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話の二 黒いモノ (中編)

 朝になっていた。

 なぜか、寝ざめはすっきりしていたが、汗はぐっしょりかいた形跡がある。全身が脂を塗りたくったようにベタついていた。


 あれは夢、悪夢の類――なわけはない。理解できないが、ここには何かがいて、夕べ何かが起きたことは、おそらく事実だ。

 畳部屋に積み上げた段ボール箱も倒れていない。

 枕元には長い、明らかに健吾のものとは違う、髪の毛が数本落ちていた。


 脳裏に康則叔父の顔が浮かんだ。

 ――そういうことか。


 佐藤不動産に電話してみた。

 社長は今日から夏季休暇で不在、海外旅行中だそうだ。

 ぷつん、と頭の中で何かが切れるような音が聞こえたが、今は冷静さが肝要と無視した。

 とにかく事情を話そうとすると「あとで人をやるから詳しいことはそこで」と言われ、一方的に切られてしまった。


 健吾は途方に暮れてしまう。

「どうしよう……」

 康則叔父がいなければ、別の部屋の手配は難しいだろう。いや、叔父は知っててわざとこの部屋を健吾にあてがったのは明白だ。つまり何を言っても部屋を変えることはできなさそうだ。

 ……なんだか無性に腹が立ってきた。この不条理な怒りを、どこにぶつけてやろう。


 とりあえずシャワーを浴びて、それからこれからのことを考えよう。

 本来なら、今日は同じフロアの人達への挨拶をするつもりだったが、どうしたものか。粗品も用意してあるのに。


 洗面所で服を脱いでいると、がたっと物音がした。

 昨日と同じように、ダイニングの方からだ。


 迂闊だった。明るいうちは大丈夫だろうと思っていたのだが。

 背筋に悪寒が走り、嫌な汗が全身からにじみ出てくる。夕べと同じだ。


 しかし、健吾の心境には、いくぶんかの変化があった。


 まず明るいこと、日中であることが、どれだけありがたいかが身に染みてわかる。それだけで、恐怖心が随分と和らいでくれる。

 それから、二度目であること。夕べはいきなりのことで、何も理解できず、ただ混乱するだけだった。しかし二度目ともなれば、それなりに心の準備はできているし、ある種の「慣れ」のようなものもある。

 健吾はホラー映画などは大の苦手な怖がりだが、いざ観はじめると、一時間もしないうちにその怖さに慣れてしまうことがよくある。順応力とでもいうのか、とにかくすぐに環境に馴染むのが得意なのだ。


 そして何より、お気楽親父や康則叔父への怒りが込み上げている。

 無責任にも、大事な一人息子の住宅問題を、法事の時以外は半ば以上音信不通状態の叔父に丸投げした父親。「出る」と分かっていて、事前に何の警告もなくこの部屋に自分を押し込んだ叔父。

 彼らへのやるせない怒りが勇気となり、「このまま負けてたまるか」という少々根拠も目的も不明瞭ではあるが、なんとなく意地っ張りな闘争心のようなものが湧いてくるのだ。


 がたっ。

 

 再び音がする。健吾の心臓が早鐘を打つ。

 今のはかなり近い。ここから一~二メートルくらいの距離と見た。

 息を殺し、姿勢を低くして両足に力を溜める。

 ――よし、行ける!


 意を決して、健吾は洗面所から勢いよく飛び出した。

「この! もう許さんぞ! 覚悟――」


 あれ?

 おかしい、何かが変だ。

 夕べの黒いモノではなく、別の何かが目の前にいた。


 それは、昨日出会った従兄妹、珠希の姿をしていた。

 健吾は混乱し、威嚇のため両手を大きく振り上げたままの状態で、思わず動きを止めた。


 珠希も静止していた。きょとんとした顔を可愛らしく微かに傾げ、健吾と目が合った。

 その視線が下方へと動くと同時に、両目が大きく見開いた。つられて健吾も視線を落とす。そこには自分自身の、全裸の股間が。


「ぎゃあああああああああああ」

「う、うおおお――――っ」


 珠希の切り裂くような悲鳴を背に、健吾は洗面所に退避した。とりあえずバスタオルを腰に巻き、再びひょいと顔を出すと、「出てくんな! この変態エロイトコ!」とひどい罵声を浴びてしまった。


