは、注意とは言わない」

 クマさんです。

 うん?

 殴り?

「く、クマちゃんそれ本当?」

「おいおい、ハスさんに誤解を与えるようなことを言うなよ。こちらの制止に耳を貸さなかったのは君達だろ?」

「てめえッ! よくもヌケヌケと!」

「ちょ、ちょっと、クマちゃん、手伝ってッ!」

 ネコさんにいわれ、クマさんもキツネさんを抑えます。さすがにクマさんの大きな身体で制止されると、キツネさんも動けなくなりました。

「ねー、話が全然見えないんだけど? それでも喧嘩していたのは事実でしょー?」

 ネコさんが神取さんを見ます。ネコさん、怒ってますか。

「喧嘩、ですか? とくにそのような感じではなかったと思いますけど」

 神取さんが一歩前に出て説明します。

「嘘だよ。私、見たもの」

「見たって、何をですか?」

「この二人と、あなた達が暴力を行使しているところ」

「おや、それはハスさんも見られたんですか?」

 神取さんは私の方を向き、訊ねます。

 私はネコさんの言葉を聞き、ここまで来ました。ですから、皆さんが何か諍いを、それに暴力を行使しているところを目視したのかと問われれば、それは違います。私は首を振り、伝えます。

「ふぅむ。ハスさんはそのような事実を確認されていませんが、どういうことですか?」

 神取さんの言葉に、お友達の方がクツクツと笑います。

「な! そ、それはそうだけど! でも私は確かに見たもの」

「そうですか。ハスさん、この女性とはそのとき一緒に居たのですか?」

 そうです。私は頷きます。

「ふむ。しかし、それではおかしいですね。あなたは見て、ハスさんは見ていない、ですか」

「それは、遠くからだったから。私はコレであなた達を確認したの」

 ネコさんはメディスンバッグからカメラのレンズを取り出して見せます。

「はぁ、なるほど。では、その写真をみせていただけますか?」

「な!」

「カメラで僕たちを見つけたんですよね? 遠くから、ということでしたから、それは望遠レンズかなんかですかね。で、諍いがあったからこの場所へ来たと。それは理解しました。では、その諍いの写真を見せてください」

「……ネコ?」

「しゃ、写真は、撮って……ない。ないよー」

「ネコッ! お前から写真差っ引いたら何残んだよ!」

「五月蝿いナ! びっくりしたんだから仕方ないでしょーッ」

 やれやれ、と神取さんが大きく息を吐きました。

「ハスさん、この方達とは知り合いですか?」

 神取さんが訊ねます。私は頷きを返しました。

「お友達ですか?」

 そうです。私は首肯します。ネコさんと私、お友達です。そしてキツネさんやクマさんはネコさんのお友達でもあるのです。

「ハスさん、この水引場ですけども……」

 神取さんが指差す先、幽明堂より少し大きい小屋があります。

「この水引場はとても大事な場所ですよね」

 そうです。村の隣りを流れる宇瑠土川。この宇瑠土川から田畑へ水を引くための起点です。この水引場に不都合があれば、以下全ての田畑に影響があります。私は頷きます。

「そう。ここは誰もが勝手に出入りするべき場所じゃない」

 その通りです。ここはお祖父ちゃんと、他数名の方で管理されてます。管理者以外の方は、個人的な出入りを禁止してあります。例えば、お祖父ちゃんが一緒なら誰でも入って良いのですが、そうでない場合は絶対に入ってはいけません。

「でもね、ハスさん。この方々はそのルールを破ったんです」

「まだ入ってなかっただろ!」

 キツネさんがいいます。

「扉を開く瞬間だったのは事実でしょう」

 本当ですか? 私はキツネさんを見ます。

「そ、そりゃそうだけどよ! でも俺達はそんなルール知らねぇし……」

「知らなかったら何をやっても許されるのか?」

「……問題のすり替えだな。いきなり殴りつけたことは事実だ」

「やれやれ。その事実はどうやってハスさんに証明するんだ?」

「証明の必要なんかねぇだろ!」

「君達は知っているのか? この村で長を務めているのは、ハスさんの祖父だぞ? 彼女が見て聞いたことが、そのまま伝わるんだぞ?」

「だからどうしたよ!」

「すぐに村から追い出されて良いなら、それでも構わないだろうがね。いくらハスさんの友達だからと言ってもね、この水引場ほか、村にとって重要な施設に関しては別件なんだ。重要性の意味合いが根本的に違う」

