話の六 霊現象 (前編)
(6/3)タイトルを「霊現象」に変更しました。内容は同じです。
全てがとんとん拍子に、とはなかなかいかないものだ。
たった一回のトライで見事にノインとの『合体』に成功した瑞奈。あとは彼女を連れて外へ――と、すんなりと事が運ぶと思っていたのだが。
珠希は玄関に向かいしな、健吾に指示を出した。
「私が車の運転するから、瑞奈ちゃんはあなたが運びなさいね。ノインを抱きかかえるようにすれば大丈夫だと思うから」
「え? か、構わないけど」
さすがに事ここに至ってボク怖いからイヤです、とは言えずに、身震いするのをできるだけ我慢しながら瑞奈――いや、これは瑞奈がノインに憑依しているのだから、ノインと呼ぶのが正しいのか? よく分からないが、とにかく『彼女』――に手を差し伸べた。
「え、え、ちょ、ちょっと待っ……」
瑞奈は少し困惑し、躊躇の態度を示したが、下のノインは意に介していないようで、健吾の手を避けることもできなかった。
初めにわしっと瑞奈の頭部を掴んでみて、そこで健吾は思い直す。
――このまま持ち上げたら、せっかくくっついた瑞奈の首が、ノインの重みで背中からはずれてしまうのではないか。
そこで、ノインの体に手を伸ばし、珠希の指示通りに抱きかかえるようにして持ち上げた。
「ひぃやああ――――け、けんごしゃん。ちょとはずかしいです」
瑞奈が辛い体勢にならないようにノインを抱えると、自然と瑞奈は健吾の胸板に顔を埋めるような形になってしまう。いや、胸板というよりもっと位置は上で、健吾の首や顎に瑞奈のおでこが密着する。彼女は真っ赤になって火照り、独特の甘い香りが強く放たれて健吾の鼻孔をくすぐった。
猫を抱えているのに女の子を抱きしめているような、怖いような恥ずかしいような感覚。
自分の意志ではどうにもならないところで、脈拍が加速を始めた。きっとその鼓動は今密着している瑞奈にも聞こえているのだろう、という状況が余計に心臓を刺激し、健吾の頬を染め、大量の発汗を促した。
目の前の不機嫌そうな珠希の視線がなければ、その場でへたり込んでいたかもしれない。
「た、珠希ちゃん。運転は僕がやるから、こういうのはやっぱり同性であるキミがやった方が――」
「なによ、まんざらでもないような顔してるくせに」
「え、健吾さん、まんざらでもないんですか?」
珠希の言葉につられて、瑞奈は健吾を覗き込むように顔を上げた。
「い、いやいや、そそそそんなことは、ていうか、瑞奈ちゃんはおとなしくしててね。あはははは」
――そんな近くから、そんな顔で上目づかいをしないように!
うろたえる健吾に呆れたように、溜め息をこぼしてから、珠希は続けた。
「健吾くんの言いたいことも分かるけどね、一応あなたが抱えた方がいいような気がするのよ。まあこんなケースは初めてだから、あくまで私の推測というか、勘みたいなものだけど」
「そ、そのココロは?」
「覚えてる? この『五〇一号室』は、女性が住んでも何も起きない。男性が住むと『出る』っていうこと」
「うん。それが?」
「この場にいる男性は健吾くんだけ。つまり、今、瑞奈ちゃんが『出て』いるのは、あなたがいるからよ。実は、ちょっと判断に迷っているの。と言うより、これは出たトコ勝負ね」
「な、なにが、でしょうか?」
「これから瑞奈ちゃんを連れて外に出るわけだけと、その際、あなたは『瑞奈ちゃんと一緒に外出すべきか』それとも『この部屋で瑞奈ちゃんの体と一緒にいるべきか』――彼女が消えないのはどちらかってね」
「あ――なるほど」
「で、思考やら意識やらが宿っているであろう『瑞奈ちゃん』の方に、あなたはできるだけ近くにいた方が、彼女はあなたという男の存在を認識できるのではないか、と考えているわけ。少なくともこの後、車という密室内に私と瑞奈ちゃんの二人だけになったら、彼女は消えてこの部屋に戻ってしまう気がするわ」
