話の十一 その日 (前編)
「こ、こああのまひ、お、おおお――――ぃひぃぃぃっ!」
瑞奈が「コアラの町」を貪り食う。いや、食うというよりは頬張る。いや、頬張るというより、口に詰め込んでいる。
通常の三倍くらいにほっぺをぱんぱんに膨らませているのに、それでも休むことなく詰め込み続けている。そのうち頬が破裂するか、むせ返って中身を全部ぶちまけてしまいそうだ。
常人では不可能なほどお菓子を詰め込んでも平気なのは、これも一種の霊現象かもしれず、だとすればお菓子の中でもチョコレートに、とりわけ「コアラの町」に執着することも、何らかの因果のなせる技かもしれないとは、珠希の談だ。
「そんなに慌てて食べなくても、横取りなんかしないわよ」
「らっれまら、ゆうえみらいにららららしゅひろーっれしわうろ、られられらうらっへしまふららひまろうひり……」
「あーもう、喋っちゃだめよ。そこらじゅう粉だらけじゃないの!」
珠希は苦笑しながら、瑞奈の口をティッシュで拭いてやった。
「でも、また食べられてよかったわね、瑞奈ちゃん」
「ふぁいっ! ごほごほっ」
「ほらあ、だから粉吹き飛ばしてるってば」
健吾はぼんやりした頭で、インスタントのスープをすすりながらそんな光景を眺めている。
夕べは三人ともあまり寝付けなかったようだ。珠希は何度もうんうん唸りながら寝返りを繰り返し、ようやく静かになった頃には、すでに空は白み始めていた。それからほどなくして健吾も眠りについたが、最後に見たとき瑞奈はまだ起きていて、窓の外をじっと眺めていた。外から差し込む光が強くなるにつれて、その体はいっそう儚く霞んでいくようにも見えたのだが、昼近くになって目覚めると、瑞奈はすっかり元通りの、実体を伴う――という表現が適切かわからないが――体になっていた。
そのことに大喜びした瑞奈は今、食事と称して無限の食欲を抱えたリスと化してお菓子を詰め込み続けている。
――お話は明日起きて、ご飯食べてからにしたいです。
夕べ瑞奈はそう言っていたが、ひとしきり「コアラの町」を食べ終わり、満足げな表情を振りまいたと思ったら、すぐに居眠りを始めてしまった。
「やっぱり疲れているのかしらね。しかたないわ」
焦れて文句の一つも垂れるかと思われた珠希が、意外にも落ち着いている。
「宣言したからには、瑞奈ちゃんは必ず約束を守ってくれるでしょう。ここで慌てても始まらないわ。いっそのこと、夕方まで自由時間にしましょうか。ということで、あとはよろしくね、健吾くん」
珠希は立ち上がると、玄関へ向かった。
「あれ、出かけるの?」
「時間があるならシャワー浴びたいし。お菓子も切れかかってるから、買い出しにも行ってくる。あと、ちょっと調べておきたいこともあって」
急に自由時間と言われても、外出もできないし瑞奈も寝ている。正直健吾にはすることが思い当たらなかったので、調べものなら手伝おうかと申し出てみたが、これはあっさりと断られてしまった。
「調べるといっても、パパにやってもらうから。それに、これは念のためにやっておく類のものなのよ。不確定な情報のせいで変な先入観を植えつけられるのも嫌でしょ」
取り残されるような形になってしまった健吾は、とりあえずシャワーを浴びた。浴室から戻っても、瑞奈はまだ眠っている。物音を立てて起こしてしまうのも可哀想だ、などと考えると、本当にすることがなくなってしまった。
*
「健吾さん、健吾さん」
声をかけられて、はっと目を覚ました。どうやら暇を持て余しているうちに、眠りこけてしまっていたらしい。
「健吾さん、風邪ひいちゃいますよ」
瑞奈の声に促され、健吾はゆっくりと起き上がった。相変わらず冷房を使わなくても充分に涼しい部屋で、毛布も掛けずに床に転がっていたことで、少しばかりの肌寒さを感じている。
「うん、ありがとう。瑞奈ちゃんはいつ起きたの?」
「ついさっきです。すみません、お昼寝してしまって」
「いや、それは全然かまわないよ。お互い寝不足気味だったしね――」
外を見ると、だいぶ陽が傾いてきていた。じきに夕方と言ってよい時間帯になりそうだ。なんだかんだで健吾も瑞奈も、二~三時間ほどは寝てしまったことになる。
「あのお、それで……」
瑞奈が辺りの様子を窺いながら尋ねてきた。
「……珠希さんは留守ですか?」
「あ、うん。買い出しに行くって外出中。ちょっと待って、今メールで呼び戻すから」
シャワーに買い出しに康則叔父への何かの調査依頼、それだけの用事でまだ戻っていないとは、珠希もどこかで居眠りでもしているのかもしれない。
「珠希さんがいないのは残念ですが、もうお話ししていいですか?」
「え? いや、それは……」
「健吾さんが聞いてくれればそれでいいと思ってるんですけど。お二人がわざわざ揃って、あまり改まった雰囲気を用意されても緊張しちゃうし」
「ちょ、それは困るというか、できればちょっと待ってもらった方が助かるというか……」