 神取さんはそこで一度言葉を区切ります。

「ハスさんの友達なら、彼女の立場を考えてやれ。君達が居なくなれば、彼女はどうなる。たとえ短い滞在予定であっても、それを早めに打ち切るなんてことはしてやるな。君達がいることで救われている部分もあるんだぞ」

「そ、それは――ッ」

「ちッ!」

「……むぅ」

 ネコさん達は何度か私を見たあと、一様に下を向きました。

「とにかく、今回はこれで終わりにしよう。ただし、今後この水引場にだけは絶対に近寄るなよ」

 神取さんはそういうと、お友達の方に何かを手渡しました。

「ハスさん。一度、水引場を封鎖します。天候が大きく変動した場合を除き、暫くは水引の調節を行う必要もないでしょう。今後、この村も人の出入りが増えるとなれば、こういったケースも出てくるでしょう。母祢さんと協議して、対策を打つまでは仕方ありませんが、何かが起こってからは遅いですからね」

 神取さんはそういうと、水引場を見ます。先ほど何かを渡されたお友達の方が、水引場の扉で……うん? ああ、施錠されていますね。なるほど。神取さんが手渡したのは南京錠でしたか。

 ガチャリ、と金属的な音が聞こえました。それは扉が堅く施錠されたことを告げた音でもありました。

「では、僕たちはこれで失礼します。まだ作業が残っていますからね」

 そういって神取さんは軽く会釈をし背を向けました。

 ちょ、ちょっと待ってください。私は神取さんを追います。

「ん? ハスさん? どうしましたか?」

 私も作業をしなければいけません。

「ひょっとして、仕事をしようと? ははは。駄目ですよ。ちゃんと身体を休めるのも仕事の内です。ハスさん、空腹で倒れるなんて余程のことなんですからね。今日は僕たちが頑張りますから、ハスさんはお友達とゆっくりしておいてください」

 で、でも、ですね、その、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんにも申し訳が立ちません。立たないのですよ。

「そうだ。お友達の方々は、この村のことをよくご存知ないようですから、ハスさんの出来る範囲で教えておいてくれませんか? 知っていれば、今回のようなことは避けれることもありますからね。母祢さんたちには僕からお願いしたと言っておきますから。いかがですか?」

 そ、それは、そういって戴けるのはありがたいのですが。

「ハスちゃん!」

 ネコさんが私を呼びました。私は振り返ります。

「ハスちゃん、こっちおいで!」

 ちょっと語調を強め、ネコさんがいいます。

「はははは。ほら、呼んでますよ。僕からのお仕事、よろしくお願いしましたからね」

 そういうと、神取さんはお友達の方を引き連れ水引場を後にしました。

 お、お仕事ですか。私、神取さんからお仕事を任されましたか。うん。では、一生懸命取り組みましょう。

 私はネコさん達の方へ駆け寄ります。私の歩調に合わせ、帽子のツバがユラユラ揺れてとても可愛いです。

「それにしても、なんで喧嘩なんかするかナー。もー」

 ネコさんが手を腰に当ていいました。

「俺が悪いわけじゃねーよッ! 悪いのはクマだッ!」

 キツネさんはいいながらクマさんの襟首を掴みます。

「ホントなの、クマちゃん?」

「……むぅ。まぁ、うぅむ」

 クマさんはバツが悪そうに頬を掻きました。

「うぅむ、じゃねぇだろ! しかも何で俺が殴られなきゃいけねーんだッ! 面倒臭ェことこの上ねーよ! 無茶苦茶痛かったんだぞ!」

「……お前も殴り返してたからいいじゃないか」

「ちょっとちょっと、最初から説明して。どうしてこんなことなったのよー。ハスちゃんだってそう思ってるよ。ね? そうだよね?」

 ネコさんのいう通りです。私も何故このようなことになったのか、知りたいです。私、皆に仲良くして欲しいです。欲しいのですよ。私は頷きを返しました。

「ほらー。ハスちゃん怒ってるー。この駄目ンズが、頭のなか湧いてんじゃねぇの? 暴力が好きなら山の中で巨大動物とでも戦ってろってんだ。そして死ね! 頭割られて中のミソ喰って貰え! って言ってるよ」

「なんだとハスッ!」

「……ッ!」

 ええええええッ!

 キツネさんとクマさんが血走った両目で私を見ます。こ、ここここ恐いですッ!

「ちょっと! 二人ともハスちゃんイジメないでよーッ!」

「うるせぇッ! 良く考えりゃお前が好き勝手言ってるだけでハスは関係ねーじゃねぇかッ!」

「私たち友達だもん! 親友なんだからー! 私、親友の考えてることくらい、ばっちり判るんだからーッ! そうだよね! ハスちゃん!」

 ネネネネネネネコさん、それは違いますッ!