「なんとなく、納得することにしました。ということだから瑞奈ちゃん、このまましばらく我慢してくれる?」
と、声をかけると、
「ふえ?」と瑞奈は呆けたような顔を向けてきた。
どうやら今のは彼女にとって思考の埒外だったようだ。自らを幽霊と認めた今も、たまにこうして話が通じないことがある。
「さ、とにかく外に出てみましょう。こればかりはやってみないとどうなるか分からないんだから。それにさっきも言ったけど、あまり時間がないのよ」
珠希はそそくさと靴を履き、扉を開け、外の通路で健吾と瑞奈を待ち構えた。
健吾も後に続くように、玄関で靴を履く。
――上手くいかなければ、また合体からやり直しか。
健吾自身は何もしていないので、特に思うところもないのだが、きっと珠希はもの凄く不機嫌になるのだろう。妙な八つ当たりを食らうのは御免なので、一応成功を祈りながら、ゆっくりとその足を外へと進めた。
途端に、厳しくも不快な残暑の空気が体を撫でまわす。腕に抱えた子猫の体温が、この瞬間からとても鬱陶しいものに感じられる。
そしてその背中には――、
「あ、あづーい」
と、目を回した瑞奈が、力なく健吾の胸にその身? を預けていた。
「うん、上出来ね。ちゃんと部屋から出られた……けど」
珠希は腕組みして、健吾の足のつま先から頭のてっぺんまで、なめるように観察して唸った。
「ちょっとそのまま待ってて」
と言うなり、隣の「五〇二号室」に駆け込んだ。そこは健吾と瑞奈の様子を窺うために、一時的に珠希が滞在している部屋。ただ、彼女が実際に部屋にいたのは最初の数日だけで、ずっと不在だったことを健吾は確認している。
しばらくして、「五〇二号室」から戻ってきた珠稀の手には、なにやら布の塊のようなものが握られていた。
「これでなんとかしましょう。健吾くん、ちょっと瑞奈ちゃん貸して」
「い、いやぁあぁぁぁあ――――!」
嫌がる瑞奈を無視し、珠希は持っていた分厚くて大きな布――つまり風呂敷――を広げ、その中心にノインと瑞奈を放り込み、透かさず四隅を束ねて縛り、丸くて大きな包みを作り上げた。
その一連の作業にかかった時間はおよそ十数秒。素早くも鮮やかな手つきに圧倒され、健吾は一瞬、目の前で何が起きているのか判断できなかった。
「ううううう、たまきしゃん、ひどいでう。くらくてあついですっ」
包みの中で瑞奈が喚き、さすがのノインもこの待遇には不満らしく、手足をばたつかせて暴れている。
「観念しなさいねー。暴れると余計に暑くなるからね」
がはは、と勝ち誇ったように笑い、珠希は風呂敷包みを「ほいっ、これでおっけーよ」と健吾に手渡した。
「……珠希ちゃん、なんでこんなことを?」
既にエレベータに向かい始めた珠希の足を、健吾の質問は止めることができなかった。仕方なく小走りでついていく。
エレベータが止まり、中に入ったところで、珠希はようやく口を開いた。
「簡単なことよ――健吾くん、あなたは自分に霊感ってあると思ってる?」
「僕? いや全然ないと思ってるけど」
「でしょ。そんなあなたにもはっきりと見えて触れるのが瑞奈ちゃんよ。さて、ここで質問。背中に女の子の生首が生えてる子猫を抱きかかえて街中を歩いたらどうなると思う?」
「あ……」
実は、少々腹が立ちかけていた。どうして瑞奈をいじめて喜んでいるのか、問い質すつもりだった。
だがそれはお門違いだったらしい。珠希はちゃんと色々と考えて行動している。ちょっと乱暴なところもあるような気がするが、やはりこの方面に関することは、健吾では思い至らない点が多い。彼女を信じ、黙って従うべきなんだろう。
そう結論付けつつも、他方ではやっぱり、風呂敷包みにされてしまった瑞奈が不憫だという思いもある。
