第十五話 初めての
目が覚めた。
深く暗い世界から、浮上したような感覚。
ひどく、全身がだるかった。
「……ぁ」
声が出ない。
腹と肩にじんわりと痛みを感じる。
どうやら、また無茶をしてしまったらしい。
瞼を開け、外の世界を見る。
ここは……イザベル達に貸し出された屋敷の部屋か。
視界に靄がかかっていて、思うように体が動かなかった。
「ア、レ、ク……」
無理やり絞り出した声は、ひどく掠れていた。
声帯を拡張し、こわばった筋肉を起動させる。
デスボイスなんか出してる場合じゃない。
さっさと正常に戻れ。
「――アレクは?」
声が出た。
一番聞きたかったことを、真っ先に口にする。
俺は全身に力を込め、布団から起き上がろうとした。
「アレクは、どうなったんだ……」
それだけが気がかりだった。
アレクにちゃんとした治療を施す前に、
無様にもぶっ倒れてしまったのだ。
もし、彼女にもしものことがあったら――
「……ぐっ」
全身に激痛が走る。
ミシミシと、身体の各所が悲鳴を上げた。
どうやらかなりの怪我を負っているらしい。
しかし、それすらも無視して身体を起こす。
その瞬間、後ろから肩を掴まれ、ベッドに沈められた。
「――こりゃ、誰が起きていいと言ったのじゃ」
涼しい声が、俺の耳朶を打った。
慌てて振り向く。
するとそこには、一人の少女の姿があった。
黄金に輝く長髪。
あどけなさの残る身体。
しかしその割に、生意気な顔。
辟易した様子で、アレクが俺に微笑んでいた。
「我輩が寝ておる間に、あの馬鹿を退けたらしいな。
まったく、無茶ばかりしおって」
全身に包帯を巻いているのだろう。
ローブから見える手足は、痛々しく処置がされていた。
一部の包帯には血が滲んでおり、その重傷度を物語っている。
だが、それでも。
怪我を負いながらも、生きていた。
生きていてくれた――
つぅ、っと涙がこぼれた。
あれだけ泣いた後だというのに。
涙が溢れて止まらない。
「なんじゃ、泣いておるのか?」
アレクは怪訝な顔で、呆れたように言った。
しかし、俺の反応がないのを見て、話を続けようとする。
「それはそうと。
あんな魔力貯蔵庫みたいな女に挑んで、死んだらどうするつもりじゃ。
本当に汝は――」
そこで――アレクの声が途切れる。
俺が彼女を抱きしめていたのだ。
「……む」
無意識だった。
気づいた時には、彼女を掻き抱いていた。
アレクは困ったような顔をする。
そんな彼女の肩に、俺は頬を押し当てた。
拒絶されてもいい。
蹴飛ばされてもいい。
ただひたすらに、アレクが生きているという実感を得たかった。
「……よかった」
温かい。
決して冷たくない。
拍動の音も、ローブ越しに聞こえた。
「……むぅ。勝手に抱きつくとは何事じゃ」
アレクはむず痒そうに身体をよじった。
しかし、俺は力を緩めることができない。
戦っていた時に、必死で抑えこんでいた感情。
吐露するだけで苦しい想いが、湧き上がってきたのだ。
「俺……さ。すげぇ怖かったんだ。
アレクが死んだら、どうしようって……」
彼女を失うことが怖かった。
その体から温もりが消えることが恐ろしかった。
喪失感を味わうことが、たまらなく嫌だった。
「一回……そのことを考えたら、震えが止まらなくなって――」
「情けないやつじゃの。この怖がりめ」
アレクは困ったように耳元で囁いてくる。
クスクス笑いながら、俺の髪を優しく撫でてきた。
「まさか、汝に助けられるとは思わなかったのじゃ。
我輩を守ってくれて――ありがとう」
その瞬間、なぜか急に胸の奥が暖かくなってきた。
