話の十 瑞奈 (中編)
しばらく休止、もとい放置状態でしたが、ようやく再開となりました。その反動もあってか、今回はかなり長くなってしまいました。
「しっかし、この鴨ってヒトは乱暴ねー。実在したんでしょ? 本当にこんな性格だったの?」
「実在はしてるよ。まあ、本当の性格がどうだったかは当時の人でないとね……」
「どうしてあんな人がトップなの? ていうか、新選組のトップって近藤勇じゃないの?」
「いや、今はまだ壬生浪士を名乗っている段階で、これから――」
「もしかして鴨を追い出すの? どうやって?」
「それはネタバレになるから……」
「それにしても、八木さんが一番大変よね。ていうか、この人たち家賃とか食費とかちゃんと八木さんに払ってるの?」
珠希からの質問ラッシュが止まらない。
隊士が寝泊まりしている八木家の家賃が気になるのは、さすが康則叔父の娘、不動産業が身近であるといったところか。
時代劇観賞会を再開し、テレビの前に集まる三人。
瑞奈は相変わらず抜群の集中力で、邪魔するものは容赦しないぞっ、というオーラを放ちまくっている。
歴史好きの健吾もドラマを充分に楽しんでいる。ストーリー的にも、そろそろ土方、近藤らが新選組として歴史の表舞台に躍り出ようという頃合いだ。ドラマ『壬生の牙』としては、第一部中盤の盛り上がりに差し掛かりつつあるような辺りだろう。
一人蚊帳の外で、最も苦労しているのが珠希だった。
この観賞会が決して無駄ではないと分かったことで、多少は前向きな姿勢を見せるようになった。そして、まだまだ先が長いこのドラマが終わるまで瑞奈に付き合うためには、やはりストーリーや人物を把握し、一緒に楽しむのが上策と気づいたのだろう。
興味がなくて序盤スルーしてしまった分を取り戻し、今からでもなんとか内容を理解して追いつこうと、事あるごとに健吾に質問してくる。
健吾は内心辟易としていたが、珠希なりに努力しようとしてのことだから、可能な限りは返答する。勿論、瑞奈の邪魔にならないよう極力小声でやり取りするのだが、やはり多少は聞こえてしまうのだろう。時折ビクっと反応したり、鬱陶しそうな光を湛えた流し目を寄越したりしてきた。
それでも昨日と違って怒ったり文句を言ったりはしてこなかった。珠希と健吾の会話が雑談ではなく、あくまでドラマの内容に関するものだったから、我慢しているのだろう。
ドラマでは、珠希が指摘したように、芹沢鴨が暴れまくっている。
江戸で結成された浪士組は京に着くや、すぐに瓦解してしまい、江戸に帰還する者と京に残留する者に割れてしまう。残留組は壬生浪士を名乗り、筆頭組頭として組織を仕切っていたのが芹沢だった。この時点で近藤勇も組頭のうちの一人であり、いわばナンバー2相当の地位にいたわけだが、壬生浪士は事実上芹沢一派と近藤一派に分裂しており、水面下では激しい権力闘争が繰り広げられている。
会津藩より賜った「京都守護職御預り」という立場を傘に、商家に押し入って金銭をふんだくったり、勝手に訴訟を請け負って法外な報酬を請求したりと、芹沢はやりたい放題である。
逆らえば何をされるか分からないので、みな渋々従うしかない。社会や身分制度などの背景もあるから、現代の警察とはだいぶ感覚がかけ離れているので同列に論じることはできないが、それでも治安組織であるはずの彼らが、むしろ京の人々にとってかなり迷惑な存在になってしまっている。これでは「壬生狼」と忌み嫌われるのも仕方ない。
ドラマでは、この芹沢の横暴ぶりを丁寧に、そしてかなり誇張して描いている。加えてかなり頭も悪そうだ。後に近藤一派が組織を掌握することの正当性を強調するための演出なのだろう。史実でも芹沢は乱暴だったらしいが、一方で教養人でもあったはずだから、ちょっと残念な気がした。
