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シュリー  作者: エリフル
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 例えばシャボン玉が弾けて消えるように、例えば椿がその花を落すように、お別れは突然でした。

 随分と前の話です。

 どれくらい前かといえば、私がまだ日本語を知らず、英語をまだ忘れていなかった頃です。それから、お父さんとお母さんが私を愛称で呼んでいた頃の話です。

 ある日、お二人は突然居なくなりました。

 お父さんと、お母さん。

 私の傍から、さよならもいわずに。

 私はお二人が何故居なくなったのか理解することはもちろん、居なくなった事実を受け入れることが出来ませんでした。ただ、気が付いたとき、私は独りだったのです。

 それから日本へ来て、そこから数年間のことはあまり覚えていません。

 ただ。

 ただ、ひたすらお父さんとお母さんの姿を捜していたと思います。日本語を覚えようともせず、ただひたすらお二人の姿を捜していたのです。

 毎日、知らない言葉で、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんから叱られていました。

 白痴。

 お祖母ちゃんが私にいった言葉です。

 とても短い単語だったので、幼い私でも覚えることが出来ました。初めて憶えた日本語でした。言葉の意味としても印象深く、ずっと忘れることなく憶えています。

 それをきっかけにして、私は少しずつ言葉を覚え始めました。それでも私は毎日お二人を捜し続けました。それはもう村中を探しました。

 ある日、富一さんから聞きました。早瀬村は、お母さんの生まれた村で、お父さんと出会った場所だと。

 私はお二人を捜します。でも、お二人は何処を探しても見つかりませんでした。私は考えました。ひょっとしたら、お二人はこの村以外の場所に居るのかもしれない。

 それから私の探索範囲は広がりました。

 山を、捜しました。時間にすれば、一年以上。

 川を、捜しました。これも山と同じくらいの時間をかけました。

 でも、でもでも、何処を捜しても、お二人は見つかりません。

 必死に、捜しました。

 でも、山は何処までいっても終わりが無く、川はいつしか途切れてしまいます。どれだけ捜しても、どんなに捜しても、お二人の姿はありませんでした。

 私はいつしかお二人を探すのを止めていました。止めようと決めて、ある日を境に止めた訳ではなかったと思います。それは幼い子供が成長し、それまでの遊びを止めてしまうように、ただ、だんだんと、あたかも自然な流れのように止めてしまったのだと思います。

 数年経ったある日、私はついにお二人の姿を見つけました。

 どれ程の時間が経ったかというと、当たり前のように読めていた英文がさっぱり読めなくなり、お二人が私のことをどんな愛称で呼んでいたのかを忘れたくらいです。

 私は中学生になっていました。

 お二人が、居ました。久しぶりに見た、いえ、正確には思い出した、お二人の面影。

 私は、鏡に映る自分の姿に目が釘付けになりました。

 金色の髪。濃藍の瞳。それはまるでお父さんのようでした。

 今でも年相応に見えない、幼い顔立ち。それはお母さんと瓜二つでした。

 私は鏡の前で、一日中、泣いていました。

 そして、ずっと謝っていました。

 私はいつのまにか、お二人の姿を追うことを止めていたから。

 私はそのことを涙ながらに詫びました。鏡の中の私に見た、お二人の面影に、ただひたすら謝り続けました。

 それから数日後、私はお二人の鞄を開いてみました。

 鞄は私の為にと、お父さんの友人の方が早瀬村へ持って来てくれたのだそうです。そして、その鞄は富一さんが預かってくれていました。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが受け取りを拒否したので、代わりに富一さんに預けられていたのだそうです。

 前もってそのことは富一さんから聞かされていたのですが、私はお二人の持ち物を勝手に触るのはいけないことのように思えて、それまでずっと触らないようにしていました。

 だって。

 いつ、お二人が帰ってくるか判らないじゃないですか。そう考え、ずっとそのままにしていたのです。

 そしてそのことすらも私は忘れていました。

 今度は逆です。

 もう、二度と忘れないように、私はお二人のことを心に焼き付けるため、鞄を受け取ることにしたのです。

 鞄は革張りで、古い映画に出てくるような、少し大きめのものです。鞄の隅の方に、変色して全てが読み取れるわけではありませんでしたが、お父さんのイニシャルが捺してありました。

 鍵は、かかっていませんでした。

 私は震える指先で、ゆっくりと――あるいはそう時間はかからなかったのかもしれませんが、気持ちの上ではとても長く感じました――鞄を開きました。

 古くなった空気の匂い。それが鼻腔に届いたのと同時、真っ白な帽子が目に入りました。

 一目で判りました。

 お母さんの帽子です。

 お母さんがその帽子を冠っていたと、私の古い記憶が伝えました。

 帽子と一緒に、凝ったデザインのショルダーバッグが出てきました。

 それもお母さんの持ち物でした。

 残念なことに、私にその記憶はありませんでしたが、バッグの中、設えられたタグにお母さんのイニシャルが捺してありました。

 あとは、中から数冊の本が出てきました。その全ては英文で、手にした時点の私には、そこに認められた文字を読み解くことは出来ませんでした。ただ、すべての本が手垢にまみれていて、おそらくお父さんが何度も何度もその本を手に取り、ページを捲っていたのだと判りました。

 鞄の中身を確認し終えて、私は違和感を覚えました。

 鞄の中身は統一性がなく、とりあえず適当に詰め込んだような印象でした。

 そして、気付きました。

 適当に詰め込んだのではないです。

 もう、それだけしかお二人の持ち物が残っていなかったのです。

 そう気付いたとき、私は初めて、やっと、それこそ何年越しで、ようやく理解するに至ったのです。

 私のお父さんとお母さん。

 私の両親は、もう居ないのだと。

 お二人は、もう、死んでしまったのだと。

 死、という概念は知っていました。

 早瀬村に来て、何度も葬儀というものを体験しました。しかし、そのどうしても好きになれない儀式めいたものが、お二人に対して行われたことはありませんでした。私にはお二人が突然居なくなったとしか認識が無く、死んでいるとは思ってもいませんでした。

 いいえ、そう思わないようにしていたのだと思います。

 いつか、帰ってくるのではないかと。

 たとえ、今は目の前に居なくとも。

 どこか、私の知らない場所で私を待っているのではないかと。

 かりに、今はその場所を知らせないにしても。

 どうか、そうであって欲しいと。

 いまは、私が孤独であっても。

 いずれ、お二人は私を迎えにくるのではないかと。

 だから、私はやっと理解することが出来たのです。

 お二人は、もう、私の元へ帰ってくることも、私の知らない場所で私を待っているわけでも、そのうち私を迎えにくるわけでも無いということを。お二人には、もう二度とお会いすることも出来ないということを。私は、ようやく、理解したのです。したのですよ。

「お二人は、私の中に生きている」

 そう、いってくれたのはさっちんでした。

 最初、その言葉の意味がわかりませんでした。

 その時の私は、お二人が死んだということを理解していませんでした。だから、意味の判らないことをいうさっちんに、少しだけ怒ったような態度をとったことを憶えています。

 でも、お母さんの帽子を冠り、鏡の前に立ったとき、私はさっちんの言葉の意味を知りました。

 お父さんと同じ、蜂蜜のように金色の髪。そして空の青より蒼い碧眼。真っ白な帽子を頭に乗せ、鏡の前にいるのはお母さんと同じ、幼い顔立ちの、私でした。

 お二人は、私の中に生きていました。

 私は心の中で、何度もお礼をいいました。さっちんに、何度も、何度もお礼をいいました。そして、私はお二人のことを二度と忘れないように、心に誓いました。

 だから。

 だから。

 だから。

 だから、その、その帽子は、帽子はとても、とても大事なんです。もう二度と、私の元から、私の手から離れて行って欲しくないんです。ずっと、傍に居て欲しいんです。

 もう、お二人が私の傍に居てくれることはありません。だから、せめて、お二人が遺してくれたものだけは、ずっと私の傍に居て欲しいんです。

 それらがあれば、私は大丈夫なんです。

 それらがあれば、これからの日々もやり過ごすことが出来るんです。

 だから。

 だから。

 だから。

 だから、お願いですから、もう、私の元から居なくなったりしないでください。

 お願いします。

 お願いします。

 ――誰か、助けてください。

 もう独りにはなりたくありません。

 橋の上でしゃがみ込み、額を地面に付けて泣いていました。声は出なくても、搾り出す空気の所為で私の喉は痛みを訴えていました。それでも涙は止まることなく流れ続けていました。

 どれくらい泣いていたでしょうか。涙は枯れることはありませんが、それでも心の方は幾分か落ち着きを取り戻し始めていました。落ち着きが取り戻せていたのは、もうどうしようもないという諦めを受け入れ始めていたからでしょうか。それもありましたし、額を地面に付けていた為でもあります。ジャリジャリとこちらへ近付くその音を拾うのは難しいことではありませんでした。

 私の耳に届いた音。

 それは足音でした。

 軽い足音が、地面に付けた私の頭に響きます。そして、それは私の近くまで来て止まりました。

「ねねねね、大丈夫?」

 女性の声でした。

 私は顔を、上体を、ゆっくりと上げました。今にも降ってきそうな星空の中、私を見ている女性が居ました。

「うわわわ! ちょっとキミ、どうしたのよー」

 女性はそういうと、私を抱きかかえるようにしてしゃがみ込みました。女性の動きに合わせ、甘みを含んだ空気が私の鼻先で揺れました。

「大丈夫ー? どこか痛いのかナ? 怪我とかじゃない?」

 女性は私を抱きしめたまま、優しい声で訊いてきます。

 怪我ではありません。私は首を振って伝えます。

「そっか、うん。じゃ、何か辛いことがあったんだねー」

 辛いこと、ありました。でも、なぜ判りますか。不思議です。

「うん、もう大丈夫。大丈夫だよー。心配しないでいいからね」

 女性は私の頭を何度も撫でました。優しく、優しく、優しく。一撫で毎に、私の心を覆う不安と絶望のヴェールが剥がれ落ちていくようでした。

 不思議です。この方には、どうして私のことが判りますか。辛いことあったのが、どうして判りますか。とても不思議です。

「おい、ネコ。どうなんだよ?」

 声が聞こえました。ちょっと軽い声質ですが、男性のようです。どうやらこの女性は御一人ではないようですね。橋の入り口付近、何名かいらっしゃるのが女性の肩越しに確認出来ました。

「男子! こっちに来るの禁止! 私が良いって言うまでそこに居てねー」

 私を抱いたまま、女性がいいました。

 私の聞き間違いでなければ、この方のお名前はネコさんみたいです。

 ネコさん、ですか。ですね。うふふ、かわいい。ちょっと気持ちがほっこりしてしまいました。

「……少しは落ち着いたかな? ちょっと待ってね」

 ネコさんはそういうと、腰に付けたバッグからハンカチを取り出し、私の顔を拭いてくれました。先ほど微かに鼻先を掠めた甘い香りが、今度は鼻腔いっぱいに広がりました。とても良い香りです。

「随分辛いことがあったんだね。あぁ、こんなに泣いちゃって」

 そうでした。私、泣いてました。

 ああ。

 なるほど。だから私の事、辛いことがあったと判りましたか。そうでしたか。最初に怪我のこととかを聞かれたのはそういうことでしたか。

 残念です。テレパシーかとも思ったのですけど。

「うん、よし。綺麗になったよー」

 ネコさんはにっこり笑って、私の頭を撫でてくれました。うふふふ。何かとても嬉しくなります。私もつられて笑顔がこぼれてしまいます。

「はー……。綺麗な髪だねー。これ、脱色とかじゃないよね? あ、ちゃんと瞳も碧いもんね。やっぱり本物だよね? 綺麗だねー」

 ネコさんは何度も私の髪と瞳を褒めてくれました。私はそうですよー、本物ですよー、と頷きました。

「ああ、やっぱり。あ! 日本語解るんだね?」

 私は頷きます。

「そっかそっか! ああ、よかったー。急なことで動転してて、普通に日本語で話しかけてたよ」

 いえいえ、寧ろ英語で話しかけられたらマズいですから。

「あのね、私の名前はサザネコ。漣の音、そして子、で漣音子ね。皆はネコって呼ぶよ。あなたもそう呼んでね」

 ネコさんは器用に片目を瞑って見せました。

 か、かわいい。

「で、あなたのお名前、訊かせてもらえるかな?」

 小さく首を傾げ、にっこりとネコさんがいいました。クルクル巻いた長い髪が、その動きに合わせてふわふわっと揺れます。

「……ん?」

 困りました。

 いえ、自己紹介をするのはヤブサカじゃない、もとい寧ろ積極的に行いたいくらいなのですが、どうしたらいいですかね。私、喋れないんですよね。

「えーと? ん?」

 ああ、ネコさん困ってます。困ってますね。

 そうですねぇ。こうやって押し黙っていると、何かしら誤解を与えてしまいます。知的で寡黙な子だなぁ、なんて。まあ強いていえば、ちょっとクール系なのかな、なんて。あらあらいえいえ、その評価は確かに嬉しいのです。嬉しいのですよ。ただ、若輩者たる私としましては、それは来年成人したくらいに拝命したいと願っているわけで、それまではまだまだ身に余る評価なのですよ。

 ああ。

 そういえば。

 こんな方法もありましたね。あまりにも使わないので忘れてました。

「え? ええ? うん?」

 うんうん、そうそう。こんな感じで。

「あ、あー、なるほど。……手話、だね?」

 私はこくり、と頷きました。

「そっか、うん。……声、出ないんだね?」

 私は頷きます。でも正直なお話、私、手話なんて出来ません。でも、こんな感じでそれっぽく動かすと、皆さん私が喋れないのだと理解してくれます。便利なジェスチャーですね。

「うー……ん。私、手話は簡単なヤツしか解らないからなぁ」

 ヤバッ!