報われた、という感情なんだろうか。
それは今までに経験したことのないものだった。
黙っていると、嗚咽が止まらなくなりそうだ。
必死でごまかそうとする。
「俺は……最初からお前の力になろうとしてたぞ」
「うむ、痛感したのじゃ。
足手まとい扱いをして悪かった。
汝は弱っちぃ上に危なっかしいが――頼りになる存在じゃ」
今まで、彼女にここまで認められたことはなかったように思う。
たとえそれがお世辞だとしても、たまらなく嬉しかった。
名残惜しいが、俺はゆっくりと身体を離した。
「……一つ、訊きたいことがあったんだ」
アレクは首を傾げる。
どうやら察しがつかないらしい。
「お前、なんで小銭なんか拾ったんだよ」
「…………」
アレクは押し黙った。
どうやら、あまり触れて欲しくないことらしいな。
だが、心を鬼にして言わねばならない。
アレクが危機に陥ったのは、恐らく小銭のせいなのだ。
「あの金、ひょっとして俺が王都であげたやつか?」
「そうじゃ。それがどうした?」
「どうして拾ったんだよ。
あの程度の金、失くしても問題なかっただろ」
銀貨一枚だったか。
子供の小遣いにしてはちょっと多いが、大人の給金としては安い部類だ。
大魔法師がそんな金に執着して、敗北の原因を作るなんて。
さすがに看過できない。
しかし、アレクは弁明するどころか反駁してきた。
「バカ者、大問題じゃ! 大事じゃなかったら拾うか!」
「……大事? お前からすると砂粒のような額だぞ」
そう言うと、アレクは射すくめるように告げてきた。
「――汝からもらったものを、無碍に扱いたくなかったのじゃ」
真っ直ぐな視線だ。
思わずたじろいでしまう。
「この想いを否定して……汝は我輩を責めるつもりか?」
少し拗ねたような、それでいて寂しそうな表情。
違う、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。
何だか罪悪感が湧いてきたので、釘を差しておくだけにする。
「悪かった。気にしないでくれ。
でも、二択になった時は迷わず、お前の安全を優先してくれよ」
とりあえず、この件についてはこのくらいにしておこう。
決してチキったわけではない。
ふと、落とした銀貨のことを思い出したのだろう。
アレクはシャンリーズへの怒りを再燃させる。
「あやつ、小銭を返さず逃げおったからな。
欲に目が眩んだ金の亡者めが……許さぬ、絶対に許さぬのじゃ」
すごい怒ってるよ。
体力が回復したら、今からでもシャンリーズの首を獲りに行きそうな勢いだ。
全快してないのに闘志を募らせても困る。
俺は慌ててなだめた。
「落ち着け、もう一枚やるからさ」
「……むぅ、いいのか?」
「いいよ。でも、ローブに突っ込んでたら、
また戦闘中に落ちるかもしれないから――」
俺は懐からヒモを取り出した。
止血帯を作る時に余ったものだ。
魔力をチビチビ込めていたので、容易に切れることはないだろう。
銀貨の穴に紐を通し、ネックレス状にする。
「ほら、今度は落とすなよ」
アレクの首にそっとかけてやる。
彼女は素直に首を前に出してきた。
「……仕方ない。もらってやるのじゃ」
歯切れ悪く呟いているが、まんざらでもなさそうだ。
彼女は指先で銀貨を弾き、ローブの襟の中に仕舞いこむ。
そして「うむ」と呟き、俺に含みのある微笑みを向けてきた。
「不本意じゃが、お返しをせねばならんな」
「いや、別にいいって」
そんなに大層なことはしてないしな。
しかし、アレクはローブの中をおもむろにまさぐる。
「脳漿をぶちまける瞬間のゴブリアを、
緑の体液まで忠実に再現した模型がじゃな……」