そんな後先考えないヒャッハーな感じの芹沢とその仲間たちを尻目に、主人公土方は着々と組織基盤を固めていく。隊士を増強し、部隊編成と命令系統を整え、厳格な隊規を定める。有名な段だら模様の隊服が作られたのもこの頃だ。
そして、時が動きだした。
「あ、火事……ていうかこれって放火だよね。もしかして、これかしら?」
「たぶんね」
正確なところは本人に確認しなければ分からないが、健吾の新選組に関する知識で見る限り、瑞奈が口にした「お店が火事」というのは、この場面だろう。
即ち、大和屋焼き打ち事件。
金を出し渋った大和屋に、芹沢が怒り狂って店を滅茶苦茶に壊した揚句、火をかけた。さすがにやり過ぎで、横暴ここに極まれり、という場面だ。これは芹沢に纏わる有名なエピソードで、大砲を持ちだして撃ったなんて描かれる場合もある。
夜の空を焦がすかのような巨大でダイナミックな炎が画面を埋め尽くす。これでは大和屋どころか近隣を巻き込んだ大火災になっちゃうよ、という大袈裟な演出で、ドラマは一旦エンディングを迎えた。
「ねえ、瑞奈ちゃん、今のがあなたの記憶にある『お店が火事』のシーンだったかしら?」
ディスクを交換する合間に、透かさず珠希が尋ねると、瑞奈は「うーん、はい……」と、やや自信なさげに首を少し傾けた。
「……そうだと思うんですが……お花畑が出てこなかったですよね……これじゃないんでしょうか? 私、何か勘違いしてるんでしょうか」
「いや、合ってると思うよ。このまま続きを観れば分かるよ」
健吾は一言だけフォローを入れた。次回予告のタイトルが「八月十八日」だったので、まず間違いないと自信を持つことができた。
「本当ですか?」
瑞奈はまだ確信が持てないといった表情だが、あまりネタバレをしてもいけない。解説したくなる衝動を抑えながら、健吾は新たなディスクをセットし、再生ボタンを押した。
「あ……これだ。これですっ!」
冒頭、いわゆるアバンタイトルの段階で、瑞奈は狂喜した。
ドラマは前回のあらすじとして、火事のダイジェストシーンから始まった。大幅に編集してあり、しかもナレーションの音声も重なっているため、前回のラストの火事シーンとはやや雰囲気が異なる。その辺りが、瑞奈が自信を持てなかった点なのだろう。
そしてこの回のサブタイトルが「八月十八日」。
これは主に会津や薩摩などの公武合体派が手を組み、朝廷を左右するほどの影響力を持った長州とそれに与する公家の一派を京から追放するクーデター「八月十八日の政変」を指すことは明らかだ。
会津や薩摩は武装して御所の各門を封鎖。その際壬生浪士にも出陣命令が下る。
そして、彼らに任されたのが「御花畑」と呼ばれる場所ということになる。
別に花を守ったわけではなく、会津本陣警護の一画という位置づけなのだろう。実際、御花畑には藩主(京都守護職)松平容保が宿所に使った建物があったらしい。
「お店が火事」と「お花畑」双方が出てくるのは、おそらくこの回だけだ。つまり、実際に瑞奈が『壬生の牙』を観始めたのはここからと見てほぼ間違いない。
それは、瑞奈にとってこれまでは「初めて観るドラマ」だったのが、ここからは「見たことがあるドラマ」へと移り変わったことを意味する。
そのことが影響してなのか、彼女の鑑賞態度が、ガラリと変わってしまった。
「あ――お、おはなばたけでてきた――――っ! やったー!」
「出たねえ、よかったねえ、瑞奈ちゃん!」
シリアスかつ緊迫した政変シーンなのに、なぜか乱痴気騒ぎの二人。
ようやく覚えているシーンに出会えて安堵したのか、今まで極度の緊張状態が続いたことの反動なのか、とにかく妙にハイテンションだ。