「幽明堂では私、ハスちゃんと心通わせたんだからね」

 ふん、とネコさんが鼻を鳴らします。確かに幽明堂でのネコさんは、私の心を理解して下さったと思います。男女の仲なら落下流水と例えてもよろしい程でした。ただ、今回はちょっと残念な結果に終わってしまったといいますか、理非曲直もさもありなんといいましょうか。いえ、ネコさんの融通無碍な部分はよろしいと思うのです。思うのですよ?

 私はネコさんのお顔を見ます。きっと、私は今すごく困った顔をしていることでしょう。

「……もう、ハスを苛めてやるな。今回の件は俺に過失があった。すまなかった」

 クマさんはそういって深々と頭を下げました。

「クマちゃん」

「クマ、頭上げろよ」

「……しかし、だな」

「いいから上げろって」

「……いや、そういうわけ」

「上げろってッ! デケェアフロが邪魔なんだよッ!」

 キツネさんの言葉にクマさんは「はッ」っと息を呑み、勢いよく頭を上げました。

「うお! アブねッ!」

 確かに。それだけの質量が目前を上下すると、本能が危険を訴えますね。

「んまぁ、とにかくだよー。クマちゃん、何があったのか最初から話してよ」

 ネコさんの言葉に私も頷きます。クマさんは深く嘆息して、とつとつと語り始めました。

「……川沿いの、石を見ていたんだ」

 はぁ。石ですか。……石?

「……このあたり、それなりに珍しい石もありそうでな」

 そう、なんですね?……珍しい、石ですか。

「……ちょっと、掘ってみたくなったんだ」

 はぁ。掘る、ですか。……掘る?

「……最初はピックで満足してたんだ。でも、次第に熱中してな。気が付くとタガネとロックハンマーになっていた」

 判ります。たがね、田圃にいる虫ですね。

「ハスちゃん、判るかなー。クマちゃんが言っているのは石を割る杭みたいなものね」

 ええ、そうでしょうとも。うっかり虫と間違えることがあるので注意が必要なんですよね。私、知ってます。ちょうど、それを思い付くところだったんですよ。私はネコさんに深く頷きを返しました。

「へぇ。お前物知りなのな。感心したぜ」

 ふ、ふふふふ、ふふ。褒められているのに、何故か心が痛いですよ。

「ちゅーことでクマ、説明用に並べてるそれ、すぐに仕舞えよ」

「……むぅ」

 クマさんは足元に並べ始めていた鉄の杭や、大きめの金槌なんかを不承不承といった感じで「●」の中に収めていきました。

 本当に、あの中はどうなっているのでしょうか。ちょっと手を入れてみたい衝動に駆られてしまいます。

 が、我慢、ですよ。

「で、それからどうしたのー」

 ネコさんがいいます。

「ああ、面倒臭ぇことに、俺にもっと大きなハンマー取って来いって言ったんだ」

「……思いの外、地盤が固くてな。携帯用では限界を感じた」

 携帯用? 先ほどの大きめの金槌でしょうか。……携帯用?

「んで、目の前に農具やらが入ってそうな小屋があったからよ、何か目ぼしい得物が無ぇかなってな」

「で、いきなり殴られた、ということなの?」

「ああ」

「……そうだ」

「何か、話が飛んでるような感じもするんだけどナー」

「マジだって。何してる、って声に振り向いた瞬間、殴られたんだからよ」

「……俺が物音で頭を上げたら、四対一の殴り合いになってたんだ」

「んー、じゃあ私が見たのはその辺からなのかなー。それはそうと、ハスちゃん?」

 ネコさんに呼ばれ、身体ごとそちらを向きます。

「あのー、何さんだかは、んー……まぁ、短絡的に人を殴ったりする人なのかな?」

「だから、いきなり殴られたんだっつってんだろ」

「でもねー、あれほど弁が立つ人だよ。悔しいけど、私何も言い返せなかったもん。そんな人がいきなり殴りつけるのかなって。どうかナー、ハスちゃん」

 神取さんのこと、ですね。神取さんは素晴らしい方です。お祖父ちゃんや、お祖母ちゃん、いいえ、村の人たち皆が口を揃えてそういいます。実際、神取さん達がいらっしゃってから、早瀬村は活気に溢れています。神取さん達がこの村に持ち込んだ労働力、情報などは文字通りこの村の糧となっているのです。そんな神取さんです。先ほどキツネさんがおっしゃったように短絡的に暴力を振るう方ではないと思います。

