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第二話 魔の渓流下り

 



 少し離れた場所で、俺は古着に着替えた。

 既に他人が着たものなんだろうけど。

 別に気にすることもない。


 洗ってあるのなら何だって構わん。

 ただし、おっさんのお古はノーセンキューだ。

 まあ、峡谷でそんな未確認生物は見てないし。

 普通にエルフの誰かの古着だろう。


 今の時間帯は温かいので、パンツ一丁でも寒くない。

 しばらく待機した後、俺はアレク達と合流した。


「遅いのじゃ。そんなに時間はかからんじゃろう」

「着替え中に鉢合わせないように、待ってくれてたんじゃないかな」

「その通りだイザベル」


 俺の返答に、アレクは『知っておるわ』とそっぽを向いた。

 何だその態度は。

 俺は浴場で起きた悲劇を繰り返したくないんだ。

 ジャイアントスイングで浴槽に飛び込むのは懲り懲りだからな。


「……ほぉ」


 二人の姿を見て、無意識に声が出た。

 アレクは競泳水着に似たものを着用していた。

 スパッツ生地みたいに伸縮性があるみたいだが……どうやって作ったんだそれ。

 注視していると、アレクと目が合った。


「何を見ておる」

「いや、素材が気になってな」

「これか? これは海王虎という魔獣の皮を加工したものじゃ」


 海王虎ねぇ。

 何だか知らんが、強そうな名前の魔物だな。

 自分用に制作した特注というわけか。


 見事にアレクの身体にフィットしている。

 スピード重視のデザインに見えるな。

 イザベルは俺の前に来ると、はにかみながら呟いた。


「私のは普通のだけど……似合ってるかな」

「あ、あぁ……そりゃあもう」


 目が釘付けになるくらいにはな。

 ちょっと緊張で言葉が出てこない。

 前世では女性の水着姿なんてほとんど見たことなかったからな。

 プールに行くとカップルばかりで心が荒んでたし。

 俺には少しシゲキが強すぎた。


 しかし、本当によく似合っている。

 イザベルは上下に分かれた水着を着ていた。

 セパレート、って言うんだっけ。


 ビキニよりは露出部分が少ない。

 しかし、隠しているからこそ漂う魅力というものがある。

 パンツは見せる派ではなく見えてしまう派なのだ。

 消極的な方がグッと来ることも多い。

 イザベルの格好に頷いていると、アレクが尋常でない眼で睨んできた。


「ジロジロ見過ぎじゃ。遊ぶわけではないのじゃぞ」

「私は別に構わないけどね」


 イザベルは苦笑する。

 遊泳中に筋肉がつったら洒落にならないので、準備体操を入念に行った。

 ひと通り準備が済んだ所で、アレクが切り出した。


「さて、早速泳ぐのじゃー」


 そう言って、アレクは川の中央に勢い良く飛び込んだ。

 水しぶきが盛大に上がる。

 イザベルも足先で水温を確認し、川に入っていった。


 身体を慣らすため、二人は水中でバシャバシャと軽く泳ぎ始めた。

 俺もゆっくりと入水し、クロールの勘を取り戻そうとした。

 それにしても、アレクとイザベルは泳ぎが上手いな。


 美しい景観に、二人の容姿が良く映えている。

 無邪気に水辺で泳ぐ乙女たち。

 まるで聖地を見ているかのようだ。



 ――はて、ここは天国ではなかろうか。



「ではこれより――下流への遠泳を行うのじゃ。

 激流の中を泳ぎ続けるが、くれぐれも死ぬでないぞ」



 地獄だった。



 天国や楽園なんてどこにもなかった。

 俺が反駁しようとした直前。

 イザベルがアレクに確認を行った。


「休憩地点はいるかな?」

「いらんじゃろ」

「だよね」


 俺の与り知らない所で、淡々と難易度が上がっていく……!

