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シュリー  作者: エリフル
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興味をもって下さった方々に、心から感謝を。


 私はゆっくりと腰を上げました。

 長い時間しゃがみこんで作業をしたせいで、私の腰は古いブリキが音をたてるように、ギシギシと軋みました。これは、アレが足りませんか。

 えー……と。

 ヒアル、ロン、サン?

 ああ、ヒー、アル、ロン、サンですか。確か、中国の言葉でしたか? 語感がそこはかとなくそれっぽいです。これは中国の言葉で間違いないでしょうね、うん。

 では、もう一度やり直してみましょう。

 私は一度、先ほどの姿勢、つまり腰を落とした状態へ戻ります。

 さて、もう一度いきますよ。心の中で掛け声です。

 ヒー、アル、ロン、サン!

 私は言葉と一緒に立ち上がります。

 ああ。

 これは思っていたより、とても清々しい気持ちで立ち上がることが出来ました。私はそのまま上体を反らし、大きく伸びをします。

 ああ、コレはいいですね。気持ちがいいです。

 確か、こういう状態を……なんといいましたか?

 えー……。

 あ、ああ? うん?

 えー……、あ、ああ!

 そう。そうでした。たしか、シャッカクの屈するは伸びんがため――でしたか?

 シャッカク。

 なんでしょうね、シャッカク。

 漢字は苦手ですね。でも、そのまま放っておくのも可愛そうですし、ちょっと考えてみましょうか。

 シャッカク、シャッカクです。

 ああ!

 私、閃きました。閃きましたよ。

 シャッカク。

 つまり、斜角です。

 斜角の屈するは伸びんがため。

 ははぁ。意味深です。つまり、斜角は一度屈し、伸びて直線になると。いい得て妙とはこのことですね。

 ただ、ちょっと残念な感じです。

 しゃがんだ状態から上体を反らせば、それは直線ではありません。つまり、斜から斜へ。ふぅむ。昔の人と私では、上体の伸ばし方に違いがあったのでしょうか。これは果て無き探求への扉が開きそうな勢いです。

 しかし、斜角について物思いに耽るのはヤブサカではありませんが、今はそれよりも大事なことがあります。

 仕事、です。

 仕事は大切です。大切ですよね。

 仕事をちゃんとやれば、ご飯を戴くことが出来ます。

 ご飯は、美味しいです。美味しいですよね。想像するだけで涎が出てしまいそうになるほどですよ。

 うむ、では早速仕事に取り掛かりましょう。

 いえ、そうはいっても、私はお腹が空いてご飯が食べたいから仕事をしようなんて、そんなことは考えていません。私はそんなに卑しい子ではないのです。何かが食べたくて仕事をしているなんて、そんな誤解を招いてはいけません。そこはちゃんとアピールしておきたいところです。

 ご飯といえば、最近は木苺なんかが美味しいです。仕事の合間にこっそり食べてみたのですが、あの甘酸っぱさがなんともいえません。そうそう、この前食べたスモモは美味しかったですね。滅多にお目にかかれませんが、それゆえに一生分の運を使い果たしたのだとしても、私は本望といえるでしょう。

 山での仕事は、そんな楽しみがあるから頑張れるというものです。

 いえ、食べ物欲しさに仕事をしているわけではないのですよ?

 ちなみに、今日の私の仕事。それは、畑の周辺に生えている雑草を抜くことです。

 いや、これは本当にやりがいのある仕事でした。

 どうですか、見えますか?

 私の足元では、土から引き抜かれた雑草が山をつくっています。堆く積まれた雑草は、私が朝から一生懸命抜いたものです。その量は一輪車一台分はありますか。

 ふむ。

 いえ、これはきっと、二台に分けないと運べないんじゃないでしょうか。それほどまでに私の仕事量は多かったということです。

 うふふふ。

 いかがでしょうか、この仕事ぶり。木苺にすれば両手一杯分の価値がありそうです。うふふふ、スモモなら二個分、いえ、もう半個足して、二個半戴けるくらいはありそうです。

 二個半。

 ちょっと、変ですね。考えてみてください。二個半、つまり二、五個です。数字があって、単位があるわけですよね。では、二個半ではなくて二半個では無いのでしょうか。二個、五なんていいませんもの。

 二個半? それとも二半個? ううむ。どちらもしっくりこなくなってしまいました。もともと外国で暮らしていた私にとって、日本語の曖昧な表現はちょっと難しいと思えますよ。

 そういえば、曖昧模糊って言葉がありますね。曖昧も、模糊も同じような意味らしいです。でも、模糊ってあまりいいませんよね。

 君のいい分は模糊すぎる、とか。

 模糊なこといわないで、とか。

 不思議ですね。

 私としては、曖昧という言葉より、模糊という言葉の方が随分と可愛らしいと思えるのです。ですから私は、用途が同じなら断然模糊の方を推したいと思いますよ。うむ。では、これから其方を意識して使うようにしてみましょうね。流行っちゃったりすると、それはとても嬉しいですし。

 さて、それはそうと仕事の続きです。

 現在の時間はいかほどですか?