 でも。

 そう、それでは一つ説明がつきません。それは、ネコさんがカメラのレンズ越しに見たものについてです。ネコさんは喧嘩が始まったといって幽明堂を後にされました。ネコさんがレンズ越しに見た映像がどんなものかは想像することが出来ませんが、レンズの先で喧嘩が起こっていると認識するようなことが起きていたのですよね。そうなれば、やっぱりキツネさんがおっしゃっているようなことが起こっていたともいえます。

 私は夕べの事を思い出します。夕べ、私は井戸の横で殴られました。ああ、アレは痛かったですねぇ。もちろん殴られた頬も痛かったですが、全裸で地面を転がるのは本当に痛いです。うー……。思い出すと体中がズキズキ痛みますよ。まぁそれはそうとして。私、殴られたのは事実です。でも、神取さんに殴られたわけではありません。神取さんは私の身体を心配してくれていました。でも、神取さんのお友達はそうではなかったように思います。

 と、なると、です。キツネさんを殴ったのは神取さんではなく、そのお友達の方ではないでしょうか。ただ、私を殴ってしまった方は今朝のバスで帰省されてしまったようですから、村に残っていらっしゃるお友達の方が、必ずしも暴力を振るってしまう方だと断定することは出来ません。でも、その可能性は否定できないのではないでしょうか。

 つまり、ネコさんへの回答は神取さんについては否定です。しかし、そのお友達の方に可能性があることを伝えなければいけません。

 これは難しい。難しいですね。一度に二つのことを伝えなければいけません。どうしますか。

 略語。うん、略語を使ってみますか。ええと。神取さんは短絡的に暴力に訴える方ではありません。ただ、お友達の方に私は一度殴られています。しかし、その方は今は居ません。ですから可能性があるといえば、その他のお友達の方がキツネさんを殴ってしまったということもいえるかもしれません。

 はぁ。……ムズ。ムズいです。激ムズいですよ、コレ。さっちんでも頭を捻るんじゃないでしょうか。

「ハスちゃん」

 ネコさんは私を呼ぶのと同時、その細い指先で私の頬をグイグイと持ち上げます。

 いひゃいいひゃい。あ、いえ、別に喋れないから「痛い痛い」でいいんですか。でも心の声がそういってしまうほど私の頬は持ち上げられているのですよ。こう、無理やり笑顔にさせられてる感じです。

「無理やりにでも笑顔になってもらうよー」

 は、はい?

「ハスちゃん、さっきも言ったけど、美人が押し黙ると威圧感があるんだナー。見てごらん。駄目ンズが怯えた目でこっちを見てる」

 私は頬を持ち上げられたまま、キツネさんとクマさんを見ます。

 う!

 す、すごい気合の入った目で見られてますよ? どどどどどうしてですか?

「ハス、ひょっとして俺を疑ってんのか? 面倒臭ぇ奴だ。言いたいことアンならはっきり言えよナァ?」

 キツネさん! 私喋れません!

「……」

 クマさん! 何故無言のまま指をポキポキ鳴らしてますか!

「ね? 恐がってる」

 ネコさん! 見てください! あれ、恐がってますか? あんな恐がりかたする人居ますか? むしろ逆に二人とも気合が入ってませんか?

「ハスちゃんにその気が無くてもねー、やっぱり皆不安になっちゃうよ? きっと、沢山考えてくれているんだとは思うんだけど、自分の見せ方って意識しなきゃいけないとも思うんだー」

 ネコさんは私の目をじっと見て、それからふにゃっと笑います。

「さっきの目が細いヒト、そういうことをする人じゃないんだね?」

 神取さん、暴力を振るう方じゃないです。私はそう思います。だから私は頷きました。

「じゃあ、他のヒトは? 可能性、ある?」

 そうですね。有る無しの概念だけでいえば、それは、やっぱり有る、ということになるのでしょう。私は頷きます。

「ん。そっか。判ったよー」

 私の頬からネコさんの指がそっと離れます。指先が離れた頬には、ちょっとだけ名残惜しそうに小さな痛みが残りました。

「どう思う?」

 ネコさんがキツネさん達に問います。

「……どう、も何もだな。キツネとあいつ等が殴りあったのは事実だぞ」

「いきなり殴られたのもな」

 ネコさんは指先を顎にあてます。これは何かを考えていますね? さっちんのポーズにそっくりです。ネコさんのポーズはとても華があり、上品です。さっちんのポーズとはまた一味違いますね。

