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話の二 黒いモノ (前編)

 健吾の引っ越しは、二日後に決行された。

 両親の海外旅行は四日後に迫っていた。あの二人より先に動くことこそが重要だった。そうしなければ、わけのわからない後始末を押し付けられる危険があったからだ。


 住む、といっても二カ月程度の期間限定だ。荷物も最低限のものでいいはずだから、レンタカーで軽トラックを借りて運ぶことにした。浮いた引っ越し代は小遣いにしてしまおう。


『二ノ塚マンション』に着き、健吾は自らの浅はかさを自覚した。改めて建物を見上げて、たちまち後悔してしまった。

 認めたくはないが、僕にもあのお気楽夫婦の血は受け継がれているらしい。

 果たして一人で、今日中に終わるのだろうか――。


 父親が昔使っていた小さな冷蔵庫がまだ使えたので持ってきたが、とにかく重い。

 今まで一人暮らしをしていたわけではないので、家電などが充分に揃っているわけではなかった。たとえば洗濯機はない。これは近くのコインランドリーで済ますことにした。ガスコンロもない。まあ、外食やコンビニで何とかなるだろうと思っていた。


 それでも荷物は、他に液晶テレビ、ミニコンポ、テレビ台と本棚兼用のラック。ふとん、テーブルなど。それに数個の段ボール箱に詰めた本や着替えや食器その他。

 なんだかんだと増えてしまった。二カ月だろうが一年だろうが、住むために必要な家財道具の量に大差はないのかもしれない。

 

 部屋に入るとまだ甘いにおいが充満していた。ただ、前と違ってむせかえるような強烈さはない。いくぶんおとなしく、あまり気にならない。芳香剤だと言われれば信じてしまいそうな程度だった。

 とりあえず全部の窓を開けて、いざ引っ越し開始。


 重すぎる冷蔵庫をなんとか運び込んだ時点でくじけそうになった。しかし、誰が助けてくれるわけでもない。一人で半泣きになりながら作業を続けた。


 腰は砕け、膝は笑い、握力など皆無――

 なんとか全ての荷物を運び込んだ時には、すっかり夕方になっていた。

 段ボール箱などの細々したものは、明日でいいや、と、六畳間に積み上げた。


 とにかく疲れたし、汗もたくさんかいてしまった。すぐにでもシャワーを浴びたかったが、その前にコンビニ行って、夕飯を買った方が得策と判断した。

 コンビニまでは片道五分くらいかかる。この暑さでは、シャワーを浴びてもその後コンビニに行けばまた汗だくだ。

 健吾は疲れた体に鞭打って、「あと、ひと踏ん張りだ」と独りごちながら部屋を出た。


 丘の斜面にあるマンションは、結構坂道の昇り降りが億劫だった。この辺りの事情も格安の理由になっているのかもしれない。長く住むなら自転車とか原付欲しいな。

 コンビニの袋をぶら下げ、そんなことを考えながら健吾はマンションに戻った。


 ダイニングの真ん中にぽつんと置いた小さいテーブルにコンビニ袋を置く。中には買ってきたお菓子やお茶、ビール、おにぎりなどが詰まっている。

 残念ながら、冷蔵庫はまだ使えない。引っ越しなどで傾けたりしたら、三時間くらいは電源を入れてはいけないと、父親からアドバイスを受けていた。仕方ないので、気休めに冷房を強めにかけた。

 後はシャワーを浴びて、飯食って寝るだけだ。


 がさっ。


 風呂場へ向かおうとする健吾の背後で、不意に物音がした。

 振り返ってみると、テーブルの上に置いたコンビニ袋がひしゃげている。中の物が袋の中で転げたのだろう。

 よくあることだ。


     *


 ユニットではなく、風呂トイレ別と言うのは嬉しい。誰かの受け売りで覚えた知識を、それとなく実感するつもりで、脱衣所を兼ねた洗面所に入る。


 鏡に映った自分自身を眺めた。

 後ろが、気になる。


 良く考えてみれば、健吾にとっては初めての一人暮らしだ。思った以上に緊張や不安があるのだろう。また、この空間に自分一人しかいないという感覚は、ある種の解放感を満喫できるが、同時に孤独や心細さも強く感じるものなのだろう。

 つい、どこかで見たり聞いたりしたホラー映画や怪談、都市伝説などが頭をよぎる。

 ふとした時に何か気配のようなものを感じるのは、そのせいだ。きっと。


 目の前の、浴室の扉を開けるとそこには――なんてあるわけがないのに。

 ……。

 健吾はちょっとだけ気合いを入れて、勢いよく浴室の扉を開けた。


 ぴしゃっ。

 水の垂れる音が聞こえて、息が止まりそうになった。

 見ると、シャワーのハス口から水滴が垂れている。

「なんだ、水か」ほっと胸を撫でおろした。


 そのまま視線を下に持っていくと、ハス口から垂れた水は床を濡らし、排水口に向かって細く、ゆっくりと流れていく。

 その排水口が、汚れていた。髪の毛が絡まっている。

 それほど多くはない。数本といったところだった。

 怪談や映画などでは、こういう場合、もっと大量に出てこないとお話にならない。


 つまり、これは清掃の手抜かりにちがいない。そういえば、下見したとき、風呂場のチェックを忘れていた。あのとき気づいていれば、康則叔父に文句を言ってきれいにしてもらえたのに。


