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話の六 霊現象 (後編)

(6/3)タイトルを「霊現象」に変更しました。内容は同じです。

 ――う、腕が痺れてきた。おまけに耳も限界に近い……。


 子猫であっても丸々と肥えたノインは、ものの数分で健吾の腕から体力を奪い去った。

 ただ単に荷物を抱えているのとは異なり、姿勢や高さを維持し、尚且つ「瑞奈」が密着しないように顔や体から少し距離を置くように支えているのは、なかなかに容易なことではなかった。


 そんな健吾の苦労には全く気づかない様子の瑞奈は、窓の外を眺めては、時に喜び、時に驚き、その都度大騒ぎを繰り返す。その興奮から生み出される普段よりもかなりハイトーンの、最早悲鳴との区別のつけ難い奇声に晒され、耳まで痛くなってきた。

 エアコンと高揚する瑞奈から発生する冷気によって、肌寒いほどの車内であるにも拘らず、健吾の額には玉のような汗がびっしりと貼り付いていた。


 ここにきての唯一の希望は、早く目的地に到着して今の状況から解放されることなのだが、なぜか車は遅々として進まない。

 渋滞しているわけではない。むしろガラガラと言った方が適切なくらい、交通量は少ない。思えば世間ではちょうどお盆の時期に差しかかっており、おそらくは普段より車も人も減っているのだろう。


 そんな見通しのきく昼下がりの市街地の道路を、軽自動車はゆっくりゆっくりと走っている。ゆっくりと言うよりも、明らかに遅すぎる速度だった。

 安全運転や制限速度順守などというレベルではない。

 速度メーターを覗いてみたら、時速は概ね十キロ前後をキープしていた。これでは駆け足の方が速いのではないか。


 運転席の珠希は、健吾の苦悶に気づているのかいないのか、涼しい顔で正面を見据えたまま静かに運転している。

 ただ時折、瑞奈が奇声を発すると、深い皺が眉間に刻まれる。つまりは、珠希も瑞奈の大騒ぎを「うるさい」と思っていることは確かだ。

 なのに文句も言わず、速度も上げない。

 それどころか、後方から車が迫ってくると、ハザードを灯して路肩に寄せて停まってはやり過ごす、の繰り返しだった。


 ――これは、もしかしたら、

「珠希ちゃん、運転、苦手なの?」

 普段なら心の声で済ませておくところだが、腕が辛くて余裕がなく、つい本当に口走ってしまった。

「あら心外。苦手そうに見える?」

 平然とした声が返ってきた。

 運転が苦手な人は、無駄に力が入ったり過度に緊張したりするものだが、確かにそうしたぎこちなさは、珠希からは感じられない。


「じゃ、じゃあ、なんでこんなにゆっくり――」

「ああ、それはね、瑞奈ちゃんが喜んでるから。どうせならじっくり外を見せてあげたいでしょ?」

「う、うぐ……」

 これでは健吾に反論の余地はない。このまま我慢して瑞奈を抱えていなければならないのか。

 目の前の瑞奈は食い入るように、健吾ならば何も感じないであろう風景を見つめている。

 そんな無邪気な顔を見てしまっては、「さっさと行こう」なんて言えるはずもない。


「健吾さん、あれって何て読むんですか? 生越む?」

 不意に瑞奈の質問を受け、健吾は彼女の視線の先を探った。そこには小さくて古そうな蕎麦屋がぽつんと建っている。

「生越む? ああ、そ、そう見えるのか。あ、あれ……は、変体仮名といって、〝きそば〟と読むんだけど。つまりお蕎麦屋さんにはよく書かれていて――」

 などと解説していると、珠希は気を利かせたのか、ハンドルをゆっくり切り、瑞奈には「生越む」と見えたらしい、蕎麦屋の暖簾のれんの前に、車を停めた。


 こ、これではいつまで経っても目的地に着かない!

 ――ごめんなさい。もう腕が限界です。

 懇願するように見つめる健吾の視線を受け止めた珠希は、

 ふしゅー、ふひゅー、

 と、音も出ないのに口笛を吹く真似をしてそれをかわしてしまった。


 ――いじめっこだな。珠希ちゃんは子どもの頃、きっといじめっこだったんだ!