「うーん、ハスちゃん。私もね、キツネ君が言ってるのは本当だと思うよ」

 そうですね。私も、あの方達の誰かが暴力に訴えたという可能性は少なからずあると思われます。

「それとね、あの細目のヒト。あのヒトは……ん?」

 ……神取さんがどうかしましたか。

「ハスちゃん……。んふふふ、まぁーこの話は別にいいか。ごめんね、ハスちゃん。だから、そんな恐い顔しないでね」

 ネコさんはにっこり笑ってみせます。

 私、どんな顔してましたか。私は自分の顔を触ってみます。いつもと変わらないです。

「……それはそうと、だな」

 クマさんが腕を組み直しながらいいます。

「……あの小屋、何かあるんじゃないか?」

「何かってー?」

「……見られたくないもの、とかな。……考えてもみろ。口頭での注意で済むところを、いきなり殴りつける程だ。……それは焦りにも取れる」

「なるほどな。あの時、殴られでもしなきゃ俺は確実に扉を開いてただろうからな。俺に注意するなんて何様だよっつってな」

「キツネ君は殴られて当然のような気もするねー」

「……お前のそういうところ、シキにそっくりだな」

「けッ! あんなロン毛ナルシストと一緒にするな」

「あー、そのフレーズはシキ君怒るよー。ふふふ、まぁ端的にシキ君を表す言葉なんだけどね」

「……さて、どうする」

 クマさんは声のトーンを落とし、私たちを見回すようにしていいます。

「どうするもこうするもねぇだろ。他人の指示なんか面倒臭くて従ってられるかよ」

「うーん。でもなぁ」

 ネコさんは困ったように私の顔を見ます。

「関係無ぇよ。ちょっと中を見るだけなら構わねぇだろ。クマ、鍵はどうする」

「……タガネとハンマーで十分だろう」

 ちょ、ちょっと待ってください。み、みなさんはいったい何をおっしゃっているのでしょうか。

「よし、鍵ぶっ壊すぞ」

 キツネさんはそういうと水引小屋へ向かいます。

 ちょっとまってくださいッ!

 私は思わず駆け出し、そして水引小屋とキツネさんの間に割って入ります。

「ああ? なんだよハス。そこどけって」

 駄目です。

 私は両手を使い、キツネさんを押し戻します。

「おい、何だよそこどけって」

 駄目です。

 私はキツネさんに寄りかかるようにして押し戻します。

「面倒臭ぇな。どけって言ってるだろ」

 駄目です。

 駄目なんです。

「おいクマ、こいつ掴まえてろよ」

 駄目です。

 駄目です。

 駄目なんです。

「……ハス、大人しくしてろ」

 嫌です。ここから先は行ってはいけません。駄目です。

「ち。あのな、お前に思うトコがあるように、俺にだって同じようにあるんだよ。俺はただ殴られ損になりたくねぇんだ。それに、何も小屋の中を荒らそうってワケじゃねーだろ」

 それでも、駄目です。

 キツネさんに言い分があるのは判ります。おっしゃっていることもちゃんと理解できます。でも、この場所、水引小屋は決められた人しか入ってはいけないんです。村での決まりなんです。

「……さっきの男、村の決まりがどうとか言ってたな。……中に入れる人物が決まっているとか」

「関係無ぇよ。俺らは他所の人間だし」

 そんな!

 キツネさんの言葉を聞いて、両足から力が抜けたような気がしました。膝が笑っている、というのでしょうか。今、私にとって全然笑えない状況なのに、膝は余裕綽々ですか。

 キツネさんは私を避けるようにして水引小屋へ向かいます。私といえば、クマさんの大きな手で両肩を押さえられて身動きが出来ないです。

 どうして判ってもらえませんか。私、一生懸命伝えようとしています。どうして判ってもらえませんか。

「クマ、タガネとハンマー」

「……む」

 クマさんは「●」の中から片手で器用にタガネとハンマーを取り出しました。クマさんが私を掴まえている手も一本になったのですが、それでも私の貧弱な身体ではどうすることも出来ないです。

 クマさんは二つの道具をキツネさんへ投げ渡します。キツネさんはそれらを受け取り、ジャグリングするように手の中で躍らせます。

 駄目ですよ! キツネさん、判ってください! ちゃんと決まっているんです。その小屋に入るためにはお祖父ちゃんが一緒じゃないと駄目なんです。お願いします。キツネさん。お願いします!