 私は視線を上げ、眼下に広がるライステラスよりもっと先、連なる山の頂を見ます。

 視線の先で、山間に沈み始めた太陽がてろてろに蕩けています。目玉焼きの黄身をつっついた、そんな感じでとても美味しそうです。

 夕焼け空は韓紅。そしてゆっくり茄子紺。きっともうすぐ藤納戸ですね。時間にすれば、午後六時くらいといったところでしょうか。

 私の仕事。朝から午後六時までは畑の草むしり。そして午後六時になったら皆さんに仕事の終了を知らせることです。

 つまり、私は今から皆さんに仕事の終了をお知らせしなければいけないのですよ。

 では早速取り掛かりましょうか。ああ、そうそう。今日は大きく手を振れません。腕に出来た痣が痛むのですよ。小さいものはすぐに消えてくれますが、大きいのはそうはいかないです。ですから今日は程ほどに腕を振って出発です。

 私が歩くと歩調に合わせて帽子のツバが揺れます。うふふふ、可愛いですね。蝶々みたいです。時折り吹き抜ける風が、肩まで伸びた私の髪を揺らします。そして帽子のツバも揺らします。ああ、可愛いです。帽子のツバ、最高ですね。

 私が歩いている場所は、とても標高が高い場所です。ですから、結構強い風が吹きます。帽子のツバを揺らすには、とても好都合な条件ともいえますね。帽子のツバが可愛く揺れる。これは私が山の仕事が好きな理由の一つでもありますよ。

 私は早瀬村を眼下に見下ろし、畑の畦を歩きます。早瀬村は私が住んでいる村です。四方を蟻尾山に囲まれた、とても静かな村です。皆さん、晴耕雨読の暮らしをしている、といえば伝わりますか。

 蟻尾山は長い尾根が続く大きな山です。複数の地域へ跨っているとのことでした。私が住む早瀬村では、その蟻尾山の斜面に畑や水田を作り、それらの恵みを糧に暮らしています。

 私は斜陽に染まる早瀬村を見下ろしたまま歩を進めます。目的地まで然程距離はありません。こうやって畦を真っ直ぐに進めばすぐに辿り着きます。

 さて、まず一人目ですよ。私の視線の先、お隣の家に住む富一さんが見えてきました。富一さんはお祖父ちゃんのお友達で、私にとっても仲の良いお友達です。

 富一さんは、とても大きな鍬を振るって土を耕しています。たいへん雄々しい姿です。まさに精励恪勤、弱冠たる私が学ぶべき姿勢です。

 弱冠?ああ、いえ、じゃ、じゃぁ、じゃ?

 ああ!

 そうそう、若輩者たる、ですね。

 そうすると、弱冠ってなんでしたか?

 え、と? うー……ん。あ、二十歳を指す言葉でしたか? だとするとこの場合、弱冠も間違いですか。私、まだ十九ですし。そうですね、二十歳を迎えたら使ってみましょうか。

 それにしても日本語は難しいですね。表現方法が沢山ありすぎて、ちょっと迷ってしまいます。適正を探すより、曖昧もとい、模糊に濁す方が良い場合が多いのが、より難度を上げているように思えます。英語とは随分と造りが違います。でもでも、今英語で表現することも出来ないんですけどね。殆ど忘れちゃいましたし。いえ、忘れるを通り越して苦手なんですよね、これが。

 それはそうと、富一さんは私に全然気付いてくれません。もう手を伸ばせば届く距離ですよ。んー。それだけお仕事に真剣ということでしょう。素晴らしいことです。

 うふふふ、閃きました。私閃きましたよ。これは、アレです。アレを試す機会ではありませんか。

 つまり、テレパシー。

 知っていますか、テレパシー。

 テレパシーとは、超感覚知覚の一種です。噛み砕くと、サトリとサトラレです。要は、一生懸命気持ちを伝えることです。

 では早速、私の超感覚知覚を最大限に活性化させてみましょう。念力岩を徹すって感じです。実際岩を徹すような念力が出てしまえば、富一さんが大変なことになりますけど。

 それはそうと。

 富一さん、聞こえますか。私です。ハスです。

 ……反応がありません。

 もう一度。

 富一さん、聞こえてますか? 私です。ハスですよ。お隣に住んでいます、ハスですよ。

 ………………反応がありません。

 もう一度、頑張ってみましょう。

 富一さん、聞こえてください。私です。ハスです。ハスって字は蓮根の蓮です。蓮根は美味しいですね。煮て食べるのが私は好きです。そうそう、芋茎もいいですね。炒めて食べると最高です。どうですか、富一さん。芋茎もいいですよね? どうですか、聞こえてますか?

 ………………反応がありませんね。おかしいです。

 ああ!

 富一さん、富一さん。芋茎って言葉がわかりませんか? 芋茎は蓮芋ともいいますよ。そちらの方が馴染み深いですかね。どうですか? 蓮根の煮物か蓮芋の炒め物か、という話です。富一さんはどちらがお好みでしょうか? 私は料理がからっきしなので作って差し上げることは出来ませんが、それでも食べることに関しては大いに話を盛り上げることが出来ると自負していますよ。ね、富一さん?

 ………………反応が、ありません。ありませんね。

 これは、どういうことですか? 何故通じませんか? 私の心内は何故通じませんか?

 テレパシー。

 おかしいですね。予定ではバッチリの筈なのですが。テレパシーの和訳は以心伝心で間違ってませんよね? 以心伝心っていうのは、人となりが近い間柄で行われるものですよね?

 私の家と富一さんの家は隣で、さらに今は手を伸ばせば触れられるほど近づいているというのに、どうして以心伝心しませんか。

 テレパシー。

 案外、まだまだ知られていない法則や限定状況があるのかもしれません。今後の研究に期待しましょう。

「……ハス? ああ、もうそんな時間かい?」

 おお!

