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話の八 扉の向こう (後編)

 普段、特にすることがないときは、部屋の中をぼおっと眺めているだけの瑞奈の顔が、窓の方を向いたまま動かない。

「瑞奈ちゃん」と声をかければ「はーい」と返事はするのだが、いかにも心ここにあらず、という感じである。


「さてさて、どうしたものかしらね……」

 珍しく珠希が迷っている。

 彼女にしてみれば、墓地でいきなり消えてしまった件について早く追及したいところだろう。しかし、今は瑞奈の邪魔をすることは憚られる。もし消えた原因が〝何かが起きた〟ことだとして、今もその〝何かが起き続けている真っ最中〟だとしたら、それを中断させたくはないそうだ。

 それはあくまで仮定の話ではあるのだが、実際に目の前で、瑞奈が普段と違う行動を取っていることは確かだった。


「……暇だね」

「……そうね、暇だわ」

 健吾が呟くと、珠希も呟き返してくる。

 そのうち飽きるか気が済むかするだろうと思い、静かに待ち続けること数十分。瑞奈は窓を眺めたまま、置き物のごとく動かない。

 しびれを切らし、行動に出たのは珠希だった。

「勝った!」と健吾は内心ほくそ笑む。

 案の定、彼女は短気だ。別に勝負しているつもりは毛頭ないが、それでもようやく彼女に対して優位に立てそうな事を見つけられた気がして、少しだけ嬉しかった。


「あのコ、一体何を見ているのかしら?」

 珠希は物音を立てないように注意しながら瑞奈の後頭部のすぐ後ろに移動し、その視線の先を探り始めた。

 しばらく上下左右に泳いでいた珠希の眼球の動きが、ある一点で止まった。何か――おそらく瑞奈が見続けているもの――を見つけたようだ。

 こうなると健吾も気になってしまい、いても立ってもいられなくなる。

 結局珠希に倣って、瑞奈の後方に回り込み、窓の外を確認してみた。


 既に夕暮れを迎え、赤味を帯びつつ勢いを失いかけている空が、窓枠の大部分を占めていた。もともと背の高くない瑞奈が正座している視点からではこうなってしまう。しかし彼女の視線は、そうした空でも、そこに漂う小さな雲でもなく、もっと下の方に向けられているようだった。

 下の方には、見覚えのある建物の上層部だけが辛うじて窓枠の下辺ぎりぎりに納まっている。

「あれは、一ノ塚病院……瑞奈ちゃんは病院を見ているの?」

「もしくは、その向こうにあるものに思いを馳せているのかもしれないわね」


 珠希が囁き声で言った「その向こうにあるもの」とは、先ほどまで訪れていた墓地のことだ。ここからだとちょうど病院の建物の裏側に位置していて、見ることはできない。

「もっとあそこに居たかった、ということなのかな?」

 そんなことを呟きつつも、頭の中では、もっと居たかったのならどうしてあのタイミングで消えたのか、という疑問も同時に浮かんでくる。


「とにかく、このままじゃ埒が明かないわね。健吾くん、お願いがあるんだけど。あれを窓の所に移動させて」

 珠希は部屋の隅に今なお積み上げたままになっている段ボール箱を指差した。

 よくわからないが、ここで言い合いをしても瑞奈の気を散らしかねないので、指示通りに箱の幾つかを窓際に移動させ、高く積み上げた。半分以上窓を塞ぐような形になってしまい、これでは瑞奈からは、病院はおろか外の風景の大半は見えなくなってしまう。


 珠希は立ちあがり、

「瑞奈ちゃん、ごめん! はいや――――っ!」

 と叫ぶなり、右手を大きく振り上げ、瑞奈の後頭部を勢いよく叩いた。

「うにゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 悲鳴を上げながら、瑞奈の首がもげ、畳の上を転がる。