 こっちはプール往復もままならないってのに。

 渓流下りなんかやったら、確実に川の藻屑だ。


「ちょ……ちょっと待て。

 俺そんなに泳げないぞ。絶対途中で溺れるって!」

「実践で訓練しないと覚えんじゃろ。意地で何とかするのじゃ」


 意地でどうにかなるなら、海難事故なんざ起きねえよ。

 普通、川は下流に行くほど流れが穏やかになる。

 しかし、峡谷の地形は特殊極まりない。


 小川が何本も入り乱れ、不規則な水流をしているのだ。

 ゆえにセオリーは通じず、むしろ下流に近づくほど流れが速くなる。

 さすがは天然の迷宮。

 旅人だけじゃなくカナヅチまで餌食にするつもりか。


 俺が不安を露わにすると、二人は恭しくなだめてきた。


「大丈夫だよ。一緒に泳ぎながら、コツを教えてあげるから」

「うむ。大船に乗った気持ちで望むが良い」


 どう考えても泥舟だろうよ。

 しかし、ここまで来ては引き下がれない。

 辞めると言い出したら無用なトラブルが発生しそうだ。


 流れのゆっくりな所を見つけて、地道に下って行くか。

 そう思い立った瞬間、アレクがとんでもないことを言い出した。


「しかし……ただ泳ぐのも芸がないのぉ。何か賭けるか」

「じゃあ――1着の人は、

 後にゴールした人になんでも命令できる、っていうのはどうかな」

「却下だ。俺の勝てる未来が見えない」


 今度ばかりは却下させてもらおう。

 ただでさえゴールできるか怪しいっていうのに。

 タイムアタックまで付与されたら敵わん。


「なら、レジスは除くとして。私とアレクサンディアで勝負する?」

「ほー、我輩に挑む気か?

 よかろう、泳ぐのは恐らく300年ぶりじゃが。汝に遅れをとる我輩ではないわ」


 300年ぶりって。

 ブランクってレベルじゃないだろ。

 泳ぎ方なんて完全に忘れてるんじゃないかね。

 あの自信満々な面を見るに、勝算はあるんだろうけど。


「お前ら……競争に意識が向いてるっぽいけど。

 俺に泳ぎを教えるんじゃなかったのか」

「無論。汝に教えながら競うのじゃ。

 どこかの小娘とは違うからの。

 我輩の力を持ってすれば余裕じゃ余裕」

「私もレジスへの指南を優先するよ。

 自分のことしか考えてない自称大魔法師と違ってね」


 おお……感じる。

 二人がどす黒い敵意をぶつけあっているのを感じる。

 水と油とはこのことか。


 まあ、俺に災厄が回ってこないなら勝手にしてくれ。

 潰し合いでも何でもするがいい。

 ただ、一つだけ忠告しておかねばならない。


「勝負するのはいいけど。周りに迷惑をかけるなよ」

「無論。ただ泳ぐだけじゃ」

「そうそう。単なる競争なんだから。心配し過ぎだよ」


 どれだけ心配しても足りないから言ってるんだよ。

 お前らの争いで、今までにどれだけの被害が出たと思ってる。


「それじゃあ、始めよっか」

「到達点は下流にある大岩じゃ。

 ひときわ巨大じゃから、すぐに分かろう」


 そう言って、二人はスタート位置につく。

 イザベルが大きく息を吸い込み、遠泳の始まりを告げた。


「では、始め――ッ!」


 言うやいなや、イザベルは華麗なスタートを決めた。

 ドルフィンキックで初速を出し、クロールに切り替えて加速していく。

 彼女はあっという間にカーブで姿を消してしまう。


「ちょ……早すぎ!」


 こっちは息継ぎができるかも怪しいんだぞ。

 流れのゆっくりな川岸を着実に進んでいく。

 チャプチャプと、虚しい水音がこだました。

 ……これ、ゴールする頃には日が暮れるんじゃないだろうか。


 アレクはイザベルを猛追しようとしていた。

 しかし、鈍行極まりない俺を一瞥し、呆れた顔をする。


「汝よ……遅いにしても限度があるじゃろう」


 余計なお世話だ。

 お前から見たら牛歩にしか見えんだろうけどな。

 俺はこれ以上なく必死に泳いでいるのだ。


「はーあ……仕方ない奴じゃのぉ」


 そう言って、アレクはこちらへやって来た。

 俺の腕や脚を掴み、適正な型を叩き込もうとする。


「手足を無駄に動かし過ぎじゃ。

 もう少し肘を折り曲げてじゃな……違う違う違う!