 急に声を掛けられて、ちょっとびっくりしました。

「ハス、もう終わりの時間かい?」

 富一さんは額の汗を拭いながら、にっこり笑ってくれました。

 私は富一さんの言葉に頷きを返しました。

「そうか、なら他の連中にはワシから伝えておこうな。ただ、神取さんにはハスの方から伝えてくれないかな?」

 私は頷きます。

「ではよろしく頼むよ。ハスは今日もよく頑張ったね。お疲れ様」

 私は頷きます。富一さんの言葉は柔らかく、とても心地良いので大好きです。

「さぁ、ワシは後片付けを始めようかね」

 富一さんは畑の端に寄せてある農具をまとめ始めました。

 私は富一さんにいわれた通り、神取さんの元へ向かうことにします。

 神取さんが今日受け持った作業場所は、この畑からちょっと下った場所にある地域です。

 神取さん。

 神取さんは、都会から早瀬村にやってきたお兄さんです。全国津々浦々を、津々浦々? うふふふ。つつ、うらうら。うふふふ。つつ、うらうら。うふふふ。え、あ、えと? ああ、その、津々浦々で農業を手伝っているのだとおっしゃっていました。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、神取さんのことを沢山褒めていました。これは凄いことですよ。私なんて、一度も褒めてもらったことはありませんから。とにかく、神取さん、そしてそのお友達の方が取り組んでいることは、とっても素晴らしいことなのだそうです。

 本当は、私良く判らないんですけどね。

 あ! クレマチスですよ! ははぁ、群生してますね。可愛い。緑の中に大きく広がった花片が映えます。このあたりでクレマチスが群生するのは珍しいですね。私が知る限りでは今年が初めてじゃないでしょうか。

 光風霽月な気持ちで畦道を歩きます。綺麗なモノを見たので気分が良いです。綺麗といえば私を照らす夕焼け。真っ白な帽子も橙に染まります。間延びした陽は時間さえも引き延ばしますよ。そんな時間に包まれて、真っ赤に染まった私は、きっと普段より三倍の速さで動いてます。

 のんびりしてる。

 遅い。

 役に立たない。

 そんな言葉も遥か向こうに置き去りに。うふふ。私はきっと、吹き抜ける風のようです。

「あれ? ハスさん」

 おおおお!

 びっくりですッ!

「うわ。なんかすっごい顔してますね。どうしましたか?」

 どうしましたか、は私が問いたいです。神取さんこそこんなとこで何してますか!

「えー……と。ハスさん、ひょっとして時間を知らせに来てくれていたんですか?」

 神取さんは大きな身体を折り曲げるようにして、私の顔を覗き込みます。

「どうですか?」

 私はちょっと距離をとるように後ろに下がり、こくこくと頷いてみせます。

「ははは、そうですか。いや、ありがとうございます。でもほら、僕にはコレがありますからね」

 神取さんはそういって、左手首を私の前に差し出しました。

 時計、です。

「終業時間になったらアラームが鳴ります。だからハスさんは先に車へ戻っていてくれて構わないんですよ? と、いうか、コレってもう何日も言ってますよね?」

 いえいえ、これも仕事ですから。もし、万が一その時計が動かなくなっている可能性もあるわけじゃないですか。

「えー……と。ハスさん。僕が言っていることって伝わってますよね?」

 神取さんは困ったような表情で訊いてきます。私はこくり、と頷いて見せました。

「うーん。本当かなぁ。そもそも、ハスさんは日本語片言ってワケじゃないんですよね?」

 当然です。むしろ得意です。あまりの流暢さに少々堅苦しさを覚えているくらいです。

「え、と。どうなんですか?」

 ああ、はい、そうですよ。私は大きく自信たっぷりに頷いて見せます。私の動きに合わせて帽子のツバがユラユラ揺れます。うふふふふ。可愛い。

「うーん。本当かなぁ。やっぱり外見がそうだと、本当に日本語が通じているのか心配になりますよ」

 神取さんは困ったように笑いました。

「ハスさんはハーフなんですよね? でも、その金色の髪と濃藍の瞳はすごく日本人離れしている、と言うかまんま、イギリス、でよかったですよね? まぁ、イギリス人ですねぇ」

 私は頷きます。

 私のこの髪と瞳はお父さんから戴いたものです。

「いや、しかし、まぁ、何と言いますか」

 神取さんはそこで一度言葉を区切ります。

「やっぱり喋れないと色々不便ではありませんか?」

 まぁ、そうですね。皆さんが出来ることが出来ないというのは、時として随分不便な思いをすることもあります。

 先ほどの神取さんの言葉ではありませんが、いきなり英語で話し掛けられたりすると、本当に困ります。私、日本に来てからは随分時間が経っていますので、英語は殆ど忘れているんですよね。英語で話しかけられても、ペラペラ、ペーラペーラみたいにしか聞こえません。この場合は誤解、とはいわないのでしょうが、それでも私はお相手の方へ意思を伝えることが出来ないのです。

 残念でなりませんね。

 つまり、マイ ヘッド イズ レグレッタブル です。

 正直な話、綴りすら判りませんから大変です。私、思うのですけど英語は片仮名表記でもいいのではないでしょうか。あれほど公用語として普及している言語ですから、それぞれの国に合わせた表記へと変換してもいい頃合だと思うのです。

「……すいません。立ち入ったことを言ってしまいましたかね?」

 申し訳なさそうに、神取さんが私を見ます。

 私は大きく首を振りました。

 生まれつき声帯が無い私にとって、喋れないことは当たり前なのですから、神取さんがおっしゃるような不便さという感覚とは違うとも思うのです。

 そう思うのですが、喋ることが出来ない私には、そのことを伝える術がないのですけれどもね。

 まぁ、これは仕方がないんですよ。そういうものなんです。

「ははは。逆にお気遣いさせてしまってますね。生来の無精者なので、配慮に欠ける性格とよく叱られます」

 神取さんはあははと笑います。

「まぁ失礼を承知の上で言いますけど、僕もハスさんのように寡黙で知的な雰囲気を醸せるといいんですけどねぇ、なんて思ったりもしますよ」

 いえいえ。神取さんの明るい性格も素敵ではないですか。そうお祖母ちゃんがいっていましたから、間違いないです。もっと誇っていいと思いますよ。あのお祖母ちゃんが褒めているんですから。それはとても凄いことなんですから。

 でもやっぱり、意思を伝えることが出来ないのは、時として本当に残念でなりません。

 そうですね、そこは伝えておきたいです。

 私はしゃがんで、その辺の石を握り、柔らかい土の上に字を書きます。

 私は残念だと思います。

 でも字画が多いので、英語で。片仮名表記ですけど。

「うん?マイ ヘッド イズ レグレッタブル……ですか?え?私の頭は残念です?うん?ど、どういう意味ですか、ね?」

 はわわわ、何か間違っているっぽいですよ!