 ヤバイです!

「あー、お名前をちゃんと読み取るのは難しいよねー。あ! そうだ!」

 ネコさんはそういって、スカートのポケットから何かを取り出しました。

 何でしょう。羊羹?

 羊羹は美味しいですよね。羊羹。甘いです。やはり常備するなら羊羹が筆頭です。ネコさんもよく判ってらっしゃいます。羊羹は端っこの、砂糖がもりもりな部分が最高ですよね。

「コレコレ。ケータイ。お名前、教えて?」

 そうです。ケータイです。羊羹ではありません。いえ、判っていました。大丈夫です。ちょっと、一年ぶりくらいに見たのでうっかり見間違えそうになりましたが、大丈夫です。ケータイ、うん、ケータイ……電話、です。ですよね?

「使い方、判る?」

 何をおっしゃいますか。私、去年までは女子高生ですよ? ケータイ電話は皆持ってましたからね。クラスで持っていないのは私くらいでしたから。ばっちりですよ。

 どれどれ。

 えー……と。

 私はコレで何をすれば良いのでしょうかね。

「ああ、ごめんね。使い方判らないね」

 いえ、判ります。大丈夫です。今、ちょっとパ、パ、ぱぁ、あー……パケット、代? の心配をしていたんです。うふふふ。どうですか? 皆心配するんですよね。私、人様のものを取り扱う際は、必要以上に心配りをするんです。心配りですよ。

 つまり、心配です。

 心配といえば、パケット代です。

 うふふふ。ばっちりです。まさに玄人。飽径風霜とはこのことでしょうか。

「やっぱり自分が使ってるのとメーカーが違うと、ねー」

 そうなんですよ。私、まさにそう思うところでした。やはり、見たこともないメーカーのケータイ電話は扱いが難しい! そういうことですね。皆がそういってるのを聞いたことがありますよ。ありますね。間違いありません。

「はい。これでいいよ。お名前、教えてー」

 ネコさんはケータイ電話を私の手の上に置きました。

 さて。

 どうしたらいいですか。

 ケータイ電話の画面上では、なにやら棒のようなモノが点滅してます。画面から視線を下へ落すと数字が書いてあるボタンがありますよ。

 おっと。

 うふふふ。

 発見しましたよ。

 どういう意図でこんなに小さく書いてあるのか判りませんが、ボタンには数字以外にも平仮名が書いてあります。

 判ります。ここを指し示せばいいわけですね。指先確認、ということです。では、まず、ハスの「は」……っと。

 ちょっと待ってください。これ、おかしいです。

 おかしいですよ、ネコさん。

 だって、これ、あかさたなはまやらわ、しか書いてないです。

 えー?

 これ、どうしますか。どうしたらいいですか。ハスの「は」はいいです。でも、ハスの「す」はどうしますか。このままでは、「はさ」って伝わりませんか。いくらなんでも「はさ」はないです。これじゃ私の名前は「母祢はさ」ってなります。可愛くありません。可愛く無いどころか、文章で書くとまるで話しかけてるみたいです。

「母祢はさ、ちょっとクール系だよね」

 そんな感じで。

 これは困りました。いえ、ケータイ電話の使い方が判らないのではないのです。伝え方が判らないのですよ。ここ、大事です。

 気持ちを伝えるのは難しいですね。

「うー……ん。ね、ひょっとして、ケータイ、使い方判らないかな?」

 は?

 こ、これはこれは! ななななななな何をおっしゃっているのやららららら。

「うーんとね、ここ、ボタンね。でー、ここをこう何度も押すと変わってくんだよー」

 おお。これはこれは。そういう使い方をするのでしたか。いえ、そういう使い方をするのでしたね。ええ、うっかり忘れていました。ここ、大事です。

 では早速。

 私はネコさんのケータイ電話に自分の名前を打ち込みます。指先にカコカコと音が伝わるのが気持ち良いです。

「んー、はす? なるほど、ハスちゃんでいいのかな?」

 ネコさんは首をくてっと曲げいいました。私はその言葉に頷きます。

「うん。じゃ、ハスちゃんよろしくね」

 ネコさんは私の手を取り、にっこり笑います。私もつられて笑顔になりました。

「あはー、可愛いねハスちゃん。よし、それじゃー私の友達を紹介するね」

 そういってネコさんは、橋の向こうに居る人たちへ声を掛けました。

 ネコさんの声を聞いて、人影が動きます。人影は三人分。全員男性のようでした。

 一人はほっそりした、中肉中背の方。これは失礼な例えになってしまいますが、ちょっと意地悪そうなお顔をされてます。

 一人は……びっくりです! 何がびっくりかというと、頭が大変なことになってます! 爆発です! 記号で表すと「●」な感じの頭です! あれは大丈夫なのですか?

 最後の一人は、多分、男の人です。と、いいますのも、髪が肩ほどまであって、顔つきも男女の区別がつきません。いえ、多分男性かな? ってくらいは判るのですけど。すごく綺麗なお顔をされています。

「みんなー、このすごく可愛い娘はハスちゃん。髪も瞳も本物だってー」

 ネコさんはそういって私をきゅきゅきゅ、と抱きしめました。ネコさんの良い匂いが私を包み込みます。甘いです。

「ハスちゃん、このメンズは私の友達。キツネ、クマ、ナウマン象だよ」

「ちょっと待てコラッ! そんな紹介の仕方があるかよッ!」

 意地悪そうなお顔の方が凄い勢いでネコさんに詰め寄りました。

「えー、大体合ってるでしょー。ちなみにこの人がキツネ君だよ」

 ネコさんは男性を指差していいました。なるほど、目元なんかは確かにキツネっぽいと思います。私はこくこく頷きました。

「おいお前、頷いてんじゃねぇよ。俺の名前はミツネだ。くれぐれもキツネなんて呼ぶなよ。つか、お前らも何か言ってやれよ!」

「……俺はクマダ。まぁ、名前的にも体格的にもクマであってるからな。そう呼んでもらって構わない」

 低い声です。まるで本物の獣の嘶きのようでした。ちなみにクマさんは「●」の方です。モジャモジャです。これは……髪の毛ですよね? ……ですね。不思議という他ありません。 まぁ私は声を発し「不思議」ということは出来ませんが。

「で、その子どうしたよ」

 キツネさんがいいました。ちょっと不機嫌そうです。

「うん。それは今から訊くの。だよね?」

 ネコさんは私を抱きしめたままそういって、私の首に鼻筋を近づけてきました。く、くすぐったいです。

「うーん。良い香り。髪もサラサラだねー。綺麗だなー」

「ちょっと待てよ!」

 びっくりしました。髪の長い、たぶん男性、の方が私とネコさんの前に躍り出ました。

「何かな、シキ君」

「ネコ、質問だ。俺とそいつ、どっちが綺麗だ」

「ゲェ、またシキのバカが始まった」

「……見ているこっちが恥ずかしい」

「てめぇらは黙ってろ! で、どっちだ! 俺とその娘、どっちが綺麗だ!」

「ハスちゃん」

「のおおぉぉぉぉッ! おいネコ! 良く見ろ! 確かにそいつも美しいが、どちらかと言えば俺の方が美しいだろうが!」

「ハスちゃん」

「嘘だッ!」

「シキ君が男って時点で負けてる」

「なんだと! じゃ、切る! 切って女になる! なら俺のほうが美しい!」

 何を切るのでしょうか。ちょっとよく判りませんが、やっぱりこの方は男性のようです。見方によっては女性に見えてしまいますね。身長なんかは私より遥かに大きいですけど。

「おいネコ。結局この子は何だよ。早く訊けよ」

 キツネさんはやっぱり不機嫌そうにいいました。怒られているような気がしてちょっとドキドキします。

「五月蝿いなー。今から訊くよ。ところでキツネ君は手話判る?」

「キツネって言うな! それと、俺は手話なんて判んねーよ」

「クマちゃんは?」

「……生憎、俺も判らない」

 奇遇です。私も判りません。

「そっかぁー。どうしようかなぁ。私も簡単なものしか判らないし」

「……その子、喋れないのか?」

「うん、そうなんだよねー。だから、困ってるみたいなんだけど、どうやってお話訊こうかなって。うぅん。あ、ねねね、ハスちゃん。このメンズ、頭は残念だけど、大抵のことはそれなりに出来るんだよね。たぶん、いえ、絶対にハスちゃんの力になれると思うんだよ。だから、だからね?」

 ネコさんはにっこり笑います。

「私たちにも手伝わせて欲しいなー。困っていることは、みんなで解決しようよ。ね?」

 うん、それがいい。ネコさんはそういって私の手を握り締めました。

「ちょっと待てッ! それよりもだなッ!」

「ちっ! シキ、お前は黙ってろ。ネコ、安請け合いじゃないのか。俺は面倒ごとは嫌だぜ」

「キツネッ! 俺の話のが大事だろうがっ!」

「キツネって言うな! このナウマン象がッ!」

「イマカタだッ! 今万像ッ! ナウマン象とか無理やり読むんじゃねーよッ!」

「はいはい、すとーっぷ! 二人とも止める止める。ハスちゃん怯えてるじゃない」

 ねぇ? とネコさんがいいます。私はよく判らないのですが、とりあえず頷いておきます。

「ほらぁ。この駄目ンズがーって言ってるよー」

「言ってねぇだろ!」

「俺のが美しいだろ!」

「……それはもういいだろ」

 なんといいますか、とても賑やかな方々です。私には会話の端々しか理解出来ませんが、仲良しさんだということは判ります。ああ、まるで私とさっちんのようではありませんか。

 さっちんといえば、卒業式以来お会いしてませんね。

 さっちんは高校を卒業するのと同時、都会に行ってしまいました。私はケータイ電話を持っていませんし、そもそも持っていても喋ることが出来ないので、お互いの近況を知る術が無いのです。お手紙を書こうとも思いましたが、さっちんが今どこに居るのかさえ私には判らないのです。

 とても心配です。……心配ですね。

「ね、ハスちゃん」

 ネコさんが耳元で私を呼びます。私はまだネコさんに後ろから抱きつかれたままなので、軽く振り向くようにして顔を上げました。

「ハスちゃんはどうしたのかな? どうしてこの橋の上、こんな暗くなる時間に泣いていたのかなー?」

 どうしますか。どうしたら良いでしょうか。私は大切な帽子を風に飛ばされてしまったのです。ただその一言に尽きるのです。尽きるのですが、私にはそのことを伝える手段がありません。嚆矢濫觴。ことのあらまし。どうすれば、ネコさんに伝わりますか。

 喋れないのが、とてももどかしいです。本当に、もどかしいです。悔しい、ともいうのでしょうか。一人なら、こんな想いをすることもないのです。ですが、他の方と関わると、やっぱりこうやって何かしらの意思疎通を行わなければいけない場合があります。

 私は、私はその度に……。

 そう。

 そう、ですね。

 とても、とても惨めな気持ちになるのです。……なるのですよ。

 喋れないのは生まれつき。

 喋れないのは仕方がないこと。

 それでも、それでもやっぱり私は考えてしまうのです。

 もし、もしも私が喋ることが出来たなら。そうしたらきっと、こんな想いをすることもなく、お祖母ちゃんに叩かれることもなく、早瀬村の皆さんのためにもっと役立つことが出来た筈なのです。役立つ事が、出来た筈なのですよ。

「……ひょっとして、アレじゃないのか」

 呟くように「●」のクマさんがいいました。私は視線を上げ、クマさんを見上げます。でも、自然と視線が「●」に釘付けになります。

 あれは……ひょっとして何か入ってますか?