珠希がそれを煽るように囃し立てるのは、単にこの雰囲気の方が楽だからに違いない。
一人蚊帳の外のような気分になったのは健吾だった。
八月十八日の政変と言えば、幕末史でも非常に重要な転換点だ。この事件を機に、後の池田屋事件、禁門の変、長州征伐と、動乱に拍車がかかっていく。
このドラマではこの事件をどう描くのか――それをじっくり観たいのに。
「あのう、もうちょっと静かに……」
「なにこれ、芹沢が門番ともめてる。でも堂々としててちょっとカッコいいわね」
「えーっ、こんなに怒鳴る人、私は怖いですよう」
――聞いちゃいないよ。
*
一時の緊迫した空気が嘘のように弛緩しきっている。
まあ、娯楽作品を鑑賞しているのだから、気楽にしていられるのはありがたいことでもある。だが――。
「やったー! ついに新選組になりましたよーっ!」
「つまり、ようやくここからが本番ってこと? まじで長いわね、このドラマ」
――もう少し落ち着いてほしいのだが……。
「せ、せ、せりざわしゃ――――んっ!」
「え、え、え――――っ! こ、こ、殺されちゃうよ!」
二人の絶叫の中、いつの間にか壬生浪士は新選組を名乗るようになり、そしてついに芹沢鴨が暗殺され、組織は近藤一派が完全に支配する体制となった。それはドラマとしても相当な見せ場であったはずなのだが、セリフなどは殆ど聞き取れなかった。
――まあ、二人して楽しんでいるのなら、それでいいか。
もう健吾は諦めた。
二人の盛り上がりが最高潮に達したのが、おそらく新選組にまつわるエピソードの中で最も有名な「池田屋事件」の時だ。ドラマの展開も新選組の誕生辺りから急加速し、とにかく怒涛の展開で息つく暇もないまま、いきなり事件へと突入する。
いわゆる不逞浪士の企て――御所に火を放ち、混乱に乗じて要人の暗殺や誘拐を図る――が発覚し、会合場所を突き止めるための市中探索が行われる。
そのスリリングな展開に、いつしか全員が画面に釘付けとなった。
そして始まる、池田屋での激闘。
「いけーっ、がんばれーっ!」
何だかスポーツ観戦でもしているような瑞奈の声援はどことなく微笑ましく、
「うら――――っ、近藤! 斬れ! 殺れ! やっちゃえぇぇ!」
目が血走っている珠希は少し怖い。
この時、新選組は二手に分かれて市中探索を行っていた。人数的に主力部隊は土方副長率いる二十四名だったが、先に池田屋を見つけたのは近藤隊の十名。逃走防止のため周囲を固める必要もあったため、最初に池田屋の中に乗り込んだのは四名だけだった。
対する尊攘派志士は二十名以上。まさに決死の斬り込みだ。
不利な状況下でも臆することなく突っ込んでいく近藤や隊士たちの姿に、二人は益々高揚するかと思いきや――。
途中で瑞奈が黙り込んでしまった。
その目が画面から離れることはないが、両手で口を塞ぐようにしたまま動かない。表情を読みとることができないが、どことなく辛そうにも見えた。
握りこぶしを作り、テレビに向かって半ばシャドーボクシング状態になっていた珠希も、その小さな異変に気付いたようだ。瑞奈の顔を覗き込み、異変の原因を求めるように、画面へと向き直った。
「あ、これは……」
珠希も息を呑むように口を閉ざした。
一人の隊士が、血を吐いて倒れていた。
隊士の名は沖田総司。新選組でも近藤、土方と並び最も知名度の高い人物の一人で、若くして労咳(結核)で亡くなった悲劇の天才美剣士というイメージが定着している。
池田屋で喀血するという場面は多くの映画や小説で描かれており、『壬生の牙』も例外ではなかった。沖田が咳き込むたび、鮮やかな赤が自らの隊服を染めていく。
――こんなシーンを観て、大丈夫なのだろうか?