「あー、いい。もういい。
この世の闇を引きずり出すな。気持ちだけで十分だ」
そんな趣味の悪いものを持ち歩いているのか。
頼むから人前で出すんじゃないぞ。
気の弱い人は失神してしまう。特に俺がな。
「冗談じゃ。最初から贈るものは決まっておる」
アレクは俺に向き直り、神妙な表情で言ってきた。
「――レジスよ、目を瞑るのじゃ」
「え……」
これは、まさか。
"そういうこと"であると思っていいのだろうか。
彼女いない歴が恐ろしいことになっている俺とて、そこまで鈍感ではない。
かつてこういった場に、何度も出くわしたことがあるからな。電脳内で。
アレクが何をしようとしているのか。
俺に目を瞑らせて何をするつもりなのか。
容易に察することができた。
俺は素直に目を閉じる。
すると、アレクは意を決したように呟いた。
「我輩を助け、妄執鬼を退けた汝には、我輩から――」
来る。これは来る。
間違いない。
この胸のときめきが、何よりの証拠――
「――二つほど説教をくれてやるのじゃ」
嗚呼、勘違い。
アレクの一言で撃沈した。
俺は布団の上に崩れ落ちる。
しかし、アレクが俺の服を掴み、倒れることを許さない。
「ちゃんと聞くのじゃ。
その心構えができたら目を開けるが良い」
「……ア、ハイ」
放心状態での返事。
もはや言葉など耳に入っていなかった。
なんだよ、期待した俺がバカみたいじゃないか。
してやられた。
何で目を瞑らせたのかと思ったら、精神統一のためかよ。
なんか急に全てが虚しくなってきたな。
どんよりとした気分のまま、俺は目を開けた。
すると、アレクは畳み掛けるように諭してくる。
「シャンリーズには挑むなと忠告したはずじゃ。
なぜ言うことを聞かなかった?」
傷心してるところに、えげつない追及。
冗談で流そうかと思ったが、アレクの目がマジだからできそうにない。
返答を誤ったら、普通に蹴りが飛んできそうだ。
警戒しつつ、俺は弁明しようとする。
「いや……なんていうか、身体が先にだな――」
「命あっての物種じゃ。
感情に流されて敵の戦力を見失うでない。
次は死ぬかもしれんのじゃぞ?」
「……はい、仰るとおりです」
言葉を潰され、俺はひたすらに頷いた。
ちょっと反論できる空気じゃないな。
しかし、コインを優先して槍の餌食になったお前に言われてもなぁ。
指摘しようと思ったが、波風は立てない主義だ。
ここは獅子舞のごとく頭を上下してやり過ごすとしよう。
「――そして、もう一つ」
まだあったよ。
俺の精神を追い込んでどうするつもりだ。
辟易しながら待っていると、アレクはとんでもないことを言い出した。
「汝はセフィを……セフィーナを見殺しにするつもりか?」
「……なッ!?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
しかし、この至近距離で聞き取りを誤るはずもない。
「何言い出すんだよ、いきなり」
その一言は、さすがに見逃せない。
俺の反発を読んでいたのか、アレクは続けざまに言ってきた。
「竜神の匙を出してみよ」
有無をいわさぬ厳しい視線。
勢いに負け、俺はしぶしぶ懐から取り出して渡す。
アレクは火魔法で種火を灯し、匙の柄を照らした。
「ここに何が見える?」
「……これは、ヒビか」
よく見ると、匙に横一文字のヒビが入っている。
素手で折り曲げようとしても、びくともしない硬さなのに。
アレクは種火を消し、指を立てて説明してくる。
「匙は万能ではない。
元々が繊細なものであるし、素材が薬剤から遠ければ遠いほど負担がかかる。