 健吾はぶつぶつと叔父への文句を並べながら、シャワーを浴びた。


 汗を洗い流し、すっきりした気分になって体を拭いていると、物音がした。


 浴室でもない、自分が今いる洗面所でもない。

 風呂場の外、つまりダイニングの方からだった。


 がさがさっと、何かが擦れるような音。それに、重い物がフローリングの床を転がるような音も時折混ざっている。


 何かが、いや、そんな表現ではいけない。

 誰かがいる。誰かがここに侵入して、何かをしている。


 どこから入ってきたか、それはもちろん、ドアからに決まっている。

 コンビニからの帰り、鍵をちゃんとかけたか、ひどく記憶が曖昧だった。これまで住んでいたマンションはオートロックだったので、きっちりと戸締りをする習慣が健吾には身についていない。


 とにかくこのままではいけない。着替えはまだ段ボール箱の中だったことを思い出し、内心舌打ちしたが、この際仕方ない。腰にタオルを巻いて、風呂場から出た。


「誰だ! 何をしている!」

 大声で叫んだ。


 しかし、誰もいなかった。洗面所でまごついている間に、逃げられてしまったのかもしれない。

 玄関に行ってみると、鍵はしっかりとかかっていた。

 どういうことだろう?


 ダイニングに戻ると、ちょっとした異変に気付いた。

 テーブルの上に置いたはずのコンビニの袋が、床に落ちていた。

 袋は空っぽで、中に入っていたはずの食べ物、飲み物が周囲に転がっている。ただ転がっているだけで、封も破られていないし、概ね無事のようだった。


 ただ一つだけ、大好物のチョコレート菓子「コアラの町」の箱がつぶれている。拾い上げてみると、その箱には数本の髪の毛が絡みついていた。

 すっ、と細く、背筋に冷たいものが走る。


 何か変だ。

 変なことは分かるけど、これ以上考えてはいけないような気もする。


 とにかく掃除機をかけ、気味が悪いので「コアラの町」は捨てることにした。

 疲れているんだ。今日はさっさと食べて、早く寝てしまおう。

 畳の部屋には段ボール箱を積んであるし、今夜はダイニングの床にふとんを敷くことにした。


     *


 夜中――。

 ふとんに潜り込んで、余計なことは考えず目を閉じ、ひたすら眠ろうと努めた。

 だがこういうときに限って、なかなか寝付けない。

 いっそのこと、生まれて初めてヒツジでも数えてみようか――などと考えていたとき。


 どん。


 と何かが落っこちるような音が聞こえて、飛び上がりそうになった。


 たぶん、気のせいだ。今日は疲れたから――えっと、空耳? 耳鳴り? なんでもいいけど、とにかく気のせいに決まっている。気にするな。寝てしまえばいい。


 どん。

 と今度は壁に何かがぶつかるような音がした。

 そうだ、畳の部屋に積んだダンボール箱、ちょっとバランスが悪かったよな。今頃倒れちゃった、ということだ。気にするな、寝てしまおう。


 どん、ともう一度、壁にぶつかるような音がした。

 そうか、壁か。あれは段ボールじゃない。隣だ。隣の住人が、こんな夜中に転んだか、壁を蹴ったり殴ったりしているんだ。気にすることはない。寝て――。


 ブチッ。

 なんだよブチって! 何が切れたんだよ!

 もうわけがわからない。でもあれは断じてらっぷ――もとい、あれは、きっと、えっと……。き、きのせい、だよ。うん。


 ごろごろ。


 何かが、転がる音がした。

 聞き覚えがあった。風呂場にいたときに聞こえたのと、同じ音だった。

 幻聴ではない。かなり近い。このダイニングの床を、何かが転がっている!


 音は近付き、遠のいていくことを繰り返している。どうやら、健吾の寝ているふとんの周りを、時計回りに転がっているようだ。

 ……お願いだから、もう勘弁してください。健吾は泣きそうになった。

 たまに、どん、と壁にぶつかり、時折「ぐひゅ」と変な音を発しながら、また転がる。

 この場から今すぐ走って逃げだしたい衝動を、必死に抑え込んだ。


 しばらくすると、音が絶えた。

 終わったのか? 消えたのか? 去ったのか?

 全神経を耳に集中させて、周囲の様子を窺った。……何も聞こえない。


 健吾はゆっくりと、閉じていた両目を開いてみた。

 それは、いた。


 黒い塊、黒い球状の何か――黒いモノ、としか言いようのない物体が、健吾の視界前方一メートルほどの距離にあった。


「ひっ」

 思わず微かに声がこぼれてしまった。

 その声に反応するかのように、黒いモノがぴくっと震えた。


 必死に両手で口を押さえ、なんでもいいから祈った。

 体のあちこちから嫌な汗が噴き出した。

 黒いモノは再び転がり始めた。しかし、さっきとは様子がちがう。明らかに、こちらに近づいている。

 咄嗟に目を閉じ、健吾は寝た振りをした。


 気配でわかった。やがてそれは健吾の枕もとに辿り着いて、止まった。


 耳元で声がする。

「あなた……ちがう。あなた……だ、れ」

 寝たふりを続ける。


「お……き、て。ねえ」

 これは夢だと思い込むことにする。でも全身の震えが止まらない。


「ね、ねえ………さ、さ……きのおか、シ、ち、ちぃヨ……」

 もうだめだ、限界だ。我慢できない。

 頭の中が、真っ白い光に包まれた。


 ……何かが聞こえるよ。遠くで、アルミ缶を包丁で切り刻むような、黒板を爪で引っ掻くような、とても嫌な音が聞こえる。

 ああ、これは僕だ。僕の声だね。僕が悲鳴を上げているんだね――。

 健吾は、気を失った。


(つづく)


中編に続きます。後で少し改稿するかもしれません。

なお、話の二のタイトルは当初「五〇一号室」の予定だったんですが、「黒いモノ」に変更しました。

その方がホラーッぽいと思ったんですが……


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