「一応ね、ノインを運べるサイズのペット用キャリーケースは用意してたのよ。でもね、背中に首が乗っかっている状態では、入らないわ」
「やっぱり、『合体』はイレギュラーなケース?」
「一概には言えないけど、少なくとも私にとってはそういうことね。憑依は相手の中に入り込むことが多いから。もしくはユラユラと靄のようになって、相手の傍らに寄り添ったり、纏わり付くような感じとかね。こうして固形がぴたっとくっついているようなのは聞いたことがないわ。とにかく瑞奈ちゃんはイレギュラーの塊なのよ。油断できないわ。あなたも慎重にね」
言い終わると同時に、エレベータが一階に到着し、ドアが開く。
健吾の返事を待たずに、珠希は駆けだした。その先には、アスファルトから燃え立つ陽炎に晒されながら、側面に「佐藤不動産」と大きく書かれた白い軽自動車が停まっていた。
*
「くらいよう。あついよう。お外が見たいよー」
車に乗り込むなり、風呂敷が騒ぎだした。
これには健吾も同情せざるを得ない。炎天下に置かれた車の中の暑さは、尋常ではない。猫と一緒に丸めこまれている彼女の境遇は如何ばりか――。
「た、珠希ちゃん。せめて車内では風呂敷から出してあげられないのかな?」
運転席の珠希は、助手席に座った健吾の顔と、膝の上で大事そうに抱えている風呂敷包みを交互に見て、小さく溜め息をついた。
「このままじゃ可哀想だよ。なんとかしないと――」
「はいはい、わかったわよ」
珠希はキーを回してエンジンを始動させると、エアコンをパワー全開にした。
「窓は絶対に開けないこと。いいわね?」
返事もそこそこに、健吾は包みを解いてやった。
「ぷはああああああっ」
安堵と解放感を多分に含んだ息を大きく吐き出しながら、瑞奈が現れた。
「ひぃぃ――――!」
びっくりして放り投げそうになるのを、健吾は寸前でなんとか堪えた。いや堪えたというのは偶然で、狭い空間とシートベルトが体の自由をある程度奪っていたお陰で、放り投げるのに失敗した、というのが事実だった。
瑞奈は、汗まみれで長い髪がべっとりと顔中に纏わりつき、初めて見たとき、床を転がっていたのと同じような黒い塊と化していた。髪の隙間から覗く眼球がぎょろっと動くのを見るだけで、全身の表皮に鳥肌が駆け巡っていくのがわかる。
さらに、その長い髪はノインにまで及んでおり、絡まって手足の自由を奪われ、ぷるぷると悶えていた。この期に及んで鳴き声一つたてないのはさすがだが、放置しておくわけにもいかない。ノインが暴れるたびに、
「いたたた」
と、髪を引っ張られて瑞奈が呻き声を漏らしている。
「どどどど、どうすれば……」
最早膝の上の不気味な物体としか映らなくなってしまったモノに触れることもできず、ただ両手で頭を抱えてうろたえる健吾。
「もう、時間がないって言ってるのに!」
しびれを切らした珠希が瑞奈を奪い取り、絡まった髪を手早くほどいていく。
「――確かに長すぎるわね、この髪。いっそのこと、切るか縛るかした方がいいのかしら」
「あうう、切るのは勘弁してくしだしゃい……」
「冗談よ、冗談」と、とてもそうは思えない口調で珠希は続けた。「だいたい、切ろうとしてもできないかもしれないしね――はい、これでよし。健吾くん、エアコンの風が当たるようにして、瑞奈ちゃんの髪を乾かしてあげなさいね。それくらいはできるでしょ」
不甲斐なさ全開状態を晒してしまった健吾は縮こまりながら、瑞奈を受け取った。
言われた通りにすると、温く湿った昆布のようだった髪が、たちまちのうちに十四歳の少女が本来持つであろう姿へと変貌を遂げた。滑らかで美しい光沢を放ちながら、軽自動車の小さなエアコンの送風口からの風だけで大きく波打ち、サラサラと棚引くその髪は全く重さというものを感じさせない。
「ふいぃー。気持ちいいですう」