それに、過剰な魔力を注ぐと、あっという間に耐久がすり減ってしまうのじゃ」
そこで、俺は思い出す。
そういえば、アルギゴスダケや薬草を、ほぼ素材のまま匙に乗せたんだっけ。
更に、これでもかってくらい魔力を注ぎ込んだ。
なるほど、負担がかかるのも無理はない。
「さすがに一度や二度では折れぬようにしておるぞ。
しかし、此度の魔力注入による損傷は、あまりにも著しい」
貴重な宝をかなりぞんざいに扱ってしまったということか。
でも……責められたくない。
あの時は、他に選択肢がなかったんだ。
どのくらい魔力を注げば薬ができるかも分からない。
ただ、アレクを蘇生させる薬を作ろうとする一心だったのだ。
「ただ、汝の助けがなければ、我輩は間違いなく絶命していた。
ゆえに怒りはせぬ。むしろ感謝の気持でいっぱいじゃ」
その辺は汲みとってくれていたらしい。
ただ、アレクは追及の手を緩めない。
「しかし、一歩間違えばこの匙は壊れておった。
汝は我輩を助ける代わり、セフィを救うことができなくなっていたのじゃぞ?」
「…………」
確かに、そうなのかもしれない。
結果論にすぎないが、可能性の話であれば反論はできない。
極限状態だったからといって、それは言い訳にならないのだ。
しかし俺は最初から、匙をセフィーナだけでなく、
アレクやイザベルに使う可能性も考えていた。
もし彼女たちに何かあれば、意地でも治すつもりでいた。
「本来であれば、汝は我輩に匙を使うべきではなかった。
万全の状態で匙を使うため、見殺しにすべきだったのじゃ」
「……そんなことを、言うなよ」
目的を遂行するのなら、確かにそうすべきだったのかもしれない。
不安材料は消しておくべきなのだから。
でも……割り切れねえよ。
俺はただ、両方助けたいと思っただけだ。
それがいけないことなのかよ。
どちらかを切り捨てるなんてことは、俺にはできないんだ。
「我輩の命を、この世に一人しかおらぬ実母と同等に扱う。
そんな真似をして、我輩が喜ぶと思っておるのか? 嬉しいと思っておるのか?」
「それを言うなら――ッ」
お前だって、この世に一人しかいない、大切な存在だろうが――!
そう言おうと思ったが、アレクが鋭い眼光を飛ばしてきた。
「言い訳はいらぬ。
罪には罰じゃ。歯を食いしばれ」
魔力の噴出。
アレクの刺すような魔素を感じ、身体が萎縮する。
思わず目を閉じてしまう。
すると次の瞬間――
唇に、柔らかい熱を感じた。
「――――ッ!」
不意打ちだった。
鼻孔をくすぐる甘い匂い。
驚愕で目を開ける。
そして、状況を把握した。
アレクが俺の頬に手を添え、唇を重ね合わせていた。
頭の中が沸騰し、言葉が出てこない。
甘美な感触がダイレクトに伝わり、脳髄に突き刺さる。
「……ふぅ」
アレクはゆっくりと唇を離し、舌をチロリとのぞかせた。
そして、慈しむような優しい声で先ほどの問いに自答する。
「我輩の身を案じてくれたのじゃぞ?
喜ぶに決まっておるじゃろう。
嬉しいに――決まっておるじゃろうが」
そう言い切ってきた。
羞恥心のためか、語尾あたりは少し声が裏返っていたように思う。
しばらく呆けていた俺だが……急に抑えきれぬ感情がこみ上げてきた。
「本ッ当に、お前ってやつは……ッ」
フェイントを掛けておいて、最後の最後にこれかよ。
一瞬殴打されるのかと思って、死を覚悟したというのに。
気恥ずかしさで、身体の芯が熱くなってきた。
「これが、我輩からのお返しじゃ。
迷惑だったかもしれぬが……まあ、そこは諦めるのじゃ」
いや、全然迷惑なんてことはないんだけど。