「んじゃ、さっさと開けるぞ」

 ど、どうして、伝わりませんか。……伝わり、ませんか。

 理由。伝わらない理由。

 そんなの簡単です。

 私が喋れないからですよ。

 喋れないから、伝わらない。

 当たり前です。当たり前過ぎて、うっかり忘れてました。

 私の気持ちは伝わらない。

 悔しい、です。

 ああ、こんな気持ち、駄目です。駄目なんです。でも。でも、私、悔しいです。私、ちゃんと伝えたいです。喋ることが出来ないのが、辛いです。悔しいです。

 悔しいです。

 悔しいですよ。

 う、うう。うううううう。

「はい。そこまでだよー」

「んだよ、ネコ」

「だから、もう止めようって言ってるの」

「はぁ? お前な、俺は殴ら」

「うるさいナ」

「なに?」

「クマちゃん。すぐにその手を離して」

「……納得できない」

「納得? 自分の手元見てごらんよ。女の子泣かせて納得がいかないってどういう事かな」

「……?」

 クマさんが私の顔を覗き込んで、びっくりしたような表情になりました。

「はっ! 面倒臭ぇ。俺は気にしねぇぞ」

「シキ君に喋るよ」

「好きにしろよ」

「キツネ君がハスちゃん泣かせたって言う」

「あ? ああ?」

 ネコさんの言葉を聞いて、キツネさんが狼狽し始めました。

「……キツネ、俺たちの負けだ。シキが出てくれば、俺たちが割に合わない」

 ちょっと間があって、クマさんがいいました。

「そう思うんならすぐにハスちゃんから離れる!」

 ネコさんが早口でいい、クマさんはそれに従います。両足に力が入らない私は、その場所に座り込んでしまいました。

「ハスちゃん」

 ネコさんが私の名前を呼びながら駆け寄ってきました。

「ごめんね、ハスちゃん。本当にごめんね」

 ネコさんは私を抱きしめて、何度も謝りました。

 私は何がどうなったのか理解出来ず、ネコさんの腕の中で呆然としてしまいました。

「駄目ンズッ! 向こう向いてて!」

「ウゼェッ! 超面倒臭ェッ! 何だよッ! 何で俺が我慢しなきゃならないんだッ」

「うっさい! 向こう向いてなさいよー!」

「……関係ないシキを引き合いに出すのはどうかと思うぞ」

「あなた達が暴走し始めるからでしょー」

「……しかしだな、俺たちにも気持ちの収めどころがあってもいいだろう」

「それはハスちゃんの気持ちを犠牲にしてでも必要なの?」

「じゃあどうしろってんだ! お前らは見てないから判らないだろうけどなッ!」

「……キツネ、いいだろ。……その件は済んだことだ」

「お前は黙ってろッ! もう我慢できねぇよ! 俺はテメェみてぇに人間が出来てねぇんだッ! いいか、ネコ。俺らはな、ほぼ一方的に殴られ続けたんだぞ! 最初は応戦したさ! でもな、数が違うんだ! 殴られすぎて、途中からワケわかんなくなったんだぞ! それで、それで……お前らが来る直前、俺らは、俺らはなぁ、俺らは……あいつらに土下座したんだ! ……土下座させられたんだよ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「ネコ、お前にこの気持ちわかるかよ! 多少殴り返すくらいじゃ足りないくらい殴られたんだぞ! その上で土下座してみろッ! どれだけクソッタレな気持ちになるか判るかッ! どれだけ惨めな気持ちになるか判るかッ!」

「で、でもそんなに殴られたなら、痕が」

「これで満足かよッ!」

 キツネさんは言葉の通り、怒りに任せて上着を脱ぎました。

「ちょ、そ、それ」

 ネコさんが息を呑みました。

 キツネさんの上半身は、熟れた葡萄のような色の斑点がありました。ネコさんが思わず目を逸らします。私、判ります。アレは痣です。強い力や硬いもので殴られると出来る、アレです。時間が経つにつれ、大きく腫れ上がり直視には耐えない色になるんですよね。

「……あいつら、顔を殴ることはなかったからな。まあパッと見てわかる傷は無い」

「クマちゃんも?」

「クマは途中から俺を庇ったからな、なお酷いだろうさ」

「そ、そんな……」

「……たいしたことじゃない。それに、やはり俺が原因だからな。こいつは俺の巻き添えを食っただけだ」

 クマさんは小さく息を吐き、肩をすくめて見せました。

「とにかく、少しでも応急処置をしましょ。ハスちゃん、手伝ってくれる?」

 は、はい。そうですね。こうやって呆けている場合ではありません。すぐに患部を冷やすなどの応急処置をしたほうがいいです。

「いらねぇよ」

 キツネさんがいいました。短い言葉ですが、とても鋭く、刃物の切れ味を思わせました。

「俺は納得できねぇ。説明なんて面倒臭ぇ。どうだっていい。俺はあいつ等の言いなりになんてなりたくない」

 キツネさんはその手にある道具を持ち直し、水引小屋へ向かいます。

「ちょ、ちょっと! 駄目だよーッ!」

 ネコさんはキツネさんに駆け寄り、その手を掴みます。

「ネコ、どけよ」

「駄目だってばー!」

「何でだよっ! 何でお前まで俺の邪魔するんだっ!」

 キツネさんがネコさんを強引に振り払いました。

「ッ!」

 あ!