「ぅっひぃぃ――!」

 あまりの急展開についていけない健吾はその場で尻もちをついてしまった。


「いい加減、いつになったらこういうのに慣れるのかしらね」

 呆れ顔に嫌味を添えながら、珠希は「瑞奈」を拾い上げると、たった今健吾が窓際に移動させた段ボール箱の上にのせた。

「はい、瑞奈ちゃん、この方がいいでしょ?」

「わあ、よく見えますう」

 なるほど、と健吾も得心した。積み上げた箱の上に置かれた「瑞奈」の視点の高さは、健吾のそれとたいして変わらない。そこからなら、病院の建物は無論のこと、「一ノ塚」の全景もほぼ見渡せる。


「さぁて、それで瑞奈ちゃん、ちょっと質問が――」

 と言いかけて、珠希は口を噤んでしまった。

 瑞奈はもう外の風景に集中している。これでは何を訊いても上の空だろう。

 仕方なく、瑞奈を真ん中に三人で窓際に並ぶように立ち、黙って外を見続けた。



 だいぶ日も暮れてきた。どこか遠くでひぐらしが鳴いている。その音色はどこか悲しげで、残り少なくなってきた夏を惜しむようだ。


「せみ……蝉の声……」

 ぼそりと、ほとんど聞き取れないような小さな声だった。

「蝉の声が――」

 思わず顔を瑞奈に向けると、彼女の頭越しに珠希と目が合った。透かさず珠希は無言のまま人差し指を立てて唇の前に添え、「静かに」と健吾に指示を出す。

 しかし瑞奈の口の動きはそこで途切れてしまい、再び沈黙が流れた。


 力ない蝉の声、時折近くを通る車、そして珠希と健吾自身の息遣い――耳を澄ましていると、静寂の中にもいろいろな音が入り混じっていることに気づく。

 まず音があって、それを耳にした人がどう感じるか、なのだろう。「静か」であるということと「無音」であるということは、本質的に状態が異なるのだろうな――そんな思いが健吾の中になんとなく浮かんでくる。

 今、この静寂という音の集合体の中で、瑞奈は何を聞き何を感じているのだろう。蝉の鳴き声に、何を思ったのだろうか。単に気を取られただけなのか、別の音を聞きたいのに邪魔だったのか、それとも――。


 ぽとん。

 静寂の中に、一つ音が加わった。

 控えめな、水滴が落ちる音。

 瑞奈の目から涙が零れ落ち、ひとつふたつ、段ボール箱に染みを作った。


「瑞――」

 言いかけて、慌てて口を手で塞ぐ。珠希の指示ではなく、健吾自身が今はこのまま様子を見るべきだと直感した。


 瑞奈はよく泣く。日頃からちょっとしたことですぐに涙目になったりもする。

 それを見てきた健吾には、彼女の泣き方についてある程度の知識があった。

 お腹が空いたと訴えたり、珠希にいじめられたりする時は、わりと大声で泣く。泣き喚く、と言ってもいいくらいの時もある。そんな場合は大抵は一時の感情の昂りが引き起こしているので、放っておいても当人の気がすめば、ケロっと元通りになる。


