話の八 扉の向こう (前編)
「あのう……これでおしまい、ですか?」
墓地の閉まる時間が迫ってきたので立ち去ろうとする二人に、瑞奈は名残惜しそうな顔つきで訊いてきた。
「しっかり見ておきたい? いいわ、それならギリギリまでいましょうか」
珠希がそう告げると、瑞奈は嬉しそうに、そして少し首を傾げながら応えた。
「ありがとうございます。でも、なんて言うか……しっかり見ておきたいというよりも、このお墓を見ていると、妙な気分なんです。なんか珍しい感じです」
それこそ、瑞奈にしか感じることのできない感覚なのだろう。死して後、自分の墓を目の当たりにするなんて、生きているうちには絶対にできない経験だ。生前から自身の墓を建てる例は良くあるし、健吾にも将来自分が入るかもしれない「佐藤家之墓」は既にあるが、それとは全くもって別次元の話だ。
黙って墓を見続ける瑞奈。
いくぶんかの冷気を感じるが、もう先ほどのような激しさはなく、取り乱すような気配もない。
どちらかというと、今は不思議そうな顔つきで墓石を眺めている。驚きや悲しみが治まったら、今度は好奇心が湧いてきた、とでもいうのだろうか。
「……珠希ちゃん、どう思う?」
健吾は瑞奈の邪魔にならないように、小声で訊いてみた。
珠希も小声でうーん、と唸った。
「……このコ、妙な気分って言ってたわよね。たぶん、お墓を見てもどこかピンとこない部分とか、あるいは気になるところがあるんじゃないかしら……でも、何かを思い出そうとしているようにも見えるし、ここはできるだけ好きにさせましょう」
「それで……今から成仏、の可能性は?」
「あまり高くない気がする」
「そ、そうか……」
「あ、今ちょっとだけ、ほっとしたでしょう」
「え、いや――」
「いいわよ。急なことで戸惑ったでしょうし、そうすぐには心の準備なんてできないのもわかってるわ。むしろ全部黙っておくべきだったかもって、私もちょっと反省してる。あなたは頑張ってるわ」
何故か、褒められてしまった。
……初めてかもしれない。
結局、閉園の時間になるまで墓前にいたが、何も起こらなかったし、瑞奈はひと言も喋らなかった。
しかしながら、どうにも最近、物事がすんなりと進んでくれない。予期せぬ事態は、駐車場で起きた。
「あ」
何かを思いついたように、突然瑞奈が声をあげた。
健吾がその声につられて視線を向けたときには、もう姿がなかった。
腕の中にはただ、子猫のノインが瞼半開きの仏頂面で丸くなっているだけだった。
「うおはっ! み、みみみ、みみ――――!」
「え、なになに? って……まさか、瑞奈ちゃんき、消えた――?」
珠希も異変に気づいて駆け寄ってきた。彼女も相当驚いているようだったが、健吾のように取り乱したりはしなかった。
まずはノインの背中――瑞奈の首がくっついていた辺り――を少し調べ、それから周囲を注意深く見まわした。
「まさか、首だけその辺に転がってるってことは、ないわよね?」
言われて健吾も辺りを確認する。軽自動車の下まで覗きこんでみたが、瑞奈の姿はどこにもなかった。
「これって、もしかしたら……瑞奈ちゃん、今ので成仏?」
恐る恐る尋ねる健吾に、珠希は腕を組み、考え込みながら「うーん」と唸るだけだった。
健吾は膝が崩れそうになるのを必死に堪えた。
――こんなに呆気ないなんて。いや、成仏したのならそれはそれで結構なことのはずだけど。それでも、こんなことって。
「とにかく、ここにいても仕方ないわ。戻りましょう。さあ乗って、さっさと乗って」
頭の中が真っ白になりかけた健吾を力ずくで車の助手席に押し込むと、珠希は小走りで反対側に回り込み、運転席に飛び込んだ。
素早くキーを回したかと思うと、アクセルを深く踏み込む。
タイヤが悲鳴をあげ、土ぼこりを巻き上げながら軽自動車は墓地の駐車場を飛び出した。車は速度を緩めることなく凹凸の多い細い道を突き進み、広い道に出るとさらに加速して「一ノ塚」の斜面を下り始めた。後方の病院がみるみる遠くなっていく。
行きと帰りではまるで別人のような運転っぷりに、背筋に冷たいモノが走る。瑞奈が消えたことよりも身の安全を祈ることの方が、健吾にとって最優先事項になりつつあった。
これが本来の珠希のドライビングテクニック、という雰囲気でもない。運転席の彼女の顔は真剣で、健吾ほどではないが少し青ざめており、明らかに緊張している。ハンドルを握る両手にもかなり力が入っているように見えた。
焦っているのか、急いでいるのか――とにかく限界ぎりぎりまで速度を上げて走っているようだ。
「い、一体どうしたの? あんまりスピード出すと危ないよ!」
あまり強く刺激して、運転をしくじったりされると困るのだが、非力な軽自動車のエンジンを高回転させている車内のノイズはかなりのもので、健吾の声も怒鳴るように大きくなってしまった。
自然、返ってくる珠希の声も半ば以上怒鳴り声だった。
「早くマンションに戻って確認しなきゃ!」
「確認、て? あーっまさか! もしかして、それって瑞奈ちゃんは!」
「再びマンションに現れるかどうか!」
「つまり、成仏してないってこと?」
「わからないわ! 私、消える瞬間を見てないし。だから確かめたいの!」
そこで珠希は急ブレーキを踏んだ。一瞬体がシートから浮き上がるほど、体が前にのめりこむ。
ついに事故ったか――と思ったら、ただの赤信号だった。
「……あぁー心臓に悪い」
既に健吾の全身は冷や汗でべとべとになっていた。
「大丈夫よ。運転には自信があるから」
――いや、額に汗を滲ませながらおっしゃっても、あまり説得力はありませんよ、珠希さん。それに、会社名をでかでかと書いたこの車で乱暴な運転して問題ないんですか?