 ネコさんは崩れ落ちるように、地面へ転びました。

 私はすぐにネコさんへ駆け寄りました。ネコさんは「だいじょうぶだよ」といいます。でも、掌には擦り傷ができ、赤い斑点がぽつぽつと出来ていました。

 血です。

 血ですよ、ネコさん。大丈夫なはずありません。血が出れば凄く痛いです。それこそ、地面を転がってしまいたくなる程の痛みがあったりするときもあります。

 私はネコさんの手を、私の手で包むように重ねました。

「……もう、やめよう。キツネ、お前の気持ちは俺が良く判っている。だから、たのむ。……この通りだ」

 クマさんはその場で膝を折り、額を地面につけました。

 私、判ります。それ、相手に気持ちを伝えるときにやることです。私、お祖母ちゃんに謝るとき、ごめんなさいを伝えるときにはそうするのだと教えてもらってます。

 私、うっかりしていました。私の気持ち、伝えるためにちゃんとやっていません。やれていませんでした。

 私はクマさんの横へ行き、そしてクマさんと同じように身体を折りたたみます。額はぐっと地面に擦りつけるのです。

「んなッ! お、お前らは馬鹿か? 何やってんだッ!」

「私からもお願いするよー」

 ネコさんはそいって、私の隣で私とクマさんのように手をつき頭を下げました。

「辛い思いしたときに助けてあげられなくてごめんねー」

「ばッ! あ、なな、何を、お、お前らッ! ああああああーッ! クソッ! ああッ! ああああああッ! 面倒臭ェッ! クソッ! クソッ! ああああ! クソッ!」

 キツネさんは頭をガシガシ掻き毟り、踵を何度も地面に叩きつけます。

 キツネさんの足元に、ちょうどこぶし大の穴が空いたくらいで、キツネさんの動きが止まりました。

「面倒臭ぇ奴らだ。……くそ。……ほらよ、クマ」

 キツネさんはそういって、手に持ったハンマーとタガネをクマさんへ渡しました。

「……む。もういいのか」

「いいから返したんだろォが。もういい。いいよ、面倒臭い。もうやらない。もうこんな場所からすぐにでも離れたい。お前らもそんなとこで座ってんな。向こうに行こうぜ」

「ありがとー。良かったね、ハスちゃん」

 ネコさんは安心したような、それでいてとても疲れたような表情でそういいました。私は頷きを返しながら、ネコさんと同じように疲れた表情をしていたと思います。

 キツネさんは脱ぎ捨てたシャツを着直し、さっさと向こうへ歩いていきます。その足取りが覚束ないように見えるのは気のせいではないのでしょう。

「……俺たちも行こう」

 クマさんはそういって、キツネさんの後を追いました。

「ハスちゃん、一緒に来てくれるかナー。十分とはいかないまでも、二人には出来るだけの手当てをしてあげたいよー」

 ネコさんがいいます。円転滑脱。私はネコさんへすぐ頷きを返しました。

「じゃ、私達も行こう」

 ネコさんはそういってキツネさんとクマさんは追いました。そして私はネコさんを追います。

 ネコさんが二人を追うために歩き出した瞬間、その瞬間のネコさんの表情はとても複雑でした。

 私、判ります。

 これは、さっちんのポーズを使わなくても判ります。

 ネコさん、色々考えてます。

 もちろん、言葉の通りなのですが、それはそれはとても複雑です。複雑なのでしょう。

 ネコさん、とても優しい方です。私の事、沢山考えてくれています。それは私にとって一陽来復であります。

 例えば、私自身のこと。これは、私が喋れないことだったり、身体についた傷のことだったり。とても配慮してくれていますね。

 それから、私の家庭のこと。これは私の身体の傷跡の件と重複する部分でもありますが、うん。……私とお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの関係についても心配してくれました。

 そして、神取さんのこと。私、神取さんはとても凄い方だと思います。それから神取さんのお友達の方。皆さんがいらっしゃってから、早瀬村には活気が出ました。神取さん達が早瀬村の為にされていることはとても素晴らしいです。早瀬村の皆がそういっています。