 問題なのは、静かに泣く時だ。

 今、目の前の瑞奈がそうであるように、声を殺し、ひたすら涙だけが流れ落ちるような泣き方をする場合は、彼女にとって何か深刻な事態が起きていると考えた方がいい。

 しかも、そんな泣き方をするのは、今日はこれで二回目だ。

 やはり珠希の睨んだ通り、何かが起きているのかもしれない。


 見ると、珠希が辛抱たまらんという顔つきで、瑞奈を撫でようと手を伸ばしている。

 健吾がぶんぶんと大袈裟に首を振って見せると、口惜しそうにその手を引っ込めた。

 どうも珠希は瑞奈の涙に弱いらしい。それから、健吾には随分と横柄で手厳しいことを言う割に、自分自身には甘いようだ。


 辛うじて自制はしたが、じっとしていられない様子の珠希は、自身と部屋の外を交互に指差す仕草を数度繰り返し、最後に首を少し傾げてみせた。

「少しこの場を離れたいけど、いい?」という意味だろう。

 健吾が小さく頷くと、感謝のつもりなのか、両手を合わせた。

 瑞奈の声が再び聞こえたのは、その時だった。


「ごめん……なさい」

 涙ぐむ声で告げられた謝罪は、これまでに一度も彼女の口に上ったことのない人物へ向けられていた。

「ごめんなさい――おかあさん。おとうさん」


     *


 困惑したまま棒立ち状態になっていた健吾は、不意に珠希に腕を掴まれ、一緒に部屋の外へ出るよう促された。

 辿り着いたのは玄関。ここなら多少の声や物音を立てても、畳部屋の瑞奈には聞こえない。逆もまた然りで、今瑞奈が何かを呟いていたとしても、その声はここには届かない。


「ふう――」と、珠希は大きく息を吐き出し、緊張をほぐすように両の肩を回した。それから、何故かおもむろに靴を履く。

「あ、あれ? どこか行くの?」

「うん、一旦帰ることにした」

「は――?」

 ――このタイミングで? 謎の行動に健吾の困惑の度合は益々大きくなった。


 瑞奈に何らかの変化が起きていることは、最早明らかだ。今こうして玄関に退避している間にも、引き続き彼女は何かを口走っているかもしれないのに。

 珠希ならそんな瞬間を逃すまいと、目を皿のように、耳をダンボのようにして瑞奈に張り付くか、あるいは容赦ない津波のような質問攻め大会を催すとばかり思っていた。


「今は瑞奈ちゃん、窓の外が気になってしまって、何を訊いても埒が明かないでしょ。夜になれば風景も見えなくなって、少し落ち着くと思うから、今のうちにノインを返してくるわ――はい、お願い」

 健吾に向かって勢いよく両手を差し出す。ノインを連れてこい、ということだろう。

 仕方なく、リビングの真ん中で丸くなり、白い毛の塊と化しているようなノインを拾い上げ、珠希に渡した。


「で、とりあえず暗くなるまではこのままってこと?」

「うん、それでお願い。あなたは傍で様子を見てて」

「大丈夫なのかなあ……」

「たぶんね。もう扉が開いた、と思うから」

「扉?」

 珠希は口角を少しつり上げた。

「うん。瑞奈ちゃんの、記憶の扉」


 その言葉は健吾に二つの衝撃と、一つの心配事を与えた。

 一つ目の衝撃は、瑞奈の記憶が戻ったと聞こえたこと。そういう解釈で構わないか、ここは素直に尋ねてみた。

「まあ、そうかも――その可能性が高い、という段階ね。それに全部を思い出した、という状況には至ってないかもしれないわ。扉は全て開け放たれたわけではなく、まだ僅かなすき間から向こう側を垣間見ることができるだけかもしれない。でもね、一度開いてしまえば、あとはどんどん広がるばかりよ。ここは慌てずにいきましょ。瑞奈ちゃんもしばらくは戸惑ったり混乱したりするかもしれないしね」


 なるほど、そのように考えているなら得心しよう。

 しかし、何故「扉」なのか。

 普通に「記憶」とか、「思い出した」とか言えば通じるのに。それが気の利いた言い回しだと、今までずっと、この時のために温めてきたのだろうか。ちょっと痛々しい気がしなくもない。