「何かな? クマちゃん、何を見つけたの?」

 ネコさんは橋縁に立ち、下を覗き見るクマさんの隣りへ行きます。

「何かナー。クマちゃん、何も見えないよ?」

「……ふぅむ。そうだな。間違いないと思うんだが。む。……ハス。こっちへ来てみてくれないか」

 クマさんから名前を呼ばれました。私はクマさんにいわれるまま、その隣りに並びました。左から順番に、ネコさん、クマさん、私の順番です。

 クマさんはとても大きな方です。私の小さな身体はクマさんの肩までもありません。自然と上を仰ぎ見るようになるのですが、視界いっぱいに「●」が広がっています。星空がちっとも見えません。大きな「●」です。

「……む。絶対に大丈夫だから、暴れたりしないでくれよ」

 クマさんはそういって、私を両手で持ち上げましたああああああああああああああああああああああああああああ! 怖い怖い怖い怖い怖い怖いです! 怖いです! わわわわわわ私、宙に浮いてます。眼下には川わわわわわわわ! 高い! 高いです!

 クマさんは私を持ち上げ、そのまま橋の外、川の上へ突き出しました。

「ちょ、ちょっとクマちゃん! 何やってんのーッ!」

「クマ! いくらそいつが俺に迫る美しさだからって、そこまでしなくていいんだぞ!」

「ちぃっ! シキ、てめーは黙ってろ! クマもキレて訳わかんねーことしてんじゃねーよ! イジメは一人でこっそりやれ! 問題になったら面倒だろうが!」

「……お前ら、落ち着け」

「ハァッ? バカかテメェは! イキナリこんなことしやがって、落ち着かなきゃいけないのはテメェだろうが!」

「そうだぞ、クマ! そこまでは俺も望んじゃいない! ちょうどそいつの美しさを認めてやってもいいかと思ってい――」

「テメェは紛れもなく馬鹿だよッ! バカシキッ!」

「……二人とも黙ってろ。……ハス。橋脚のところだ。そこからなら見えるだろう」

 きょ、きょ、きょうきゃく? 橋脚ですか? で、ですね?

 私はクマさんに促されるまま、本当に怖いのですが、恐る恐る下を覗きます。

 真っ暗です。

 川、真っ暗です。水が流れる音、そして橋脚に当たって流れが砕ける音。しぶき。白い、飛沫。

 白い?

 アレは何ですか。

 橋脚の部分、川の水より数十センチくらい上でしょうか、その場所に白い塊があります。ぼんやりとですが、確かに白い塊が見えるのです。

 あれは……。いえ、再度確かめる必要はありません。

 帽子がありました。あれは間違いなく私の帽子です。

「……どうだ? アレが原因じゃないのか?」

 クマさんは私をゆっくりと橋の上に下ろし、そう訊いてきました。

 私は頷きました。

「ハァ? どういうこった? 面倒臭いことじゃねーだろな?」

「キツネ、お前はまたそれか? お前のそういう生き方が美しくねーんだよ」

「黙れバカシキッ!」

「もー、止めなよー。ハスちゃんが怯えてるよ? この駄目ンズ、もうお仕舞いだな。もう駄目っていうより打ち止めって感じ。この、打ち止メンズが! って言ってる」

 ネコさんは「だよね?」と首を傾げながら訊いてきました。私はその意味がよく判らなかったのですが、とりあえず頷いておきます。

「なんだとッ!」

「ハァッ?」

「……俺も入ってるのかッ?」

 男性三人が、それぞれに身を乗り出して声を上げました。私はびっくりして、よろけてしまいました。

「おっと!」

 ふらついて、転びそうになったところを、えー……っと、ゾウさん? シキ、さん? が助けてくれました。

「おい、気を付けなきゃいけないぞ。美しい顔に傷でもついたらどうするんだ。いいか、美を汚すヤツには天罰が下るんだからな」

「けっ! バカシキがッ!」

「馬鹿野郎ッ! 男女問わずイケメンってのはな、ある意味超越した存在なんだよ! 常識じゃ測れねーんだ! 判るかボンメン!」

「……新しいな。凡人面ってことか」

「確かにお前は超越したバカだッ!」

「ハス、だったか。気にするな。アイツはな、俺達の美顔に嫉妬してるんだ。これはな、持たざる者が須らく抱くものさ。許してやって欲しい」

 私はとりあえず頷きます。でも、その、何といえばいいのでしょうか、その、あの、ですね、お顔が近い! お顔が近いのですよ!そ、その、嫌、という訳ではないのですが、ああ、いえませんけどね! いえ、気恥ずかしさが、ですね。な、何と表現すればいいのでしょうか。と、とにかく私、身体中が熱いです。どうしてしまいましたか。どうしたらいいのですか。

「ハス」

 は、はい、何でしょうか。私はシキさんに抱かれたまま、返事の代わりに頷きを返します。

「お前、本当に美しいな。その美しさたるや、俺を僅かに下回る程、と言ったところか」

 きょ、恐縮です。

「それに生来の金髪というものが、これほどに美しいとはな。金糸とはよく言ったものだ。俺の黒絹と表現される髪と同等かそれ以下だろうな。それとそのサファイアのような瞳。俺の黒曜石と揶揄される瞳が甲とすれば、お前のは乙と言ったところか」

 あ、ありがとうございます。

「おいおい、結局テメェが上って言いたいだけじゃねーか! おいハス! こんなバカは相手にしないでいいぞ!」

 キツネさんが呆れた様子でいいました。

「こらこらシキ君。中学生の子にそんな接近しちゃ駄目だよー。犯罪だよー」

 ね、ネコさん?

 今、何といいましたか?

 今、ひょっとして中学生といいましたか? いいましたね? それ、私にいいましたか? ネコさん! 私、来年成人します! 大人の一歩手前です! 確かにネコさんのように大人っぽくはありませんが、いくらなんでも中学生はあんまりですよー!

「……そろそろ、いいだろ。話を戻すぞ」

 まるで野生動物の嘶きのような、とても低い声でクマさんがいいました。

「ああ、そうかー。そうだったねー。で、ハスちゃん?」

 ネコさんは私とシキさんを強引に引き離します。が、今度はネコさんが私をきゅうきゅうと抱きしめ始めました。ネコさんはとても良い匂いがして、こうしてくっついているのは嫌いではないのですが、その、シキさんとはまた違った気恥ずかしさがあります。はう。どうしたら良いのでしょうか。

「ふん! 面倒な話なら俺はパスだ」

 キツネさんがそっぽを向いてしまいます。

「……まぁ、聞け。とりあえず、そこのハスだが、どうやら帽子を落としてしまったらしい」

 クマさんは確認するように私を見ます。私は小さく頷きました。

「ん? 帽子? 何処にあるんだ?」

 シキさんが橋の下を覗きこんでいます。ああ、ソコからじゃ、たぶん見えないと思います。私も先ほどクマさんに……ふうううううっ! か、身体がズーンッてなります。だ、駄目そうです。さっきの出来事、クマさんに抱えられて宙に浮いたのを思い出すと、ちょっと、駄目そうです。

「うん? どうしたの、ハスちゃん? 泣きそう? もう少し泣いちゃう? いいよ、泣いても。そのあいだ打ち止メンズは向こうに行かせるからねー?」

 ネコさんは、両腕にきゅっと力をいれ、私を強く抱いてくれました。ネコさん、優しいです。でも、泣いてしまうとかじゃないです。私は大丈夫ですよ、と首を振りました。

「そぉう? 無理しないで良いからね。それと、問題はちゃんと解決してあげるから、心配しないでね」

「チッ。そんな安請け合いしてんじゃねーよ。話の流れからすると、橋の下にある帽子を取ってやるってことだろ? ネコ、お前橋の高さ見ただろ? どうするんだよ面倒臭ぇ」

 キツネさんは溜息交じりにいいました。

「……近くに橋脚へ降りれる場所はないか?」

 橋脚へ降りる場所、ですか。階段とか、そういった類のモノのことですかね。もしそうならクマさんがおっしゃるようなものはこの近くにはありません。階段を使い川へ降りるためには、ここからもっと下流へ行かなければいけません。私は首を振り、そう伝えました。

「……そうか。川の深度はどうだ? 深いのか?」

 今の時期、川はいくつかの場所で堰を作ってあります。この橋、一本松がある場所は流れの中腹になっていて、現在は随分と深度があると思われます。私は深く頷くことで、そのことを伝えました。

「うーん、困ったねー」

「ケッ。ネコ、お前あんまり困った風じゃねーな。んで、どうすりゃいいんだよ、クマ。本当に、面倒そうなら俺はパスするぞ」

 ネコさんの様子に呆れたキツネさんが、クマさんに訊ねました。うふふふ。まるで絵本のようですね。

「……そうだ、な」

 クマさんは腕を組み、何やら思案しはじめました。

「なぁクマ、その頭の中にはなんか入ってねーのかよ?」

「……ふぅむ、どうだったかな」

 キツネさんにいわれ、クマさんは「●」の中に両手を入れました。

 や、やはり……何か、入っているのですね?

「……とりあえず、今はこれだけ、だな」

 クマさんが「●」から色々なものを出します。えぇと、あれは金槌、でしょうか。それからナイフ、ルーペ? 先の尖った棒? などなど。私は並べて置かれていくそれらを、呆然となりながら見ていました。

「クマ、お前本当にそんなとこにモノ入れてるのかよ。ちょっと、美しくねーな」

 シキさんが後ずさりしながらいいました。私は寧ろ興味を引かれてしまいますが。

「……説明が、必要か?」

 私があまりにも物珍しく思っているのが伝わってしまったのか、クマさんがそういってくれました。

「……これはだな、巡検に赴く際、野外採集をおこ」

「はいはーい。クマちゃんストップストップー。それは今必要ないからねー。はい、すぐに仕舞ってちょーだい」

 私を後ろから抱きかかえるようにしていたネコさんが、クマさんの言葉を遮りました。クマさんは「……ぐむぅ」と唸り声を上げ、足元に並べたものをひょいひょいと「●」の中へ放り込んでいきました。

 いやいやいや。おかしくないですか?

 おかしいですよね?

 いくら私でもそれは判ります。だって、いくら奇抜だとはいっても、それは髪の毛なのですよね。髪の毛の中に、そんなにモノが入るのですか? いえ、大きさをいえば「●」はとても立派です。見た目も随分と硬そうですし、きっと触ってみてもそうなのでしょう。でも、だからといって、あれほどのモノと量が収まるものなのでしょうか。

 おかしいです。

 いえ、おかしいを通り過ぎてミステリーです。これはアレですか。フォックスさんとダナさんが調べに来るのではありませんか? もしくは、雷門竜太さんや空子さんとか。私の頭の中で、奇々怪々なストーリーが展開されてしまいそうですよ。

「チッ、結局どうするんだよ。ネコ、本気で下まで降りて帽子を取るのか? 面倒臭ぇなんてもんじゃねーぞ?」

「大丈夫だよ。ねぇ、シキ君?」

 私を後ろから抱いたまま、ネコさんはシキさんへ話を振りました。

「あ?」

 シキさんはちょっとびっくりしたようにこちらを見ます。いえ、見ているのはネコさんの方なのでしょうけど、ネコさんのお顔は私の横にあって、その、なんといいますか、必然的に私を見ているように見えてしまい、そうすると先ほどの間近に迫ったお顔を思い出してしまうというか、うー……思い出すとまた身体が熱くなってしまいます。しまうのですよ?