アレクは陶酔したような様子で、自分の胸に手を当てた。
「まあ、我輩は初めてじゃったから、
今心臓がすごいことになっておるわけじゃが」
「……は?」
思わず呆けた声が出た。
初めて……と申したか、この500年モノの幼女は。
誰か嘘発見器を持ってこい。
「男に興味なぞなかったわけじゃし。
それ以上に、大陸巡りと魔法研究で忙しかったのじゃ」
お前のライフワークだもんな。
そりゃあ遊ぶ時間もないわけだ。
「迅速を尊ぶ我輩とて、そんな暇は……って、何じゃその眼は」
「イイエ、ナンデモ」
いかん、俺の疑念の眼に気づいたようだ。
とりあえず、カタコトな一言で話を済ませた。
しかし、キスすらしたことがないというのは意外だったな。
アレクは一つ咳払いをして、竜神の匙を返してきた。
「まあ良い。今は我輩よりも匙の話じゃ。
この程度のヒビであれば、竜神の匙も問題なく稼働するじゃろう。
しかし、魔法具を取り扱う時は、細心の注意を払うんじゃぞ」
「了解」
返却の際、少しだけ手が触れた。
すると、俺の脳裏に柔らかい感触と甘い匂いが蘇ってきた。
思わず赤面してしまい、思い切り顔を反対方向に向ける。
「何をしとるんじゃ汝は――、……ッ」
アレクも途中で何かを思い出したのか、急に無言になる。
彼女は指先がカタカタと震えていて、耳まで赤くなっていた。
俺と一緒だね。
完全に羞恥心に呑まれてやがる。
互いに目を合わせられず、非常にもどかしい。
何かある度、さっきのことを思い出してしまいそうだ。
まったく……俺ごと巻き込んで自滅するなんて。
本当――
「迷惑かけるのは、お互い様だな」
思わず苦笑してしまう。
なにかやり遂げる度に説教合戦だからな。
ここまで両者に非があって、訓戒の応酬になるのも珍しい。
そういえば。
俺が気絶した後、他のエルフ達はいったいどうなったのだろうか。
ちょっと外に出て、誰かに確認してみるか。
そう思って腰を上げた瞬間――戸口に人影があることに気づいた。
どうやら先程からそこにいたらしい。
その人物は、こちらを見て硬直していた。
俺は呆けた声を出す。
「……あ」
イザベルが放心したような顔で、そこに立っていた。
◆◆◆
非常にマズい気がする。
競争心の激しいアレクとイザベルは、よく火花を散らしていた。
そして、優劣を決めるために、俺を標的にして競うこともあった。
むしろ、それがメインだったな。
そのおかげで、どれだけの物品に被害が出たことか。
そして、俺が懸念していることは――
「…………」
イザベルは、先程のアレクの行動を見ていた可能性が高い。
一言で言えば、火事現場にガソリンを投下したようなものだ。
戦争勃発を避けるため、俺は慌てて声を掛けた。
「おぉ、イザベル! 無事だったんだな。
俺も見ての通り、不死鳥の如き復活だ。
誰も死ななくてよかったよ、うん。本当に」
しかし、イザベルは無言を貫く。
怖いから何か反応して欲しいんだけど。
と、ここで俺の願いが神に届いたのか。
イザベルは無言で身体を少し沈めた。
……身体を、沈める?
それはもしや、抜剣する体勢じゃないのだろうか。
危惧した瞬間、イザベルが神速のスタートを切った。
嫌な予感が的中。
怒涛の勢いでこちらに迫ってくる。
そしてもちろん、狙いは好敵手であるアレク――
ではなかった。
なぜか俺に向かって、イザベルが飛びついてきた。
「よかったぁー!」
そう言いながら、全力で抱きしめてくる。
傷にこすれて痛みが走るが、今はそれどころではない。
イザベルは俺を力の限り抱擁して、安堵したように告げてきた。
「本当に、心配してたんだよ……?
