話の五 憑依 (中編)
再びの珠希からのメール着信音で健吾が目を覚ましたのは、午前十一時を少し回った頃だった。かなり寝てしまったようだったが、そのお陰もあってか、二日酔い気味だった頭はすっきりしている。
「おはようございまーす」
瑞奈が待ち構えていたように、元気な声をかけてきた。
「お、おう、おはよう」
返事をしながら、それとなく様子を見てみる。
早朝と違い、いつもと変わらない瑞奈のようだった。
とりあえずは安心してもいいようだが、あのはしゃぎ様の理由も分からないままではどうにも釈然としない。かと言って、せっかく落ち着いたところなのに、下手に蒸し返すような真似をするのも不粋だろう。
――何をするにせよ、まずはメールを確認してからだ。もしかしたら今後の瑞奈への対処について、役に立つ助言が書いてあるかもしれない。
健吾はおもむろに立ち上がり、周囲に転がっているお菓子の箱や夕べの食べ残しの片づけを始めた。
早くメールを読みたいのは山々だが、何が書いてあるか分からない以上、やはり瑞奈の目の前で読むのは気が引ける。できるだけ自然体で彼女の視界から外れるために、ゴミの片づけという理由で、キッチンに隠れることにした。
「あれ、健吾さん、お片づけですか?」
「うん、ちょっと散らかってるから――」
半分以上はキミがやったんだけどね、と心の中で呟きながら、ゴミ袋を手に作業を続ける。
「あのう、ゴミならこれもお願いしていいですか?」
瑞奈は空のお菓子箱を手に取り健吾に差し出した。見ると、畳部屋の彼女の傍らには空箱がいくつも積まれている。
「ああ、構わないよ――」
言いながら健吾は、あることを試してみようと思いついた。
ダイニングの中央付近で、ゴミ袋の口を両手で広げて構える。瑞奈の座っている畳部屋の押入れ前からだと、距離にして五~六メートルはあるだろうか。
「悪いけど、ここに投げてくれる?」
――そう、今朝のハイテンションな瑞奈が口走った「百発百中」だ。
「え? あ、はい……」
怪訝な表情を見せながらも、瑞奈は持っていた空箱を「えいっ」という小さなかけ声とともに放り投げた。
空箱は緩やかな弧を描いた後、すとん、とゴミ袋の中に。
「おおう……」
見事なコントロールだ。今朝の分を含めてこれで四回、確かに今のところ一度も狙いを外していない。しかしながら、偶然ということも充分にあり得る。たかだか数メートルの距離であるし、慣れた者、得意な者であれば、五回や六回連続で命中することもあるだろう。
「瑞奈ちゃん、ゴミはまだいっぱいある?」
「はい、お菓子の空箱なら、えっと……いっち、にぃ、さん――あと十個くらいあります」
「結構あるな。よし、全部ここに投げて。どんどん投げて」
「え、でも、なんかお行儀悪いですよう」
「いいからいいから、その方が手っ取り早いでしょ。さあ投げて、次々と投げて」
「……はーい」
不承不承の体で少しだけ唇を尖らせながらも、瑞奈は傍らにあったお菓子の空箱の山を正面に移動させた。
「じゃあ、いっぺんにいきますよー」
えい、と先ほどと同じように小さな声を発しながら、瑞奈はゴミ袋めがけて箱を投げ始めた。
その現実離れした光景に、健吾は驚愕した。
瑞奈は空箱を概ね一秒に一個ほどのペースで、淡々と投げた。
まずは右手で箱を取り、ひょいっと投げる。そして次は左手で――。
なんと、彼女は左右の手を交互に使って投げている!
空箱の数はちょうど十個。右手で五個、左手で五個――瑞奈の投げた空箱は全て、寸分の狂いもなく、吸い込まれるようにゴミ袋の中に入った。
――これは得意という範疇を超えている気がする。本当の意味で百発百中なのか?