当人が切望した時代劇なのだから、余計な気遣いは無用なのかもしれないが、それでも健吾は一抹の不安を禁じえない。
娯楽作品とは言え、斬ったり死んだり殺したりするシーンの連続である。しかも新選組では芹沢の件に見られるように、内部での様々な葛藤に起因する粛清も後を絶たない。『壬生の牙』は決して明るい話ではないのだ。
それに加え、今度は沖田の喀血。これはつまり病死の予兆だ。
瑞奈が自らの死を省みることを期待しながら、ドラマを通してあらゆる死を見せつけているような、後ろめたい気持ちが自然と湧きあがってくる。
そんな勝手な思い込みに健吾が悶々としているうちに池田屋の回が終了し、ディスク交換となった。これで第九巻まで観終わったことになる。
*
「瑞奈ちゃん、大丈夫? 疲れちゃったら、続きは明日でいいのよ?」
珠希も健吾と似たような気持ちになったのだろうか、労るような口調で声をかけた。
瑞奈は少し驚いたように、小刻みに首を振った。
「え? 私は全然平気ですよー」
「そう? 最後の方は静かだったから……」
「あー、そうですね。なんというか、疲れたんじゃなくて……その、沖田さんが、えっと……」
ここで見せた瑞奈の表情は健吾の予想からは大きく逸脱したものだった。なんというか、少しモジモジした感じとでも言えばいいのだろうか、恥ずかしさともどかしさが交ざって上手く続きを話せずに困っているような顔をしている。
ついでに、微かながらも周囲に甘い香りが立ち始めた。
これも瑞奈が起こす怪現象の一つだ。冷気と同様、彼女の気分や感情によって出たり出なかったりする。長く一緒にいると嗅覚はすぐに慣れてしまうし、そもそも不快でもなく、芳香剤だと思えばそれで済んでしまう程度のことが多い。それに、彼女の場合は冷気――というより寒気か――の方が遥かに危険で強烈な印象であるし、また気温が低いと匂いは感じにくくなるという事実も相まって、香りのことはつい忘れてしまう。
だが、実はこの甘い香りの方が重要なのかもしれない。
以前珠希に尋ねたことがあるが、冷気を発する霊現象は珍しくないが、甘い香りは瑞奈独特のものらしい。
「匂い自体が珍しいわ。たまにあるけど、大抵は生臭かったり、鉄っぽかったりだし」
通常は、健吾にとってあまり想像したくない類のものばかりらしい。
「ピオニーに近いと思うけど、香水つけてないって言ってたしね。花畑とか花屋とかの関連も調べたけど成果なしね」
こんな具合に、香りについては謎のまま放置状態だった。
それは今も謎のままであるが、少し見えてきたことがある。
沖田の話題でモジモジしながら、ほのかに香りが立ち込めてきた。
ちなみに沖田は「美剣士」のイメージが根強い。現存する記録からすると、事実はそうでもなかった可能性もあるが、『壬生の牙』は時代劇だ。劇中の沖田はかなりのイケメン俳優が演じていた。
つまりは、そういうことだ。
その辺りは珠希も目ざといようで、
「あららー、みずなちゃん?」
と、含みを持った声で瑞奈にすり寄る。
「あなた、沖田みたいな人が好みなの? それとも好きなのは演じている役者の方かな? まあカッコいいもんね。でも面食いねえ」
たちまち瑞奈の顔が茹であがっていく。
「もう、珠希しゃん、茶化さないでくださいーっ! そんなんじゃないですよお。俳優さんよく知らないですし。ただ沖田さんの病気が辛そうで可哀想で、なぜかすごく気になっちゃうんです……そりゃ、ちょっとは素敵かなって思いますけど」
「へー。つまり、隊士の中で一番のお気に入りが沖田ってわけね」
「ちがいますっ、一番ではありません」
「ほう――では、他に誰か一番がいるというわけね?」
「むむむー」
どうやら口を滑らせてしまったようで、瑞奈は慌ててそっぽを向くが、かえって逆効果だった。そんな可愛げたっぷりの抵抗姿勢を見せても、珠希の更なる攻勢を呼び込むだけだろう。