 や、やばいです。寡黙で知的な雰囲気が喪失されそうです! 私としてはその称号といいますか、キャッチでフレーズな言葉は大事にしたいのです。

 ううむ。でも正直、どこが間違ってるのか判りません。

 どうしたらいいですか? 焦れば焦るほどなんとやらです。

 とりあえず、今判ることといえば、ここを、こう変えることくらいしか……。

「え、ええ? これ、本当ですか?」

 私はとりあえずはにかみながら頷きます。この曖昧もとい、模糊な頷きこそ、日本人のもっとも美徳とするものですよね。

「う! ……そ、そう、ですか。……ユア ヘッド イズ レグレッタブル、ですか」

 神取さんはそういって大きな身体を小さく丸めました。

「その、僕なんかの為に、わざわざ片仮名表記でありがとうございました。もっと勉強しときます」

 私は「お礼なんていいんですよ」と気持ちを込めて神取さんの肩をポン、と叩きました。

「うっうっ。本当に配慮に欠ける性格ですいませんでした。許して下さい」

 神取さんは喉を詰まらせ、まるで咽び泣いているようでした。

 私は神取さんおっしゃっていることの意味をうまく理解することが出来ませんでしたが、私の意思は概ね伝わったようです。

 いや、本当に意思を伝えるのは難しいです。私が聡明であればこそ、こうやってハンディキャップをアドバンテージに変えることが出来るわけですよ。

 今回はかなり難しい状況でしたね。それでも人間なんとかなるものです。うふふふ。よかった。

 なんとか私の「寡黙で知的な」という冠が守られましたね。

 さて、話が込んでしまいましたね。気付けば太陽が半分以上沈んでしまってます。急いで集合場所に向かわないといけません。

 私は神取さんと一緒に歩き始めます。時折り神取さんが鼻を啜るようにしているのが気になりました。風邪、でしょうか。夏風邪はしつこいですからね。十分注意して戴きたいものです。

 私たちが集合場所、つまり駐車場へたどり着いたときには、他の皆さんが揃っていました。

 私たちが最後みたいです。お待たせするなんて、申し訳ないことしちゃいましたね。

 皆さんはそれぞれに車へと乗り込みます。私は富一さんの軽トラックに乗せてもらいました。富一さんは私が乗ったのを確認すると、軽トラックのエンジンをかけます。まるで咳き込むような音を立て、ゆっくりと車が進み始めました。

 今日の畑仕事は終了です。どうもお疲れ様でした。

 蟻尾山の斜面に作られた田畑から、私たちが住む早瀬村までは二十分ほどで到着します。畑からは村の全景を確認することが出来ますが、村へと続く道は一直線ではありません。大きく蛇行していて、ゆっくりと車を走らせなければいけないのです。

 ところで、田畑のことについてです。

 先ほどまで作業をしていた田畑ですが、これは誰が所有しているもの、という訳ではないそうです。畑や田圃、それら全ては早瀬村が所有している、ということなのだそうです。

 ですから、畑を耕すのも、田圃に水を引くのも、作物を収穫するのも、全て村単位で行われます。そこから得られる収入も、作業に参加した人で分配されます。これはとても割りに合わないような感じもしますが、それはむしろ逆で、そうでもしなければ何も維持出来ないということです。田畑は維持出来なければ意味がありません。土地だけがあっても、そこに作物が無ければ只の荒地ですからね。

 そうそう、限界集落という言葉があるそうですね。

 限界集落の定義はいくらかあるそうですが、概ねのところ、その集落における人口の半数以上が六十五歳以上になると、そう定義されるとかなんとか。神取さんがおっしゃっているのを聞いただけなので、実のところ私が何を理解しているというわけではありませんが。

 早瀬村は今現在、限界集落と定義するには止まらず、このままでは消滅集落という、更に一歩進んだ状態に向かっているそうです。神取さんとそのお友達の方々は、そういった地域を回り、労働力の援助をしているとのことでした。

 正直、さっぱり意味が判りません。

 まぁ、それでも神取さん達が早瀬村に来たことで、私のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんだけでなく、村の人全員が喜んでいるということです。

 神取さん達は、人のためになることをしている。そういうことらしいです。

 私なんかとは違います。

 私はお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに迷惑をかけてばかりです。いえ、きっと村の人たちにも迷惑をかけています。学校に通っていたときは、ずっと友達に迷惑をかけていたことでしょう。

 本当に申し訳ないと思います。申し訳ないですね。

 私は窓に反射する自分の姿を見ます。窓ガラスは随分と汚れていて、あまりうまく反射してくれませんけど。

 白い帽子。金色の髪。青い瞳。小さな身体。私をつくっている色々です。あ、帽子はちょっと違いますけど。でもでも、それでも、私にとってこの帽子はお母さんの形見でもあり、もはや身体の一部といっても、それはきっといい過ぎなんかじゃないはずです。

 お父さんやお母さんが生きてたら、今の私を見て何というでしょうか。人に迷惑ばかりをかけている私を見て、何というでしょうか。

 二人のことは、ぼんやりと憶えている程度ですが、とても優しかったと記憶しています。

 うーん。本当に、何ていわれますかね。ちょっと興味津々です。興味、津々? 興味、しんしん。……興味、しんしん。……つつ、うらうら。うふふふふふ。興味、しんしん、つつ、うらうら。うふふふふ。可愛い。