 絶望の淵で健吾の思考は意味不明な方向に突き進みつつある。

 それを救ったのは、ふと視界に入ったドアミラーに映った、後部座席の物体だった。

 振り返ると、そこには大きめの段ボール箱。何かの業務で使う物が、そのまま置きっぱなしになっているようだ。

 高さが、ちょうど良いように見えた。


「……まあ、車内にあなたがいれば、大丈夫かな」

 珠希も健吾の提案を受け入れた。

 早速助手席の背もたれを倒し、段ボール箱の上にノインをのせてみた。ノインは相変わらずの様子で、箱の上で丸くなってそのまま動かなくなった。案の定、その背にくっついている「瑞奈」からは、外がよく見える高さだった。

「ふーっ」

 と、痺れた両手をぶんぶん振りながら人心地ついた健吾の横では、珠希がじっと瑞奈の様子を見ている。

 しばらくして、「うん、消えそうにないわね」と呟くと、車を発進させた。速度は遅いままだ。


     *


 後部座席に移っても、瑞奈は我を忘れたように興奮して外を眺め続けている。

 彼女の言が正確であるならば、およそ十年前に死んでから、初めてまともにあの部屋から出たことになる。時間経過の感覚が自分らと同じなのかは分からないが、いつまで経っても飽きない彼女の気持ちは一応、理解できる。

 大声で騒ぐのも仕方ないだろう。

 健吾はまだ若干キンキンする耳に指を突っ込みながら苦笑した。


 隣の珠希はドアミラーの角度を調整し、しきりに目配せをしながら運転している。後方確認ではなく、瑞奈の様子を窺っているのだろう。

 そもそも健吾が瑞奈を抱えていたのは、その方が「消えないだろう」という珠希の推測による。

 だが――これは結果論ではあるが――自分がいなくても瑞奈は消えないのではないかと、健吾には思えてきた。外の風景をこんなにも楽しんでいるのだから、すぐにあの部屋に帰りたくはないだろう。

 体が楽になると、急に手持ち無沙汰になった健吾は、隣の運転席に意見を求めてみた。


「消えない可能性はあるわ。でも今はそういうことを試してみたくはないわね。ここまで来てまたやり直し、は勘弁してほしいわ――」

 まあ、珠希の言わんとすることもよく分かる。

「――だから、健吾くんはあまり油断しないで、できるだけ瑞奈ちゃんの近くにいてね」

「例えば、トイレに行きたくなったら?」

「瑞奈ちゃんも連れて行くか、我慢するか、どちらかでお願い」

「……はい。可能な限りは善処します」

 出かける前にしておくべきだった。幸い、今はそういう気配は感じられないが。

「少なくとも私と彼女の二人きり、という状況は避けたいの」

「あのう、それってどういう意味、なのかなあ――」

「え、なにが?」


 どうも珠希の台詞には少しだけ違和感を感じる。出発前にも似たようなことを聞いた。

 曰く、『車という密室内に私と瑞奈ちゃんの二人だけになったら、彼女は消えてこの部屋に戻ってしまう気がする』と。

 瑞奈の出現条件として健吾が必要なのは分かる。だが珠希の言い回しでは、健吾の不在よりも瑞奈と二人きりになることの方を、より強く避けているように聞こえる。


「えっと、要するに……なんで瑞奈ちゃんと二人きりだけは避けたいと?」

 珠希は少し怪訝そうな顔つきになったが、「ああ」とすぐに健吾の問いの趣旨に思い至ったようだった。

「説明してなかったわね、忘れてた。私があの部屋を訪ねた時のことを思い出してみて。いくら私がチャイムを鳴らしても、あなたは一度も気づいたことがないでしょう?」

「え? まあ、そう言われてみれば、そうだったかな」

「あれは、瑞奈ちゃんがやっているのよ。おそらくは無意識のうちに」

「え――そ、そうなの?」

「うん。チャイムの故障ではないことは確認してるから。それに私はドアを直接ノックもしているのよ。それでもあなたには聞こえなかったわけでしょ? つまり、通常ではあり得ない現象ね。電灯が突然消えたりカメラがうまく作動しなかったりって、映画のシーンでもあるでしょ? 基本あれと似たようなものね。ま、瑞奈ちゃんの力をもってすれば、朝飯前よねー」


