第六話 竜の巣
今この場には、4人の人物がいる。
俺、イザベル、アレク、そしてジャックル。
全員がまったり向かい合っている状況だ。
先ほどのことは全て水に流した。
というより流させた。
この話し合いに持ち込むまで、どれほど苦労したか。
まず、アレクを見て卒倒したジャックル族長を起こすところから始まった。
彼に俺とイザベルの清き関係を過不足なく説明。
その時、アレクが侵入してきたことを知ったエルフが大挙して屋敷に押し寄せてきた。
しかし、そこは話を聞いて納得してくれたジャックルが上手くエルフ達を説得し、何とか解散させた。
どうやら彼は、アレクを追い出すことは諦めたようだ。
下手に刺激せずに、早めに要件を終わらせるべきだと踏んだのだろう。
正しい判断だな。
しかし、どうも族長はアレクに苦手意識があるみたいだな。
アレクが冗談で睨みつける度に、ジャックルは身をすくませる。
300年前の恐怖が、まだ続いているらしい。
「お茶です」
4人で息苦しく向かい合っていた部屋に、再びセシルが入ってきた。
先程と同じく、危なっかしい足取りでお盆を運んでいる。
その純粋無垢な姿は、殺伐とした心を癒してくれる。
やはり子供とはいいものだ。
しかし、アレクはどうもそう思っていないようで。
セシルに凄まじい眼光を向け、低い声で呟いた。
「邪魔じゃ小娘。立て込んだ話になる。出て行くがいい」
「で、でも、お茶……」
「いらぬ」
「……と、遠いところから、山を登ってきて……。
喉、乾いてるって。思ったから……」
おいおい、邪険にしすぎだろ。
セシルには何の罪もないというのに。
俺が心配していると、やはり不安が的中。
くすん、くすんと、嗚咽が聞こえてくる。
見れば、セシルの目にはうっすらと涙が溜まっていた。
何て大人気ないことをするんだ。
好意で給仕をしてくれた女の子への対応じゃないだろう。
それでも英雄かお前は。
「……アレク、サンディアよ」
わなわなと、震えるような声。
ジャックルが静かに怒りを燃やしている。
アレクへの恐怖が留め金になっているみたいだが、今にも爆発しそうだ。
いかん、このままではさらなる修羅場に……。
「アレク、言い過ぎだ。もう少し優しくできないのか。
……ごめんなセシルちゃん。こいつの言うことは気にしなくていいから」
「……お茶、いや?」
「おいしいよ。凄い美味い。ありがとな」
「……え、えへへ。ありがとう、お兄ちゃん」
お兄ちゃん。
その言葉の真価を今ここで聞いた気がした。
同時に前世の記憶まで呼び起こされ、胸の痛さも感じてくるわけだけど。
そこは仕方ない。
基本的に、その呼び方をされると嬉しいな。
特に、こういう女の子が笑顔と共に言ってくれると、破壊力は倍率ドン。更に倍。
俺が仲裁に入ったためか、アレクはつまらなさそうにそっぽを向いた。
「ふん、こんな苦い茶を提供するのが礼儀か。
我輩はミルクティーが好みじゃ。前にレジスが淹れておったのが美味じゃったの」
「贅沢を言うんじゃない。何様だお前は」
「大陸の四賢様じゃ。どうかしたか?」
「……いや、なんでもない」
その傲慢さ、いつか天罰が下るぞ。
むしろ俺がこの手で下してやろうか。
実行したら俺の人生の幕が下りそうだから、今はやめておくけど。
決して敗北したわけではない。
セシルは気を強く持ち直したたのか、涙を拭い、一礼して部屋から出て行った。
良い娘だよ本当に。将来有望だな。
そんなことを思っていると、イザベルがこっそり耳打ちしてきた。
「セシルちゃんは爺様の孫娘で、峡谷の人気者だよ。
彼女を傷つけることがあったら、峡谷中の不興を買っちゃう。気をつけてね」
「ああ、分かった」
心配しなくても、小さい子を苛めるようなことはしない。
むしろ愛でたいレベルだ。