すっかりと落ち着いた瑞奈。エアコンの風を受けてからか、彼女から発せられる独特の甘い香りが車内に充満し、先ほどまでの地獄のような炎熱が嘘のように、快適になっていった。車内が急速に涼しくなっているのも、彼女の精神状態が引き起こす冷気のお陰だろう。
居心地がよくなったのか、ノインもすっかりおとなしくなり、健吾の膝の上で丸くなって目を閉じて動かなくなった。
「ふうー。よし、これでひと安心だな……あいたっ!」
独りごちる健吾の額に、いきなり珠希の裏拳が跳んできた。
「何にもしてないのに、何をやりきった感に浸っているのよ! まったく、出発するのに一体どんだけ時間食ってるのよ!」
「ご、ごめんなさ――」
「け、健吾さんをあまりいじめないでくださいっ」
いきなりの、予想外の横やりに、健吾の謝罪を告げようとしていた口が固まった。
見ると、膝の上ではほっぺをほんのりと染めた瑞奈が、運転席の珠希をじっと睨んでいる。
珠希も目を丸くして、口を半開きのまま固まっていた。
「あ、あのあの……け、健吾さんのせいじゃないです、から。その、私がこんなだから――」
もじもじと、少し恥ずかしそうに目を伏せながら瑞奈が口を開いた。その台詞を言い終える前に、珠希はそっと手を伸ばし、瑞奈の頭を優しく撫でた。
「わかったわ。あなたにそんなことを言わせるなんて――私も少しイライラしてたみたいね。ごめんね、瑞奈ちゃん」
「はいっ――あ、いえいえ……」
短い返事の後、しばしの沈黙が車内を覆った。アイドリングしているエンジンと、フルパワーから幾分か落ち着き始めたエアコンの音だけが、やけに大きく感じられる。
一体、目の前で何が起きたのか、健吾は今一つ理解できなかった。
少なくとも、瑞奈が自分を庇おうとしたのは事実だろう――しかしこんなことは初めてだし、またそんなことが起き得るとは考えてもみなかった。
「あ、ありがとう」
少々混乱していたが、とにかく礼だけは、と思い小さく言うと、
「えへへ」
と、瑞奈は照れ笑いで返してきた。
そのほっぺは赤く染まったままだった。
健吾の鼓動が大きく脈打つ。
目が合うと、頬を赤らめる瑞奈――マンションの部屋で何度か経験した記憶が頭の中で甦り、なんとなく恥ずかしくなって、視線を泳がせた。
ふと、隣の珠希と目が合った。
瑞奈に対するのと違って優しくないのはいつものことだが、今はそれだけでなく、何かの感情がこもったような視線だった。
呆れているのでもなければ、怒ったり軽蔑したりという類のものでもない。健吾を観察しているようで、それでいて少し不安げで、何か言いたそうな顔つき。
「あのう――」
「さ、そろそろ出すわ」
何ごとか尋ねようとする健吾をあえて無視するように、珠希は正面に向き直った。
サイドブレーキを降ろし、シフトレバーをDに入れると、白い軽自動車がゆっくりと動きだす。
窓の外が流れ始めると同時に、瑞奈がはしゃぎだした。
「わあああ、お外だお外だ――――。健吾さん窓の外、見てもいいですか?」
「え、ああ、うん。もちろん構わない、よ」
と答えたものの、膝の上に置いたままでは位置が低すぎてよく見えない。健吾はノインごと、両腕で瑞奈を抱え上げた。
食い入るように外を眺める瑞奈。その無邪気な姿は微笑ましくもある。健吾も一瞬、顔を綻ばせかけたが、
――外の人から、この車内はどう見えてるんだろう?
と想像したら、その顔は苦笑になってしまった。
ちらっと、運転席を見てみた。
珠希が何か注意してくるかと思ったが、彼女は無言、無表情のまま正面を向き運転している。
車は『二ノ塚マンション』の敷地から公道に出て、二ノ塚と呼ばれる丘の斜面をゆっくりと下っていった。
(つづく)
ここまでお読みいただきありがとうございます。
前回から、またまた一か月近く経ってしまいました><
★構成の見直しを行い、タイトルを変更しました。