「シキ君、帽子とってきてくれないなかなー? とってきてくれると嬉しいなー」

 ネコさんは「そうだよね?」と私に訊いてきました。私は唐突のことで、話の流れがよく飲み込めませんでしたが、とりあえず頷きを返しました。

「ほらー、ハスちゃんもそうだって」

「なんだ? いつの間にか俺が帽子をとってくる流れになってたのか?」

「……シキ、今のやり取り何も聞いてなかったのか?」

「ああ、ちょっと考え事してた。いや、川を覗いてたら、暗がりの中たまに俺の顔が水面に映ってな。あ、イケメンだ……ん? イケメンか? いや、イケメンだったか? いや、イケメンで間違いないはず――みたいな、な? こう、チラリズムってのか? それが気になってさ」

「ああ、それイケメンだぜ。間違いねぇよ。お前が見たのはイケメンだ」

「おお、やっぱりそうか」

「そう言やぁ、シキ、この村で聞いたんだけどな? 以前この橋で、大層顔のいい男が足を滑らせ、橋から落ち死んだらしい。でな、下流の方で死体が見つかったとき、その顔は岩で潰れ、虫に食われ、ぽっかりと穴になってたんだと。それからよ、この橋から水面を覗くとたまに死んだ男の顔が映るらしいぜ?」

「マジかよ!」

 マジですか!

「マジだぜ。でな、その死んだ男の顔は誰にでも見えるわけじゃ無いんだと。さっきも言ったとおりな、その死んだ男ってのは、大層顔が良かったんだ」

「つ、つまり?」

 ど、どういうことですか?

「どうやらイケメンにしか見えないらしい」

「おお、お、おぅ。な、なら、それが見えた俺はイケメンであることが確定されたわけだな?」

 おお、な、なるほどです。

 と、ところで先ほどからいわれている「いけめん」ってなんでしょうか?

「でもよ、なんでイケメンにだけ……」

「ああ、そりゃ自分の顔を捜してるんだろ。自分の穴になった顔の代わりになるような、な。ボンメンの俺にゃ関係ない話だけどよ」

 キツネさんは口の端を吊り上げ、歪な笑みを浮かべました。対照的にシキさんのお顔は引きつり、汗が額を滑り落ちています。

「で、何の話だったか。なぁ、ネコ?」

「えー、そこで話を振るかなぁ。んー、シキくん、あのね、私とハスちゃんからのお願いなんだけどー……」

「断る!」

「えー、そんなこと言わないでー。こんなこと頼めるのシキ君しか居ないよー」

「なんだよ! どうせアレだろ? 帽子とるついでに幽霊と顔を取り替えろとか言うんだろ? んで、穴の開いた顔でも俺がイケメンかどうか調べたいんだろ! お前らバカか! 顔が無きゃイケメンかどうかなんてわかんねぇだろ! いや、ひと回りして顔が無くても俺はイケメンだろ!」

「……お前は、本当にバカなんだな」

「クマ、今更だぜ。コイツは生まれたときからバカだ」

「はッ! 言ってろよ! 馬鹿? 大いに結構だとも! 馬! 鹿! 象! 三匹揃えば二十点はいけるだろ!」

 おしいです! 正解は猪鹿蝶! 微妙にありそうな出来役なのが、ほんとうにおしいです。でも、存在しない札で点数は戴けませんよ? ちなみにシキさん、猪鹿蝶は五点で、出来役中最高得点は五光の十点となっています。二十点はちょっと突き抜け過ぎですね。

「シキ君、なんか私悲しくなってきたー」

「泣くなネコゥッ! それじゃ俺が本当にバカみたいじゃないか!」

「本当にバカじゃねぇか」

「……本当のバカ、かもしれんな」

「あ、ねぇねぇー。そんな状態を誇張して表す漢字ってないのかな? 例えば、轟とかー、姦とかー、品とかー、森とかー、晶とかー、そんなつくりでトリプルバカって漢字ー」

 なるほど。

 では、ちょっと違いますが、私は「囁」を推してみたいです。

 クチにミミ三つ。

 つまり、パンを頬張る様子です。膨らんだお顔はちょっと滑稽です。

「そんなバカを誇張する用の漢字があってたまるか! 俺がバカならお前らは人でなしだッ!」

「私ネコ-」

「……俺は熊」

「不本意ながら俺は狐でね。お? 人は居ないみたいだな。んじゃ、シキ、テメェだけがバカな」

「ハスが居るだろ!」

 私はお花です!

「ぬ! ハス、お前自分は関係ないみたいな顔してんじゃねー。言っておくけどな、美しさは俺のがう」

「うるせぇバカシキ! さっさと帽子とって来いッ!」

「て、てめ、蹴るなッ!」

「そうだよー、シキ君早くとって来てー」

「……空気読め、シキ」

「なんだよ! 何が空気だよ! 何で当然のように俺が行かなきゃいけないんだよッ! おかしいだろ! みんなで助け合おうって考えはないのか? 人は一人じゃ何も出来ないんだぞ! だからみんなで手を取り合うんだろ! 知恵を出し合うんだろッ!」

 素晴らしいです! 素晴らしいお言葉ですよ、シキさんッ!

「おいおい、イケメンは何でも出来るんじゃねーのかよ」

「……超越、しているんだったな」

 それは……先ほど私も伺いました。

「シキ君、不思議だね。さっきまでイケメンに見えてたシキ君の顔が、何かイマイチに見えるよー」

 ネコさんが溜息混じりに呟きます。

「行く! 俺、帽子とりに行ってくる」

「うお! 何だよシキ! お前、そんなにイケメンだったっけ? ちょっと見ない間、いや、まばたきしただけで、こんなに変わるモンかよ」

「うはははははは! いや、シカタネェよ。うん。確かにさっきのヘタレな俺はイマイチだった。うん。でも、どうだ? 今の俺は美しいだろ? なぁ、ハス、今の俺はお前より美しいとは思わないか?」

 急に話を振られました。

 正直、いけめんというのがどういうことか判りませんが、それでもシキさんの必死な言葉に応えたいと思えました。私は深く、深く頷きました。

「よしキタッ!」

 シキさんは自分の膝を叩き、「パァンッ」と小気味良い音を響かせました。

「……おいおい」

「クマ、別にいいだろ。せっかく盛り上がってきたんだ、シキに任せとこうぜ」

「……それは、まぁ、うむ。……しかし、そうなるとシキ、どうやって橋脚へ行くんだ?」

 難しそうにいうクマさんを見て、シキさんは「ふん」と鼻を鳴らしました。

 シキさんは橋の欄干に跳び乗り、綺麗なターンを描き、こちらを見下ろします。

「飛ぶ。ここから飛ぶ」

 シキさんはそう宣言しました。

「危ないよー」

 ネコさんがちっとも心配してなさそうな声でいいました。でもネコさんがいうとおり、それはとっても危ないです。今その場所に立っているのだって危ないです。下を見てください。とても高いです。とても怖いです。さっき私も宙ぶらりんになって、身をもって知りました。し、知りましたね。ふうううううう! う、うう! か、身体がズーンってなります。

 とにかく、それほど怖いです!

「でも飛ぶ。橋から飛ぶ俺、超格好いい」

「お前はどこの中学生だよ」

「……病気だな」

「んー。で、飛んでその後どうするの?」

 そうですよ。もう一度川岸から上がるためには、ここからもっと下流まで行かなきゃいけません。水深もあり、流れだって緩やかとはいえません。それはとても危険です。

「いいんじゃねぇの? シキが上手くやれば丸く収まるんだし」

「……しかし、何かしらのアクシデントが起きる可能性だってある」

「んー。そうなんだよねー。これって、飛び込むのが最短の解決方法なんだけど、リスクが大きいもんね。命の危険があるのは否めないもんナー」

 ネコさんのいう通りです。キツネさんの話ではありませんが、橋から落ちて亡くなってしまうことだって、可能性があるんです。あるのですよ。

「いやー、あのさ」

 シキさんは軽く咳払いをして続けます。

「結局、危ないならとらない。危なくないならとる。そんな話じゃないんだろ。ハスの大事な帽子があそこにある。ハスが困ってる。なら、すぐにとってやろうぜ。リスクなんて関係ないよ。おお、よく考えてみりゃ簡単な理屈だよな」

 とても、自然に。そうであることが、当たり前というように。シキさんは事も無げにそういいました。

 シキさんは橋の欄干の上で、吹き抜ける風にその長い黒髪をなびかせます。それを気だるそうにかき上げた後、おどけるように肩を竦めてみせました。

「んじゃ、回収よろしくな」

 その言葉と同時、シキさんは踊り出すようなステップで欄干を蹴り、暗い川に向かって飛びました。

「お、おいシキッ!」

「クマちゃん後追って!」

「……む!」

 何かが弾けるような、そんな勢いで状況が変化します。クマさんは上着を脱ぎ、欄干を越えてシキさんを追いました。

「俺は下流へ行くッ! クマの誘導任せたぞッ!」

 キツネさんは言葉を残して川沿いを下流に向かって走り出しました。

「シキ君! 返事ッ!」

 ネコさんは欄干から身を乗り出して、川へ向かって叫びます。

 返事は聞こえません。

「クマちゃんッ! 返事ッ!」

 ネコさんが続けて叫びます。

 一瞬の空白。

 それでも悪い想像が脳裏を過ぎるのには十分な隙間です。ツバを飲み込むくらいの間を置いて、声が聞こえました。

「……二人とも無事だ」

 橋の下、川の中から低く通る声が聞こえました。私は、ほぅ、と息が抜けました。それはネコさんも同じだったようで、私の方へ振り返り、困ったような笑顔を浮かべました。

「……ネコ、どうすればいい」

「シキ君は?」

「……暴れたから気絶させた」

 え?

「なら、安心だね」

 ええ?

「……水は、飲んでないはずだ」

 ああ! そういうことですか。なるほどです。

「キツネ君が下流に待機してる。流れに沿って、左側。ソコ目指して泳いでくれる?」

「……了解した」

 クマさんの声がした後、一際大きな水の音が聞こえました。泳ぎ始めたのでしょうか。私は怖くなってしまい、橋から下を覗くことができません。

 だって。

 だって、こんなに高いところから、シキさんは飛び降りました。

 私の、帽子のために。

 私が何も出来ないせいで。

 そう考えると、私は足が震え、橋の下を覗くことが出来ませんでした。

「ハスちゃん」

 ネコさんの声に反応するのが遅れました。私が顔を上げたときにはネコさんが目の前まで来ていました。

「わ! 顔真っ青だよー。大丈夫?」

 私は、いいんです。それより、シキさんとクマさんはどうなりましたか。

「ちょっと座る?」

 一瞬気持ちが揺らぎます。この場所でへたり込みたい気持ちが沸きあがって来ます。でも、でも、それは出来ないです。それはやってはいけないような気がします。強迫観念に似た、そんな強い気持ちです。

 私はネコさんの言葉に首を振りました。

「そぉう? まーいきなりだったからなぁ。シキ君の行動も唐突だったし。ちょっとからかい過ぎたねー。こればっかりは反省しなきゃだね」

 ネコさんはそういって、ふぅ、と息を吐きました。

「言い訳になっちゃうんだけどね」

 はい?

