第十話 キャットファイト
朝起きると、まだ太陽が登っていなかった。
怠け者めが。実に愚かしい。
身にしみる説法の一つでもくれてやろうか。
まあ、理不尽に怒っても仕方ない。
単に俺が早起きだっただけだし。
そう、体感的にはまだまだ惰眠を貪れそうなのだ。
しかし、こんな早朝から起床してしまったという事実。
その原因は分かっている。
――なんというか、寝汗が酷いのだ。
慣れない環境での睡眠に、身体が悲鳴を上げているのかもしれない。
あんまり短時間で寝床を変えたりすると、すぐこれだよ。
前世の腐敗した生活で衰えた環境適応能力が、未だに回復していないらしい。
困ったものだ。
「……にしても、ベトベトするな」
これは風呂場で少し汗を流した方がいいか。
二度寝をするにしても、配達員よろしく外を疾走するにしても、まずは湯浴みだ。
風呂にかなうリラックス場所はないと思ってるよ。本当に。
ゆっくり立ち上がり、ジャックルの部屋へ行く。
殴られるのは嫌なので、わざとらしく足音を立てて歩く。
その上で、中に入る前に声掛けチェックをした。
「ジャックル。いるか?」
「……レジスか。入れ」
よし、返事あり。
これで部屋に入っても驚くことはあるまい。
戸を開けて進入する。
ジャックルの顔を見る限り、どうやら既に起きていたらしい。
年を食うと眠りが浅くなるのは本当っぽいな。
俺もいつか、朝3時に起床してゲートボールを嗜むナイスミドルになってしまうのだろうか。
まあ……ないな。
せいぜい繁殖力の強いミントを、敵対勢力の庭に蒔く嫌がらせをする程度だろう。
やだ、なんて無法者な花咲かじいさん。
ミントとかバジルは本当に凄いからな。あいつら半端ない。
一回根付いたら、庭園を養分がなくなるまで荒らしまくる破壊者だから。
イタズラで庭にでも蒔かれた日には、除草剤を泣きながら買いに行くしかなくなる。
絶対に真似して欲しくない悪行を思い浮かべたところで、ジャックルに向き直った。
「おはよう。ちと頼みがあるんだけど」
「うむ、なんだ?」
「風呂場を貸してくれ。寝汗が酷くて敵わん」
「よかろう。部屋を出て右に行き、突き当たった左じゃ」
「了解ー」
しかし、風呂を沸かすのが面倒だな。
学院では魔素供給所から流れてくる魔力で色々出来たんだけど。
氷魔法を使ったクーラー的なのとか、火魔法を使ったコンロ的なのとか。
今思えば、学院の設備はかなり便利だったな。
もっとも、こんな辺境の極みのような場所に、そんな設備があるはずもなし。
自分でやるしかないか。
労力を考えると溜め息は免れんな。
肩をすくめて退出しようとすると、ジャックルが鋭い眼光を飛ばしてきた。
「待て、もしやセシルの湯浴みを覗くつもりではあるまいな」
「しねえよ。お前の頭にはヌカ味噌が詰まってるのか」
「貴様、やはり劣情を……」
「催してない。お前は俺をどんな目で見てるんだ」
ずいぶん誤解があるようだな。
あまり見くびらないで欲しい。
小さい子供に邪な感情なんて抱くかよ。
『カ、カカカカカ、可愛い……』みたいに、壊れたカラスと見紛う反応は示したりするけど。
せいぜい、警察の方に警戒される程度だ。
確かに幼女は可愛いよ? そこは認めよう。
庇護欲求を煽ってきて、愛でたくなる衝動にも駆られる。
だが俺の場合、それと他の欲求は全く違う。
幼女に欲情するのは、アングラな方の趣味を除けば、稀有なケースなんだよ。
紳士を見くびるなよ紳士を。
前世のPCの中身を見られたら、今までの発言が全部ひっくり返されそうだけどな。
ふっ、すでに消え去ったデータよ。
……ちょっと待て。
俺、鉄骨死する前にパソコンのデータ破壊してたっけ。