「で、誰なの? ねえねえ? ねえねえ?」
と、いくら無視を装っても一向に納まらない追及に観念したのか、瑞奈はようやく口を開いた。
「あの人です。でも、好きとかじゃなくて、気になると言うか何と言うか」
「どの人?」
「えっと……あれ、誰でしたっけ……」
「なに、ここにきてそんな惚け方しちゃうの?」
「いえ、そうではなくて――あれれ? ついさっきまで覚えていたのに、名前が……名前が出てきません――」
眉を八の字して困った表情を作る。健吾のこれまでの経験から見るに、こういう瑞奈は嘘をついていない。本当に困惑していると感じられた。
「――変だな―。ここまで出かかってるのに」
と、両手で自らの喉をぐりぐりとこねくり回すと、力を入れ過ぎたのか首がずれて落ちそうになり、咄嗟に珠希が支えた。
「あの人がこの先どうなるんだろうって、すごく気になってたのに。だから続きを観たかったはずなのに――」
「……瑞奈ちゃん?」
怪訝そうに顔を覗きこむ珠希と視線を合わせ、心細そうに小さく呟いた。
「――どうして思い出せないんでしょう?」
しきりに首を傾げる瑞奈。特に動揺しているわけではなさそうだが、その人物の名前が出てこないことに納得がいかないようだ。
その様子を観察しながら、珠希も「うーん」と唸りながら考え事を始めてしまった。
「……あのー」
健吾にはいま一つ状況が、いや今目の前で起きていることは把握出来ているつもりだが、何故珠希までが一緒になって考え込んでいるのかが分からない。しかし、とりあえず打開策はあることを伝えようと、DVDを掲げてみせた。
要は、続きを観れば件の人物が誰か判るはずだ。
「そうね。まあ、観てれば思い出すか……って、私昨日も同じようなこと言ったわね」
そこで珠希は何かの勘が働いたのか、両手を軽く合わせてぱん、と小さな音を立てた。
「そうか、名前が出てこないのは、ど忘れの類ではないかもしれないわね」
「珠希ちゃん?」
「なら、DVD再生しても無意味よね」
「どうしたの?」
「ねえ、一番のお気に入り隊士の名前をど忘れするものかしら? たった今まであんなに集中してドラマ観てたのに」
珠希の口ぶりは説明や説得ではなく、相談のそれに近い。彼女自身、自らの考えが正しいのかどうか、声に出して整理し、検証しているようだった。
「まあ、普通は考えにくいかなあ……」
「普通はそうよね。そのはずよね」
「でも、瑞奈ちゃんは記憶が不安定だし、顔は浮かぶけど名前が出てこないってことも、あるような気はするんだけど」
「なるほどね、でも実は瑞奈ちゃん、本当は顔も浮かんでいないんじゃないかしら」
「え、どういうこと?」
「その人物の顔も名前も、覚えているつもりで、覚えてない。いえ、思い出してないと言った方が適切かしら。彼女の記憶にあるのは、凄く気になる『一番のお気に入り』がいたという事実だけ。それが具体的に誰かまでは思い出してないのよ。その方が自然な気がする」
「ずっとドラマ観てるのに?」
「これは仮説だけど、たぶんその人物が見えていないのよ。画面にその姿が映っても気づかず、誰かがその名前を呼ぶときの声も聞こえない。でもその人がお気に入りであることは覚えている。だからいざ名前を言おうとしても、出てこない」
「……それは何とも――」
突拍子もないことを、と口から出かかったが、珠希が大真面目な顔でこちらを見つめているので思い止まった。
「人は物事を見たいようにしか見ないって言うじゃない? それと同じよ。ましてや瑞奈ちゃんは幽霊で、男が部屋にいなければ出現しないなんて特性を持っているしね。そういうことが極端に現れても不思議じゃないわ。事実、私がこの部屋のチャイム鳴らしても無意識のうちにかき消しているでしょ。系統としてはそれに近い現象かもね」