「言い訳になっちゃうんだけど、正直な話、シキ君が飛んじゃうって思ってなかったんだよねー。たぶん、みんなもそうなんじゃないかなー」

 どういうことでしょうか。

「シキ君ね、泳げないんだよ」

 ネコさんは苦いものを噛み潰すような表情で、そういいました。

 シキさんは泳げない。

 シキさんは泳げないのに、橋から飛びました。

 何故、飛びましたか。

 それは、私の帽子のため。私の帽子をとるためです。

「基本的に、シキ君は誰にでも優しいんだよ。誰かが困っていたら、なんだかんだ言いながら助けてあげるのね。でもね、まさかここまでやるとはナー。考えも付かなかったし、何よりびっくりしたよ」

 優しい、という言葉だけでは理由がつきません。一歩間違えれば、それは命を危険に晒す行為です。泳げないなら、なおさらです。

「うーん。ね、ハスちゃん。ハスちゃんとシキ君は初めて会ったのかな?」

 それは、どういう意味でしょうか。ネコさんの言葉が、それ以上の意味を持っていないとしてなら、私はシキさんにお会いするのは、今回が初めてです。私は頷くことで、それを伝えました。

「そうかー。知り合いでもないのに、どうしてここまでしたのかなー」

 ネコさんは、うーん、と首を捻りました。

 シキさん。

 何故、そこまでしましたか。

 シキさん。

 泳げないのに、何故飛びましたか。

 シキさんの言葉。

「リスクなんて関係ない」

 その言葉は「知って」います。

 何かを得る為に何かを失う。

 得るものによっては、何かを顧みる必要なんてない。そういう場合があります。ありますね。

 では、シキさん。

 あなたにとって、その帽子はそれほどの価値があったのですか。

 それは……。

「ね、ハスちゃん」

 私はネコさんに呼ばれ、我に返ります。目の前のネコさんは柔らかい笑顔です。

「気にしちゃ駄目だよー。メンズはね、基本女の子を助けるのに躊躇なんてしないんだから。時にはこんな大それたことだってやってのけるんだよ。私たち女子はね、とっておきの笑顔でお礼を伝えれば良いからね」

 ネコさんはそういうと、私の手を取りました。私はどういう表情をすれば良いのか判りませんでした。

「そろそろ岸に着くんじゃないかなー。行ってみよう」

 私はネコさんに手を引かれるまま、一本松を後にし、下流へ向かいました。

 私一人では、きっと歩けませんでした。なぜなら、私はとても心が苦しいからです。出来るなら、シキさんにお会いしたくありません。

 いえ、そうじゃないんです。

 そうじゃなくて。

 そう。

 あわせる顔がない。

 このように表現するのでしたか。でしたね。

 私はシキさんにあわせる顔がありません。どのような顔をして、シキさんの前に出ればいいのですか。シキさんは泳げないそうです。それなのに、シキさんは私のためにと、川へ飛び降りました。

 泳げないのに。

 自分のことは顧みずに。私が大事にしている帽子だから、という理由で。シキさん自身には少しも関係がない理由で。

 ネコさん。私、どうしたらいいですか。私の手を引きながら、眼の前を歩くネコさんの背中に尋ねてみます。ネコさんの背中は何かしら焦っているようでした。

 当然です。

 お友達が、川へ飛び込んだのですから。

 そのお友達は、泳げないのに。

 初めて会った、口のきけない、そんな相手の為に。

 どうしたらいいですか、ネコさん。

 私、どうしたらいいのでしょう。

 そんな自問自答を何度も繰り返しました。でも、その答えの端を掴むことも出来ないままに、私はシキさんたちの前へとたどり着きました。

 シキさんはすでに目を覚ましていました。

「シキ君だいじょうぶー?」

 ネコさんはいいました。

「大丈夫、は大丈夫なんだが。それよりもな、途中から記憶が無い」

「それはシキ君が気絶してたからじゃないかナー」

「いや、それはそうなんだけどよ。なんつーか、飛び込んで、橋脚にしがみ付いたんだ。そしたら横で大きな水しぶきが上がって、んで、気が付いたらここに居た」

「うん? どういうことかな?」

「ケッ。大方、クマのヤツが状況確認せずに殴ったんだろ」

「……ぐ、むぅ……まぁ、暴れられると危ないからな」

「酷ぇ! 俺、そんな理由で殴られたのかよ? つーか、鳩尾がすっげぇ痛いんだけど」

「水の事故で、急難者が暴れて救助者共々死んじまうってのは多いらしいからな。まあクマの判断もあながち間違っちゃいねぇよ。それよか問題なのは、水の抵抗がある中、一撃でシキを仕留めたことだよな。どんだけの力で殴ればそうなるんだ? 憎しみの度合いがハンパねーな!」

「クマちゃん、そうなの?」

「……憎しみは、愛情の裏返しだ」

 いいえ。

 愛情の裏返しは、愛情の反義語とは「無関心」なのですよ。

「ハスッ!」

 は、はい? 私は声の方へ顔を向けました。シキさんが私を見ています。私はつい視線を下げてしまいました。

「ハス、ちょっとこっち来い。正直な話、殴られたのが痛すぎて動けねぇ」

「……ぐ、ぐむぅ。顔は殴らないでおいただろ」

「当然だ。クマ、もし顔に傷をつけていたら、俺はお前を一生許さねぇ。そのアフロが無くなるまで毟る。毟り尽くす。一塊も残さない」

 シキさんは、ビタァッ! っと人差し指をクマさんに向けました。

 私は、シキさんの前へ行こうとしましたが、足が動きませんでした。

 前へ、進めません。

 私、動けません。

「ん? どうした?」

「あー、メンズ、向こう行って!」

「面倒臭ぇ、なんだよ?」

「うるさいナー。んじゃ下向くか向こう見てて」

 ネコさんの声が、ちょっとトゲトゲしていました。

「お、おお?」

「……む」

「チッ」

 シキさんたちの声は、何かを納得したような、そんな感じでした。

 どうしましたか。

「ハスちゃん、おいで」

 ネコさんはそういって、私を抱きしめました。私はネコさんの胸に顔を埋めるような、そんな体勢になりました。

 そして、気付きました。

 私、泣いていました。

 また、泣いていました。

「いいよ-。大丈夫。大丈夫だよ。びっくりしたね。心配しちゃったね。恐かったもんねー。でもね、大丈夫。もう大丈夫だからね。ちゃんと解決。ばっちり解決。だから、安心していいんだよー」

 ネコさんは私の髪をクシャクシャと弄りながら続けます。

「それとも……自分を責めてるのかナー」

 ネコさんの腕がより一層、私を強く抱きました。

 自分を責める。よく、判りません。私、どうしたのか、よく判りません。判らないんです。でも、涙が止まりません。止まってくれません。このままでは皆さんに迷惑をかけてしまいます。

 いいえ。

 もう、たくさん迷惑をかけてしまいました。私、ずっと、ずっと、皆さんに迷惑をかけています。かけ続けています。また、迷惑をかけました。私、迷惑をかけたくないです。誰にも迷惑を掛けたくないです。私、役に立ちたいんです。もっと必要とされる人になりたいんです。

 それなのに。

 そう、思っているのに。

 初めて会ったばっかりなのに。

 私は、また、迷惑を。

 私はどうしたらいいですか。どうしたら大丈夫なのですか。どうすれば、こんなことにはなりませんか。判りません。判らないです。私、判らないですよ。

「よっしゃッ!」

 突然、シキさんが叫びました。

「ど、どうしたの?」

「オラッ! クマ、キツネ、手を貸せ!」

「キツネって言うな!」

「……つかまれ」

 私は顔を上げ、シキさんを見ます。私を抱くネコさんもびっくりした表情でシキさんを見ています。

「うおおお! 超イテェッ! 腹筋が超イテェッ!」

「……ぐ、うむ」

 シキさんはクマさんとキツネさんの手を借り、ゆっくりと立ち上がります。その姿は見ている方にも痛みが伝わってくるほどでした。シキさんは少しずつ進みます。その歩調はとても覚束ないものでした。

「あはー。……シキ君、トドメをさしていい?」

「ネコゥッ! 相変わらず微妙に性格悪いな!」

 シキさんは頼りない足取りで、ゆっくりとこちらへ近づいてきます。

「いや! 三人並ぶと不気味ッ!」

 ネコさんは私を抱いたまま、ざざざっと後ずさりをしました。

「ちょ、ちょっと待て! 今ワザと距離を取っただろ! マジで辛いんだぞ! お前は本気で性格悪いな! いたぶるのがそんなに楽しいか! 楽しいのか!」

「ネコだけにー」

「最悪だな!」

「……ネコ、勘弁してやってくれ」

「えー。うーん。はーい」

 ネコさんは私から離れます。その離れ際、ネコさんが私の背中を押しました。私は勢いに負け、ふらふらとした足取りでシキさんの前へ出ました。

「ふぅ。二人とも、もういい。助かった」

 シキさんはクマさんとキツネさんを下がらせました。

「ハス」

 は、はい。

「濡れちまって、すまねぇ。完璧に事を運びたかったんだけどな。今回ばっかりは美しくねーな」

 そういったシキさんの手には、白い帽子。私の帽子が握られていました。

「もう、手放すなよ」

 シキさんはそういって、私の手に帽子を握らせました。

 私の両手に、慣れ親しんだ帽子の感触が戻ってきました。随分と水分を含んで、幾分汚れも見受けられますが、それでも私の手にはいつもの感触がありました。

 帽子は、私の手に戻りました。戻って、きました。

「うお! な、泣くなよ。ま、まぁ、気持ちは判るけどさ」

 私は帽子を握り締めたまま泣きました。顔を隠すこともしませんでした。

 私は泣きました。

 とても、申し訳なくて。

 とても、苦しくて。

 私は、自らの不注意で皆さんに迷惑をかけてしまったのです。居た堪れない。そう、居た堪れないのですよ。私の心は悲鳴を上げていました。帽子が手元に戻った安堵感より、皆さんに迷惑を掛けてしまった悔恨の念が私の心を埋め尽くしました。

 本当にこれで良かったのでしょうか。自問自答が頭の中で何度も駆け巡ります。確かに私は助けを求めました。誰かに助けて欲しいと願いました。そしてこうやって願いは叶えられました。見ず知らずの方を危険に晒し、私の願いは叶えられたのですよ。

 こんなこと、良いわけ無いです。良いわけ無いですよ。私は押し寄せる後悔に歯を食いしばります。目から零れた涙が、手に持った帽子を濡らしました。

 お母さんの形見の帽子。とても大切な帽子。でも、どんなに大切だったとしても、他の方に危険を冒させることは間違っていませんか。私、どうしてすぐに気が付かなかったのでしょう。こんな風になって初めて気付くなんて、どれだけ後悔しても足りません。

「あの、よ?」

 シキさんは溜息混じりに私の顔を覗き込みます。私は気恥ずかしさと申し訳ない気持ちが相まって、そっぽを向いてしまいました。でもシキさんは私のそんな態度を気にする様子も無く、その手を私の頭に置きました。そしてゆっくりと髪を梳くように手を滑らせました。

「ハス。その帽子はとても大事なんだよな?」

 私はシキさんの手に思わず首を竦めながら、小さく頷きを返しました。本当なら、シキさんに対してこのような態度をとることは間違っていると思うのです。でも、どうしても私はシキさんを正面から見据えることが出来ませんでした。

「うははは。そんな縮こまるなよ。まぁ、俺にはその帽子にどれ程の思い入れがあるのか判らない。俺に判るのは本当に大切なんだろうなってことくらいだ」

 私は頷きます。帽子は、本当に大切なんです。でも――。

「だったら胸を張れよ。お前は何も悪いことはしちゃいない。やましいこともないし、後悔することなんてもっての外だ。俺にとっちゃ、そんだけ大事なものをお前の手に戻してやることが出来たんだぜ。そういう充実感で満たされてる。価値のある行動だった、そう思わせてくれよ」

 頷けません。私、そんなこといわれても頷けませんよ。どんなに優しい言葉を戴いても、シキさんに危険を冒させたことは事実なのですから。

「どうした? 俺が言ってること伝わってるよな?」

 私は頷きます。

「ふーん。その割にはなんか釈然としてないって感じなのか? ま、伝わってるならいいや」

 シキさんはちょっと残念そうな表情をしていいました。その表情を見て、私はまた後悔をしてしまいました。胸がチクチクします。帽子のツバを掴んだ指先に力が入ります。大切な帽子はその形を苦しそうに歪めていました。どうして上手くいきませんか。何故上手くいきませんか。私の行動全てが悪手になってしまいます。このままでは駄目だということは判ります。どうにかしなければと心が急かしています。では、どうしたら良いですか。私の何処が悪かったのでしょう。悪い部分があればすぐにでも省みなければいけません。私の悪い部分。悪い部分です。

「ハス、お前頭の中では色々考えてそうだな。でもやっぱ喋れないってのは煩わしいな」

 あ。

 私の頭の中で何かが合わさる感じがしました。合致しました。そうです。そうですよ。私の悪い分部なんて考えるまでも無かったです。明明白白ではありませんか。

「バカシキッ!」

「シキ君ッ!」

「……シキ!」

 キツネさん、ネコさん、クマさんが同時に声を上げました。シキさんは不味いものを口にしたような、そんな感じで右手を口に当てていました。

 仕方、ないです。仕方がありません。仕方がないのですよ。シキさんが悪いところなんてありません。悪いのは私です。私が悪いのです。

 私は生まれつき声帯が無くて。だから喋ることが出来なくて。私は、か、寡黙で、ちょっと、知的なイメージ……。イメージが、あって。

 仕方ありません。仕方がありませんよ。それに私はそんな冠が、す、好きで、気に入ってるんです。だから大丈夫。大丈夫です。私は、仕方ないと思っています。納得してます。大丈夫。納得していますから。

 えへへへへ。

 今更じゃないですか。

 私は、私は、私は、私は、私は!

