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話の二 黒いモノ (後編)

 健吾は再び緊急避難所、いやコンビニの店内に逃げ込んだ。


 絶え絶えだった息を整え、汗が引き、頭がなんとか冷静になるのを待っているうちに陽は沈み、辺りはすっかり暗くなってしまった。

 空にぼんやりと青白い月の浮かぶ、熱帯夜。


 酔った勢いで強引に朝まで寝過ごす作戦は失敗してしまった。だが、健吾は諦めるわけにはいかなかった。

 諦めたら、行くところがなくなってしまう。いよいよこのコンビニで朝まで過すような事態が現実のものとなってしまう。


 それに、DVDの返却期限は明日だった。

 気合いを入れてせっかく新作を借りたのに、このまま観ることもなく返却、下手をすれば延滞料金なんてことになったら目も当てられない。絶対にあってはならない。


「ま、負けてたまるかっ!」

 自らを鼓舞しつつ、缶ビールとビニール傘を購入した。


 部屋での出来事を冷静に振り返って、いくつか分かったことがある。

 健吾はあの黒いモノを掴んで投げた。ていうか、それ以前に枕にさえしていた。その感触を思い出すだけで今でも全身が粟立ってしまうが、とにかく〝触れる〟らしい。

 そして、奴の動きは、それほど速くないらしい。簡単に掴めたし、逃げるときにも追いつかれなかった。


 ビニール傘は、武器のつもりだ。

 缶ビールを一気に飲み干し、再び『二ノ塚マンション』へと向かった。


     *


 音を立てないように、慎重に五〇一号室のドアを開けた。

 部屋は暗く、静かだった。窓からの微かな月明かりで、辛うじて様子が窺えた。

 ゆっくりと中に入り、ドアを閉める。


 電気を点けるか? いや、このままだ。できれば不意打ちが望ましい。

 不測の事態に備え、靴は履いたままがいいだろう。

 健吾は逸る気持ちを抑え、奥へ進むことはせず、まずは玄関からじっくりと部屋全体を見渡そうとした。


 背後から、たったったったっ、と足音が聞こえて、心臓が飛び出るほど驚いた。

 足音はエレベータのある方角からだんだん近づき、この部屋の前を通り過ぎた。

 何のことはない、外の廊下を誰か住人が歩いているだけのことだ。


 たったっ……。

 ガチャン。


 ――え?

 足音が途絶え、隣の部屋のドアが開く音がした。バタン、と閉まる音がすぐ後に続く。

 隣は、空き部屋だったはずでは……。


 何か、ものすごく嫌な予感がしてきた。

 隣の部屋のことは、全く考慮していなかった。何故空き部屋なのか、考えてみるべきだったのかもしれない。健吾は自らの迂闊さを呪った。


 ――一旦外に出て、様子を見るべきか? 隣の部屋を窺うべきか?

 逡巡の末、少しだけドアを開け、すき間から廊下を覗いてみた。


 何も見えない。

 恐る恐る首だけ外に出して、左右を確認してみた。

 特に変化はない。


 と、部屋の中の方から、不意にガサッと音がした。

 慌てて室内に向き直り、目を凝らした。


 いた――で、出やがった!

 奥の方で、黒い塊がもぞもぞと動いているのが分かる。例の〝黒いモノ〟に間違いない。


 健吾はビニール傘を両手で強く握りしめ、正面に構えた。

 額から滲み出た汗が頬を伝い、水滴となって足元に落ちる。腕が、微かに震えている。


 よく見ると、黒いモノはコンビニの袋を引きずりながら動いていた。

 どうやっているのか見当もつかないが、自身はごろごろと音をたてて転がり、それにくっつくように、コンビニ袋はガサガサと音をたててついていく。


 やがてそれは、ダイニングから六畳畳部屋へと移動し、山積みになっている段ボール箱の陰に消えた。


 ――あの向こうか、あそこに隠れているのか。

 やってやる。アレがなんであろうと、やってやるぞ。


 健吾は音をたてないように近づき、段ボール箱の山の裏側をこっそりと覗いた。


 そこには、正座している人の姿があった。

 白っぽい、パジャマのような服を着ている。健吾と比べれば随分と小柄で、手足も華奢な印象を受ける。


 ただし、首がない。

 肩から上にあるべき頭部がどこにもない。首の付け根できれいに切断されたように見えるその姿は、まるで組み立て途中のマネキン人形を思わせた。

 人形と違うところは、その首なしの体が生々しく動いていることだった。


 正座している膝の前に、あの〝黒いモノ〟が転がっていた。腕を伸ばし、それをゆっくりと持ち上げ、何もない首の付け根にのせた。それから両手で表面を撫でたり引っ張ったり、指で梳いたり寄せたりするような仕草を執拗に何度も繰り返す。