 方向が逆じゃ。ふざけておるのか汝は!」


 とんでもない勢いで罵倒されたんだけど。

 大真面目にやってるのに、説教を喰らうのは辛い。

 しかし、俺の泳ぎ方には変な癖が付いていたらしい。

 アレクの言ったとおりに矯正すると、一気に泳ぎやすくなった。

 だが、アレクの指導は未だ終わらない。


「全身の動きも固い。こうじゃ、こう!」

「あだだだだッ! 肩がッ、肩がもげる!」


 型の悪癖を力で治そうとしてやがる。

 一瞬、肩と腕の関節がすごい方向に曲がったぞ。

 ひと通り目につく所を直し、アレクは俺の背をポンと叩いた。


「ほれ、どうじゃ?」

「おお! 速度が出るようになった。安定性も段違いだ」

「我輩は力が発揮できるようにしてやっただけじゃぞ。

 泳ぎの基礎はできておったようじゃからな」


 なんと、前世での水泳授業は無駄ではなかったのか。

 体育教師が「それじゃ、二人組になって練習な」と言い出した時には殺意が湧いたけど。

 今では苦い記憶も糧であったと思える。

 ボッチだった過去の黒歴史が消えるわけじゃないけどな。


「ふふん、我輩を見直したか?」

「助かった……ありがとう」

「うむ。その言葉が聞きたかったのじゃ」


 アレクは嬉しそうに微笑む。

 その上、なぜか知らんが俺の髪をワシャワシャと撫でてきた。

 よくもまあ、両手を遊ばせながら泳げるものだ。

 しばらく俺の泳ぎを見ていたアレクだったが――


「……む」


 ふと、何かを思い出したようだ。

 一気に加速して、俺の前に出る。


「その調子でしばらく泳いでおれ。泳ぎは慣れが重要じゃぞ」

「了解ー」


 俺が片手を上げて応えると、アレクは大きく頷いた。

 そして見たこともない泳法で猛進し始める。

 遥か前方を行くイザベルを、追いかけているのだ。


「待つのじゃアバズレ! 貴様に一着は渡さぬ!」


 なにあれ、ピラニアを思わせる獰猛さだよ。

 あんなのが後ろから迫ってきたら、失神する自信がある。

 しかし、前を行くイザベルは表情一つ変えない。

 急流を上手く利用し、逃げ切ろうと速度を早める。


 しかし、アレクの追い上げが半端ではない。

 あっという間に距離を縮めてしまった。


「ククク、外側がガラ空きじゃ!」


 川の中央を進むイザベルを、迂回して抜き去ろうとする。

 しかしその時――イザベルが動いた。


「させるか! ――『スプラッシュウォール』!」


 彼女は一瞬泳ぐのを止め、アレクの進行方向に魔法を打ち出した。

 魔力が水面に反響し、爆発的な高さまで水が舞い上がる。

 さながら水圧の壁だ。アレクは慌ててイザベルの後ろに避難する。


「なっ、卑劣じゃぞ! 妨害じゃろそれは!」

「妨害? 何のことかな。私が加速するために水の流れを変えただけだよ」


 さっき「させるか」って言ってませんでしたかイザベル先生。

 その反応に、アレクもカチンと来た様子だ。

 彼女はおもむろに川の縁に近づいていく。


「汝がそんなことをするなら――ッ!」


 アレクは川岸にある岩を掴んだ。

 そして持ち前の馬鹿力で持ち上げ、思い切り投擲する。


「うおりゃああああああああああ!」


 投げとばされた大岩が、イザベルの進む先へ落下する。

 着水した瞬間、爆発的な衝撃が広がった。

 水柱が立ち上り、イザベルの進路が塞がれた。

 彼女は慌てて横に逸れながら、アレクを非難する。


「い、岩っ!? 物理攻撃は反則だ!」

「くく、負け犬の遠吠えは耳に心地よいのぉ!」


 そう言い捨て、アレクは水柱に突っ込む。

 激しい抵抗を受けながらも、イザベルを抜き去った。

 なんという仁義なき戦い。

 見ていて悲しくなってくる。


「大丈夫かイザベル」


 妨害工作をやっている内に、イザベルに追いついた。

 心配の声をかけるが、彼女は悔しそうな顔をしている。

 おぉ……怖い。完全にキレてるな。

 今にもアレクに風魔法をぶち当てそうな勢いだ。


 しかし、俺の声掛けに気づいたのだろう。

 イザベルは我に返ったように首を横に振った。


「このくらい、何でもないよ。心配してくれてありがとう」


 深呼吸して頭を冷やしている。

 ふと、彼女はこちらを見てきた。

 流れの遅い川縁を行く俺を、まじまじと観察してくる。


「……レジス。息継ぎがちょっと変かも」