 だがそれを尋ねる勇気は、健吾にはない。したがって二つ目の衝撃はスルーするしかなかった。

 あとは心配事についてだが……。


「その……珠希ちゃんが『扉』が開いた、と確信したのは、やっぱり、さっきの一言が?」

 それは、瑞奈の口から出た「おかあさん、おとうさん」という一言。

 今まで彼女は両親のことを話したことがない。

 一度だけ珠希が尋ねたときは「とっても優しい人たち」と答え、どこにいるか訊けば「気にしてない」と返されてしまうなど、かなり無頓着な印象だった。

 健吾もその妙な回答が気になってはいたが、わざわざ追及するのも少し怖くてできないでいた。


 珠希は今の質問に頷きつつ、

「やっぱりご両親のことが出てきちゃったわね――」

 と、まるで予測していたかの様なことを言う。

 訝る健吾の視線に気づき、少し笑みを作りながら彼女は続けた。

「別に驚くことじゃないわよ。瑞奈ちゃんは要するにまだ子どもでしょう。親が出てくることは不思議でもなんでもない。むしろ当然と言っていい範疇だと思うわ」

「まあ、言われてみればそうだけど――」健吾は少しだけ畳部屋の方を向き、様子を窺った。

「でも……ごめんなさいって、謝ってたよね」

 今は何も聞こえてこない。勿論、瑞奈が小声で何かを呟いていたとしても、ここまで聞こえてくるはずもないが。

「それって何か……瑞奈ちゃんの、その、何て言うか……関係あるのかな?」

 出て来て当然だと珠希が言った両親の記憶。では、今までどうして忘れていたのだろうか。なぜ思い出すと同時に謝罪したのか。

 もしかして、忘れていたかったのではないか――それが健吾の心配事だった。


「今の段階で下手な憶測はやめておきましょ」

 口ごもる健吾の言わんとすることは、珠希にも充分分かっているみたいだった。健吾が頷くと、「よし」と再度ほほ笑む。


「もし、瑞奈ちゃんが両親に会いたいと言ったら会わせるの? ていうか、手掛かりはあるの?」

「ご両親の手掛かりは今調査中よ。お墓の件のとき、一緒にパパに依頼してあるわ。とりあえず市内には『雪』なる人物は一人もいないそうよ。まあ、昔住んでいたんでしょうけど」

 途端に不機嫌な声になる珠希。まさかこんなところに叔父地雷が転がっていようとは、迂闊だった。


「会わせるかどうかは……状況次第ね。第一、向こうがこんな話信じてくれないだろうし。会うと逆効果ってこともあるし。だから瑞奈ちゃんから言い出さない限りは、ご両親の話題は避けていたんだけど」

「逆効果っていうのは?」

「瑞奈ちゃんがここにとどまっているのは、何らかの『思い』を残しているからだと考えられるわ。私たちは、それを探してる」

「うん」

「そんな矢先に、さらに『もっとここにいたい』と強く思うようになったり、誰かから『行かないでくれ』と思われたりするのは、できれば避けたいってこと」

「あ、そうか――それは、成仏できない原因が増えてしまうってことなの?」

 珠希はゆっくりと首を左右に振った。


「幽霊になってからの出来事でこの世にとどまる理由自体が増える、というのは聞いたことがないわ。それはあくまで生前の何らかの出来事に起因するみたいね。

 でも『とどまりたい』との思いが強ければ強いほど、成仏は難しくなる傾向があるのは確かなの。中にはちゃんと原因を突き止めて解決したのに成仏できなかった、なんて例もあるくらいだから――レアだけどね。それに、成仏できたとしても、この世に未練がたくさん残っていると、結局最後の最後に辛い思いをさせてしまうことにもなるわ。

 だからご両親には、事態の解決に直接結びつくようなことがなければ、会わせようとは思わない。瑞奈ちゃんが強く望んだ場合は……まあその時に考えればいいわね」


 話を聞いていて何故か、嫌な汗が一筋、健吾の背中を撫でた。

 これまで幾度も聞いた「必要以上に入れ込むな」という珠希の忠告の真意は、実はここにあったのではないか?