あんなに可愛い娘を無下に扱うなんて、アレクは鬼畜の権化か。
思わずため息が出てしまう。
全員が呼吸を整えた所で、俺は話を切り出した。
「で、ジャックルさん。俺は今回――」
「ふん、さっきは爺呼ばわりしておいて、今さら敬語か」
「…………」
「まあいい。普通に喋れ。どうもその口調はむず痒くてかなわん」
「そりゃどうも。じゃあ、普通に話すよ」
丁寧語は息が詰まるから、あまり好きではない。
誠意は言葉じゃなくても、態度で示せばいいわけだしな。
俺としてもありがたい。
隣に鎮座するアレクなんて、腕を組んでふんぞり返ってるからな。
こいつはもうちょっと謙虚になってもらいたいものだ。
「それじゃあ、前置きなしで頼むぞ。エルフの妙薬が欲しい。くれ」
「ほう、それはまた何故かな」
「身内が『不起の病み床』に罹って苦しんでる。
早く根治させないと、取り返しがつかないことになりそうだ」
そう、もはや猶予は残されていない。
セフィーナの容態は日に日に悪くなっている。
あと何日の命という程ではないが、急ぐに越したことはない。
放置しておけば、本当に命が脅かされてしまうのだから――。
俺の話を聞いて、ジャックルは鼻を鳴らした。
「ふん。そうか、不起の病み床か。
確かに、エルフの妙薬以外に有効な治療法は知らぬな」
うむうむ、と頷いている。
なんだ、セフィーナの病について知識があるのか。
それはありがたい。説明する手間が省けたな。
「絶対にエルフの妙薬を持ち帰らないとダメなんだ。少しでいいから、譲ってくれないか」
「他ならぬイザベルの客人からの頼み。聞き届けぬわけにはいかんな。
しかし――現段階では無理だ」
断頭台のような一言――無理。
まあ、その返答も想定の一つにはあった。
しかし、こちらも素直に引き下がる訳にはいかない。
「……理由を聞いてもいいかな」
現段階では、ということだろう?
何か問題が発生しているからに違いない。
俺が聞き返すと、ジャックルは苦々しくつぶやいた。
「帝国兵が少し前より、ケプト霊峰で原料となる草を乱獲しておるのだ」
帝国。
大陸一の強国にして、俺の所属する王国の宿敵。
またしても、ここに立ちふさがるのか。
このケプト霊峰は、地理的にドワーフ鉱山とつながっている。
ゆえに、帝国は協約を結ぶドワーフの地を通過して、この霊峰に入ってくることが出来るのだ。
大河で断絶された大陸北部の帝国と、南部の王国。
その両国をつなぐ、唯一といってもいい地続きの場所である。
しかし、ケプト霊峰を人間が超えることはできないので、王国に雪崩れ込んでくることは不可能。
大人しく境界線上の大橋から来てください、ということになる。
「……エルフの峡谷の位置はバレてないのか?」
「無論。それより、なぜ帝国の人間がなぜ霊峰に生える草を必要としておるのか。それが分からん」
妙薬を作るにあたって、原料になる特殊な草があるのか。
初めて聞いたな。
エルフの妙薬自体が『万能薬』としての説明で完結しているからってのもあるんだろうけど。
いや、それ以前の問題だな。
詳しいことが、人間社会の書物に一切書かれていないんだ。
原料や、製造法などを含めて。
帝国兵の行動に疑問を持つジャックルに対して、俺は即座に返答する。
「なぜって……万能薬の原料になるからじゃないのか?」
「エルフの妙薬の製法は門外不出。こうして説明せん限り、原料すらも知らんはずなのだ」
「確かに……俺も知らなかったし」
今の説明で、やっと原料の一つが分かった程度だ。
さらに、恐らく作る技術とかも別途にあるのだろうし。
エルフ以外が手に入れても何の意味もない。
「さらに、エルフの妙薬はこの峡谷内でしか作れぬ。
この峡谷より湧き出る泉の水を使用し、他数十もの特殊な仕上げをして、初めて妙薬は完成する」