「そ、そうか?」


 それは俺の体力が尽きかけてるからじゃないだろうか。

 川の流れに負けて、さっきから溺れかけてるんだが。

 イザベルはすぅーっと俺に近づいてきた。

 俺の手を取って、呼吸法の指南をしてくる。


「胸辺りの水を掻くタイミングで顔を横にして。私が合図するから」


 言われた通りにやってみる。

 心なしか、多く空気を取り入れられた気がした。

 しかし、その実感も束の間。

 誤って大量の水を吸い込んでしまう。


「げぶふぉあッ!」

「れ、レジス……!?」


 水を呼吸器官にダイレクトデリバリーしてしまった。

 思い切り咳き込み、体勢を崩しかける。

 イザベルがフォローしてくれたので、事なきを得た。


 危ないところだった。

 気を取り直して、もう一度息を吸う。


「もっと勢い良く。

 顔周辺の水を飛ばさないと、吸った時に飲んじゃうよ」


 そうだったのか。

 妙に口の中に水が入ると思ったよ。

 俺が長距離を泳げないのは、ここに大きな原因があったのかもしれない。


「失敗を恐れずに練習だよ。人工呼吸は任せて」

「溺れること前提かよ」


 この歳で鉄砲魚にはなりたくないぞ。

 何歳になっても御免被りたいけど。

 しばらく渓流下りをする内に、呼吸法がサマになってきた。


「うん、息継ぎは完璧。これで溺れることもなさそうだね」

「そりゃよかった」


 誤飲する回数も極端に減ったし。

 いよいよ完泳が見えてきたな。


 ただし、今の状態でも川の中央は泳ぎたくない。

 確実に端の方を進んでいこう。

 イザベルは俺の泳ぎを入念にチェックしている。


「泳ぎの型は……ほぼできあがってるね。私が教えたかったなぁ」


 非常に残念そうな表情をしている。

 しかし、まだ若干の改善の余地はあったようで。

 無駄な動きを一つずつ潰していった。

 ひと通り点検した後、イザベルは満足気に頷いた。


「これで、途中で力尽きることはないと思うよ。

 このまま下流に向かってね」

「イザベルは?」


 何が起きるとも分からないし。

 一緒に泳いでくれるとありがたいのだが。


 しかし、その時に気づいた。

 イザベルの笑顔が、凄まじい邪気を孕んでいることに。

 彼女は俺の問いに対して、とても優しい口調で答えた。


「調子に乗りすぎた老害に、お灸を据えてくるよ」


 目がマジだった。

 宣告するやいなや、イザベルは急激に加速した。

 激流や難所を軽々と突破し、前を行くライバルを追いかける。


 障害物は風魔法で吹き飛ばすという徹底の仕方だ。

 そうこうしている内に、イザベルはあっという間にアレクを捉えてしまう。


「待て、アレクサンディア!」

「む……あの差を詰めてきたか。少し手加減しすぎたかの」


 後方に迫るイザベルを見て、アレクが冷や汗を流す。

 しかし身体能力ではアレクが圧倒的。

 更なるスピードアップを見せ、嘲るように高笑いした。


「ククク、もうゴールは間近じゃ。

 この差を保つ限り、我輩の勝利は変わらぬ!

 やはりエルフの頂点は我輩のようじゃな!」


 アレクは類を見ないドヤ顔で振り向いた。

 しかし、そこにイザベルはいない。

 きょとんとした顔で、アレクは首をひねった。


「む……?」

「――こっちだ!」


 大声がこだました。

 アレクの後ろを泳いでいたはずのイザベル。

 しかし現在、彼女は本流から逸れた支流を泳いでいる。


 大きく湾曲する本流と違い、あの小川は一直線にゴール手前へ合流するのだ。

 イザベルの奥の手に、アレクが驚嘆した声を上げる。


「なっ、近道じゃと!?」

「下流に行く道は限定してないからね。何も問題はないよ」

「そんなルート知らんぞ! 卑怯じゃ!」


 おお。

 ここに来て初めて、アレクが焦った顔を見せた。

 イザベルの逆転勝利もありえるか。

 そう思った瞬間――アレクが皮肉げに微笑んだ。


「――とでも言うと思ったか?」


 アレクは右手をイザベルの前方に向けてかざす。

 その刹那、莫大な魔力が彼女の手先に集中した。


「なっ、まさか――」


 イザベルが動揺する。

 俺も今、アレクの意図に気づいた。

 あいつ、イザベルの進むルートを潰すつもりだ。


「そちら側からの合流地点は非常に狭い!