してないよな。うむ、確実にしてない。
なんということだ。
俺のコレクションが白日の下に晒された可能性もあるわけか。
見つけた人が軽く悲鳴をあげるような物だってあったんだぞ。
前世での俺の葬式は、間違いなく気まずい空気が流れたことだろうよ。
妹に見られてたらどうしよう。
具体的に言えば、『妹ぞっこんハイスクール!~お兄様と呼びなさい~』とかの素敵なゲームが、
フォルダの一斉捜索で発掘されたりしたらどうしよう。
いかん、良心の呵責が抑えきれなくて泣きたくなってきた。
もう逝くしかないじゃん。樹海目指さなきゃ。
もっとも、素敵な鉄骨さんに直撃された時点で、すでに死んでるんだけどな。
さすがに二度死ぬ勇気はないので、基本慎重な行動を心がけてはいるが。
まあ、そもそもの話。
あの両親が、俺のために葬式なんて開くはずもないだろうけど。
完全に家族内で排斥されてたし。
もちろんそれは、人として終わった生活をしていた俺に起因するものだし、
彼らの対応は至極真っ当なものであり、どこにも責める要因は見当たらない。
しかし、なんだ。
一方的に自分に責任があると、非常に情けなくてやるせないな。
やめだやめだ。どうして朝からこんなダウナーな思考をせにゃならんのだ。
鬱屈とした妄想から、現実に意識を切り替える。
俺のあらぬ性癖に対して、ジャックルがさらなる追及を加えてくる。
「ふん、残念だったな。セシルが湯を浴びるのは太陽が登ってからだ。調べが足りんぞ」
「調べるつもりもねえよ。てことは、今風呂は空いてるんだな?」
「うむ。普段この時間帯は誰も使用しておらぬ」
「ならいいや。それじゃ、入ってくる」
相槌代わりに手を上げて、そのまま廊下へ。
言われたままに移動し、浴場への仕切りを乗り越えた。
脱衣所らしき場所で服を脱ぐ。
それにしても、整理がなってないな。
何人分もの服が、無頓着に放置されている。
後でまとめて洗濯するから、この脱衣所に集めてるんだろうけど。
これじゃあ、どれが誰の服か分からなくなるだろうに。
数多の衣服がごちゃまぜって所に、エルフの隠されしズボラ具合があると感じるな。
益体もないことを考えつつ、浴場の戸を開け放つ。
すると、そこには見渡すような風呂が広がっていた。
「……おぉう」
あまりにも広いので、一瞬めまいがした。
屋敷が変な形をしてて、妙に外に張り出してるとは思ったけど。
浴場に力入れすぎだろ。しかもかなり浴槽が深いぞ。
深風呂ってやつか。
段が設置してあって、腰掛けて入るタイプだ。
泳げるくらいに深いので、子供がはしゃいで溺れることが多いのだそうな。
シャチでも放流した日には、阿鼻叫喚の地獄絵図が見れることだろう。
というか、ここまでの設備となると、風呂って言うよりむしろ――
「銭湯……だな」
思わず呟いてしまう。
意味もなく広いだけの屋敷だと思ってたんだが、こういう粋な設備も完備していたのか。
こんなに広い風呂に入るのは初めてだ。
香草が周りに置かれており、爽やかな匂いが気道に満ちる。
肺の中が浄化される気分だな。
綺麗な水が浴槽にたたえられていて、非常に気分がいい。
試しに手を突っ込んでみた。
しかしその瞬間、手先が大きく震えた。
すぐに手を引っこ抜く。
「水か……」
湯には程遠い温度だな。
どうやら、火魔法で勝手に沸かせということらしい。
力加減を間違えないようにしないとな。
浴場を爆破してしまっては目も当てられん。
その昔、とある地方の山村で、
『なんか最近、巷では打たせ湯とか立ち湯とか流行ってるらしいっすよ。
ウチも手を打たなきゃ、いい加減収支が火の車っすよ!
