話の一 丘のある街 (後編)
「さーて、場所の案内は必要かな」
康則叔父は、このあとすぐに商工会の会合に出席する予定になっているとのことだった。社員は車と一緒にみんな出払っているらしい。
「なぜか今日は多忙でね。夕方まで待てば戻ってくる社員もいるが……」
「いいわ、私が場所を教えといてあげる」
カウンターの隅から、声がした。さっきも一度口出ししようとした女が、立ちあがっていた。昼食は済んだらしい。
確か、康則叔父は彼女のことを「たまき」と呼んでいた。
「いいわね? パパ。その代わり、私の部屋のエアコンちょっと効きが悪いのよ。クリーニングしたいから、代金よろしく」
はいはい、と康則叔父は苦笑している。
パパ?
彼女は叔父の娘? いやいや、確か康則叔父に娘はいないはずだ。
親子でないのに、パパと呼ぶ存在――つまり、そういう関係の女、ということか?
康則叔父はそそくさと会合に行ってしまった。
「さ、こっちについて来て」
マンションまで連れて行ってもらえるのかと思ったら、そうではなかった。彼女が案内したのは、このビルの屋上だった。
高層建築があまりないため、五階の屋上でもかなり遠くまで見渡せる。
彼女に促され、商店街に向かう形で二人で並んで立つと、説明が始まった。
「左手に駅が見えるわね? その先、線路に沿って視線を移していくと、小高い丘があるのがわかるかしら」
「あ、うん。頂上に大きな建物があるね」
「そう。そして今度はそこから右に九十度くらい移動して。そこにも一つ、同じような丘があるわ」
言われる通りに視線を移すと、確かに丘のような、丸っこく盛り上がった場所があった。頂上はなだらかな緑一色で、ここから見ると右側の斜面にいくつかコンクリートの建物が建っている。
「この辺りはおおむね平坦な地形なんだけど、あの二か所だけ、不自然に盛り上がった丘があるの。昔から古墳ではないか、という伝承もあって、それが『双塚市』の地名の由来になったらしいわ。もっとも一度調査が入って、実際は自然の丘だったことが判明したらしいけど。今でも一部でピラミッド説なんてのを信じてるマニアもいるみたいね」
「へー」
思わず健吾は感心してしまった。こういう説明を聞くと、ただの平凡な街にしか見えなかったここにも、しっかりとした歴史が息づいているのだと実感できる。
「……何かおかしい?」
「あ、なんでもない。続けて」
「……ふたつの丘――塚は、一ノ塚、二ノ塚と呼ばれ、町名にもなっているわ。最初に見た左側の、線路沿いにあるのが一ノ塚。あそこにはかつて、お寺があったんだけど、明治期の……えっと、何て言ったかしら、お寺が壊されるやつ」
「もしかして、廃仏毀釈、かな?」
彼女は眼を丸くして、健吾を見た。「そう、それ。たぶんそんな感じ。詳しいのね」
「ま、一応歴史の勉強したくて学生やってるから」
「ふうん、そうなの――まあ、そういうので取り壊しとなり、その跡地には病院が出来た。今頂上に建っているのがその『一ノ塚病院』。この辺りではわりと大きい総合病院よ。
二ノ塚には軍事施設があったらしいわ。小さな監視所と数門の高射砲台があったって聞いてる。今は頂上を含む六割ほどが公園になって、斜面の一角部分にマンションが数棟建っているわ。それが『二ノ塚マンション』、そしてそこのA棟が、これからあなたが住むところ」
「あそこの、丘の右側の斜面に建っているやつ?」
「そう。ここからだと道は単純だから、これでまず迷わないと思うわ」
じゃあこれで、と立ち去ろうとする彼女に、健吾は思わず声をかけた。
「あの……いろいろとありがとう。ちゃんと自己紹介してなかったね。僕は佐藤健吾」
「知ってるわ。パパの甥っこでしょ」
また、康則叔父のことをパパと呼んだ。
しかしどうも、あの叔父が金にものを言わせて若い愛人を囲っているという想像をしてみても、納得できない。今、少しだけ彼女と言葉を交わして、余計そう思うようになった。
「叔父さんのことをパパって呼ぶのは、一体……」
「娘だからに決まってるでしょ」
「へ? でも叔父さんのところは確か、一人っ子で小学生の息子――」
「ああ、そうね、知らなくて当然ね。パパ――あなたの叔父さんが、今の奥さんと結婚する前に付き合っていた女の人、それが私のママ。ママは私を産んだけど、結婚はしなかった。平たく言うと、隠し子みたいなものね。おおっぴらにはしてないみたいだけど、一応認知はされているわ」
健吾は唖然としてしまった。あの中年太りの叔父に、そんなロマンチックな過去があったとは。
「じゃあ、キミは、僕とは……えっと、し、親戚?」
「佐藤家のことは調べたわ。あなたとは初対面だけど、存在は知っていた。私と同い年ね。あなたの方が二カ月ほど誕生日が早いから、従兄妹ということになるかしら。ちなみに私も学生よ」
「そ、そうなのか、何も知らなかった。なんだか申し訳ないな……えっと、これから、よろしく、ということでいいのかな」
「言っておくけど――」
彼女は健吾を睨みつけた。無理に作っていた健吾の愛想笑いは脆くも崩れた。相当な不細工になったに違いない。
「――佐藤家は好きじゃない。好きになる理由もない。私がこうしてたまにパパの手伝いをしているのは、病弱なママの医療費と、私の学費を援助してくれるから。その見返りとしてよ」