「えーっと、今の仮説が正しいとして、珠希ちゃんがそう考える根拠なり、理由があるわけだよね?」
珠希は瑞奈をゆっくりと指差した。健吾の視界に入った彼女は、未だに件の人物の名が思い出せず、「むー」と唸りながら首を傾げている。
「思い出せなくて残念そうにしてるわよね。でも、さっきから室温に変化がない」
「あ、言われてみれば……」
「これは、見た目ほどは動揺していないってことよ――この辺は分かり易くていいわね――つまり気持ちは落ち着いている。思い出せないことは思考面としては不満なんでしょうけど、それは瑞奈ちゃんが無意識のうちに自分で見たいものと見たくないものを選別しているからで、感情面ではこの状況を自然なものとして受け入れているのではないかしら」
「確かに、そう考えれば説明はつくか……な?」
正直なところ、ちょっと主観や思い込みが入り過ぎているような気がした。だが、珠希の「仮説」は、これまで大外れしたことはない気もする。そもそも、この筋に関しては健吾より遥かに詳しいわけで、その意味では多少強引でも彼女の勘や閃きは大切にした方がいいのかもしれないが。
健吾の曖昧な返事と半信半疑な態度を見て、少しイラついたような口調で珠希は続けた。
「もう一つあるわよ。香りよ」
「それって、瑞奈ちゃんの、例の甘い匂いのこと?」
「そう。さっき、沖田の話題が出たときに、ほんのり甘い香りがしたんだけど、気づいた?」
「うん、覚えてる」
「瑞奈ちゃんは、沖田はお気に入りだけど一番じゃないって言ってたわ。仮に二番としましょうか。二番の沖田で香るんだから、一番の話題が出た時に香らないはずがないわ。でも、彼女から匂いは全く出なかった。これは名前だけでなく、顔も浮かんでないからよ。きっと、具体的な人物像は何ひとつ思い出せていないのよ」
「そこは言われてみれば奇妙だね……筋も通るかな――でも、どうして一番の『お気に入り』を思い出せないのかな、むしろ真っ先に出てきそうじゃない?」
「その通りよ!」
まるで名探偵が助手に向かって「よくぞ気づいた」と言わんばかりに、びしっと健吾に向かって指を突き立てた。
「私もその辺りがすごく引っ掛かるのよ。というわけで、引っ張り出してみましょうか」
*
「瑞奈ちゃん、どう? 思い出した?」
瑞奈は首を乱暴に振って答えた。また首がもげそうになり、珠希が慌てて支える。
「だめですう。出そうで出ないってなんか気持ち悪いですう」
「うんうん、その気持ちはわかるわ。じゃあやっぱり力技でいくべきね――さあ、歴史オタクの健吾くん! 隊士の名前くらいスラスラ言えるわよね?」
「まあ、幹部とか主だった顔ぶれならなんとか……って、珠希ちゃんだってドラマ見てたんだから、登場人物くらい分かるでしょうに」
「いいから、適当に挙げてって。で、瑞奈ちゃんはピンくる人の名前が出たら教えてね」
「はーいっ」
「わかりましたよ……さて――まずは、分かり易いところで――土方、近藤」
そこで少し間を置き、瑞奈の様子を窺う。
特に何も起きない。瑞奈はただじっと健吾を見つめて、続きを待っているようだ。
「じゃあ、念のため……沖田」
瑞奈は動かない。が、反応はあった。微かに甘い香りが漂ってくるのがわかる。
珠希が満足げに鼻をひくつかせた。
「ふふ、体は正直ってやつね。いけるかもしれないわ。続けて」
「えっと、どうしようかな。鳥羽伏見まで生きている隊士か……じゃあ、ドラマで目立っている人で、山崎とか島田は?」
この二人は監察方として、様々な情報収集や工作にあたる役割を担っている。ドラマでは主人公である土方の実質上の片腕のように活躍するので、とても出番が多かった。
瑞奈の反応はない。
「となると、副長助勤クラスの隊士かな――」