 窓に反射する私の姿から、視線を外の景色へ移します。

 ズームから、テレへ。

 空を見ると藤納戸の空はすでに紺藍へと移ろいでいます。もうすぐ星が出る時間ですね。

 陰影の濃くなった風景が、流れるように後方へと消えていきます。暗くなるとスピード感が増したように感じるのはどうしてなのでしょうねぇ。

 視線の先、ちらちらと明かりが見え始めました。早瀬村です。まだ夜というわけではありませんが、高い山に囲まれた早瀬村は、ちょっとだけ日没が早いのです。

 私が乗る軽トラックは、前から三台目を走っています。早瀬村へ近づくにつれ、一台、また一台と道を逸れていきます。そのまま解散ですね。皆さんお疲れ様です。また、明日の作業を頑張りましょう。

 さて、私の乗る車は村の中を進んでいきます。私が乗る富一さん号と、神取さん達が乗る大きめの車は砂埃を舞い上げ併走しました。

 二台が向かっているのは、私の家です。神取さん達は、私の家で宿泊されていますので、最後までご一緒することになるのです。

 そういったわけで、到着です。ながらくのご乗車ありがとうございました。

 一足先に、私が降りました。

「ハス、また明日な」

 富一さんはそういって、お隣にある家へ帰っていきました。それに続くように、神取さん達の乗っている車が私の目の前を抜け、庭先へと滑り込むように入っていきました。車は庭先に駐車するようになっているのです。

「ぼうっとするな」

 その言葉が聞こえたのと同時、私は後頭部に強い衝撃を受けました。

 ちょっと、立っていれそうにないくらいの衝撃です。足元が覚束なくなってフラフラしてしまいました。

 あ、帽子が、落ちてしまいました。

「早く手伝え」

 そういって、家の中に入っていったのは、お祖母ちゃんでした。

 ちょっと機嫌が悪いみたいです。こういうときは、駆け足で動かないといけません。そうしないと、何度も叩かれてしまいます。私は腕に付いた痣に視線を落しました。記憶に残る痛みに身体が小さく震えました。

 私は出来るだけ素早い動作で帽子を拾い上げます。ちょっと、汚れてしまいましたが、大丈夫。平気です。

 私は目の前がチカチカするのを堪えながら、玄関へ向います。

 私は靴を家の中に入れてはいけないといわれています。お客様がいらっしゃった場合など、失礼になるからとのことでした。

 確かに、お祖母ちゃんのいう通りだと思いました。と、いうわけで私の靴は玄関の外、ビニール袋に入れて置くようになっています。

 私は靴をしまい、すぐに台所に向かいます。

 台所では、お祖母ちゃんが忙しそうに動いていました。

 とても美味しそうな匂いがします。夕飯は殆ど出来上がっているようです。

「何をしてる。すぐに配膳しろ」

 お祖母ちゃんからお仕事を戴きました。すぐに取り掛かりましょう。

 ご飯は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、そして神取さんとそのお友達の方の分です。残念なことに、私の分までご飯が周りません。でもそれは仕方がないと思うのですよ。神取さんたちは健啖家です。お仕事の量からいえば、私が食べる分が無くても、それは当然といえるのです。

 私は身体が小さいので、木の実や葉っぱでも何とかなります。今の季節、山にはそれなりに食べ物がありますからね。秋になればそれこそお腹いっぱいになるまで食べることが出来ます。それに、毎回ご飯が無いわけじゃないんです。神取さんたちが食べ残した分を貰えることだってあります。お肉の残り汁と寄り集めたご飯粒を混ぜて食べると、それはもう幸せになってしまうのですよ。

 私はテキパキと働きます。そういえば、テキさんとパキさんって、やっぱり兄妹ですかね。キキさんとララさんみたいに。またはチルチルさんとミチルさんみたいに。なんか、心強いですね。テキさんパキさんも一緒に働いてくれてるんですよ。三人分ってことですね。だからお仕事も素早く終わります。

 どうですか、見てください。ご飯は均等によそってあります。その他の食材も人数分、ぴったりですよ。

 ああ、でも残念ですねぇ。今日はあまりにもぴったりすぎて、私が戴ける分は無いでしょうね。おそらく、お米の一粒も残ることはないでしょう。仕方ありませんね。夜に山まで行ってみましょうか。何か食べ物もあることでしょう。

「お祖父さんを呼んで来るんだ。水引場にいる」

 お祖母ちゃんからお仕事を戴きました。すぐに取り掛かりますよ。

 私は台所から出ます。

「あ、ハスさん。どこかお出かけですか?」

 神取さんです。お友達の方と一緒です。

「今日もご飯はご一緒出来ないのですか?」

 神取さんは腰を曲げ、私を覗き込むようにしていいます。

 私はこくり、と頷き、玄関に向かいました。その途中、変なやつ、と神取さんのお友達の声が聞こえました。

 それは、仕方ありません。私は靴を履きながら、そう思いました。

 こればっかりは仕方がないことですよ。なにせ、寡黙で知的な、という冠がつく私です。それは側面からみれば、気心が知れないという印象を与えいるということになりませんか。うふふふ。こればっかりは仕方がありませんね。

 例え何といわれましても、雲煙過眼です。

 さて、すぐにお祖父ちゃんを呼びに行きましょう。

 行き先は水引場。

 水引場は早瀬村の端にあります。村の隣りを流れる川、その水を村の中に引き込むための場所です。

 水引場にはちょっと大きめの小屋があって、そこには川の流れを変える堰があります。村にとって、とても大事な場所です。

 お祖父ちゃんは水引場の管理をしています。きっと、今日も様子を見に行っているのでしょう。

 水引場の小屋は、ちょっとした寄り合いが出来るほどの大きさです。ひょっとしたら、お祖父ちゃんはそこで誰かとお話をしているのかもしれません。お話に花が咲くと、時間を忘れてしまうのだと聞いたことがあります。お祖父ちゃんも、そうなのかもしれませんね。

 そういえば、話し込むと花が咲くという知識は誰から戴いたものでしたか。

 私は考えます。

 考える、といえばさっちんです。

 さっちんは私のお友達です。高校ではとてもお世話になりました。さっちんはとっても頭のいい子です。さっちんは考え事をするとき、人差し指を顎に付け、両目を瞑っていました。そうすることで色々なアイディアが浮かぶとのことでした。

 私はさっちんの真似をして考えます。

 えーと。

 ……えーと。

 ………………おおおお?