 ネコさんは、そういったこと、沢山のことを踏まえて私と接してくれています。感謝しても、ちょっとやそっとじゃ全然足りません。それくらいありがたくて嬉しいことです。

 でも。

 でも、それだけじゃないです。それで済ませてしまってはいけません。そうです。ネコさんが私の事をそれだけ考慮してくれているように、ネコさんはキツネさんやクマさんの事を考えています。それは当然のことです。キツネさんやクマさんは、私とくらべて、昔からのお友達で、ずっとずっと大事なお友達のはずです。

 先ほど、ネコさんは複雑な表情でした。それは、キツネさん達の気持ちと、私の気持ちの板ばさみだったからなのではないでしょうか。あの場所、水引場に私がついて行かなければ、あるいはネコさんはキツネさんが水引場の扉を

こじ開けることを止めたりしなかったかもしれません。

 私は、どうしてこう頭がまわらないのでしょうか。必要の無い子だといわれるのも合点がいきます。何故、当意即妙とまではいかなくても、もう少し気が回せるだけの知恵が無いのでしょうか。本来なら、私がネコさんのように悩まなければいけないのではないですか。だって、そうじゃないですか。お友達であるネコさん。そして、早瀬村で必要とされている神取さん。お二方の意見が違えた場合、その間に入り調停の為に東奔西走すべきは私の役割のはずです。

 私はどうしていましたか。

 私は何も伝えることも出来ずに、ただ泣いているだけでした。

 私はネコさんや神取さんから気を使ってもらって、守ってもらってるだけじゃないですか。

 私、私は、私は何の役にも立てていません。私、皆さんの役に立ちたいのです。それなのに。……それなのに、私は何の役にも立てていないです。……いないのですよ。

 私は歩きます。

 目の前にネコさんの背中。ここから表情は見えません。でも、きっとまだ複雑だと思います。そしてさらに前にはクマさんとキツネさんの背中。お二人がおっしゃったこと、間違いや嘘ではありません。キツネさんの体中にあった、強い力で打ち据えられた痕。

 キツネさんは、神取さんにも殴られたとおっしゃいました。

 私は、信じることが出来ません。

 でも。でも、ネコさんはどうでしょうか。私の意見と、キツネさんの言葉。ネコさんはどちらを信用するでしょうか。

 きっと、キツネさんの言葉が正しいと判断しませんか。

 ううん。

 判断出来ないから複雑なんですね。

 ネコさん。

 ごめんなさい。ネコさん。やっぱり、私はついてこなかった方がよかったかもしれませんね。私がこの場所に居なかったら、ネコさんは私とキツネさんの意見に板ばさみになることもなかったと思います。

 やっぱり私は駄目です。……駄目ですねぇ。最近は居るだけで迷惑を掛けてしまうことばかりです。どうしたら、どうしたら良いのでしょうか。

 私たちは終始無言のまま歩きます。

 川沿い、背の高い葦を横目に私は思いました。いっそのこと、私もこの葦のように何も考えることが出来なかったらよかったのに。そう思えばとても気持ちが楽になるのを感じました。

 結局、私達は一言も話すことなく早瀬村、富一さんの家へたどり着きました。……ふふふ。そもそも私は一言すら喋ることなんて出来ないんですけどね。

 ネコさんは富一さんの家に着くなり慌しく動き出しました。私はそれをどこか遠くから見るような感じで眺めています。

「ハスちゃん。お手伝いしてー」

 そんなネコさんの言葉もどこかしらぼんやり聞こえてしまい、頷きを返すのが遅れてしまいます。

「……ハスちゃん?」

 ネコさんが私の目の前へやってきます。私は咄嗟に身構えてしまいました。

「……んー。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。……色々、考えていたんだね? ハスちゃんも色々あるだろうけど、今は二人の応急処置手伝ってくれるかナ?」

 はい。私、今度はすぐに頷くことができました。ネコさんは一度にっこり笑って見せ、すぐにキツネさん達の元へ走ります。私はそれに続くように、靴を脱ぎ玄関へ入ります。靴を入れるビニール袋を探し、ああここは富一さんの家だった、なんて事を思ったりしました。

 私、考えました。

 考えて、思ったのですが、私はネコさんとお友達でいいのでしょうか。私、ネコさんを困らせていませんか。いますよね。

 ああ、でも、今はネコさんを手伝わなきゃ。そういうお仕事を戴いたのでしたね。

 私は取り合えず考えるのを止め、ネコさんのお手伝いをするのでした。



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