僅か十秒余りの出来ごとで、健吾は目の前の少女に対し寒気に近いものを改めて感じ始めた。
「み、瑞奈……ちゃん?」
「はーい」
「もしかしたら以前、ジャグリングとか習ってた?」
「なんですか、じゃ、じゃんぐる?」
「ジャグリング」
「じゃぐりん……えっと、お風呂かなにかですか?」
「い、いや、なんでもないよ。忘れて」
たぶん蛇口かジャグジーか何かと勘違いしている。今の反応で、瑞奈が何がしかの特別な技能を持っていたとか、そういう教育や訓練を受けていた可能性はぐっと低くなった。
――であれば、あの「百発百中」は一体……。
「あ、健吾さん、あとひとつ残ってました。投げますよー」
不意に声をかけられて、健吾の思考は中断した。
「えいっ」
瑞奈が投げる。
これまでと全く同じ軌道をなぞって飛んできたのは、なぜかお菓子の空箱とは異なり、金属的な光沢を放っていた。
「あ、あれ?」
不審に思った健吾は、反射的にその物体を、ゴミ袋に入る寸前で掴んだ。
「こ、これはっ――」
窓からの陽光を受けて銀色に輝く物体。それは健吾にとっては馴染み深く、瑞奈にとっては少々縁遠いと思われる物だった。
即ち、缶ビール。
健吾は刺すような視線を瑞奈に向けた。瑞奈は微かに首を傾げ、きょとんとした表情で受け止めた。
「……これ、飲んだの?」
「はい」
健吾が眼力に一層の力を込めると、瑞奈は視線を下に逸らした。
「だって、半分くらい残したまま、健吾さん寝ちゃうし、もったいなかったから――」
「だからと言って、子どもが飲んでいいものでは……」
うっ、と突然、瑞奈の喉から声が漏れ、眉は八の字に、口はへの字に曲がり、両目にはいっぱいの涙が表面張力限界まで溢れだした。
「だって、だって……飲んでみたかったんです。それに子ども子どもって――私、生きてれば健吾さんより年上なのに――ひっく」
「わわわうぇあ、わかったわかった! もう言わないから、機嫌直して」
「はあい」
瑞奈は何度か鼻をすすって、両手で目をぐりぐりいじるようにして涙を拭いた。どうやら泣きだすことはないようだ。
「――それで、どうだった?」
あらかたゴミの片づけを終えて、ゴミ袋を抱えてキッチンに向かいがてら、できるだけ軽い口調で尋ねてみた。
「なにがですか?」
「初めてのビールの感想」
「そうですねえ……苦かったです」
「不味かったかな? 初めて飲んだ時は僕もあまり美味しいとは思わなかったなあ」
「うーん、どうなんでしょう。なんだか途中から、気持ちがほわほわしてきて、あまり覚えてないんです」
「え、そうなの?」
「はいっ! それで、いつの間にか目の前にたくさんお菓子があって、とても嬉しかったです!」
――まさか、そんなオチが待っていたとは。
健吾の中にあった疑問やら心配の塊が、粉々に砕け散ってしまった。形容しがたい虚脱感が全身を覆う。
「よ……」
「よ?」
――今朝の、瑞奈の不自然なほどに様子がおかしかった原因は……。
「ただの酔っ払いかいっ!」
*
キッチンで読んでみた珠希からのメールは、ほとんど意味不明、いや意味自体は分かるが、意図や目的が不明で、健吾を困惑させるのに充分だった。
『どういう方法でも構わないから、瑞奈ちゃんが外出可能か確認して』
瑞奈があの部屋の色あせた畳から動くことができないのは、珠希自らが確認したことではないか。今更何を言っているのだろうか。
真意を確認した方がいいだろうか――戸惑いながらもそんなことを考えているうちに、携帯は再び珠希からのメールを着信した。
『早く返事ください。まだですか。あなたのことだから、気を遣って訊けないのかもしれないけど、はっきりと尋ねればいいの。「首だけでも外に出られるか」って』
健吾の戸惑いの中身とは少しずれていたが、珠希の知らんとすることは一応理解できた。
そして、彼女の指摘通り、そんなことを確認するのは気が重い。あれこれ詮索したり、あろうことかストレートに「首だけ」などと口にするのはどうしても抵抗があった。
脳裏には、夕べ聞いた彼女の台詞が何度も繰り返し浮かんでくる。
――健吾さんとは、こうしてのんびりと世間話でもしている方が、好きですっ。
だが、「その道の専門家」からそう指示されれば、従うしかない。それが健吾の立場であり、役割であることも事実だった。
健吾は思案の末、少々ずるいかもしれないと思いつつ、珠希からのメールをそのまま見せることにした。
自らの死を自覚した瑞奈にとっては、最早自身が幽霊扱いされても問題ないのか、珠希の質問を見ても平然としていた。
少し困ったような表情をしていたが、冷静な口調で、はっきりと答えた。
「実は試したことがあるんですが、無理でした。もう何年も前ですが、ここに住んでいた男の人が、玄関のドアを開けたままにしていたことがあって――」
首だけ転がって外に出てみようとしたらしい。
髪がまとわりついて黒い塊と化した首が、表の通路に転がり出る様を想像して、健吾は意味もなく「うはは」と笑い、必死になって体内の寒気を追い払い、不気味なビジョンを打ち消した。