「え――――っ」
瑞奈は不満げに頬をぷっくりと膨らませた。
「こういうのって、心の準備とか、タイミングとかあるんですよねー。今ならすんなりお話しできると思ったのにぃ」
「う……ごめん。本当にごめん。でも君のことについては珠希ちゃんの方が頼りになるし、直に聞くべきは僕よりもむしろ彼女の方だと思うから」
ぷいっと横を向いたまま、流し目を向けてくる瑞奈。健吾と目が合うと苦笑交じりのため息を小さく吐いて、わかりましたと告げた。
「健吾さんがそう言うのなら、そうします」
「なんか、不甲斐なくて申し訳ない……」
「謝らないでください。私、健吾さんには感謝してるんですから」
「感謝? それはどういう……」
瑞奈はほんのりと暖かくて穏やかな、見ている者をそういう気分にさせるようでありながら、それでいてどこか寂しげでもありそうな複雑な表情で、ゆっくりと口を開きかけたが、言葉は発しなかった。
声が出る前に、凄まじい轟音とともにドアが開かれ、珠希が猛ダッシュで飛び込んできたからだ。
*
畳部屋で、瑞奈を正面に据えた位置で珠希と健吾が並んで座る。珠希の呼吸の乱れはまだ完全には鎮まっていない。が、場の空気なのか瑞奈の表情なのか、何かを読み取ったらしく、すぐに始めようと提案した。
「そ……」
話そうとしてうまく声が出ずに、慌ててこほん、と小さく咳ばらいを一つ。仕切りなおそうと顔を上げた瑞奈の顔は真っ赤に茹で上がり、目が泳ぎまくっていた。
「それれは、は、はじめますっ! わ、わ、わたしの名前はゆ、ゆきみずなです、あ、それはもう知っていますよね、う、生まれはふたたつちゅ市の――あぁうっ!」
舌を噛んでうずくまる瑞奈。開始して十秒ほどで中断してしまった。
「場が畏まり過ぎたわね」
笑いをこらえつつ介抱しながら、珠希は瑞奈が過度に緊張しないよう、自身と健吾の座る位置を真正面から避けるようにし、「お菓子でも食べながら、気が向いたら好きなタイミングで」語ってもらうよう促した。
それから待つこと約三十分。
待ち構えるあまり静けさで空気が張り詰めないよう、適度に雑談を交えながら過ごしているうちに、なんとか準備が整った様子の瑞奈が、ゆっくりと、小さいがはっきりと、澱みない口調で話し始めた。
「健吾さんには感謝してます。色々思い出して分かりました。今まで幾人かの人がこの部屋にやってきましたけど、すぐにいなくなってしまいました。ずっといてくれたのは健吾さん、あなただけです――」
それは健吾にも珠希にもあえて視線を合わせようとはせず、終始独り言のように淡々としたものだった。
**
――私はここ、双塚市で生まれました。
小さい頃は元気でした。とても元気で、女の子としては元気すぎるくらいだったかもしれません。近所の男の子たちと仲が良くて、いつもサッカーしたりドッヂボールをしたりして遊んでました。おかげであちこち生傷だらけでした。
パパとママはとても優しい人たちでしたが、私がお転婆で、おとなしい子が苦手で女の子の友達ができないことを心配していたみたいです。
小学生になってもしばらくはそんな感じでした。いつもクラスメイトの男子と走り回っているような毎日でした。
ところが、いつの頃からだったか、正確には覚えていないのですが、やたらと貧血を起こすようになりました。ちょっと動くと簡単に疲れてしまい、集中力も途切れがちで、運動も勉強もできなくなって、だんだんと学校に通うことも辛くなりました。
いくら休んでも疲れがとれたような感覚は味わえず、いつも全身がだるくて仕方ありませんでした。手足が重くてだるくて、辛くて苦しくて、いっそのこと手足を全部切り落としてしまいたいと泣き喚いたことが何度もありました。
もちろんそんな状態ですから、病院に行きました。あ、双塚病院です。
検査やら治療やらで入退院を繰り返して、高学年になるころにはあまり学校へも行かなくなりました。
そのうち、病院から出られなくなりました。
中学生になることは出来ましたが、登校できたのは入学式の日だけでした。
もうその頃にはなんとなく分かってきました。自分は助からないんだろうなと。
パパもママも病院の先生も何も教えてくれませんでしたけど、かえってそのことが、私の確信を強くしていきました。
そしてある時、パパとママと先生が病室の前の廊下でこっそり話しているのを盗み聞きしました。私が眠っているふりをしたんです。ドナーが見つかれば、というようなことを話していました。その可能性があまり高くないということも。
それほどショックではありませんでした。ただぼんやりと「やっぱりなー」って思っていました。
あ、本当はそれほど平気ではなかったのかもしれません。思えば翌日くらいから、何か張り合いのようなものがスポッと抜けてしまったような、脱力感みたいなものが纏わりつくようになりましたから。