副長助勤は組長とも呼ばれる、実働部隊である一番~十番隊の隊長格。隊内での地位では三番目に相当する幹部だ。健吾はその中から、地味ではあるが裏方として常に土方を支えているシーンが多く描かれている人物の名を挙げた。
「井上」
「あ、イノゲンさんですか、私好きですっ」
瑞奈の表情が明るくなり、ほんのりと甘い香りも漂って来た。
ちなみに、フルネームが井上源三郎なので、略してイノゲンと呼ばれている。
「え、もしかして当たり? 瑞奈ちゃんってオジサンがタイプなの?」
珠希が意外そうな、というより残念そうな声で呟いた。井上は隊では年長者なのだ。
「え、ちがいますよー」
瑞奈は笑って否定した。焦ったり照れたりする様子も見られない。
「あ、ごめん。僕が迂闊だった。イノゲンじゃないよね」
健吾が慌てて声をかけると、瑞奈もうんうん、と満足げに頷いた。
「沖田が仮に二番目なら、井上は三番目ってところだね」
井上は鳥羽伏見の戦いで戦死する。そのことは瑞奈も覚えていた。そして気になる人物については、「この先どうなるんだろう」と、行く末を案じていた――つまり、少なくとも瑞奈が最後に観た回までは生きていたはずなので、該当しない。
「うーん。沖田、井上の他に有名な助勤と言えば、まずは二番組長の永倉、十番の原田……あとは三番の斉藤に、えっと――」
「あ、そっか、せんせい」
瑞奈がぽつりと呟いた。
「せんせいだ」
たちまち部屋中が甘い香りで充満していく。沖田やイノゲンの比ではない。部屋の空気が一瞬にして入れ替わってしまったように感じるほど強烈だった。
事態の急変に対処できずに茫然としていると、今度は珠希が呟いた。
「これは――今度こそビンゴっぽいわ」
その呟きは、すぐさま健吾への小言へと移行する。
「もう、どうして一度に三人も挙げるのよ! 誰か判らないじゃない」
「ご、ごめん、今のは独り言のつもりだったんだけど、聞かれちゃってたみたいだ」
「で、先生って誰? 三人のうちの誰のあだ名?」
「いや、誰も先生なんて呼ばれてないよ。ドラマ見てたら分かるでしょ?」
「でも瑞奈ちゃんは、いま先生って――」
「だから、これからどうにかして絞り込むから――」
「健吾さーん」
不意に呑気な声が響き、二人の不毛な会話を中断させた。
視線を向けると、瑞奈が笑みを浮かべてこちらを見ている。黒目がちな瞳はいつもより多くの光を湛えているように見えるが、悲しそうではない。微笑んでいるが、楽しそうというわけでもない。
同じように瑞奈を見つめていた珠希の目つきが若干険しくなった。健吾が今感じている、微かな違和感のようなものを、珠希も共有しているのかもしれない。
何が、どこが、と言われても上手く説明できない。見た目は全く変わりない。
ひどく漠然としているが、瑞奈を見ていると〝凪いでいる〟ような気分になる。一切の力みを感じない、それでいて、柔らかなオレンジを放つ炭火のように温かくもある――そんな、とても平穏な雰囲気をまとっている、とでも言えばいいのだろうか。
幼さを残しつつも美しい面差しには、いつの間にか儚げな影のような成分が差し込み、幾分か大人びたようにも見えた。
瑞奈はしばらく健吾を見つめ、それから視線を隣の珠希に移し、またしばらく見つめ、最後に肩を落としながら、ふーっと大きく溜め息をついた。
視線を落としたとき、まるで初めて気づいたように、
「あ、髪の毛だー」
と無雑作に自分の髪の毛先を指でいじり始める。
健吾はどうしたらいいか分からないし、珠希も声をかけるか、しばらく様子を見るべきか迷っているようだ。
仕方なく、しばしの沈黙。
そうこうしているうちに、瑞奈は髪をいじるのをやめ、再び大きくはーっと溜め息をつき、最後にぽつりと呟いた。
「……やだなあ」
「何? 枝毛でも見つけたの?」