これに対抗するには、そう…………ニトロじゃね?』
とか言って、温泉を爆発させた旅館があると聞いたことがあってだな。
なぜ対抗策にニトロを持ちだそうとしたのか、未だに興味が尽きない。
案の定、翌日のニュースで三面を飾っていたのが印象深かったし。
『湯を沸かすのにニトロを使った。まさか爆発するとは思わなかった』
と、素晴らしい供述をしていたのも、今となっては懐かしいな。
もちろんこれは今考えたホラ話なんだけども。
まあ、下らない御託は置いといて。
とにかく風呂を沸かすのには、細心の注意を払う必要がある。
間違っても引火や爆発などはさせないよう、念には念に入れねばなるまい。
俺は手を浸したままで、魔力を指先に集める。
「優しき火炎は天蓋を包む。いざ行き渡れ、淡き灼炎――『メルトファイア』」
手から発せられた炎が、浴槽を傷めないように広がっていく。
実際の所、途中で少し加減を間違えたのだが、タイルらしき石材には焦げ目一つ付かない。
どうやら、火魔法耐性のある素材で湯船を作っているらしい。
これは面白いことがわかった。
そうとなれば、遠慮はいらんな。
火力を強め、一気に湯の温度を上げた。
「……よし、こんなもんか」
沸き上がった所で、身体を丁寧に洗っていく。
登山中に掻いた汗も一気に落とす。
薬草を混ぜた石鹸のようで、滑りがよく汚れの落ちも良かった。
全身を清めた所で、湯に浸かる。
すべての疲れが一気に吹き飛ばされる気分だ。
「……ふぅ」
やはり風呂はいいものだと、しみじみと実感する。
心地よさに身を委ねていると、外がにわかに騒がしくなってきた。
聞き覚えのある声が交錯している。
「しょぼい水魔法じゃのー。水滴を桶に溜めてどうする気じゃ?」
「う、うるさい! 好きでやってるんだから放っておいてよ!」
「いやー。レジスに水魔法を教える汝が、そんな地味な魔法ばかり使っておったら興ざめじゃろう」
「水魔法そのものが使えない貴方に、何も言われたくないよ……」
どうやら、アレクとイザベルが屋敷の前で鉢合わせしたようだ。
イザベルは屋敷の裏で水魔法の鍛錬をしてたみたいだな。
そこを研究帰りのアレクに見つかって、おちょくられているのか。
大声で罵倒し合うものだから、ここまで丸聞こえだ。
少しは周りに気を遣えばいいのに。
「と言うより、貴方はどこに行ってたのかな? 峡谷に研究所はないはずだけど」
「大魔法師ともなれば、研究場所を選ばずじゃ。
ふふん、汝にはまだまだ分からぬ境地じゃろうがな」
「なるほど。年寄りにだけ分かる真理ってことだね」
その瞬間、強烈な魔力の波動が迸った。
俺の背筋に寒気が走る。
まずい、冗談でもアレクを年増呼ばわりしてはいけない。
またとんでもない火種が生まれてしまうぞ。
お前らは鳥頭か。いい加減周りを巻き込む争いはやめろというのに。
俺の懸念を知らずして、
「ほ、ほぉ……もう一度言ってみよ。まだ今なら訂正はきくぞ」
「あれ、聞こえなかった? 耳まで老化しちゃったのかなー?」
これは、リアルファイトが始まってしまうかもしれない。
本気で危惧したのだが、アレクは思ったより冷静だった。
おちょくるような声調で、イザベルに立ち向かう。
「ククク、そんなことを言っていいのか? 汝は今、大変な人質を取られておるというのに」
「ハッタリかな? 舌戦もロクにできなくなったらお終いだよ」
「そうか……では、これはレジスに渡しておくとするのじゃ。事情も含めての」
「そっ、それは――!」
アレクが何かを取り出したらしい。
イザベルが驚きの声を上げる。
なんだろう。イザベルに何か貸してたっけ。
記憶を探ってみるものの、心当たりはない。
「ずいぶん大切に持っておったな。こんなものを何に使うのじゃ?」
「しょ、食器だよ……ご飯を食べる時に使うんだ」
「そうか……夜な夜なこれを――して――おったようじゃが。
食器はそんな使い方をするものじゃったかな?」
「う、うるさいうるさい! 返せ!」
聞き耳を立てていたんだけど……何て言ったんだ?