「――玄関までは行けたんです。でも外に出た途端に目の前が真っ白になって、わけが分からなくなって、気づいたらこの部屋に戻ってました」
「じゃあ、やっぱり不可能ってことかな」
「はい、そのようです。すみません」
「瑞奈ちゃんが謝ることじゃないよ。とりあえず、出来ないってことは珠希ちゃんに伝えておくね」
健吾は携帯を取り出し、メールを打ち始めた。
「あ、でも待ってください」
両手をぱん、と叩きながら、思いついたように瑞奈が声をあげた。健吾の指は、送信ボタンを押す直前で止まった。
「珠希さんのメールには、どんな方法でも構わないってありましたよね?」
「うん、そうだけど」
「それならば、一度だけ、出たことがある――」
「え、本当に?」
「――かも、しれないです。ちょっと自信ないですけど」
「どうやって?」
「猫」
「は?」
瑞奈が外出を試した時よりもさらに数年前、この部屋の住人――もちろん男――が、猫を飼っていたらしい。このマンションはペット禁止なので、無断、内緒でということになる。
「実は、猫大好きなんですっ!」
それは瑞奈の様子ですぐにわかった。猫の話題が出た途端、その顔は火照って緩みきってしまった。メロメロというのは、こういうことを指すのだろうと、健吾は噴き出すのを堪えながら思った。
その猫が、初めて瑞奈の目の前を歩いていた時、
「か、かわい――――ぃ!」
と、動けないことも忘れて思わず猫に向かってダイビングしようとしたら、首だけがポロっともげた。以来、首だけ動けるようになったらしい。
その「特技獲得秘話」に笑えばいいのか怖がればいいのか、困っている健吾の耳に、さらに不可解なセリフが入り込んできた。
「で、その時は、猫ちゃんと合体できたんです」
「あの…………ごめん、意味が分からないんだけど」
「えへ、私もです。でも、あの時のことを説明すると、合体って言うのが一番しっくりくるような……」
――瑞奈が猫と合体。しかも首だけ。
とんでもなく不気味な光景を想像しそうになって、健吾は半ば死に物狂いで頭を振った。
「どうかしましたか?」
「い、いやなんでも――それで?」
肩で息をしながら、続きを促した。
「えーっと、どうやら猫ちゃんの方もびっくりしたみたいで、突然走りだしました。そうしたら、その時も玄関のドア、開いてたんです」
「もしかして、そのまま外へ?」
「はい、猫ちゃんと一緒に外に出ました……と思うんです」
瑞奈は視線を泳がせて、一生懸命に記憶を辿っているようだが、いかにも確信がない、という体でしきりに首を傾げ、不安げな顔つきになっていた。
「その時のことはっきりと覚えてない、のかな?」
「……私、目を瞑っちゃったんです――猫ちゃん走るのものすごく速いし、揺れて吐きそうになっちゃうしで――だから、外の風景は見ていません。でも玄関のドアが開いているのを見てからしばらくの間は、猫ちゃんと一緒でした。とにかく怖いから、『帰りたい、戻りたい』って必死に願ったら、いつの間にか、またこの部屋に戻ってました」
「えっと、つまりそれは、猫と合体? すれば――」
「はい――あの時、あのまま帰りたいって思わなければ、もっと長い時間、外にいられたんじゃないかって思うんです」
今の話をどう判断していいか分からないが、少なくとも嘘や冗談ではないらしい。健吾は聞いた内容をできるだけ忠実に、余計な自分の解釈や意見を交えないように注意しながらメールを書き、珠希に送った。
*
「お久しぶりね、瑞奈ちゃん」
「あ、珠希さん、こんに、ち……」
瑞奈は珠希の姿を認めるなり硬直し、声も途切れてしまった。
黒目がちな両の眼と、口だけがぽかんと大きく開いていく。
珠希がやってきたのは、翌日の昼食時を過ぎた頃だった。
彼女と会うのは一週間ぶりくらいだろうか。
チャイムも鳴らさずノックもせず、合鍵を使って勝手に入り込んできた。
いきなりのことで驚いたのが半分、その懐かしくも頼もしい従兄妹の姿を見た途端、なんとも言えない安堵に包まれたことが半分で、力が抜けてしまった健吾はまともに挨拶もできなかった。
「大変だったでしょう。頑張ったね、健吾くん」などと珠希は言ってくれない。
ぽけっとしている健吾を一瞥するや、呆れたように「ふん」と鼻息をひとつ鳴らし、脇をすり抜けて瑞奈のいる部屋の前へ向かった。
健吾に対するのとは全く異なり、瑞奈に声をかけたときの珠希の顔は、微かな笑みを含んだ、優しくて穏やかな空気で満たされていた。
――そりゃあ、佐藤家の人間は嫌いって聞いてるけど……。
それなりに仲良くはなっていたつもりだった分、その態度の違いに、健吾はなんとなく落ち込んでしまった。
「そこで拗ねてるエロイトコに、何かされなかった?」
追い打ちをかけるようないつものセリフとともに、珠希は改めて健吾の方へ視線を向けた。久しぶりなので勘違いなのかもしれないが、その目つきはいつもより数段険しい気がした。
――あ、あれ? もしかして、怒ってる?