心ではそう突っ込みを入れつつ、口では別の事を言う。
「急ぎたい気持ちはわかるけど――」
今は彼女の神経を逆撫でするよりも、冷静になってもらう方が重要だ。何せ命がかかっているのだから。
「――そんなに慌てなくても……仮に、瑞奈ちゃんが成仏していたら、それこそこの件はもう終わっているわけでしょう? そうでなかった場合は、また瑞奈ちゃんがあの部屋に現れて……つまり、これまでと同じ状態がまた続くだけだし」
話しながら、健吾は胸が苦しくなってきた。珠希が結論を保留し、まだ瑞奈に会える可能性があると知って、心が躍った。躍ってしまった自分に戸惑いと失望を禁じえない。そんな動揺を隠すために、わざと冷徹を装っている自分が滑稽で仕方ない。
「あなたの言う通り、成仏なら今更急ぐ必要はないわ――」
珠希の声は落ち着いていたが、ハンドルを握る右手の人差し指がせわしなく動いていることから、なかなか変わらない信号に少し焦れていることが窺えた。
「――問題は、そうじゃなかった場合よ。あの場から消えた原因を確認しなくちゃ。あのコの体力とか、憑依時間に限界があったという可能性もあるけど、そうではなくて、〝何かが起きた〟から消えたという可能性もあるわ。それを知りたいの」
「つまり、成仏ではないと思ってる?」
「うん」
心なしか、早口で語る珠希の表情が輝き出した気がした。
「珠希ちゃん、もしかしてだけど……キミも、瑞奈ちゃんにはまだ消えて欲しくないって思っているように見えるんだけど」
「当然よ。まだ何も判っていないんだから。これで終わりなんて中途半端もいいところじゃない。こんなところでモタモタしていられないわ!」
微笑みながら、珠希は信号が青くなると同時に車を発進させた。
その少し上気した頬と前向きな表情に不吉な予感を抱いた時には、もう遅すぎた。
「ひ、ひいぃぃい!」
かつてない加速が容赦なく健吾の体をシートに叩きこんだ。一瞬、背もたれの何処かがバキっと音を立てたような気がした。
「平気だって! 道も空いてるし、この分ならすぐに着くわ!」
「に、にしてもはやすひーーーー!」
「何よ、小心者ね! あんまり喋ると舌噛むわよ!」
――それは住宅街を走行する軽自動車内で聞くべき台詞ではありませんぞ!
*
無事『二ノ塚マンション』に着いたのが、まるで奇跡のように感じられた。
しかしそんな感慨に浸る暇もなく、車を降りるとまるで示し合わせたかのように二人はA棟に向かって足り出した。
階段を駆け上がろうとする珠希をなんとか制止して、健吾はエレベータの使用を提案した。
気持ちは逸るが、ここで呼吸と気持ちを整えたかった。
五階でエレベータを降り、五〇一号室の前まで進む。
まずは健吾が入室しなければならない。車内に放置するわけにもいかないので連れてきたノインを珠希に渡し、ポケットから鍵を取り出した。
「……じゃあ、入るよ」
頷く珠希の視線を受けて、健吾はゆっくりと鍵を差し込んだ。
軽く捻ると、いつもと変わらない、ガチャリという解錠音が響いた。ドアを開け、玄関に足を踏み入れる。
中を見渡しても、出発前と何も変わらない。部屋の中はしんと静まっていた。
後ろから珠希が「早く中に入れ」と言わんばかりに、背中をぐいぐい押してくる。健吾はそれを手で払い、落ち着くように促しながら、息を大きく吸い込んだ。
「ただいまー……瑞奈ちゃーん?」
数秒の後。
しゅるしゅる――ぴしゃっ。
と、奇妙な音が聞こえて、それからさらに数秒後――。
「おかえりなさーい」
と、奥から耳慣れた声が聞こえてきた。
「い、いた!」
「いた――――っ!」
喜んでいい場面なのか非常に微妙ではあるが、何故かハイテンションな二人は安堵感と達成感に満ち溢れたような叫びとともに飛び跳ねた。
健吾と珠希が競うように靴を放り出して畳部屋まで掛け込むと、一枚だけ色あせた畳の上に正座し、
「どこか痛いんですか?」
と首を傾げる瑞奈の姿があった。
(つづく)
お読みいただきありがとうございます。
前回に比べると短いですが、このくらいの方が読みやすいかなと思っています。
次回は後編の予定です。