アレクは意図的に一部を小声で呟いたようだ。
俺の位置だと全然聞こえん。
ただし、イザベルにはクリティカルヒットする内容だったらしい。
再び地面を蹴る音が発生する。
イザベルがアレクに飛びかかったようだ。
「や、やめよ!」
「誰がやめるか!」
必死の奇襲が功を奏したのか、アレクが狼狽の声を上げる。
どうやら、奪還することに成功したらしい。
素早さで言えば、イザベル以上に機敏な奴を知らないからな。
アレクを尻目に、彼女は誇らしげな声で勝利を誇っている。
「ふっ、足払いの勝利だ。確かにこのスプーンは返してもらったよ」
ん、スプーン? スプーンを奪い合ってたのか。
ますます俺が貸与した覚えなんてないのだけれど。
湯だりかけている頭では、何が何やら。
一つも推測がつかないな。
「お、おのれぇ……。
せっかく遊んでくれようと思ったのに、手を出してきおって!」
「心外だね。出したのは足だよ」
「くっ、屁理屈を。もう我慢ならん! そこに直れ、調教を施してやるのじゃ!」
「それはこっちのセリフだよ! その英雄意識、今日を以って打ち砕いてやる!」
粉砕音が響き始めた。
あれ、これは俺が止めないと取り返しの付かないことになるんじゃ……。
とは言え、流石に昨日の説教は効果てきめんだったようで。
激怒しているようだが、二人の心にも少しは配慮があるようだ。
派手な魔法を使わず、肉弾戦で勝負の決着をつけようとしているらしい。
よしよし。戦闘中でも周りに気を配る余裕。
戦士に求められてるのは多分そういうのだよ。知らんけど。
「せりゃああああああああああああ!」
「はぁああああああああああああ!」
再び何かが砕け散る音がした。
地面が揺れかねないほどの轟音。
訂正だ、配慮なんてなかった。
二人とも頭に血が上っているみたいだな。
アレクなんて怪鳥のものと聞き紛う奇声を発してるし。
少し様子を見ねばならん。
上を見ると、音のする方向にちょうど窓が設置されていた。
格子窓か……。
刑務所を彷彿とするから、できる限り敬遠したいな。
まあ、贅沢は言うまい。
近場にあった桶を重ねて、外を眺めてみる。
そこでは、熾烈な肉弾戦が繰り広げられていた。
殴ったり蹴ったりなど、そういうことはしていない。
ただ、両者ともに相手を抑えこんで、身動きを封じようとしている。
完全に固めて、反撃をさせなくなれば勝ちということらしい。
暗黙の了解というか、周囲を巻き込まない最低限の気遣いなんだろうけど。
どっちみち私闘をやらかしてる時点で大迷惑だ。
大声を出して、止めるべきだろうか。
そう思った瞬間、戦局が一気に動いた。
アレクが見事な足払いを炸裂させる。
「き、きゃあっ!」
「ククク、今じゃあ!」
一瞬でイザベルの上半身を押さえ込み、動きを封じてしまう。
イザベルは引き剥がそうとするが、完全に無力化されている。
あの手法で俺を押さえつけていたのか。
あれはちょっと、来ることが分かってても回避は難しいな。
技のキレが半端じゃないもの。
「神に体術を教わった我輩に、体術で挑もうなどとは笑止!
どうしたのじゃー? 我輩の英雄意識をへし折るのではなかったかー?」
「……う、うるさい!」
「才能はエルフ史上で二番目と聞いたが。
この分じゃと我輩が大差をつけて最強となってしまうのー」
なんだろう、挑発に磨きがかかってきたような気がする。
そして安心しろ、アレク。
今のお前を見て英雄と思うやつなんて、恐らく誰もいないから。
もはや子供の喧嘩に成り果てている。
体術ではさすがにアレクに軍配が上がるみたいだな。
まあ、どの勝負でもアレクに勝とうとするのは無茶だろうけど。
どう見ても手加減してるっぽいしな。
しかし、手心を加えているにもかかわらず圧倒するとは。
やはり大陸の四賢のスペックは計り知れない。
強烈な固めを決められているためか、イザベルの動きが鈍ってくる。
しばらくすると、ピクリとも動かなくなってしまった。
「ふっ、気を失いおったか。まだまだ詰めが甘い。出直してくるのじゃ」
ふふん、とアレクは上機嫌に微笑む。
イザベルが抵抗しないのを見て、彼女は力を緩めていく。
勝負あったか……何はともあれ、闘いが終わったのは喜ばしいことだ。
湯冷めしてきたので、そろそろ湯船に戻るとしよう。
そう思った時だった。
「――隙ありっ!」
突如、イザベルが身体を捻って押さえ込みを解いた。
失神していたと思っていたアレクは、イザベルの反撃に対応できない。
あっという間に五分の戦況に戻してしまう。
イザベルは両足を彼女の首に回し、返し技で動きを封じる。
強引な絞め技だな。しかし、確かに効果的だ。
アレクが上を取っている体勢だが、あの足は徐々に効いてくるぞ。
急に首を圧迫されたので、アレクが慌てたような表情を見せる。
「こ、こら、卑怯じゃぞ!」
「負けを認めてないのに、油断する方が悪い!」
「じょ、上等じゃ! 何でもありだと言うんじゃったら、
我輩も禁じ手を使わせて……も、も……もら……ゲホッ、ゴホッ! 苦しい、苦しいのじゃ!」
「うるさい! 失神してしまぇえええええええ!」
何この仁義なき戦い。
竜を討滅するか否かの状況で何やってるのあいつら。
どうやらアレクの首に巻き付いた足が、ついに効力を発揮し始めたようだ。
アレクがマウントポジションを取っているのに、心なしか苦戦しているように見える。
これは、奇跡の大金星もありえるか。
大陸の四賢の一角を陥落させるまであと少しだよ。
しかし、結果から言ってアレクはそんなに甘くなかった。
というより、優しくなかった。
アレクは思い切り腕を振りかぶる。
まさか、直接打撃に訴えるつもりか!?