 かような道を選んだ己を恨むがよい!

 クク……ククク、ハハハハハハハハハ!」


 何あの人、完全に悪役だよ。

 今どき見ないよ、あんな三段高笑い。

 俺の懸念をよそに、アレクが魔法を発動させる。


「――沈めッ、『ヴァリーストーム』!」


 アレクの魔力が暴風を引き寄せる。

 空気を切り裂く一陣の風が、大木を薙ぎ払った。

 衝撃に耐え切れず、木々が小川の方へ倒れる。


 完全に小川を塞いでしまった。

 あれでは通ることなどできまい。

 しかし、イザベルが重ねるように魔法を打ち出した。


「まだだッ! 『シャダートルネード』ッ!」


 次の瞬間。

 ベキャリ、という音が周囲の木から響いた。

 四方八方へ衝撃波を打ち出したのだ。


 イザベルの道を塞ぐ倒木が、木っ端微塵に砕け散る。

 さらに、勢いの余った風刃が周辺の植物を切り刻む。

 その光景を目の当たりにし、俺は思わず叫んでいた。


「やめろぉおおおお! 峡谷を荒らしたらジャックルの心労が計りしれん!」

「大丈夫! この辺りに神木は生えてないから!」

「栄養を吸い取る有害な樹木しかないからの。

 全て焼き払えば、小僧も泣いて喜ぶじゃろう!」


 焼き払ってどうする。

 それこそ引火して、神木とやらが火だるまだ。

 しかし、よくよく見てみると、切り刻まれたのは老木ばかり。

 認めたくはないが、選んで伐採しているらしい。


 俺の心配などつゆ知らず――レースは終盤を迎えていた。


 先頭を行くアレク。

 彼女にほぼ並んでいるイザベル。

 諦めて川縁をゆっくりと進む俺。

 この渓流下りの勝者が、今決まろうとしていた。


「ふん、よく食らいついてくるものじゃな」

「エルフとしても、武人としても……貴方に負けるつもりはない!」


 そう言って、イザベルは余力を振り絞った。

 ゴール手前のカーブを減速せずに突っ切って行く。

 その結果、今にもアレクを抜きそうになる。


「や、やるではないか! しかし――」


 アレクはまだ余力を残していた。

 彼女は全身に魔力を込めながら水を掻く。

 すると、一瞬でイザベルに匹敵する速度になった。

 両者は並んだまま、最後の直線を迎える。


「諦めよ! ここは年長者に譲るのじゃ!」

「うるさいっ! 都合のいい時だけ年功を主張するな!」


 もっともである。

 二人は互いに睨み合い、前なんて見ていない。

 ただ、雌雄を決する相手を見据えるのみ――


 もはや、人間に彼女たちの戦いは止められまい。

 いや、エルフでも不可能だろう。

 彼女たちを止められるものなんて――


「この勝負は、私が勝つ! 勝たないとダメなんだ!」

「どのような分野であれ、負けるわけにはいかぬ!」


 あの二人が、かつてあそこまで必死になったことがあるだろうか。

 俺に水泳を教える、という当初の目的を欠片も感じさせない躍動感だ。

 たった今、到達点が見えてきた。

 二人は最後の咆哮を上げる。


「はぁああああああああああああああ!」

「せりゃぁああああああああああああ!」





 次の瞬間。

 ズガン――という音が響いた。





 数秒の沈黙が流れる。

 しかし、いつになっても静寂は変わらない。


 勝者の歓喜も。

 あるいは敗者の悲嘆も。

 何も聞こえてこなかった。


 よく見れば――ゴールである大岩。

 その手前にある倒木に、二人分の凹みが見られた。

 ずいぶんと面白いポーズで直撃したみたいだな。


「壁画でも作るつもりか?」


 辟易しつつ、視線を手前に移した。

 倒木の辺りに、アレクとイザベルが沈んでいる。

 目を回し、川底で泡を吹いていた。


 どうやら互いを意識するあまり、倒木に頭から突っ込んでしまったらしい。

 二人仲良く沈むとは、有言実行の鑑だな。

 両者はすぐに水面に浮上してきたが、完全に伸びていた。

 その横をゆっくりと通過し、俺は大岩にタッチした。




「虚しいゴールだ……」




 突如として始まった、渓流下りレース。

 終わる頃には、水泳に確実な自信を持つことができた。

 そして鬼門にも思われた競争は――俺の優勝で幕を閉じたのだった。




 

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