「お、おい! ハスッ!」

「ハスちゃんっ!」

 私、走り出していました。

 シキさんとネコさんの声が背中に届きます。

 私、逃げるように、走り出していました。

 何か、聞こえます。

 今度は、キツネさんとクマさんの声、だったと思います。

 でも、私は止まりません。振り返りません。先ほどまで動かなかった両足はまるで嘘のように力強く地面を蹴ります。川沿いに咲く草花を踏みつけ、背の高い草の脇を抜け、畦道の土を蹴り上げ私は走ります。私は川沿いを村に向かい一直線に走ります。

 私は脱兎の如く駆けます。誰も追いかけてくる気配はありません。でも心はもっと早くと私を追い立てます。早く、早く、早く。振り返るな。振り返っちゃ駄目です。逃げなきゃ。逃げなきゃいけません。

 何から? 何から逃げますか? 途切れる息の中、私は必死に考えます。

 心苦しさから逃げているのですか?

 居た堪れなさから逃げているのですか?

 申し訳ないから逃げているのですか?

 確かにそうです。そうなんです。でもどれも違います。違うんです。では何ですか。何から逃げているのですか?

 言葉。さっきの言葉。シキさんの、言葉?

 でも。

 でもそれは紛れもない事実で。どれだけ早く走っても振り切ることも、置いていくことも出来ない事実で。どこまで走っても、どんなに速く走っても振り切ることは出来ません。まるで頭上で輝く月のように、走っても、走っても、ずっと私の後を追いかけてきます。たとえ家の中に逃げ込んでも、私を探すように窓から光が差します。逃げる場所なんて、ないのです。私はその事実から逃げ切ることなんて出来ないのです。それなのに、何故、私は逃げていますか。無駄だと判っているじゃないですか。ちゃんと納得している筈じゃないですか。

 では、私はいったい何から逃げ続けているのでしょうか。

 意味がないと判っている筈なのに。

 私は。

 私は。

 私は。

 私は、いったい何をしているのでしょう。

 気が付くと、私は家の前に立っていました。恐る恐る後ろを振り返ってみます。視線の先には暗闇があるばかりでした。私は一本松から足を止めず、ひたすら走り続けたのですね。今になって両膝がガクガクと震えだします。酸素の少なくなった肺が新鮮な空気を欲しがります。バクバクと脈打つ心臓はとても五月蝿く、早鐘のようだと思いました。

 そういえば。

 家に辿り着いたことで、私は幾分冷静さを取り戻していました。だから気が付きます。私は、結局お祖父ちゃんを見つけることが出来ませんでした。お祖母ちゃんから戴いた仕事をこなせませんでした。隔靴掻痒といえばいいのでしょうか。いえ、それはお祖母ちゃんが使うべき言葉です。私なんかが考えるべきことではありません。今の私の状態を例えるなら、夏炉冬扇。もしくは六菖十菊が相応しいです。

 本当に、私は駄目です。まったく人の役に立てません。……立てていませんね。

 私は短く息を吐きます。靴を脱ぎ、玄関の脇に置いてあるビニール袋へ靴を入れました。あ。靴、少しほつれてます。穴が開きそうですね。この靴は富一さんから戴きました。帽子の色に合わせて、真っ白な靴です。随分履き込んだので、洗っても元の色には戻りませんが。私はとても寂しい気持ちになりながら、家の中に入りました。

 廊下は薄暗く、うっかりすると転んでしまいそうになります。居間の欄間から漏れる光を頼りに私は食堂へ向かいます。居間を横切る途中、中から笑い声が聞こえました。神取さんと、そのお友達の方々です。あ。お祖父ちゃんの笑い声も聞こえます。

 私は胸を撫で下ろしました。よかったです。この様子だとお祖父ちゃんも晩御飯を食べ損ねたということはないのでしょう。

 私は幾分軽くなった心で食堂へ入りました。

 食堂にはお祖母ちゃんが居ました。お祖母ちゃんは明日の仕込みをしているところでした。

「ん? ……ハスか?」

 お祖母ちゃんが振り返りました。その表情はとても厳しいものでした。私はすぐに覚悟を決めました。ちゃんと覚悟を決めているのとそうでないのでは、耐えられる時間や回数が大きく違いますから。

「ハス、お前は本当に何も出来ないな。裏庭にお祖父さんを呼びに行くことも出来ないなんて、いったいどんな仕事なら満足にこなせるのか。本当に、生きているだけの、ただの役立たずな人間だな。そのクセに飯だけは寄越せと言うんだろう。どこまで厚かましいんだ」

 私は頭を下げ、ごめんなさいと伝えました。帽子を握る手が汗まみれになってました。

「なんだそれは。謝っているつもりか?」

 ビクリと身体が竦んでしまいました。私、何か失敗しましたか。謝る、謝る、謝る……ああ、そうでした。謝るときはどうするか教えて戴いていたのでした。

 私はすぐに膝を折り、両手と額を床につけます。額は床にこすりつけるようにしなければいけません。顎筋を汗が流れ落ちます。背中だって汗でびっしょりです。でもこれは先ほどまで流れていた汗とは違います。酷くべた付いて気持ちの悪いものでした。

「謝れば済むと思っているのか!」

 私の頭は衝撃で浮きました。一瞬意識が飛びます。

「頭を上げるな!」

 ぐし、という音を立てて私の頭は床に叩きつけられました。

 頭が浮いたのはお祖母ちゃんに蹴られたからで、次に額を床につけたのは上から踏まれたからです。

「まったく役に立たない! 意味がない! 必要がない! お前は何のためにここにいるんだ!」

 お祖母ちゃんのいう通りです。本当に、ちょっとしたお仕事も満足にこなせませんでした。本当に申し訳ないです。お仕事を任せてくれたお祖母ちゃんの期待を裏切ってしまいました。叱られて当然です。

「お前の存在は無駄だ!」

 一際大きな衝撃でした。文字通り頭が弾ける程の衝撃です。硬いです。何でしょうか。棒のようなもの、だったと思いますが、生憎頭を下げているので確認のしようがありません。

「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!」

 単語と衝撃は同時、同回数。何度も私の頭を打ち付けます。いっそのこと弾け散ってしまえば楽なのにと思える程の痛みが続きます。

「は、は、はぁ、は、ぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 お祖母ちゃんの息は荒く、とても苦しそうです。空気を貪る、というのでしょうか。頭を下げたままの私には確認することが出来ませんが、それでも辛そうだということは判ります。これも私がいけません。お祖母ちゃんを怒らせ、叱らなければいけないような状況を作った私がいけません。私はただ額を床にこすり付け、心の中で謝り続けました。

 んぐっ!

 脇腹から全身に衝撃が走り抜けました。蹴られたのでしょうか。勢いで謝罪の体勢が崩れてしまいます。

「動くんじゃない!」

 お祖母ちゃんは私の髪を掴み頭を床に押し付けます。私はすぐに謝罪の体勢を作り直しました。その後も脇腹への殴打は続きます。でももう体勢を崩す訳にはいきません。私は歯を食いしばって耐えました。

 今日は一際痛いなと思いました。先ほど感じた硬い感触が原因ですね。お祖母ちゃんは何を握っているのでしょうか。普段ならまだ耐えることが出来るのですが、今日はちょっともう駄目かもしれません。食いしばった奥歯がガチガチと音を立てます。恐いです。辛いです。痛みと恐さで涙がジワリと滲みました。

「はぁー、はぁー、はぁー、はぁー……」

 嵐のような痛みは不意に終わりを告げました。食堂にはお祖母ちゃんの荒い呼吸の音が響きます。それでもいつまた叩かれるか判りません。気を抜いては駄目です。私は全身を硬直させ、ジッと待ちます。

「……今日は、まぁいい。私は居間へ行く。ハス、お前は皿を洗っておけ」

 お祖母ちゃんはそういって、食堂を出て行きました。暫らくするとお祖母ちゃんの足音も聞こえなくなり、食堂は静寂に包まれました。

 静寂。

 違います。食堂には私の乱れた呼吸音がありました。食いしばった口からだらしなく涎を垂らし、恐さで涙を流す私の呼吸音がありました。私はまだ頭を下げたままです。痛くて動けないというのもありますが、以前お祖母ちゃんから教えて戴いたのです。一度下げた頭をすぐに上げてはいけないのです。私、今日は仕事を満足にこなせなかったのですから、せめていわれたことはちゃんと守りたいと思います。

 私はそのままの体勢でじっとしていました。すぐに涙は止まりました。大丈夫です。いつものことですから。でもこんなに恐いと思ったのは久し振りですけれども。大丈夫。大丈夫です。そう思えるくらいの時間が経ちました。頭の痛みは幾分引きました。身体の方はまだ辛いですけど、動けないほどではありません。動けないほどではないのですが、新たな問題を発見しました。

 正座した足がしびしびしています。

 これは辛い。これではすぐには立てそうにありませんでした。

 そういえば高校生の時でしたか。何かの行事中、正座を長時間しなければいけないときがありました。その時も私の足はしびしびになったのですが、それを見た友達のさっちんが、こともあろうか、私の足に触れてくるのです。あの全身を駆け巡る痛みともこそばゆさともいえない感覚は、未だに忘れることができません。

 いやいや、あの時ほど何か言葉を叫びたいと思ったことは無いんじゃないでしょうか。仮に、一生に一度だけ、何かを話せたとしたら、そのタイミングはあの時だったと確信しています。

 私、思ったのですが他の方はどうしているのでしょうか。こう、足がしびしびになった時の話ですよ。

 私、発見したんです。こうなったときの対処方。知っていますか。実はこれ、時間を置くといいです。単純明快すぎて、眉唾モノに聞こえるかもしれません。しかし、これは本当に効きます。時間を置くことで、しびしびがゆっくり無くなります。意外と知られていないのではないでしょうか。

 ああ、私が話せたなら伝えることができるのに。心からそう思います。あれですよ。仮に、一生に一度だけ何かを話せたとしたら、その機会はこの一点に費やすべきだと思うのです。

 なかなか、難しいものですね。知ればこそ黙する、というのも判るのですが、師資相承という考えもあるのだと思うのですよ。

 さて、思案に耽っていると、ゆっくりとしびしびが消えていきます。いやいや、本当にこの知識を伝えることが出来ないことがもどかしいです。

 ようやく自由の戻ったその足で、私は炊事場に立ちます。

 お祖母ちゃんから戴いたお仕事は皿洗い。大事なお仕事ですね。ですよね? 私がお皿を綺麗に洗うことによって、皆さんが気持ちよくお食事をとることが出来ます。さらに、意外な盲点、といいますか、そもそも目には見えないことなのですが、お皿はこのままにしておくとばい菌が発生するのです。

 知っていますか、ばい菌。テレビに出演していらっしゃる方とは違います。あの方はバイキンマン。私がいってるのはばい菌です。いえませんけど。

 こういった、食器類に発生する主だったばい菌といえば、大腸菌、ブドウ球菌、サルモネラ菌、食材によっては腸炎ビブリオ菌あたりでしょうか。これらは食中毒なるものを引き起こす原因になります。