でもその時はなぜか自分のことよりも、盗み聞きしてしまったことへの罪悪感の方が強くて、それを誤魔化すために――なんでそんなことを思いついたのか謎なんですが――両親をお父さん、お母さんって初めて呼んでみたりしました。二人はちょっと驚いて、それから笑ってました。その笑顔が少し悲しそうだったので、すぐにパパ、ママに戻しました。
病院では、いつも独りでした。
両親を除けば、会いに来てくれる人はいませんでした。小学校の時の友達とはとっくに疎遠になってたし、一日しか登校していない中学に新しい友達ができるわけもありません。
それから病院では、辛い治療がありました。必要だったんでしょうけど、あれは嫌だった。
副作用のせいか、ほとんど食事が喉を通らなくなりました。無理して食べてもすぐに吐いてしまいました。
それでも甘いものなら一口くらいは食べられたので、ベッド脇にはいつもチョコレートのお菓子が置かれるようになりました。
いつか、お腹一杯チョコを食べてみたい。そう思いながら食べるのですが、口に入るのは一個か二個、調子のよい時で三個が精いっぱいでした。
体はどんどん痩せて、骨が浮き出るほどになりました。ずっと室内にいるから肌も真っ白、というより青白いような具合でした。
そして、頭から髪の毛がすべて抜け落ちてしまいました。
もう、何もかも諦めるようになりました。
もういい、独りでいい。誰にも会わなくていい。会いたくなんかない。
私は病室から出ようとしなくなりました。
それを心配したのか、ママは積極的に外に連れ出すようになりました。
外と言っても病棟から出るわけではありません。談話スペースってありますよね、あそこです。いくつかソファーやテーブルがあって、テレビや新聞が置いてありました。病室よりも窓が大きくて、たくさん光が差し込んでくるのは確かに心地よかったので、気晴らしにはなったんだろうと思います。だから、談話スペースに行くことにあまり抵抗はありませんでした。
そこで何をするということもありません。私の体はあまり力が入らなくなって、移動にも車椅子を使うようになっていたくらいですから。ただぼんやりと窓の外を眺めているか、テレビを見るともなしに見ているか、いつもそんな感じでした。
その談話スペースに、毎日同じ時間にやってきては勝手にテレビのチャンネルを変えてしまう二人組のおじいちゃんがいました。病院でできた初めての、そして唯一のお友達だったかもしれません。
私がテレビの前に座っているにもかかわらず、勝手にチャンネルを変えてごめんね――そんな風に話しかけてきたのが最初だったと思います。
二人が特に楽しみにしていたのが、毎週水曜日の午後にケーブルテレビで放送していた時代劇でした。
私はあまり、というより全く興味はなかったんですが、それでもなんとなく連続で見ていると話の内容もわかってきて、だんだん面白いと感じるようになりました。おじいちゃんたちは私を見つけると、「一緒に見よう」と誘ってくれました。
私が甘いものが好きだと知ってからは、毎日のように飴やチョコを持ってきてくれるようになりました。不思議なことに、四個くらい食べることができました。
それ以来、優しいおじいちゃんたちと一緒にお菓子を食べて少しおしゃべりして、水曜日は時代劇鑑賞。それが私の午後の日課であり、ただ一つの楽しみになりました。
そんな毎日を過ごしているうちに、私はいつの間にか中学二年生になりました。もちろん、なんの実感も感慨もありません。それに、どうやら私は「頑張っている」んだそうです。そんな自覚もつもりなかったから、なんだか他人事のようでした。
その頃です。あの人と出会ったのは。
研修医の、斉藤先生。
*
「あ……だから『せんせい』なのか?」
ここにきて、健吾はようやく納得した。
さらに考えてみると、例えば沖田にも関心を示していたのは、強いとか美剣士ということではなく、労咳に苦しむ姿に、自身の境遇を重ね合わせていたのではないか。
「……かもね」
珠希は短く、肯定でも否定でもない曖昧な返事をよこした。
「とにかく、まずは聞きましょう。最後まで。瑞奈ちゃんの気が済むまで」
瑞奈はしばらく口を閉ざしていた。
疲れたり飽きたりした様子はなく、言葉を選んでいるようにも見えない。
少し俯いて、摘み上げた「コアラの町」を指先でもてあそんでいる。
時折、微かではあるが口元が緩む。たぶん無意識にだ。
こういう状態を表す言葉を、健吾は一つしか知らない。
「……思い出し笑い?」
「だよね」
今度は珠希も強く肯定してくれた。
(つづく)
お読みいただきありがとうございます。予定より一か月オーバーです><
次回は後編です。
当初は瑞奈ちゃんの話を最後まで載せるか迷いましたが、長くなってしまうので中断しました。
なお、冒頭部での瑞奈ちゃんの意味不明なセリフは、
「だってまた、夕べみたいに体が透き通ってしまうと、食べられなくなってしまうから今のうちに」
と言っているようです。