 やがて、そこから顔が出てきた。

 薄気味悪いほど青白いが、よく見ると、まだあどけなさを持つ少女の、美しい顔だった。

 少女は、運ばれてきたコンビニの袋を拾い上げ、中から「コアラの町」を取り出して、一心不乱に食べ始めた。


 左手を口に突っ込んで悲鳴を押し殺し、健吾は一旦段ボールの山に隠れた。残りの右手だけでは塞ぐことのできない耳に、ボリボリむしゃむしゃとお菓子を食らう音が絶え間なく入ってくる。


 健吾は考えた。考えるな、考えるな、と。

 あれは――人だ! 首とか、何かの見間違いだ。合理的解釈とかはもうどうでもいい。

 ここは五階だけど、きっと何かの手段を使ってこっそり窓から侵入し、隠れて僕の食べものを狙っている盗人に違いない。それ以上のことは考えるな。そう決めつけろ。

 何度も自分に言い聞かせて、立ちあがった。


 相手の視界に入らないように斜め後ろの角度から再び覗くと、少女はまだ「コアラの町」を食べ続けていた。

 口いっぱいに頬張り、時折「おいし」と呟いている。斜め後ろから見ても、ほっぺが丸くもぐもぐ動いているのがわかる。

 そのあまりにも緊張感のない様子で、ようやく覚悟ができた。


「おい」と強めに声をかけると、「ふえ?」と少女の動きが一瞬止まった。

 そこですかさず手を伸ばし、「コアラの町」の箱をふんだくった。

「あ……」と、少女の手が箱を追いかけ、宙を泳ぐ。

 と同時に、首がぽろっと落ちた。


「ぎぃゃあああ――――!」

 健吾の悲鳴が鳴り響いた。

 少女の首は恐怖の表情を露わにして、「ひいいいいい」と、健吾から逃げるようにダイニング方向に転がった。


 たちまち長い髪が絡みつき、黒い塊になっていく。

 なるほど、アレはそうやって出来上がるのか。


 今度は部屋が急速に冷えてきた。

 これは前にも一度経験済みの現象だったため、健吾はうろたえなかった。

 しかし、異変はこれに止まらなかった。


 バタン。

 隣の部屋のドアが勢いよく開く音が聞こえた。続けて駆けるような足音が近づき、この部屋の前で立ち止まった。


 がちゃがちゃ。

 ドアノブを勢いよくまわし、開けようとしている。

 ――よ、よし、念のため鍵をかけておいて正解だった。


 諦めたのか、ドアは静かになった。

 健吾がほっと安堵のため息をこぼしかけたとき――。


 ガチャリーン。

 解錠を知らせる金属音が響いた。


 な、なんでだ!

 健吾の心の中の自問に自答する暇もなく、ドアが開き始めた。


 ――これは、かなりまずいのではないか。

 背中が、氷の壁に貼りついたように冷たくなっているのに、顔面からは滝のような汗が噴き出した。


 人影が、部屋の中に入ってきた。

 どうしたらいいか、分からない。とにかく傘を構えるしかない。

 両手で握って思いっきり前に突き出す。すぐにでも折れてしまいそうな、軽くて細い作りがなんとも頼りない。こんなの、何の役にも立ちそうにない。

「僕って、ここで終わるのかな……」


 人影が、ダイニングに飛び込んできた。

「出てきたね。そういうことだったのか、このエロオバケ!」

 怒鳴り声とともに身構えた人影は、珠希だった。


 珠希はがたがたと怯えきっている健吾ではなく、ダイニングの中央やや窓よりの床、そこにじっとしている黒い塊に視線を向けていた。

 そのまま動こうとしない。少し呆けたような表情で、両目をパチクリさせている。

 健吾もつられて、同じモノを見た。


 黒い塊、いや、まだ髪が半分くらい絡みかけの少女の首は、目の前の床に無造作に放置してあった、ある物を見つめていた。

 それは、窓からの淡い月明かりに照らされて、神秘的に浮き上がる『派遣メイドのなんでもご奉仕』。


 健吾は一瞬固まった。

 珠希も口を半開きのまま固まっている。

 部屋が、寒い。


 少女の首は、ゆっくりと健吾の方を向いて、顔を赤らめながら、ぼそり呟いた。

「……えっち」

 畳部屋では、首のない体が襟を押さえ、両手で体を隠すように身構えていた。


「お、おい、ちょっとまっ――」

 珠希の軽蔑に満ち溢れた視線とため息が、健吾の弁解を塞いだ。

 沸騰する顔面を両手で覆い、思った。

 ――僕って、ここで終わった。


次話に続きます。タイトルは「話の三 受縛」の予定です。

後に少し改稿するかもしれません。

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