 食中毒。あれは、本当に辛いです。

 ………………辛いですね。

 さて、まとめです。食器を放って置く。時間が経つとばい菌が発生する。ばい菌が発生すると食中毒になる。ちょっと強引ではありますが、ここに三段論法よろしくそれらしいメソッドが成り立ちます。

 考えてみてください。

 そのメソッドを逆手に取るのです。

 つまり、今なら食中毒にはならない。こう、いえるのではないのでしょうか。いえ、私はいえませんけど。私がいえなくても事実がありありと在るのです。うふふふ。在るのですよ。今なら、食中毒にならないという事実が。

 なぜ、私がこんなことを申し上げるかといいますと、私のエネルギーが枯渇しているからなのです。エマージェンシーです。体外から有線で充電できればいいのですが、残念なことに、私のアンビリカルケーブルは桐の箱に入っていて、手元にありません。そもそも、ぱさぱさに乾涸びてます。あ、これって恐いですよね。ソースが目の前にあるのに、それを供給するバイパスが閉じられる状況なんて、オアズケにも程があります。

 では、どうすればいいですか。

 直接、取り込めばいいのです。

 私は積み重ねてあるお皿から、丁寧にお米をあつめていきます。どのみち洗い流すのですから、食べるか捨てるかの違いです。それなら、私はもちろん食べてしまいますよ。

 私はお米の塊りを口に運びました。何の汁か判りませんが、お米にはほんのり味が染みていました。ふふふ、おいしいです。

 ご飯粒を集めていると、汚れた食器類の中に一際目を引くものがありました。

 これは、なんでしたか。

 ああ、ああ、これはゴマを擂り潰す棒ですね。何といいましたか、ちょっと思い出せませんけど。

 その、棒。その先が真っ赤になってます。これ、何でしょうか。サフランでも潰しましたかね。ちょっと触れてみます。指先が赤く汚れました。葡萄色、といえばいいですか。ああ、これ、いま気付きましたけど面白いですね。葡萄はブドウ。でも色を足すとえびいろ。なんで読み方が変わるのでしょうね。不思議を発見です。

 うーん。それにしても、この先っちょに付着している赤いのは何でしょうか。

 あ。

 そういえば。

 私、心当たりがあります。ありますね。

 それは、先ほどお祖母ちゃんから叱られたときです。途中、頭が弾けるような衝撃を感じました。お祖母ちゃん、そのときはこの棒を使っていたのではないでしょうか。私は下を向いていたので確認出来ませんでしたが、確かにとても硬いものだったように思われます。

 と、いうコトは? ああ、いえませんけどねー。

 うふふふ。今の、ネコさんの真似です。すごい似てました。

 私はゆっくりと頭を触ってみました。

 すごく痛い。

 これは、どういうコトでしょうか。とても痛いです。なぜ今まで気付かずにいれたのか、ちょっと理解に苦しみます。不思議です。

 一通り頭を撫で回したあと、自分の手を見ました。

 赤。

 右手の指、親指を除く四本の指が赤くなっていました。いえ、正確には赤より蘇芳に近いですか。

 ははぁ。

 コレは痛いはずですね。どうやら、頭皮が切れてしまい、出血していたようです。

 は!

 ちょっと待ってください! 今、私の髪は何色になっていますか! き、金色、ですよね? 生憎ここに鏡はありません。ちょっと確かめようがありません。これはかなり心配です。お母さんから戴いた帽子も大切ですが、お父さんから戴いた髪の毛も大事なんです。あ、ああ。でも、血の色ですからね。そうか、そうですね。これは水で洗い流せば大丈夫でしょうか。

 私は今すぐにも目の前の水道で頭を洗いたい衝動に駆られてしまいます。が、それは駄目ですよ。私は水道水を自分の為に使うことを許されていません。ですから、今は我慢です。あとで井戸水を汲み上げて洗い流しましょう。

 さて、そうと決まりましたら早急にお仕事を終わらせてしまいます。大方お米も食べ終わりましたし、あとは大皿に残っているお肉のお汁を啜ればオッケーですね。

 私は一気にお汁を飲み干します。

 ははぁ、これは美味しいですね。うん。今日はご馳走だったのでしょう。私もご相伴に与れまして幸せです。

 さささ、すぐにお仕事に取り掛かりますよ。一気呵成です! うん? これって、主に文章についてでしたか? では、似たところで抜山蓋世です! 抜山してしまうと破竹の勢いへの影響が心配ですが、ここは一つ目を瞑ってもらうこととしましょう。

 私は手早く、でもとても丁寧にお皿を洗い上げていきます。明日も皆さんが気持ちよく食事をして戴けるように、心を込めて洗いましょう。今は神取さん達が滞在されているので、お皿の枚数がとても多いです。神取さん達、というのは神取さんを含めて五人です。まぁ、一人あたり三枚のお皿を使うとなると、それだけで…………二十枚弱の計算になります。そこにお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの分を足せば、えー、えーっと、…………二十枚強の枚数に達するわけです。

 計算、合ってますよね? 合って……ますね、うん。

 それでも私は頑張りますよ。こういう小さなことだって良いんです。私は人の役に立ちたいんです。今、大きいことが出来なくても良いんです。確実に、少しずつ、人の役に立ちたいんです。

 役に、立ちたいんです。立ちたいんですけど、ね。

 私、今日も沢山迷惑をかけました。お祖母ちゃんのお仕事、ちゃんとこなせませんでした。

 あ、そういえば。

 私、聞き間違いをしていたんでしょうね。お祖父ちゃんの居場所、水引場と思っていたのですが、本当は裏庭だったんですね。これは私の注意不足でした。ケアレスミスですよ。次はこんなことがないように気をつけましょう。

 あれ。

 ちょっと不安なことがあります。私、お祖母ちゃんからお皿を洗うようにいわれましたよね。いえ、炊事場、でしたか? 不安です。どちらだったでしょうか。こ、こんなときはどちらも洗ってしまえば良いと思うのです。うん、思うのですよ。ですから、お皿の次は炊事場周りも綺麗に磨き上げてしまいましょう。

 ところで、私はお祖母ちゃん以外にも迷惑をかけてしまっています。そう、ネコさんやシキさん。そしてクマさんとキツネさんですね。私、どうして逃げてしまいましたか。

 逃げても何も変わらないのに。どうしてそれが判っているのに私は逃げてしまいましたか。私はお皿を洗いながら、一生懸命考えます。

 シキさん。

 きっと、一番迷惑をかけたのではないでしょうか。

 シキさんは、泳げないのだそうです。それなのに、シキさんは川へ飛び込みました。

 理由。

 理由は、私の帽子のため。

 シキさん、いってましたね。「帽子は大事なんだろ?」確か、そんな言葉だったと思います。もちろん、帽子は大事です。私の、とても大切なものです。でも。でも……。それは、シキさんにとってもそうなのですか? 違います。違いますよね。シキさんにとって、私の帽子が大切なわけありません。

 シキさん。

 私が大事にしている帽子。

 私が大事にしている帽子なら、リスクなんて関係ない。それはシキさんにとって、どういう意味なんですか? 判りません。判りませんよ。私には、判らないことばかりです。誰に訊けばいいのですか。どの本を読めばいいのですか。私はどうすれば学ぶことができますか。

 お父さん、お母さん。私は、どうすれば人の為になれますか。私は、どうすれば人に迷惑をかけませんか。

 私は思案に耽ります。でもどんだけ考えても答えは出てきません。そこへ辿り着くヒントだって思いつきません。

 ネコさんならどうおっしゃるでしょうか。ふと、そんな考えが過ぎりました。

 ネコさん。

 とっても良い匂いがしました。優しくて、大人って感じです。外見だってお姉さんって感じでした。後ろから抱きつかれて思ったんですが、胸だっておっきかったです。

 私とは随分違いますね。違います。私は歳相応に見えない容姿ですし。中学生っていわれたのはショックでした。でも、それもあながち間違っていないのも判ります。ああ、でもでも。それでもお母さんにそっくりなこの顔が嫌いなのでは無いです。無いですよ。むしろお母さんそっくりで嬉しいですし。

 うん?

 ああ、そうですね。顔はお母さんにそっくりですが、やっぱり身体の発育というのは大事でしょうか。それをいわれてしまうと、とても残念ですね。私、とても小さいですし。……色々と。

 さっちんにもいわれたことがありましたね。その時はあまり気にしませんでしたが、成人を前にしてしまうと、ちょっと、いえ、かなり引っかかるものがあるにはあります。

 何にしても、私は何処をとっても一人前の部分が無いのです。無いのですね。判っていたこととはいえ、やっぱり辛いですね。

 はぁ。

 ちょっと、考えるのを止めましょう。

 今は作業に集中です。

 耳に入るのはお皿が重なる音、それから居間から微かに聞こえる談笑。炊事場の正面、空けた窓から入り込む虫の声。肌に感じるのは水の感触、それから僅かに髪を揺らす風。そして、ちょっとだけ残る頭部の痛み。

 私は、生きています。さまざまな識が私の生を実感させます。では、私の末那識、阿頼耶識はどう生じるのでしょうか。

 ふふふ。自嘲めいた笑いが零れました。そんな難しいこと、私に理解することはおろか、見出すことすら出来ません。だからこそ、私は人の役に立つということでそれを見出そうとしているのかもしれませんね。

 って。

 また同じこと考えていましたね。これは私が知的でクール、という冠ゆえ、でしょうかね。うふふ。仕方ありません。

 さて、お仕事もひと段落、といいますか、終了です。

 お皿も綺麗。

 炊事場も綺麗。

 さすが私。完璧です。さっちん曰く鳥呼者です。

 私は灯りを落とし、食堂を後にしました。

 さて、すぐにでも髪を洗いたいですが、ここは一旦帽子を置きに行きましょう。

 私の私物は、今は使われていない離れの部屋、そこへ繋がる廊下の端にまとめてあります。居間や玄関とは逆方向の、もっと家屋の奥まった場所にあります。

 廊下は暗いので慎重に歩きましょう。私は移動するとき、部屋の灯りをつけることを許可されていません。ですから何かが床に置いてあったりすると、それに躓いてしまうことがあります。夜目は利く方ですので、普通に歩くのは大丈夫なのですが、ちゃんと注意して歩くことは大切だと思うのですよ。そういえば、暗闇の中、腰を落としてしまうのは生き物の習性なのでしょうかね。

 幸い、何事もなく目的地へたどり着きました。

 私が生活をしているスペースです。そこには私の服が数着、そしてお父さんとお母さんの形見が入ったトランク、小さい頃からつかっている座布団が一枚あります。

 座布団って便利ですよね。知ってますか、座布団。まず、座布団を敷いて寝ると、身体が痛くなりません。逆に、座布団を敷かずに寝ると、翌日はとても身体が痛いのです。実際、そういう日もあります。何日もご飯が食べられない時なんかはそうですね。

 ここで、座布団の利用方法その2。座布団はお腹が空いて眠れない夜、噛んでいると空腹が紛れます。

 まぁ、空腹を紛らせても、翌日は身体がすごく痛いんですけどね。ある意味これは諸刃の剣です。

 そういえば、以前どうしても我慢できなくなって中の綿を食べたことがあります。

 あれは、災難でした。

 お腹は壊すし座布団は薄くなるしで良いことなんてありませんでした。それ以降、私は座布団の綿を食べ物と認識することはありません。さらにいえば、ああ、いうっていうのはまぁアレですけど、いうなれば、綿飴も食べたいと思わなくなりましたね。私にとって綿は鬼門ですね。どこかのお祭りみたいに川に流すくらいでちょうど良いです。はぁ。

 私はお父さんとお母さんの形見が詰まったトランクの上に帽子を置きました。

 さて、どうしましょうか。一応下着も持っていきましょうか。うーん。そうですね。よし、そうしましょう。今日は風が強いですし、軽く身体を拭くくらいに留めておけば、すぐに乾くでしょう。