なるほど、やっぱり製造過程とかも特殊なんだな。
魔女が狂気の目で『ヒエッヘッヘッヘ』と言いつつ、緑色の液体をかき混ぜている光景が目に浮かぶ。
あの液体の原料は何なのか、未だに疑問が残る。
案外、抹茶を煮てるだけだったりしてな。
冗談は程々に、さらなる情報を聞き出していく。
「でも、実際エルフは迷惑を被ってるんだよな」
「当然だ。この季節が一番の収穫時。
しかし、帝国兵が連日に渡って育成地を占拠しておる。
集落に貯蓄していた妙薬がなくなったと思ったらこれだ」
ふむ、集落にストックがないかと期待していたのだが。
その線も消えたか。
つまり、是が非でも原料を入手して新規で作らねばならんわけだ。
自分で労働して頼みこむしかないだろう。しかし、本当に帝国兵が邪魔だな。
「兵を力で退却させる、っていうのは無理なのか」
「エルフの峡谷の位置が知られては一大事だ。
攻撃するにしても、近くに拠点があると悟られてはならん」
「じゃあ、追い払うのも難しいってことか」
何十人ものエルフが、うかつに組織的な動きで襲撃したらどうなるか。
間違いなく、近くに拠点の存在を疑われるだろう。
障壁がある以上、中までは入ってこれないだろうが。
位置が割れるだけでも大損害だ。慎重になるのも無理はない。
「それに……今は他の懸念もあるのだ。そちらを片付けぬことには、帝国への対処もできん」
「他の懸念ってなんだよ」
言いよどむジャックルに、そのまま聞き返した。
すると、彼は重々しげに答える。
「……『竜の巣』を知っておるか?」
「ドラグーンが使役する竜の住処だろ? それくらい分かる」
魔物である竜は本能的に、住処として閉鎖的な場所を求める傾向にある。
ドラグーンキャンプで調教された竜は、どこでも快適に過ごせる適応力を有してるらしいけど。
基本的に、竜は山岳に住んでいることが多い。
そういう野良の竜は凶暴で、他種族を完全に餌として見てるけどな。
調教を施さないと、ドラグーンですら捕食しようとする。
「うむ。普通、調教された竜はドラグーンキャンプに巣を作る。
野良の竜は、岩窟地帯や露出の多い山頂付近を好むのだ」
「とすると、ドワーフ鉱山は良い生育場所になってそうだな」
「そう、そこなのだ。以前よりドワーフ鉱山の頂上には、数十匹の竜が住み着いていた。
ちょうど鉱山とケプト霊峰にまたがる位置に、巣を作っておったのだ」
大陸を二分する大河の源流がある場所か。
確かに、適度に他の魔物がいて餌には困らないし、豊富に洞窟もある。
水源も近いので、生息場所としてこれ以上のものはないだろう。
「それが最近、何匹もの竜が霊峰へと移動してきてな。
巣を作り、エルフの生活圏を脅かし始めたのだ」
そりゃまたおかしな話だな。
鉱山に比べると生息地に適さない霊峰に、どうして巣を作る?
しかも、群れを率いての一族お引越しだ。
何かしら外的要因がないと、そうはならないだろう。
そこに疑問を持ったらしく、アレクは首を傾げる。
「我輩の幼少期から変わらぬ生息場所じゃな。
しかし、なぜ長年続いてきた均衡が崩れたのじゃ」
「それが分かれば苦労はせんさ。だが、推定に役立ちそうな物を発見した」
そう言ってジャックルが背後から引っ張りだしたのは、灰色の大刀に見えるもの。
綺麗な輪郭をしているが、所々にヒビが入っている。
「これは……刃。いや、爪だな」
「竜の大爪だ。少し前に、絶命した竜が源流近くで見つかった」
巣の真横あたりか。
竜が爪を切り離すとは考えにくい。
恐らく、何者かに破壊されたのだろう。
ヒビなどの損傷具合を見ても、その可能性が非常に高い。
爪の大きさを考慮するに、持ち主の竜は間違いなく成体。
先ほど空を飛んでいた竜くらいのガタイはあるな。
しかし、そんなのが簡単に撃破されるか?