お腹にすごい大きな穴が開いてたんだから」
それは、俺が先ほどアレクに向けたのと同じ感情。
――生きていてくれて、良かった。
他愛もないが、誰かを心から思っていないと湧き上がってこない想いだ。
「……レジスを置いて一回峡谷に戻った時、すごく辛かったんだ。
レジスに何かあったらどうしようって……。でも、本当に、良かった……」
涙を目の端に浮かべ、優しく頬をすり寄せてくる。
俺はイザベルの背中を擦り、お礼を言った。
「あの時、エルフを呼びに行ってくれてありがとう。
イザベルも無事で――本当に良かった」
あの時、イザベルに峡谷へ戻ってもらった理由は、
もちろん救援を呼びに行ってもらうため。
しかしそれ以上に、イザベルの危険度を少しでも下げたかったのだ。
俺にとって、彼女も大切な存在だ。
死地に単独で向かわせたくなかった。
結果、代わりに俺が見事にボコボコにされ、
イザベルを含む救援に助けられることになったわけだけど。
まぁ、終わりよければ何とやらだ。
「……これ以上、無茶しちゃだめだからね。
レジスは目を離すと、すぐに私達を置いて危ない所に行こうとしちゃうんだから」
否定できないのが悲しいな。
俺も死にたくはないので、よく気をつけることにしよう。
「分かった。心配してくれてありがとな」
そう言うと、イザベルはコクリと頷いた。
安心した、というような表情だ。
いやはや、俺も別の意味で安堵したよ。
ここまで大人しいということは、さっきの一件は見ていなかったんだな。
俺は胸を撫で下ろす。
するとここで一転。
イザベルがアレクに冷たい視線を向けた。
「さっきのは――見なかったことにしてあげるよ」
見ていたようです。
緊張感が急上昇。
それに対して、アレクが煽るようにして言い返す。
「なんじゃ、負け惜しみか? こういうのは先や後など関係あるまい」
なんでそんなに自信に満ち溢れてるんだよ。
しかし、どこか譲歩するような物言いだった。
その言葉に、イザベルも賛同して頷く。
「そ、そうだよね。
レジスもキスくらい何回も経験してるだろうし……」
苦笑しながら、さも当然であるかのように言ってくる。
俺は申し訳なさげに呟いた。
「いや……すまんが、初めてだった」
暗黒の前世を過ごしてきた俺だぞ。
生まれてからもずっと修行と勉強ばっかりだったしな。
どこに色恋沙汰に興じる暇があったというのか。
いや、ない。
反語を脳内で念じつつ、イザベルの挙動を見た。
彼女は引きつった笑顔のまま、すっと手を下ろす。
そしてブロードソードの鞘を掴み、もう片方の手で――
「無言で剣を抜こうとするな、イザベル!」
「……アレクサンディア、ちょっと表で私と話をしようか」
底冷えのする声。
俺の制止の声も届かない。
イザベルは今にも剣を抜いて斬りかかりそうだ。
まさにご乱心。その様子を見て、アレクが仰々しく言ってきた。
「レジス、我輩を守るのじゃ! 約束したじゃろ!」
そう言って、俺の背中に隠れようとする。
いや、確かに守るとは言ったけどさ。
こんな状況の時に、しかも俺を盾にする形で約束を遂行させようというのか。
アレクの所業を見て、イザベルが冷や汗を流す。
「こ、こら。レジスの後ろに隠れるのは卑怯だよ!」
「イザベルよ、我輩は怪我人じゃぞ?
弱者に対して何じゃその態度は。恥を知れ」
アレクは胸を張り、堂々たる態度で主張する。
ずいぶんとふてぶてしい怪我人だな。
しかし、そんな彼女を見てイザベルが呟く。
「ほぼ完治してるくせに……」
そういえば、アレクの傷の治りは異常に早いんだったな。
俺の背中に回る時の動きは、普通にいつも通りのものだった。
傷がまだ残ってるだけで、かなり回復しているということか。
「イライラしすぎじゃ、鬱陶しい。
たかが接吻で、なぜそこまで騒いでおるのじゃ」
迫り来るイザベルに、アレクは面倒臭そうに応答する。
と、ここで――アレクが顎に手をやった。
さも名探偵であるかのようなオーラを放つ。
「……む、待てよ?」
彼女はピンときたような表情で告げる。
すると、イザベルが急に赤面した。
俺の方をチラチラと見て、頬を赤く染めている。
アレクが何を言おうとしているか、察しがついたのかもしれない。
もったいぶらなくても、俺でも分かる話だしな。
いちいち推理するまでもない。
なぜイザベルは、俺とアレクの一連の行為を見て、不機嫌になったのか。
なぜ剣を抜いて、闘争を起こしそうな程に怒っていたのか。
ニヒルな笑みを浮かべる大陸の四賢。
アレクのたどり着いた結論は――
「――もしや汝、生理か?」
「私の怒りが限界を超えたぁあああああああああああああああッ!」
イザベルは剣を抜き放ち、アレクに斬りかかったのだった。
次話→4/18
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