 仕方なく、洗面所から大声で呼びかけてみる。

「た、珠希……ちゃん、だったよね。何してんの? 何でここにいるの?」

 暫しの沈黙を挟んで、珠希の返答があった。

「あなた――健吾くんが、呼んだんでしょ」

「僕が?」

「今朝、佐藤不動産に電話したでしょう。それで私に様子を見てこいって連絡が入ったのよ」

 確かに不動産の人は、あとで人をやる、と言っていた。なぜそれが珠希なのかが、いまひとつ理解できないが。それより――。


「でも、中に入るのなら、チャイムの一つくらい鳴らしてくれても……あれ、鍵もかけてたはずなのに、どうして――」

「合鍵よ。不動産で借りてきたの。それに、入る前にちゃんとチャイム鳴らしたわよ、何度も。ノックもしたわ。何の反応もないから、もしかしたらと思って合鍵で入ったの」

「もしかしたらって、何が?」

「何でもない」


 昨日の別れ際に言った珠希のセリフが思い出された。曰く、あのマンションには気をつけてね。彼女も、この部屋の怪異のことを知っているわけだ。だからこそ様子を見に来たということなのか。それより――。


「本当にチャイム鳴らしたの? 何も聞こえなかったけど」

「嘘言ってどうするのよ。ちょうどシャワーでも使ってたんじゃないの?」

「いや、シャワーはまだ。これから浴びようとしてたところだし」

「……それほんと? 何も聞こえなかったの?」

「うん」

「ふーん。じゃあ、とりあえずシャワー浴びちゃいなさいよ。待ってるから」


 珠希に言われるまま、シャワーを浴びることにした。今のうちに浴びてしまいたい。誰かが一緒にいてくれることが、これほど心強いと思ったことはなかった。


 ちゃんと着替えを済ませ、頭をタオルで拭きながら風呂場を出ると、珠希は部屋のあちこちを見て回っては、少し考え事をしている様子だった。

 健吾の姿を認めると、ひとり言のような口調で素っ気なく言った。


「なによ、なんにもないじゃない」

「それって、どういう意味――」

「それよりも、これは何?」


 珠希は健吾の言葉を遮り、畳部屋の片隅に置いてある小さな箱の山を指差した。

「ああ、粗品。近所のご挨拶にと思って。ギフト用のタオルだけど」

「へー、感心ね。まだ山積みってことは、ご挨拶はこれから?」

「うん、ほんとは今日やるつもりだったんだけど――」

「じゃあ、行きましょ。粗品は二つあればいいわ。ついてきて」

 健吾の返事も待たずに、珠希は玄関に向かった。ちょっとせっかちなのかな、などと思いながら、後を追う。


 隣の五〇二号室は空き部屋だった。

 ――だったら、こっちの部屋にしてくれればいいじゃないか! 

 健吾の内なる炎が大きく燃え上がった。


 このフロアの住人は、健吾の他には五〇三と五〇四に一人ずつ。康則叔父の言っていた通り、どちらも独身女性だった。挨拶のため呼びだすと、健吾を見てちょっと驚いたり警戒したりしたが、傍らに珠希がいることに気づくと、態度が柔らかくなった。社長の娘として面識があるようだった。