 そして、心当たりがないわけでは、ない。

 目が合うと頬を染め恥じらう瑞奈。

 珠希にいじめられると庇ってくれる瑞奈。

 微笑ましくも可愛らしく懐いてくれる少女の顔が、頭の中を駆け巡る。まるで走馬灯のように。


「ぼ、僕は、どうすれば――はっ!」

 思わず妙なことを口走ってしまった。

 珠希は健吾を見てくすくす笑っている。

「あなたは優しいし、瑞奈ちゃんがよく懐いているからねえ。今更四の五の言うつもりはないけど、まあ、配慮いただければ嬉しいわ」

「は、はい。そうします……あ、もしかしてあの時の――」

 健吾は墓地での出来事を思い出した。瑞奈がいきなり成仏するかもしれないと、土壇場になって急に説明されたのは、今のことと関係が深いのではないか。


「あなたたちの様子を見て、互いの未練に引っ張られて、機会を失う可能性があると思ったのよ。だからギリギリまで黙っていたけど、心の準備もないままあの子が消えたら、あなたがちょっと可哀想だと思って、結局話しちゃったってわけ。反省してるわ」

 いつになく穏やかに話す珠希。その柔和な態度は、今のところそれほど心配する必要はない、と受け取っていいのだろうか。

 その辺りを確認したかったが、

「う、もう暗くなってる。ちょっと話し過ぎたわね。じゃ、行って来るねー」

 と明るく手を振り、珠希は出て行ってしまった。


     *


 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。

 今夜は月も出ておらず、時が経つに連れて闇も深くなっていくことだろう。

 リビングに戻り、電気を点けていいものか思案していると、

「健吾さん」

 と声が聞こえた。


「け、健吾さーん……いませんかあ?」

 呼んでいるのが瑞奈だということは承知している。

 しかし、足が重い。全身が硬い。


 つい先ほどの珠希の態度を思い起こせば、あまり深刻にならなくていいのかもしれない。

 それでも必要以上に親しくなったり、話したりしないに越したことはないのではないか。

 今後何が起きるかは分からない。自分のせいであの子が――瑞奈がうまく成仏できなくなったらどうしよう。

 健吾の頭の中はそんな言葉でぐるぐるになってしまい、ともすれば恐怖心が芽生え、返事をすることも畳部屋に行くこともできなかった。


「け……けんご、しゃん――」

 だんだん、瑞奈の声が湿り気を帯びてきた。

 罪悪感で胸がつぶれそうになり、なんとか足が動くようになった。

 ――今更ビビってどうする。殊更シカトしてどうなるというのか。単に自分がこの事態から逃げているだけではないか。


 勇気を振り絞って畳部屋に踏み入った。

 真っ暗なので電気を点けると、窓際に積み上げた段ボール箱の上で、瑞奈が半ベソをかいていた。

「み、瑞奈ちゃん? どしたの?」

「うう、高くて怖くて……降りられないです」

 両腕が落っこちてしまいそうなほど、肩の力が抜けた。


 苦労の末、なんとか瑞奈を降ろし、元の体に戻すことに成功すると、

「あ、ありがとうございます」

 と、ほんのりとほっぺを赤くしながら、伏し目がちに瑞奈が礼を言う。

 そんな姿を見ると、また頭がぐるぐるしてしまいそうになる。

「あの、どうかしましたか?」

「い、いや、何でもないよ……あははははははっ」

 苦し紛れに高笑いすると、不思議そうな顔をして覗き込んでくる。


 どうやら、いつも通りの瑞奈に戻っている。もう窓の外をしきりに眺めるような様子は見当たらない。

 一体何があったのか、何を見ていたのか――訊きたいことは山ほどあるが、どうせ珠希が戻ってくればその役を喜んで買うだろう。今は慌てることはない。

 傍らに転がっていた「コアラの町」の箱を拾い、「はい」と差し出す。

「今日はいろいろあって疲れたでしょ。これ食べて元気出して」

「わー、コアラの町だー」