「恐らく竜の巣が移動した原因は、外敵の仕業だ」
「外敵って……竜が何にやられるんだよ」
「――魔法師、だよね。それも、かなりの達人かな」
そこでイザベルが口を挟む。
どうやら竜を打ち倒せる者に心あたりがあるようだ。
彼女の推察を受けて、ジャックルは首肯した。
「うむ。魔法で身体を切り刻まれた跡があった。竜を駆除したのは魔法師で間違いない」
「竜を殺せるとなると、連合国の魔法師かな?」
「かもしれん。ドラグーンキャンプと敵対する国ゆえ、対応策も備えておるだろう。
しかし、それでも竜というのは殺すに難き魔獣だ」
だろうな。正直、炎鋼車でも万全の竜には太刀打ちできるか怪しい。
特殊装甲で灼炎ブレスを防いだとしても、巨体から繰り出される一撃は止めようがない。
横転して戦闘不能になるかもしれん。竜はそれほどまでに強大なのだ。
「竜が逃げる程の猛攻を繰り出せる魔法師か。限られて来るな」
「連合国の竜殺しがやったのかもしれないね」
竜殺し。
連合国の魔法師の中でも、他種族との交戦に特化した連中だ。
竜とドラグーンの排斥を叫んでいて、かなり危ない集団でもある。
実力は確からしいけど、目的のためには手段を選ばないと聞いたな。
今までの話を統合したのか、アレクが指を2本立てる。
「可能性にすぎんじゃろうがな。ともかく、今対処すべきことは2つじゃ」
おお、相変わらずまとめるのが得意だな。
前に帝国魔法師が学院にどうやって入ってきたのかも推察してたし。
これは期待だ。
「まず1つ、霊峰に害をなす帝国兵を駆逐すること。
2つ、峡谷付近を飛び回る竜を打ち倒すことじゃ」
「同時には無理だな。先にどっちかに絞って解決した方がいい」
エルフの峡谷にも屈強な戦士はいるんだろうけど。
両方を並行して対処しようとするのは無茶だ。
「重要度で言うなら、竜の討伐が先じゃな。
帝国兵を追い払おうとする時に、竜の横槍が入れば目も当てられぬ。
排除が容易な方を先に潰す。これが定石じゃ」
さすがに歴戦の魔法師だけあって、言葉に説得力があるな。
普段はとぼけたことばかり言うが、こういう時は確実に信頼できる。
しかし、ジャックルは唸っているだけで何も言おうとしない。
かなりの熟考に入っているようだ。
そんな彼に、アレクは冷めた視線を送る。
「小僧よ、竜がこれ程まで侵食してきておるのじゃ。
被害が皆無ということはあるまい?」
「……ああ。先日、野草を摘みに行った峡谷の者が襲われた」
ジャックルはバツが悪そうに返答した。
おいおい、実害が出てたのかよ。
それなら、尚更そっちを優先しないとマズいだろう。
「で、大丈夫だったのか? 襲われたエルフは」
「すぐに障壁の中へ逃げ込んで事なきを得た。
しかし、このままでは間違いなく命を落とすものが出てこよう」
「じゃから、さっさと打ち倒せばいいじゃろう。何を迷っておるのじゃ?」
鬱陶しそうに、アレクがジャックルを詰問する。
射抜くような視線を受けて、彼は更に萎縮してしまった。
あまり脅すなよ。出てくる言葉も出てこなくなるぞ。
「……勇猛果敢なエルフが殲滅作戦を唱えておる。
しかし、それと同じくらい戦闘を避けようとする者もおる。
かくいう儂も、できれば血を流す事態にはしたくない」
「それで守るべきものも守れなくなったら、本末転倒じゃろうに」
アレクはため息をつく。
ジャックルも苦心している様子だ。
にしても、ちゃんと討滅する案も出てたんだな。
しかし、慎重派の勢いも強いため、決めきれないといったところか。
「しかし、竜が何匹いるのかも不明なのだ。
そんな状態で、死地に若きエルフを連れて行くわけにはいかん」
「では、犠牲が出るまで放置か。
帝国兵にも対処せず、竜に怯えて外にも出れぬ。とんだ臆病者じゃな」
アレクは唾棄するように言い捨てる。
心変わりを促す芝居なのかも知れんが、聞いてる俺も胸が痛くなってくる。