「……うん」
健吾は小さく頷くしかなかった。確かに彼女には佐藤家の人間を好きになる理由なんてない。むしろ恨んだって当然なくらいの苦労や理不尽を味わっているのかもしれない。
『佐藤家』とひとまとめにされて心境は複雑だが、今は言葉が見つからなかった。
「わかった。じゃあ、僕はこれからあのマンションの下見に行ってみるよ。色々親切にありがとう」
何とかそれだけ言って、健吾は屋上を降りようとした。
後ろから、呼びとめる声がした。
「言い忘れてた。私はたまき、堀木珠希よ。健吾くん」
「うん、よろしく。珠希ちゃん」
振り返って、一か八かで馴れ馴れしく呼んでみた。
珠希は小さく微笑んで、静かに頷いた。焼け付く陽射しの中でたたずむ姿が、心なしか眩しく見える。
少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。
「それからもうひとつ」笑顔を崩さないまま、珠希は続けた。
「あのマンションには、気をつけてね」
*
『二ノ塚マンション』に向かう道すがら、健吾は珠希のことばかり考えていた。
従兄妹と言っていたが、あまり顔は似ていない。どちらかと言うと丸顔が多い佐藤の親戚たちを思い浮かべる。それに比べ、珠希の外見のイメージはむしろ鋭角だ。細く尖った顎、同じように細く、少しだけ上に向いた鼻、切れ長の目。
母親似、ということなんだろうか。
予め康則叔父に娘がいると分かっていれば、こっちにも心の準備ができただろう。もう少しうまく、色々と話をしてみたかった。それが残念でならない。
気がつくと、道が登り坂になっている。
『二ノ塚マンション』は二ノ塚と呼ばれる丘の斜面に建っているから、かなり近づいているということだろう。
案の定、それはすぐに現れた。
五階建ての少しくすんだ白い建物が三つ、並んでいた。左の建物から順に、壁面にA、B、Cと書かれている。
「A棟五〇一」が健吾の部屋になるから、左の建物の最上階ということになる。
うっかり確認するのを忘れていたが、中に入ってまずエレベータが目に入ったことに安堵した。猛暑の中二十分以上歩き、既に全身汗まみれだった。このうえ階段しかなかったら、今日はもう引き返していたところだ。
エレベータに乗り、五階のボタンを押す。途中止まることなく、すんなりと着いた。
エレベータから降りると、一番手前にある部屋が五〇一号室だった。廊下の奥まで見渡すと、同じようなドアが合計で四つある。一番奥の部屋が五〇四号室ということだろう。
受け取った鍵を差し込んで、ぐいっとひねる。
がちゃりという金属音とともに解錠され、ドアはすんなりと開いた。
途端に熱気の塊が飛び出してきた。ものすごい暑さだった。日当たりの良い角部屋で窓を閉め切っていればこうなる。エアコンは必須だろう。
とりあえず、ドアは開けっぱなしにしたまま、奥に進むことにした。
靴を脱ぐため玄関で俯いた時、何かが視界の端で動いたような気がした。
顔をあげると、特に何もない。視線の先には、奥に続く短い廊下とダイニングの床、そして突き当たりの壁には窓があった。窓の外に鳥でも飛んでいたのだろう。
靴を脱ぎ、中に入る。玄関を抜けると、一人暮らしでは少々広すぎるダイニング。右側にキッチンがある。左側の手前にはトイレや風呂。
健吾は鼻をひくつかせた。
かすかだが、少し変なにおいがするような気がする。
数歩奥へ進むと、後ろの方で物音がした。
振り返ると、開けっぱなしにしているドアの前を、一瞬影のようなものが横切った気がした。ここの住人が通り過ぎて行ったのだろうか。
ダイニングの左側奥に引き戸がある。見取り図によると、ここが六畳の畳部屋のはずだ。
手を掛けて、ゆっくりと開ける。
途端に、むせかえるような甘い香りが流れ込んできた。
さっきから感じていたにおいは、これだ。熱気と混ざって、たちまち部屋全体がねっとりした空気に包まれるような不快感に襲われる。
「こ、これはたまらない!」
清掃時に使った洗剤とか消毒剤といった薬品のにおいが残っているのだろう。手近にあったダイニングの窓を全開した。
それから改めて、六畳間に足を踏み入れた。
角部屋の角にあたるのが、この部屋だ。引き戸のある出入り口の正面と、右手にそれぞれ窓がある。左手には押入れがあった。
ここで妙なことに気づいた。
一枚だけ、畳の色が違う。
五枚は青々とした新しいものだが、押入れの前の一枚だけが、長く使い古したような、黄色っぽく退色したものだった。どういうケチり方をしてるんだか。
角部屋は明るくていいが、やっぱりカーテンか何かが必要そうだ。そんなことを思いながら、窓に手を伸ばす。
ふと、窓に映った自分の姿の背後に、何かが映っているような気がした。振り返ると何もない。押入れの襖のシミがそう見えたのだろうか。
健吾は窓を開けて空気を入れ替え、思い切り深呼吸した。
半ば以上が公園となっている丘の斜面に建っているだけあって、遮蔽物もなく視界は大きく開かれている。街並みは低い位置に広がり、存外眺めが良い。
遠くには、この街の象徴とも言える、もう一つの丘が盛り上がっている。
頂上に建つ病院が、午後の熱で歪められた大気によって、折れ曲がっているように見えた。
次話に続きます。タイトルは「話の二 黒いモノ」の予定です。