 瑞奈は喜んで受け取ると、早速開封して手を突っ込み、二~三個まとめて口に放り込んだ。


「お……おいひぃーい」

 ほっぺをもごもごさせながら、目をカマボコの断面のようにしている。

 ごくっと飲み込むと、さらに箱から二~三個取り出すが、口をあんぐり開けたところで不意に食べるのをやめてしまった。

「ん? どうしたの?」

 不審に思い健吾が尋ねると、瑞奈は辺りを少し見回してから、正面に向き直った。


「あのう、ごめんなさい、でした」

「え? いきなり何?」

「えっと、昼間、お墓のところで、急に消えたりして」

「あ? ああ――そのことか。それは別に――」

「その……あの時は私も一瞬、何が起きたか分からなくて、びっくりしちゃって」


 勿論、健吾も何故消えたのかは知りたいところだ。でも今は無理に話さなくていいと伝えようとしたが、瑞奈の口は止まろうとする気配が見られなかった。

「あの時、なんとなくふと思ったんです。『私はここにいなくちゃいけない』って。だから無意識のうちに、この部屋に戻ろうとしたんだと思うんです」

「それはどうしてなのか、君には分かるの?」

 つい健吾の口から発せられてしまった質問に、瑞奈は首を左右に振って答えた。

「ここにいたい、ここにいなくちゃ―そんなふうに思っただけで、なんでかまでは……」

「そうか……」


 何か大事なものの近くにいるが、まだ触れるには至っていない、そんなもどかしい感覚。

 確かに、瑞奈の「記憶の扉」は開きつつあるのかもしれない。だが、未だにその隙間は限りなく狭く、細い光がようやく差し込む程度といったところなのだろう。

 やがてその扉が大きく開け放たれた時、その向こう側にはどのような光景が待っているのか。

 一つだけ健吾にも分かっていることがある。それは、一度開いてしまったら、もう戻れないといういうことだ。


「慌てることも、焦ることもないさ。今はゆっくりお菓子でも食べて」

「あ、はい――でも……」

 瑞奈は困った様子で再度辺りを見回し、

「これ、最後のひと箱なんです」

 と、「コアラの町」の箱を両手で大事そうに抱えた。

 そのあまりにも深刻な表情に、思わず健吾は吹き出してしまった。


「大丈夫だよ、すぐに買って来るから――」

「あ、でも……もう少しこのままでいたいから――け、健吾さんには、こ、ここにいて欲しいです」

 今度はゆでダコのようになりながらも、必死に懇願する瑞奈。

 健吾が買い出しのためこの部屋を出ていくと、その間瑞奈は消えてしまう。それが嫌だと言っていることは、すぐに理解できた。

「消えたくない」と主張するのは初めてだった。これも瑞奈に起きた変化のひとつ、記憶の扉のなせる技なのだろうか。


「わかった、出ていかないよ。でも、『コアラの町』は遠慮せずに食べちゃっていいから」

「え? でも、食べたらなくなっちゃうし――」

「大丈夫大丈夫。珠希ちゃんにありったけ買ってきてもらうように、今からメールするから、ねっ」

 瑞奈の顔が、たちまち光り輝くような笑みに満たされていく。

「はいっ!」

 一度開け放たれたら、もう元には戻らないであろう、記憶の扉。

 瑞奈は死者だ。十四歳で亡くなった女の子だ。扉の向こうが幸福な風景だとは考えにくい。


「お、おーいひいれしゅぅ」

 リスか! と思うほど頬を膨らませててお菓子を詰め込む瑞奈。

 この呑気で緊張感の欠片もない少女で、いつまでいられるのだろうか。


 ――とにかく今は笑おう。笑って過ごそう。

 健吾にできることは、今はそれくらいしかなかった。

「ほーらほら、もっと食べ、どんどんお食べ」

「あいー」




お読みいただきありがとうございます。

後に改稿するかもしれません。

ちょっと間隔が空きすぎてしまいました。反省しております。

次回は「話の九 最後の願い」の予定です。


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