おいおい、今までフェアな戦いをしてたのに、汚い手を使うつもりかあいつは。
大陸の四賢ともあろう方が、チンピラじみた真似をするんじゃない。
あまりの威圧感に、イザベルも思わず目を瞑ってしまう。
そしてアレクは、無慈悲にその凶手を振り下ろした。
「喰らうのじゃぁああああああ!」
次の瞬間。
アレクがイザベルの胸を思い切り揉んだ。
やわらかなそれの形が、指にしたがって変形する。
突然のセクハラに、イザベルが赤面して悲鳴を上げる。
「ひッ、ひゃあああああああ! な、ななな、何を!」
「ククク、この程度で怯むかッ! 詰めが甘いのじゃ!」
首から顔にかけてを守っていたイザベルに対しての、完全なる不意打ち。
イザベルが胸を抑えたため、同時に身体のバランスが崩れる。
そこを見逃さなかったアレクが、一気に覆いかぶさった。
やはり、彼女の勝ちは動かないらしい。
「な、何てことをするんだ! む、胸を揉むだなんて!」
「胸のことを気にする時点で、魔法師として三流じゃ!
我輩は戦闘中に胸を弄られようとも、決して動じぬ!」
胸がないからな。
そりゃあ動じないだろうよ。
「ククク、今度こそ終わりじゃ! 負けを認めよイザベル!」
「誰が、そんなことをするか! 仕返しだ!」
イザベルがアレクの首元に噛み付いた。
いや、違う。あれは――
「ひっ!?」
首の辺りを舐めたみたいだ。
アレクが引きつったような声を上げる。
それは武術の常套手段なんですかイザベル先生。
あまり武の道に心得がない俺だが、間違いなく違うと断言できるな。
あんな秘技を使う武術があったら、一瞬で周りの流派から袋叩きにされるわ。
イザベルの思わぬ反撃に、アレクも過敏に反応してしまった。
「――今だっ」
そこを見逃さず、再びイザベルが返し技でアレクの身体を押さえつけた。
うつ伏せに拘束して、効果的に体力の削り取りにかかる。
「ひ、卑劣じゃぞ! それでも族長の傍系に連なる姫君か!」
「貴方だけには言われたくない!」
繰り広げられる、何でもありの寝技勝負。
固め技の応酬だ。
とはいえ、怪我はしそうにない決闘方法なので、一つ安心する。
まあ、周りから見たら異形の光景だろうけど。
この分だと、血なまぐさい争いには発展しそうにないな。
技を開発する修行の一環だと思えば、逆に有意義でさえある。
罵倒がセットになってるのは、せめてどうにかしろとは思うけども。
「大魔導師の誇りにかけて負けぬ! 我輩の前に屈せよ!」
「誇りあるエルフは、いきなり胸を揉んだりしないッ!」
「問答無用じゃ! せぇああああああああああ――!」
「はぁああああああああ――!」
とりあえず、好きにさせておくか。
俺は二人の衝突を見て、大きく頷く。
高みの見物ならぬ、遠見の伝聞と洒落込ませて頂こう。
一連の対決を見て、すっかり湯冷めしてしまった。
もう一度入りなおして、全身の疲れを完全に取るとするか。
外の喧騒を無視して、再び浴槽に舞い戻るのだった。
ちなみにその数分後。
小枝が格子窓から飛んできて、湯船で安楽状態だった俺の額に直撃した。
どうやら激しい戦闘の余波で、障害物が吹きすさんでいるらしい。
バカンスをしていた所に、竹槍を持った異民族が襲来したかのような台無し感だよ。
人の快適湯浴みライフを邪魔しやがって。
あいつら、後で教育し直してやる……!
三倍返しで、身がもたないほどの説法をくれてやる……!
そんな鋭い決意をした瞬間。
今度は頭に小石が直撃したのだった。
絶対に許さない。