勘違いではないらしい。健吾と目が合った瞬間に、珠希の眉間に皺が刻まれた。
わけが分からず、かと言ってこのままじっと彼女の視線に晒されるのも辛いので、頭をぽりぽり掻きながら「あはは」と愛想笑いする。内心焦りながらも、思い当たる節がないか必死に記憶を探った。
「あっ」健吾の脳内に僅かながら閃くものがあった。
「も、もしかして、百発百中動画を送らなかったから、怒って――」
「ちがうわよ!」
「ひぃっ、ごめんなさい!」
狼狽する健吾の前で、珠希は深い溜め息をひとつ零した。
「落ち着きなさいよ、別に怒ってないわよ。何びびってんの」
「そ、そうなの? 僕はてっきり――」
「ただね、人が何度もチャイム鳴らしてるんだから、ちゃんと出なさいよね。ほら、見ての通り、私両手が塞がってるでしょう? 合鍵出すの大変だったんだから。それでちょっとムカついたの」
「え、チャイム? いつ鳴らしたの?」
「あなたねえ――」
珠希は健吾を睨みつけたが、直後に「あ」と声を漏らし、一瞬にしてその表情から険しさを消した。
「――そうか、そういうことね。そう言えば、そんなことが前にもあったわね。なら仕方ないわ」
珠希の眼前に裸で躍り出たことは健吾もよく覚えていた。それ以来「エロイトコ」と呼ばれるようになったのだから、忘れようがない。そして、その時は何も教えてくれなかったこともついでに思い出した。
「仕方ないっていうのは、どういうことなの?」
「それは、なんと言うか……あ、それよりも――」
珠希は視線を畳部屋に戻した。
「――瑞奈ちゃんの様子がおかしい気がするんだけど、最近はこんな感じなの?」
「え?」
そう言えば、先ほど珠希が「お久しぶり」と声をかけたのに、まともに返事もしていない。健吾も畳部屋を覗き込んでみた。
両目と口を大きく開けたまま、瑞奈は固まっていた。
「瑞奈ちゃん?」
健吾が声をかけても無反応だった。その視線は珠希に釘づけのまま微動だにしない。ぽかんと開いた口からは、今にもヨダレが垂れそうだ。
「瑞奈ちゃん、大丈夫? どうかした?」
今度は珠希が声をかけてみた。すると、瑞奈の体はびくっと振るえ、零れそうだったヨダレがズズっと音を立てながら口中に吸い込まれた。
「……た……」
「た?」
「たまき、しゃん……それ」
瑞奈がゆっくりと右手を持ち上げ、人差指を珠希の胸元に向ける。
そこには、白くて柔らかそうな、毛むくじゃらのものが珠希の両腕によって大事そうに抱えられていた。
「ああ、これは――」
「ね……」
「ね?」
「ねこ――――!」
珠希が抱き抱えている猫に向かってまっしぐらに、両腕を大きく広げてダイビングする瑞奈。
だが、畳から離れられないその体も腕も猫に届くことはなく、勢い余って外れた首が珠希の足元に転がるだけだった。
それを見た健吾の恐怖の悲鳴と、珠希の苦笑交じりの溜め息と、瑞奈の無念の泣き声が渦巻き、しばらくの間部屋の中は混沌としていた。
(つづく)
後で改稿するかもしれません。
また一ヶ月くらい間隔が空いてしまいました……
しかも、前後編の二分割の予定が三分割になりました。さらに今回は少々分量も多めですが、ある程度今後の展開のための調整はできたと思います。
脱線気味だった話も、なんとか引き戻しましたw
次回は後編です。どうかよろしくお願いいたします。