 どうしましたか。ちょっと、私混乱してます。

 その、あのですね。

 私、何を考えているのでしたか。

 困りました。思い出せません。

 まぁ、仕方ありません。物思いに耽ることは嫌いではないのですが、今の私にはやらなければいけないことがありますよ。ありますよね?

 さて、では参りましょう。

 ん?

 あれは誰でしょうか。

 玄関を出ますと、ちょっと離れた場所に見知らぬ方々が居るのが見えます。ご挨拶が必要でしょうか。挨拶は大事です。人間関係の開始を円滑にします。するそうです。そんな話です。

 正直、私、挨拶といっても頭を下げるくらいしか出来ないんですけどね。

 あれ? 見知らぬ方々は行っちゃいましたね。道沿い、角を曲がって見えなくなってしまいましたよ。まぁ、人があまりいない村ですから、またお会いすることもあるでしょう。その時はちゃんとご挨拶をしておきましょう。

 私は気を取り直して水引場へ向かいます。

 水引場までは、川沿いを辿ればすぐに到着です。

 ちょっとだけ駆け足で行きます。思いっきりだとお腹が空いてしまいますからね。ちょっとだけ、というのが大事なポイントです。

 ただ、少し待ってください。ちょっとだけ、とはいってもそれはそれでお腹が空きます。

 そういえば以前、あまりの空腹に耐えかねて川沿いに生えている草を食べてみたことがあります。

 あれは、悲惨でしたねぇ。

 私は草を食べた直後から三日間、本当に苦しい思いをしました。まさか草を食べただけで、あそこまで苦しむことになるとは思ってもいませんでしたよ。世の中には食べても大丈夫な草と、食べては駄目な草があるのだと学ばされた、貴重な体験でした。

 でも、綺麗なお花が咲いていると、美味しそうに見えるんですよね。それはもう、目移りしてしまうくらいです。

 目移り? ああ、そういえば、そのような様子を例えて話に花が咲く、なんていったりするんでしたね。それからそれへと話題の興味が移るんでしたか。以前さっちんが教えてくれました。

 うん?

 ああ、ああ。

 そうか、そうでした。そうでしたね。

 私、それを考えていませんでしたか。いましたよね。

 うん。

 納得です。満足しました。

 これはちょっぴりお腹が膨らむほどの満足感ですよ。

 満足したところで、目的地が見えてきました。

 水引場。

 ちょっと大き目の小屋です。川沿い、農業用水路の上に跨るように建てられています。

 お祖母ちゃんの話では、お祖父ちゃんはこの中で作業中、もしくはお話に花を咲かせているはずです。

 私は歩調を速め、水引場へと向かいました。

 こんこんこん。

 ちょっと控えめに扉をノックします。あまり大きな音でノックすると、中に居る人たちがびっくりしてしまいますからね。以前お祖母ちゃんの怒られたことがありますので、ちゃんと気を配ります。

 さて、返事がありません。お祖父ちゃんはお話に一生懸命ですか。それともお仕事中で忙しいのでしょうか。

 こんこんこん。

 今度はちょっと強めにノックです。

 返事が、ありません。

 ちょっと、心配です。

 はしたないのを承知で、ちょっとだけ扉を開けてみましょう。

 ……びっくりです。

 誰も居ませんでした。

 私は中に入り、内側から扉をノックします。今度は遠慮なく、大きな音をたててみます。喋ることが出来ないので、こうやって呼びかけるしかありません。

 返事はありません。

 困りました。

 お祖父ちゃん、どこに行きましたか。

 途中、すれ違いましたか?

 でも、でもでも、それなら気付いてもよさそうです。基本的に私はしっかりしているので、お祖父ちゃんとすれ違うことがあれば、ちゃんと判るはずです。それにお祖父ちゃんだって声を掛けてくれます。

 あ、いえ。

 そうです。お祖父ちゃんはとても寡黙な方です。そもそも、最後にお話したのはいつでしたか。私が小学生の頃、でしたか。でも、村の方や神取さんたちとはよくお話されていますし、お喋りが嫌いというわけではなさそうです。

 いつか私も、お祖父ちゃんとそうやって一衣帯水の仲になりたいものです。

 さて、それはそうと困りましたね。

 そうです、これではお祖母ちゃんから戴いたお仕事が完遂出来ません。

 どうしたらいいですか。

 闇の夜に灯火を失うとは、まさに今の私のようです。

 または進退両難。

 とりあえず、考えてみましょう。人差し指を顎にあて、目を瞑ります。

 さっちんのポーズです。

 今の私は、にっちもさっちも行きません。いえ、ニッチもサッチもハスも、行きたいのにどこにも行けないのです。行かないのと行けないのはでは、その意味が大きく違いますからね。

 水引場にはお祖父ちゃんの姿はありません。念のため、周囲を見てみましたが、見つけることは出来ませんでした。それから、ここまで来る途中、すれ違ったようにも思えません。家から水引場を往復する際は、川沿いの道以外はありませんので、別道での行き違いというのもないでしょう。