 部屋に戻って、ようやく本題に入るかと思いきや、珠希は玄関で立ち止まったまま、中に入ろうとはしなかった。

「じゃあ、私はこれで帰るから」

 健吾はずっこけそうになった。文句を言おうとするのを珠希は手で制して、

「話は聞かなくても分かっているわ。ここはちょっと特殊なのよ。というより、もうお手上げね。私にはどうしようもないわ」

 平然とした顔で、住人に向かって恐ろしいことを言う。


「そんな顔しないで。なにも、ないのよ」

「なにも、ない?」

 オウム返しの健吾に、珠希は頷く。


「普通、何かが〝出る〟とね、必ずどこかに痕跡が残るものなの。でも、私には見つけられない。だから『女性のみ入居可』なのよ」

「ごめん、意味が分からないんだけど」

「男だと、出るのよ」

「はあ? それって、どういう――」

「私が知りたいくらいよ。というわけで、健吾くん、何か分かったら教えてね。それまで健闘を、じゃないわね、幸運……でもないか――」


 珠希はドアを開け、玄関から一歩外に出ると振り返り、にっこり微笑みながら言った。

「――無事を、祈ってるわ」

 ばたん、とドアが閉まる音の後、静寂と放心状態の健吾が残された。


     *


 さて、どうしたものか――。

 午後、健吾の姿はコンビニにあった。


 取り立ててここにいる理由はないのだが、あの部屋ではとても落ち着かない。見知らぬ街で他にアテもない健吾は、ここで今後の対策を思案するしかなかった。

 対策といっても何をどう考えればいいのか、皆目見当もつかない。それに、ここはここで人の出入りも多く、マンションの五〇一号室とは別の意味で落ち着かない。


 康則叔父は旅行中。なんとなく頼りになりそうな雰囲気だった珠希には、見放された。

 この状況下で、自分にできることは何か――。

 何もない。というより、何も思いつかない。

「いっそのこと、ネットカフェでも探して外泊するか?」

 ようやく絞り出したアイデアの不毛さに溜め息がでた。一時的にはそれもいいかもしれないが、根本の解決にはなっていない。


 ぐう。

 空腹をなんとかしろと、何度も胃が抗議している。朝から何も食べていなかった。

 買い物を済ませた後も店内に留まるのは不審がられる気がして、考えがまとまるまではと雑誌コーナーで立ち読みの振りを続けていたが、そろそろ限界のようだった。


 結局、部屋に戻るしかない。

 あとは、部屋でどう過ごすか、それだけだ。


 健吾は腹を決めて、買い物を始めた。

 昨日食べそこなった「コアラの町」を筆頭に、弁当やおにぎり。そして、大量の缶ビールとつまみ類。

 とにかく喰って、それからしこたま飲んで、ベロンベロンに酔っぱらって寝てしまえば、何が起きようとも気づかぬまま朝を迎えられるだろう――。

 それが、健吾の作戦だった。


 コンビニを出ると、偶然にも近くにレンタルショップを発見。

 いっちょこれも景気づけにと、DVDを借りた。

 即ち、タイトルは『派遣メイドのなんでもご奉仕』だ。


 これも独り暮らしの醍醐味。加えて隣は空き部屋とくれば、誰を憚ることなく大音量で鑑賞してやるぞ。

 両手に大きなコンビニ袋とDVDを抱えつつも、軽やかな足取りでいそいそとマンションへと続く坂道を駆け上った。


 部屋に戻ると、ダイニングに胡坐をかき、早速おにぎりを頬張り、ビールで流し込む。

 まだ陽は高く、夕方とも言えない時間帯だったが、早く酔うに越したことはない。

 DVDは夜になってからのお楽しみとして、今は食べて飲むことに集中した。


 三本目のビール缶が空になった頃、急に眠くなってきた。

 明るいうちから酒を飲むとやたらと酔う、というのは本当らしい。それとも、やはり夕べの出来事のおかげで疲れているのかもしれない。

 頭がくらくらとして、全身が火照っている。


 姿勢を維持できずに、床に突っ伏した。

 フローリングの感触が冷たくて気持ちいい。

 半ば朦朧とした意識のなか、何かが床を転がるような音が聞こえた気がした。


 ごろごろ。

 やっぱり聞こえる。

 ああそうか、自分が寝がえりをうっているからだ。床が硬いからな。

 健吾は落ち着く場所を探そうと、体温でぬるくなった床を避けるように、ことさら大きく全身を転げた。


 手に何かが当たった。柔らかい。

 これは、座布団かな。ちょうどいいや、枕にしよう。

 健吾はそれを引き寄せ、頭をのせた。

 あー、いい感じ。楽ちん楽ちん。これで良く眠れそうだ。

 ……妙に生温かい気もするけど。


「う、うう――」

 うめき声のようなものが聞こえた。

「うう、ぐ、ぐるじい……」

 辛く息苦しそうな声が、すぐ耳元で、はっきりと聞こえた。

 健吾の酔いと眠気が一気に吹っ飛んだ。その声は、自分の頭のすぐ下、枕から発せられている。


 よく見ると、健吾が枕にしていたのは、真っ黒い塊。夕べ床を転がっていた黒いモノだった。

 やや小ぶりのスイカくらいの大きさのそれは、全体が毛むくじゃらだった。

 そして、その黒いモノには、〝目〟のようなものがついていた。

 眼球が素早く不規則に、キョロキョロ動く。

 健吾と目が合った。


「うぎゃあああああああああ――――」

 健吾が悲鳴をあげ、

「ぎぎぎぎぎゃーうあああ――――――――」

 黒いモノが耳をつんざくような金切り声をあげた。


 恐怖のあまり我を失った健吾は、黒いモノを両手で掴み上げると、思い切りぶん投げた。

 激しく壁にぶつかったそれは、「ぐゅひゅう」と不気味な音をたてて床に転がった。


「い、いたい。放り投げちゃ……だ、め……」

 黒モノから呻き声とともに透明な液体が染み出し、床に水たまりができる。


 このとき、更なる異変が健吾を襲った。

 急に部屋全体が寒くなってきた。一瞬、これは寒気かと思ったがそうではなかった。吐く息までが、明らかに白くなっている!


 これは――やばい。

 健吾の頭の中で警報が鳴り響いた。

 逃げなければ!

 考えるよりも、本能的に危機を察した体の反応の方が早く、既に健吾の両脚は玄関に向かって走り出していた。


「待って、いかないで。いかないでいかないでいかないで」

 後ろから声がするのを無視して、外に飛び出た。

 ドアを力いっぱい閉める寸前、中から「ちょ、ちょこーーーー」と叫ぶ声が聞こえた気がした。


(つづく)


後編に続きます。話の二は長くて、三分割になってしまいました。

あとで少し改稿するかもしれません。


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