 サラリと、しかも楽しそうに説明されてしまった。そんなおっかない心霊現象が、気づかぬうちに、しかも日常的に起きていたなんて。

 改めて健吾は後方の瑞奈に目をやった。今現在の見た目はともかく、あんなに緊張感もなくて無力そうに見えるのに、実は非常に強力だなんて――彼女の底知れぬ力そのものよりも、むしろそのギャップの方が、健吾には恐ろしく思える。


 そして、いつも説明不足の珠希も気になる。そういう性格なのだろうか。

 つい今しがたも「忘れてた」と、惚けたようなことを口走っていたが、本当はわざとやってて、ネタを小出しにする度に健吾がビビるのを見て楽しんでいるのではないか、と勘繰りたくなってしまう。


「そ、そういうことは、ちゃんと説明しておいてくれないかなあ――ていうか、いっつも珠希ちゃんはそうだよね。僕が訊かないと何も教えてくれない。それじゃあ困るよ」

 健吾にしては、精いっぱいの非難を浴びせてみた。もっと思いっきり、感情のままに不満をぶつけてやりたいが、その結果、珠希が拗ねてもっと非協力的になるのは困るのが辛いところである。


「なんで? というか、大丈夫よ。あの部屋ではこれまでに何度も怪異現象は起きていたけど、実害はないし」

「でもでもだって、僕は素人なんだし。安全とか危険とかそういうことは分からないし、なんというか――心構えとか対処法とか、そういうの知ってた方が色々と助かると言うか……」

 珠希は「はいはい」と、面倒くさそうに健吾を黙らせ、車を道端に一旦停止させてから口を利いた。


「むしろ逆効果。説明を聞いたあなたが今、ビビりまくっているのが証拠よ。心霊現象って知らされなければ何ともなかったわけでしょ? 知ったからこそ変に意識しすぎて上手くいかない場合もあるの。実際、もっとすんごい超常現象を見ているのに、あなたはケロっとしているじゃない。だから、必要最低限のことだけしか教えないの。まあ、訊かれれば――それはあなた自身が何かを感じ取っているんでしょうから――分かる範囲で説明はするけど」

「へ? もっと凄い現象って?」

「ほらね――訊かれたから答えるわね。例の『百発百中』ってやつよ。まあ、チャイムの件と同質のものだけど、次元が違うわ。ついでに教えてあげる。ああいう現象の事を、一般ではポルターガイストって呼んでるわ。満足した?」


 またすんごい言葉、健吾のイメージではとてもデンジャラスな言葉が出てきた。

「で、でもあれは、瑞奈ちゃん、ちゃんと手で投げて――」

「瑞奈ちゃんの姿が見えるからね。そうねえ、彼女は写真には映らなかったわよね。だったら、今度投げているところを撮影してみれば? ていうか私、それリクエストしたじゃない。ちゃんと撮ってくれてれば、あなたもすぐに気づいたのにねえ」

「あ、あうあう……」

「付け加えると、瑞奈ちゃんには自覚がないのね。手で投げているつもりなのよ。狙いが絶対に外れないのは、本当は手で投げているのではないから、なのよね。祟られなくてよかったわねえ、健吾くん」

 絶句したまま硬直している健吾に微笑みかけ、珠希は車を発進させた。


     *


「は、はなすの戻すお。さっきのつづきなんらけど……」

 かなりの硬直時間を費やした後、ガチガチになっている顎を無理やり動かして、健吾はそう切り出した。

「あら、まだ何か?」

「ぼ、ボキュが訊けば答える。チミはそう言うったはずら!」

「そんなに力まなくても、答えるわよ」

 そう、いっそのこと、心臓に悪い話はできるだけこの場で聞いてしまいたい。あの部屋で聞いて、その直後に瑞奈と二人っきりになるよりマシなはずだ。

「さ、さっきーの続きだけど、チャイムが聞こえないこととと、た、たまキミと瑞奈さぁの二人きりがダぅメな件とのかんけーを……」

「……なんか喋り方、変だよ。声も掠れてるし。平気なの?」

 健吾は口を手で塞ぎ大きく咳払いしながら、カクカクと頷いた。


「まあいいわ――あなたが室内にいる時、私がチャイムやノックを鳴らしても音がしないのは、何と言うか……要するに拒絶されているんだと思う」

「きょぜつって――あ、声治った――なんで?」

「さあ――あ、声治ったね――どうしてだと思う?」


「そりゃあ顧みれば、色々プライバシーを詮索したりいじめたり……さっきも力ずくで風呂敷に丸めこまれたりしてるわけだし、瑞奈ちゃんにしてみれば、大なり小なり珠希ちゃんを嫌っていても不思議はないか……」