 と、なると。

 お祖父ちゃんは水引場から別の場所へ移動したということでしょうか。

 困りましたね。そうすると、困りました。

 私は何処へ探しに行けばいいのでしょうか。困りました。

 うん。

 一度、家に戻るのがいいかも知れません。

 案外、お祖父ちゃんはもう家に向かっているかもしれませんからね。

 空を見上げると、もう星が煌き始めています。さすがにお祖父ちゃんもお腹が空くでしょうから、家に戻っていると考えるのが自然です。

 すごいですね。

 どうですか、このさっちんのポーズ。

 私の空白の頭が情報で溢れかえります。

 頭の良さそうな言葉がとめどなく口を吐いてしまいそうです。それはもう、言葉の波。千波万波です。いえ、大海嘯といっても過言ではないでしょう。

 ああ、困りました。

 もう、限界です。

 満点。推薦。首位。英語。眼鏡。偏差値。委員長。留学。塾。理系。三つ編。予備校。生徒会。無遅刻。暗記。生徒代表。無欠席。

 はぁ、はぁ。すごいです。まだ尽きません。頭の良い言葉、すごいです。これは、私が喋ることが出来たら大変なことになっていませんか。なっていますね。神様、私が喋ることが出来ない理由が、いまようやく判りました。

 つまり、私の頭が良すぎると。

 うふふふ。

 これは仕方ありません。私が生まれつき、言葉を発することが出来ないのも理解できます。

 そういえば高校生のとき、私にふさわしい徒名、そういってさっちんがつけてくれました。

 鳥呼者。

 鳥呼者と書いてヲコノモノと読むらしいです。

 私の聡明さをもってしても、その意味を解することは出来ませんでしたが、私にふさわしいのでしたら、それは博覧強記にも似た言葉ということでしょう。

 しかしながら、さっちんの博引旁証ぶりはすさまじいですね。格物致知を地で行く素晴らしさです。葦編三絶たる私でも、その懐の深さを推し量ることが出来ません。

 うふふふ。

 謙ることもちゃんと出来ます。慇懃無礼ではありません。私はちゃんとごめんなさいもいえる子ですよ。

 いえ、喋れませんけど。

 うふふふ。

 私、賢いです。最強です。さっちんいわく、鳥呼者です。

 では、結論も出たことですし、一度家に戻ることにしましょう。

 水引場から家まではほぼ一直線です。川沿いの道をどんどん進みますよ。

 随分と風が出てきたように思えます。土手沿いに生えた、背の高い草が大きく揺れています。隣を走る私は考える葦です。お仲間ですね。ただ、雨にも風にも負けませんが。むしろ、水道水を飲んではいけない私の場合、雨はここぞとばかりに飲み干しますし、お風呂をいただけない日、川で水浴びをした後、タオルを使えない私に夜風はありがたいです。

 どんどん進みます。歩調はどんどん調子を上げます。地面を蹴る音は楽しげなリズムを刻みますよ。

 六地蔵が見えてきました。

 六地蔵は、私が走る道の川越し、対岸に、……います? ……あります?

 おっと。これはこれは。

 ちょっと待って戴けますか。私、疑問が浮かんでしまいました。しまったのですよ。

 疑問。

 お地蔵さんって、どう数えますか。人の様に何人じゃないのはすぐに判ります。それから個数でもないですね。ええと、確か以前読んだ本に記載されてましたよね。地蔵……地蔵菩薩、ですか。ああ、そうです。菩薩様って尊って数えますか。数えますよね。

 よし、ではもう一度。

 六地蔵はその言葉のとおり、私が走る道の川越し、お地蔵さんが六尊並んでいる場所です。よく、お供え物であるところの、お菓子が並べてあります。

 つまり、それは私のご飯でもあります。

 そういえば今日はご飯がありませんでしたね。先ほど神取さん達のために、ぴたりと均等によそってしまいましたし。ちょっと、六地蔵の様子を見てみましょうか。ひょっとしたら何かあるかも知れません。あればラッキー。無ければそれはそれで、といった感じです。

 あまり関係ありませんが、地蔵菩薩の真言ってちょっとアレですよね。知ってますか、地蔵菩薩の真言。真言は途中で地蔵菩薩の種字を三回唱えます。種字は邦訳でha・ha・haって表記します。

 つまり。

 オーム、ha・ha・ha、稀有なる御方よ、スヴァーハー。

 いやいやいや。

 ha・ha・haって。

 邦訳でha・ha・haって。

 これでは、英語圏の方が唱えたらふざけてるようにしか聞こえません。まぁ、仏教は概ねアジア圏で広がってますから、そういった様子を拝する機会は無いと思いますけど。

 ただ、物事には例外もあります。

 例えば、この私。

 私の見た目はイギリス人。でも日本人です。しかも仏教徒。毎朝お仏壇の掃除だってしてます。三具足も毎日丁寧に磨きます。

 そんな私が、もし喋れたら。

 そう考えると怖いです。私、真剣に真言を唱えてるつもりでも、他の人からみたらふざけてるようにしか聞こえません。きっと、後ろ指をさされます。あいつ、ha・ha・haなんて笑ってるぜって。

 これは、私が喋ることが出来ない理由の一つになりませんか。大いになり得ます。うん、なりますね。

 なるほど。

 今日だけで、二つも喋れない理由が判りました。私、聡明です。うふふふ。

 ちょっと寄り道してしまいましたが、大事なのはお供え物、もとい私のご飯です。ではちょっと六地蔵に寄り道してみましょう。

 六地蔵は川の向こうです。向こう岸へ行くには一本松を渡ります。一本松は川に架かる橋の名前です。石造りの、苔生す古い橋です。名前の由来は存じ上げませんが、私が生まれるうんと前からそう呼ばれていたそうです。

 今日はお供えもの、もとい私のご飯はありますか。あるといいですね。期待感で胸がいっぱいです。

 私は小走りのまま、一本松を駆け抜けます。

 あと少しで橋を渡りきろうとしたとき、私は自分が大きな失敗を犯したことに気付きました。いえ、気付かされたというべきですね。

 今日は、風が出てます。

 ちょっと、考えれば判ることでした。

 蟻尾山から川沿いに吹き下りる風。それは颪と呼ばれる叩きつけるような乱暴な風です。

 突然の颪が私の身体をもみくちゃにしました。

 風に弄ばれて一瞬目を閉じた後、私は頭上に喪失感を感じます。マズい。そう思って手を伸ばしてみたのですが、私の手は流れる風の端を掴むことしか出来ませんでした。

 一瞬の間に私の帽子は宙に舞い、漂い、やがて橋の下、暗い水の中に落ちていきました。私は現実感を伴わないままソレを見ていました。

 そんな。どういうことですか。

 私は頭を触ります。指先には髪の毛の感触しかありません。本来ソコにあるべき帽子の感触がありません。

「…………!」

 叫びました。

 声が出ないのは判っていますけど、それでも私は叫びました。

 大事なんです! その帽子は大事なんです! お母さんの形見なんです!