なんという毒舌だ。メンタルの弱い奴なら一発で首吊りだぞ。
「……儂はただ、犠牲を出したくないだけだ」
「ふん。変わらんな、汝は。300年前から一歩も進歩しておらぬ」
ピクリ、とジャックルの身体が大きく震えた。
アレクの一言が心に突き刺さったようだ。
強がった態度で、彼は言い返す。
「なんとでも言うがいい。儂は峡谷とエルフを守る。己の信じる手でな」
「汝はそれでいいじゃろうが、我輩たちはそうもいかぬ。
レジスの件に関しては時間との勝負なのじゃ。そうじゃろう?」
アレクはため息を付いて、俺に訊いてくる。
そう、セフィーナの病状に関しては、まさに時間との勝負だ。
可能な限り、迅速に解決したいというのが本音だ。
「ああ。早い所、エルフの妙薬を持ち帰らなきゃならない。
でも、峡谷がこんな状態じゃな……」
竜の移動問題に、帝国兵の侵入問題か。
なんという面倒事のオンパレードだ。
しかし、アレクも懸念の長期化は望んでないみたいだし。
荒々しい手段で一気に解決すると言い出すかもしれない。
その予感は見事に的中してしまったようで。
アレクは何かを数えるように指を一つ一つ折り、大きく首を縦に振った。
「明日……は性急じゃな。その次が頃合いか。……うむ、決定。
――明後日、我輩の独断で竜の巣を撤去する」
「正気か? 一体を相手にするだけでも相当な負担なのだぞ」
「我輩を誰じゃと思っておる? さくっと壊滅させてやるわ」
ジャックルの皮肉に対して、アレクは胸を張って返した。
ぺたーん、という擬音を口ずさみたくなるな。
発声したら拳ミサイルが飛んできそうだけど。
「ふん、勝手にしろ。まだ峡谷としては結論が出ておらぬ。
一人で突っ込んで危機に陥っても、儂らは助けてやれんのだぞ」
「むしろ好都合。雑魚がおると邪魔じゃ。
――今の貴様なぞ、その辺りの石と何ら変わらぬ」
最後の言葉。
その一言は、何故か知らないが背筋が震えた。
アレクの表情が、俺にいつも向けられているものとは違ったのだ。
ジャックルに皮肉を見舞う彼女の瞳からは、明るい光が見受けられない。
本当に、路傍の石と変わらない存在として、ジャックルを見据えていた。
「……くっ」
そのことは、ジャックルが一番わかっているようだ。
彼は悔しそうに顔を背け、歯軋りをした。
その哀愁溢れる姿に、こっちもいたたまれなくなってくる。
「大丈夫か?」
「……問題ない、心配するな」
彼は大きく息を吐いて、天井を見つめた。
数秒の沈黙。
そして、ジャックルは誰にも目を合わせないまま呟いた。
「……勝手にしろ、儂は知らんからな」
「それで結構。ただ、どこか宿泊する所は手配してもらうのじゃ」
「ふん、どの口でそれをほざく。だがまあ、イザベルの知人ということもある。
聞き受けるのは癪だが、宿は貸してやろう」
「そうじゃな。では離れにある空屋敷を借りるぞ」
チラリ、とアレクは右の方角を見やる。
そう言えば、来る途中に使われてない屋敷っぽいのがあったな。
「……勝手に使え。峡谷の衆にも、貴様の寝首を掻くなとは言わんからな。
せいぜい闇討ちの恐怖に怯えて眠れ」
「はっ、言っておれ。汝ら程度、寝ておっても返り討ちにできる」
そう吐き捨てて、アレクは出口へと向かっていった。
彼女の姿が消えるのを見て、ジャックルはため息をつく。
かなり張り詰めてたみたいだな。
アレクに張り合って、弱みを見せまいとしてただけか。
意外と人間味に溢れていた。
いや、単に負けん気が強いだけかもしれないけど。
アレクの退散を見て、イザベルも腰を上げる。
「それじゃあ、行こうかレジス」
「……ああ。それじゃあ、俺も失礼する」
「ふん、どこにでも行ってしまえ」
そっけない返事が返ってきた。
俺は一礼をすると、イザベルと一緒に屋敷を後にした。
そして、先に行っていたアレクに追いつく。
「それにしても、ちょっと冷たく当たりすぎじゃないか?