珠希のボケなのか本気なのか、意味不明かつ微妙な発言を完全にスルーし、瑞奈は顔を上げると、少し乱れてしまった髪を両手で直しながら、健吾に向かって言った。
「せんせいって、この先どうなるか、教えてもらっちゃってもいいですか?」
「先生っていうのは、誰のこと? 何先生なのか、名前わかる?」
「せんせいはせんせいですよー。ネタバレしていいですから」
「うーん……」
単に先生、だけでは健吾にはそれが誰であるか絞り込めない。結局先ほど挙げた三人について改めて確認していくしかない。
「永倉先生?」と尋ねると、瑞奈は首を左右にぶんぶん振った。「原田先生?」でも同じように首を振った。
「斉藤先生?」
「はい、せんせいです」
少し嬉しそうに瑞奈は答えた。
「斉藤……斉藤一か」
新選組の三番組長で、隊内最強候補にもなり得る使い手として、永倉や原田に次いで人気がある隊士という印象がある。ドラマでは少し影のある、寡黙な人物になっており、瑞奈が気に入るのも頷けるが、何故先生と呼ぶのかは分からない。
「斉藤――先生は……戦で死んだりはしないよ。明治を生きた新選組の数少ない幹部隊士として知られている」
「生き残るんですね」
「ドラマが史実通りに進むなら、そのはずだよ」
「そうですかあ、よかったー」
胸に手を当て、瑞奈は満足げに微笑んだ。
その微笑みを崩さぬまま、頬の上をすっと涙が零れ落ちた。
珠希が傍らに寄り添い、そっと指で拭ってやると、
「えへへ、ごめんなさい」
と泣き笑いの声で礼を言う。
「いいのよ。瑞奈ちゃん。あなた、今とってもスッキリした表情になったわ。それを見てて私、なんとなく分かっちゃった」
「あ――やっぱり。バレちゃいました?」
「『せんせい』って口走った辺りからね、もしかしてって思ったわ。急に雰囲気変わるんだもの。あれはたぶんあなたの――いいえ、やめておきましょう」
「私なら大丈夫ですよー」
「いいからいいから。それで、本当なのね?」
「はい。でもやだなあ、せんせいのこと、また……思い出しちゃった」
「あのー、何がどうなって……」
健吾は完全に置き去りにされてしまった。今の二人を見ていれば、何か重要なことが起きているらしいことは察しがつく。なので邪魔していいものか、かなり迷ったが、このまま事態が推移するのは怖い――そんな胸騒ぎを覚え、思い切って声をかけた。
空気を読め、なんて邪険にされるかと思ったが、そうでもない。
珠希が事情を説明しようとするのを制止し、瑞奈が自ら口を開いた。
「えーっと、何て言うんでしょう。全部わかっちゃったんです」
今の一言で、健吾の頭が真っ白になった。
「それは……つまり、もしかして……思い出したの?」
「はい」
「全部?」
「たぶん」
「…………」
全身が硬直してしまって動かない。声も出ない。
「……健吾さんが固まってしまいました」
瑞奈が助けを求めると、珠希はやや呆れたように、健吾の肩を掴んで強く揺する。
「こら、しっかりしろ! これから瑞奈ちゃんが話してくれるっていうのに、今からそんなんでどうするのよ!」
「えっ」
と、瑞奈が驚きの声を上げた。
「私、話しませんよ?」
「えっ」
今度の声は珠希からだ。
「は、話してくれるんじゃないの?」
「いやでーす」
「…………」
珠希の全身が凍りついたように固まってしまった。
(つづく)
お読みいただきありがとうございます。
半年近く放置状態でしたが、なんとか更新できました。うまくまとめきれずにかなり長くなってしまい、申し訳ありません。
二分割しようかとも思いましたが、内容的に一まとめがいいと判断しました。
でも、ようやく核心部分に突入とあいなりました。
今後もゆっくりペースだと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます。