 私にとってあの帽子はただの帽子ではありません。私とお母さんを繋ぐ唯一のものなんです。だから私は雨の日も風の日も、太陽が昇っても沈んでも、四六時中片時も離れないようにしていました。それだけ大事にしていたんです。

 私は橋から身を乗り出すようにして、眼下の川を覗き込みます。

 暗い。

 ただ、暗い水が流れているだけでした。橋から水面まで、およそ十メートルほど。随分、高いです。

 それでも、真っ白い帽子は目を引く筈なんです。だから、ちゃんと見える筈なんです。

 私は精一杯身体を伸ばします。小さな身体が恨めしいです。あと、もう少し、身長があったら見えるかもしれないのに。

 見えないです。見えませんよ。どれだけ目を動かしても、どれだけ首を捻っても、どれだけ身体を伸ばしても、私の真っ白な帽子は、何処にもありません。

 おかしいです。

 私、すぐに帽子の後を追いました。私が目を瞑ったのは、ほんの一瞬。その一瞬で帽子が見えなくなるほど飛んでいくなんて。

 それほど、強い風でしたか。

「…………」

 強い風、だったように、思えます。

 でも、おかしいです。帽子とは毎日一緒に居ます。だから、お別れもいわずに居なくなるなんて、そんなことありません。

 これじゃ。

 これじゃお父さんとお母さんと同じです。同じじゃないですか。

 私は全身から力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまいました。心臓がドクドクします。とても嫌な鼓動でした。汗が大量に噴出して、ワンピースがベッタリと背中に張り付いています。気持ち悪い。気持ち悪いです。

 お母さん。私が帽子を持っていたら駄目でしたか。帽子はお母さんを探しに行ってしまいましたか。ずるい。ずるいです。私だって、お母さんのところに行きたいです。私だってずっと探したんです。探したんですよ。でも居ないんです。だから、だからお母さんの帽子は大切にしていたんです。ずっと大切にしていたんです。

 それなのに帽子は私の手の届かない場所へ飛んで行きました。

 おかしいです。何故、こうなりましたか。吹き抜ける風が私の髪を乱します。私はそれには構わず、何故こうなったかを考えます。私はただ、六地蔵の様子を見に行きたくて、それで一本松を渡りました。ただ、それだけなのに、私はとても大切なものを失ってしまいました。

 何がいけませんでしたか。

 私は考えます。私のいけなかった部分。それは何でしょうか。それは、それは、ええと、やっぱり六地蔵のお供え物を確認しようとしてしまったことでしょうか。それとも、お祖母ちゃんから戴いたお仕事の途中で寄り道したのが駄目でしたか。

 判りません。

 私はどれを反省すればいいですか。私は何を謝ればいいですか。謝るのはちゃんと出来ます。出来ますよ。だから、だから帽子を返してください。私の帽子、返してください。

 私は祈るように両手を空へ掲げます。その腕には無数の痣。暮れかけた日の中でも目立つ痣がありました。

 ああ。

 そうか。

 私は悟ります。私、謝ることすらままなりませんでした。私は謝ることすらちゃんと出来てませんでした。だって私が何度謝ってもお祖母ちゃんには届かないです。ずっと叩かれ続けます。どんなに謝っても許してもらえません。そんな私がいくら謝っても、やっぱり駄目ですね。

 何がいけませんか。

 私は考えます。どうしたら伝わるのでしょう。私、ちゃんと謝りたいです。許してもらいたいです。帽子を返して欲しいです。

 私は必死に考えます。大切な帽子、どうしたら返してもらえますか。どうしたら私の元に戻ってきますか。私、謝ることもままならないです。でも、それでもそれしか出来ないです。だから、何度も謝ります。謝りますから。

 だから、私の帽子返してください。返してくださいよ。

「…………」

 ひゅ、と喉が鳴りました。

 そう、でしたね。私、喋れません。喋れませんよ。何がいけないって、それが一番いけないです。私、ままならないどころの問題じゃないです。そもそも、私は謝ることが出来ませんでした。謝罪の気持ち、伝えること出来ませんでした。

 目の前がグルグル回りだします。とても気持ち悪いです。身体から、更に力が抜けていきます。もう、少しだって動きません。動かせそうにありませんでした。

 私、喋れません。喋れませんでしたね。今日だって、理由を二つも見つけていたじゃないですか。だったら、どうやって謝ればいいですか。どうしたら、私の帽子は帰ってきますか。

「………………」

 ――茫然自失。

 こういうときに使うのでしょうか。空っぽになった頭のまま空を見上げます。いつの間にか、沢山の星が出ています。夜になっていました。銀の砂を散らかしたような夜空。でも、星明りは全くといっていいほど何も照らしてくれません。私の大切な帽子を見つける手助けをしてはくれません。

 誰か、助けて欲しいです。

 伝わりません。

 伝わるわけがありません。そもそも、人も居ません。仮に人が居ても、私には伝える手段がありません。私の帽子を探してください。そんな一言だって伝えることが出来ません。

 どうしようも、ありません。

 どうしようも、ないのですね。

 私はただ橋の上に座り込んでいました。こんなとき、せめて声を上げて泣ければ良いのに。

 そう思いながら。



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