ジャックルの爺さん、何回か泣きそうになってたぞ」
「我輩は折れる輩に無茶は言わぬよ。
甘やかされた弱者には、むしろ優しく接する。
我輩は、強さを認めた者にしか高圧的に振舞わんぞ」
本当かよ。
俺の記憶によれば、意外と軟弱な奴にも容赦なかった覚えがあるんだけど。
まあ、愛がある折檻と、悪意に満ちた虐待との違いだろう。
どっちみち恐ろしいことには変わりないけど。
「それよりも、汝らも疲れが溜まっておるじゃろう。すぐに日も沈む。今日は早く休むが良い」
「ああ。でもその前に、近くの川で服を洗ってきていいか?
登山途中に泥だらけになっちまってな」
そう。俺の服は樹木の汁や泥で薄汚れていた。
やはりあの山道は辛かったな。
生傷が未だにヒリヒリと痛むし。
アレクは俺の身体をジロジロ見て、面倒くさそうに肩をすくめた。
「どん臭いやつじゃのお。まあ、近くの小川なら危険もないじゃろう。さっさと行ってくるのじゃ」
「大丈夫? 私が一緒に付いて行こうか?」
イザベルが提案してきてくれるが、さすがに遠慮しておく。
目標の小川も、ここから小さく見えるくらいには近いんだし。
さすがに迷わんぞ。
「いや、一人で大丈夫だ」
「じゃ、じゃあ。服だけもらって、私が洗ってきてあげようか?
レジスも疲れてるだろうから、代わりにやってあげてもいいよ」
何だ? 妙に食い下がってくるじゃないか。
そこまでして俺の服を洗いたいのか。家政婦の血が覚醒したのか。
でも、前世の癖もあって、自分の着衣は自分で洗う派だからな。
洗濯機に頼らない洗い方だってマスターしてるんだぞ。
身内の一人から、
『無職の分際で家電を使うな。洗濯機などもってのほかだ。堕落した人間の匂いが移る』
と、こっぴどく言われて以来、俺の相棒は洗濯板になった。
俺だって好きで就職浪人をやってたわけじゃないというのに。
全国の無職と俺に座して謝れと言いたくなったが、俺には反駁する立場がなかった。
前世では、家庭内において俺はいないものとして扱われてたからな。
諦めた目で見られるのは、今でもトラウマだ。
「心配するなって。それに、少し洗うのにコツがいる服だし。
さっと洗って、すぐに戻ってくるよ」
そう言って、俺は小川の方に歩いていく。
イザベルも疲れているだろうし、ゆっくり休んでて欲しい。
離れていく際、背後からイザベルの残念そうな声が聞こえてきた。
「……残念だなぁ。なら、次は他の手で――」
恐ろしいことを企んでいるようだ。
何の手なのかは知らないが、とりあえず警戒しようと固く誓ったのだった。
油断も隙もねえ。