 ちなみに、私はタオルを使ってはいけないので、今来ているワンピースを代用します。で、そのあとワンピースも洗ってしまえばバッチリです。

 そうと決まればすぐに行動しましょう。

 私は下着を手に取り、玄関に向かいます。

 玄関に向かう途中、居間の横を通ります。襖の向こうでは楽しそうな笑い声。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの声も弾んでいます。それを聞くだけで、私も嬉しい気持ちになります。

 皆さんの邪魔にならないように、私は足音を潜め、息を殺しながら廊下を進みます。玄関から出るときも物音に注意しますよ。

 ビニールから靴を出し、履きました。向かう先は、夕方に神取さん達が車を入れた中庭です。そこに井戸があります。

 外に出ると、思っていたより夜風が強かったです。これは帽子を置いてきて正解だったのではないでしょうか。また飛ばされてしまうと大変ですもんね。

 そう考えて、シキさん達の姿が頭を過ぎりました。

 ……そういえば、お祖父ちゃんを探しに家を出た時、富一さんの家の向こうで見たのはシキさん達だったのでしょうね。ふむ。ではシキさん達は富一さんの家に宿泊しているのでしょうかね。となると、シキさん達はこの早瀬村へ何をしにいらっしゃったのでしょうか。観光、とかですか。

 うーん。

 明日、富一さんに訊いてみましょう。

 そして、ちゃんと謝った方がいいです、よね。

 私、急に逃げちゃいましたし。

 うん。そうです。そうした方がいいと思います。

 よし。

 明日、早速実行しましょう。

 そうこう思案しているうちに井戸に着きました。

 井戸には昔ながらの桶が設置してあります。でも、今回はコレをつかって水を汲み上げるわけではありません。井戸の隣り、水を汲み上げるためのポンプがあります。

 知っていますか? これを、こう、何度も、ですね、こう、きこきこと、う、ご、か、す、と…………出ました。

 ポンプの先から水があふれ出ます。

 水を桶に溜めます。水に手を浸すとヒンヤリとして気持ちがいいです。

 星空を映し出す水面を、注意深く覗き込みます。ぼんやりとしか映りませんが、どうやら私の髪の毛が赤に変色していることはなさそうです。私は少しだけホッとして胸を撫で下ろしました。

 とりあえず、服を脱ぎます。ワンピースは身体を洗うときに使います。下着は井戸の縁にでも掛けておきます。

 まずは髪を綺麗にしましょう。

 私は桶の中に頭を突っ込みます。

 ううううううう……、し、沁みる、い、痛いです。

 それでもこのまま髪を汚しておきたくはありませんからね。なんといいますか、髪のことですけど背に腹は変えられないといいますか。

 ゆっくりと、解すように頭皮を、髪を揉みます。直接ガリガリと洗えればいいのでしょうけど、私にはそこまでの勇気がありません。やっぱり痛いのは辛いですもんね。

 ただ、ちょっと待ってください。

 私、今すごく滑稽な格好をしていませんか。

 桶はもちろん地面に置いてあります。そしてその中に頭を突っ込んで、両手で揉み洗い中です。

 ちなみに私は全裸です。

 こ、これは、凄いですね。もし夜中にこんな姿の女性を見ると、ちょっとびっくりしまいます。間違ってもよそ様のお家でやってはいけませんね。ホラーもいいとこです。

 私は一度顔を上げます。

 ぷはぁ。

 あ、これは心の声です。実際は空気がスカスカ出るような音しかしてません。

 わぁ。なんか、結構水が汚れてますね。随分血が出ていたのでしょうかね。もう一回くらい揉み洗いをしておきましょう。

 私は先ほどの手順で桶に水を張ります。

 ではもう一度。

 そう思って大きく息を吸い込んだとき、私は視線に気付きました。

 はい?

 そう思って首を捻ります。

 刹那、私は大きな衝撃を身体に受けます。地面と夜空が交互に見えました。気が付くと私は地面に横たわっていました。

 い、痛いです。私、今服着てません。地面を転がってしまったので、全身に擦り傷が出来たようです。

「はっはぁー!」

 何かが私に覆いかぶさってきました。

 なななななななんでしょうか! こ、恐いですッ!

「へへへへ、物音がしたから来てみれば、スゲェもん見れたぜ」

 私は今、地面に仰向けに転がっています。そして、えー、と? 男の人がお腹の上に乗っていて、その両手は私の両手を押さえつけています。

 うん?

 あ、ああ。この方は神取さんのお友達の方ですね。急なことだったのでびっくりしてしまいました。一体どうしたのでしょうか。

「はははは! ラッキーだぜ。お前は喋れないんだよな。だったら助けも呼べないよな。ここなら人目に付かないし、誰にも気付かれずにヤり放題だぜ!」

 えーっと、どうしましたか? 私、何か怒られてますか?

「こんな田舎だと溜まって仕方ないんだよ! まぁあんまし気にすんなよ! 黙ってりゃスグに終わらせてやるからよ。逆に手を煩わせて人が来たら、そいつらまで相手にしなきゃいけなくなるぜ!」

 は、はぁ。黙っていろといわれましたらそうしますが。そもそも喋れませんし。

「はははは! 叫び声も上げれないんだよな? 最高だぜお前! あははははははッ!」

 神取さんのお友達は、おもむろにズボンを脱ぎ、下着を脱ぎます。

 わわわわわわわ! ななななな、何、何をされているのですか!

「オラッ! 足開けッッ!」

 その言葉と同時、私は顔を殴られました。

 ああ、なるほど。この知識は頭の隅に置いてあります。確か、強姦でしたか。つまり私は襲われているのですね?

「くははははッ! たまんねぇっ」

 私に馬乗りになったまま、男性は私の首筋へ舌を這わせました。ナメクジが這うような、そんな滑りのある動きが気持ち悪いです。

 これは困りました。困りましたよ。何といいますか、こういうのは良くないと思うのですよ。こういう行為は、その、お互いの愛情があって、そしてその先にあるものだと思うのです。そもそも強姦は犯罪になるのではないですか? そういった意味でも良くないですよ。

「あんまし色気の無い身体だけど、初モンだろ? なら価値もあらぁな! オラ! いくぞ! 歯ぁ食いしばってろ!」

 そして、私は強引に足を開かせられます。

「で、お前は何をやるつもりだ?」

 ――冷ややかな、声でした。

 空気が凍りつきます。いえ、錯覚なのでしょうけど、実際私に覆いかぶさっている男性は硬直してしまいました。

「答えろ。お前、何してるんだ」

「あ、ああ、いや、は、はははは」

「直ぐにハスさんから離れろよ」

「あ、ああ。そ、そうだな」

 えーと、うん? あ、神取さんですか。あら、でも様子が違いますね。いつもの神取さんではありません、ね?

 男性はそそくさと私から離れます。とりあえず私は解放されました。でも掴まれていた腕は若干痺れが残っていますし、殴られた頬は痛いですね。

「ハスさん、無事ですか? 大事には至っていませんね?」

 いつもの通りの、細い目の神取さんです。

「ハスさん?」

 ああ、はいはい。私は何もないですよー、と頷いてみせました。

「そうでしたか」

 神取さんはホッと息を吐きました。

「しかし、それでも許されるべきことではありません」

「あ、い、いや、その、神取、す、すまない」

「言い訳は、無しだ」

「そ、そんな! で、でもよ」

「――黙ってろ」

「……あ、ああ」

「ハスさん。ここで、何をされていたんですか? この男に無理やり連れてこられたんですか?」

 神取さんは私のワンピースを手に取り、私の身体を覆い隠すように巻き付けました。

「お、おい! 神取! それはち、違う! そ、そいつがここで裸になってたんだよ!」

「黙れと言ったはずだ。……ハスさん? どういうことですか?」

 どうしましょうか。うーん。

 そうですね、ジェスチャーで伝わりますか?

 私は身振り手振りで髪を洗い、身体を拭こうとしていたことを伝えました。

「……そうでしたか。ハスさん、あなたを責めることは出来ませんが、それでも男性が同居していることだけは留意しておいてください。しかし、同じようなことは二度と起きませんから、そこは安心されてください」

 神取さんは神妙な面持ちで、そういいました。神取さんのおっしゃる意味がいま一つ理解出来ませんが、私は大きく頷いてみせました。

「本当に、申し訳ありませんでした。此処には誰も近寄らせませんから、汚れてしまった身体を洗っておいてください。本当に、すいませんでした」

 神取さんは、そういって何度も頭を下げます。私は神取さんの肩へ手を置いて、首を横へ振り、止めるようにお願いしました。別に神取さんが悪いことなんて無いですよね? だから私なんかに頭を下げないで欲しいのですよ。

「……ハスさん」

 神取さんは一度、奥歯を噛み締めます。とても辛そうな表情でした。

「僕達がここにいても気不味いだけですからね。すいません、とりあえずは一旦消えさせてもらいます」

 そういって、お友達の方を文字通り引き摺りながら行ってしまいました。

 神取さん達の姿が見えなくなって、ようやく、私は身体から力が抜けました。

 はぁ。

 私、緊張していたんですね。

 うん、急なことでしたから、びっくりしちゃいましたね。えーっと、でも、どちらかといえば、神取さんの雰囲気の方に緊張しちゃってませんでしたか。なんといいますか、肌を刺すような雰囲気でしたね。掌がじっとり汗ばんでます。

 それはそうと、随分と汚れてしまいました。それと擦り傷もたくさんです。男性というのは力が強いものなんですね。抑えられた両手はまったく動きませんでしたし、逃げ様なんてありませんでした。まさに俎上の肉とでもいいますか。いきなりのことでもありましたが、何が起こったのか、よく判りませんでしたしね。現実味が無いといえばいいですか。私自身のことなのに、可笑しな話ですけども。

 ふむ。

 私は全身に付いた土を払いながら考えます。いやー、考えるといっても実感が湧きませんからねぇ。実感があるのは体中の痛みくらいですか。ああそれでも、神取さんがいらっしゃらなければ私は強姦されていた、ということなんでしょうね。

 ははあ。……強姦ですか。よく判りませんね。

 でもでも、それでも、神取さんがおっしゃったように、これからは気をつけなければいけないのでしょう。少なくとも、今回の件で神取さんは辛そうな表情をされていましたからね。私の事で煩わしい思いはして戴きたくないです。ないのですよ。

 では、これ以上迷惑を掛けない為にも、すぐに身体を拭いてこの場所を後にしましょう。

 ワンピースをタオルの代わりにして汚れた身体を拭きます。風が吹くと擦り剥いた箇所がとても痛みます。それでも髪の毛はもう一度念入りに汚れを洗い流しました。

 身体を拭き、新しい下着を着用します。そこで気付きました。気付きましたよ。

 私、服を持ってきてません。これはうっかりです。

 ちょっと待ってください。と、いうことは、です。私は下着姿のまま、家の中を移動しなきゃいけませんか。そう、なりますよね。……なりますか。

 困りましたね。

 先ほど神取さんから注意されたばかりだというのに、そんなはしたない格好のまま移動しなければいけませんか。いえ、出来ればそれは避けたいです。先ほども考えたことですが、もう神取さんにご迷惑をお掛けするわけにはいきませんからね。

 ううむ。

 でも、もう一度ワンピースを着るにしても濡れています。新しい下着の上に濡れたワンピースを着るのは嫌ですよね。

 これは……仕方ありません。

 私は一度下着を脱ぎ、濡れたワンピースを着用することにしました。そうすれば新しい下着を濡らす心配はありません。

 では早速。

 うう! き、気持ち悪いです。

 あう。でも、仕方ありません。しょうがないです。新しい下着を濡らすよりは良い判断だと思います。

 では、一目散に戻ることにしますよ。私は満天の星空の下、闇に紛れるように、静かに駆けました。いや、家の外では別に気にする必要はないんですけどね。そうした方が良いかなって思いまして。

 ははは。渇いた笑いがこみ上げてしまいますよ。私は何をやってるんでしょうね。自分でもチグハグなことやってるなって判っているんです。判っているんですけどね。なにやら涙が溢れていますし。悲しいのか辛いのか、はたまた他に何かあるのか。私自身でも何故泣いているのか判りません。

 もう、なにがなにやら、ですよ。

 はぁ。



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