「ほう、健吾くん、あなたはそんな風に見ているのね。とっても参考になったわ」

「……なーんていうのは、じょ、冗談でぇ~すっ」

 珠希の眉の両端が立ちあがらんばかりにつり上がっている。健吾はあわてて言葉を繋いだ。

「み、瑞奈ちゃんはそんな風に思ってないよ。そういう話を聞いたこともないし、珠希ちゃんと会うと喜んでるし、ほんとにほんとに――ね、瑞奈ちゃん、そうだよね!」

 同意という名の助け船を期待して後方に声をかけると、

「ふえ?」

 と、全くこちらの会話を聞いていないと一発でわかる反応が返ってきた。


「ま、私も半分くらいは、そういう可能性もあるかもしれないと思ってたけど――」

 慌てる健吾を見て呆れたのか、それとも瑞奈の惚けた態度に毒気を抜かれたのか、珠希は少しだけ柔和な表情を取り戻していた。

「――でもね、よくよく考えてみると、私が初めて部屋を訪ねたときからチャイムは鳴らなかったのよね。まだお互い面識もないのに」

「そうだったっけ? あまり意識してなかったから僕は覚えてないけど」

「そうよ。変態エロイトコくん――つまりは、私個人がどうこうではなくて、女性に対してはそうなる、と考えた方が妥当ね。男性がいないと現れないという特徴を踏まえても、筋は通るわ。女性を無意識のうちに遠ざけようとする力が働く――うん、我ながら、なんとなくこの考えはいい線いってる気がする」


「気がするってことは、あくまで推理だということ?」

 痛々しい呼称が出てきたところで、その辺りの記憶が甦った。が、敢えてそのことはスルーして話を続ける。瑞奈との生活で培われた度胸をもってすれば、何と呼ばれようが最早少しのダメージにもならないことを、さりげなくアピールしているつもりの健吾だった。


「うん。本人に確認したわけじゃないし。確認しようにも、無自覚でやっていることだし。何か理由があるにしても、たぶん忘れちゃってるし」

「そうか、無意識とは言え、瑞奈ちゃんが起こしているのだから、そうするための理由があるわけか……」

 彼女と二人きりになるのは避けたいという珠希の考えは、ようやく理解できた。

 しかし、健吾の関心は既に別の方角を向いていた。


「気になる? 理由」

 突然の、核心を突くような珠希の質問に驚いた。どうやら顔に出ていたらしい。

「え? まあ、ならないと言えば嘘になるけど」

「『健吾しゃんと二人っきりでいるのを、邪魔されたくないんでしゅぅ』という理由だったら、どうする?」


 真面目に考え事をしようとした矢先に、今度は虚を突かれた。

 ――誰ですかそのモノマネ…… ていうか、全然似てねーっすよ!


「どどどどうするもなにも……そもそもそんなことは」

「なーに焦ってんのよ」

「あ、焦ってなんか――ていうか、人が、せっかく人が真面目に――」

「顔、赤いよ」

「うおお」


 珠希は堪え切れずに、ぎゃははは、と笑いだした。運転するのも儘ならなくなり、一旦停止させるほどにウケたらしい。

 少し乱暴なブレーキで車内が大きく揺れ、後ろの瑞奈が不審がって声をかけてきた。

「あの、どうしたんですか? ああっ、健吾さん、またいじめられたんですか? もおっ珠希さん、いじめちゃだめですっ」

 なんとも絶妙なタイミングと内容である。

 心配してくれるのは嬉しいのだが、今の会話の流れでは、変に意識してしまって返答に困る。


「大丈夫大丈夫、いじめてないから。ね、健吾くん」と、涙目の珠希。


 ――いや、いじめてはいないかもしれないが、いじってはいるだろう。

「早く発進させてよ! 時間があまりないんでしょ」

 精いっぱい不機嫌を装ってそう喚くのが、健吾の限界だった。




お読みいただきありがとうございます。

後に改稿するかもしれません。

またひと月近くブランク空いてしまいました><

★構成の見直しを行い、タイトルを「霊現象」に変更しました。内容に変更はありません。


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